#036
「……ああ、もうこんな時間ですか」

 ビルを出ると、既に陽は沈みかけていた。赤い光と黒い影が、オフィス街をくっきりと色分けしている。
 ガブリエラは、服には合っているが全く様にならないハイヒールを履いてよたよたと車に縋り付くようにし、ロックを解除したドアを開けて助手席に滑り込んだ。ふう、と彼女が小さくため息をついたのを聞きつつ、ライアンも運転席に座る。

 ──これから、どうするか。
 本当は、事前に色々考えていた。“お抱え”のスタイリストがいるサロンに連れて行って、いつもの簡単な化粧しかしていないガブリエラにばっちりとプロのメイクを施して、夕食に連れて行くとか。
 しかし今ライアンは、先ほど言われた言葉が頭に残って仕方がなかった。

 ──彼女のしたいように伸び伸びと走らせてあげるのも、大事なことだよ

 ホワイトアンジェラという特別なヒーローと事実上のコンビを組むことになって、ライアンは今まで、彼女を何とかコントロールしようとしてきた。
 ライアンにあらゆる意味で惚れ込んだという彼女は最初こそ非常にやんちゃをしてライアンを困らせたが、あの時脅かしてから、驚くほど従順になった。
 ──いや、よく考えれば、彼女は最初から従順だった、とライアンは今では認めている。何しろ酔った勢いで乱暴に処女まで奪われて、それでも許すと、ライアンを愛していると言ったのだから。
 そんな彼女に、自分はどう接してきただろう、と、ライアンはそれほど長くない最近の過去を振り返る。

 確かに、ガブリエラは色々と特殊だ。
 銃と一緒に売られている鉄板入りのブーツを履いて、何千マイルもの道のりをやってきた、見た目に反してワイルド極まりない女。何をするか全く予測がつかないその存在は、例えるならば、ライアンの知らない荒野からやってきた野生の犬だ。
 あまりにもぶっ飛んだその行動基準に、ライアンは今まで、どうにかこの犬に首輪をつけて、扱いやすく、行儀よくさせようと執心してきた。時に、この犬が自分をとても愛しているのを利用してまで。
 見捨ててしまうぞと脅し、何もかも言うとおりに走らせて、それで元気がなくなった彼女を、ご褒美だといって外に連れ出した。ライアンの決めた店で、ライアンの好きな服を着せ、ライアンが食べたいものを食べさせて、歩きにくい靴を履かせ、支えがないと歩けないようにした。
 そしてそれを、心地良いことだと快感すら覚えた。

(──俺って、ここまで自分勝手だったっけ?)

 俺様キャラはわざと作っているわけではないし、サディスティックな一面が強いとネイサンに言われたことも事実なのだろう。ライアン自身、常に自分の思い通りにしたいという欲求が強いことには以前から自覚がある。だがそのために急がば回れと譲ることも、じゅうぶんに知っているはずだった。
 しかしガブリエラに対してはすぐに自分の思い通りにしてしまいたいと急いてしまうのだと、今、ライアンは初めて自覚した。
 首に縄を繋いで、ライアンの決めた時間に餌をやって、ライアンが選んだ所を歩かせて、いうことをきかせたい。常にライアンが最上のものであるとうっとりと見上げてくる灰色の目を、気に入っていないといえば嘘になる。

 ああ、俺らしくもねえ──と、ライアンは反省した。
 思い通りにならないからといって力づくでいうことをきかせるなど器の小さい男のやることだったと、ライアンは忠臣たるお抱え職人の進言を聞いて気付いた。
 好きな様にやらせて、それでいてその結果、常にライアンのためになるようにするのが本当のオンリーワンのナンバーワン、頂点に立つ支配者のやることだろうと、ライアンは今はっきりと思い直したのだ。
 はあ、とため息をついて、ライアンは、いつもと違うスタイルの髪を掻き上げた。

「……お前、どっか行きたいとこある?」

 その結果、ライアンはガブリエラにそう聞いていた。
 自分が選んだものの中から選ばせるでもなく、完全に自由に。首の縄を外して囲いのない平原を見せ、さあどこに行きたいのだと、荒野からやってきた犬に判断を委ねたのだ。

 ガブリエラは、目を丸くしていた。
 その目には、驚きと、支配を解かれた心細さと、そして僅かな期待があった。それはまるで、縄を外されても飼い主を見上げて逃げない犬のような様子で。
「えっ、私が?」
「今日、俺の決めたとこにしか行ってねえだろ」
 よくよく考えれば、こんなことは初めてだった。ライアンは今まで数え切れないほどデートというものをしてきたが、女を自分の好き放題に連れ回したことなどない。どこに行きたいか聞いて、時に聞かずとも察して、彼女たちを喜ばせてきた。
 だがガブリエラに、どこに行きたいか、何をしたいのか、ライアンはいちども聞いたことがなかった。自分の言うとおりにしろというばかりで、ライアンは自分が未だに彼女の好きな色すら知らないことに気付いたのだ。

「次は俺が付き合ってやる」
「付き合う? ライアンは、私にご褒美をくださっているのでしょう?」
 慌てたように言うガブリエラに、ライアンは、違う、と否定の言葉を吐きそうになった。ライアンは、自分のしたいようにしていただけだ。彼女が自分を愛していて、自分のやることなら何でも喜ぶし、もし喜ばなくても許容するに決まっているという、傲慢極まりない、そして驚くべきことにそれが事実であるのをいいことに、彼女を連れ回しただけ。
「……あの、私、何か気に障ることをしましたでしょうか」
「なんで」
「なぜなら……」
 ガブリエラは、不安そうな、心細そうな様子で俯いてしまった。その姿に、ライアンは彼女をここまで追い詰めたことを再度反省し、そしてここで思い直すことが出来て良かったと思い、さらに、小さく縮こまって自分に嫌われていないかと心配する彼女の姿に胸が疼いた。
(あーダメだこれ、やっぱあれか。Sってやつなのか、俺は)
 この期に及んで彼女をつついていじめるのが楽しいなど、もう認めざるをえない。ライアンはどうしようもない自分の癖を受け入れつつ、しかし色々とやるせない気持ちを込めて、ハンドルを強く握りしめた。

「別に、機嫌は悪くねえよ。むしろいい。……その服似合うし」
 ガブリエラが、顔を上げた。夕日に照らされて赤い頬が元から赤いかどうかはわからなかったが、潤んだような灰色の目が、きらきらと光を反射している。
「ほ、本当ですか」
「おー。お前割と何でも似合うよな。もちろんあの地獄のワードローブは論外だけど」
 ライアンが少し茶化した褒め言葉とともに頷いてやると、ガブリエラは、完全に不安が抜けきったようではないが、ほっとしたような顔になった。
「えへ、ライアンが選んだ服ですからね」
 ふにゃんと緩まったその表情に、ライアンもまた、表情を緩ませる。また自分の頬が緩んだことで、ライアンは、自分が今まで顔を強張らせていたことに気付いた。なるほどこれでは怒っていると思われたのも仕方ないと、黙って睨めば相当迫力がある顔つきであると自覚があるライアンは、この短い時間で何度目かの反省をする。
「だから、お前がしたいことに付き合ってやるっつってんの」
「……本当に?」
「本当に」
 根気強く頷いてやると、ガブリエラは夕日のせいだけでなく目をきらきらさせて、「では、ええと」と悩み始めた。ライアンは、彼女の夕日より赤い髪を眺めながら、急かさずにその答えを待つ。

「で、では、あの、ハ、ハロウィン……、もうすぐハロウィンなので、公園に」
「ああ、ハロウィンマーケット。色々出てるよな」
 10月に入り、実はもう街はハロウィン一色である。ガブリエラの言う通り、色々な公園や広場で出店が並んだり大道芸人が来たり、ステージで色々なショーやミニライブなどが催されたりして、本番に向けて空気を盛り上げている。
「今年、まだ、どこにも行っていません。ですので」
 ガブリエラはまだおそるおそる、しかし期待いっぱいに、きゅんと強請る目をしてライアンを見た。その目を見た瞬間、ライアンの後ろ首に、ぞくりとしたものが走る。
「い、行きたい、です」
「そうか」
「ライアン、行きたいです。おねがい、します」
「わかった」
 Please、というガブリエラのか細い声を心地よく感じながら、ライアンは頷いた。

「ハロウィンマーケットな、いいじゃん。俺もまだ行ってねえし」
 ライアンがそう言ってエンジンをかけると、ガブリエラを虚を突かれたような顔になった後、満面の笑みを浮かべた。
「──はい!」
「どこのマーケットがいいとか、あるか?」
「どこでも、……あ! あの公園、最初に会った」
「ああ……、あの」
 ガブリエラが言ったのは、ふたりが事故救助のあと偶然顔を合わせた白い公園、ジャスティスタワー近くにあるジャスティスパークのことだ。普段はだだっ広さばかりが目立つが、それだけに、イベント事になるとよく会場として利用され賑わう。
「じゃ、行くか」
「はい!」
 今日いちばんの笑みを浮かべたガブリエラを隣に乗せて、ライアンはゆったりと車を発進させた。



 ゴールドステージに戻り、なるべく公園の近くの立体ガレージに車を停める。
「……ブーツに替えれば?」
 助手席を降りたガブリエラがバランスを崩してよたついたのを見て、ライアンはそう声をかけた。言わずもがな、ヒールのせいである。
 ガブリエラは駐車場の柱を支えにし、やはりへっぴり腰で、残念そうな、しょんぼりした顔を向けた。そして上目遣いに、ライアンを見る。
「うう、しかし、せっかくライアンがくださったのに」
 心底悔しそうなその声に、ライアンは、つい口の端が歪む。
 そう、彼女はいつだって、自分の意に沿わないことでも、ライアンにされたことなら、こうして受け入れてどうにかしようと奮闘するのだ。──そのせいで、ライアンは今回、有り体に言うと調子に乗ったわけだが。
「でもそれマトモに歩けてねえじゃん」
「うー」
「そんな履きてえの?」
「なぜなら、なぜならライアンがくださったので……」
 うーうー唸りながら駄々をこねるガブリエラに、ライアンは車のロックをかけてから、ぐるりとボンネット側を周って、ガブリエラの近くまで来た。

「しょうがねえな。ほら」

 肘を突き出したようにするライアンに、ガブリエラがきょとんとする。
「支えがあれば歩けんだろ。掴まって歩け」
「えっ、い、いいのですか」
「俺が履かせた靴だしな」
 お抱え靴職人の言葉を借りたライアンは、再度示すように腕を差し出した。これからマーケットを歩き回るのに、これではどうにもならないだろうと。
 おそるおそる、ガブリエラが手を伸ばしてくる。細い手が、ライアンの腕を掴んだ。
「おい、くすぐってえよ。もっとちゃんと腕回せ、コケるぞ」
「は、はい」
 何をどうしていいかわからない様子のガブリエラに、ライアンは、男と腕を組んで歩く姿勢を教えた。

 元々背の高いガブリエラがこの高さのヒールを履くと、ライアンとの身長差は10センチ程度まで縮まる。転ばないようにと執心した結果、傍から見ると腕を組んでいるというよりはべったり肩に縋り付いているような形になったが、ライアンは気にしないことにした。
「よし。しがみついていいから、転ぶなよ」
「はい、あの、引っ張ったら申し訳ありません」
「お前の体重ぐらいで、どうにもなんねえよ」
 そう言って、ライアンはゆっくり目に歩き出した。
 ライアンの鍛えられた腕に絡むガブリエラの腕は細く、どこかくすぐったい。歩く度に赤い髪がふわふわ浮いて、なんだかいい匂いをさせながら、ライアンの肩や首をくすぐる。
「えへ」
「何笑ってんだよ」
 ガブリエラは答えず、ただ、まるで大事なものにするように、ぎゅっとライアンの腕を抱え直す。ライアンが斜め下を見ると、ふにゃふにゃに緩んだ赤い笑顔がごく近く、そしてさらに8センチ間近にそこにあった。



 公園にはたくさんの出店が並び、ハロウィンらしさを全面に押し出した軽食や、様々な土産物が売られていた。
 もう日が沈んだために、温かみのあるかぼちゃ色のライトアップがされている。ジャック・オー・ランタンがそこかしこで笑いを浮かべ、可愛いお化けの飾りが色々な所にたくさんぶら下がっていた。

「そんなに人多くねえな」
「平日ですからね。しかしそろそろ終業時間なので、これから増えるかも」
「ちょっと気をつけたほうがいいかもなあ、サングラスは変だし」
 何しろもう暗い。ライトアップが施されるような時間にサングラスをかけていては、逆に目立つというものだ。

「こちらのハロウィンは、かわいいですね」

 笑顔を浮かべるジャック・オー・ランタンや、シーツをかぶったようなシンプルなお化け。そして一緒に飾られている色々なお菓子の飾り付けを見て、ガブリエラが言った。
「お菓子もたくさん。こういうかわいいおばけなら、怖くないかもしれません」
「お前オバケ怖いの?」
「えっ?」
 ガブリエラは、驚いた顔を向けた。
「えっ……。ライアンは、もしかして、おばけが怖くない……?」
 信じられないものを見るような目で、ガブリエラはおそるおそる言った。
「なにそのリアクション。まあ特別好きでもねえけど実際見えたりとかもねえし、平気な方じゃねえ? ホラー映画も有名所はだいたい観てるし」
「す、すごい。つよい。ライアンはつよい」
「は?」
「おばけが怖くないなど。とてもつよい、つよすぎます。世界一では」
「お前の中でオバケどんだけなんだよ」
「なぜならおばけですよ!?」
 ガブリエラは、答えになっていないことを真剣極まりない表情で叫んだ。冗談を言っている様子が欠片もないので、本当に、相当オバケが怖いらしい。
 怖いもの知らずの彼女にも怖いものがあったということに、ライアンは笑いそうになるのを堪えた。今度もしいらないことをしそうになったら、「オバケが出るぞ」と脅かしたら言うことを聞くかもしれない、などと意地の悪い案を思い浮かべる。

「お前のいたとこのハロウィンは? どんな感じ?」
「故郷のですか? あちらでは、そもそもハロウィンという名前ではありませんでした」
 ガブリエラは、聞き取りにくい独特の発音で、その祭典の名前を言った。
「こちら風に言うと、ええと、……死者の日? でしょうか」
「へえ?」
「このカボチャの飾りのように、そこら中に骸骨を飾ります。中にろうそくを入れたりするのは同じです」
「骸骨……」
「時々本物です」
「怖ェよ!」
「え? そうですか? ただの骸骨ですよ」
 オバケどころではないことをさらりと言うガブリエラに、ライアンは全力で突っ込みを入れた。しかしガブリエラはただきょとんとしており、ジョークですよ、とすら言わない。ライアンは冷や汗を流した。
 聞けば、教会までもがもれなく中まで骸骨まみれになるという。夢に出てきそうな光景だな、とライアンはげっそりした。

「それで、死んだ人の写真や似顔絵や、好きだったものなどを飾って、その人の思い出話をしながら、歌ったり踊ったり、食べたり飲んだりします。皆全身を白塗りにして、わざとぼろぼろの服を着て、目や口の周りを黒く塗って、動く骸骨の仮装をするのです」
 死者のふりをして、死んだ人々と共に騒ぐ、という意図であるらしい。
「夜になると、その格好でランプや松明を持って墓地まで歩いて、お祈りなどをして帰ってきます。本物の死者は、そのまま墓地にとどまります。しかし、皆が街に戻ってきたら、不思議と人数が少ないこともあります」
「ええ……」
 突如始まった怪談話に、ライアンは少し引いた。

「だいたいの子供が怖がって泣きます」
「だろうな!」
 トラウマ確実じゃねーか、とライアンが言えば、ガブリエラは笑いながら頷いた。
「皆、子供の時に死者の日の骸骨を怖がります。死んだらああなるのだ、と」
 ガブリエラは、ライアンの腕に絡めているのとは逆の手で、ランプからぶら下がっている、シーツをかぶったような小さなお化けの飾りを撫でた。

 死んだらああなる。死は身近なものなのだと学ぶ祭り。そういう土地だった、ということなのだろう。
 そしてライアンは、生と死のギリギリの境界で生を掴み取るスリルにどっぷりと浸かる彼女の根源が、ここで少し見えた気がした。
 死を知っている生者はいない。当然のことだがだからこそ、誰もが死を恐れながら生きていく。しかしガブリエラが生まれた土地の人々は、死んだらきっとこうなるのだと飲んで歌って騒ぐことで、その恐怖を和らげる。死がどうしても身近な、残酷な場所であるからこそ。

「何年か前に、こちらでも仮装をするのだというので故郷の仮装をしたのですが、会社の人にものすごく怖がられました。似合いすぎているとかで」
「……っつか、前のお前、普段からそんな感じじゃなかったっけ」
 一部リーグヒーローになる前のガブリエラの姿は、ライアンも写真で見たことがある。信じられないことに今の4分の3ぐらいに痩せていて、骨の形がありありとわかる体躯。肌は白いというより血の気が感じられず、隈の浮いた目を黒いアイラインで囲うようなメイク。髪の色がわからないほどの坊主頭で、栄養状態が悪いために眉も睫毛もまばらにしか生えておらず、歯茎まで痩せているせいで元々悪い歯並びはガタガタ。
 そんな風体に安っぽく毒々しいTシャツとぼろぼろのジーンズを着た姿は、今聞いた死者の仮装そのものではないか。ライアンがそう言うと、ガブリエラはきょとんとして、「そういえばそうですね」と、何がおかしいのかまたけらけら笑った。

「そんなに昔のことでもないはずなのですが、……なんだか、私も随分変わりましたね」
「自覚あんの」
「まあ、それはさすがに」
 ガブリエラは、苦笑した。
 確かに、あの頃と比べれば、今の彼女は見違えるようだ。まだまだ細いが辛うじて病的ではないし、頬は多少ふっくらとし、張りがある。赤くなればすぐに分かる、薄くそばかすの散った白い肌。サロンで整えた、艶やかで真っ赤な髪。眉は薄いままだがきれいに生えそろった睫毛はとても長く、くるんとカールして灰色の目を縁取っている。がたがただった歯並びはきれいに整えられ、身体に沿った上等な服を着て、足元は細い踵のハイヒール。
 そんな姿のガブリエラは、笑顔でライアンを見上げた。
「今は、生きているように見えますか」
「おう」
 彼女に髪を伸ばせ、染めるなと言い、服を着せて靴を履かせた張本人であるライアンは、頷いた。

「……生きてるよ」

 腕にくっついた薄い胸から、少し早い心臓の音を感じた。



 それからふたりは、マーケットを歩きまわった。
 かぼちゃが中心になったお菓子やパイなどの軽食を食べたり、ホットワインを飲んだり、土産物を見て回ったり、子供っぽい出店のゲームをやってみたり。
 テーブルも皿もない食べ歩きであるため、いつものようにお互いのものをシェアする時は、それぞれ手に持っているものを相手の口元に持って行って食べた。
 自分の手にある包み焼きにかぶりつくライアンのひとくちの大きさにガブリエラははしゃいだ声を上げ、目測を誤ってガブリエラに食べ物を押しつけすぎたライアンは、こぼれた中身を指ですくって、ガブリエラの口に押し込んだ。
「むぐ」
 薄い唇に差し入れた指先に、前歯と舌が当たった感触。ライアンはすぐに指を引っ込め、素知らぬ顔で包み焼きを頬張った。

 幾つかのゲームでは、ハロウィンらしいお菓子やおもちゃの拳銃、子供っぽいアクセサリーが当たったりした。
 ライアンが的にボールを当てて取った、きらきら光るプラスチックのイヤリングは、ガブリエラの部屋の壁のコレクションに加えられる予定である。金色の星がついた髪ゴムが当たった時にもたもたと髪を縛ろうとするガブリエラの手つきを見かねて、ライアンは赤い髪を縛ってやった。
 おもちゃの拳銃に対し、ガブリエラが「割とよくできていますね」とコメントしたことについては、ライアンはもう深く突っ込まなかった。

 ひととおりマーケットを回ったので、温かいコーヒーを買い、並んでベンチに座る。あの日、ライアンがカメラを持って座っていたベンチである。
 噴水がかぼちゃ色の光で染まっているのを見ながら、ふたりでコーヒーを飲んだ。

「とても楽しいです。来てよかった」
 にこにこするガブリエラに、ライアンは「そう」とだけ返事をして、豪快な伸びをした。
「あー、ガキの頃だって出店でこんな遊んでねーわ」
「そうなのですか?」
「おう」

 ライアンはヒーローデビューこそ10代の後半に入ってからだが、テレビカメラへのデビューはもっと早い。それこそ、物心つくかつかないか。
 彼は最初、子役として芸能界に入った。今ではいかにも男らしい癖のある顔つきだが、小さな頃のライアンは、金髪に白い肌の、垂れ目がちでよく笑う、愛想のいい、それはもう可愛らしい子供だった。
 その頃から人見知りをせず、それどころか注目を浴びることが大好きだったライアンは、ステージやスタジオに立つこと、カメラを向けられること、ライトが当たることにのめり込んだ。両親はちょっと親戚に褒められたのでオーディションを受けさせてみようかといった程度の気持ちだったらしく、本気になった息子に驚きつつも、お前が決めたことならと応援してくれた。
 ライアンは少年タレントやアイドルを多く扱う事務所に入り、CMに出たり、ドラマの端役を演じたり、他の少年タレントとグループを組まされて、すぐ忘れられるようなポップス・ソングを歌って踊ったりして過ごした。

「たくさんお仕事をしていたのですね」
「そんな売れっ子ってわけじゃなかったけどな」
「しかし、小さいころのライアンはとても可愛かったです」
「おい、なんで知ってる」
 生まれたての子犬でも見たような顔をして言うガブリエラに、ライアンは眉をひそめた。
「アニエスさんやケインさんが、時々くださるのです。視聴率が良かった時や、寝不足の隈を治して差し上げた時、徹夜明けに能力を使った時などに、お礼だと仰って」
「おい横流しじゃねーか。っていうか前もそんなこと言ってたな、え? そんな昔のやつまで残ってんの? マジで?」
「ふふふ。マニア垂涎のお宝映像です」
「なんでそういう単語は知ってんだお前……」
「この間は、デビューの時のCMを観ました。石鹸のCM。“らららキレイにおててを洗おう、おててキレイキレ〜イ”」
「やめろ歌うな今すぐ黙れ」
 己の芸歴を恥じたことはないがさすがにいたたまれなくなり、ライアンは早口で言った。そしてコンチネンタルエリア限定の、しかもさらにローカル局のCMだったはずのそれを入手しているガブリエラに、そら恐ろしいものを感じる。
「とても、とてもかわいかったです。スクリーンショットを撮って待受に設定しています」
「今すぐやめろ」
「イヤです」
 ガブリエラは、初めてライアンに拒否の言葉を吐いた。しかも、輝くような笑顔で。

「他には、どんなお仕事をしていたのですか?」
「まあ……、色々だよ」

 ライアンもまた、コーヒーをひとくち飲む。少し落ち着いた。

 芸能人として、ライアンは元々、売れっ子というわけではなかった。
 しかし誰とでも上手くやっていけること、そして大物俳優やタレントに嫌われないどころか好かれやすい質のライアンは、適役がいない時には「ではライアンで」と選ばれ、芸能界でよくある、仕事を放り出して逃げた俳優やアイドルの代役としてよく呼ばれた。
 歌や演技について唯一無二の才能がある、というわけではないが、それなり以上にそつなくこなし、何よりどんなに空気が悪いアウェーそのものの現場でも上手くやれるとして、ライアンは事務所に重宝された。そしてその経験は、コミュニケーション能力、営業、コネクションづくりという、ライアンの本来の稀有な才能をよく伸ばす結果になったのだった。

 今のカリーナ、ブルーローズのように、ハイスクールに通いながらの下積みのような、しかし現場ではある種ベテランに近いような扱いで芸能活動を続けていたその頃、ライアンはNEXT能力に目覚めた。
 そしてライアンはヒーローこそ自分の天職だと天啓を受けたように閃き、猛勉強と能力制御の猛特訓をしてヒーロー資格試験に通り、事務所を説得して、そのアイドル事務所所属のままヒーローになった。

 つまりライアンが顔出しヒーローなのは、バーナビーのような個人的な理由によるものではない。元々芸能活動をしていてそれなりに顔が売れており、せっかく作ったネームバリューを利用しない手はないと、完全にビジネス戦略的な理由でライアンは顔を出したままヒーローになったのだ。
 王子という渾名も、当時所属していたアイドル事務所がつけたものだ。元々女性ファンの多い事務所所属の、見目の整った顔出しヒーロー。なおかついかにも少年らしいヤンチャもするライアンは新たに同じ年頃の少年のファンも得て、土地が広い分ヒーローも多いコンチネンタルエリアで、単なるアイドルをしていた頃とは比べ物にならないほど人気者になった。

 そしてしばらくその事務所所属で活動していたが、やはり本来はアイドル事務所。
 ヒーローとしてよりタレントとしての活動に重きを置く事務所に物足りなさを感じたライアンは、今まで作った人脈をフルに使い、本来縛り付けの強いことで有名だった事務所を円満に辞めて、成人するかしないかという頃にフリーのヒーローになった。

 どこででも上手くやっていけるライアンの才能は、そこから真の意味で花開いた。作り上げた人脈を使い、自分で自分をプロデュースして売り出し、自分を引き立ててくれる人材を見つけ、支援し、支援させ、それを繰り返してどんどん自分の足場を固め、広げていく。
 金に困ったことはなく、セレブヒーローと呼ばれ始めたのも割と早い頃だった。ここまで人脈を広げた今なら、干されるという心配はよほどのことがない限りはありえない。順風満帆とはまさに自分のためにある言葉だと、ライアンは今でもそう思っている。

 こういう人生を送ってきたライアンなので、普通の少年らしく過ごした経験は全く無いとは言わないまでも、かなり薄い。最初にデートした相手もクラスメートなどではなく、仕事で関わりを持った、少し年上のスタジオミュージシャンだった。
 それを後悔もしていないし周りを羨ましいと思ったこともないが、こうして貧乏学生のように遊ぶのは純粋に新鮮だった。

「……お前は?」
「え?」
「お前は、能力発動したのいつ? ガキの頃はどうしてた?」

 今まで彼女に身の上や好みの質問をしたことがあまりないせいだろう、ガブリエラはくるりと目を丸くして、しかし気を悪くした様子もなく、「そうですね」と頷く。

「私もあまり、子供の頃に遊んだ記憶はありません。食べて、生きるのに精一杯で」

 ガブリエラの、まさに世界とか文化が違う発言に、ライアンは苦笑を浮かべる。
「私は、小さい頃はとても太っていました。今とは違う意味で、食べることばかり考えていた気がします」
「想像つかねえ……」
 ライアンは、心底からという様子で言った。
「しかし、食べ物が悪いので、不健康に太っている人は大人も子供も結構いました。今思えば、ですが」
「友達は?」
「私は少しいじめられていて、友達はいませんでした」
「ああ、赤毛が差別されるっつってたな……」
「それもありますが、私は言葉も少し変だったので」
「言葉が変? 地元の言葉だろ」
「あちらの言葉は、汚い言葉がとても多いのです。しかし母やファーザー……神父が、汚い言葉を使うなと言うので」
「あー。ノリ悪いって思われたってことか?」
 特に悪ガキめいた子供は、スラングをたくさん使うことが格好いいと思い込む節がある。ライアンが言うと、それもありますが、とガブリエラは続けた。
「私はとても無口でした。ほとんど話さないぐらいで」
「は? なんで?」
「私は母たちの言う通り、汚い言葉を使わず……と努力するのですが、きれいな言葉遣いというものが、そもそもさっぱりわからなかったからです」
 育て親の神父はとても無口な男で、そして母は同じような文句しか言わなかったから、とガブリエラは言った。そして必然的にその頃のガブリエラは、とても無口な子供だったという。それこそ、不気味な子供としていじめっ子に目をつけられてしまうほどに。
「それに、太っていたので動きも鈍くて、頭が悪い子だったので。今もそうですが」
 ガブリエラは、特に自虐というふうでもなくそう言った。ライアンは眉をしかめ「どんな理由があろうが、他人に嫌がらせするのはダメだろ」と返す。非常にヒーローらしい、そして彼が本心から言ったとわかるその声に、ガブリエラは微笑んだ。

「はい、私もそう思っていますよ。ただ、現実はそうだというだけ」
 ただでさえ、あの場所では皆お腹を空かせていて、生きるのに精一杯であったので──と、ガブリエラは何らかの被害者意識の欠片も見せず、ただ事実としてそうなのだという言葉通りにやはり淡々と言う。
「嫌な話だ」
「そうですね。しかしあまりにしつこかったので、ちゃんとやり返しました」
「おっ? 喧嘩でもしたか?」
「喧嘩というか。空の酒瓶を投げただけです。あとは割れた酒瓶を持って、何日か追いかけ回しました。何を言ったらいいのかわかりませんでしたが、悪口を言うと母に食事を抜かれるので、とりあえず聖書の文句を叫びながら」
「……おう」
「それ以来、しつこい嫌がらせはなくなりました」
「だろうな」
 思ったより苛烈な反撃に、ライアンは半笑いになった。
 普段無口で不気味と思われている子供が、突然酒瓶を振りかざし、聖書の厳かな文句を唱えながら連日追いかけ回してくる。想像するだにホラーめいたそのやり方は、バイオレンスには強くともホラー耐性がなさそうな土地柄の子どもたちにとって、きっと相当恐ろしかったに違いない。

「あとは毎日小さい仕事をして、お金を稼いで、車で買い出しに行ったり」
「……車?」
「車がないと何も出来ないのですよ、あそこでは」
 ガブリエラは、肩を竦めた。免許とか何とか言う人もいませんしね、という言葉とともに。
 田舎は車がないと生活していけず、よって農家の子供などは私有地で車両を運転することもある、というのはライアンも聞いたことがある。ガブリエラも、強いて言えばその類に当てはまるだろう。
「子供の頃はブレーキやアクセルまで足が届かなくて、豆の缶を紐で括りつけて、底上げして踏んでいました。座席には、木箱を置いて。懐かしいです」
「……ちょっと待て。いつから乗ってた?」
「えーと、いつでしょう。幼年学校に行っていた頃は、もう乗っていたような……。修理まで出来るようになったのは、10歳よりは後だった気がします」
 つまりひと桁の年齢の頃から乗っていたと聞いて、ライアンは呆然とするとともに、納得した。それほどの運転経験があれば、今のテクニックの高さも頷けようというものだ。

「私はあのボロボロの車が大好きで、宝物でした。ベッドではなく、車の中で毛布に包まって寝て」
 とんだ揺り籠だな、とライアンは思ったが、ガブリエラは懐かしそうに続けた。エンジンが問題なく回る音を聞くと安心したこと、車が燃えてしまい、大泣きしたこと。
「燃えたって何だよ、危ねーな!」
「燃えたというか、爆発しました。いじめっ子たちのイタズラです」
 ガブリエラは、重々しい顔で頷いた。
 彼女の反撃に遭ってしばらくは引っ込んでいたいじめっ子たちが、徒党を組んで規模の大きい嫌がらせを決行した。それがこの車両炎上事件だったらしい。
 もちろん車はガブリエラのものではないので、本来の所有者である育て親の神父が対応し、いじめっ子たちは相当きつい罰を大人たちから下されたそうだ。

「車がなくなったのは、生活する上でもとても困ることでした。しかしそれより私は大事な車が燃えたのが、とても、とてもショックで……」
「宝物だもんな」
「そうです、私の宝物でした。悲しくて、死ぬほど泣いて」
「うん」
「そして大人の真似をして、お酒をたくさん飲んでそのまま倒れました。10歳の時です」
 イタズラで車を爆発させる子供というのも大概だが、まだエレメンタリースクールに通う歳で酒をがぶ飲みして急性アルコール中毒を起こしてぶっ倒れたというガブリエラに、ライアンは絶句した。
「お前……お前さあ……なんかもう……」
「死ぬかと思いましたね、アハハ」
「アハハじゃねえ」
 もはや疲れたような気持ちで、ライアンは片手で目を覆い、ゆっくり首を振る。
「今はいくら飲んでも平気ですが」
「……そうだな」
 よく知っていることだ。ライアンは、遠い目をした。

「能力が発動したのは、この時です」
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る