#035
「んーじゃ、そろそろ行くか」
 エンジンをかけながら時間を確認しそう言ったライアンに、ガブリエラが首を傾げる。
「何かあるのですか?」
 助手席でシートベルトを締めた彼女にライアンは答えず、危なげのない、ゆったりとしたハンドルさばきで道に出た。



 ライアンが車を停めたのは、シルバーステージのオフィス街にあるガレージだった。
 ランチタイムを過ぎた平日のオフィス街は、どこか硬質な光景だ。足を使うのが仕事のスーツ姿の営業マンが忙しげに歩いているのが目立ち、カジュアルな格好をした姿は殆ど見られない。
「お知り合いの会社ですか?」
「まあな」
 とあるビルに迷いなくずかずか入っていったライアンは、ロビーにあるオフィスごとの呼び出しブザーを鳴らし、すぐに開いたドアを潜ってエレベーターに乗った。
 辿り着いたドアは深い青色で、金色の文字でシンプルな社名が入っている。ゴールデンライアンのカラーリングのそのドアの横についた呼び鈴を、ライアンはリズミカルに2度鳴らした。

「やあ王子様、お久しぶり」

 出迎えたのは、中肉中背の、清潔感のある初老の男性だった。料理用ではなさそうな厚手のエプロンに、何に使うのかわからない、使い込んだ道具を仕舞ったベルトを着けている。
「久しぶりィー。出来てる?」
「一応ね。……やあ、こんにちは」
 男は、ちらりとガブリエラを見て言った。ガブリエラはライアンの後ろから顔を出し、慌てて挨拶する。
「こんにちは、はじめまして」
「どうぞ」
 男性が大きくドアを開けてくれたので、ガブリエラはライアンに続いて中に入る。いかにもなオフィスビルにあるので当然オフィスなのかと思いきや、それは違った。

「……靴?」
 無機質でシンプルな空間にどこか淡々とディスプレイされているのは、様々な靴。
「そう、靴屋。オーダーメイドの」
 靴って合わねえと最悪だからなあ、と、ライアンは近くに展示してあった革靴を手に取りながら言った。

 ──つまり。

 ここはオーダーメイド専門の靴屋で、ライアンの御用達で、なおかつライアンが出資した店である、ということだった。しかもこの店だけでなく、他にも才能のある人材を見つけては支援や出資を行っている、ということは、店主が誇らしげ、そして感謝しきりといった様子で話した。
「僕なんか、ホームレスをやってた時に彼に拾って貰ってね」
「えっ」
「ライアンに声をかけてもらえなかったら、とっくにどこかで野垂れ死んでいただろうねえ」
「ええっ」
 うんうんと頷きながら言う店主に、ガブリエラは、悠々と靴を見て回っているライアンの広い背中を、きらきらした目で見つめる。
「ライアン、そんなこともしているのですか」
「才能あんのに、くすぶらせてたら勿体ねえだろ」
 ライアンは、当然のように言った。
「……やはり、ライアンはすごいです。ライアンは、なんだか、いつも、……ライアンです。ライアンしかできないことをします。とてもすごい。とても」
「お前ほんとボキャブラリーが残念だな」
 興奮した子供のような言葉を使うガブリエラに、ライアンは振り向かないまま言った。しかしその声には少し笑いが滲んでいる。
「うう、私とて、もっと的確な言葉を言いたいのです。もっと勉強しなければ」
「はっは、そうしろ」
 頬を赤くし、悔しそうな顔をしたガブリエラに、ライアンは、良きに計らえとばかりに尊大に笑ってみせた。



「それでライアン、ここで靴を作るのですか?」
「そう、お前のな」
「え?」
「お前の靴だよ。お前、そのブーツかスニーカーぐらいしか持ってねえだろ」
「……え?」
 言われていることが理解できず、ガブリエラは疑問符を浮かべまくりながら首を傾げる。その様子を見た男性が、呆れたように「君、何も言ってないのかい」と呟いた。

「えーと、あの……」
 フィッティング用の背もたれのないソファに座らされたガブリエラは、未だ状況がよくわかっていないながら、言われたまま靴を脱ぐ。
「ほう、いい靴だね」
 ガブリエラが脱いだブーツを見て、男性が、感心したように言った。
 故郷にいた時に買ったレザーのブーツは、ガブリエラの今までの人生のうち、バイクの次に奮発して買ったものだ。丁寧に手入れをし、修理を重ね、大事に履いている。
「ありがとうございます」
「履きこんで、いい味が出てる」
 男性は、職人らしい目でブーツを眺めて、言った。
「はい。ずっと靴を作っているおばあさんがいて、そこで作ってもらいました」
「へえ、やっぱり全部ハンドメイドか。……この縫製、いい腕だ。どこのかな?」
 ガブリエラが故郷の土地──世界でも治安が悪いと有名なその名を言うと、男性は冷や汗を流し、「残念だけど、絶対に行けないな……」と呟いた。
「すみませんけど、そこの靴オタク。そろそろ仕事してくんない?」
「ああ、ごめんごめん」
 ガブリエラのブーツに夢中になっていた男性は、呆れた様子のライアンに急かされて、奥に入っていくと、やがて1足の靴を持って戻ってきた。
「はい」
 コトリ、と男性が小さな台の上に置いた靴に、ガブリエラは目を見開いて、ぽかんとした。

「……は、はいひーる?」

 ガブリエラは、呆然と呟く。置かれた靴は、つやつや光る黒いハイヒールだった。ヒールは8センチくらいあり、しかも割と細い。飾り気のないシンプルなものだが、縁に深い金色のステッチが入っていて、アクセントになっていた。
「流石に今回は、サイズを合わせただけのセミオーダーだけど」
「ま、言ったの一昨日だからな。お、でもステッチ入ってんじゃん」
「若い子だっていうから、少しはね」
「ライアン、あの」
 話についていけないガブリエラがおろおろと言うと、新品のハイヒールを手にとって眺めていたライアンは、立ったままガブリエラを見下ろした。
「お前ヒール持ってないだろ?」
 スーツの時もスニーカーだった、とライアンはアスクレピオスの待合ロビーで会った時のことを言った。
「も、持っていませんが」
「そのブーツは俺もイケてると思うけど」
 事実だった。初めて公園で会った時も、ライアンはガブリエラの格好の酷さには呆れたが、あのブーツはいいな、と思った。
「どの服でもそれっていうのはな。スーツとか今の服には、ヒールのほうがキマる」
「えええええ。ハイヒールなど、履いたことがありません」
「じゃあ初めてだな」
「えええ」
「履け」
 おたおたするガブリエラに、ライアンは、端的に言った。

「履け」
「はい」

 再度発されたそれは、完全に“命令”であった。しかもおとなしく頷いて言われたとおりにするガブリエラに、男性が微妙な顔をする。
 ライアンが女連れで来るというからてっきり今付き合っている女性だろうと思っていた彼だが、普通、ガールフレンドや彼女にまるで犬におすわりと命じるように靴を履けとは言わないということは、靴オタクでもわかることだ。
「大丈夫だと思うけど、合わない所があればすぐ直すから。ライアン、履かせておやり」
「は?」
「シンデレラに靴を履かせるのは君の役目だろう、王子様」
「……あんた接客下手のくせに、時々ものすげえクサいこと言うよなあ」
 そう言いつつも、ライアンは靴を持ってガブリエラの前にしゃがんだ。
「ほら足出せ」
「えっ、でも」
「足」
「はい」
 またも命令され、ガブリエラはおとなしく、そして遠慮がちに足を出す。
 いつも上にある金色の頭が眼下にあることにどきどきしながら、ガブリエラは彼の手の上にある黒い靴に、恐る恐る爪先を入れる。
 ライアンはその細い足首に手を添えるようにすると、薄い足にハイヒールを履かせた。

「……すごい。ぴったりです」

 ガブリエラは、吸い付くようなその感触に驚きの声を上げた。
「職人さんはすごいですね」
「いやあ、ものすごく詳細な立体データを貰ったからね。合わないほうがおかしいよ」
「立体データ?」
「スーツのやつ」
 ライアンが、ぼそりと言った。その言葉に、ああ、とガブリエラも納得する。ヒーロースーツを作る時、スーツには色々なシステムを組み込むということもあり、装着者の動きを阻害しないようにするため、徹底的にデータをとられる。その足の部分のデータを渡した、ということだろう。
 ちなみにライアンが勝手に身体のデータを見た上に持ちだしたことについて、ガブリエラは何とも思っていない。それどころか「なるほど」と感心していた。
「じゃあ立って、歩いてみて。痛いとか擦れるとかあれば言って」
「えっ、立つのですか」
 ガブリエラは、おそるおそる立ち上がった。

「バ、バランスが。うう」
「ぶっ」
 慎重に立ち上がり、奇妙な内股になってよたよたと数歩進んだガブリエラに、ライアンが思い切り噴き出した。
「生まれたての馬かよ! ぶ、すげーへっぴり腰、ウケる。ひー」
「ひどいな、君」
 文字通り腹を抱えて大笑いするライアンに、男性が呆れた顔をした。そして、ますますわからないと思う。女にハイヒールをプレゼントして歩かせ、腹を抱えて笑うというのは失礼にも程があるが、ライアンはそういうことをする人間ではなかったはずだからだ。
「……背筋を伸ばして。踵に体重をかけてごらん」
「無理です」
 男性は一応アドバイスしたが、ガブリエラは真剣な顔で首を振る。
「黙って立てれば、モデルみたいなのになあ……」
 男性は、残念な感じで言った。
 ガブリエラは細すぎるほどの身体だが、背丈はある。手脚も首も長く、頭部も小さい。8センチのヒールを履けば180センチ近くになるスタイルは、きちんと立てれば、じゅうぶんすぎるほど格好がつくはずだった。
 だがへっぴり腰で壁を伝い歩きしているのでは、全く話にならない。しかも重心を置くコツがつかめないらしく、踵がぐらぐらしていて、それに伴って膝も揺れている。
 その姿は、ライアンが先ほど“生まれたての馬”と言ったとおりだ。脚が細く、また今までブーツだったせいで見えなかった足首が子鹿のようなのもあって、本当にそのものの姿だった。

「どこか当たるとか、擦れるとか、ないかな」
「ありません、ぴったりです。しかし……」
 壁を伝って部屋を一往復したガブリエラは、へっぴり腰のまま言った。
「うう、とても歩けません。う、支えがあれば、なんとか」
「そうかい。じゃあその靴は王子様と歩く時専用だね」
「は?」
 げらげらと笑い転げていたライアンが、男性の言葉にぽかんとする。
「ヒールの高い靴は見栄えはいいけど、慣れていたって歩きにくい。そういう時は、隣の男に掴まって歩けばいい。それがその靴を贈った男ならなおさらだ。つまり、君にはライアンと腕を組んで歩く権利がある。その靴はそういう靴だよ」
 真面目くさった様子で言われたガブリエラは、きょとんとした後、そっとライアンを見た。──何かを期待するような目で。そしてその視線を受けたライアンは、半目になって男性を睨む。男性は、またガブリエラのブーツを見ていた。
「おい」
「何だい。君が履かせた靴なんだから最後まで面倒を見たまえよ、王子様」
 男性はそう言ってガブリエラのブーツを手に取ると、「結構踵が削れているね。直しておこう」と言って、さっさと作業場に引っ込んでいってしまった。

「ライアン……」
「はいはい、しょーがねえな」
 抱っこをねだる子供のように両手を伸ばしてきたガブリエラの手を、ライアンが取る。途端に嬉しそうな笑みを浮かべる彼女の顔は、いつもより8センチ近い。
 その近さに、ライアンはほんの僅かに顎を引いた。
「……あーんよーがじょーうずー」
「わあああああ、転ぶ、転びますライアン、あああああ」
 ガブリエラの手を引いたまま、やや早めに後ろに下がるライアンに、ガブリエラが悲鳴を上げる。

 そんな彼らの声と、ガブリエラの履いたヒールが床を叩く不格好な音を聞きながら、靴職人の男性は、作業場の上にガブリエラのブーツを置いた。そして懐かしそうな、眩しい物を見るような目をして、10年も前ではない、しかし遠い昔のような当時を思い出す。

 今でこそこうして店主であり店員であり職人でもあるこの男性が、かつて路頭に迷って道の端にうずくまりぼんやりしていた時、通りがかったライアンが声をかけてきたのが始まりだった。

 ──おっさん、いい靴履いてんじゃん。

 ぽかんとする男性に、まだ少年といえる年齢だったライアンは、ずけずけと遠慮のない物言いで声をかけてきた。
 タメ口に不思議と腹の立たない独特の距離感の態度に、いつの間にか男性は、洗いざらいを話してしまっていた。仕事の人間関係で失敗したのを皮切りに、とうとうホームレスになってしまったこと。妻とは随分前に離婚していること。自分は靴職人で、履いているのは自分で作った靴だということ。
 そしてライアンは、じゃあ俺の靴作ってよ、とポンと金を渡し、1週間後に来ると言って消えた。
 ホームレスとなり、もう死ぬまで施し以外で金を受け取ることなどもうないのだと思っていた男性は、ライアンから貰った金を食費にも宿代にも使わず、職人として最後の誇りをかけて材料を買い、唯一の財産である道具を使って、彼の靴を作った。
 そしてその靴を殊の外気に入ったライアンは、ヒーロー業が軌道に乗ってしばらくしてから彼に出資し、こうして店を開かせたのだ。心機一転の意味を込めて、このシュテルンビルトで。

 更にライアンは、才能ある職人であると同時にあまり営業が得意ではなく、そのせいで仕事に失敗してホームレスになった彼を、各分野で知り合った人々に紹介して回り、客として斡旋することもある。そして今ではこの店は、一流の人々の知る人ぞ知る名店として、安定した営業ができている。
 ちなみに有名人御用達でありつつゴールドステージではなくシルバーステージにあるのは、靴を作る音が大きく、そういう作業場として懐が大きい物件が多く、なおかつ治安もそこまで悪く無いのがシルバーステージだからだ。

 ヒーロー・ゴールデンライアンとして“重力王子”という渾名を持つ彼だが、確かに彼は王子様だと男性は思う。遠くない将来、彼は必ず王様になるいう確信とともに。
 ゴールデンライアンとして完全に軌道に乗り、名実ともにゴージャスなセレブヒーローとなってからは、ライアンという王子様が召し上げた者は、もはや靴職人に限ったことではなくなっている。
 ライアンは、才能を腐らせている者を見つけては金や口を出し、業界に蹴り出す。そして召し上げられた人々は、心からの感謝と最大限の技術を込めて、彼のための献上品を作り続ける。

 ──重力王子の“お抱え”。

 彼に召し上げられた人々は、自分のことをそう自称する。
 それは何らかの職人だったり、ミュージシャンだったり、デザイナーだったり、モデルだったり、スポーツ選手だったり様々だ。そしてライアンの召し上げ方はこの靴職人の男性にしたような出資という形だけでなく、広い交友関係を使っての紹介であったりする。更に、そうして出来た人脈を使い、また紹介や仲介をして、ライアンを中心とした輪が広がっていく。
 そして、こうして色々と誰かの世話をして各方面に恩と顔を売っているからこそ、まだまだ若く、しかも敵を作りやすいはずの俺様キャラでいながら、業界でゴールデンライアンにアンチ感情を抱く者はごく少ない。
 いたとしても、彼に恩のある人々がもみ消していく、そういう仕組みが出来上がっている──いや、ライアン自身がそういう仕組みを作りあげているのだ。

 人脈作りと営業、何より才能を見出す天才。
 それがライアン・ゴールドスミスだった。

「俺は俺の気に入ったものしか周りに置きたくねえし、自分だけのモンが欲しい。オンリーワンのナンバーワン、それがゴールデンライアンだからな」

 かつてライアンは男性にそう言い、今もそう言い続けている。そして彼が常にそうあれるよう、お抱えたちは彼に唯一無二の献上品を差し出し続ける。
(さて、あの娘はどういう“お抱え”かね)
 王子様が抱える、彼が気に入って召し上げた者たち。あの珍しい毛色の娘は、何を見出されて彼の側にいるのだろうか、と男性はちらりと壁越しに彼らを伺う。

 今まで、ライアンがここに女性を連れてきて、靴を作らせたのは初めてではない。
 ライアンと恋愛関係にあるかないかはそれぞれだったが、彼女らは皆もれなく、才能ある女優やモデルたちだった。そして実際に作った靴は、彼女ら自身の注文を細かく聞いて仕上げられた。ライアンは金を出し、女のセンスがいいものかどうか、椅子に座って悠々と見定めているだけだった。

 だが今回、ライアンはガブリエラの実際の足のサイズすら測らせず、自分の好みで勝手に靴を用意した。──少しの靴ずれも起こらないよう、綿密な立体データを持ち出した上で。
 そして、自分が命令して履かせた靴でまともに歩けもしない彼女を見て、彼は不格好さに怒るでも呆れるでもなく、ただ楽しそうに、腹を抱えて笑い転げたのだ。
 つまり彼は、似合うだろうとか、喜ぶだろうとか、そういうつもりで彼女にあの靴を履かせたのではない。おそらくただなんとなく、履かせてみたかったのだろう。強いて言えば面白そうだと思ったとか、そういう、自分本位で勝手な理由で。

 今、ガブリエラが転ぶか転ばないかという絶妙な手引で彼女を歩かせるライアンは、ガブリエラがよろける度に笑い声を上げている。その様子は、才能ある者を召し抱えた王子様というよりは、まるで拾ってきた犬を構い、からかい、頭を撫でてはしゃぐ少年のようだ。
 そして、手を取り合ってゆっくり部屋を歩き回る彼らは、不格好ながらも、ダンスをする王子様とシンデレラに見えなくもない。

 ──もしかして、お抱えじゃなく、“ご寵愛”かな。

 そんな邪推を働かせつつ、男性は笑みを浮かべながら、ガブリエラのブーツを丁寧に直し始めた。



「やあ、遅くなってすまないね。できたよ」
 真新しい靴底になったブーツを持って男性が戻ると、ふたりは給湯室で勝手に紅茶を淹れて飲んでいた。
「客を放って自分で茶を淹れさせる店って、どうなんだよ。だからホームレスになんだぞ」
「ぐぅの音も出ないね」
 男性は、悪びれなく肩をすくめた。そういう店でもやっていけるようにしてくれているライアンに対して、感謝を込めて。
「接客用のスタッフ入れろよ」
「帳簿とかつけられると、なおいいねえ」
「あんた職人としては一流だけど、その辺ホントダメだな」
「そうなんだよ。いい人材がいたら紹介してくれ」
「おい俺に投げんのかよ。自分の店だろ」
 ライアンが顔を顰めると、男性は目を細めて微笑んだ。
「いやあ。僕が下手に選ぶより、君の選んだ人材のほうがハズレがないだろ」
「チッ、しょうがねえな」
 舌打ちをして、ライアンは紅茶を飲み干す。おそらく近日中に、愛想のいい、帳簿がつけられる、文句なしの人材が派遣されてくるだろうと男性は確信した。

「っつか、遅くね? 靴底直しなんか5分で出来るだろあんた」
「いや、3分かな。──でも変わった靴でね、少し手間取ったのと、面白かったので時間がかかってしまったよ」
「は?」
 片眉を上げたライアンに、男性は黙って、ブーツを台の上に置いた。

「……靴底に鉄板が仕込まれてる」

 台に置かれたブーツが、ごとん、と重たげな音を立てた。
「“Kick&Click”っていう刻印が入ってたよ」
「あ、店の名前です」
 ガブリエラは、紅茶を飲みながら言った。
「靴と銃を一緒に売っているので」
 Kickは靴から、Clickは銃を表すスラングなのだとさらりと言ったガブリエラを、ライアンと男性は、無言で見た。驚いたような呆れた顔をしている彼らに、ガブリエラはきょとんと首を傾げている。
「地雷を踏んでも靴底だけは無事、というのが自慢の店です」
「……それ意味なくねえ?」
「ジョークですよ」
 笑えないジョークだ。ライアンは乾いた笑みを浮かべた。

「おお、綺麗に直っています。ありがとうございます」
「いやいや、こちらも珍しいものを扱えて楽しかったよ。良かったらこれからもご贔屓に」
「嬉しいです。ちゃんと直せる靴屋さんがあまりいなくて」
「……そうだろうね」
 苦笑して、男性はガブリエラに名刺を渡した。ガブリエラは嬉しそうな顔で、名刺を品のいいカードケースに仕舞う。ちなみに、彼女が運転免許証や社員証、そして今回クレジットカードなども入れているこのカードケースは、かつて退院祝いと入社祝いを兼ねてネイサンから貰ったものだ。
「あの、お手洗いを借りてもよろしいですか」
「廊下の突き当りにありますよ」
「ありがとうございます」
 ガブリエラは慎重に立ち上がると、先ほどよりは多少マシだがやはり無様なへっぴり腰で、壁を伝いながらよたよたと部屋を出て行った。

「……ライアン」
 椅子にふんぞり返っているライアンに、男性が尋ねた。
「何?」
「なぜ彼女にあの靴を?」
「別にィ? ただ履かせてみようと思って」
 その返答に、男性は、噴き出しそうになるのを堪える。出会ってからこの王子様はいつだってフレンドリーだが、同時に雲の上の存在だった。しかし今の彼は、まるで近所の高校生のようにわかりやすい。

「ライアン。纏足っていう、昔のオリエンタルの文化を知ってるかい」
「いや?」
「色々とグロテスクな部分は省くけど、つまり、女性に歩きにくい靴を履かせて、ちょこちょことしか歩けなくなるのを可愛らしいといって愛でる文化だよ」
 靴のプロフェッショナルらしく、男性は簡単な薀蓄を垂れた。
「可愛がりたいのはわかるけれど、あまり無理を強いるのは可哀想だよ」
「別に可愛がってねえよ。面白そうだと思っただけ」
「ぷっ、……そう」
 とうとう実際に噴き出した男性に、「なんで笑うんだよ」と、ライアンは不機嫌そうな顔をした。

「慣れればあれでも歩けるだろうし、似合わないわけじゃない。だからたまにはいいかもしれないけど」
 男性は再度ブーツを少し持ち上げると、ごとん、と音を立てて台に軽く落とした。
「でもライアン、彼女はこんなブーツを履きこなす子だ」
「……まあ、とんでもねえな」
「そのとおり。……君が自分の思うとおりにしたいというのも、わかるさ。でも彼女のしたいように伸び伸びと走らせてあげるのも、大事なことだよ。君にはじゅうぶんすぎるほど、その器があるだろう? 僕たちにそうしてくれているようにね、王子様」

 そう言われて、ライアンは不貞腐れた少年のような顔になり、言葉を返さないまま、ブーツを持ち上げてみた。
 よく見ると細かい傷がたくさん刻まれた、年季の入った、鉄板入りの重いブーツ。あの細い脚で、彼女はこの靴を履き、シュテルンビルトまでの数千マイルもの道のりを、自分の足で歩いてきたのだ。

「……重い」
「持てないほどじゃないさ」

 君ならね、と男性は言い、激励するようにライアンの肩を叩いた。
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BY 餡子郎
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