#033
そして、約束の明後日である。
少々久しぶりにガレージから出した愛車をガブリエラのマンションの下に停めて、ライアンは彼女を迎えに行った。入れるようにしとけ、と言った通り、ライアンの生体認証が通り、門が開く。
《オカエリナサイマセ》
「……なんで住人登録してんだ」
今日入れるようにしておけとは言ったが、ずっと入れるようにしておけとは言っていない。ライアンがゲストではなく住人であるという反応を示したシステムに、相変わらず自分に対してガードとか壁とかいうものが存在していないガブリエラに呆れつつ、ライアンはマンションに入った。
玄関のチャイムを鳴らすと、数秒も間を開けずドアが開く。おそらく、散歩に連れて行ってもらえる犬よろしくそわそわと玄関近くで待っていたのだろうことが容易に想像できるその速さに、ライアンは思わず小さく噴き出した。
「おはようございますライアン、……いつもと違います!」
玄関を開けるなりそう叫んだガブリエラに、ライアンはにやりと笑みを浮かべた。
「イケてるだろ」
「はい! 格好いいです! 素敵!」
彼女のこういう、ボキャブラリーが貧困であるがゆえの率直な褒め言葉が、ライアンは嫌いではない。まず彼女のきらきらした目は全く嘘をついていないし、そういう目をして拙い褒め言葉を全力で発されると、幼い子供に絶賛された時のようなくすぐったさと、素直な満足感がある。
「しかし、なぜいつもと違いますか?」
「そりゃお前、ライアン様が有名人だからだよ。いつもの服だと速攻でバレるし」
フリーの顔出しヒーローであるライアンは、つまり私服でメディアに姿を晒す機会も多いわけで、そこを彼は遊ばせていない。つまりアスクレピオスなどの所属企業を通さず、ライアン個人のスポンサーとして、とあるアパレルブランドと契約をしているのだ。
そのためライアンは顔出しでメディアの前に出るときは全身をそのブランドで固め、専属モデル契約も行っている。ライアンも元々好きなブランドで、新作が出る度に広告塔の特権としてオートクチュールの服を用意してもらえるため、無理をしているところは一切ない。
しかしその広告塔としての効果が高すぎるため、このブランドといえばゴールデンライアン、というイメージが強すぎ、このブランドのアイテムを身に着けているだけでゴールデンライアンが連想されてしまう。
だが逆に言えば、このブランドを身に着けていなければ、世間のゴールデンライアンのイメージと少しは離れることが出来る、ということでもある。そのため今日のライアンは、いつものブランドのアイテムを一切身に着けていなかった。
いつも後ろに流している金髪を下ろし、後ろで余っている髪はちょんとひとつに括っている。更には、ノンフレームで薄い色のシャープなサングラスに白いジーンズ、先の尖った革靴。
ゴージャスで重厚なアイテムを使ったいつもの系統のファッションと比べると、今日の装いは随分シンプルで軽やかだ。ただし大柄な体格はもちろんそのままなので、首元が大きくあいた薄手のニットから太い首や胸板の厚みがよくわかり、これでもかという男らしさも強調されている。
またアクセサリーも、いつもしている金とオニキスの大ぶりのピアスではなく小さな金の粒のものにし、細い金のチェーンのネックレスをしていた。手首には、高級そうな腕時計のみ。──ニットの袖の下には、ヒーロー用の緊急通信端末(PDA)もあるが。
「ゴールデンライアンと歩いてる細い女、ってなると、お前の正体もバレそうだしな」
「あっ、なるほど」
ガブリエラは頷くと、次に真面目な顔になった。
「しかしライアン、いつもの服ではなくとも、それほど素敵ですと目立つのは避けられません。大丈夫でしょうか」
「……パッと見で俺ってわかんなきゃいいんだよ」
大真面目でこういうことを言うのがコイツだよなあ、と思いつつ、ライアンは「そうですか。それなら」と納得しているガブリエラを見た。
ガブリエラの服装はこの間のイワンのお下がりのカーゴパンツと、胸にワンポイントが入った長袖のTシャツだった。その上から、防寒だけはきちんと出来そうな、フード付きのフリース生地の上着を羽織っている。以前は防寒も防水もこなす、古着でも機能的なアーミー系のパーカージャケットを持っていたそうだが、メトロ事故の時に乗客の血とホコリでぐちゃぐちゃになってしまい、さすがに廃棄処分したそうだ。
フリースの上着はひとまずのつなぎということで、例のイワン御用達の衣類雑貨チェーン店で手頃な値段のものを買ってきたらしい。
あの地獄のクローゼットから、おそらく、でかでかとマイナーバンドの柄が入っていないTシャツを選んだのだろうその判断は評価に値する。しかしよく見れば胸についたワンポイントはなぜか丸まったエビだったので、コイツはこういう微妙な服を見つけてくる才能でもあるのだろうか、とライアンはもはや諦めとともに思った。フリースの上着に関しては無難な無地であるし、もうあのマッチョ君セーターでさえなければなんでもいい、という思いである。
だが今日は彼女にいい服を着せて、地獄のクローゼットの使者を卒業させなければ。ライアンは、湧き上がってきた使命感を噛み締めた。
「ライアンがものすごく素敵なので、私がとても見劣りしますね!」
「嬉しそうに言うなよ。……まあいいけど」
ほら行くぞ、と言えば、ガブリエラは満面の笑みを浮かべ、跳ねるようにして玄関を出た。
「ワォ、素敵です! 大きい車! 素敵!」
停めていた車を見たガブリエラは、まずそう言って目を輝かせた。
ライアンの愛車は、ホイールベースは約3メートル、全長は5メートルを超えるという、かなりの大きさがまず目を引くSUV──スポーツ用多目的車の中でも、明らかに高級車に位置する車種だ。
ライアンの生まれ故郷であるコンチネンタルのメーカーの高級車ブランドのシリーズで、有名俳優やスポーツ選手が乗っている車といえばこれ、というものでもあり、幼い頃から憧れていて、いよいよという気持ちで数年前に購入したものだ。
買った時はただただ憧れが先に立っていたが、実際に乗ってみると、ウッドとレザーをふんだんに取り入れた豪華で上品な内装や、有名音響機器メーカーによる様々な遮音対策を導入したゆったりと大きなスペースは、大柄な体格の持ち主でスピードよりも乗り心地を優先するライアンに、とても合っていた。
「この色、見たことがありません」
「オリジナルカラーだからな」
そしてカラーに関しては、オンリーワンになるのだという決意を込めて、他にないオリジナルのカラーにしてもらった。重厚なマホガニーにも似た上品な色であり、光が当たれば僅かに金色に輝くメタリックカラーに納得するまで、散々時間をかけたものだ。
「えっすごい、ライアンだけの色ですか。すごい! 格好いい!」
「そうだろそうだろ、好きなだけ褒めろ。ほら乗れ」
ライアンが助手席を開けてやると、運転席をガラス越しに見ていたガブリエラは、小走りにぐるりと車の周りを走って、おそるおそる、しかしわくわくした顔でシートに乗り込んだ。
「助手席、久しぶりすぎて変な感じです」
そわそわしながら、ガブリエラが言う。ライアンが座っても余裕があるシートは、ガブリエラが座るとまるでソファのようだった。
「お前いっつも運転席だもんな。シートベルトしろよ」
「はい。ふぉお、シートがふかふか。いいにおい……」
ストーブの前の室内犬のような顔で細い体をシートに沈めるガブリエラを見つつ、運転席に座ったライアンは、手慣れた仕草でエンジンをかけた。
「V8エンジン! いい音!」
「おとなしく乗ってろ」
エンジン音を聞くなり興奮してすぐシートから背を浮かせたガブリエラに静かに命じ、ライアンはゆったりと車を発進させた。
「……お前、俺の運転そんなガン見して楽しい?」
発進してからというもの、景色も見ずにライアンとその運転ばかり見ているガブリエラに、ライアンは苦笑して言った。ライディングはもちろんのこと、ドライビングにおいても、その技術の高さはライアンよりガブリエラのほうが上であるということは、ライアンも流石に認めている。
そんな彼女に運転をじっと見られるというのは、教習所で教官に運転を採点されるような心地──とはいかないまでも、とにかく居心地がいいわけではなかった。居心地が悪い、とはならないのは、彼女の表情が常に楽しそうで、目がきらきらと輝いているからである。
「楽しいです!」
「ふーん? 俺様運転はフツーだろ、残念ながら」
「いいえ。ライアンは運転も優しいです」
ゆったりとした口調で、ガブリエラが言う。交差点で、右折したそうな車に道を譲ったせいでできた信号待ちをきっかけにライアンがガブリエラを見ると、彼女は微笑んでいた。
「今のも。私なら行きます。さっと行けば、あの車も曲がれましたし」
「あー、まあお前なら行けるよな、今の」
「しかしあの車は、ライアンに道を譲ってもらえて、嬉しかったと思います」
ガブリエラは、目を細めた。
「ライアンは、急いでいなくて、ゆったりしています。安心……安心する感じです。それは優しいからです。ライアンはいつも優しいです。それはとても素敵なことです」
「……そう?」
「そうです」
しっかりと深く頷いたガブリエラから目線を外し、ライアンは、信号を見た。青になってはいない。
優しい、と言われることは、ある。それは主に女性をエスコートした時で、スマートなやり口に対する褒め言葉であることがほとんどだ。その点、今日ライアンがガブリエラにしてやったエスコートらしい行動といえば、助手席のドアを開けてやったことぐらいしかない。
「……やっぱお前の“優しい”の基準、低すぎるだろ」
ライアンはそう言って、信号が青くなると同時に発進した。
ライアンがガブリエラを連れてきたのは、ゴールドステージの中でも高級ショッピング街として有名な一角だった。
平日、しかも午前中の街は、まだそれほど活気づいていない。しかしその分ゆったりとしていて道も広く、過ごしやすそうな雰囲気だった。
その様子に「不定休の利点だよなあ」とライアンが言い、ガブリエラも頷く。ヒーロー業に土日も祝日もないが、それと同時に、こうして皆が働いている平日に悠々とオフを設けることもできる。ガブリエラもまたオフの日にバイクのコースの予約を取る場合が多いが、平日の真昼間の予約はだいたい空いていて、取れなかったということはない。
専用のガレージに車を預けて車を降りる。迷いなく、しかしゆったり大きな歩幅で歩くライアンの後ろを、ガブリエラは小走りについて行く。
「あらライアン、来たの」
店に入って「いらっしゃいませ」以外で出迎えられる人間を、ガブリエラは初めて見た。
「来たのって、連絡入れたじゃん」
「まあそうだけど。それで、“枝のように細い”っていうのは、そちら?」
ばっちりとメイクをしたその女性──ハウスマヌカンとして自社ブランドの服を完璧に着こなした彼女は、ライアンの隣に、まさに枝のようにただ突っ立っているガブリエラを見た。
「まあ、本当に細い。これなら何でも着られる──というか、マネキンより細いんじゃないの? あなたどこかのモデル?」
「まさか」
ガブリエラは、ふるふると首を振った。
「まさか? それこそまさかだわ。モデルでもないのにこの体型なの?」
驚愕とともに、どこか羨ましいような目線で、彼女はガブリエラの体型をチェックした。
「モデルだったら、こんなひでえ服着てねえだろ。見ろこのワンポイント。エビのワンポイントを着るモデルがいるか? いるんだったら、アパレル業界の迷走ぶりに疑問を投げかける時だぜ」
「ぷっ、まあ本当にエビ。……ごめんなさい」
ライアンに言われてガブリエラの服を見、つい噴き出した女性に、ガブリエラは「いいえ」と言ってまた首を振った。あのセーターの時に散々笑われたので、今更だと思った。それに、笑われるような服を着ているのだということには、いい加減自覚もある。
「それにしても、ライアン、あなた──」
「何だよ」
「──いえ。ああ、でも素材はいいわね。背丈もあるし、とにかく細いし、手足も首も長くて綺麗。ちょっと鍛えてるかしら? 姿勢もいいわ。ウチのアイテムなら大概どんなのでも似合うでしょう、これなら。素敵な赤毛だし」
つらつらと言う女性に目を白黒させながら、ガブリエラは首を傾げた。
「おう。今日これから着る服と──、あ、アウターも見るわ。とりあえずあそこの端のマネキンが着てるシャツとニット。あとはパンツ合わせるから、イチバン小さいの全部持って来てくれよ。だいたい買うし」
「……相変わらずの大人買いね」
まあウチとしてはありがたいけど、と言いつつ、彼女は他の店員も呼んで、店中のアイテムを集め始めた。
「うーん、ブルーより白。モノトーンだと赤白黒になって印象が変わんねえのが難だな。あー、ボトムをタイトにするんだったら上はゆったりめで。マジで枝みたいになる」
脚を組んでソファに座り込み、服を持って右往左往する店員たちに指示を出すライアンは、王子様というよりは王様という感じだった。
フィッティングルームに連れて行かれたガブリエラは、カーテンに阻まれて彼の姿を見ることができないが、あっという間に下着姿にされた心細さもあって、彼がいる方をなんとなくちらちらと振り返る。その様子を見て、先ほどの女性が微笑んだ。
「失礼、そういえばお名前は?」
「ガブリエラです。よろしくお願いします」
「ええ、よろしく」
そう言って、女性は小さな名札を見せて、己の名前も名乗った。
「あなた、ライアンの恋人?」
「……残念ながら、いいえです」
「あら」
ガブリエラの少し不貞腐れたようなぼそぼそとした返答に女性は驚いた顔をした後、にんまりと面白そうに笑った。
「そうなの。きっとなれるわ」
「そうでしょうか」
「ええ、そうよ。だって彼、今までと違うもの。こんな風に、何から何まで女のファッションに口を出したりする人じゃなかった。女性が気に入ったものを持ってきたら、そのセンスを褒めて、気が向いたら買ってあげるだけ」
「……それはただ、私のファッションが地獄のようなので、しかたがなく、ということではないでしょうか……」
「地獄って」
「ライアンが言いました。お前のクローゼットは地獄で、お前はダサ地獄の使者なのだと。最もマシと思われるものでこのエビです。地獄のエビ」
ガブリエラの言い回しがツボに入ったらしく女性はまた噴き出し、「ごめんなさい、ちょっと」と断り、数秒笑い続ける。そんな彼女にガブリエラは、あのマッチョ君セーターを見せたらどんな反応をするだろうか、と少し思った。
「エビしか着るものがない女が選ぶものを、彼が褒めるわけがありません」
むしろビリビリに破かれてもおかしくないです、とガブリエラは実感を伴った声色で、そして若干不貞腐れた様子で言った。
「うん、まあ……。それでもよ。とにかく、あなたへの態度は特別」
実は彼女は、かつてライアンとデートをしたことがあった。いちどきりだったが、少なくともその時の態度とガブリエラへの態度は明らかに違う、と彼女は確信している。
ライアンはスマートで完璧なエスコートをし、女性がやること成すことを的確に褒めた。女をいい気分にさせるのがとてもうまい人、というのがその印象だったが、同時に、ライアンは楽しめているのだろうか、という疑問も付き纏った。
ゆったりと余裕綽々に構えているのは非常に格好いいことでもあるのだが、それだけに、何をしても本当に彼の心を動かすことは出来ないのではないか、という不安も湧くのだ。
自分さえ良ければいい女なら、そんなことは気にしないだろう。しかしライアンがそういう女を選ばないので結局短い付き合いで終わり、そしてお互いに悪い思いをしたわけではないのもあって、ライアンの“友人”がまた増えるという結果になる。
だがガブリエラに対するライアンの態度ときたら、まるで女に対するものではない。
着ているものをこきおろし、この短い間にガブリエラに3度も「馬鹿」と言い放った。その上店内を珍しそうに見ていたガブリエラの上着の後ろの襟首をまるでペットにでもするようにつまみ上げ、「お前はこっち」とフィッティングルームに文字通り投げ込んだのだ。
女性に対してそんな態度のライアンなど、おそらく誰も見たことはないだろう。そして普通なら傍から見ていて眉をひそめてもおかしくないようなその態度だというのに、不思議と印象は悪くない。
それは当のガブリエラが彼の態度を全く気にしていないどころか、どこか嬉しそうだからだろう。おまけに時折、計算なのか天然なのか、ユーモアたっぷりの返しさえする。そしてそれにまた「馬鹿」と言いながらもライアンの表情もまた柔らかいのに気付けば、ふたりの関係が特別であることは容易に知れようというものだ、と彼女は思う。
またガブリエラ自身も、今までライアンが連れていた女性とは、全くタイプが違う。
そしてそれは、ガブリエラがおそらくこれから先ライアンに連れ回される先にある、彼とデートしたことがある沢山の“友人”たちにも認められるものだろう。
“友人”にライアンの女性関係について口を出す権利はないが、それでもやはり、ひとたびその候補に上がっただけあって、どうしても気にはなるものだ。
しかしガブリエラについてはその方面の心配はないだろう、と彼女はなんとなく思った。根拠は、自分自身。むしろ、どこか応援してやりたいという気持ちさえある。──半分以上、面白がっているような気持ちではあるが。
ライアンが選ぶのはだいたい自分をしっかり持っていて、頭も良く、キャリア志向で独立した女性が多かった。ルックスはセクシー路線、あるいは脱いだら凄そうなタイプ、あるいはこだわりのある高いファッションセンスの持ち主など。つまりは我が強くて個性引き立つ、仕事やコミュニティなど、それぞれが属するカテゴリでナンバーワンの座に座っているタイプ。
だがガブリエラは、また違う。好ましいユーモアには溢れているが、高学歴の持ち主といった様子ではない。どこか浮世離れしたような雰囲気と、そして装いを変えれば少年にも見えるような中性的な容姿。服は本人曰く地獄だ。
その姿は、間違いなく“特別”だった。
次に何をやるのか、どんな思考を持っているのか、まるで違う星の生き物のように予測の付かない強烈な個性。この珍しい赤毛のように、他にはないもの。オンリーワン。
そして実のところ、ライアンの真の好みは各分野にそれぞれいるナンバーワンではなく、どのカテゴリにも属さない、そういう“オンリーワン”に他ならない。
それを、この女性含む彼のガールフレンドたちも知っていた。だからこそ、彼と長続きしなかったのだから。
「とくべつ……。特別ですか、私?」
「そう思うわ。少なくとも、彼は女性に対して“馬鹿”なんて言い放ったことはないわよ」
何も知らなければ盛大な嫌味にも聞こえることを言った彼女に、ガブリエラは灰色の目を見開いた。そして、その目を細める。
「そうですか」
それは、ひどく幸せそうな笑顔だった。
その表情に、ライアンの“友人”である彼女も満足し、ライアンが選んで寄越した服の袖を、ガブリエラの細い腕に通させた。
「……いいじゃん」
シャッとフィッティングルームのカーテンが開き、姿を表したガブリエラを見たライアンは、なぜか真顔でそう言った。
「そうでしょうか」
きちんとした白いシャツブラウスに、細身の、ベージュのパンツ。シンプルだがそのぶん品が良く、白い肌が美しく見え、赤い髪が映える選択だった。
生まれて初めて高級ブランドの服を着せられ、まるで服を着せられた犬のような心地になっているガブリエラは、ぎこちなく微笑む。しかし、身体にぴったりと張り付くような立体断裁のフィット感には、素直に心地よさを覚えていた。
「おう、イケてるイケてる。さすが俺」
「なんでそこで自分のセンスを自画自賛するのよ。彼女を褒めなさいよ」
満足気に頷くライアンに、女性の突っ込みが飛ぶ。
最も小さいものでもどうしてもサイズが合わなかったため、ガブリエラが着ているのは、色々な所を詰めたトルソー用のものである。新人のスタッフが「うわあ本当に入った」と若干引いたような、しかし羨ましいような声を出したのが印象的だった。
凹凸に乏しい代わりにすらりとした、女性としては長身の部類であるガブリエラは、実はマネキンとしては優秀な体型だったのだ。
「じゃあそれ買い。次な」
「えっ」
どれかひとつ選べば終わりだと思っていたガブリエラは、目を丸くする。
「当たり前だろ。たかが1着まともな服仕入れたぐらいで、あの地獄のクローゼットがマシになるとでも思ってんのか? 今日、俺はあの地獄を絶対に滅ぼすからな。覚悟しとけ」
まるでどこかの勇者のようなことを言って彼がびしりと指をさすと同時に、シャッとフィッティングルームのカーテンが閉められる。ガブリエラはぽかんとしているまま、いま着たばかりの服をすぐに脱がされ、次の服を着せられた。
「そっちのシャツブラウスとタートルネック、あとやっぱニットを何種類か」
「ニットならワンピースもいいわよ、これ今季のオススメ」
「あっちのツイードのジャケット持ってこい」
「ダークカラーのコーデのほうがシーズンだわ」
「ハイウェスト? あーなんかそれ流行ってるよなあ」
ガブリエラにはちんぷんかんぷんな、呪文にしか聞こえないファッション用語が飛び交う中、ファッションショーが始まった。着替えさせられてはシャッとフィッティングルームのカーテンが開けられ、ライアンがコメントする。彼のお気に召せば“買い”、イマイチなら“ノー”。
ソファにふんぞり返ってその2択を指示するライアンは、本当に王様のようだった。
そして言われるがまま着替えたガブリエラの姿を見て、ライアンは基本的に服のことについてコメントするのだが、時々「何気に脚長いよな」とか、「やっぱ肌白いからどの色でも似合う」「立ち方綺麗だよなあ。バイク乗ってると姿勢が良くなんの?」「うわ首長いなお前。何でも着れるじゃん」などと、ガブリエラ自身に言及するときもある。しかも、だいたいが褒め言葉だった。
ガブリエラはその言葉が出る度嬉しくなり、慣れないファッションショーを楽しく過ごすことが出来た。特にワンピースを着た時に「ほら別に女っぽいの似合わなくねえだろ」と言われた時は、ガブリエラは顔を僅かに赤くする。
ライアンが選んだニットのワンピースは、ガブリエラが生まれて初めて身につけたスカートになった。
「で、色々着たけど、あなたはどの服が気に入った?」
「えっ」
もう何回着替えたのかわからなくなってきた頃、ずいぶん気安くなってきた女性ににこやかに問われ、ガブリエラはきょとんとした。
今日はライアンに「選んで貰う」と思っていたし、ライアンに言われるがまま着ていただけだったので、自分の意見を聞かれるとは思っていなかったのだ。
「女性はファッションにこだわりを持たなきゃ。こだわりというまでではなくても、好みぐらいはね。どういう系統が好きとか」
「……考えたことがありませんでした」
「では考えるといいわ」
にこやかだが力強くそう言われ、ガブリエラは、今まで着たアイテムの数々を思い出した。様々な色、形、そして生地、その着心地。
「ええと、ライアンがいいと言ったのは……」
「ライアンのことはいいのよ。男の言うなりに服を着るのはよくないわ。時々付き合ってあげるのはいいけど。だいたい今回は彼が選んだものの中からいちばんを決めるだけのことなんだから、文句のつけようもないわよ。そうでしょライアン」
畳み掛けるように言われたライアンは、姿勢を崩して頬杖をついている。もう片方の手の小指から人差し指までの指先が、波打つようにソファの肘掛けを繰り返し叩いていた。
「……まあ、そうだな」
静かにそう言ったライアンに、女性は肩をすくめた。
ガブリエラは、恐る恐る彼の顔色を窺った。彼が機嫌を損ねたのではないかと思ったからだ。しかし彼は機嫌が悪いどころか、むしろ興味のありそうな目でガブリエラを見ていた。
「で、お前どれが好きなの」
「ええと……」
ガブリエラは慌て、数秒悩む。常に即断即決のガブリエラにとっては、少し長いシンキングタイムだった。
「あの、……首の長い、袖がゆったりしていて、手首はきゅっとなっている、黒の」
「ああ、ハイネックのビショップスリーブ」
──そういう名前らしい。ガブリエラのもたもたした説明を正しく理解した女性は、“買い”の服の中から、ガブリエラが望んだ服を持ってきた。
「ボトム……下は今履いてるパンツでいいかしら?」
「はい、着心地がいいので好きです」
「マネキンのが合ってよかったわ……。ああでも、これだけだと少し寒いんじゃない? コートってほどじゃないけど」
「ではさっきの、……ショール?」
「あれね。いいじゃない、センスあるわよ。地獄のエビは卒業ね」
ざっくりとしたかぎ針編みの大判ショールを持ってきた女性は、笑いながらユーモアを飛ばした。
そしてライアンは、その様を黙って眺めている。
再度カーテンが引かれ、ガブリエラは、自分で選んだ服に着替えた。いい生地が体に張り付く感じが心地よい。デザインの良し悪しや好みはまだよくわからないが、その着心地の良さに、ガブリエラは“良い服を着る”ということの重要さを理解した。
房がたくさんついた大きなショールが、シンプルな装いにアクセントを与えている。編み柄は複雑な花の模様で、いい毛糸を使っているために肌触りも良く、何より温かい。痩せているせいで比較的寒がりなガブリエラには、ありがたいアイテムだった。
「……どうでしょう」
カーテンが開き、ガブリエラは、まだ少しおどおどとライアンを見る。しかし予想に反して、ライアンは薄く微笑んでいた。細まった金色の目の優しさに、ガブリエラの心臓が高鳴る。
「おう。……それなら、俺の隣に並んでも見劣りしねえな」
それは、ガブリエラにとって最高の褒め言葉だった。
ガブリエラは満面の笑みを浮かべ、フィッティングルームを出た。
着た服にポケットがなかったので、細い紐の、小さいショルダーバッグも選ぶ。シンプルだが小さな留め具の形が変わっていて上品なバッグを、ガブリエラはいそいそと肩にかけた。
嬉しそうなガブリエラに頷いたライアンは、パンツのポケットからカードを取り出す。
「じゃあ会計」
「えっ」
細々した持ち物をバッグに入れ替えていたガブリエラは、ぽかんとした。そして恭しく金色のカードを受け取ってしまったスタッフを見て、とたんに慌て始める。
「ラ、ライアン。なぜライアンが買うのですか」
「いやこの流れだと完全にそうだろ」
「流れとは何ですか。結構その、高い値段……値段が高い……、その、多分」
ガブリエラはまだ値段を見ていないしライアンが見せてくれないのでわからないが、彼女が今まで買った服と比べるべくもない、具体的には桁が違う品の数々である。それを小さなクローゼットがそれなりに埋まるほど選んだのだから、それなり以上の値段のはずだ。
どれくらいの予算が必要なのかわからなかったので、ガブリエラも新車の中型バイクくらいは楽々買えるくらいまでカードの限度額を上げてきている。しかしライアンはガブリエラがカードを出そうとするのをやんわり抑えこみ、──そして、会計をいったん止めた。
「財布も買う。見せてくれ」
使い込みすぎてよれよれのナイロン生地製の、端がほつれた、マジックテープでとめるタイプのガブリエラの財布を見たライアンは、目を眇め、有無を言わさずそう命じた。
財布は個人の使い勝手があるので、ガブリエラが自分で選ぶことになった。ずらりと並べられたぴかぴかの財布の中から、ガブリエラは片手で握り込めるくらいの大きさの、レザーのコインパースを選んだ。
「それ、小銭入れだぞ」
「いいえ、これがいいです。カードケースもありますし」
クレジットカードを使うようになったので、それをカードケースに仕舞えば財布は紙幣が何枚かと小銭が入ればいいのだと言うガブリエラに、それならとライアンは納得した。
ちなみにそのライアンはといえば、財布どころか、外出する時は基本的にカードと数枚の紙幣しか持っていない。じゃらじゃらするのが鬱陶しいという理由で、小銭ができると全て募金箱に突っ込んでいる。
「それに、この形がいいです。形が気に入りました」
美しいカービング模様の入った馬蹄形のコインパースをガブリエラは非常に気に入ったらしく、開けたり閉めたりして眺めている。
「そりゃ何よりだ。じゃあ会計」
無事ガブリエラが財布を選んだので、ライアンはそれもまとめて再度会計を進めた。
「あっ、ライアン」
「いいって。俺が金持ってる事ぐらい、お前も知ってんだろ」
ゴージャスなセレブヒーローの肩書きは伊達ではないのだと、ライアンは口の端を持ち上げ、彼一流の不敵な笑みを浮かべた。確かに彼の収入は、アスクレピオスからの年俸だけでもニュースになるくらいの額である。
「知っていますが、しかし」
「うるせえなあ。……あー、それにアレだ。あの時お前、俺の飲み代まで払ったろ」
「あっ、はい」
ライアンが言うのは、例の夜の時の話だ。泥酔した彼に代わり、ガブリエラはふたり分の飲み代をカードで支払った。少なめにしておいた限度額ぎりぎりの額だったせいで光熱費の振替ができず、高給取りになったにも関わらずその月だけ請求書払いで払ったことを、ガブリエラは今思い出した。
「あれ返してねえし。だからプラマイゼロ、そーいうこと」
「ううん……それなら……そう仰るなら……」
「そうそう。で、納得したなら言う事あるだろ」
そう言われ、ガブリエラはきょとんとした後、少し照れくさそうな笑みを浮かべる。しかし金色の目をまっすぐに見上げて、言った。
「……ありがとうございます、ライアン。嬉しいです、とても」
「ハイハイ、どういたしまして」
「とてもですよ」
「わかったわかった」
そう言いつつ、ライアンは会計を済ませたカードを受け取る。
ガブリエラはとうとう値段を教えてもらえなかったが、ライアンに選んで買ってもらった服やバッグ、初めて純粋にデザインだけで選んだ財布が嬉しくて、鏡の前でにこにこしているうちに値段のことを忘れた。