#032
「……お前、何読んでんの」
「あっ」
アスクレピオスホールディングス・シュテルンビルト支部、オフィスタワービル。
ヒーロー事業部、とプレートがかけられた真新しいオフィスが、所属ヒーローであるホワイトアンジェラと、同じくヒーローのゴールデンライアン、そしてアドバイザーのライアン・ゴールドスミスの普段の職場だ。ほとんど毎日ここに出社し、ミーティングや書類提出などの事務処理、また会議や打ち合わせはここで行う。
そこに置かれた休憩用ソファで赤い後ろ頭を見つけたライアンは、彼女が真剣に読んでいた雑誌を後ろからつまみ上げた。
いくつか折り目がつけられたそれは、女性用のファッション雑誌だった。
「カリーナから頂いたのです」
「ああ、なるほど……」
ガブリエラにはジャンルも年齢もやや的はずれなティーン向けのその雑誌を見て、ライアンは納得して頷いた。
「もしかして、お前のあの地獄のクローゼットになんか言われたか?」
「うぐぅっ……!」
あの最悪のワードローブを何も考えずに身に着けていたガブリエラが、理由もなく突然ファッション誌を手に取るはずがない。ライアンのその予想は正しく、ガブリエラは図星を突かれた呻き声を上げた。
「……その、実は、あのセーターを見たパオリンに……」
大爆笑されまして、とガブリエラは気まずそうに言った。
しかも、その場にいたイワンにも「これは見事なアグリーセーター。ブログにアップしても良いでござるか」と言われ、実際に折紙サイクロンのブログにアップされたあのマッチョ君セーターは大ウケし、様々なコラージュ画像の大喜利状態となり、SNSのホットワードが一時期“MUSCLE!!”になっていたという。
「今まで考えたことがなかったのですが、私もいい大人ですし、少しは身に付けるものに気を使ったほうがいいのか、と……」
「おう、いい心がけじゃねーか。ちょっと遅ぇけど」
「うう……。しかし、何をどうしていいのか全く分からなくてですね……」
行動力の塊であるガブリエラは、既に服屋には行ってみた。
しかし店の系統が分からず適当な店に入ったら、店員の勢いに圧され、わけもわからず色々と買わされそうになったので逃げて帰り、本屋に行ってファッション誌から勉強しようとしたものの、巨大な本棚を埋め尽くす様々なファッション・ジャンルの雑誌にめまいを覚え、結局とぼとぼ帰ってきた、ということらしい。
「ネイサンに相談しようとも思ったのですが」
「最近、オーナー業の方忙しそうだからな」
「はい。ですのでとりあえず、ファッション誌とはどういうものなのかだけでも見ようと思って、カリーナがもう読まないものを頂いて、見ていたのです」
ふーんと頷いたライアンは、白やピンク、パステルカラーの割合の多い、ごく短い間しか出来ないだろう若々しいファッションばかりが紹介された雑誌をぱらぱらとめくった。
「ま、これはお前には似合わねえだろうけどな」
「私もそう思います。カリーナやパオリンなら似合うと思いますが」
「……そういうのはわかるのな」
「え?」
「誰に何が似合う似合わないっていうのはわかるんだな、って意味だよ」
そういえばダメージジーンズやバンドTシャツなどばかりのワードローブを指摘した時、「自分にはこれくらいしか似合わない」とガブリエラは言った。普通の服ではみすぼらしくなりすぎ、女性らしいものだと浮いてしまう、しかしこれなら意図してそういう格好なのだと見えるから、と。
つまりそれなりのセンスの基準がないわけではないのだな、とライアンは頷いた。
「……っていうか、お前最近ちょっと服変わったよな」
雑誌をめくりつつ、ライアンはガブリエラが着ているものをちらりと見た。
「あっ、わかりますか」
「パンツが破れてるか破れてないかぐらいわかる」
またもっぱらオーダーメイドのライダースーツを制服のように着るようになった彼女だが、たまにそうでない日もある。
つまり単にバイクに乗らなかった日であるが、今日がその日だった。今彼女が着ているのは、トップスこそいつものマイナーバンドTシャツだが、ボトムは腰で履くカーゴパンツ。無駄なダメージを受けていない、綺麗なものだった。
「折紙さんから頂いたのです」
お下がりです、とガブリエラは微笑んだ。
「……あ? 折紙?」
「はい。彼は私と同じくらいの身長ですし、昔は今よりもっと華奢で、細い体格を目立たないようにするための服を選ぶようになったそうです」
イワンの身長は最近また伸びてきているが、この間まで、170センチをやっと超えたくらいだった。ガブリエラが言うように、彼女とほぼ同じ身長でもある。──とはいえ、あの身体能力の持ち主であるイワンは一見華奢に見えてもかなり筋肉質なので、身長が同じでも色々な太さ細さは全く違うだろうが。
しかしヒーローという職業の男性としてはやや小柄といえるその体格がそれなりにコンプレックスらしい彼は、だぼだぼのカーゴパンツや、体型のわかりにくいスカジャンなど、ルーズめの格好をよくしている。
今ガブリエラが履いているのは、そのイワンが昔履いていたものだった。体を鍛えた今はサイズ的にもう履けなくなったのだが貧乏性ゆえなんとなく捨てられず、しかし古着屋に持っていくほどではないためタンスの肥やしになっているというその話を聞いて、譲ってくれないか、とガブリエラが申し出たのだ。
イワンは自分が着ていたものを女性に譲るというのに遠慮を見せたが、今まで服といえば古着屋で調達していたガブリエラに抵抗はなく、しかもイワンは友人なのでなおさら気にしないと言えば、「こんなもので良ければ」と快く譲ってくれたという。
カーゴパンツはそれなりに年季は感じられるものの特に破れもほつれもなく、イワンの性格がよく出て、良い状態のものだった。特筆するところもないただのノーブランドのカーゴパンツだが、確かにあのダメージ過多ジーンズよりは遥かにマシ、とライアンも思った。
「あっそうです、服のことは折紙さんに聞いてみましょう」
いいことを思いついた、という感じで、ガブリエラは言った。
「……あ?」
「彼も、着るものを選ぶのは苦手だとおっしゃっていました。サイズに苦労したこともあるようです。いい店を知っているかもしれません」
ライアンは、この間ダーツバーに行った時「オタク臭くならないよう、服はウニクロを中心に揃えるでござるよ」と言っていたイワンを思い出した。
彼が言うのは、服というよりは衣料中心の生活雑貨取り扱いという感じの、価格帯も庶民的なメーカーだ。ほとんどの衣類が無地のシンプルなもので、しかしカラーバリエーションの豊富さが売りである。確かにあのメーカーならどういう組み合わせでも無難なものが出来上がるので、ファッションセンスには自信がないがそれなりに清潔感のある格好をしたい、という要望は叶えやすい。
イワンに相談したガブリエラが、品揃えだけは豊富な巨大な店舗でろくに選びもせず、とにかく袖と丈さえ合えばいいというサイズをカゴに入れていくところが容易に想像でき、ライアンは微妙な顔をした。
──そしてその横にイワンがいるところを思うと、なんとなく、さらに微妙な気持ちになる。
「私は女性らしいものは似合わないですし、男性の彼に聞いたほうが良いかも」
「……別にそんなことねえだろ」
ライアンは、やや不機嫌そうにぼそりと言った。
「お前、背があって手脚も首も長ぇんだから、むしろ色々着れるだろ。マジで体が薄いからいかにもボリューミーなセクシー系はやめといたほうがいいと思うけど、逆にそれ以外はだいたい着れるのに勿体ねえ……」
確かにガブリエラは中性的だが、腰のラインなどは華奢ながらもちゃんと女性だ。カーゴパンツだとそれもわかりにくくなって余計に少年のようだが、もっと綺麗なラインの出る、きちんとした立体断裁のものなら、細いウェストや長い手脚、女にしては高い身長もちゃんと映えて、細身のファッションモデルくらいには見えるだろう。
それに、彼女の赤毛はそれだけで目を引く。服がシンプルでも、あの珍しい赤毛はじゅうぶんにアクセサリーの役目を果たすはずだと、ライアンは確信していた。
「つーかお前の着るのいっつもなんかルーズすぎるっつーかゴチャっとしてるっつーか、だから貧乏臭えんだよ。もっとシンプルな綺麗めで揃えろ、っていうかまず何より体に合ったもん着ろって。お前の体型だと難しいのはわかるけどさあ、せめてストレッチ素材とかニット系選ぶとか」
「え? え?」
一旦口を出したことで箍が外れたのかつらつらと告げられる言葉に、ガブリエラは疑問符をこれでもかと浮かべながら、おろおろと慌てた。そして、「ええと」と困った様子で言い、薄い眉尻を下げる。
「……ライアンすみません、途中のいくつかの言葉の意味がわかりませんでした。あの」
「……っていうか」
「え?」
「なんでお前、俺に……、俺に言わねえわけ、そういうの」
ぼそぼそと、ライアンは言った。
「え?」
「いや、え? じゃなくて。……だから、お前の服がクソダセエって言ったの俺じゃん」
「はい。ライアンに言われたので気にするようになりました」
「……おう」
相変わらず率直に言われ、ライアンはやや出鼻を挫かれたような、しかし何やら悪く無い気になりつつ、続けた。──抑えめの音量で。
「だから何だ、あー……、聞けばいいだろ、俺に。“じゃあ何着りゃいいんだ”って」
「えっ」
「……だから、なんで“えっ”なんだよ」
「な、なぜなら」
“だって”を“なぜなら”と言う珍妙な癖が治らないガブリエラは、おろおろしながら言った。
「わ、私、私は、ファッションのことは、全くわかりません」
「いや、だからむしろ聞きゃいいだろっつってんだよ」
「あ、あまりにもわからないので……。ライアンは、とてもおしゃれな人ですので、私のような者に色々聞かれたら、嫌な気分になるかと……」
思いました、と尻窄みに言うガブリエラは、どこかびくついた様子である。
──以前は見られなかった、この態度。あの件以来、ガブリエラはこんな調子だ。
以前のふてぶてしさが嘘のように、ライアンにねだり事をしてこない。それは書類が難しくて読めないので読んでくれとか、電子レンジを使いたいので給湯室についてきてくれとか、ランチに行こうとか、そういう些細な誘いである。
以前のライアンはその度ぶつくさ文句をたれつつもいつもその通りにしてやっていたのだが、最近はその誘い自体ない。ガブリエラは難解な言い回しの書類に辞書や検索エンジン相手に奮闘し、どうしてもわからないことは、恐縮して会社の人間に聞いていた。電子レンジをひとりで使えるようになったのか、ランチタイムをどう過ごしているのかは、知らない。
ライアンはそのことにもやもやしつつも、何もしなかった。以前はガブリエラが遠慮なしに誘いをかけてくるのを断る理由がなく、ランチに連れて行けば仕事の時に言うことを聞くと約束するので、仕方なく、という気持ちだった。
だが今は難しい書類をガブリエラはひとりで片付けようとし、ランチに連れて行かなくても、従順に言うことを聞く。
つまり、しなくても、ライアンは困らないこと。する理由がないことだったからだ。
だが今ライアンは、先日キースから見ろと言われた動画を思い出していた。
キースがあの時寄越してきた動画ファイルは、いつ放送されたものか、動物のドキュメンタリー番組だった。
割と重い問題を扱うそのシリーズのうち、飼育放棄、ネグレクトを扱う回。飼い主から面倒を見られることを放棄されたペットの様子や保護施設での様子などを詳細に取材したそれに、キースが全く疑いもなく“犬”を犬だと思っていることを確信してライアンは苦笑したが、その動画をつけっぱなしにしているうちに、全く笑えなくなっていった。
小屋に繋がれたまま放置されるという虐待を受けているペットたちの痛ましさはもちろんのこと、ライアンが釘付けになったのは、とある金持ちに飼われていた、元は血統書付きの犬のエピソードだった。
餌だけは給餌マシンで与えられ、トイレの世話も使用人にしてもらえているはずの犬は、最終的に保護施設に連れて行かれた。
飼い主に全く構ってもらえずただ部屋の中で飼い殺しにされているその犬は、寂しさから部屋の中で暴れ、それを手酷く叱られ、調教師の元に送られた。調教を終えて戻ってきた犬はクッションを噛みちぎることもなく静かになったが、部屋の中で遠吠えを続け、しかし万全の防音の部屋は全く歯が立たず、飼い主は顔を見せない。
そのストレスから犬は給餌マシンからの餌を食べなくなってやせ細り、血統書付きの見事な毛並みが抜け落ち、しまいには、自分の足を血が出て肉が見えるまで噛むようになる。
病気だと思った使用人が病院に連れて行ったところで飼育放棄によるストレスと判断され、愛護法によって犬は保護施設に連れて行かれた。
裕福な家で飼われていようと、餌だけは与えられていようとも、愛情が欠乏していればこういうことになってしまうのだということを、ありありと示したエピソード。
イグアナのモリィは可愛がれば僅かに反応は返すとはいえ、犬や猫ほどわかりやすいものではない。ライアンはモリィの世話を欠かしたことはないし愛情も示しているつもりだが、実際、世界を飛び回りながら、モリィをシッターや実家に預けて放っておくことも少なくなかった。
しかしモリィはいつも健康で、餌をたくさん食べ、順調にデカくなっている。そのことに、ライアンも満足していた。
やっと保護してもらえるというのにガリガリにやせ細り、毛並みを禿げさせ、飼い主と離れたくないとケージの中で最後の抵抗とばかりに暴れていた犬の姿は、視聴者にトラウマを植え付けるにじゅうぶんだった。
ライアンもその例に漏れず、このドキュメンタリーを観た翌日ぐったりしてジャスティスタワーに行けば、キースが「見たね、そして見たね」と非常にシリアスな表情で言ってきた。「これで犬に冷たくしようとは思わなくなっただろう」とも。
荒療治だと言った彼の言葉は、真実だった。ライアンはげっそりして「トラウマ動画だった」と伝え、キースの忠告を受け取ったことを示すと、彼はやはり真剣な顔で頷いた。「わかったら、一刻も早くその子にご褒美をあげたまえ」と言って。
(ご褒美、ねえ)
ライアンは、目の前でおどおどとし、しかしライアンに構ってもらえてどこか嬉しそうでもあるガブリエラを見下ろす。
豪華な部屋の中で自傷を繰り返す犬の姿は、ライアンにトラウマを植えつけた。
スリル中毒の、アドレナリンジャンキー。さらにはライアンに叱って貰うために危険を繰り返す彼女の癖を、ライアンは封じた。ならばその時、構って貰えない、褒めて貰えないというストレスは、どこに行くのだろう。
答えの想像もつかないその問を自分に投げかけて、ライアンはぞっとした。
だからではないが、ガブリエラを労う事自体はライアンとてやぶさかではない。最近はライアンの言うことを従順すぎるほどに聞き、学のなさを補うためにいつも必死に何か勉強している彼女に対し、頑張っているなと感心もしている。
だから何かしてやろう、というのは決めているのだ。食事に連れて行ってやるとか、とまず考えて、しかしライアンは首を振った。──そんなにお手軽なやり方で、今回のことが挽回できるものなのだろうか、と。
しかし今、うってつけのものが目の前にある。ライアンは、その案を採用することにした。
「……買いに行くか、服」
「えっ」
「選んでやる。……おお、いいじゃん。グッドアイデア」
「え?」
何やらひとりで納得している様子のライアンに、ガブリエラはぽかんとして彼を見上げる。その顔にライアンが「間抜け面」と言って軽くデコピンを食らわすと、ガブリエラは「ぴゃっ」と高い声を上げて額を押さえた。──ちょっと嬉しそうに。
「明後日、丸1日オフだろ。なんか予定入れてるか?」
「い、いいえ」
「じゃあその日な。俺が車出すからバイクはナシ。家まで迎えに行く」
「えっ、あの」
「何だよ」
先程から「えっ」ばかり言っているガブリエラは、あからさまに混乱していますと言わんばかりの顔をしてライアンを見上げている。そんなガブリエラにライアンは少し笑いそうになったが、口元を引き締めて堪えた。
「ライアン、あの、すみません、意味がよく……」
「いやだから、お前の服を俺が選んで」
「えらんで」
「買おうぜって言ってんだよ。合間に飯でも食って」
「めしでもくって?」
ひと区切りずつ復唱までしたのに、ガブリエラはまだ理解が及ばない様子だった。
「……え? なぜですか?」
「なぜってお前……」
やっと出てきたガブリエラからの質問に、ライアンは少し面食らい、そして少なからずショックを受けた。──理由がなければ何もして貰えないと思われている、ということに気付いたからだ。
あのドキュメンタリーで、保護施設のスタッフに「頑張ったね」と撫でられ、なぜ撫でられたのか分からず挙動不審になっていた犬を思い出して、ライアンは胸が傷んだ。自分が原因である、という罪悪感が多大を占めた状態で。
しかし幸い、今のライアンには、堂々と言える大義名分があった。
「そりゃあ、あれだ。だから、……ご褒美?」
「ごほうび」
また馬鹿のように復唱するガブリエラに、ライアンは言った。
「お前、最近無茶しねえし、カロリーもちゃんと残して能力使えてるしな。なんか色々頑張って勉強もしてんだろ。だから、そのご褒美」
ガブリエラはただただ目を丸くして、口を開けっ放しにしてライアンを見上げている。どれだけ驚いているんだと思いつつ、ライアンはガブリエラの反応を待つ。しかし数秒してもガブリエラが固まったままなので、ライアンは怪訝な顔をした。
「……何だ。嬉しくねえのか」
「いいえ!」
ガブリエラは、聞いたことがないほど大きな声で言った。元々高い声がひっくり返って、ガラスが引っかかれたような音になっている。
「いいえ、あの、ライアン、本当に……」
「ん?」
「本当に、その、服……ええと、服を」
「おう。……あー、いいか、最初から言うぞ」
「は、はい」
やる気のある新入社員のような様子でこくこく頷くガブリエラに、ライアンはいちど咳払いをした。
「明後日のオフに」
「明後日」
「朝に俺が迎えに行くから」
「迎えに……」
「お前の服を選んで、買って」
「買って」
「合間に飯でも食おう」
「食おう……」
「わかったか?」
きっちりひとつずつ復唱したガブリエラにライアンが問うが、彼女はぽかんとしたまままだ無反応だ。しかし灰色の目がだんだん潤み、顔が赤くなっていく。
「えっ、ライアン、本当ですか」
「だからさっきからそう言ってんだろ」
「私の服、選ぶ、くれますか。ライアンが? 本当に? 食事も?」
「本当、本当」
「ごほうび……?」
「そう、ご褒美」
ライアンが頷く。──途端、本当に光を発しているのではないかというほどガブリエラの目が輝いた。眩しいような気がして、ライアンが思わず目を細める。
「あっ、夢……夢ではなく!?」
「夢じゃねえから。お前どんだけだよ……」
「明後日! あっ、だめですよ、やっぱりやめる、だめ!」
「やめないやめない」
なぜか手をあっちこっちに彷徨わせるガブリエラの赤毛に手を置くと、彼女はすぐおとなしくなった。整髪料を使っていない、触り心地の良い赤毛をわしゃわしゃと撫でれば、「えふふ」と蕩けたような笑い声を漏らす。
「ふふふ、……えう」
「……え、何お前、泣いてんの」
「な、泣いていません」
「泣いてんじゃん」
「泣い、泣いて、泣きます、うう」
「あーもー、はいはいはい」
うう、と呻いて泣き始めたガブリエラの目尻に溜まった涙を、ライアンは親指の腹で拭ってやった。しかし涙が次から次に溢れてくるので、間に合わない。
まさか泣くほどとは思っていなかったので、ライアンは少し慌てた。オフィスのデスクに置いてあるティッシュを数枚引き抜き、ガブリエラの顔に押し付ける。
「ふぐぅ」
「……ペットシーツ」
「え?」
「いや、なんでも」
きょとんと濡れた顔を上げたガブリエラの疑問を、ライアンははぐらかした。
しかし今の発言をそれほど気にかけていないらしいガブリエラはそれ以上突っ込んでこず、ティッシュを目元に押し当てて涙を拭い、そのまま盛大に鼻をかむ。
「うう、……ライアンがやさしい」
──コイツの“優しい”の基準は、低すぎる。前にも思ったことを、ライアンは再度思った。胸の痛みとともに。
「うう、……ふふ」
「泣くか笑うかどっちかにしろよ」
「嬉しいので泣いています」
「……おう」
「ライアン、優しくしてくださる、嬉しいです。ありがとう」
ガブリエラは顔を上げた。目尻だけでなく、顔全体が赤くなっている。細まった灰色の目が、滲んだ涙できらきらと輝いていた。幸福がたっぷり滲んだその笑顔に、ライアンはつい釘付けになる。
「ライアン、嬉しいです。ありがとう」
うっとりと見上げるこの目を見たのは、久々である気がする。
自分を世界で最上の存在であるかのように見上げる目。蒸気した白い肌、とろりと酔ったような、愚かなほどに従順な目。きらきらしたものを、眩しげに見るような潤んだ目。
ありがとう、と言われたのも、どのくらいぶりだろう。ごめんなさいと許しを請う姿に心地よさを感じるのも確かなのだが、きらきらした目でうっとりと感謝を示されるのも悪くない、とライアンは再認識した。──ああ、悪くない。まったくもって。
ぞくぞくと昇ってくるものを誤魔化すように、ライアンは、再び赤毛の上に手を置いて、その目線を遮った。
「……明後日な」
「はい!」
乗せられた手の下で明るく返事をしたガブリエラに、ライアンは、密かに口の端を持ち上げた。