#031
《T&Bとともに、ゴールデンライアンも犯人確保! シーズン開始早々、いい滑り出し!》

 かつてのアポロンメディア・トリオでの活躍に、オーディエンスが歓声を上げる。HEROTVのロゴが映し出され、中継終了。

「うーっす、お疲れー」
「おう、お疲れさん」
 犯人を警察に引き渡し、フル装甲のスーツでもわかるがに股で寄ってきて片手を上げたワイルドタイガーに、ライアンもまた片手を上げて応えた。そんなふたりを見て、バーナビーもまた「お疲れ様です」と言った。白と緑、白と赤、青と金色のカラーリングが集まる。
「もうすっかり第一線ですね、ライアン」
「アンジェラのお陰だな。毎回毎回、どんだけ遠くても追いつくもんな」
 タイガーが感心した様子で言った。R&Aは相変わらず人命救助優先で活動しているが、それが終わるや否やスローンズ・モードで駆けつけ、最前線に飛び出してくる、というスタイルである。そしてそれが間に合わなかったというのは、滅多にない。
 またR&Aが飛び出してきたということは怪我人がいなくなったということであり、その安心感もあって、事件の後半でふたりが飛び出してきた時は独特の歓声が上がるようにもなっている。

「……追いかけたけど追いつかなかった、っていうのはカッコ悪いからな。絶対追いつけるって時しか出てこねえようにしてんだよ」
 ライアンが言った。
「なるほど。……しかしそれも凄いですね、あの距離と時間で“追いつける”と判断するのは」
「アンジェラ、道めちゃくちゃ詳しいからなあ」
「道っつっても、道じゃない時もあるけどな……」
「いいじゃねえか、間に合うんだから」
「カメラも惹きつけますしね」
 頷き合っているT&Bに、ライアンは、乾いた笑みを浮かべた。
 相変わらず、現場に向かうスローンズ・モードのエンジェルチェイサーは道ならぬ道を疾走するのが売りだ。塀の上、屋根やビルの上、階段や陸橋も何のその、車の間を縫うように駆け抜け、車線を逆走することも厭わない。
 そのテクニックには日々磨きがかかっており、そのライディングは『エンジェルライディング』と技名のようなものがつけられた。
 それと同時にホワイトアンジェラにはヒーローとしてのファン以外に、ライダーとしての熱狂的なファンがつきはじめている。最近はいくつかの有名なモータース系の会社が是非にとスポンサーに名乗り出て、エンジェルチェイサーに世界最先端の技術を提供したおかげで、エンジェルチェイサーは世界のライダー垂涎の、あらゆる技術を詰め込んだモデルとなっていた。

「で、アンジェラは? あ、いたいた。おーい、アンジェラ」
 きょろきょろと辺りを見回したタイガーが、警察官やパトカー、輸送車の群れの向こうにいる白い姿を見つけた。
 ヒーロースーツがエンジェルチェイサーと一体化した“スローンズ・モード”のホワイトアンジェラは、エンジンをアイドリングさせた状態のまま、なんだかぼんやりとしているようだった。おーい、とワイルドタイガーが再度呼びかけるも、気付かないのか無反応だ。
 皆がバタバタと動き回る中、ひとりだけぽつんと動かないアンジェラがふと俯く。そしてライアンは、見た。彼女が、はあ、と重たげな、疲れたような溜息をつくのを。

「──おい!」

 ライアンの大きな声にホワイトアンジェラがはっと気付き、跳ねるように顔を上げる。
 そして慌ててエンジンを動かし、巨大なチェイサーとは思えないような滑らかな動きで、人々の間をするりと抜けてきた。各社メカニックたちの技術の粋を集めたチェイサーと、彼女のテクニックが成せる動きだ。
「はい、ライアン」
「何ボーッとしてんだ」
「……すみません」
 静かな声で謝るホワイトアンジェラに、ライアンはフェイスガードの奥で眉を顰めた。

「なんだアンジェラ、疲れたか? よっし、飲みに行くか飲みに」
「余計に疲れるようなことをさせないでくださいよ」
「なんだとぉ?」
「あはは」
 恒例のT&Bの漫才に、アンジェラが笑い声を上げる。しかしその笑い声にもどこか張りがない。
「ぜひ行きたいのですが、これからまた仕事があるのです」
「え、この後で? ハードだな」
 心配そうな声で言ったワイルドタイガーに、アンジェラは今度こそ純粋に微笑んだ。

「そんなにハードな内容ではありませんので、大丈夫。タイガー、ありがとう」
「いやいや、礼を言われるこっちゃねえけどよ」
「また、誘って下さい。ブロンズで、皆で楽しく飲みたいです。バーナビーさんも」
「おっ、いいねえ!」
「……貴女がそう言うなら、仕方がないですね」
 大きな笑顔を見せるワイルドタイガーと、苦笑、しかし悪くなさそうな表情をするバーナビーに、彼女もまた微笑み返した。
「じゃあ、また声かけるわ。なるべく大人数でな」
「はい、楽しみにしています」
 ホワイトアンジェラは頷くと、エンジンを噴かした。

「ライアン、行きましょう」
「……おう」
「安全運転します」
 ライアンが乗ったのを確認したホワイトアンジェラは、言われてもいないのにきちんとそう宣言し、そして宣言通り、滑るようにして走り出す。
 曲芸とも言えるようなスーパーライディングテクニックを持つ彼女は、やろうと思えば、赤ん坊が眠ってしまいそうな、揺り籠のような心地の安全運転も朝飯前だった。

「……良かったです、無事に終わって」
 駐車しているポーターに近付いた頃、彼女がぽつりと言った。
「あー」
「ポイントも稼げましたし」
 高い声は、緩やかな風に溶けるようだった。

「やはり、ライアンの言うとおりにするべきですね」

 ライアンは、何も言わなかった。










「なんかあのコ、最近元気なくない? あんたちゃんと面倒見てるんでしょうね」
「……俺があいつの飼い主みたいな言い方やめてくんない?」
「似たようなもんじゃないの」
 腰に手を当てて詰問してくるネイサンに、ライアンは肩をすくめた。
「ま、確かに……。前とは違うな。悪くはねえんだけど」
「けど?」
 ずいと突っ込んでくるネイサンに、ライアンは目を逸らしてノーコメントを貫く。

 あの動植物園の事件から、ガブリエラの態度が変わった。

 ライアンの許可無く無茶をすることはなくなり、指示通りに動く。そして、事件が起きてヒーローとしての仕事をした後が、変化が最も顕著だった。
 今まで彼女は事が終われば、ライアンがいかに格好良かったか、素敵だったかを、興奮しきりにまくし立てた。いうことを聞かずに暴走したことについてライアンがいくら叱っても、「ライアンが格好良かった」とばかり言って話にならず、それでライアンが呆れて諦める、というのがパターンだった。
 しかしライアンの指示を従順なまでに聞くようになった彼女は、違う。

 いつもライアンを気にしている様子はそのままだが、以前のように、姿を見れば後を追いかけて周りをうろうろし、ライアンライアンと話しかけてくることがなくなった。
 彼女は常に僅かな距離を保ちつつ、様子を窺うような態度で、ずっとライアンの側にいる。邪険にしてもにこにこしていたのが嘘のように、ライアンが少しでも気分を害した様子を見せるとすぐさま引っ込んでじっと黙り、恐る恐る機嫌を取ろうとしてくるようになった。
 物言いたげな目をしてくることはあるが、ライアンがなにか言うまで、基本的におとなしくしている。しかしライアンから話しかければ途端に顔を輝かせ、尻尾を振らんばかりに反応する。

 危なげなく取れたポイント、確保された犯人。彼女は自分の健康を保てるカロリーを残してきちんと能力を使って人命救助をし、それが終わればライアンを乗せ、それなりに見栄えのするライディングを披露して歓声を浴びる。
 それは、とても良いことのはずだった。ライアンが望んでいた仕事のやり方。

 ──良かったです、無事に終わって

 ほっとしたようにそう言う彼女は、静かだった。
 そんな彼女の態度ははまるで、主人の斜め後ろのポジションを守って行儀良く散歩する犬のようだ。無駄吠えもしなければ勝手にどこかに行くこともなく、何か命じればそのとおりにする。しかし少しでも構って貰えれば全力で嬉しそうにする、とても良い子ちゃんの犬。
 その態度について、最初はライアンも悪い気はしていなかった。さんざん振り回され困らされた、やりたい放題の犬の躾に成功したような、達成感にも似た気分。

 そして、極々勝手なことに、とさすがに自覚があるのだが、──ライアンは、それがだんだん物足りなくなってきたのである。

「つまり、ビビられているのが気に入らないわけね。自分でビビらせたくせに」
「ぐ……」
「本ッ……当に勝手な男ね。可哀想な天使ちゃん」
 ライアンは、さすがに何も言えなかった。ネイサンは頬に手を当て、はぁ〜あ、とわざとらしいほど盛大なため息をついている。

「っていうか、あれだけタフなメンタルの子をあれだけビビらせてへこませるって、あんた何したのよ」
「別にそこまでひでえことしてねえし……」
 ライアンはぼそぼそと言った。あの動植物園の事件あとのやり取りが原因なのはわかっているが、ライアンとしては、ガブリエラがそこまで気にするとは思っていなかったのだ。
 最後に頭を撫でた時は嬉しそうにしていたし、あの話はそこで終わりだと、そう思っていた。しかし彼女はあれ以来ずっとそのことを引きずって、びくびくした態度のままだ。

「……まあ、何したのかまでは聞かないけど。とにかくあんたね、釣った魚にはちゃんと餌をやりなさいよ」
「釣ってねえ」
 どちらかというと、釣り竿も垂らしていないのに勝手にバケツに飛び込んできた形に近い。そんなことを思いながら、ライアンは不貞腐れたような、そして見ようによってはばつの悪そうな顔になった。

「ん? なんだい、釣りに行くのかい?」

 休憩用ソファで話していたふたりに、たまたま通りがかったキースが話しかけてきた。タオルで汗を拭きながらスポーツドリンクを持ったキースを見て、ライアンは「あー」と唸る。ネイサンが、じろりと横目で見ているのがわかる。

「いや、魚じゃなくて、あー、……犬。犬の話」
「犬! この間の子の話かな!?」
「ああ、うん、そう。その話」
「そうかい、気になっていたんだ。あれからどうなったんだい?」
 目をきらきらさせたキースは、ライアンの隣に座った。向かいに座ったネイサンが、どういうことだといわんばかりの目を向けている。

「あー、うん。躾には成功したっぽいんだけど」
「そうかい、それは良かった! 信頼関係が築けたのだね」
「いや……」
 ライアンがもごもご言うと、キースは不思議そうに首を傾げた。そして、ピンときた、という表情になったネイサンが口を出す。
「聞いてよスカイハイ。この俺様ちゃんってば、ワンちゃんが自分を大好きなのをいいことに「嫌いになるぞ」ってさんざんビビらせて、それでいうこと聞かせたのよ。あんまりじゃない?」
「ぐっ」
 この短い会話で、“犬”が誰を指しているのかということ、ライアンが何をしたのかという概要、そしてキースがどういう認識で話をしているのかということを見事に見抜いた上でのネイサンの発言に、ライアンは潰れたような呻き声を出した。

「……それはいけない」

 低く、静かな声だった。まるで風が凪いだような。

「とてもいけないね。そしていけない」

 そう言ったキースが、真剣な、そしてどこか怒ったような顔をしているので、ふたりは驚いた。
「ゴールデン君」
「お、おう」
「君がそういう態度でその子に接するつもりなら、私は君を応援できない」
 きっぱりと言ったキースに、ライアンは目を丸くした。
「いいかい。犬は主人が大好きな生き物だ」
「……主人じゃねえんだけど」
「そんなことは犬が決めることだよ」
 犬至上主義の問答無用の断言に、ライアンは何も言えなかった。
「彼らの掛け値ない愛情に応えこそすれ、利用するなんて外道のすることだ」
「ぐうっ」
「スカイハイに外道って言われると堪えるわね……」
 胸を押さえたライアンに、ネイサンは多大な同情と、少しばかりの“いい気味”という色が混じった視線を投げた。

「確かに、時に叱ることも必要だ。しかしそれできちんと言うとおりにできたら、たくさん褒めてやらなくては。犬に限ったことじゃない、誰だってきちんとできたら褒められたいものだ。君だってそうだろう」
「……まあ」
 格好いい、素敵、最高、ライアンがいちばんですと、目を潤ませて全力で自分を褒め称えるガブリエラを思い出しつつ、ライアンは目を逸らした。
「犬は主人が大好きだ。そしていつだって、主人の役に立ちたいと思っている」

 ──私はサポート特化ヒーローです
 ──つまりゴールデンライアンのサポートを全力で行うのが私の仕事
 ──不満どころか、光栄です


 はっきりと、凛として、誇らしげとも言える態度で、彼女はそう言っていた。

「そして今その子が怖がっているのは、叱られることではない。君に嫌われることさ」
「は?」
「スカイハイの言うとおりよ」
 重々しい声で、ネイサンが言った。
「愛した相手に愛してもらいたいのは、当然のことよね。そのために努力もするし、相手に見て欲しくて、気を引きたくて色々する。でも全然褒めてもらえなかったりして自信を失うと、せめて嫌われたくないと思うようになる。それで怯えて萎縮して、とにかく邪魔にならないようにと消極的になるのよ」
「とても可哀想なことだ」
 痛ましさをこれでもかと滲ませて、キースはゆっくりと首を振った。

「いいかい、ゴールデン君。一刻も早くその犬を褒めて、可愛がってやるんだ。頑張った子にはご褒美をあげなければ。そうだろう?」
「あら、いいわねご褒美。きっと喜ぶわよ」
 ナイスアイデアだわ、と、ネイサンが数度頷きつつ微笑んだ。
「そうだとも。ああ、ひとつアドバイスをしよう。ペットシーツを持って行くといい」
「……ペットシーツ?」
 ライアンが首を傾げると、キースは「そう」と頷いた。
「褒められ慣れていない子は、嬉しすぎておしっこを漏らすことがある。うれションというやつだ」
「……いや、うん、それはねえんじゃねえかな……」
「いいやそんなことはない。じゅうぶんにあり得ることだ」
 ライアンの犬が本当に犬だと思っているキースは、きっぱり断言した。

「愛されなかった犬がどんなに悲しい運命を辿るか、君は知らないようだね」
 キースは、厳しい顔で言った。
「仕方がない。非常に荒療治だが、私も心を鬼にしよう」
「え、何?」
「ちょっと何する気なの、スカイハイ」
 何事だと怪訝な顔をするふたりに対し、キースは苦渋の決断と言わんばかりの顔で、プライベート用の通信端末を操作した。数秒して、ポン、とライアンの端末から通知音が鳴る。
「……何このファイル。動画?」
「帰ったら観るといい。もう決して犬に冷たく当たろうなどとは思わないはずだ」
 キースの目は潤んでいる。彼は手の甲でぐしぐしと目元をこすると、ソファから立ち上がった。

「君とその犬の幸せを祈っている。そして祈っている」

 キースはそう言って背を向けると、ダッと走りだした。きらりと光って飛び散ったひとつぶの涙が床に落ちる。
 ふたりは、呆然とそれを見送った。明日も会うどころか、この後トレーニングルームに戻るのだから嫌でも顔を合わせるのだがなあ、と思いつつ。

「……まあ」

 ネイサンが、仕切り直すように言った。
「アタシも最近新規事業で忙しいから、あのコにつきっきりとはいかないのよ。メールとか電話はちょこちょこしてるけど」
 ヘリオスエナジーは、最近電気自動車の普及率が急に上がってきたことに対応し、新しいタイプの充電スタンドを運用することを決定した。オーナーであるネイサンも、そのことで非常に忙しい毎日を送っている。
「ご褒美をあげることについては、私も賛成よ。たまには何かしてあげなさいよ、プレゼント選ぶのは得意でしょ」
「まあ、……おう、わかった」
「アラ素直じゃないの。さすがに罪悪感があるのかしら」
 皮肉ったネイサンに、ライアンは答えなかった。肯定の意味になる、ということを理解した上で。
「とにかく、これ以上泣かすんじゃないわよ」
「了解了解。……ウェルダンにはなりたくねえし」
「わかってるならいいのよ」
 女神様は満足そうに頷いて、スーパーモデルのように腰から歩きながら去っていった。










 ガブリエラは、ぼんやりと祭壇を見上げている。

 格好は、ヒーロースーツのままだ。
 その視線の先にあるのは、天使と聖女の彫刻。詳しい制作背景もわからない程の過去に作られた本物は遠い国にあるそうで、ここにあるのはレプリカ。だが最新鋭技術によって見事に再現されたそれは、美しいステンドグラスに彩られた教会の祭壇に祀られるに相応しく、見事なものだ。
 膝からくったりと崩れ落ちる聖女と、笑みを浮かべた天使。天使は黄金に燃える槍でもって、聖女を貫こうとしている。聖女が浮かべるのは、激しい痛みに耐える苦悶の表情であり、その痛みを神の愛撫であると理解した上での、絶対的な幸福と恍惚に満ちた表情でもある。

 ──それは、法悦の様。

 神を信じ、感じることによって湧き上がる喜び。法喜。うっとりするようなとか、忘我、もしくははっきり“ecstasy”とも辞書に記載されている。
 学のないガブリエラも、この彫刻を見ると理解できる。与えられるのが星への導きであろうと手足をもがれる罰であろうと、感じるのは、ただただ愛する相手に与えられたものを歓ぶ絶頂だけなのだということを。

 愛せよ、愛せよと、聖典にはひたすらに書いてある。
 石を投げられても神の試練、痛みすら愛せというその教えを、ガブリエラは鵜呑みにしているわけではない。
 なぜならこの彫像のタイトルは、『私は選ばれた』という。
 あらゆる人に分け隔てなくと教えながら、ああして天使にたったひとり選ばれて悦ぶ女の像を祭壇に飾っている〇〇教はある意味自分と共通しているところがある、とガブリエラは内心思っていたし、だからこそあの像が好きだし、神の存在に興味を持てない割に、この宗教が嫌いにはなれない。

(私も、ああなりたい)

 うっとりと、憧れをもって、ガブリエラは彫像を見上げる。
 黄金の槍に貫かれようとしている聖女は、くったりと脱力しているようにも、最後の力を振り絞ろうとなけなしの力を込めているようにも見える。そしてその表情は、眉を顰めた苦悶の表情──なのかもしれない。しかしガブリエラには、それがとんでもない歓びに耐えかねているようにしか見えなかった。
 黄金の槍を持った天使に貫かれ、痛みと愛の中で悶える聖女。愛する相手と思いを込めたキスができれば死んでもいいのだと言った、砂の街の哀れな娼婦。善行を重ねれば天使が星へ導いてくれるのだと信じて、子供を見もせず神に祈りを捧げる母。
 彼女たちは、なんと幸せそうなのだろうか。羨ましい。妬け付く胸を掻き毟りたくなるほどに。

 最初は、天使を見つけることが出来れば、──愛する者ができさえすれば、幸せになれるのだと思っていた。
 心から愛し、他には何もいらないと思えるほどの存在があれば、痛みも苦しみも、悦びのうちになる。幸福のうちに生き、そして幸福のうちに死ぬのだと、彼女たちのようになるのだと、ガブリエラはそう思っていた。

 ──しかしあの夜、ガブリエラはキスを拒んだ。拒んでしまった。

 あの夜、愛する彼が自分を愛していないのならばと、ガブリエラはキスを拒んだ。しかし今、ガブリエラはそのことを後悔するべきかどうか、悩んでいる。愛しているなら、愛のないキスをも受け入れるべきだったか。身体だけでもいい、と言うべきだったのかと。
 少なくとも教会で考えるようなことではないということも思いつつ、ガブリエラは彫像を見上げた。忘我の表情を浮かべる聖女は、間違いなく、絶対的に、天使を愛している。──しかし、天使は?

 愛する者からの痛みに悦びを覚える気持ちは、重々に理解できる。実際に、ガブリエラも嬉しかった。彼が燃えるような金の目で正面から自分を睨み、この馬鹿、犬めと罵る度に、ガブリエラはぞくぞくした。
 しかし彼を心の底から愛していると気付いたあの夜、ガブリエラに湧き上がったのは、ただただ彼を愛し、許し、受け入れる気持ちだけではなかった。自分だけを見て欲しい、優しくされたい、──愛されたい。

 与えられるものが、星でも、罰でも、どちらでもいい。痛みでも、苦しみでもいい。
 しかしその全てが、己への愛によるものであって欲しい。学の足りない頭で、ガブリエラは自分がそう望んでいることを、最近自覚した。

 愛することは簡単だ。なぜなら心が感じるままにすればいいだけだから。愛する彼のすることをただただ受け入れるのは、容易い。ガブリエラは彼のためならなんでもできるし、そこに躊躇いはない。
 彼が自分だけのために発する怒鳴り声、罵声を、ガブリエラは、悦びをもって受け止めてきた。ああやはり貴方は格好いい、素敵だ、いちばんだと、貧困な語彙を使って出来うる限りに褒め称えた。
 こうしていればいつか優しくしてもらえるのだ、そのうち愛してもらえるのだと、本当に馬鹿のように考えていた、と今になって彼女は思う。

 だが、あの動植物園の事件後のやり取り以降、ガブリエラは頭を殴られたようなショックを受けることになった。
 呆れ果てたように、まさに“かける言葉も見つからない”とばかりに目を合わせてもくれないライアンを思い出すたび、ガブリエラは心臓が潰れるような気持ちになる。

 ──ああ、私はこんなに愛しているけれど、彼はまるでそうではない。

 まざまざと突きつけられたその事実に、ガブリエラは恐怖した。
 彼が自分を怒鳴りつけるのを喜んでいたが、そうしてもらえるうちが花だったのだと、ガブリエラは理解した。
 そして、どれだけ想いを捧げても彼が自分を見ないのならば、この愛に意味はあるのだろうかと、ガブリエラは疑問を持ったのだ。

 以降、ガブリエラは必死になった。
 愛されなくても、せめて嫌われないように。役に立たなくても、邪魔にはならないように。気を張り詰めて、彼の機嫌を損ねないように努力した。
 それは、とてもつらいことだった。ただただ彼を愛している気持ちに溺れていた頃は、せつなくはあるが幸福で、活力に満ちていて、ライアンが放つきらきらしたものをただうっとりと眺めていられた。
 だが今は、きらきらしているのは彼ばかりで、自分は暗くてどうでもいいところにいる、そんな気持ちだった。彼の輝きを損ねないように必死になりつつも、だんだん、自分のようなものが近付くだけであの輝きを損ねてしまうのではないかという、惨めな思いすら湧き上がってくる。

 ──愛する人に、愛されたい。

 それは恋だと、女神のような人は言う。
 しかし、どうすればいいのかわからない。胸の内側が、焦げていく。

「熱心ですね。アンジェラ」
 そう声をかけてきたのは、穏やかそうな初老の女性だった。修道服に身を包んだ姿が、彼女がシスターであることを示している。
「先生がいらっしゃったようですよ。皆も揃っています」
「わざわざ呼びに来て下さったのですか。ありがとうございます」
「お安いご用ですよ」
 やや茶目っ気のある様子で言ったシスターは、にこにこした。全く裏のないその笑顔に、ガブリエラもつられて笑みを浮かべる。少し救われたような気になった。

 このシスターや教会の人々はガブリエラがホワイトアンジェラであることを知らないが、この彫像を見に、ガブリエラは何度か素顔のままこの教会に来たことがある。アンジェラ、というのは洗礼名でもあるので、素顔のままアンジェラと名乗ってもいる。
 その上、ガブリエラの声は非常に特徴的だ。だから薄々気付かれてはいるだろうが、ガブリエラは例によって生来の勘で、この教会の人々が軽率に秘密を漏らしたりしない人々であると理解していた。

「非常に楽しみにしています。ゴールデンライアンは、本当に良い思いつきをされました」
「ええ、そうですね」
 ガブリエラは、微笑んだ。人目につく、口元だけで。

「彼の言うことは、いつも正しいのです」

 だからひとまずはこれで良いのだと、ガブリエラは、幸せそうな聖女に背を向けた。
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作中の彫刻の元ネタはジャン・ロレンツォ・ベルニーニの『聖テレジアの法悦』と『福者ルドヴィカ・アルベルトーニ』。主に前者です。興味があったらググってみてください。
BY 餡子郎
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