#029
──シュテルンビルトも、もうすっかり秋の様相になった。
《おおっとォ──ッ! ここでR&Aッ! エンジェルライディングで登場ッ!!》
HERO TVの、マリオの実況が響き渡る。彼がいるヘリからの空撮映像で、ゴールデンライアンが乗った、スローンズ・モードのホワイトアンジェラが駆る真っ白なチェイサーの走りが映し出されると、モニタ前の人々が湧いた。
「あーッ! もう救助終わったの!?」
同じくチェイサーで追いかけるも、直線距離をせいぜい規定速度をやや超えるくらいの速度で走っているブルーローズが、悔しげな声を出す。
すっかりコンビとして認識されるようになり、そして本人たちもそれを否定しなくなったゴールデンライアンとホワイトアンジェラ──R&Aは、基本的には人命救助を主とし、しかしそれが必要なくなると、すぐさまスローンズ・モードになったホワイトアンジェラにライアンが跨って犯人を追いかける、というスタイルで活動するようになっていた。
救助活動を優先しつつ、しかしいざ犯人確保に動けば刺激的なエンジェルライディングと疾走しながらの派手な重力操作による大規模確保を見せるR&Aは、熱狂的なファンを着実に増やしていた。
「ああ〜、これはもう追いつけぬでござるなあ……」
「アンジェラに追いつけるわけないよ!」
頭に手を当てる折紙サイクロンと、「もう!」と悔しげな声を出すドラゴンキッド。他の面々も、「こりゃ見せ場取られたな」と言いつつ、しかし追いかけないわけにも行かないので、それぞれ犯人の逃走ルートをなぞっていく。
「そうはいかない! 空は私の領域だ!」
《ここでスカイハイも登場だ! 空路のスカイハイ、陸路のR&A! どちらが犯人を確保するのか!?》
マリオの実況通り、宝石博覧会会場から強奪した宝石類を積みこんでバラバラに逃げ惑っていた複数台の小型車は、すぐ後ろからエンジェルチェイサー、空からスカイハイが上下の挟み撃ちのような状態にしようとしつつある。もはや犯人にとっては絶望的な様相だからこそ、マリオの実況も、ややエンターテイメントに偏り始めていた。
「むむむ、ちょろちょろと!」
《しかしスカイハイ、細かく動く小型車の群れに戸惑っています! 一気に風で巻き上げることは出来ないのか!?》
「空中でぶつかり合って、犯人が死んでしまってはいけないからね!」
スカイハイが、実況に対して律儀に返答する。
──ヒーローには、いかなる場合も、犯人を殺害する許可は与えられない。
つまり、警官がやむなく犯人に発砲するような行為を、ヒーローは一切できないのだ。
過失致死であっても厳重に法が適用され、だからこそヒーローは、被害者や市民たちとともに犯人の命をも守れるほどの実力者で無くてはならない。
そのために厳しいNEXT能力検査や、ヒーロー免許の取得制度が設けられている。このようにヒーローに生殺与奪権が一切与えられていないからこそ、アルバート・マーベリックはヒーローという職業を成立させることが出来た、ともいわれている。
かつては化物、魔女、人間ではないともみなされかけていたNEXTの中でも最強の存在、ヒーロー。彼らに命を奪う権利を一切与えなかったからこそ、彼らは何をするかわからない化け物ではなく、強大な力を持つスーパーマンとして受け入れられることが出来たのだと。
しかし現在になって、人々を脅かす犯罪者よりもヒーローのほうが常に分が悪いという状況は正しくないとして、ヒーローに警察と同じような許可制の生殺与奪権を与えるべきという派閥も出てきた。
だが同時に、ただでさえ危険なNEXT能力者、しかもヒーローになれるような巨大な能力の持ち主に生命を左右する許可を与えるなど危険過ぎる、という従来の派閥も強固に存在し、NEXT差別問題も絡みあい、現在も複雑な社会的論争が繰り広げられている。
閑話休題。
要するに、やわな小型軽自動車を一気に風で捲き上げて、空中でぶつかり合って犯人たちを車ごとミンチにしないように、スカイハイは能力を使えず、もどかしく手をこまねいているというわけだ。
「1、2、……手前8台ってとこか。いけるか?」
「当然です」
耳元で囁かれたライアンの声に、ホワイトアンジェラは、はっきりと歓喜の表情を浮かべた。さあ獲物に食らいつけと主人に命じられた、猟犬のような笑み。
「──ふふ」
「どっ、どォ──ん!」
恍惚の滲んだ美しい笑い声とともに、アクセルが全開になる。同時にライアンが最近付け足された彼専用のハンドルを掴み、能力を発動した。
──キュアッ、ギャギャギャギャギャギャ!!
《おおおおおおおおッ!! こ、これは凄いっ!! R&A、スーパーライディングと重力操作の合わせ技で、逃走車8台を一網打尽──ッ!!》
興奮しきったマリオの実況が、大きく響く。
ちょろちょろと逃げ惑う小型車の間を、200km/h以上の速度の中、間違いなくコンマ単位でハンドルを切って、白い軌跡が縫うように駆け抜けたのだ。そして乗っている犯人を潰さず、しかし軽自動車の柔らかい装甲が潰れ走行不可能となる絶妙な重力操作で、チェイサーの走行経路と、それに伴うライアンの能力範囲に入った車は全滅、一挙に走行不可能となった。
しかもドアや天井が潰れているので、犯人は車から出ることも出来ない。確保とみなされ、かなりの犯人確保ポイントがゴールデンライアンに入る。直接確保を行ったのは彼の能力だからだ。そしてそれに伴い、アンジェラにサポートポイントが加算された。
この差異に不満を感じないのか、と先日行われたインタビューで尋ねられたアンジェラは、はっきりと「私はサポート特化ヒーローです。つまりゴールデンライアンのサポートを全力で行うのが私の仕事。不満どころか光栄です」と答えている。
「──ハッハァ! よォし、よくやった! ポイント大量ォ! 次行くぜ!」
「はい、ライアン」
自分に覆い被さった姿勢で己を褒め、獲物を追い詰める猛獣のように好戦的に吼えたライアンに、ホワイトアンジェラはうっとりした声を返す。
「やるな! しかし私も負けてはいない! 負けてはいないぞ!」
《おおっ、スカイハイも速度を上げた!》
ジェットパックを噴射し、スカイハイがもっと先を走っている3台の車を追いかける。少し毛色の違うそれらは、宝石博覧会の目玉、大昔に某王国の王妃が身に着けていた王冠、宝杖、首飾りがそれぞれ積み込まれている。
あらかじめどれかが生き残るように取り決めている、と明らかになっている強盗団は、ヒーローを撹乱させるように散り散りになっていた。先ほどの8台のように内々で結託して固まっている者もいたようだが、強盗団のトップでもあるメンバーが乗った3台は、それぞれの道を分かつつもりらしい。三叉路に突入した途端、ばらばらの方向に走っていく。
「くっ、仕方がない! ──スカァーイ、ハァーイッ!!」
「チ……、左、行け!」
三叉路の右に進んだ車を追いかけたスカイハイと、左の車を追いかけるエンジェルチェイサー。右の車はすぐに風に巻き上げられ、亀のようにひっくり返されて走行不可能、同時に犯人確保となり、スカイハイにポイントが入った。KOHの面目躍如! と、マリオの実況が入る。
「どっ、どぉ──んッ!」
そしてこちらも、車を追い抜くようにして潰し、ゴールデンライアンに確保ポイント、ホワイトアンジェラにサポートポイントが入る。
《さあっ、残るは1台、──あああっ、なんと犯人自棄になったかっ、──いや違います! 海側に小型の船舶! 仲間でしょうか、道路から跳んであれに乗るつもりか!? しかしスカイハイなら追いかけられるっ!》
「任せたまえ!」
道路を真っすぐ進んだ先、港に着いている小型船舶。進んだ先のガードレールを突き破り、直線に飛べば確かにそこに乗ることが出来るだろう。相当のドライビング・テクニックが必要そうだが、ヒーローたちからただ1台逃げ切ったあのドライバーなら、できてもおかしくはない。
「あー、ラストはスカイハイだな……、って、おい……おい!」
三叉路を経て立体交差になった道路で、真ん中の道を進み逃走する車を追いかけるスカイハイの姿を眺めていたライアンは、徐行して止まるどころかスピードを増すチェイサーに、鋭く声を上げた。
しかし、チェイサーは、止まらない。
「ああああああ、この、馬鹿!!」
アドレナリンジャンキーめ、止まれ、やめろ、クソッタレ。そんな罵声をアンジェラの耳元で叫びながら、ライアンは細い腰を掴んだ。しかし返ってくるのは、恍惚に濡れた、震えるような吐息だけだ。
「──ふふ」
鈴が鳴るような可憐な笑い声とともに、チェイサーが空を駆ける。
立体交差の道路の塀を力技で登ったチェイサーは、そのまま、眼下にある、真ん中の車が逃げた道路、ガードレールを突き破って跳んだ犯人の車に、空中でぶつかるようにして落ちていった。
「クッソオオオオ!!」
ライアンが、能力を発動させる。空中で発動されたそれは、球状の力場になった。
実はライアンの能力は単なる重力操作というより、球状の強力な磁場、すなわちブラックホールを発現させる能力に近い。重力で全てを喰らい尽くす、星の成れの果て。
そしてそのブラックホールが、まるで星を飲み込むように、眼下の車両とエンジェルチェイサーを吸い寄せる。そして車の屋根とエンジェルチェイサーのタイヤが空中で磁石のようにくっついた瞬間、地面に近付いたせいで下方向に定まった重力が働いた。
──グワッ、シャアン!
船の上で、車がチェイサーの重みだけで潰れ、船が大きく揺れた。盛大な水飛沫が上がり、犯人の仲間である乗組員たちが悲鳴を上げる。
「あー、クソ!」
すぐに重力場を広げたライアンのおかげで、船全体が重力場となり、犯人たちは海に落ちることなく、そして動けないまま甲板や手すりに叩きつけられた。
「オラ確保ォ!!」
車の上のチェイサーを飛び降りたライアンが、船に叩きつけられてふらふらしている犯人たちを手際よく昏倒させていく。犯人確保のポイントが、次々にライアンに入った。
《今日のMVPは間違いなくR&Aッ! 本日も刺激的なライディングでした!》
それではまた! とマリオが実況を締め、HERO TVのロゴがスイッチングされる。中継車の中で、アニエスがガッツポーズをした。
「ああ、ライアン、素敵です。やはりあなたが世界いち……」
そして、犯人の車の上のチェイサーに跨ったままのホワイトアンジェラは、犯人をまとめて縛り上げたライアンを、うっとりした様子で眺めていた。
「──で?」
「申し訳ありません。反省しています」
仁王立ちで腕を組んでいるゴールデンライアンの前に、ホワイトアンジェラが正座で座り込んでいる。
元々大柄な上、装飾が多いヒーロースーツに羽根まで付いているために一般人からすると巨人のようなゴールデンライアンに対し、極度に細身で、どちらかというとぴったりと肌に沿うようなラインをしたスーツのホワイトアンジェラが並ぶと、かなりの体格差がある。
更にその上でライアンが立ち、アンジェラが正座していると、まさにその有様は巨大な獅子と幼気な小動物そのものである。
「その台詞何回聞いたかわかんねえんだけど!? なんでお前は“GO”は聞けるのに“WAIT”が全然できねえんだ! 犬でも出来るのに!」
「ええ〜」
「ええ〜じゃねえよ!」
もはや定型文になりつつあるやりとりとともに、ライアンが地面をガンと踏み鳴らした。彼女の細い肩がびくりと震えるが、よく見れば、唯一見えている口元には、僅かに笑みが浮かんでいる。最近の表現を用いれば、“テヘペロ”とでもいうような。
「またアンジェラがライアンに怒られてんぞ」
「なんかもう最近の名物だな」
撤収するワイルドタイガーとロックバイソンが、少し遠くからふたりを眺め、のんびりと言った。他の面々やスタッフも同様で、最初の頃は「まあまあ」と諌めていた顔ぶれも、今や「またか」という慣れた様子で見守っているだけだ。
「反省してるって、実際全然してねえだろ! 何回同じことやってんだ、ァア!?」
「申し訳ありません、つい興奮してしまいました」
「このドM」
「えへ」
地を這うようなライアンの罵りに、アンジェラは、かわいらしく小首を傾げ、ライアンを見上げた。肌が白く、そしてヒーロースーツで唯一の生身の部位であるだけに、薄いが赤い唇が目立つ。
その様子を見て、ライアンは、ヒーロースーツの下でこめかみに青筋を浮かべた。
「──イライラすんだよお前は!」
「申し訳ありません」
「ああああイライラする……!」
「2度も」
「なんでちょっと嬉しそうなんだこの馬鹿!」
笑っているアンジェラに、ライアンは怒鳴った。
ちなみに2度言ったのは、自分はイライラしているのであって決してムラムラしているわけではない、と自分に言い聞かせるためでもあったが、それはライアンしか知らないことだ。
「はい、なぜなら今日のライアンも格好良かったのでです。素敵でした」
「俺がイケてんのなんかただの世界の常識だろうが。もっと気の利いたこと言え」
「おっしゃるとおりです。勉強しておきます」
このあたり、双方本気で言っているだけに呆れるしかない。ガミガミ怒鳴りながらもこういうやり取りが混ざっているので、もう皆口を挟まなくなったのだ。ネイサンの、「ただのバカップルじゃないの」という評価とともに。
「今日は、私たちのシーンで瞬間視聴率が60パーセントを超えたので、アニエスさんがライアンの過去映像を下さるのです。とても嬉しいです」
「何だその裏取引……。……おい、だから今日無茶したのか!?」
「え? いえ、8台抜きの所でもう“60パーセント超えよ!”と通信が入りました。しかし少し物足りなかったですし、あの車が飛んだので何かこう、負けるかという気持ちが」
「なお悪いわ! 勝手なことしやがってこの馬鹿犬!」
「わん」
可愛い声で言ってくりんと首を傾げた彼女に、ライアンは歯の隙間から絞り出すようにして、再度「イッライラする……!」と唸った。──自分に言い聞かせるような様子で。
「頂ける映像はですね、なんと、編集前のものなのですよ。編集前、カットなし。レア!」
「……あっそう。良かったな」
「はい」
にこにこしている彼女に急に毒気を抜かれ、ライアンの肩がどっと落ちる。
「あー、もー。もういい、スカイハイに謝りに行くぞ」
ヒーロー活動中の行動規定として、他のヒーローの行動を妨害してはならない、というものがある。
今回はそれに触れたわけではないが、明らかにスカイハイが追っていた犯人を横取りした形になるし、何より位置関係的にスカイハイを重力場に巻き込んでいた可能性がなくもないわけであるから、ひとこと声をかけるのが筋だ、というのがライアンの認識だった。
「はい、それはもう。ライアンはこういうところがしっかりしていますね」
「その辺ちゃんとしとかねーと、アンチが沸いて干されるぞ」
「気をつけます」
「よし立て」
「はい」
頷いたホワイトアンジェラは、立ち上がった途端によろけた。
「……何やってんだ」
「脚が痺れました……」
「バーカ」
呆れた声に、生まれたての子馬のようになっているアンジェラが「うう」と唸る。
「ライアンが“正座!”と言ったのではないですか……」
「それでマジで野外の地面に正座したのはお前だけどな」
「ふふふ、ひどい」
「喜んでんじゃねえ。おら行くぞ」
ホワイトアンジェラはライアンが差し出した腕に飛びつくと、半ば彼に引きずられるようにして、ポセイドンラインのポーターのほうに歩いて行った。
「そんなわけで、この馬鹿が悪かった」
「申し訳ありませんでした」
ホワイトアンジェラの頭を押さえつけて下げさせるライアンと、そうされつつも実際は自主的に頭を下げている彼女に、スカイハイは少し驚いたようだった。
「おや、これはわざわざ。気にしないでくれたまえ! 確かに驚いたが」
「下手したら巻き込みかねなかったからな」
「うん? いや、それは多分ないよ」
あっさり、そして断言したスカイハイに、ライアンは怪訝な顔をする。
「空中での距離感を把握するには、特別な感覚が必要になる。私には元々多少才能があったが、訓練で更に身につけた。しかし乗り物の運転の才能がある人は例外なく、そういう空間把握能力がとても高い。ワイルド君も、運転は上手いほうだろう? 彼のワイヤー捌きはかなりのものだ」
「ああ……、それは、確かに」
ハンドレッドパワーなしでも、ワイヤーを使ってビルとビルの間を縦横無尽に駆け抜けたり、空中の敵を捕まえることにも長けているワイルドタイガーの熟練の技術は、必殺技というわけではないが「あの技がシブいんだ」とファンに絶賛されているもののひとつである。
「アンジェラ君もそうだ。彼女はあそこからチェイサーで跳んで、同じくガードレールを突き破った車の空中での位置、私の位置、そしてゴールデン君、君の能力の発動範囲、全て計算していたよ。彼女は車にも詳しいから、チェイサーの重みで軽自動車がどれぐらい潰れるかもわかっていただろう」
スカイハイのその言葉にライアンは驚き、眼下のガブリエラを見た。
「そうだろう、アンジェラ君?」
「はあ。なんとなくここなら大丈夫、というのはありました」
「感覚的なんだね。君ならちゃんと訓練すれば、戦闘機も操縦できるかもしれないよ」
「やめてくれ」
ライアンは、真顔で首を振った。300km/hでもこの有様なのに、空を翔ける音速を与えてしまったら、それはもう凄まじいドッグ・ファイトを繰り広げることだろう。考えたくもない。
「そうかい? ちなみに私は三次元空間把握能力は高いのだがそれ以外はサッパリでね、自分で飛ぶのは得意だが、マシンの運転操作はあまり……」
電車に乗るほうが好きだな、と自社アピールを計算しているようでその実ただの素であろう発言をしたスカイハイに、ライアンはもう“自分で飛ぶのが得意”という人間自体あまりいない、というツッコミは放棄した。
「それで、私に話とは何かな? ゴールデン君」
ポセイドンラインのロゴのついた、スカイハイのポーターの中。マスクを取ったスカイハイ──キースは、輝くような笑顔で言った。
「先輩として! 精一杯のことを! させて貰うとも! させて貰うさ!」
その嬉しそうな様子に、ライアンは苦笑する。ヒーローの先輩としてのアドバイスが欲しいんだけど、と切り出したのはライアンだが、ここまでテンション高く喜ばれるとは。ちなみに、アンジェラ──ガブリエラは、ボディガードチームの“アークエンジェル”をつけて、アスクレピオスのポーターに帰した。「あとで飯連れてってやるから」というご褒美で釣って。
「ところで、あんたなんで俺のこと“ゴールデン君”って呼ぶわけ?」
「あっ、不快だったかな。すまない」
「いや別にいいんだけど、フツーはライアンのほうじゃねえかなって」
「うっ。ええと、実はその、私は個人的に、“ゴールデン”という言葉にひどく親しみがあるものだから……」
ばつが悪そうに、キースは言った。察しの良いライアンは、彼の愛犬が愛嬌たっぷりのゴールデン・レトリバーであったことを思い出し、ああ、と頷いた。
「それなら別に構わねえよ。親しみが湧くのに越したことねえし」
「そう言ってもらえると嬉しい! そして嬉しい!」
「それでその、えーと」
どう切り出したものか、とライアンは彼には珍しく言葉を迷った。
脳裏に浮かぶのは、白い三角の犬耳をピンと立てて目の前で正座する姿や、きらきらとした目で見上げてくる顔、きょとんと首を傾げる姿。
「……そう、犬だ。犬の話なんだけど」
ライアンがやや目を逸らしつつそう言うと、キースは、更に輝くような笑みを浮かべた。
「犬の話かい!? それなら任せてくれたまえ!」
「あー、うん」
「もしかして、犬を飼う予定が?」
「……迷ってる感じ?」
満面の笑みのキースとは対象的に、どこか薄暗い半笑いを浮かべながら、ライアンはぼそぼそと言った。
「なんつーか、えーと、本格的に飼うかどうか迷ってるっていうか、飼うにしたって躾が上手く行かなさそうで気が重いっつーか」
「なるほど、気持ちはわからなくもない。何しろ犬は非常にエネルギッシュな生き物だからね。躾に失敗すると、後々苦労する。……私もそうだが」
キースは、照れたような苦笑を浮かべた。
「ジョンはとてもいい子だが、つい私が甘やかしてしまって、我慢が効かないところが少し、いやもう少し、うーん」
「……そういう時、どうすんの?」
「プロの調教師に預けることも考えたのだけど」
キースのその言葉に、ライアンの表情が微妙なものになった。「プロってどういうプロになるんだ……姐さんに預けりゃいいのか……?」という、ごく小さな呟きとともに。
「でも、やはり私の犬だからね。ちゃんと私が責任をもって躾をして、その上でいい子だと褒めてやりたいだろう?」
「あー……、うん、まあ、そうだな」
「でも、躾といっても難しい、そして難しい。何しろ言葉が伝わらないし」
当時の苦労を思い出しているのか、キースが遠い目をして、ゆっくりと首を振る。そしてライアンは、言葉は通じるはずだってのに、なんで犬と同じぐらいどうにもならねえんだろうなあと思いつつ、キースと同じような顔をした。
「私は当時、途方に暮れていたよ。彼は常に好き放題で、私が叱っても全然言うことをきかないんだ。いや、叱った時はそれなりに神妙にするんだが、3秒後にはまたガシャーン! だ」
「わかる」
ライアンは、重々しく頷いた。
「すげえわかる」
「むむ、2度言うほどわかるかい。よほどだね」
キースもまた、深刻な顔で頷く。
「叱りつけても効果がねえもんだから餌で釣るのもしてみたんだが、それはそれで調子こきやがるし……」
ライアンは先ほど、先にポーターに帰れと命令すると「ええ〜」と不満げにしたが、後で飯に連れてってやると言った途端にスキップせんばかりの様子で戻っていった彼女を思い出し、ため息をついた。
「そのとおりだよ。私もそれは経験した。そして結局ジャーキーだけ取られるんだ……家の中は嵐が起きたようになったままだというのに。後には疲れ果てた私がいるだけさ」
「わかる」
ライアンは、また頷いた。
「しかし、私はある日気付いた。悪いのは彼ではなく、私だったのだと」
「──は?」
ライアンが目を丸くすると、キースは苦笑した。
「その日は、仕事が少し長引いてね。遅めに帰ると、家の中はまだ少し子犬だったジョンのおかげで、余すところなくグチャグチャになっていたよ。私が朝出かける時の姿のままだったところなんて、ひとつもなかったね」
「うわあ……」
「叱らなければ、と思ったんだが」
懐かしそうな目をして、キースは続けた。
「その日の仕事はかなりの重労働で、私はヘトヘトだった。その上、帰ったら家の中はこの有様だ。なんだかもう、どっと疲れてしまってね。玄関先で座り込んでしまった。もう何もしたくない、という気分で」
まあそうだろうな、とライアンは易々と想像のつくその状況に頷いた。自分が同じ立場でもそうする、と。
「でもその時、ジョンの反応がいつもと違ったんだ」
キースは、目を細めた。蕩けるような、愛おしそうな目だった。
「いつも真っ先に叱ってくる私が、何も言わずに座り込んでしまったからだろうね。最初は不思議そうにしていて、次第にきゅんきゅん鳴き始めた。そして私の周りをうろうろして、私がいくら教えてもやらなかったお座りをしてみせたり、自分がひっくり返したものを鼻先で持ち上げて元に戻そうとしたんだ」
「……へえ」
「その時、私は気付いたんだ。彼は決して聞き分けのない、お馬鹿な犬ではないのだと」
「いやその様子なら、相当賢いだろ。自分のやったことがわかってるんだから」
「そう、そのとおりだ。彼は全部理解している。理解した上でやっていたんだ」
キースは、少し興奮した声で言った。
「彼はこう思っていた。おいたをすれば、私が構ってくれる。それが叱る声でも」
「……ああ」
「私はその頃初めてKOHになって間もなく、とても忙しかった。ジョンとちゃんと遊んでやったことなど、指で数えられるほどしかなかった。遊びたい盛りの子犬だったのに、忙しくて構ってやれないならせめて飼い主の責任を果たさなければと、躾ばかりを施そうとしていたんだ」
可哀想なことをした、と、キースは本当に心を痛めている様子だった。
「彼にとって、叱られることは、私に構ってもらえる手段のひとつになっていた。だから全力で家の中をひっくり返す。そうすれば私が反応するからね。“ジョン! いけない子だ!”って。その度に顔を輝かせるジョンにそれまで呆れていたが、彼はただ嬉しかったんだ。名前を呼んで構ってもらえる。自分のことを意識してもらえるから」
「それは……」
「たまらなく、可愛いだろう? 私はその時立ち上がれなくなった」
キースは、顔を歪めた。泣きそうでもあり、にやけそうでもあるような、言葉通りたまらない、という表情だった。
「きゅんきゅん鳴いて、蹲って震える私を何とかしようとするジョンは、まさに天使のようだった。胸が締め付けられたよ」
「……おう」
「結局私はその時、すまなかったとおいおい泣いて、ジョンを抱きしめて寝たよ。部屋なんか後で片付ければいいんだ、何ならいいハウスキーパーを雇うことにしよう、稼げるようになったんだから、と開き直って」
キースは、茶目っ気たっぷりに肩を竦めた。
「ジョンはとても暖かくて、久しぶりにぐっすり寝られたよ。あれ以来、今でも寝るときはジョンと一緒だ」
ちなみにその後、キースは犬好きなハウスキーパーを雇い、会社に相談して定期的に休みを取るようにし、休日はジョンと一緒に過ごすようにした。ちゃんと遊んで貰えるようになったジョンは、やっていいことといけないことをだんだんと理解し、今では少しおおらか過ぎるところもあるものの、愛嬌たっぷりのいい子になっているという。
「大事なのは、ちゃんと名前を呼んで、構ってあげること。君のことをちゃんと考えているんだ、──愛しているんだ、と示してあげることだよ」
「愛、……いや。まだ飼うか決めてねえし」
「そう。でも、言うことをきかないと苛々したり、無視できないのなら、そうなり始めているということではないかな。私もかつては、彼を叱ることに必死になった。仕事をしている時でも、ジョンはちゃんとしているだろうか、危ないことをしていないだろうか、と気が気でない。結局のところ、頭の中はジョンのことばかりさ」
わかる、と言いそうになって、ライアンは口を噤んだ。
「犬は、飼い主をとても愛してくれる生き物だよ。愛しているから、構って欲しいんだ。叱られる怒鳴り声でもいい、となってしまうほどにね。最初は、その盲目的なほどの愛情に戸惑うこともある」
ライアンは、黙っている。
「しかし、心配はいらない。あんなに可愛い生き物に絆されない人間はいない。すぐに同じだけ、いやそれ以上に愛せるようになる」
「……そーかな」
「そうさ。間違いない。そして愛犬こそが我が人生といえるようになるのさ」
「いやそこまでは」
少し引いた声でライアンが言うと、キースは笑顔になった。
「なる」
有無を言わせない笑顔だった。
「そしてなる」
「……2回言うほど?」
「何回言っても足りないところだ」
キースは、深く頷いた。
「しかし、そうか、まだ君の犬ではないんだね。それなら、いちどちゃんと遊んでやってみたらどうかな。皆で構うのではなくて、1対1で。そうすれば、お互いの相性もわかるさ。もしかして、その犬と触れ合って遊んだことがないのでは?」
そう言われて、ライアンはそういえばと思った。1対1で彼女と接したのはそれこそあの記憶のない後悔だらけの夜だけで、その他は必ず他のヒーローたちや会社の人間がいるところでしか、彼女とやり取りしていない。
「……ない、かも」
「それはいけない。そしていけない。いちど、散歩に行くなりなんなりしてみるといい。どんなことが好きで、何が苦手な犬なのか、観察するんだ。そうすれば後々躾もしやすくなるし」
なるほど一理ある、とライアンは頷いた。
「まあ、そんなことをしていれば、情が湧いて絶対に自分の犬にしたくなるだろうけど」
「えー……」
「絶対だ」
また2度繰り返して、キースは頷いた。
「そして絶対だ」
3度目。
ライアンは頬を引き攣らせたが、なんとか「アドバイス、参考になった」と礼を言い、立ち上がった。
そしてキースは「それは良かった! また何かあればいつでも言ってくれたまえ!」と輝く笑顔を浮かべ、ライアンをポセイドンラインのポーターから送り出してくれたのだった。