#027
 地獄のクローゼット、とライアンが名付けたそこからやっとのことで服を選び出し、結局ガブリエラは、病院で買ったパジャマの上からマッチョ君セーター、腰から下は毛布を巻きつけているという、ライアンの基準からすると目も当てられない格好になった。
 地獄の使者と化した彼女に対し、ライアンはもはや沈痛とさえ言える様相で、ゆっくりと首を振った。

「ヤバすぎるな。人のする格好じゃねえ」
「そうですか? 確かに可愛くはないですが、寒い時に近くのコンビニに行くときなど、パッと被れて便利なのですが……」
「それ着てコンビニ行ってんのか!?」
「はい」
 ガブリエラが頷くと、ライアンは、サイコパスの殺人鬼でも見たような顔をした。
「お前、そのコンビニの店員に絶対変なアダ名つけられてるからな」
「ええ〜」
 しかしなんだかんだと言いつつも、歯型や痣の付いた薄い胸が開襟タイプのパジャマの隙間からちらちら見えるのが気になっていたライアンは、色気どころかシリアスさの欠片もないその姿に、ひそかにホッとした。

「よし、じゃあとりあえず寝てろ」
「うーん、まあ、そうします」

 病気というわけではないのだが、とガブリエラは思ったが、腰が重くてつらいのは確かであったし、何よりライアンが真剣な面持ちなので、言われるままに自分のベッドに入った。

 ──ぐう。

「うーん、落ち着いたらお腹が空いてきました」

 しかしベッドに入った途端、ガブリエラは暑苦しいマッチョ君セーターの下で鳴った腹を押さえた。
「なんか置いてないのか」
「ありますよ。ファンの方からいただいたものが」
「ああ、あれか」
 摂取カロリーを消費して能力を使うガブリエラに対し、二部リーグ時代からよく食べ物が差し入れられていた。今現在は万が一を考えて、直接食べ物を差し入れることは会社が差し止めているが。
 しかしそのかわり、食券や飲食店での引換券、グルメカタログギフトなどは今も受け付けていて、結構な量が届いている。それらはすべて会社のチェックを受けた後、ガブリエラの手に渡っているはずだ。

 キッチンの前に備え付けてあるバーカウンターあたりにまとめて置いてある、とガブリエラが言うので、ライアンは「お前は寝てろ」と命じてから寝室を出て、言われたとおりの場所に行った。
 昨日見た海賊のボトルのラム酒が端に置かれたバーカウンターには、確かに、ギフトボックスがいくつか積み上げてあった。百貨店や有名なホテルのロゴ柄の包装紙に包まれたままのものもある。その上には、まだ引き換えていないグルメカタログやチケットなどがまとめて置いてあった。
「こっちはお菓子か。これは? ジャム? これもジャム、ジャムジャムジャムジャム。……おい、ジャムありすぎだろ。どんだけ好きなんだよ……」
 パッケージを確認していくごとに、ライアンは嫌な予感がしてきた。
 グルメカタログギフトの食べ物ということでライアンが想像していたのは、遠方の名物や高級食材、高級めのレトルトパックなどだ。
 しかしそこにあった品物のすべては、日持ちがするお菓子が少々と、常温保存OKの未開封ジャムばかりだった。一応全部見てみたが、ジャムの箱のその隣の箱もジャムで、その手前にある箱もジャム。ここから見えるジャム的なパッケージは全部ジャムだった。

 微妙な顔をしたライアンは異様なほどあるジャムを放置し、次はキッチンの中に入っていく。

 ものの少ない部屋だと思ったが、キッチンは少ないどころではなく、何もなかった。
 まずどう見ても料理用ではない、しかし使い込まれたナイフと砥石が調理台に置いてある。あとは湯を沸かす小さいケトルがひとつ、シンプルなタンブラーグラスがひとつ。水切りトレイには、またもマッチョ君のイラストが入ったマグカップと、皿が2枚伏せてある。驚くべきことに、他にはなにもない。
「……ミルク、水、……なんだこのデカいバター……、ハム、ハム、ハムハムハム、……はあ? 今度はハムしかねえんだけど。店かよ。ハム屋かよ」
 ライアンは愕然とした。冷蔵庫には飲み物と妙に大きい使いかけのバター、そして大量のハムの塊が、またも売るほど入っていた。野菜室までがすべてハムで埋まっている。たまにチーズ。冷凍庫には、アイスクリームがぎっしり入っていた。
 本来ドレッシングやソースなどを入れるドアポケットに、開封したストロベリージャムの瓶が入っているのを見つけた。開けてみると、半分くらい減ったジャムに小さなスプーンが突っ込んである。

 ──もしかして、このまま食べてるんじゃねえだろうな。

 状況から考えられるその予想に、ライアンは眉をひそめた。
「いや、……いや。まさかな。バターも食べかけだし」
 ジャムをそのまま食べるのは、百歩譲って良しとしよう。たまに、そしてひとくちふたくち程度なら。ライアンも、子供の頃にこっそりジャムをなめた経験がある。
 しかしバターはさすがにそのまま食べるはずがない。このバターを塗って食べていたはずのパンやクラッカーなどがあるはずだとライアンは食べかけのジャムを元に戻し、冷蔵庫を閉めた。
 続けて戸棚類を捜索する。本来食器棚や電子レンジを置くのだろう棚には、酒瓶が幾つかとサプリ類の瓶、塩や砂糖、オリーブオイルなどの調味料やコーヒー、紅茶などとともに、例の2000キロカロリーのカロリーバーがあった。しかしこの味のイマイチさを知っているライアンは、静かに首を振って元の場所に戻す。

 結論から言って、パンもクラッカーもどこにもなかった。
 あったのは、日持ちがして、高カロリーで、そして調味料系統を除けば、一切調理をせずにそのまま食べられるようなものばかり。
 ギフトカタログの取り寄せ品だけあって、ひとつひとつは農家や牧場から直送のものであったり、有名パティスリーのスイーツセットなどと美味そうなので、茶菓子や酒のつまみとしてはいいかもしれない。しかし、食事として摂取するには甚だふさわしくないものしかなかった。

「……世にもひどいキッチンだった」

 寝室に戻ってきたライアンは、とりあえず持ってきた水のペットボトルをガブリエラに渡し、沈痛な表情で言った。
「ええ〜」
「パンとかは? 食べきったのか?」
「パンは買ったことがありません」
 ライアンは、嫌な予感がした。
「……ジャムが死ぬほどあったんだけど」
「テレビを観ながらよく食べます。スプーンで、こう」
「やっぱりそのまま食ってんのかよ!」
「はい」
 はいじゃねえ、とライアンは苦虫を噛み潰した顔をした。
「でも、あのデカいバターは……」
「パンがなくてもバターは食べられます」
「バターもそのままかよ! 信じられねえ!」
 遠い昔のお妃様がバグを起こしたようなセリフを吐いたガブリエラに、ライアンはとうとう鋭くツッコミを入れた。

「食べるのが基本の能力のくせに、なんでまともな食い物がひとつもねえんだ」
「なぜなら、私は料理ができませんし……」
 そのため基本的には、専門の栄養士がメニューを決めて用意した、経費で落ちるアスクレピオスの社食などで済ませるのがほとんどだ。しかし3食すべてオフィスの社食に行くのも都合がつかない時はあるし、そもそもガブリエラは3食では摂取が間に合わない。能力のために、常に間食が必要なのだ。
「そのまま食べられて、カロリーの高いものをですね……」
 完全に、食事ではなく給油のような感覚である。ライアンは眉をひそめた。
「それにしたって限度があるだろ! もっとちゃんとしたもん食え!」
「ハ、ハムはおいしいですよ。チーズも。ミルクもたくさん飲んでいますし……」
「おう、タンパク質は豊富に採ってんだな。他が全滅だけどな」
「サプリもありますし……」
「サプリは補助にはなるけどそれだけじゃダメだ。医者に言われなかったか」
 じろりとライアンに睨まれ、ガブリエラは、飼い主においたが見つかった犬のように目を逸らした。
 この能力を使いながらも健康を維持するため、彼女は飲食記録を医者やトレーナーに報告する義務がある。しかしこの様子だと、あのジャムやバターは非申告であるに違いなかった。そして言わずもがな、これを申告すれば間違いなく医者にお叱りを受けるだろう。

「なぜなら……」
「なんだよ」
「食堂で会社の方たちとする食事や、誰かに作っていただいた料理は、とてもおいしいです。おいしいですし、楽しいので、色々なものをたくさん食べたいと思いますが」
 ライアンは、バーナビーの家で開いた歓迎会の時、皆が持ち寄った手作りの料理を満面の笑みで山ほど食べていたガブリエラを思い出した。
「しかし、部屋でひとりの時は、その、カロリーさえとれれば……」
 ガブリエラは俯き、ぼそぼそと言い訳した。

 それを聞いたライアンは、髪を掻き上げ、ため息をつきそうになったが堪えた。今この状況で、あまり彼女に怒りたくなかったのだ。
「……出来合いでも栄養いいやつあるだろ。あっためるだけだし」
「電子レンジがありません」
「買えよ」
「あの、シンディの家の電子レンジで、料理を爆発させたことがあってですね……」
 聞けば、ガブリエラがアカデミーを卒業した時、新しいアパートが決まるまで世話になった彼女の家でやらかしたらしい。
「どのくらい温めればいいのか、何度やってもよくわかりません。爆発したり、溢れたり、干からびたり……少しずつやっても、とても短い時間で急にものすごく熱くなったり……」
「パッケージに何ワットで何分って書いてあるだろ」
「説明書きを……読むのが……」
「……ああ〜……」
 ガブリエラは、読み書きが非常に苦手である。自分の名前の綴りも時々間違えるというレベルであるため、会社から絵本を読むように言いつけられているという、信じられない状態だ。
 ライアンには想像しかできないが、文盲にも近い彼女は、細かくてびっしり書かれた文字を見るだけで読む気が失せ、うんざりしてしまうらしい。

「それに、電子レンジはなんだか頭がイーッと痛くなるのです」
「あー、たまに聞くなそういう体質」
 モスキート音などと同じように、特定の周波数の音をむやみに捉えてしまう体質。電磁波などが関わっているという説もある。
「……じゃあレトルトとか、缶詰ならいいだろ。料理そのまま入ってるようなタイプ。カタログにもあったはず」
「えっ、本当ですか。そんなものが」
 驚くガブリエラに、ライアンはキッチンに戻って、まだ引き換えていない適当なグルメカタログを持ってきた。探してみると、ライアンが言ったとおりの缶詰やレトルトパックのセットが、どのカタログにもひとつはある。
 しかし高級品ゆえかパッケージがおしゃれすぎるため、写真だけではどんな中身が入っているのかがよくわからない。商品名も店やホテルの名前が大きく、料理名や電子レンジが必須なのかどうかは、細かい説明文の中だ。
 その点、ハムやチーズや調味料、そしてジャムやバターは写真や大きなタイトルだけで、商品の概要がひと目で分かる。これが原因かとライアンは察しつつ、レトルト商品のページをガブリエラに見せた。

「ほら、これ。こういうのならレンジじゃなくて、鍋にお湯沸かしてパッケージごとそれに入れるやり方もあるから。多少あっためすぎても爆発はしねーし」
「それなら私にもできます! 今度鍋を買ってきます。ありがとうございます、ライアン」
「……どういたしまして」
 顔を輝かせて喜び、教えてもらった商品が載っているページを折って印をつけるガブリエラに、ライアンは気が抜けた返事をする。途端、今度はライアンの腹がぐうと鳴った。

「あー、俺も腹減ってきた。……なんか買ってくる」
「えっ」
「朝飯にアレはないだろ、ただでさえお前体調悪いんだし」
「病気なわけではないですよ」
「ダメだ。ちゃんと大事にしろ」
「……はい」
 ライアンにぴしゃりと言われたガブリエラは、嬉しそうだった。
「消化がいいもん……は関係ないか? あったかいもんがいいんだっけ?」
 そう呟きながら、ライアンは立ち上がる。
「この辺、なんか食べるもん買える場所あるか?」
「スーパーはまだ開いていませんので、コンビニエンスストアですね」
「ああ、来る時見たな。角曲がったとこ」
「そこです」
「なんか食いたいもんあるか」
「ライアンが食べたいものでいいですよ」
「……わかった」
 にっこりしたガブリエラに片眉を上げて、ライアンは頷いた。

「生体認証登録してから出てくださいね」
 登録パスワードは、と言うガブリエラに従い、ライアンは手早く自分をゲスト登録する。これで今日1日、ライアンはこの部屋に出入りできるようになった。情報を消さずに再度ゲスト登録すれば、またその日は出入りできるようになる。住人登録すれば、解除するまでずっとそうなる。最近一般的になりつつあるシステムで、ライアンの部屋も同じシステムが採用されているので、操作はスムーズだった。

「行ってらっしゃい」

 ベッドの上でクソダサいセーターの袖が余った手を振る地獄の使者に見送られて、ライアンは部屋を出た。






 ──俺は一体なぜ、こんなところで卵を買っているのだろう。

 買い物かごに入った商品のバーコードを手際よくスキャンするレジ店員の前で、ライアンはぼんやりとそんなことを思った。
 住宅街のコンビニは品揃えが生活方面に偏っており、調理前の食材や、なんと小さなフライパンや鍋まで売っていた。ライアンは人としての生活に最低限のものを全て買い物かごにぶち込み、クレジットカードを取り出した。

「おや? お早うございます」
「……オハヨウゴザイマス」

 ガブリエラのマンションに戻ってくると、ライアンは、品の良い老夫婦と出くわした。時刻は06:00を回っている。おそらく、体操をしに来るという老夫婦が彼らだろう。
 同じく自分の部屋に戻るらしい老夫婦と、揃ってエレベーターの前に立つ。年季の入った老紳士の革靴の底が、かつんと音を立てた。
「何階ですか?」
 親切に尋ねられる。
「4階で……」
「おや、ホワイトさんのところの?」
「まあまあ、こんな素敵な恋人がいらっしゃったのね」
 にこにこしている彼らからは、洗いっぱなしの髪にヒゲも剃っていない、見慣れないデカい男に対する警戒が、微塵も感じられない。
「はあ……まあ……」
 否定するのも面倒なので、ライアンは曖昧な返事をした。
 チン、と柔らかい音がして、エレベーターが降りてくる。ライアンは先に老夫婦を乗せ、開閉ボタンを押した。僅かな浮遊感がして、ゆっくりめにエレベーターが上昇する。

「そういえば彼女、今日は歌わないのかね?」
「歌?」
「あら、まだ聴いたことがないの? 勿体無いわね。ぜひ聴かせて貰うといいわ」
 ライアンが首を傾げると、夫婦は「ぜひ」と言って微笑んだ。
「歌うなら、私たちも聴きたいな。邪魔にならないのだったら連絡してくれと伝えて貰えるかな」
「えーと、ハイ」
 にこにこしている老夫婦に軽く頭を下げて、ライアンは4階で止まったエレベーターを降りた。



「おい、できたぞ」
「わああ! ライアンの手料理!」

 ライアンがキッチンに立っている間ずっとそわそわしていたガブリエラが、“待て”を解かれた犬のように寝室から飛び出してくる。
 彼女はこちらが眩しく思うほど目を輝かせ、湯気のたつ料理を見つめている。

 ガブリエラのような体調の女は何を食べるべきなのか、一応ライアンも通信端末をネットに繋いで調べてみたが、あまりよくわからなかった。貧血気味になるらしいので鉄分とタンパク質を豊富に、とは一貫して書いてあるのだが、タンパク質に関してはじゅうぶん摂っている。
 そのため、タンパク質の必要性と同じくらい一貫して書いてあった、“体を温める”という指示に従い、ライアンは温かく、一応消化にも良さそうな料理を作った。

 その結果、手料理──しかも特に親しい人や好ましい人からのそれが大好きなガブリエラは、体調の悪さを吹き飛ばす勢いで喜んだ。ここまで喜ぶのなら、メニューはあまり関係なかったかもしれないと思うほどに。

 温かいもの、ということなら、インスタントのスープやヌードルを買う選択肢もあった。しかしその類があまり好きではないライアンは、パンと野菜と卵、パスタ、鉄分摂取のためのレバーペーストの缶詰、ジャムやバターを塗って食べられるクラッカー、そしてフライパンと、後々レトルトや缶詰も暖められるだろう鍋を買って戻った。
 まず作ったのは、茹でたパスタをキッチンにあったオリーブオイルで炒め、レバーペーストを絡めたもの。更にフレンチトーストと、鍋で野菜とハムがたっぷり入ったスープも作った。湯気のたつそれを殺風景なバーカウンターに並べ、「バターはこうやって食うんだよ」という台詞とともにフレンチトーストにバターを落としてやると、ガブリエラは目をきらきらさせた。

「おいしい! やはりライアンは凄いです、コンビニしか開いていないのに!」
「わかったからゆっくり食え」
 満面の笑みでライアンお手製のまともな朝食を食べるガブリエラに、ライアンは呆れた、しかし満更でもない口調で言った後、ハッとして表情を引き締めた。
 これがガブリエラの怖いところだ。喜びのハードルが低すぎるため、些細な事でも全力で喜び、全力で褒め称える。結果、次はもっと良いようにしてやろう、と思わせてしまう。
 その筆頭が元々世話好きなネイサンだが、その他のヒーローも何かというとガブリエラに構うようになっているのを、ライアンは知っている。そのせいで、今まで散々肩身が狭かったのだから。

 そしてライアンも隣に座って、同じものを食べる。
 温かいスープは高級なハムのおかげか、驚くほど美味だった。牧場直送だというバターの乗ったフレンチトーストも。
 にこにこして、美味しそうに、大事そうにスープとフレンチトーストを食べるガブリエラを横目に、ライアンは重ねてあるギフトカタログを手に取る。
 ページをぱらぱらと捲ったライアンは、注意書きを読み、鍋で安全に暖められそうな缶詰やレトルトパックを見つけると、黙々とページに折り目をつけていった。



「ああ、美味しかった。今度は私が紅茶を淹れましょう」
「紅茶は淹れられるのか」
「コーヒーも淹れられます。インスタントの。お湯を沸かすだけですので!」
「自慢気に言うな」
 ケトルで湯を沸かし始めたガブリエラを見ながら、ライアンは食べ終わった食器を重ねてシンクに置くと、水道の蛇口をひねる。
 皿やコップにいちいちマッチョ君のイラストがついていて、うんざりする。セーターのマッチョ君のひどさを見た後だと、イラストは比較的まともに見えるのが恐ろしい。
「ふふふ」
 ガブリエラは、にこにこ笑顔とにやにや笑いを足して倍増させたような顔で、隣に立って食器を洗うライアンを見ている。
「並んでキッチンに立つ。恋人同士のようですね」
 その発言のせいで、ライアンは洗剤を出しすぎた。小さなシャボン玉が数個、ふわふわと浮いて消えていく。
「ネイサンから聞きました。恋人同士で、どういうことをするのが素敵か。ネイサンはふたりでキッチンに立って、仲良く料理をしたり、洗い物をしたりするのが素敵と言いました。私もそれは素敵だと思います」
 ライアンはあえて返事をせず彼女の発言を黙殺し、過剰に泡立ちまくるスポンジで食器を洗う。マッスルポーズを決めているマッチョ君が剥げ落ちる勢いで食器を洗い終えたライアンは、それを備え付けのステンレスの網棚に伏せた。

「ちゃんと手順を守れば、ティーバッグでも美味しい紅茶が淹れられるそうです」

 ライアンの無反応を気にしていない様子のガブリエラは、またマッチョ君のイラストが入ったマグカップにまずお湯を入れて暖めると、そのお湯を一旦捨てた。そしてぼこぼこと沸騰した新しい湯を入れ、少し広げたティーバッグをそっと浸からせる。湯気が立つカップに適当な皿で蓋をして待つ。
「ゴールデンルールという、と習いました」
 紅茶の入れ方の王道を、そう呼ぶ。
「ゴールドと名前のつくものは、だいたい間違いがないものですね」
「そりゃあ、ゴールドだからな」
 くだらないやり取りをしているうちに、1分半。皿を退かすと、美しい琥珀色がマグカップいっぱいに広がっていた。

「ミルクや砂糖を入れますか? 私は蜂蜜を入れます」
「蜂蜜?」
 ガブリエラは、塩や砂糖の近くに置いてあった、水彩画風のタッチで花の絵柄が描かれた、上品なラベルの蜂蜜の瓶を取り出した。
「ペトロフさんのお勧めです。美味しいのですよ」
「……ペトロフ? ヒーロー管理官の?」
 ライアンは、驚いた顔をした。一部リーグヒーロー全員が必ず世話になる彼のことは、もちろんライアンも知っている。しかし管理官とヒーローは立場上、個人的な連絡先の交換などは一切禁止されているため、プライベートの付き合いもない。
「お前、管理官と仲いいの?」
「仲? いいえ。ペトロフさんと、プライベートでのお付き合いはありません」
 ヒーローと管理官ですからね、と、ガブリエラはごく常識的に言った。
「しかし、私は二部リーグから一部リーグに上がる時、特に法律関係でとてもたくさん相談に乗っていただきました。そして仕事の話で管理官の執務室に行った時、出された紅茶があまりにも美味しいのでびっくりしたら、紅茶の淹れ方と、おすすめの蜂蜜を教えてくださったのです」
「ふーん……」
 人付き合いにおいて壁を取っ払うことが得意なライアンでもおいそれと気安い口をきけない、全身から近寄るなとオーラを出しているあの吸血鬼のように青白い男に、そこまで話させるとは。おそらく例によって、出された紅茶を全力かつ本気で褒め称えたに違いない。
 ガブリエラの褒め殺しによる懐柔技能の威力に半目になりつつ、ライアンは蜂蜜入り紅茶のマグカップを受け取った。
「……うまいな、蜂蜜」
「おいしいですね」
 砂糖とはまた違う、ほっとするような甘さが広がる。いいものなのだろう、カップの底で、かき混ぜなくても熱でとろとろと溶けて立ち上っている金色の蜂蜜が、湯気の中に見える。

「……お前、蜂蜜もそのまま飲んでねえだろうな」

 ライアンの指摘に対し、ガブリエラはピチュピチュと小鳥のような口笛を吹いた。



「ああ、歌。ええ、歌いますよ、時々」
 老夫婦から聞かれたことを伝えると、ガブリエラは、あっさりとそう言った。
「私は故郷で、聖歌隊に入っていました」
「聖歌隊?」
「はい」
 こくり、とガブリエラは頷いた。
「歌は母に習いました。彼女は昔、酒場で歌を歌っていたそうです。……私を妊娠して、教会へ。シスターをしながら、子供たちに歌を教えていました」
 懐かしそうな、遠い目。
「上手に歌うと、母は褒めてくれました。ですので今も、時々歌います。母に話したいことがある時に」
「話したいこと?」
「はい」

 ガブリエラは、自分が子供の時から母親に精神的な障害があること、今はガブリエラが施設に入所させたのでそこで過ごしていることなどを、紅茶の香りの中で、ゆっくりと話した。
 ライアンは、彼女がヒッチハイクでシュテルンビルトに来たというエピソードを聞いた時と同じくらい驚き、絶句する。そしてそんな生い立ちでいながらこんなふうに微笑んでいられる彼女を、今更ながら理解できない、と思った。

(壊れてるんじゃねえか)
 もしくは、そうでなければやっていけなかったのか。己を犯した男の髪を丁寧に拭い、癒やし、愛しているとまで言った彼女。ぎりぎりの死線を超えた生を愉しむことを覚え、愛する男が与えることなら苦痛や屈辱も快感だと言った彼女をライアンはただ無言で見つめ、その美しい声が話す、重いエピソードを聞いた。

 ガブリエラの母がなぜそうなったのかは語られなかったが、とにかく今現在、彼女は電話でまともに会話が成立するような状態ではないらしい。
 だからガブリエラは母に何か伝えたい事がある時などに、聖歌を歌うという。とはいえ前のアパートは壁が薄く声が響きすぎるので滅多に歌えず、祈るだけで済ませるか、時々近くの教会に行って歌わせて貰っていた。
「歌うと、ストレス発散にもなるそうですし」
「それはあるな」
「しかし今は教会に行かなくても、部屋の防音がきちんとしているので、歌えます。あと、このマンションの屋上には小さい公園があって、前にそこで歌いました。それをあの老夫婦に聞かれました」
「ふうん。そんな上手いの、お前」
「どうでしょう」
 自分ではよくわかりません、とガブリエラは首をひねった。
「……まあ、いいんじゃねえの。普通、母親に話すことだろ。その、なんだ、……こういうことは」
 ライアンが言うと、ガブリエラは一瞬きょとんとした後、「そうですね」と微笑んだ。
「では色々伝えましょう。もちろん、あなたのことも」
「……できれば言葉は選んでくれな」
「大丈夫です。私は幸せです」
 ガブリエラは、微笑んでいる。言葉通り、本当に幸せそうに。

「幸せに過ごしていると、伝えます」

 窓から、朝の光が差し込んでいる。紅茶の香りに満ちた白い光の中、やはり嘘の欠片もないその笑顔に、ライアンは何も言えなかった。

「……じゃ、ちょっと歌ってみろよ」
「え、今ですか」
「疲れてるならいいけど」
「いえ、大丈夫ですが……」
 きょとんとした顔のまま、ガブリエラは首を振った。
「聴いてないのはもったいないとまで言われたら、聴いてみてえだろ」
「そんなことを?」
 ガブリエラは少し照れくさそうな顔をしたが、歌うことを拒否はしなかった。彼女は椅子から立ち上がると、小さく咳払いをして姿勢を整え、顔をやや上に向ける。
 そして、すうっ、と息を吸い込んだ。










「ライアン、ギャビーがどうしてるか知らない?」
「……あ?」

 ジャスティスタワー、トレーニングルーム。
 顰めっ面をしていても惚れ惚れするほどの美少女ぶりのカリーナに呼び止められ、ライアンは間の抜けた返事をした。
 そして彼らしからぬぼんやりした様子に、カリーナが怪訝な顔をする。
「ちょっと、大丈夫? なんかぼーっとしてない?」
「あー……、ああ、まあ、ちょっと。余韻が」
「余韻?」
「……こっちの話。で、あいつがどうしたって?」
「電話に出ないし、メールも返ってこないのよ。今日は仕事って聞いてないのに」
 カリーナの顰めっ面は、心配によるものだったらしい。「ああ」と返事をして、ライアンは整髪料でセットした髪を掻き上げた。

「あいつな。今日は体調悪いから、休み」
「えっ、大丈夫なの!?」
 驚きとともに、カリーナの表情が顰めっ面でなく、素直に心配そうなものになる。その表情に、こいついい子だなあ、とライアンはほっこりした気持ちになった。実家の弟妹を思い出す。
「病気じゃねえから大丈夫、……多分」
「多分って何よ」
「だって俺男だし」
 その言葉で、カリーナはぴんときたらしい。ああ、と頷き、少しホッとしたような様子を見せた。
「そういうことね」
「わかんねえんだけど、あれってそんな辛いモン?」
「人によるわよ。全然平気そうな人もいるし、ひどいと貧血で動けなくなるとか、耐え難いほどお腹が痛いとか、絶対熱出すとか、どうやっても眠くてたまらないとか、気持ちに影響が出て何もできなくなる人もいる」
「うえ、そんなにか……。大変だな」
 そりゃああれだけ血が出るんだから当然だよなあ、とまでは口に出さず、しかしライアンは深々と頷いた。

「何? 今までと様子が違うじゃない。ギャビーと仲直りしたの?」
 本気で気遣うようなライアンの声に、カリーナは少し意外に思ったらしい。ライアンは苦笑し、肩をすくめる。
「別に最初から喧嘩とかしてねえ」
「でも」
「それより、な。あいつ実は、初めてなったらしくて」
「……は?」
「初めてなったんだって。アレ」
「え!? あの年で!?」
「前の生活が生活だったもんで、遅れてたんだと」
 ライアンが潜めた声で言うと、ああそうなの、とカリーナは心から気遣うような声で言った。
 彼女曰く、健康状態が悪かったり、また極度なトレーニングなどによって体脂肪率が著しく低くなったりした女性は、月経が止まることがあるらしい。おそらく、ガブリエラはすべてに当てはまっている。

「……ほんっと大変だな、女って。すげえわ」
「あら。面倒だな、とは言わないのね」
「はあ? なんで。言わねえよそんな事」
「ふうん。ちょっと見直したわ」
 感心したように言うカリーナに、どれだけ自分は女に気遣いの出来ない鬼畜だと思われていたのだろうか、とライアンは昨日今日の出来事も相まって、常になく落ち込む。
「別に、ライアンを悪く思ってるわけじゃないわよ」
 自信満々な俺様キャラが珍しく肩を落としたような様子に驚いたのか、カリーナは少し慌てて言った。
「男が知ってる以上に、女って、女だってだけで色々言われるの。私だってそう。あんたみたいにフツーにそう言えるほうが珍しいのよ」
「そんなことねえだろ」
「あるのよ」
 真顔で断言するカリーナに、ライアンは今度は別方面に軽くショックを受けた。
 自分より10近く年下のカリーナがこうも断言できてしまうほど、男の自分が知っているより、世の中は女性に厳しいらしい。そのショックのまま再度「ほんっと大変なんだな」と呟くと、その神妙な態度に大いに満足したらしいカリーナは、笑顔を見せた。

「ギャビーのことは、わかったわ。私に何かできることある?」
「あー、じゃあ、できればちょっと様子見に行ってくれるか? 病院で女の看護師に色々聞いてたみてえだけど、友達から聞いたほうが安心するかもしれねえし」
「そうね。わかったわ」
 カリーナは、「トレーニングを早めに切り上げて、行ってみる」と頼もしく頷いた。自分とパオリンは生体認証を住人登録してもらっているから大丈夫、とどこか誇らしげに付け加えつつ。
「よろしく頼む」
「任せて」
 使命感に溢れた顔をしたカリーナは美しい髪を翻し、パオリンがいるほうへ走っていった。ふたりで行くつもりなのだろう。

「………………それでェ?」

 にゅ、と後ろから伸びてきた、美しく整えられた爪のついた黒い腕に、ライアンはヒッと声を上げそうになるのを堪える。
「昨日あの娘と飲みに行ったあんたが、よりにもよってどうしてそんな事知ってるのかしら。ねえ? ……アラヤダお肌スベスベ」
 指先でライアンの顎を撫でたネイサンは、完璧なメイクを施した目で、じっとりとライアンを見る。
 その舐めるような視線にライアンは冷や汗を流しつつ、ウェルダンだけは勘弁してくれ、と女神に祈りを捧げた。
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BY 餡子郎
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