#026
「……あん?」
「恋人同士ではないのに、キスはだめです」
ライアンは、ぐっと詰まった。
「昨夜もキスはしませんでした」
「……そうか」
「私はキスをしたことがありません。キスは恋人同士でしたいです」
その言葉に、ライアンはまた落ち込んだ。無論、キスもしたことのない女に、自分はキス以上のことをしたということが発覚したからである。
「なあ……」
「はい」
「お前、怒ってねえの?」
ライアンは、怪訝な表情で言った。先程から彼女はずっと微笑んでいて、怖がっている様子も、怒ったような様子も全くない。動揺するあまり今まで流されていたが、客観的に見て、この状況でこんな態度なのは明らかにおかしいだろうとライアンは今頃思い至ったのだ。
「怒る? なぜ?」
「なぜって……。そりゃ、その、ひでえことしただろ、俺は」
「確かに痛かったですが、怒ってはいません」
「なんでだよ。俺は最低だ」
いつも自信満々な俺様キャラにあるまじきその発言に、ガブリエラは目を見開いた。
「なんてことを!」
恐ろしいことを聞いたとでも言わんばかりの、絹を引き裂いたような悲鳴だった。
「最低だなど! あなたはとても、とても素敵な人です。世界でいちばん素敵な人です。私は知っています。ライアンは、優しくて、格好良い人。きらきらした、素敵なヒーローです。二度とそんなことを言わないでください」
まくし立てるガブリエラに、ライアンは微妙な顔をした。
「……嫌味にしか聞こえねえんだけど」
ライアンは、不貞腐れたようにそう言った。優しくて格好いい、きらきらした素敵なヒーローは、酔った勢いで乱暴に処女を奪ったりしない。多分。
「嫌味ではありません! ライアンは、ライアンは、とても」
「ああ、もう、わかったわかった」
彼女があまりにも悲痛で、必死で、いっそ泣きそうな様子なので、ライアンは折れた。
「言いませんか! もう言いませんか!」
「言わない」
「それならいいです」
少し膨れっ面で、ガブリエラは頷いた。
「確かに昨日はあなたに散々罵られて、痛い思いもしました。しかし、大丈夫です」
「……許してくれるってことか?」
「ゆるす? ああ、はい。そうですね。許します」
ガブリエラは、あっさりと頷いた。ライアンは、ますます眉を寄せる。
「俺がいちばん言うことじゃねえけどよ、……ダメだろ、許したら」
「なぜですか?」
「なぜってお前、……お前が言うとおりの事だよ」
「ああ、恋人同士ではないので?」
「……そう」
ライアンが頷くと、うーん、とガブリエラは首を傾げた。
「先程も言いましたが、それは同意です。逃げられたのに逃げなかったのは、私の不徳のいたすところ」
ライアンは、気が抜けそうになった。彼女は普段言葉がたどたどしいくせに、時折こうして妙な語彙を用いてくるのがどうにもシリアスさを削ぐ。
「じゃあ、なんで、逃げなかった?」
「なんで?」
ガブリエラは、きょとんとした顔をした。しかしそれは意味の分からない質問をされたというよりは、当たり前すぎることをわざわざ聞かれたような具合の反応だった。
「それは、私があなたを愛しているのでです」
ガブリエラは、ごくごく当たり前の調子で言った。
しかしライアンは、反対に目を見開いている。
「……ファン、っていうのは、言われたけど」
呆然とライアンが言うと、ガブリエラはにっこりした。
「ファンでもあります。私はゴールデンライアンの大ファン!」
「ああうん、……え? お前、マジで俺のこと好きなの?」
「好きです! とても!」
ガブリエラは、ライアンが目を白黒させるほど、これ以上なくはっきりと言った。
「もっと普通に仲良くなってから伝えるという、作戦……いえ、そのつもりでした」
「……あー」
確かに、普通に仲良くなったとは言い難い状況だ。むしろ、新たな問題が山積みになっている。
「好きです、ライアン。もちろん恋愛的な意味で」
「……ん」
ライアンは、素直にその言葉を受け止め、頷いた。もし“こう”なる前に同じことを言われていたら自分はどうしていただろうか、と少し思いながら。
「私はあなたを愛しています」
教科書の例文のような、しかしそれだけに、これ以上なくストレートな言葉。
それを真正面から、真摯に、彼女は口にした。嘘の欠片もない、うっとりと蕩けたような灰色の目を細めて。
「質問の答えです。あなたを特別に愛しているので、セックスを拒めませんでした。痛いことをされても許します」
教会の聖母像がキツい女に思えるような顔で、ガブリエラは微笑んだ。
その顔を見たライアンの胸の奥に、度数の高い酒を飲み込んだ時よりも熱い何かが込みあげる。同時に、汗が吹き出すような重い安堵が、どっと腹に落ちてきた。
それは、最低な状況だが、彼女が言うところの“好きな人としかしたくない行為”という部分だけは、なんとかクリアすることができていたということに対するものだ。といっても、もちろんそれは自分の手柄ではない、とライアンは理解している。
「他の人でしたら、酔っ払っても家まで送りません」
「……そうか」
「そうですよ。ライアンですのでですよ」
そう言われて、ライアンは心臓を掴まれたような心地になった。
「……そこまで俺のことが好きでも、キスはダメなのか?」
「だめです」
微笑んだままやはりきっぱり言われて、ライアンは眉を顰めた。しかし、ガブリエラは続ける。
「なぜならあなたは、私を愛していらっしゃらない」
ぐ、と、ライアンの喉が詰まる。
「セックスもキスも、本来、特別に愛し合っている人どうしがするものです。私はあなたを愛していますが、あなたはそうではありません」
「俺の気持ちを決めつけるな」
「決めつけてはいません。ただそうだというだけ。それとも私を愛していますか?」
ライアンは、即答できなかった。
なぜならそれは、彼女が自分を愛している気持ちがあまりにも大きく重いのだということを、今心から理解したからだ。
ライアンは彼女に学歴や教養のないことを言外に馬鹿にし、酔っ払っていたとはいえ容姿にけちをつけ、罵り、更に前後不覚になったところをひとり暮らしの部屋まで送ってもらい、彼女が抵抗しなかったのをいいことに本来恋人同士でするべき行為に及び、無用に痛い思いをさせた。
だがガブリエラは、それをすべて許すという。愛しているから許すと言った。
そんな彼女から、あなたも私を愛していますかと聞かれてそうだと軽率に返せるかと言えば、答えは否だ。自分は、これほどまでに彼女を、──いや、人を愛したことがない。ライアンは、たった今それに思い至ったのだった。
ライアンが言葉を詰まらせていると、ガブリエラはにっこりした。
いいんですよ、といわんばかりの表情は、本当に何もかもを許すという彼女の心が滲み出ている。その顔に、蕩けそうに潤む灰色の目に、ライアンは再度怯んだ。
吸い込まれそうな灰色の目。ブルー・ホールのような、とんでもない深さの、それでいてどこまでも冴え渡って見える透明度を誇る、母なる海の穴。行けば戻ってこれないだろう、未知の世界へ繋がる星の入り口。
その巨大さと、底の見えないあまりの深さに、ライアンは一歩踏み出すのを躊躇った。
「キスは特にだめです。結婚する時に、神様や、皆の前でするようなことです」
ライアンが固まっていると、ガブリエラが口を開いた。
「セックスをしても、心の篭ったキスができていないならば、恋人同士ではありません」
「……すげえロマンティックな台詞だな」
おそるおそる、ライアンは軽口を叩いた。
「教会の、シスターがおっしゃいました。確か、元は……娼婦をしていた方で」
子供なりになるほどなあと感心したものです、と、ガブリエラは懐かしそうに言った。娼婦は客とキスをしない、というような与太話が、ライアンの頭の隅をふっと過ぎる。
「愛する人と、心の篭ったキスが出来たなら、死んでも悔いはないそうです。そう言って、彼女は死にました。幸せそうに」
ガブリエラは、まるでお姫様に憧れる少女のように言った。
「どんな花嫁より、彼女は綺麗でした。私もああなりたい」
星の向こうに飛んでいきそうな夢見る瞳に、ライアンはつい、信じられないほど軽い身体を抱く手にまた力を込める。
抱き寄せられて、ガブリエラはまた微笑んだ。
「お前は、俺にどうしてほしい」
乞うような声が出たことが、ライアンは自分で情けなかった。
「どうしてほしい? そんなことは決まっています。ライアンにも私を愛してほしいです。片思いはつらい」
相変わらず、彼女の意思も言葉も、どこまでもストレートだった。
「片思い。私だけ許すのはつらい」
「……許すのが、つらい?」
「そうです。愛しているのであなたを許します。あなたがなさったことですので、悲しかったり、つらかったりしても、私は許します。しかし罵られるのは悲しいですし、怪我をすれば痛くてつらい。平気なわけではない。それは変わりません」
「……ぐっ」
許したからといって、傷がなかったことになるわけではない。正論である。
「これが、両思いになって、あなたが私を本当に愛してくださって、……もし痛いことをしても、その後で、ちゃんと優しくしてくださるなら」
ガブリエラの灰色の目は、蕩けそうなほどに甘ったるくうっとりしていた。
「嬉しい。とても嬉しい。愛するあなたに愛されていれば、罵られても、痛めつけられても、どんなことをされても、きっともう、嬉しいとしか思わなくなるでしょう」
「ドMめ」
「うふふ、そう。自覚すると楽しいものですね」
質が悪い。ライアンは本気で思った。──苛々する。
「私ばかりあなたを愛していても、心の篭ったキスは出来ないでしょう。つまり、痛い思いをしたり、死んでもいいと思うような、幸せな恋人同士にはなれません」
しかしライアンはぐうの音も出ず、彼女を抱き込む腕の力を緩めた。
それは彼女がインタビューで語った、ヒーローをするにあたっての心持ちと同じようなものがあった。
健康で、空腹でもなく、満たされていれば、悪いことをする奴はいなくなる。愛し合っていれば、どんなことをされても幸せに感じる。
小さな子供でもわかるというより、小さな子供のような、綺麗事と言うにも稚すぎるような正論。だがしかし、本当に身をもってそれを実現している彼女に、誰も何も反論することはできない。
ガブリエラの出身は、世界規模で見ても治安の悪い、貧しい土地だ。それこそ、あんなとんでもない認識が、現実としてある程度まかり通っているような。
そこの娼婦だったというなら、想像を絶するほどの暮らし、人生を強いられた女性である可能性は高い。そんな女性が死の間際に言ったという綺麗事は、聖書に載っている聖句などよりも、誰に何をも言わせない重みがあった。
そして何より今、愛の言葉を告げるどころか散々に彼女を罵り、酔った勢い、しかも避妊もせずに乱暴に処女を奪い、彼女が怒らないのをいいことにキスをしようとしたライアンは、シスターに叱られた悪ガキのようにばつが悪そうにするしかない。
「私はドMの変態女ですが、愛されたくないわけでも、優しくされたくないわけでもないのです、ライアン」
「……悪かったよ」
「ふふふ」
笑い声を上げたガブリエラは、目を逸らしたライアンの胸に、ゆったりとしなだれかかった。零れた赤毛が裸の肩をくすぐり、細い指が、丁寧に乾かされた金髪を撫でる。それはもう、愛おしそうに。
そういうことをするくせにキスを拒むガブリエラを、ライアンは下ろした金髪の間から睨む。檻の向こうから唸り声を上げる獣のような彼の様相に、ガブリエラは楽しそうな笑みを向けた。
「私はあなたを愛しています。ですので私は、あなたと幸せな恋人同士になりたい」
ガブリエラは、告白した。嘘のない目で。
「そのために、私は努力します」
「努力?」
「あなたが私を愛するようになるために、これから努力します。つまり、全力で誘惑します」
その言葉の選び方に、ぶっ、とライアンが噴いた。「あれ? 言葉を間違えましたか?」と、ガブリエラが首を傾げる。
「私を好きになってほしいですが、気持ちの問題ですので、今すぐ私を愛せるようになれとは言いません。無理ですし」
言葉を選べなかったライアンは、無言を貫いた。
「ですのでせめて、今までのように、避けたりするのはやめてください。他の人にするように、普通にお話してください。ちゃんと顔を見て」
「……わかった」
ライアンがはっきり頷くと、ガブリエラは目的が達成されたというような、晴れやかな顔をした。
「ではライアン、今回のことは」
「おう」
「これからも何かと言いますので、ライアンもとても気にして下さい」
「そこは“私は気にしないから、あなたも気にしないでね”じゃねえのか!?」
「なぜです。こんなに特別なことを忘れるなんて」
ありえません、と、ガブリエラは真剣な顔で言った。
「そういうわけなので、これからもよろしくお願いします、ライアン」
「……よろしく。……じゃあ、とりあえずシャワーでも浴びてこい」
なんだかどっと疲れたライアンは、髪を掻き上げ、もう片方の手でバスルームの方向を指差して言った。
「そうしたいのですが、腰が痛くてですね、わっ」
「じっとしてろ」
ライアンは、毛布に包まったガブリエラをそのまま持ち上げた。所謂、お姫様抱っこ、と呼ばれるスタイルで。
「お手数をおかけします。重くありませんか、ライアン」
「引くほど軽い」
「昨日も言いましたね、それ」
軽口を叩きつつ、しかしガブリエラを極力揺らさないようにゆったり歩いているライアンに気付いたガブリエラは、嬉しそうに微笑んだ。
バスルームに入ると、ライアンはガブリエラを片手で抱え直し、さっさとシャワーのお湯を出した。毛布の隙間から見えたお湯が染みそうな歯型に、温度はぬるめ。そして湯気が立ち込め始めると、あまり使わないバスチェアを引っ張り出し、その上にガブリエラを座らせる。
「毛布が濡れます、ライアン」
「いい」
そう言ってライアンはバスルームを出て行き、閉めたドアの隙間から腕を突っ込んだ。そして意味を察したガブリエラが差し出した毛布を、掴んで受け取る。
「バスタオル、こっちな。着るもの……は、あー……、まあ、用意しとく」
彼女と自分のサイズがあまりにも違うことを思い出し、ライアンは天を仰いだ。下着でさえライアンが引きちぎってしまっており、彼女がまともに身につけられるものは、本当に靴しかない。
「ありがとうございます」とバスルームで水音とともに響いた彼女の声を聞きつつ、湯で濡れた毛布に血が付いているのを見て、ライアンは顔をしかめた。
無論毛布などどうでもいいが、彼女の処女を奪ったというわかりやすいその証と、そしてその瞬間をさっぱり思い出せない自分に、胸が締め付けられる。
ため息を付いたライアンは、ウォークインクローゼットをひっくり返し、ガブリエラが何とか着られるものを探した。ライアンが着るとなるとどれも文句無しのワードローブであるが、ガブリエラに着せるとなると、どれもこれも選考外のものばかりである。
それでもなんとか選ばれたのは、ロングタイプのTシャツ。タイトなラインになるはずのものだが、ガブリエラが着ると、かなりルーズなミニ丈のワンピースぐらいになるだろう。
ライアンは自分もちゃんと服を着ると、クローゼットを出た。
「あの、ライアン」
ライアンがモリィの世話を最低限してから着替えを持って脱衣所に戻ると、濡れた赤毛を肌に張り付かせたガブリエラが、バスルームの扉の隙間から、申し訳無さそうな様子で顔を出していた。
バスタオルを中途半端に纏っているらしい白い身体のシルエットが、半透明のドアにぼんやり透けている。ライアンは直視しないように、微妙に目を逸らした。
「……どうした」
「すみません。あの、バスタオルを汚しました」
「は?」
ライアンが怪訝な顔をすると、ガブリエラは、心許なさそうな、か細い声で言った。
「血が止まらなくて……」
その言葉に、彼女の愛の告白を受けてから少し緩んだ緊張が、先程以上になって再度ライアンを強張らせた。
硬直したライアンだったが、すぐに形振り構わずバスルームのドアを開ける。
驚いた顔で立っているガブリエラの脚の内側を伝う、いくつかの血の筋。それを見て、ライアンはざっと青褪める。湯で薄まっているせいもあるかもしれないが、バスルームの床に広がっている血もかなりの量だった。
「──病院!」
引きつった声で叫んだライアンは、電光石火の速さでもう1枚バスタオルを掴み、ガブリエラに巻きつけた。
「ライアン、汚れます」
「馬鹿かお前は!」
本気の怒鳴り声に、ガブリエラがびくっと肩を跳ねさせた。その反応にハッとしたライアンは、目を閉じ、自分を落ち着かせるために、無理やり深呼吸をした。そして目を開けると、通信端末を操作する。
「救急車を呼ぶ」
「しかし」
「手遅れになったらどうすんだ! お前は誰にも治してもらえねえんだぞ!」
「ライアン」
語尾が震えた声で言ったライアンに、棒立ちで突っ立っていたガブリエラは、彼が操作していた端末に、そっと手を置いた。
「いけません。私でもわかります。ゴールデンライアンが、家にいる女に救急車を呼んだりしたら」
「うるさい」
「いけません」
「馬鹿野郎!」
「いけません」
ライアンの怒鳴り声にも、ガブリエラは全く怯えなかった。澄んだ灰色の目が、まっすぐにライアンを見返している。ライアンは、ぎりっと音が出るほど歯を食いしばった。
「ライアン、あなたが優しい人なのは知っています。けれど、いけません」
「……優しくねえ」
「優しいですよ」
ガブリエラは微笑んだ。優しくなければ、彼の人生そのものといっても過言ではないヒーローとしてのキャリアを台無しにするかもしれない決断を、こんなに簡単に決めたりしない。
だがそれは彼が誰にでも優しいヒーローだからであって、自分が特別だからというわけではない。ガブリエラはそれを正しく理解していたし、そんな彼を愛している。
「着替えを、貸して下さい。あと、タクシーを呼んで……病院に行ってきます」
「俺も行く」
「ひとりで行けます」
「ダメだ」
ライアンは、首を振った。金髪が揺れる。
「行く」
今度こそ有無を言わさず、ライアンは通信端末でタクシーを呼んだ。
そして車が到着するまでの間に、サイズが全く合わないシャツを彼女にかぶせ、腰に新しいバスタオルを2枚巻く。そしてできるかぎり柔らかいコートを肩にかけて、再度軽い身体を抱き上げた。
ひと目で高そうとわかるコートだったのでガブリエラは恐縮したが、ライアンの剣幕に仕方なく何も言わず、されるがままだ。
緊急と要請したとおりにすぐ来てくれたタクシーに乗っている間、ライアンはガブリエラをなるべく深く抱き込み、生乾きの赤毛をずっと撫でていた。
「ご心配をお掛けしました……」
早朝だったこと、付き添いがゴールデンライアンであったこと。そしてアスクレピオスの上に話を通して本人がホワイトアンジェラであることを明らかにしたため、ふたりはすぐに救急病棟に通された。
アスクレピオスのお抱え、かつ世界初のサポート特化ヒーローであるガブリエラは丁重に運ばれ、診察室に入っていった。
残されたライアンは病室近くのベンチで気が気でなく待っていたのだが、さほど長く時間もかけず、ガブリエラがあっさりと病室から出てきた。医者に付き添われ、しかし、自分の足で歩いて。
「……初潮?」
「はい」
呆然としているライアンに、ガブリエラは照れくさそうに言った。曰く、以前の生活が生活だったので、この歳になる今まで遅れていた、ということらしい。
「健康的な生活を送るようになって、安定したんでしょう。おめでとうございます」
医者はガブリエラにそう言ってから、次に少し鋭い目でライアンを見た。
「それよりも、──体の傷のほうが気にかかります。ゴールデンライアン、失礼ですが、あなたは彼女のパートナー?」
つまり、同意の上でのことなのか、と聞かれている。患者の怪我に事件性がないかどうかを見極めることも、医者の仕事だからだ。あの歯型や痣を見れば無理も無いことだと思い、ライアンは背筋を伸ばした。しかし彼が何か言う前に、ガブリエラが口を開く。
「同意です」
「……本当に?」
「はい」
ガブリエラがにっこりと笑いさえしたので、医者は少し照れたような顔をし、「そうですか」と頷き、「おめでとう」と再度言った。
「プライベートな事なので、私からは会社に報告しません。ご自身の判断で」
「ありがとうございます」
「下の売店で、入院患者用のものが色々売っていますよ。女性の看護師も常駐していますから、アドバイスもしてくれるでしょう」
親切にそう教えてくれた医者は、そのまま仕事に戻っていった。──所在なさげに立っているガブリエラと、まだ呆然としているライアンを残して。
ふたりはとりあえず医者に教えられたとおりに売店に行き、必要な物を買った。女性の看護師はとても親切に対応してくれ、ガブリエラは自分で適切な処置を覚え、専用の下着を身につけ、入院患者用のパジャマを着た。
「ライアン。お騒がせして、申し訳ありませんでした」
「いや……」
色々している間ずっと無言だったライアンは、まだ調子が戻らない様子で、浮ついた返事をした。それからしばらく、病院のベンチソファに腰掛けたまま、無言の時間が過ぎる。
「すみません。そういうものがあると、私もすっかり忘れていました。たくさん血が出たので驚きました」
「そりゃあ、あんなに血が出りゃ誰だってビビるだろ……」
バスルームの惨状を思い出したライアンは、重々しく言った。男には一生理解できない、女性の体の変化。それで毎月痛がったり苦しんだりする女性は今までも見てきたが、実際にどれだけのものなのか目にしたのは初めてだった。
「毎月アレかよ……女って大変だな」
「ライアン、優しいですね」
「いやマジで、優しいとかじゃなくて」
ライアンは真顔で言った。おそらく目にする男も少ないだろうが、あの血の量を見れば、生理痛や貧血で仕事を休む女性を馬鹿にするような男はいなくなるだろう、と本気で思う。
「しかし、良かったです。もう来ないのではないかと思っていました」
「……まあ、良かったな。健康になったってことだろ」
「はい。ライアンのおかげです、多分」
「は?」
ライアンがきょとんとすると、ガブリエラはにこにこして言った。
「恋をすると、どばどば出るそうです。フェロモンとか、ホルモンとかが」
「どばどばってお前」
「ネイサンがおっしゃっていました」
女神様の言うことに間違いはない、とガブリエラは頷いた。
「ライアンのおかげで、きっとホルモンがどばどば出たのでしょう」
「お前、ちょっと明け透けすぎねえ?」
「あとはフェロモンですね。頑張ります」
「何を」
謎のやる気を出しているガブリエラに突っ込みを入れたライアンであるが、その声には、流石に疲れが滲んでいる。この状況でなんでコイツはこんなに元気なんだろうか、と思いつつ。
「では、自分の部屋に戻ります。うう腰が痛い」
「……それは俺のせいか? 体調のせいか?」
「わかりません。何しろ初めてなので」
それもそうか、とライアンは納得し、立ち上がった。
「送ってく」
「ああ、ライアンが優しい……」
「お前の“優しい”の基準低すぎねえか」
何しろガブリエラはパジャマだ。泥酔したでかい男──自分を世話し、挙句押し倒され、翌日またも別の初体験を経て体調が悪い女をひとりで帰すほど、ライアンは鬼畜ではない。
「そういうものですか?」
「そういうもんだ」
「ではもっと優しくして下さい。抱っこ」
遠慮なく調子に乗り、子供のように両手を伸ばしてくるガブリエラに正直呆れたライアンだったが、今回負い目が数えたくないほどあり、またあれほど出血したと知っている彼女を歩かせるのに罪悪感を覚え、結局また彼女を抱き上げた。
またタクシーでやってきたガブリエラの部屋は、現在のライアンの部屋ともさほど遠くない、ゴールド・ステージの住宅街にあった。所属ヒーローとして、アスクレピオスのビルからあまり離れていない物件を選んだ結果、必然的にそうなっただけだが。
前のブロンズ・ステージのアパートとあまりに勝手が違うので未だに戸惑う、とガブリエラが言うマンションは、ライアンの部屋と同じ生体認証ロックのかかった、特別ゴージャスというわけではないが、きちんとした健全な物件だった。
門を入るとベンチが置かれた中庭があり、幼い子供のためのささやかな遊具が見える。ロビーには花が飾られ、屋上には緑がいっぱいのテラスがあり、ピアノが置いてあるという。ガブリエラ以外の入居者は、小さな子供のいる若い夫婦や裕福な単身女性、また仕事をリタイアした老夫婦などだそうだ。
しかし早朝であるせいか、誰ともすれ違うことはなかった。06:00になると老夫婦が中庭に体操をしに来ますよ、とガブリエラが言う。時計は05:40を指していた。
エレベーターで、4階に上がる。
再度の生体認証を経て玄関を開け、中に入った。
シンプルな部屋だった。
全体的にモノトーン、インテリアは全て落ち着いた色で、無地。
驚くほど物が少ないが、壁際にある、半端に分解されたバイクが目を引いた。聞けばシュテルンビルトに来てから初めて買ったバイクで、故障してどうにもならなくなったが、未だにこうして手元に置き、時々部品を磨いたりしているという。場所を食うオブジェだったが、他に物がないので、インパクトのある、そしてスタイリッシュなインテリアになっていた。
本棚というほどでもないラックには、何らかの写真集と思しき本、仕事の書類のファイル、そして読み書きの練習用だろう絵本が数冊。小さな机には、少し古い型の小ぶりのラップトップと、いくつかの筆記用具や化粧品が置いてある。
リビングの角には、真新しい掃除ロボットが充電ランプを光らせていた。
「へえ……」
バイクが置いてあるのと反対側の壁の前で、ライアンは立ち止まった。
そこに取り付けられているのは、蓋がガラスになった、ふたつの平べったいケース。その中に整然と、様々なピアスが収納されていた。いかついシルバーのもの、ナチュラルなウッド素材やシェルのもの、可愛らしいモチーフの若い女性らしいもの。ポストタイプや吊り下げのフックタイプ、大振りなもの、小振りなもの。いかにもチープな素材を使ったオモチャのようなものから、小粒のダイヤ、驚くべきことにハイブランドのものと思しきものまで様々なものがあり、見ていてなかなか飽きない。
「集めているのです。どれも特にブランドものというわけではありませんが」
「お前、毎日ピアス違うもんな」
「……気付いていたのですか」
腕の中のガブリエラが嬉しそうな声を出したので、ライアンは目を合わさず、「普通わかる」とぶっきらぼうに言うと、寝室の、シングルベッドにガブリエラを座らせた。寒いと言うので、ライアンのコートを肩にかけさせたまま、ガブリエラにことわってクローゼットを開ける。
「お前、……部屋は結構イケてるのに、なんで服はクソダセェんだ」
ガブリエラのワードローブを見たライアンは、絶望的な声で言った。
クローゼットの中に仕舞ってあるトップスはほとんどTシャツばかりだったが、どれもこれも、どこかのバンドのライブTシャツだった。しかもどれもインディーズのマイナーなバンドらしく、生地も縫製も粗悪なものばかりの上、汚い言葉と髑髏とゾンビがやたらに登場する、調子をこいた痛々しい絵柄しかない。
更にボトムも、出てきたのは昨日履いていたものと違いがわからない、おそらくメンズのダメージジーンズが1本だけ。
「──地獄みてえなクローゼットだな!」
「地獄……。ああ、骸骨とゾンビのTシャツばかりですので……」
「そういう意味じゃねえ。なんだこのTシャツ。お前、売れねえバンドのコレクターかなんかか」
「知っているバンドはいません。全部頂きもので……」
「なに? デニムは破かなきゃなんねえ決まりでもあんの?」
「あと1本ありましたが、つい昨日ボロ布になりました」
多分どこかの部屋の床で雑巾になっていると思います、と珍しく皮肉を言ったガブリエラに、ライアンは、やはりダメージを受けすぎているジーンズを黙って元に戻した。
こうしてざっとワードローブを確認したものの、まともな服はこのクローゼットに存在しないと認識したライアンは、いかにも苦渋の選択という顔をし、暖かさだけはありそうな派手な色のセーターを取り出した。
「うえっ。……この動物、何? 犬?」
「狼らしいですが、皆からは犬と言われていました。マッチョ君といいます」
前の会社のキャラクターです、とガブリエラは説明した。
「一昨年、社長がクリスマスプレゼントとして社員全員に配りました」
「最悪だな」
セーターに編み込まれているのは、犬の頭に、ボディビルのポージングをきめた筋肉質な男の肉体のキャラクターだった。無理にニットの編み図に落とし込んだキャラクターはバランスが悪く、特に筋肉のラインに無理があって気色が悪い。よせばいいのに表現しようとした胸板の乳首は菱形になっていた。しかもそこかしこに、7ヶ所も“MUSCLE!!”と編み込んである。
「暖かさはあるので、冬場は助かります。寒いのはあまり得意ではないので」
「温かいっていうか暑苦しい。サイズも変だし」
「発注ミスだそうです」
だからこそ無料で社員に配った、という事情もあるそうだ。袖はメンズ並みに長いのに丈はレディースのそれ。女性が着れば丈が合うが袖が長く、もし男が着たら、袖はぴったりでも確実に腹が出るという、どうしようもないサイズ感である。
クリスマスのアグリー・セーターだとしてもひどい品に、ライアンはなくなったはずの頭痛を覚えてこめかみを押さえ、深刻そうにゆっくり頭を振った。
「ここまでひどい服がこの星に存在するとは、恐れいったぜ」
「……そんなにひどいでしょうか」
「ひどいなんてもんじゃない」
クソだ、と、ライアンは容赦なく吐き捨てた。
「そうですか。私も正直まったくかわいいとは思わないのですが」
「どう見たって可愛くねえだろ!」
「社長があまりにもマッチョ君を気に入っているので、人によってはものすごくかわいいのかもしれない、と……」
「おい洗脳されてるぞ、しっかりしろ。角ばった乳首がついたクリーチャーをキュートだと思う人類が、この地球上にいると思うのか?」
脱税で受刑中の元社長が人類である事を、ライアンは真っ向から否定した。
「つーかこれに限らずお前の服、どれもサイズが合ってない」
「なるべく近いサイズを選んではいるのですが……。私に合うサイズは、なかなかないのです。小さければいいというわけでもなく、子供用でもなんだか違う感じで」
「あー……」
なるほど、と、ライアンは納得した。ガブリエラの背丈は170センチあり、女性としては長身の部類で手脚も長いが、とにかく細い。確かにこの体型だと大人用では余り、子供用では丈や袖などが足りなくなるだろう。
そしてその結果、ガブリエラは“着られればいい”という最低限が過ぎる基準で服を選んでいる。全体的にオーバーサイズなのは、“大きければ布地がたくさんあってなんとなくお得”、“破れても縫い縮めてまた着られる”という理由によるものだ。
彼女がかつてセルフカットの丸坊主にし続けていた理由が「美容院代とシャンプー代の節約」「ノミやシラミがつきにくい」というものだったことについては皆が閉口したが、服においてはまだその限界にもほどがあるセンスを引きずっていたらしい。
元々服が好きで、今はアパレルブランドと個人スポンサー契約し、毎日キマったスタイルをコーディネートしているライアンにとって、それはもはや信じられない有様だった。
「ライアンは、いつもおしゃれで格好いいですね」
「ダサい服着ると蕁麻疹が出るんだよ」
ライアンは真顔で言った。もちろんジョークだが、心情的には本気である。
「なんと、それは大変です。これからもおしゃれでいてください」
ガブリエラは、真に受けたのかノッただけなのかわからない真顔で頷いた。