#025
「本当に覚えていないのですか」
「あー〜〜〜〜〜……」
掠れた声で言うガブリエラに対し、ライアンもまた、寝起きの声で唸った。
ベッドの上で全裸のまま胡座をかいたライアンは、顔を片手で覆ったまま、俯いたり、天を仰いだりしていたが、やがて立てた膝に肘を置き、これ以上低い声は出ないというぐらい低い声で呟く。
「……思い出してきた……」
ガブリエラから昨夜のことを聞いたライアンは、断片的な記憶を繋ぎあわせ、現状を把握した。
バーではおそらく、それぞれボトルを5本以上は軽く開けた。今考えれば、酔わないほうが、というより、泥酔しないほうがおかしいという飲酒量だった。そして、それがわからないほどに酔っていた、とライアンは今更理解する。
天窓からの朝日で明るくなった寝室には、放り投げられた靴と服が散乱していた。しかもガブリエラの衣服は、靴以外はすべてボロ布に成り果てている。
「あ〜……頭いってえ……」
「大丈夫ですか?」
「……お前は平気なわけ?」
「私、お酒には酔わないのです」
この能力のせいで、ガブリエラは経口摂取したものはアルコールであろうと例外なく、分解が凄まじく早いのだ。もちろん、二日酔いになどなったこともない。
甘い、色が綺麗、グラスが綺麗、いいにおい。そういう基準で酒を選ぶのも、どうせ何を飲んでも酔わないからである。
「しかし、全く酔わない、というわけではなくてですね……、間を開けずに強いものを次々飲んでいれば、それなりに、こう、ふわふわするのです。昨日は……、その、あなたと話したくて、ええと、酔いたくて、いつもより早めのペースで」
5分も間を開けると酔いが醒めてくるので、とガブリエラは言った。
実のところ、むしろ彼のにおいのほうに酔っ払ってまたぼんやり思ったまま妙なことを言って怒らせないようにと、どちらかというと気付けのために次から次に飲み続けていたのだが、ガブリエラはあえてそれは言わなかった。
とにかくつまり、いくら飲んでもざるどころか枠であるガブリエラが何とかほろ酔いを保つためのペースに合わせて飲んでいたせいで、ライアンはうっかりこの有様、というわけだ。
ちなみに虎徹が“飲みニケーション”を勧めたのも、ガブリエラが常軌を逸して酒に強いことを知っていたからである。
一般常識として、女性が男とふたりきりで酒を飲むのは注意が必要だ。しかしこれほど酒に強ければ相手の方が潰れるだろうし、しかも相手もまた相当酒に強い上になんだかんだで女性にはどこまでも紳士的なライアンなのだからなんの問題もないだろう、と考えてのこと──だったのだが。
「ライアン、頭が痛いなら治しますよ」
「お前そんなこともできんの……、いや、ちょっと待て」
ライアンは、整髪料をつけたままだったせいでひどいことになっている金髪を、乱暴に掻き上げた。
「おい、能力使えば酔い醒ませたんじゃねえのか!?」
ガブリエラの能力は、正しくは、対象の生物の細胞を活性化し、結果的に自己治癒能力を高めるというものだ。肝臓あたりに能力を使えばあっという間にアルコールを分解し、酔いは醒めたはずだ。そして昨夜のように、常に密着していたような状態であれば可能だったはずだとライアンが言うと、ガブリエラは寝転んだまま頷いた。
「できます」
「なんでしなかった!?」
「アルコールを分解すると、お酒はただの水分になります。そして酔いが覚めるといっても、すぐに素面になるわけではありません」
「……ワリィけど、もっとわかりやすく言ってくんね」
頭全然回らねえ、とライアンが頭痛に苛まれた顰めっ面で言うと、ガブリエラは続けた。
「つまり、急な尿意を催します」
「……あ?」
「実際に、やったことがあります。とても酔って暴れている人に、能力を使って酔いを覚まそうとしたら──」
ちなみに相手はいい年の男で、店のど真ん中で大きな水たまりを作った後に完全な素面になり、蒼白な顔で店を出て行ったという。ライアンは、その男におおいに同情した。
「急いでトイレに行ければ良いですが、泥酔していると間に合わないようです。昨日のような状態ですと、ライアンも私もその、びちゃびちゃに……」
「悪かった」
ライアンは、今までになく素直に謝罪した。
ガブリエラは小さなため息をつき、寝転がったまま、彼に手を伸ばす。
「今なら大丈夫でしょう。治すので、こちらに」
「……おう」
伸ばされた腕に、ライアンはそろそろと近寄った。
「届かないので、もっと……、ああ、もう、横に寝転がってください」
「起き上がれねえのか」
「……腰に力が入りません」
そう言われてうっと呻いたライアンは、おとなしくガブリエラの横に寝転んだ。密着はしない、しかし彼女の手が届く距離。
真横になったガブリエラの灰色の目が、青白く輝く。同じくふんわりと輝く両手が伸びてきて、ライアンのこめかみや頭を包むような動きで、ゆっくりと撫でた。
「うお……」
初めて彼女の能力を体験したライアンは、その凄まじさ、そして心地よさに驚愕した。
少し冷たい細い指が、髪や肌を撫で、不快なものをすべて取り去っていく。波が引くようにして不快な痛みがどんどん消えていき、いつも通りどころか調子の良い時の心地良い状態になっていくのは、かなりの爽快感を伴った。
「頭痛、消えましたか」
「消えた」
頭が割れるようだった痛みが、ものの数秒ですっかりなくなっている。あれほどどんよりとして回らなかった思考も、すっきりとしていた。
そしてちゃんと頭が働くようになったからこそ、ライアンは、己を癒やしたその細い手首に自分の指の形の痣がくっきりと残っていることに気付いて、気まずく眉を顰める。
手首だけではない。明るくなった室内でよく見れば、ガブリエラの身体は、ひどいことになっていた。
びりびりに破れたブラトップとTシャツが意味を為さずに上半身にまとわりつき、身体のそこかしこに、怪我と言っていいレベルの歯型や、赤紫のきつい吸い痕がついている。腹にはライアンの体液が乾いてへばりつき、投げ出された細い足首には、破れた下着が絡まっていた。
何も事前情報がなければ、完全にレイプ被害者の様相である。
──いや、実際そうだろう、とライアンは認めた。
昨晩のことはぼんやりとは思い出せるが、詳細なことはあやふやだ。しかし手加減なくガブリエラを扱ったことは、間違いなく記憶に残っている。ひどく興奮していて、獣のように攻撃的な気分だったことも。
「……悪かった」
ライアンは、自然と、そう口にしていた。寝転がったガブリエラが、目を丸くする。
「ごめんな」
処女だというのは、嘘ではないだろう。彼女があらゆる場面で嘘をつかない人間であることは、ライアンも認めている。
ライアンは今まで処女を抱いた経験はなかったが、女にとって最初の体験がどれほど大事なものかは、一般的な認識としても、そして今までそれなりに付き合ってきた女達からも聞いて知っていたつもりだった。
それが、酔った勢い、ほとんど無理矢理、さらに相手はそれを詳細に覚えていないとくれば、どう取り繕っても良い思い出とはならないだろう。
またこれだけ体格差があれば、本来かなり気を使って事を為さねばならないはずだ。慣れた女性でもライアンの身体のサイズには戸惑うというのに、処女で、しかもこんなに細い体でそれを受け入れるにろくに準備もしないままでは、相当に痛い思いをさせたに違いない。
とどめに、明らかに避妊をしていない。控えめに言って最悪だった。
「ごめん」
「……ずるいですね、ライアンは」
不貞腐れたような声は、元々よりやたらに可愛く聞こえた。見ればガブリエラは薄めの唇を尖らせて、困ったような顔でライアンを見ている。青白かった頬に、ほんのりと赤みがさしていた。
その表情に思わずどきりとして、ライアンはつい硬直する。
「……同意ですよ、ライアン」
「あー……っと……」
「同意です。殴られて犯されたわけではありませんし」
その発言のハードルの低さに、ライアンは思わず、潰れたような声で低く呻いた。
もし自分が酔った勢いで女を殴ってレイプするような人間だったら、もう自分のことなど信じられない。もしそんなことになっていたらさすがにライアンも立ち直れないし、立ち直るべきではないと思う。
「同意です」
しかしガブリエラは、頑として言った。
「でもな」
「私は逃げませんでした」
逃げられたのに、と、ガブリエラは続けた。
「ですので、同意です。ライアン」
「ん……」
「……それとも、ライアンは、嫌でしたか。不快、ですか?」
「いや」
この状況で、不安そうに、そして寂しげに聞かれて否と言うほど、ライアンは鬼畜でも下衆でもない。
それに実際、嫌などという気持ちとは程遠い気分だった。彼女に対して常に苛々していたというのは嘘ではないが、今彼女に抱くのは、それとは真逆の気持ちである。単純な男の心理として抱いた女に情が湧いたというのもあるかもしれないが、それとはまた別に満たされたようなものが胸の中に芽生えているのを、ライアンは自覚した。
「そうですか」
しかしガブリエラは、いくらか安心したようではあるものの、礼儀と社交辞令の返答だと思ったか、どこか寂しげに微笑んでそう言った。
その笑みにライアンは息が詰まるほどの胸の痛みを感じ、──そして、同時に湧き上がった興奮に戸惑い、結局無視した。
「大丈夫です。私は経験がありませんが、知識はあります」
正直、彼女が言っても何ら説得力のない発言だった。しかし上手い返しもできず、ライアンは困った顔をする。
「男性は気持ちがいいけれども、女は痛いものだと聞いています」
「いやそれは……」
やり方によるだろ、と言いかけて、ライアンは口をつぐんだ。もちろん、自分にそれを言う資格がまったくないということを理解していたからだ。
「ごめん」
「大丈夫です。確かに痛かったですが、骨は折れていませんし、首を絞められたりもしていませんので」
ライアンは、自分が骨を折られて首を絞められたような顔をした。
畳み掛けるようにしてのハードルの低すぎるその内容は、嫌味で言っているならばまだ良かった。しかし彼女はおそらく本気で言っていて、だからこそ質が悪い。
確かに、彼女には知識があるようだ。コンチネンタルエリアの都会やシュテルンビルトとは比べ物にならない、荒野の果ての地獄のような無法地帯での知識が。
そしてその知識がここでは一般的ではないことを、彼女は知らないのだ。
「思ったよりは平気です」
「思ったより?」
「セックスは、女は何かしら怪我をするものなのでしょう?」
しねえよ、とライアンは言えなかった。それほど気持ちにダメージを負っていた。ここまでメンタルがへこんだことは、ここ数年でもそうそうない。
男は気持ちがいいが女は痛い、というところまではいい。特に最初はそうなることが多いだろう。個人差を除外すれば、概ね正しい知識と言ってもいい。だがそれは、骨を折ったり首を絞めたりするせいではない。
これは毎回一方的に女が怪我をするような行為ではなく、思いやりをもって丁寧に触れあえば女も気持ちよくなれるし、お互いに楽しめる行為であるはずだ。
だがそんな説教じみたことを、殴ったり、骨を折ったり、首を絞めたりはしなかった、という程度でしか彼女を扱えなかった自分がどの面下げて言えるだろうと、ライアンは息を詰まらせた。
「このくらいの怪我なら、それほどかからず治ると思います。私は自分に自分の能力を使えませんが、代謝が早いので、怪我が治るのも結構早いのです」
ガブリエラはひどく痩せていて、いかにも女らしい肉感のある身体ではない。しかし細長い首や子鹿のように長い脚は優美で、中でも肌はめったに見ないほど美しい。子供のように薄く柔らかく、きめ細やかで、繊細な肌。吸い付くような感触だったことも、ぼやけた記憶の中に残っている。
そんな女の肌についた、血の滲んだ噛み跡や太い指の形の青痣が“このくらいの怪我”であるとは、ライアンにはとても思えない。こんなに美しい肌に乱暴に傷をつけた、昨夜の自分も信じられなかった。気が知れない。頭がおかしくなっていたとしか思えない。
ライアンが言葉を発せず黙っていると、ガブリエラは言った。
「しかし、……確かにこれは、好きな人としかしたくないことですね」
細い手首についた青痣を撫でながら微笑みすらして言うガブリエラに、ライアンは頭を抱え、歯を食いしばった。
「まだ気持ちが悪いのでは? 苦しそうです」
ものすごく渋い顔をしているライアンに、ガブリエラが訪ねた。
ライアンがこんな顔をしているのは主に精神的なものが理由だが、確かに頭痛は治っても、ぐるぐると渦巻くような倦怠感や、重たい吐き気は残っている。むしろ頭だけがはっきりした分、その不快さは相当なものだった。
「内臓にも能力を使えば、すっきり治りますよ」
そう言ってガブリエラが手を伸ばしてきたが、ライアンは思わず少し身を引いた。言わずもがな、申し訳無さのあまり死にそうだったからだ。
「……いや、いい」
「良くはないです。今日も仕事です。私も」
「お前は休め」
「ええ……」
仕事を休んだことなどないのに、とガブリエラは不服そうな顔をした。
「休め。休んでくれ」
「むぅ。……ではライアンがすっきりしたら休みます」
同社のヒーローがふたり揃って調子が悪いのは良くない、というガブリエラの主張は正論だったので、ライアンは渋々頷いた。
「トイレに行きたくなると思うので、行きたくなったら、すぐどうぞ」
「……わかった」
「浮腫も取りましょう。怠さが消えます」
ガブリエラは少しだけ身を起こし、ライアンの鳩尾とそのやや下、肝臓と胃のあたりに手を当て、ゆっくり、少しずつ滑らせていく。薄っぺらい手が通ったところがすっきりと健やかな状態になっていくのが、ライアン自身、ありありと分かった。そして宣告通り、ガブリエラの手が腎臓の上にかざされて間もなく、吐き気や気怠さが引く代わりに、急激な尿意が襲ってくる。
ライアンは急いでトイレに駆け込んで用を足すと、バスルームで5分だけシャワーを浴びた。整髪料を洗い流し、べたつく口の中もゆすぐ。排水口に流れてゆく昨夜の名残を見て、ライアンは蛇口を締めた。
「わあ、ライアン、いつもと違いますね」
下着とジーンズだけ履き、髪をタオルで拭きながら戻ってきたライアンに、ガブリエラは驚いたように言った。
量が多く、その上いつもセットされている金髪が、濡れてかなりボリュームダウンしている。さらに後ろに撫で付けてもいないしまだ髭も剃っていないので、確かに印象がかなり違った。
「それも格好いいですね」
「……お前、この状況でそういうこと言うか」
「なにがですか?」
きょとんとしているガブリエラに、ライアンは呆れた顔をした。酔った勢いで自分を犯した男を、この女は何を呑気に褒め称えているのか。
「触ってもいいですか」
「あ?」
「だめですか?」
しょぼくれたような、しかし期待しているようなその顔は、忙しそうな飼い主に遊んで欲しい犬に似ている。
その顔に、つい「……別にいいけど」と言ってしまったライアンは、つい飼い犬を甘やかしてしまうのだと語っていたキースの気持ちを、今完璧に理解できた気がした。許可を与えた途端、輝くような笑顔になったのを見た時の気分も含めて。
びりびりに破かれた襤褸を引っ掛け、歯型と痣だらけの身体で必死に細い腕を伸ばす姿に耐えられず、ライアンはガブリエラを毛布で包んで、胡座をかいた自分の膝の上に、横向きでそうっと丁寧に乗せた。羽のように軽い、と陳腐な台詞があるが、彼女はそれが洒落にならないほど軽い。
「ん」
膝に乗せられ、びっくり顔で固まっているガブリエラに、ライアンは顰めっ面のまま、濡れた髪、というか頭を差し出した。ガブリエラは数秒ぽかんとしていたが、やがてお菓子をもらった子供のような顔になると、そろそろと金髪に手を伸ばす。
「わあ、きらきらですね、きらきら。ふふ、髭も」
濡れていると光って見えるとか、思ったより髪が柔らかいとか、髭がちくちくするとか言いながら、ガブリエラはライアンの髪や髭をくすぐったく触っていたが、やがて、ライアンが首に掛けていたタオルを使って、濡れた金髪を丁寧に拭き始めた。
柔らかいタオルと細い指が、丁寧に水分を拭ってゆく。それはゆっくりとしていてお世辞にも手際のいいものではなかったが、まるで宝物を慎重に扱うような手つきは心地よく、どんなサロンの美容師もしてくれないだろう。
「綺麗な金髪。素敵です」
「……お前こそ」
大方の髪の水分が拭われた頃、じっと髪を拭かれていたライアンは、初めて声を出し、下ろした髪の隙間からガブリエラを見た。
「なんつーか、……いい赤だよな」
本心だった。赤毛自体人口が少ない上、ガブリエラほど鮮やかに赤い髪を、ライアンは見たことがない。真っ赤であるのに不自然ではなく、まるで苺やトマトのような、鮮やかなのに非常に自然な赤。そしてそれを、ライアンは密かに気に入っていた。
「……ふふふ」
ガブリエラはまたきょとんとした後、嬉しげに笑った。
「初めて会った時も、ライアンは髪を褒めて下さいましたね」
「ああ、まあ……」
「覚えていますか? 嬉しいです」
「……他にはねえ色だからな。丸刈りとか、勿体ねえだろ」
「もうしません。あと、もう少し伸ばします」
「そうしろ」
「はい」
ぶっきらぼうに言うライアンの金髪を丁寧に磨いていたガブリエラは、とうとう「乾きました」とやり遂げた声を出した。
「おお……、サンキュ」
自分の髪に触れたライアンは、感嘆の滲んだ礼を言った。
髪を拭かれている最中、「少し傷んでいますね」と言ったガブリエラの指先が青白く、僅かにふんわりと光ったのを見たので予想はしていたが、日焼けで少し荒れ、量が多いために絡みやすい金髪は素晴らしく指通りが良くなっており、どんなトリートメントでも成し得ないだろうキューティクルが復活していた。
気のせいでなければ、肌艶も良くなっている。肌年齢は、バーナビーより下がっただろうか。
「ふふ」
ガブリエラが笑った。先程から、ずっと嬉しそうに笑っている。
間近で細まる灰色の目は、相変わらずブルー・ホールのようだ。何がいるのかわからない、行けば戻ってこれないだろう、怪物が棲んでいるとも新しい世界が広がっているとも言われる、未知の世界へ繋がる星の入り口。
吸い込まれるようなその目を見る度、ライアンはいらいらした気分になった。しかし今ガブリエラやその目を見ても、特にそういう気は起こらない。むしろ安らかで、心地よい水の中で揺蕩うような、満たされたような、そして更に奥に惹かれるような気持ちがある。そして無闇矢鱈に警戒し、挙句にひどいことをしたという罪悪感が、ひどく胸を締め付けてもいた。
とはいえ、手酷く抱かれ、歯型と痣だらけにさせられながらもおとなしく己の膝の上に座り、体を癒やし、丁寧に髪を拭いた彼女を悪く思う男などいないだろう、とも思うが。
(やっぱ睫毛なっげえ)
ライアンは、至近距離でガブリエラを観察した。昨日の夜、彼女を間近でさんざん見たはずの記憶は、残念ながら断片的だ。しかし朝日の中で見る彼女は、その時のどれともきっと違っているだろう。
髪と同じ赤色の睫毛はとても長く、灰色の目との対比が神秘的だ。肌は子供のようになめらかで白く、少し尖った鼻先を中心に薄く散ったそばかすが、全く汚らしく見えない。むしろアクセントになっていて、愛嬌がある。
唇は形がいいが、薄い。この薄めの唇が彼女を中性的に見せている原因のひとつだ、とライアンは気付いた。だが小さめの唇は薄くても柔らかそうで、肌が白いのでその赤さがひどく目立つ。更にその隙間から見える、最近整えられた真珠のように白い歯。
「むぐ」
ふらふらと誘われるように、半分以上無意識にガブリエラの唇に顔を近づけていたライアンは、彼女の細い指に進行を阻まれた。
ライアンの口に指を当てているガブリエラは、先程よりも近い距離で、やはり灰色の目を細めて笑っている。
「いけません、ライアン」
「……あ?」
まるで修道院のシスターのようにゆったり窘められて、ライアンは、戸惑うのと、ばつが悪いのと、それとくすぐったい何か、おまけに蘇った僅かな苛つきとともに、つい低い声を出した。
金色の目が少し顰められ、ガブリエラを獣のように睨んだが、ガブリエラは微笑んだままだ。
「なぜなら私たちは、恋人同士ではありません」