#024
──少し時を遡り、昨夜。
「わ、……ライアン? ライアン、大丈夫ですか」
「なにが」
ぐらりと身体が傾いだライアンの上半身を何とか受け止めたガブリエラは、返事が返ってきたことにとりあずホッとする。しかしよく聞けば彼の声は僅かに呂律が回っておらず、なんだか体温も高い気がする。
「ライアン、酔っていますか?」
「酔ってるってなんだよ」
「……酔っているのですね」
ずっしりと重く、何より大きく厚い彼の上半身を抱えながら、ガブリエラはどきどきした。
喉がガブリエラの肩か首の付け根辺りに当たっているので、彼が話すと、喉仏の動きや低音の震えが直接わかる。量の多い金髪からは、メンズ用の整髪料の香り。高い体温に拡散されるような、高級な香水混じりの男っぽい体臭がとても近い。
「顔色があまり変わっていないように見えたので、気が付きませんでした」
実際、こうして間近に見ても、彼の白い肌はそれほど赤くなっていない。酒に強い者の特徴だ。よく見ると目の周りが赤いが、彫りが深い顔立ちのせいで、薄暗いバーではわかりにくいようだ。
「もう帰りましょう。帰れますか、ライアン」
「……お前、なんかいい匂いする」
「え?」
ガブリエラの心臓が跳ねた。
なぜなら彼女のほうこそ、普段からいいにおいだと思い続けている彼の体臭がこれほど近いことに、非常に胸を高鳴らせているからだ。実のところこうして飲み始めてから、酒よりもライアンのにおいのほうに酔っ払ってくらくらしそうなのを堪えていたくらいだ。
だがガブリエラは他人のにおいに敏感ではあっても、自分のにおいはよくわからない。能力の影響で代謝が早く、気をつけないと普通より垢じみてしまいやすい体質なので気をつけてはいるが、無香料の消臭シートしか使っていないはずなのだが、とガブリエラは慌てて自分の二の腕あたりのにおいを嗅いだ。しかし、特別なにおいはしない。
「……ラムの匂いでしょうか?」
「違う」
「ひゃっ」
ライアンは、彼女の細い肩を両方鷲掴みにすると、更にその首元に鼻先を突っ込んで匂いを嗅いだ。さすがに驚いたガブリエラだったが、下手に身を引くとライアンがバーカウンターの丸椅子からずり落ちそうだったので、何とかこらえる。
座っている状態とはいえ、遠慮なしにガブリエラに体重を預けてくるライアンは、見た目通りに非常に重い。ガブリエラも一部リーグに上がって食生活を見直し、専門トレーナーについてもらって体作りを頑張ってきただけあって何とか支えられたが、以前であれば、支えきれずに潰れていたに違いない。鍛えておいてよかった、とガブリエラは思わぬところで達成感を味わった。
「ライアン、大丈夫ですか。立てますか?」
「耳元で喋るな馬鹿」
寄りかかってきているのはライアンだというのに、ひどい理不尽である。しかし酔っぱらいの言うことにいちいち反応するのも無為であるため、ガブリエラは「はあ、すみません」と適当に返答した。
「あーくそ……いい匂いする畜生……」
いい匂いなら、なぜ罵られているのだろう。忌々しげにぼやくライアンのほうは非常に酒臭かったが、彼の“におい”に普段から惹かれているガブリエラは特段不快にも思わなかったので、先程言われたとおりに黙っていた。
しかしライアンがそのまま動こうとしないので、途方に暮れたガブリエラは、苦笑気味の顔でこちらを見守っていたマスターに、アイコンタクトでヘルプの合図を出す。
マスターは「これは、ひとりで帰るのは無理だろう」と言い、手慣れた様子でタクシーを呼んでくれた。
一部リーグになってから作ったクレジットカードで、ガブリエラはふたり分の飲み代を払った。
代金は、かつて購入した中古のバイクを上回る金額だった。とはいえ以前と比べて、いや比べ物にならないほど稼ぎが良くなったので金額自体は問題ないのだが、突然こんなに高額の支払いをしてカード会社に何か言われないだろうか、と少し心配にはなった。
マジックテープでとめるタイプのよれた財布に真新しいクレジットカードを仕舞ったガブリエラは、マスターに手伝ってもらいながら、半分寝ているようなライアンをタクシーに詰め込んだ。
「ライアン、まだ寝ないで。部屋に着くまで待って下さい」
「寝てねえ」
「そうですか。何よりです」
タクシーの中でもガブリエラの肩に寄っかかってくるライアンに、ガブリエラは声をかけ続け、意識の有無をこまめに確認した。何しろ彼の身長はガブリエラより頭ひとつぶんは高く、体重は倍近くあるのだ。完全に寝られてしまったらいくらなんでも担いでいくことは出来ないし、タクシーの運転手にそこまで迷惑はかけられない。
そしてその心配をよそに、ゴールド・ステージにある、未だ仮住まいであるというライアンのマンションに辿り着いたガブリエラは、今度はタクシーの運転手に少し手伝ってもらいながら、ライアンを車から引きずり出した。
「彼、ゴールデンライアンだよね? こんなベロベロで大丈夫?」
心配半分、野次馬根性半分といった様子の運転手に、ガブリエラは困って、「黙っておいて下さい」と情けない様子でお願いした。ライアン本人の意識がはっきりしりていればこんな時もスマートに対応できるのだろうが、有名人になるということが未だよくわからないガブリエラでは、これが精一杯の対応だった。
しかし幸運にもタクシーの運転手は善良そうな中年男で、「まあ若いんだから酒で失敗もするよな。意外に普通の若者で安心したよ、アッハッハッ」と朗らかに笑い、「言いふらしたりしないよ」と言ってくれたので、ガブリエラはホッとした。
一緒にライアンを車から引っ張り出してくれた彼からは、車の中に置いてある爽やかな芳香剤のにおいがする。間違いなくいい人である彼に、ガブリエラは多めにチップを払った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。お嬢ちゃん、ゴールデンライアンの彼女なの?」
「……ええと」
「おっと、あんまり野暮なこと聞いちゃいけないな。じゃあ、気をつけて」
勝手に納得したらしい運転手は、ウィンクとサムズアップをきめて、夜のシュテルンビルトを走って行ってしまった。またどこかの酔っぱらいを拾いに行くのだろう。
「ライアン、着きました。歩けますか。というか、歩いて下さい」
洗練されたデザインの高級マンションエントランスで、相変わらず、立ってはいるがのっしりと体重を預けてくるライアンに、ガブリエラは困った声で言った。
「……ァア? 歩けって? 俺に?」
「そうですよ。私ではあなたを背負えません」
「当たり前じゃん」
ならばなぜ、後ろから負ぶさるように寄りかかってくるのだろう。時々赤毛に鼻先を突っ込んで匂いを嗅ぐようなこともしてくるライアンに翻弄されながら、ガブリエラはふらふらとロビーの奥に進んでゆく。
(無事に送り届けなければ)
ここでライアンを放っておくという選択肢は、ガブリエラにはない。
何しろ彼はヒーロー、これでもかという有名人だ。しかも派手な割にスキャンダルがなく、それゆえに俺様キャラでいつつも老若男女から好感度が高いという稀有な存在でもある彼のキャリアを、ガブリエラはこんなことで傷つけたくなかった。
それはガブリエラがゴールデンライアンというヒーローの熱烈なファンであり、ライアン・ゴールドスミスという男を愛しているからこその強い使命感だった。
「ライアン、お願いです、ちゃんと歩いて──」
「おねがい?」
ライアンが、ぴくり、と反応した。
「お前、今、俺にPleaseっつった?」
「言いました」
「ふうん」
にやにやと笑みを浮かべたライアンにガブリエラは首を傾げるも、更に伸し掛かってくる彼に、再度言った。
「ライアン、頼みます。歩いてください」
「……嫌だね」
ライアンはそう言って半目になると、ガブリエラの耳元で言い、顎をガブリエラの脳天に置いた。
「その言い方、気に入らねえ」
「そんな──」
理不尽な物言いと重みを増す彼の体重に、ガブリエラは途方に暮れた。
「うう」
ガブリエラが情けない声を出してふらつくと、ライアンは「ふはっ」と、楽しげな笑い声を出した。
「もう、何がおかしいのですか」
ぶつくさ言いつつも、ガブリエラは、彼が初めて自分の前で屈託なく笑ったことにどきどきしながら、オートロック・エントランスの前によたよたと歩いて行く。
生体認証システムの前で、ライアンに声をかける必要はなかった。なぜならガブリエラの前に垂れ下がった腕が勝手に上がり、システムパネルに手のひらを置いたからだ。
「ライアン──、えっ、あの」
「最上かーい」
二重になったガラスの扉が僅かな音とともに開くと、ライアンが歩き出す。ガブリエラは今度は彼に押されるようにして、中に入っていった。何しろライアンがべったり後ろからのしかかってきている上、太く重い両腕がジェットコースターの安全バーよろしく前に垂れ下がっているので、彼が歩けばそのまま歩くことしか出来ない。
無理に振り払えば足元が頼りない彼が転ぶかもしれないし、何より振り払う理由がなかったため、ガブリエラは仕方なくそのまま、ライアンが押す方向通りに歩き、エレベーターに乗った。
最上階は、バーナビーの部屋がそうであるように、ワンフロアにごく僅かな戸数しかないようだった。しかも玄関とは別にそれぞれのエリアがまた生体認証のドアで区切られているので、他の住人と顔を合わせる機会も殆どなさそうな作りだ。
そしてライアンの部屋のエリアにいよいよ入るゲート、再度生体認証をするパネルの前で、ガブリエラは戸惑った。
「ライアン、あの、私、帰ったほうが」
「はあ? お前、俺んちに来たくねえわけ?」
「えっ、それは、その」
正直に言えば、非常に興味があった。なにしろガブリエラはゴールデンライアンの大ファンで、ライアン・ゴールドスミスという男を愛しているのだから。
「え、いいのですか。あの、その」
「入りたいなら、頼めよ」
「えっ」
「ねだってみろっつってんの」
にやにや笑っていることがわかる、耳元で囁かれた低い声に、ガブリエラはとうとう顔を赤くした。
「……お、おじゃま、したい、です。お、おねがい、します」
Please、と緊張と恥ずかしさで震える声に、ライアンは大きな口の端を吊り上げた。目の前にある、ピアスをいくつかした耳が赤く染まるのを見た金の目が、満足気に細まる。獣が舌なめずりをするような笑顔だった。
「やればできんじゃねえか」
腕が上がり、生体認証パネルが鍵を開ける。ドアが開いて自動的に照明が着き、家主と来訪者を出迎えた。
ライアンに伸し掛かられたまま、ガブリエラはよたよたと玄関をくぐった。靴は履いたままでもいいのかと聞こうと思ったが、ライアンがそのまま部屋に入っていくので、やむなくそのまま入っていく。
物は少なめだ。だがライアンが大柄なせいか、いちいち家具が大きい気がする。天井は意味不明なほど高く、どうやって電球を換えるのか見当もつかない。広々としたリビングに大きなラグが敷かれ、背の高いおしゃれな間接照明や、詰めればガブリエラが3人くらい寝転がれそうなソファが置いてある。
西側の海に面した大きな窓からは、右手の方にメダイユ郊外の夜景が遠く見える。
さらにリビングを抜けて小さな部屋に入ると、その小さな部屋がいっぱいになるような大きなケージが設置されていた。むわっと熱気を感じるほどの室温は、ケージの中にいる彼女のための設えだろう。
「彼女がモリィですか?」
「そう。挨拶しろよ」
「こんばんは、モリィ。はじめまして」
大きなケージの中で眠そうな半開きの目をしている大きなグリーンイグアナに、ガブリエラはケージ越しに挨拶した。正面から見るとふんわりと笑っているようにも見えるイグアナの顔に、つい笑みが浮かぶ。ライアンはケージの扉から手を入れて、モリィの緑の肌を慣れた様子で撫でた。
「ではモリィにも挨拶しましたし、私は帰ります。ライアン、もう寝て下さい」
「なんで」
「なんでと言われても」
部屋に行けばなんとかなると思っていたのだが、まだ酔っぱらいにぐずられて、ガブリエラは困惑した。
「俺に命令する気か、ん?」
「命令などしていません」
「気に入らねえなあ」
「ひゃっ」
ガブリエラは、声を上げた。ライアンが体の前で腕を交差し、後ろから彼女の体を軽々持ち上げたからだ。脚がぶらんと空中に浮いた足が、遠心力で投げ出される。
「ライアン、離してください!」
自分を完全に拘束する太い腕や、背中に密着する厚い胸に、ばくばくと高鳴る自分の心臓の音が伝わるだろうことに焦りながら、ガブリエラは言った。
「イヤだね」
ライアンはガブリエラを持ち上げたままモリィの部屋を通り抜け、今度は大きな部屋に入っていった。しかし、彼はまだガブリエラを抱えたままだ。
「うーわ、なんだこれ、軽っ。引くわ、引くほど軽い」
「ウェイトは増えたのですが」
「気に入らねえなあ、お前は、もう、色々」
「何がですか……」
途方に暮れたように、ガブリエラが言った。
彼が自分のやること成すことに不満があることについてはバーでも聞いたが、どうやら未だあるようだ。それなのにこうしてべったりくっついてきて、その上でぶつぶつ文句を言ってくるという矛盾に戸惑いつつも、単純に好きな相手にくっつかれて拒否できないガブリエラは、ただじっと縮こまり、ライアンの気が済むのを待った。
「あー、細い……。つーかほんと何だよこの服。ダッセェ」
「……ださいですか」
「ダッセェ。何だこの生地」
「生地」
デザインとかではないのか、おしゃれの上級者は言うことが違うものだな、と、ガブリエラはこんな時なのに妙に感心した。
「ペラッペラじゃん、ペラッペラ」
「そうでしょうか」
確かに洗濯する度薄くなっている気はしますが、とガブリエラは若干トンチンカンなことを言いながら、自分の着ている、よく知らないバンドのロゴが入ったTシャツを見下ろした。
ケア・サポート時代、貧乏でその日の暮らしがギリギリのガブリエラに、いらない、余った、という名目で、社員が色々とものを分けてくれることがあった。Tシャツはその最たるもので、お下がりや、柄が気に入らなくて着ないものなどを時々譲ってもらっていて、これもそのうちのひとつである。
「引っ張ったら破けるだろ、これ」
「え」
ガブリエラは、声を出すことも出来ず硬直した。ライアンが自分を床に下ろし、今度はくるりと自分の体を前後反転させたと思ったら、襟元に手をかけ、紙のように引き裂いたからだ。──Tシャツはもちろん、その下に着ていたブラトップごと。
「え、あ、ええええええええええええ」
「うわ、はっはっはっはっ! マジで破けた! あっはっはっはっ」
胸元どころか腹まで顕になったガブリエラは慌てて破けた服を手でかき寄せたが、ライアンは喉を仰け反らせ、指をさしてげらげらと大爆笑している。
「ええ〜……」
びりびりに破けたTシャツとブラトップを見下ろして、ガブリエラは呆然とした。Tシャツだけならともかく、下着まで引き裂かれたせいで、縫い込まれた薄いパッドがはみ出してしまっている。
ガブリエラは女性らしさに欠ける容姿の持ち主であるが、女性であるという自覚はあるし、容姿どころか時に性別とてどうでもいいという犯罪者が少なくないことも知っている。そしてお世辞にも治安がいいとはいえないシュテルンビルトで、半裸に近い状態で女ひとりうろつくことがどれだけ危険か、ということも理解していた。
というわけで、さすがにこれでは帰れない。ライアンの服を借りるか、しかしそもそもサイズが違いすぎるのでまともに着られる服があるだろうかと途方に暮れつつ、ガブリエラは破けた服を握りしめ、困った顔で立ち尽くした。
しかしげらげらと笑うライアンがあまりに楽しそうなので、惚れた弱みもおおいにあって毒気を抜かれたガブリエラは、肩を落としただけで怒りを覚えることはなかった。さすがに、面白くはないが。
「もう、どうしてくれるんですかライアン」
「なーにが。破けるような服を着てるお前が悪いんだよ」
「いえこればかりは私は悪くないと思います……、ひゃっ」
「口答えすんな。なんだこのデニム。最悪だな」
ファッションチェックはまだ続くらしい。目が据わったライアンは、ガブリエラが履いている、古着屋で安さだけを理由に購入したジーンズの、太もも辺りの裂け目に思い切り指を突っ込んで、力いっぱい引っ張った。
両手でシャツを掻き合わせているせいでノーガードの下半身にちょっかいを出されたガブリエラは反射的に飛び上がりそうになったが、パンツを掴まれているせいで結果バランスを崩し、ライアンの胸に飛び込むことになる。分厚い胸板のちょうど間に、ガブリエラの鼻先が埋まった。
「むぐっ、あっすみません、え? えっちょっと、ライアン」
「何だよこれ。ダメージジーンズにも程がある。ただのボロ布じゃん」
「あああ、引っ張らないで、やめ、……脱げる!」
破れたデニム生地の裂け目に指をかけ、ぐいぐい引っ張って破こうとするライアンに、ガブリエラはとうとう悲鳴を上げた。それは実際に裂け目が広がって繊維がぶちぶち千切れる音がしているからであり、そして流石にデニム生地だけあって簡単には破れず、サイズが合っていないために腰で履いていたそれが、尻からずり落ちて脱げそうになっているからだ。
ガブリエラもライアンから逃げようとはしたのだが、胸に飛び込んだ時に片腕でガッチリ抱きしめられるように拘束されてしまい、全く身動きがとれない。形振り構っていられず胸の前で掻きあわせていたシャツを離して、引きずり降ろされようとしているジーンズを必死に引っ張り上げた。
しかし酔っているとはいえ、いや酔っているからこそ遠慮無く腕力に物を言わせるライアンに綱引きで勝てるわけもない。
去年安さを理由に購入したダメージジーンズは、辛うじてサイドの縫い目部分が繋がっているだけという、古着屋でも買い取り拒否をされるだろう正真正銘のボロ布に成り果てた上、とうとうガブリエラの尻を覆う役目を放棄した。
「アアー! パンツ!」
ジーンズが脱げた拍子に下着まで半分脱げたガブリエラは、さすがに焦って悲鳴を上げる。しかしライアンは片腕で軽々ガブリエラを持ち上げると、宙に浮いた下半身から、海老の殻でも剥くかのように、ダメージがいきすぎたボロ布ジーンズを剥ぎとって、部屋のどこかに放り投げてしまった。
そしてライアンは、そのまま、ぽんとガブリエラの身体を放った。着地点は、ライアンの大柄な身体でもかなり余裕のある、ガブリエラなら誇張抜きで10人くらい寝られそうな大きなベッドである。
上等なスプリングでぽわんと跳ねたガブリエラは、服を剥ぎ取られ、あまりに軽々と投げられたことに目を白黒させながら、反射的にうつ伏せになり、這ってベッドから降りようとした。
「どこ行くんだよ」
「ふぐっ」
しかしそれも、上からすぐ伸し掛かってきたライアンに阻止された。細い手首は両方共掴まれ、体重をかけられた上半身が、柔らかなベッドに沈む。膝を立てていたせいで、下着が半分脱げ、小ぶりな尻の割れ目が見える腰だけが高く浮いていた。
「あークソ、いい匂い。なんだこれ」
「ひぎゃ……!」
また髪に鼻先を突っ込んで匂いを嗅いでいたかと思ったら、今度は大きな舌でべろりと首筋を舐められて、ガブリエラは悲鳴を上げた。
「うるせえ」
不機嫌そうに言ったライアンは、今度は、破けたシャツがずれて顕になった細い肩にがぶりと噛み付いた。再度悲鳴が上がるが、無視である。
「痛、痛いですライアン、噛まないで、ひゃん!」
細い肩に噛みつく顎は、本当に猛獣のようだ。ごり、と音がするほど強く噛まれて、ガブリエラが痛みに声を上げると、ライアンは肩からやっと口を離した。しかし今度は、大きく、しかし綺麗な歯並びの歯型がついたそこをべろりと舐められる。ガブリエラが思わず悲鳴を上げて脚をじたばたさせたが、それもライアンの脚が絡められ、動きが封じられてしまう。
「おいお前、コラ。ベッドに上がるときは靴を脱げ」
「えっすみません、ええ?」
反射的に謝ったガブリエラは、愛用しているブーツを無理やり脱がされながら、しかしあまりの理不尽に困って、眉尻を下げた。ゴトンゴトン、と音がしたので、どこかに放り投げられたらしい。次いで、重い音がまたふたつ。ライアンも靴を脱いだらしかった。
靴下ごと脱がされ、脱げかけの下着しか残されていない脚に、ライアンの、こちらはサイズがばっちり合っているジーンズの感触がする。中途半端に顕になった尻の割れ目にライアンのベルトのバックルが触れ、その冷たさに、ガブリエラはびくりと身体を震わせた。
「ライアン、何をするのですか」
「さあ」
面白がっているような声で言ったライアンは、今度はうなじをべろりと舐めた。獲物を弄び、味見をするような仕草。ガブリエラがぎゅっと目を閉じて身体を縮こませると、ライアンは満足したように口の端を吊り上げる。
「お前、処女?」
「えっ、あ、はい」
「本当に?」
「はい……」
ガブリエラは、おとなしく、正直に頷いた。「ふうん」と声だけはどうでもよさそうな反応をしたライアンは、赤い髪の中に鼻先を突っ込んで、ピアスのキャッチャーごと彼女の耳の裏を舐めた。ガブリエラがそれに反応すると、喉を鳴らしてライアンが笑う。
「どうして……どうして、こんな」
「ああ?」
低い声とともに、ガブリエラの身体がひっくり返された。先程からもそうだが、あまりに軽々扱われるのでガブリエラはついていけずにされるがままだ。あっという間に仰向けにさせられ、上から覆い被さるライアンと、真正面から目が合う。
「……お前を見てると苛々する」
そう言って、ライアンはガブリエラを睨んだ。捕まえた獲物を前に、どこから牙を突き立ててやろうかとする獣のようにぎらついた目。そしてその金の目が近づいてきて、至近距離でガブリエラの灰色の目を覗きこむ。
「お前、抵抗しねえなあ」
「できないだけですよ……どれだけ体格差があると思っているのですか」
「じゃあ離してやるよ。ほら」
「えっ」
本当に手首を離され、抑えこまれた脚も自由にされたので、ガブリエラは目を丸くする。いまライアンは、ガブリエラを跨いで膝立ちになっているだけで、指一本ガブリエラに触れていなかった。
「え、えっ」
突然のことに驚いて、ガブリエラはもたもたする。半裸というにも頼りない、みすぼらしく破けたTシャツと脱げかけの下着だけでベッドに転がっている自分を悠々と見下ろす彼に、ガブリエラはどうしていいかわからなくなった。
襤褸を纏った痩せっぽちのガブリエラと違って、ライアンは完璧だった。
着ているのは首元が広めに開いているだけのシンプルなシャツだが、ちゃんと身体に沿ったラインをしていて、彼の見事な体格を強調している。先ほどガブリエラが顔を突っ込んだ分厚い胸板が、その部分の生地を突っ張らせていた。
少なくとも2桁くらいは値段が違うだろうジーンズは縫い目ひとつとっても格好良くデザインされ、がっしりした腰にぴったりくっついている。大きめで目立つバックルは、シルバーの凝ったデザイン。
ワックスでセットされた髪は少し崩れているが、やや乱れた金髪が整った顔にかかっているだけで、惚れ惚れするほど格好良かった。
今なら簡単に逃げられる、ということはわかる。しかし、逃げてもいい、と言われたわけではない。中途半端に投げ出されてどうしていいかわからなくなったガブリエラは、ただおろおろと彼を見上げた。──無意識に彼の許可を求める自分に、ガブリエラは気づかなかった。
「時間切れェー」
「あっ」
たっぷり30秒はガブリエラの挙動を楽しんだライアンは、再度彼女にのしかかった。一旦離した腕をばんざいさせるように払い、彼女の細い手首をひとまとめにし、赤毛の頭の上で片手で掴む。そしてもう片方の手は、破けた服を払って顕になった、見た目膨らみが殆ど無い胸に被せるように置かれた。置くだけでなく、やわやわと指先が動く。
「ふーん、ちゃんと柔らかいじゃん。薄いけど。すごい薄いけど」
「う……」
「ピンク」
「ひぎゃっ」
ライアンが言ったとおりの色の乳首をきゅっと指で押さえられ、さすがに恥ずかしくなったガブリエラが声を上げて赤くなると、ライアンが笑った。
今までずっと不機嫌そうにぶすくれているか気まずそうな顔をされるばかりだったので、至近距離で男っぽく微笑まれたガブリエラは、きゅうと胸の奥が縮まるのを感じた。
「ずるい。ひどい」
「なにが?」
ガブリエラがしょんぼりした犬のような顔をして情けない声を出すと、ライアンはひどく楽しそうに、彼女の身体を弄り始めた。
しかも、薄いだの肉がないだのしきりにダメ出しをしながら、脇腹や膝、腕などをがぶがぶと噛む。時折浮いた骨ごと肉をかじられる痛みに、獣に食べられているようだ、とガブリエラは思った。時折、強く肌を吸われたりもする。その具合がきつすぎて、唇の感触よりも、吸われた肌がライアンの歯に当たる感触のほうが強かった。
「薄い。貧相すぎる。このドM、ガリガリになって楽しいか、ええ?」
「うう」
「……でもまあ、肌はキレイだよな」
「えっ」
今まで乱暴に噛んだり吸ったりしていたくせに、体温の高い手のひらが、突然まるで愛でるようにゆっくり腹を撫でたので、ガブリエラはびっくりした。
「赤毛って、肌白いのな。ソバカスって汚く見えたりすっけど、お前のは全然そんな感じしねえなあ。初めて見た」
「ひん!?」
強く噛まれてひりひりする所をねっとり舐められて、ガブリエラが声を上げる。しかし彼女が声を上げたのは実際の肉体的感覚もあるが、散々ダメ出しをされこき下ろされた体を打って変わって褒められた、という落差のせいが大きかった。
「うわ、吸い付く……」
「……う」
舌で温めるようにゆっくりと、歯型のついた鎖骨あたりを舐められる。片手は、開き始めた太ももの内側をゆっくり撫でていた。
「イイか?」
乳首を舐められたり摘まれたりしながら言われ、ガブリエラは真っ赤になった顔でじっと黙った。どうすればいいか、全くわからなかったからだ。
何しろガブリエラは、ライアンに褒められたことが滅多にない。ただでさえ、初めて好きになった男だ。貶されるのも褒められるのも衝撃が大きすぎて、ガブリエラは完全に振り回されていた。
だがその反応に満足したのか、ライアンがまた笑みを見せる。ガブリエラが困ったり、恥ずかしがったり、驚いたり、なにか懇願したりするとライアンの機嫌が良くなるということに、ふたり共気付いていなかった。
「あー、窮屈。おい脱がせ」
「えっ」
「上脱がせ。ほら」
ライアンはまたガブリエラの拘束を解くと、少し体を離し、自分が着ているTシャツの裾を引っ張ってみせる。ジーンズとシャツの合間から、くっきり割れた腹筋が見えた。
「え、ええと」
「どんくせえ女だなあ、ほら」
またダメ出しをしながら、ライアンはガブリエラの両手を取って、自分のシャツの裾を掴ませた。ガブリエラはどぎまぎしながら、控えめに、ほとんど指先で、触れると確かにいい生地とわかるシャツの裾を持つ。
「ええと、あの、ライアン」
「何だよ」
「あの、私、さわ、触って、いいのですか、私、あの」
白いと褒められた肌を赤くし、おろおろと、支離滅裂な言葉を発するガブリエラを見下ろしたライアンは、大きな笑みを浮かべた。熱にとろけたような金色の目が細まり、ガブリエラを満足そうに見下ろしている。
「いいぜ?」
低く発された傲慢な許可に、ガブリエラが震えた。その時、──ゆるしてもらった、という、頭の悪い犬のような喜びが湧き上がる。彼女もまた、脳内から急激に分泌された、酒よりも始末の悪い何かに支配されつつあった。
それはガブリエラにとって、覚えのある感覚だった。怪我人だけでなく、群がる人々の怪我を、カロリーバーを継ぎ足しながら、目眩と闘いながら治し、倒れて意識を失いかけた時。油を飲み、すべてのカロリーを乗客に分け与え、餓死寸前で朦朧とした時。一度でも転べば大怪我をする危険なライディングの上、跳ね橋をジャンプして飛んだ時。
──お前、キモチイイんだろ?
そう言われた時、ガブリエラは、ずっと歩いてきたぎりぎりの崖っぷちから、とうとう勢い良く突き落とされたような気分だった。それは絶望であり、そして表裏一体の歓喜で、自分を見失いそうな快感でもある。
死にたいわけではない。むしろひどく生き汚い。ガソリン臭い草を食べ、その辺に這っている蛇を捌いて食べてでも、ガブリエラは生きることに執心してきた。そしていつ頃からか、どんな事が起きても生き延びていられることに、奇妙な興奮を覚えるようになっていたのだ。
スリル中毒、アドレナリンジャンキー。専門的な言葉は知らないが、きっとライアンの言ったことは間違っていない、とガブリエラは思う。むしろ自分の病にきちんと名前があるのを知ったような、独特の安心感さえ感じた。
荒野の果ての教会で母が語る、殉教の聖人たち。自分の身を犠牲にして人々を救い、聖者と呼ばれるかつての人々の話を聞く度、彼らはさぞ心地良かっただろうなとガブリエラは思った。
無謀な挑戦を讃えられ、美化され、長く語り継がれてゆく人々。背負わなくてもいい罪を背負い、鞭を与えられ、消えない傷痕を刻みつけられ、骨と皮になるまで痩せた姿を、誰もが涙を流して讃え続ける。
そんな姿を見本とする教えに囲まれ、ガブリエラは、善行を認められねば食べ物を与えられず、自分の身を削っても他人を助けることこそが正義と教えられ、太っていることを恥や罪と言われて育った。
しかしそれでいてその考えに完全に洗脳され切らず、母を冷静に施設に入れたガブリエラは、いつしかどこかがどうしようもなく歪みきり、聖者のように振る舞うことに、奇妙な快感を覚えるようになっていた。
何が聖女だ。ただのドMの変態女──そう言われた時、まったくもってそのとおりだと、ガブリエラは泣きたくなるような気持ちだった。悲しいのではない。むしろその逆だった。とうとう言ってもらえた、と。
恥ずかしい、とは思った。初めて愛した男に、奥の奥にある下衆な本性を見破られ、手酷く罵られるなど、なんてひどい。恥ずかしい。快感が強すぎて、膝から崩れ落ちそうだった。
──ガブリエラは、天使を待っていた。
女神から遣わされる、偉大なる天使。
天使は善行を積んだ者だけに翼を与え星に導き、地上に残る愚か者の手足を黄金の光で焼き尽くすという。
星の街・シュテルンビルトを目指して、ガブリエラは歩いてきた。
しかし、地べたを這いずり、泥水を啜り、口に入るものはなんでも飲み込んで生きることに執心し、歪んだ快感を貪る己が聖者ではないことなど天使はきっとお見通しだと、ガブリエラは確信していた。
あの事故から救助された日、朦朧とした世界で彼の輝きを目にした時は、本気で彼を天使かと思った。人智の及ばぬ、絶対的な輝きの持ち主。自分に罰を与えにとうとう天使がやって来たとガブリエラは歓喜に震え、思わず笑ったのだ。──殉教の聖人のような、恍惚の笑みで。
黄金の翼を持った彼に組み伏せられるような姿で飛んだ時は、もしかしたら、このまま本当にどこかの星に飛んでゆくのではないか、と幻想すら見た。
そして今日、はっきりと本性を見抜かれ容赦なく正面から言及され手酷く罵られた今、ガブリエラにとって、ライアンは本当に天使のような存在になった。
ああ、このひとに罰されたい、と、ガブリエラは請い願う。
茨で縛られ、目の潰れるような輝きを見せつけられ、なんと汚らわしく醜いのだと罵られたい。罪を犯した奴隷のように扱われて、偽物の羽根を乱暴に毟り取られてしまいたい。美しい黄金の獣に食い尽くされる想像、それがもたらす歪んだ恍惚、陶酔、そして快感。
更には今回罵られた後で褒められたのは、想像もしていなかった悦びをガブリエラにもたらした。痩せた身体を容赦なく罵られ、好き勝手に弄られ、それでも多少は悪くないと言ってもらえる。──赦してもらえる快感に、危うく失神しそうだった。
ああ、これは、──愛している。何より特別に、どうしようもなく。
ガブリエラは涙が出そうなほどうっとりとそう思い、まるで愛する主人のサンダルにキスすることを許された奴隷のように、ライアンの、いい生地を使ったシャツの裾に手を触れた。