#023
「今日はライアンとこうして話ができて、とても嬉しいです」
ガブリエラはにこにこと言ったがしかし、次に少し頬を膨らませて、不貞腐れたような顔を作った。
「本当はもっと早く、色々お話したかったです。しかし、あなたが私を避けるので」
「……避けてねえよ」
「嘘つきですね。あ、先程のお酒、もう1杯ください」
「俺もさっきと同じやつ」
ガブリエラがカクテルをおかわりしたので、ライアンもウィスキーをもう1杯注文した。甘ったるい香りのシューターカクテルと、琥珀色のグラスが素早く出される。
「もうはっきり聞きますが、そんなに私が苦手ですか、ライアン」
「……俺に苦手なもんなんぞねえ」
「では、私に悪いところがあるなら仰って下さい。直します。……なるべく」
「なるべくかよ」
「出来ることと出来ないことがあります」
ガブリエラは、難しい顔で言った。酔ってきているのだろうか。
「悪いところっていうかさァ……」
ライアンは、言葉を濁した。
ガブリエラは眉を寄せ、つまみとして出されたドライフルーツを口に放り込むと、2層に分かれたグラスの中身を混ぜて、ひと息に飲み干した。
「そこのラム、ストレートでください。海賊の絵の」
シューターカクテルを2秒で飲み干したガブリエラは、カウンターの奥にずらりと並んでいる重厚なボトルのひとつを指差した。マスターが頷き、濃い琥珀色のそれをグラスに注ぐ。
海賊の船長らしいイラストのラベルには、“To Life, Love and Loot”──人生とは愛と略奪、という暑苦しいスローガンが入っていた。
ラムをストレートでというだけでも若い女としてどうかという飲み方なのに、いかにも荒くれの海賊の酒と言わんばかりの銘柄を選んだガブリエラに、ライアンは驚きと呆れが混じった顔をした。
「おいおい、大丈夫かよお前。21歳だっつってなかったっけ」
「……お前と言いましたね」
「あ?」
少し嬉しそうな声を出したガブリエラにライアンが怪訝な顔をすると、ガブリエラは顔を上げた。真っ赤になっていたりするのでは、と思っていたその顔はいつもどおり白く、けろっとしている。目が据わったりもしておらず、いつもどおりきらきらした灰色の目が間接照明を反射していた。
「私が生まれたところは、ミネラルウォーターよりお酒のほうが安かったのです」
「……ああ、なんかそういう所あるよな」
「しかも、まずくて臭くて度数ばかり高いものしかありません。……ああおいしい」
出されたラムを大事に飲んで、ガブリエラは嬉しそうな顔をした。
「それにしてもラムって。さっきまでカクテルばっかり飲んでたのに」
「カクテルも好きです。甘くて、色やグラスがきれいなものは特に。ラムはにおいがとても好き。それぞれのラムで違うにおいがするのも楽しいです」
「つーかお前、さては飲み慣れてんな? そういや歓迎会の時、瓶のままビール飲んでただろ。あの時何本飲んだ?」
「何本? 甘くない炭酸水を何本飲んだか?」
「成人年齢になったばっかりのくせにお前……」
そう言ってじろりと睨むと、ガブリエラはピチュピチュと鳥の声のような口笛を器用に吹いて、また酒を口に流し込んだ。
「おい誤魔化すな」
「これは、私がシュテルンビルトに来て初めて飲んだお酒です」
ライアンの突っ込みにそっぽを向いて、ガブリエラはそばかすの散った鼻をひくひくさせた。
「ゴールド・ラムというのです。いいでしょう」
「……そりゃイケてんな」
悪戯っぽく笑って言ったガブリエラに、ライアンは肩をすくめてみせた。
「この金のラムを飲んで、私は感動しました。そして理解しました。それまで私が飲んでいたのはおそらく◯◯の◯◯◯だったのだと」
「は? なんて?」
「ああすみません、汚い言葉を使いました。忘れてください」
地元の、例の方言らしい。全く聞き取れなかったそれに、ライアンは、マジで外国語みてえだなというのと、こいつも汚い言葉を使うことがあるのかというのとで半々の、妙な感心をした。
「ふーん、ラムね。俺、ラムってストレートで飲んだことねえわ」
「飲んでみますか?」
「おー」
ガブリエラが軽く滑らせてきたグラスを手に取り、ライアンはまず香りを確認した。濃厚なバニラとシナモンの甘ったるい香りが鼻先をくすぐる。そっと口をつけて流し込むと、鼻腔いっぱいに香りが広がった。まろやかで甘めの飲み口だが、割と度数の高いアルコールが喉を焼く。
「へえ、結構イケるな。めちゃくちゃにおいが甘いけど」
「味やにおいが甘いお酒は、カロリーが高いのです」
「ああ」
なるほど、とライアンは納得した。ガブリエラがかつて、とにかくカロリー重視の、とんでもない食生活を送っていたことはライアンも知っている。酒のカロリーは馬鹿にできないし、ブランデーやリキュールなどの甘い酒は、殆どシロップに近いものも珍しくない。
「料理とかお菓子にも使うしなあ」
「バーナビーさんが作ってくださったパウンドケーキも、ラムの香りでした。とてもおいしかったです」
「ああ、確かにうまかった」
ライアンはもうひとくち甘ったるい酒を口にしてから、グラスをガブリエラに返した。そして返してから、ぼんやり、なんだかえらくナチュラルに同じグラスに口をつけたな、と今更になって思う。
──少し、酔ってきているのかもしれない。
しかし、それほど大したことじゃない。ビールを甘くない炭酸水だと思うのは自分も同じだし、実際今までどれだけ飲んでもみっともなく泥酔したことなどないのだから、とライアンは思い直す。
これはコミュニケーションが円滑になるよう、適度に酒の力を借りてほんの少しガードが下がっているだけだと。
「……俺もラムいくわ。なんかオススメ頂戴」
甘ったるすぎないやつがいい、とライアンがリクエストすると、マスターは、先ほどの暑苦しい重厚なボトルとは真逆の、スタイリッシュなデザインの細く白いボトルを出してきた。
「ホワイト・ラム?」
ゴールド・ラムのように樽ではなく、活性炭で濾過して作られた無色透明のラム。そう説明を受けてライアンは片眉を上げたが、マスターは「定番なので、ラムの初心者にはオススメ」と言っただけだった。
ホワイトアンジェラに金のラム、ゴールデンライアンに白のラムを出した、元ヒーローだという訳知り顔のマスターに黙って苦笑を浮かべ、ライアンはグラスの中身を煽った。
「……美味いな」
甘すぎず、豊かな風味。カクテルのベースとしてもよく用いられるせいか、濃厚すぎない洗練されたフレーバーが、すっきりとして心地いい。
それから、ラムに限らず何杯かの酒が、ふたりの喉の奥に消えた。仕事の話をし終わった後、酒を飲んでいれば間が保ったからだ。
帰ろう、とは、なぜかどちらも言い出さなかった。
「……それで、私の何が気に入らないのですか」
ラムのボトルを1本消費しきった頃に発された高い声は、やや不貞腐れていた。彼女は少し顰めっ面をして、軽く睨むようにライアンを見ている。その灰色の目線に、ライアンの胸の底で、爪で引っかかれたような苛つきが湧き上がった。
ライアンはガブリエラと接する時、いつもこういう気持ちになる。苛々して、どうしようもない。どうしても、警戒するかのように構えてしまうのだ。更にそれがなぜなのかわからないことに、また重ねて苛々する。
「……色々だよ」
下瞼を持ち上げるようにして目を細め、苦笑のような、嘲笑のようなものを浮かべてライアンが言うと、ガブリエラは更に不貞腐れたような、怒ったようにも見える顔をした。怒ったところを誰も見たことがないという彼女のそんな顔は、おそらくレア。
そんな彼女の反応に高揚するような感覚を感じながら、しかし飲み慣れない酒のせいだと思い、ライアンはグラスの中身を飲み干した。
「まず、お前さあ」
「何ですか」
間接照明をきらきらと反射する灰色の目が、まっすぐにライアンに向けられている。ライアンはもう1杯ホワイトラムを注文してひと口飲んでから、ほとんど初めて、彼女の目を正面から見返した。
独特な上、強烈な光を放つ、吸い込まれそうな灰色の目。ブルー・ホールのような、とんでもない深さの、それでいてどこまでも冴え渡って見える透明度を誇る、母なる海の穴。あるいは宇宙にあるブラックホールのように、何がいるのかわからない、行けば戻ってこれないだろう、未知の世界へ繋がる星の入り口。
だがここ何日も用心深くその穴の周りをうろうろしていたライアンは、だんだんその正体がわかってきていた。
ライアンは、空気とか、場の流れとか、人の心の動きを読むのが得意だ。そのおかげで幾つもの人脈を作り上げ、人の目を惹き、ここまでの地位を築いてきた。デキる男にわからないことなどないのだと、ライアンはガブリエラの目を平然と、傲慢に見返す。お前の底などお見通しなのだと。
「──お前、本当は、人助けがしたくてヒーローやってるわけじゃねえだろ」
深く、低く、唸るように。容赦なく胸を抉るような声でそう言ったライアンに、ガブリエラは、目を見開いた。
「何を……」
「天使、聖女、本当のヒーロー? お前が? バッカ馬鹿しい」
白いラムを煽った。タン、と、グラスの底がカウンターにぶつかる音。
「まあ、ヒーローやる理由なんか人それぞれだ。アライグマのおっさんみたいに暑っ苦しいほど純粋に人助けがしたい奴もいれば、ジュニア君みたいに、他に目的があってその手段って奴もいる。有名になりたい、人気者になりたいだけの奴もいれば、自分の能力を活かしたいとか見せつけたいとか、そういう奴も。でもお前はそのどれでもねえだろ」
「私は」
「お前は」
ライアンは、腰を少し折り、ガブリエラに顔を近づけた。獲物に今から噛み付こうとする、腹を空かせた猛獣のように。
橙色の光をゴージャスに反射する、大型の獣のような金の目は、熱く溶けるようだ。それを近くから見上げるガブリエラは、どこかぼんやりしていた。それは捕まえられ、ただ捕食されるのを半ば諦めて待つ哀れな獲物のようであり、何かを期待して陶酔しているようにも見える。
「──お前、キモチイイんだろ?」
じわりと舐めあげるような、低い声。ガブリエラは、限界まで目を見開いた。喉元に噛みつかれて反射的に絶叫するようなその顔に、ライアンは満足する。
「お前がガリガリになるまで能力を使うのは、正しいからだとか、だからしょうがないとか、そういうことじゃねえだろ」
ガブリエラは、黙って聞いている。
「人を助けたいっていうのは、嘘じゃねえだろうよ。……そうだ、お前は嘘は言ってない。ただやりたいからやってるだけってのは、嘘じゃない。でも本当のことも言ってない」
硬直した灰色の目が自分から逃げないのを確認しつつ、ライアンは続けた。
「人を助けて死にかけるのが楽しくて、キモチイイんだろ。お前は」
「私は──」
「いるよなあ、お前みたいな奴。スリル中毒、アドレナリンジャンキー」
例えば、氷点下の世界で、鼻が腐り落ちてもまだ山に登るアルピニスト。高層ビルの屋上の縁で、命綱のないアクロバットに挑戦するパフォーマー。
その正体は結局、世界中のどんなドラッグでも得られないという強烈な高揚感をもたらし、それでいて誰もが脳から分泌することの出来るアドレナリンやドーパミンの依存症だ。
しかしそれが明らかでありつつも、密かに誰もが持つ欲求でもある死と隣り合わせのチャレンジは、沢山の人の目を引く。勇気ある挑戦、と称える者すらいる。
独り善がりな挑戦であろうとそうであるのに、その挑戦が人を救うものなら、それは身を挺して人を救う、自己犠牲の聖者となる。ただ崖を飛び降りるのは気の触れた自殺志願者だが、それが溺れる子供を助けるためであれば、途端に見方は変わってくる。
その勇気ある挑戦の最中、人々は彼らを讃え、成功した時、それは一気に爆発する。そしてもしそれで命を落としても、その死は尊い犠牲だったとこれ以上なく讃えられ、美化され、その後も長く語られてゆくのだ。
以前ガブリエラを聖女に祀り上げようとした宗教は、こういう自己犠牲の聖人を幾多も列聖し、信仰を集めている。そのことを知った時、──上手くできている。なるほど、とライアンは思った。上手くできたシステムだし、その利用法はビジネスとして見事なやり方だ、とあまり大きな声では言えない理解をした。
だからではないが、ライアンは見抜いていた。
現代の聖女、天使、ホワイトアンジェラ。ガブリエラ・ホワイトという女が、本当はどんな女なのか。そしてその正体に感じるどうしようもない苛つきを、ライアンは持て余している。
「何が聖女だ。ただのドMの変態女じゃん」
「……ひどい」
「本当の事だろ」
呆然としている様子のガブリエラに、ライアンは更に顔を近づけた。灰色の目は、逃げない。ただただ取り憑かれたかのごとく、ライアンの目を阿呆のように見つめている。
「だってお前、笑っただろ」
落ちればただでは済まない跳ね橋を、チェイサーで飛んだ時。たったひとりで飲まず食わず、まさに身を削って92人の乗客の生命を維持し、ミイラのような姿で保護された時。
──ふふ。
あの時ライアンは、ガブリエラの笑い声を聞いた。
それはうっとりとした、つい漏れだしたような、堪え切れない、とでもいうような──
「イっちまった声だ」
──恍惚、陶酔。
ガブリエラの笑い声に含まれていたのは間違いなくそれであったと、ライアンは断言する。
「お前のやってるのは、結果的には確かにこれ以上ない人助けで、自己犠牲で、聖なる天使サマの所業だろうよ。でも実際は、ドMの公開マスターベーションみたいなもんだ」
「ひどい」
ガブリエラは、俯いた。ラムのグラスを持つ指先が、白い。──細い指だ、と思った。ひどく苛々する。襟足が刈り上げられて、華奢な首がよく見える。この首を掴み上げてやりたい。白い喉に噛み付いて、息もできなくしてやろうか、とも思う。
「なんて、ひどい」
ガブリエラは、小さくゆっくりと首を振った。艶やかな赤い巻き毛から品のいいシャンプーの香りがして、ライアンの鼻をくすぐる。
俯いているせいで、彼女の赤い睫毛がひどく長いことがわかる。ふんわりと赤く染まる、白い肌。やや尖った鼻の周りに散った薄いそばかすを、指先で擦ってやろうか。
「何が違うんだ、ァア?」
「ひどい。ライアン、あなたは、本当に──」
か細く泣くように震える、男か女かわからない、ただただ清廉に高く美しい声が、哀れっぽく自分を呼んだ時。ぞわ、と、ライアンの背がわななく。胸の内側を掻き毟りたいような気に駆られた。
また、顔が近づく。目眩のするような、底の見えない穴をつい誘われて覗きこむようにして、得体の知れない星の入り口のような目を、ライアンはまっすぐに覗きこんだ。
今にもキスをするかのような至近距離。ガブリエラの顔が僅かに上がり、神秘的な灰色の目が、上目遣いにライアンを見た。ひどく長い赤い睫毛に縁取られた、泣き出す寸前のような目元が、酒のせいではない熱をもって潤んでいる。
「……ライアン」
「何だよ。──あとお前、毛穴どこやったんだ」
「え?」
「ああ?」
ガブリエラが完全に顔を上げたのと、ライアンの視界が揺れたのは、同時。
──そしてその瞬間から、ライアンの記憶が、飛んだ。
今頃どうしてるかしら、あのふたり。
と、バスタイムを済ませ、顔にパックを施しながら、ネイサンは新しくできた若い後輩と、戻ってきたこれもまた若い後輩に思いを馳せた。
アスクレピオスがもう殆どふたりをセットで売り出そうとしているため、ガブリエラに仕事の予定がないときは概ねライアンにもない、ということは本人から確認済みだ。プライベートは定かではないが、時は金なりを重視するライアンがわざわざ何もせずひとり残っていたあたりからして、ガブリエラに用があったのは間違いないだろう。
ガブリエラは狼というよりまるで主人を見つけた犬のように彼に駆け寄っていたが、ライアンはどういう顔をしていたのだろう、とネイサンは想像する。あれほど手放しで慕われていれば、誰でも絆されてしまいそうな気がするものだが。
「アラ」
通信端末が鳴ったので、決まり通りの時間経過でパックを剥がしつつ、ネイサンは着信名を見た。──“handsome ”.
《こんばんは、ファイヤーエンブレム》
「ハァイ、いい夜ねハンサム。どうしたの」
《いえ、ちょっと》
苦笑しているのがわかるようなバーナビーの声に、ネイサンは微笑んだ。
《今日のトレーニングの後、ライアンがどこに行ったか知っていますか?》
「王子様なら、天使ちゃんと飲みに行ったわよ」
《……へえ。本当に行ったんですね》
感心したような、驚いたような、しかし喜んでいるような様子でもあった。曰く、いいかげんガブリエラと仲良くしたらどうか、と男連中にも散々釘を差されたライアンは、「わかった、ケジメをつける」と言って、皆と帰らず残ったらしい。
「ああ、ひとりで待ってたからそうかなとは思ってたんだけど、やっぱりそうだったのね」
《アンジェラに予定がなくて、良かったです。彼女は人気者ですから》
「実はね、飲みに誘ってみたらどう、って私からも提案したところだったのよ。天使ちゃんに」
《え、そうなんですか?》
「偶然にもね。あの子ったら行動力の塊だから、じゃあ今から誘ってみるって言ったところに王子様が座ってて、びっくりしたわよ」
ネイサンが笑うと、バーナビーもまた、そうですか、と言って笑った。
「なァに、友達が心配だった?」
《……まあ、元コンビのよしみで》
男友達らしいぶっきらぼうな声で、バーナビーは言った。しかしその声色は、どこか温かい。
《いえ、そうでなくてもライアンの態度がちょっとおかしいので、気になってしまって。皆も心配しています》
少し愚痴めいた口調に、ネイサンはガウンを羽織り直し、座り心地の良いソファにゆったりと腰掛けた。
《あなたは、そう思いませんか? なぜアンジェラにあれほど当たりがきついんでしょうか。彼は誰にでも平等な態度であるところが長所なのに》
「まあ、そうね」
《時々、ものすごい目でアンジェラを睨んでいる時すらあって……》
「ああ」
ネイサンは、頷いた。
「わかるわ。あれでしょう、ギラギラした」
《ええ、まるで本当の猛獣みたいに。今にも吼えて飛びかかりそうな》
元々男らしくひとつひとつのパーツが大きめの顔つきで、量の多い金髪を後ろに撫で付けた髪型に金の目をしたライアンは、本当に、ゴールデンライアンのモチーフにもなっている獅子に似ている。
本人も意識してファッションの演出をしているのだろうが、ぎろりと何かを睨みつける時の彼は、獰猛な大型の獣が怒った時のような迫力がある。
そして彼はガブリエラに対して、よくそういう顔をするのだ。獲物を前にして、いつ喉笛に食らいつくかというような、ギラギラとした目。
「私たちはよく天使ちゃんの側にいるから、気付くことも多いわ。ブルーローズなんて、怖いとか、ギャビーが何したっていうのよとか、ちょっと怯えてるくらい」
《無理も無いですよ。僕ですら肩が跳ねる時があります》
「そうね。確かにすごく攻撃的な態度。睨むし、怒鳴るし、文句ばっかりつけるし」
《本当に。しかも相手は女性ですよ? なぜあんな……、あなたは、心当たりが?》
「うーん、勘だけど」
ネイサンが脚を組み直しながら言うと、バーナビーは、女神様の勘ですか、ぜひ拝聴したいですね、とおどけてみせた。その言葉に気を良くしたネイサンは微笑み、ミネラルウォーターをひとくち飲んでから言った。
「多分王子様は、天使ちゃんが嫌いとか、憎いとか、そういうことじゃないのよ」
ある意味近い感情ではあるかもしれないけど、とネイサンが言うと、どういうことですか、とやや困惑したような声が返ってくる。「あくまでアタシの勘だけど」と前置いてから、ネイサンは続けた。
「女なのに、っていうけど、女だから、じゃないかしら」
《……え? えーと、どういうことですか》
「だからァ」
ネイサンは、ソファの上で艶めかしく体勢を崩した。
「──男って、どうしようもなく欲情すると、攻撃的になるじゃない?」
しばらく、無言が続いた。
呆気にとられているに違いない、とありありとわかる間だった。そしてたっぷり間を開けた後、まさか! と、笑い半分の声が上がる。ネイサンは苦笑を浮かべて、肩をすくめた。
「だからちょっとだけ、心配なのよね。煽っておいてなんだけど、酔った勢いでどうにかなっちゃったらどうしよう」
あの娘処女だし、とまでは、流石に言わなかった。
《それこそまさか、ですよ。ライアンは相当酒に強いですし──、彼はそういうところでヘマをするタイプじゃない。そもそも、いいなと思った女性には積極的に甘い言葉をかけて誘いに行くような男ですよ? あの態度でアンジェラに気があるなんて、あり得ない》
「そうね、アタシもそう思うけど」
しかし、酒は怖いものだ。適量なら人間関係を緩和する緩衝材として非常に優秀だが、度を越すと、普段隠されている、本人ですら気付いていない本性を引き出してぶちまけてしまう。
それが良い方に転がれば良いのだが、そうでなかった時が怖い。豊富な人生経験から、ネイサンはそれを危惧している。
だがネイサンは、その人生経験を踏まえた上で、思うのだ。
ライアンがガブリエラを見るあの目は、まるで見慣れない獲物に驚いて、興奮して攻撃的になった猛獣のようだ。しかも当の獲物は逃げるでも怯えるでもなく、むしろ好意をもって近づいてくるときたものだ。
獣は見るからに美味そうな獲物を追いかけるのには慣れていても、得体の知れない珍獣に懐かれるのには慣れていない。普段完璧な狩りをしているだけに、イレギュラーに対応しきれない可能性もある。
困惑と興味、苛つきと興奮。そこにもし欲情が加われば、獣はきっと暴走する。
「もし万がいちそういうことになっちゃったら、ハンサム、王子様のことは任せたわよ。天使ちゃんは女子組がなんとかするから」
《いやいや。ないでしょう、それは》
「わからないわよ、男と女のことだもの。それに酒の失敗のフォローをしてやるのは友達の役目よ」
《はあ……。まあ、イエスと言っておきます》
呆れたような、笑い混じりの声のバーナビーは、今回の会話で毒気を抜かれたらしい。それからいくらかの、当り障りのない穏やかな会話をしてから、通信は切れた。
「……まあ、まずはフツーに仲良くなってくれれば上等よね」
ひとつ息をついて、ネイサンはガウンをするりと脱ぐと、シルクのリネンのベッドに、生まれたままの姿を預けた。
──ふふ。
恍惚に蕩けた、微かな笑い声を聞いた気がした。
「──あったま痛ェ……」
目を覚ましたライアンが最初に思ったのは、それだった。
今まで生きてきたうちで、とびっきり最悪の目覚めだ。ガンガンと、頭を内側から殴られているかのように痛い。その上吐き気もするし、顔も体もベタベタする。ただ朝の空気だけが、ひんやりと心地よく冷たかった。
(飲んで……飲んだな……)
ガブリエラとバーで飲んで、彼女のペースに合わせた上で、飲んだことのない酒も随分飲んだ。そして少し言い合って、──何を言ったのだったか、自分は。
頭が回らないながらも天井や周囲を少し見回したライアンは、さすが俺、と自画自賛する。
記憶がすっかり飛んでいるという人生で初めての経験からして、泥酔したというのは理解した。しかしここは自分の部屋で、見覚えのあるリネンは間違いなく自分のベッドである。
泥酔しつつも、しっかり自分の部屋に戻ってきてベッドで寝ている。やはり自分はヘマなどしないのだと満足して、ライアンはずきずきと痛む頭を刺激しないように、のそりと身を起こす。
「──あ?」
肌を滑るリネンの感触に、ライアンは、自分が素っ裸で寝ていたことに気付いた。自分の体温で寝具が温まっていたのもあって、冷たい空気に肌が触れるまで気づかなかったのだ。
「……ん? ……え? あ?」
そしてライアンは、今まで、自分が何かを抱きしめて寝ていたことにも気付いた。あまりに暖かで、あまりにすっぽりと腕の中に収まっていたそれは、気のせいでなければ人の形をしている。
「え」
ざあっ、と、ライアンの顔から血の気が引いた。頭痛すら忘れるほどの動揺。
ライアンの腕の中から零れたのは、まずくるくると癖のある、中途半端な長さの赤い髪。その赤い髪がかかる白く細い肩には、大きな歯型がついていた。いや、肩だけではない。色々な所に同じ大きさの歯型や、赤紫色の鬱血跡がある。
細すぎる体躯には、びりびりに破けた安っぽいTシャツが絡みついていた。中に着ていたのだろうブラトップから、薄いパッドがはみ出している。ろくに膨らみのない胸のピンク色の部分が、ちらりと見えた。
「うー……」
唸り声であっても高いその声に、ライアンの肩が跳ねる。
寒いのか脚を小さく縮こまらせたことで、その枝のような足首に、丸まった女物の下着が引っかかっているのが見えた。ついでに、肉付きの悪い太ももや平べったい腹、その臍のあたりまで飛び散り、乾いて張り付いた体液。
がば、と布団をめくって、ライアンは、自分の“そこ”を確認した。──親しみのある体液が、彼女の腹と同じように、乾いてべったり張り付いている。
嘘だろ、と口にする気力すらなく、ライアンは再度ベッドに倒れ込んだ。そして二日酔いの頭を思い切りサイドボードにぶつけた彼は、いろいろな意味で頭を抱えてもんどり打つ。
そうして、七転八倒した後。
すぐそこにある赤い髪の間から覗く、眠たげに半分開いた灰色と、ばっちりと目線が合った。