#021
1日の授業が終わったことを示すチャイムとともに、ハイ・スクールの校舎から、沢山の学生たちが飛び出してくる。ある生徒は部活や塾へ、ある生徒は放課後の自由時間を楽しみに。
そしてカリーナは、制服のスカートを翻し、仲良しの友人のメアリー、ジェーン、また何人かの同級生らと談笑しながら、正門に向かっていた。
「カリーナ、今日この後カラオケに行こうって言ってるんだけど──」
「あ、ごめん。約束があって」
「ねえ、あれ誰かしら」
申し訳無さそうに言ったカリーナは、門脇の守衛所のところに、生徒たちの目線がちらちらと集まっているのに気付いた。最初に目に入るのは、白い中型バイク。
「ギャビー!」
カリーナが手を上げて呼ぶと、気の良さそうな守衛と話していたガブリエラは、笑顔を浮かべて振り向いた。
「え、女の人? 男の子?」
メアリーが、こっそりとした声色で言う。
かなり細身、しかし女性にしては背丈のある体躯に、本格的な黒いライダースーツ、しっかりとした実用的なブーツ。中途半端な長さの、かなり濃い色の珍しい赤毛が、強めのウェーブを描いて無造作に靡いている。その合間からは、シルバーのピアスが両耳に幾つか見えた。大きめの目は髪色と対象的な灰色で、少し浮世離れしたような不思議な印象がある。
走行時の寒さを軽減するためのハイネックのアンダーのせいもあり中性的な容姿は、マニッシュな女性にも見えるし、華奢な少年にも見える。
「カリーナ、こんにちは。お友達も」
その高い声に、こんにちは、と対応しながらも、「ああ女の人か」と皆思った。流石に失礼と思っているのだろう、皆口には出さないが。
「カリーナ、友達?」
「うん。今日はギャビーと約束してるから、カラオケはまた今度ね」
「そっか。残念だけど、楽しんできてね」
ありがとうと友人らに返し、カリーナは持っていたバッグから、綺麗なミントブルーのヘルメットを取り出した。普段の生活の上で乗ることはないが、カリーナもバイクの免許は持っている。友人には言えないが、ブルーローズとしてチェイサーに乗るために取ったものだ。
水色のヘルメットは教習所に通っていた頃に買ったものだが、今ではほとんど出番がなくなっていたものを、今回引っ張り出してきたのである。
「カリーナ。スカート、大丈夫ですか」
ガブリエラは、カリーナの制服の短いスカートを心配そうに見た。
「あ、大丈夫。下にスポーツ用のスパッツ履いてるから。でも念のため、後でパウダールームで着替えるわね」
「それがいいです。安全運転しますが、危ないです。風も少し冷たい」
「そうね。最近だいぶ涼しくなってきたわ」
そう言いつつ、カリーナは、黒いフルフェイスのヘルメットを被ったガブリエラの後ろに乗りこむ。そしてその細すぎるウェストに、しっかりと手を回して掴まった。
「じゃあね、また明日!」
カリーナが友人たちにそう言うと同時に、バイクのエンジンが、完璧に整備された素晴らしい音を出した。
「えーっ! ふたりで出掛けたの!?」
ジャスティスタワー、一部リーグヒーロー専用トレーニング・ルーム。
タンクトップ姿のパオリンは、仲間はずれにされたことに不満の声を上げた。
「うん、ギャビーに学校まで迎えに来てもらっちゃった」
今度シュテルンビルトに初めてオープンした、とあるブランドのショップのオープンキャンペーンに行ったのだ、とカリーナが言うと、パオリンはますます頬を膨らませた。
「ずるい! ボクも行きたかった!」
「だって、カップル限定だったのよ。ポーチが欲しかったの」
カリーナが手にしているのは、カップル来店限定品だという可愛らしいポーチである。
カップル限定という条件で最初は諦めていたカリーナだが、チラシを見て溜息をついていたところに話しかけてきたガブリエラを見て、今回のことを思いついたのである。失礼かとも思ったが、ガブリエラは快く了承したばかりか、当日は比較的男性的な印象のシルバーアクセサリーを選んで身につけ、いつも簡単ながらしている化粧もせずに、すっぴんで来てくれた。
ガブリエラは話さなければ中性的な少年に見えないこともないし、本格的なライダースーツを着こなし、女性としては珍しい大型バイクを慣れた様子で扱っていれば、余計にそう見える。ギャビーという愛称も、男性名のガブリエルでもあり得るものだ。
そうやって普段より意図的に女性らしさを抑えたガブリエラは、傍目から“華奢で中性的だが紳士的で穏やかな少年”、あるいは“女の子の恋人がいても不自然ではない人”に見え、かなりの美少女であるカリーナとは、可愛らしくも見栄えのするカップルとして周りの目を引いた。
またカフェで甘いものを楽しんだ後、カリーナはパンツルックに着替え、ガブリエラの後ろに乗って風を楽しみ、海を見に行ったりした。
ガブリエラは女性なので変な気を使わなくていいし、女性だからこそ、そのへんの男の子とは比べ物にならないくらい的確に気配りをしてくれる。いつも穏やかで、カリーナの愚痴を真剣かつ全く説教臭くなく聞いてくれ、カリーナは偉いですね、頑張っていますね、とストレートに褒めてくれるのだ。
そしてお互いの好きな相手のことも、素直な気持ちで話すことが出来る。更には別れ際に肌荒れまで治してもらったカリーナにとって、ガブリエラと過ごした時間は、じゅうぶんすぎるリラックスとリフレッシュになったのだった。
「ゴメンったら。ほら、パオリンにもちゃんとお土産は忘れてないわよ」
「わあ、ありがと!」
お土産だという有名店のマカロンを喜んで受け取りつつもしかし、やはりまだ納得がいかないのか、パオリンは眉を寄せた。
「でもやっぱりずるい。ボクもギャビーと遊びに行きたい! ……ギャビー!」
そう言って、パオリンは、ランニングマシンのノルマを終わらせて汗を拭っているガブリエラに駆け寄り、その細い体躯に勢い良く抱きついた。その勢いによろけつつも、ガブリエラは後ろから抱きついてきたパオリンを振り返る。
「パオリン、お菓子は受け取りましたか」
「うん、ありがとう。マカロン大好き!」
「そうですか、良かったです。コーヒー味が美味しいですよ」
「楽しみにしてる! ねえ、ボクとも今度どっか行こう!」
薄い背中にぐりぐりと額を押し付けてくるパオリンに、ギャビーは微笑んだ。
「もちろん、喜んで」
「ホント? ボク、ギャビーのバイクの後ろ乗りたい。エンジェルライディング!」
「普段は安全運転ですよ」
「ええ〜」
パオリンは、不満気な声を出した。
エンジェルライディング、と最近勝手に名前が着いた、ホワイトアンジェラとしてのスーパーライディング。どんなアクション映画のチェイスよりも興奮した彼女の走りが映ったHERO TVの録画を、パオリンはこっそりまとめて保存してある。
いつかあの後ろに乗りたいと思っているパオリンは、普段はしないと聞いてがっかりしたものの、ならば事件中に乗せて貰える機会を狙おう、と心に決めた。
「しかし、バイクに乗るならヘルメットを買わなければ。できれば、ちゃんとしたジャケットも。薄着は危ないです。ナターシャさんに、きちんと許可を貰いましょうね」
「うん」
心配症で、あまり激しいことが好きではないナターシャは渋るかもしれないが、ここは譲れないところだ。絶対に許可を取るぞ、とパオリンは拳を握りしめる。
「それで、どこに行きますか?」
「えっとね、○○ホテルのブッフェチケットがあるんだ! スポンサーに貰ったやつ」
「ブッフェ……食べ放題ですか?」
「もちろん」
「へぇ」
灰色の目が、きらりと光った。
「いくら食べてもいい……とても素敵なことですね」
「だよね!」
パオリンは、力いっぱい頷いた。グリーンの瞳が、きらきらと輝いている。
「ペアチケットだから、誰と行こうか迷ってたんだ」
「私でいいのですか?」
「うん!」
パオリンは、力強く頷いた。
カリーナやネイサン、保護者のナターシャは、ダイエットのためという理由もあるが、単にパオリンほど食べられない。他のヒーロー男性陣は忙しかったり、完全に保護者的な感じになってしまって、いまいち思っていたのと違う時間になってしまう。キースはその点一緒に楽しんでくれるのだが、彼はとても忙しいので、時間を合わせるのが難しい。──イワンは最近なんだか誘いにくいし、遠慮されると微妙な気持ちになってしまうので、声をかけるのに尻込みする。
その点ガブリエラなら、能力のこともあり全く遠慮無く食べるし、同性であるし、穏やかな性格だがノリもいい。実際、「全種類制覇しようね!」と言ったパオリンに、「もちろんです」と悪戯っぽく目を細めて頷いてくれた。
(──ライアンさんとも、割と楽しいんだけど)
ガブリエラにくっつきながら、パオリンはこっそりそう思った。
ライアンは、男性陣の中では最もよく食べる。具体的にはレストランでメニューを1ページ分注文して、全部ぺろりと食べてしまえるぐらいだ。また兄のように面倒を見てくれるが決して上から目線ではなく、むしろ丁寧に目線を合わせるような態度で、遊び心を尊重して付き合ってくれる。
ライアンのそういうところがパオリンは大好きで、そしてそれは、ガブリエラに対する気持ちととてもよく似ている。
だからガブリエラがライアンを好きだと知った時はとても嬉しかったし、ライアンがそれにつれない態度だというのが残念で、悲しい。仲良くなったふたりと一緒に遊べたらきっと最高に楽しいのに、という気持ちもあって、パオリンはガブリエラの想いを全力で応援することに決めていた。
今回はペアチケットだから仕方ないけど、今度はふたりを一緒に誘ったりしてみようかな、と思いつつ、パオリンはナターシャに、ヘルメットを買いたいとねだるメールを入れた。
「めちゃくちゃ懐かれてるなァ」
「いいことじゃねーか」
中2階にあるウェイトトレーニングマシンで汗を流していたアントニオと虎徹は、階下でじゃれあう3人娘を見ながら言った。
「お姉さん的な感じなんじゃないかしら。でもそこまで歳が離れてるわけじゃないし、年上だけど逆に放っておけない感じもあるから。構って欲しいのと構いたいのと半々って感じ」
おかげで最近お声がかからなくなって寂しいわァ、と言いつつ、しかし慈愛たっぷりの目で3人を見下ろしながら言うのは、ネイサンだ。トレーニング中ではあれど、いつもどおりばっちりとウォータープルーフのメイクがきまっている。
「でも、ファイヤーエンブレムもよくアンジェラと出掛けてるだろ?」
「まあね。よく食べるし何でも喜ぶから、つい奢り甲斐があって。誘ったら絶対断らないし」
「確かに、アンジェラは付き合いいいよな」
「おお、最初の頃のバニーとは正反対だぜ」
アントニオと虎徹が、うんうんと深く頷きながら言った。
ガブリエラは、仕事があったり、他と約束がかぶったりしていない限り、人からの誘いを断らない。そして、相手の話をいつも興味深そうに、いかにも大事な話を聞いているというふうに聞く。それは切ない中年にとっては、涙が出るほど有り難い態度でもあった。まさに天使、と冗談でなく言ってしまうほどに。
まったくあの頃のバニーもこれぐらい可愛げがあれば、と虎徹はもう数えるのも馬鹿馬鹿しいほど言っているし、そのせいで本人の耳にもとっくに届いていて、「話ならいくらでも聞いて差し上げますよ、まだ片付いていない始末書の話とか」などと、すっかり可愛げの欠片もない言葉を貰っている。
「それに、別れ際に肌にお礼だって能力を使ってくれるんだけど、これがまた最高で……。こんなに肌にハリが出るなんて、どんなエステでもないのよね……」
「お前それが目当てなんじゃねえだろうな」
「否定はしないけど」
呆れたようなアントニオの目線から、ネイサンは若干目を逸らした。
「でもあの子といるの、楽しいのよ。確かにモノを知らない部分があるけど、すっごく素直で柔軟だし。こっちの話も真剣に聞くから、全然イラつかない」
少なくとも、学歴だけ立派で頭でっかちな新入社員よりは何倍もね、とネイサンは軽く毒を吐いた。
「子供ってわけじゃないから話題を選べば結構深い話もできるし、独特の経験もしてきてるから、あの子の話自体も興味深いわ」
「確かにな。かなり苦労してきてるから、むしろ俺ももっと頑張らなきゃなって思うことも多いぜ」
「それな」
虎徹が、真顔で頷いた。
「俺も叩き上げで苦労してきたとか思ってたけど、アンジェラに比べたら、随分恵まれてるって実感したね。……少なくとも俺は、“道路の脇に生えている草はガソリン臭くて食べにくい”なんてことを知る必要はなかったわけだし……」
虎徹が遠い目をしながら言ったそれに、あとのふたりも同じような顔になる。
「あれはショッキングだったな……」
「あのエピソードのせいで、美味しいものを食べさせなくちゃという使命感に駆られるのよ……」
3人は、揃って頷いた。
貧しい僻地の生まれで、身ひとつでヒッチハイクをしてシュテルンビルトまで来たという経歴だけでも、ガブリエラは年齢に見合わぬものを持っている。そこは誰もが一目置いているところだし、本人があっけらかんと語る当時のエピソードには、目を剥くようなものも数えきれないのだ。
「やあ! 私が最後かな?」
元気に入室してきたのは、キースである。
「ああ、アンジェラ君! 昨日は本当にどうもありがとう!」
「どういたしまして」
真っ先にガブリエラの姿を探して礼を言ったキースに、ガブリエラは微笑む。
「あの後、ジョンは大丈夫でしたか?」
「すっかり元気だよ」
「それは良かった」
「え? ジョンがどうしたの?」
カリーナがきょとんとすると、キースは「それが」と頷いて話しだした。
「昨日は家を空ける時間が長めだったから、シッターを頼んでいたんだ。しかし仕事が終わってぎりぎりになってから、電話があった。ジョンが誤って何か飲み込んでしまったと」
「大変じゃないの!」
「そうなんだ」
キースは、沈痛な顔で首を振った。しかしパオリンが心配そうに「大丈夫なの?」と言うと、途端に笑顔になる。
「結果から言うと、シッターがちゃんと処置をしてくれたので、全く問題なかったよ。今朝もとても元気だった! しかし昨日は連絡を受けて、焦ってしまってね。早くジョンの所に帰りたかったが、運悪く電車のダイヤが乱れているし、会社のポーターは帰してしまったところだった。飛んでいけば早いけれど、そういうわけにもいかないし」
「それで、どうしたの?」
「アンジェラ君が声をかけてくれてね、彼女がバイクで送ってくれたんだ! 全ての車を追い抜いてね! とても速かった、そして速かった!」
「エンジェルライディングだ! スカイハイ、エンジェルライディングに乗ったの!?」
いいなあ! と、パオリンが文字通り飛びついた。キースは、笑顔のまま頷く。
「おかげでとても早くジョンの元に戻ることができた。アンジェラ君、本当にありがとう」
「いいえ。ジョンに何事も無くて良かったです」
ガブリエラは、微笑んだ。ひょんなことから顔を合わせることになったキースの愛犬はとても人懐っこくて、非常に可愛らしい犬だった。誤飲によって七転八倒していたらしくぐったりしていたが、キースの顔を見るなり即座に駆け寄ってきて、べろべろと彼の顔を舐めまわした。
ジョンは初対面のガブリエラのことも歓迎してくれ、初めて犬と触れ合うガブリエラに、見事な毛並みを気さくに撫でさせてくれた。ガブリエラは彼がとても好きになったし、自分のヒーロースーツが犬のデザインでよかった、と初めて思った。
「また会いに来てくれたまえ! それにしても、空を飛ぶのもいいけれど、バイクも素敵だね」
「普段は安全運転なのですよ。──そう言ったでしょう、パオリン」
「だってえ!」
あのスーパーライディングの後ろに乗ったことを非常に羨ましがり、地団駄を踏むパオリンに、ガブリエラは苦笑し、「いつかね」としょうがなさそうに言った。
「アンジェラさん、大人気ですね」
軽快に縄跳びをしながら、イワンが言った。汗を拭きながらスポーツドリンクを飲んでいるバーナビーが「そうですね」と頷く。
「でも、わかります。一緒にいて、いい意味で気を使わなくていい感じですしね」
「まさにそれです。僕コミュ障なので付き合いの浅い方、しかも女性にはすごく緊張してしまうんですけど、アンジェラさんは話しやすいです」
「……癒し系、というのですかね、ああいうのは」
「今まで抱いていた癒し系のイメージとは、若干違うような気もしますが……。確かに、アンジェラさんは癒し系ですね。人間的にも、能力的にも、……ああ、運転も」
「あれですか……あれは確かに」
バーナビーは、納得して頷いた。
エンジェルライディングが有名になりすぎているが、普段の彼女の運転は、本当に、模範的なほどの安全運転なのである。そしてプロのライダーやスタントマン顔負けのテクニックを持っている上でのそれは、非常に素晴らしいものだった。
更に、ガブリエラのその技術は、バイクにのみ発揮されるものではなかった。本人が私的に所持しているのがバイクだけなので運転の機会は最も多いが、彼女は車の免許も持っている。
二部リーグ時代、ヒーローとしての仕事が無い時は会社で主に送迎業務をしていたという。
「僕、いつ寝てしまったのか今でも全く思い出せないです……」
「僕もです」
頷き合うふたりは、ガブリエラの運転技術の素晴らしさを、つい最近体験した。
3人の共通点は、ヒーローアカデミーの卒業生である、ということだ。以前は虎徹とバーナビー、イワンの3人で、市民や学生に向けた特別講義をしにアカデミーを訪問したが、今回は卒業生のふたりは変わらず、そして二部リーグのあり方を変えたと言われ同じく卒業生であるガブリエラの3人が招待された。
3人とも会社が違う上に、そもそもボランティアとしての訪問なので、送迎はいない。そこでアカデミーまで行くレンタカーを運転したのが、ガブリエラだった。
「虎徹さんも、車の運転は上手いほうなんですけどね」
バーナビーが言った。
アポロンメディアに所属する前、つまりTOP-MAG所属時代は自分で車を運転して現場に出ていた上、一時期はタクシーの運転手もしていたという虎徹は、車の運転が上手いほうだ。ワイヤーを使った立ち回りも見事なあたりからして、空間把握能力が高いのだろう。
ただしバイクに関してはほとんど経験がないのもあり、チェイサーを運転するのはバーナビーであるが。
しかし虎徹と比べても、ガブリエラの運転技術はかなり高い。
レンタカー、しかもそんなにいい車種というわけでもないのに彼女の運転は全く揺れず、助手席のバーナビー、後部座席のイワンは、いつの間にか大爆睡。しかもアカデミーに着いて車が止まったことにも気づかず寝ているふたりのために、彼女は温かいコーヒーを買いに行っていた。コーヒーの香りで自然に目覚め、目をこするふたりに、彼女は「お疲れなのですね」と優しく言った。
そして帰りも同様で、更に彼女はぎゅうぎゅうの地下駐車場で、ぎりぎりのスペースに、バック一発で完璧な車庫入れをキメてみせた。
初めてハンドルを握る車でそんなことをしてみせた彼女に、イワンはまるで初めてのデートで彼氏の運転にときめく乙女のような顔をしていたが、正直バーナビーも同じような顔をしそうになった。
ちなみに講義のほうは、バーナビーがヒーローになるにあたっての心構えなどの精神面での話をし、イワンはヒーローに向かない能力である場合でもトレーニングを工夫し、他の特技を身に着ける方法などを話した。
そしてガブリエラはといえば、スピーチや講義と言われても何を話したらよいかわからない、といきなり開き直り、挙手での質問に答える形で、生徒たちの聞きたいことを話していった。結果、二部リーグデビューする場合の企業の選び方や働き方、また副業の選び方などの非常に現実味のある内容となり、特に卒業の近い生徒にとっては非常に参考になったようだった。
「アンジェラ殿は、やることがいちいちイケメンでござる……。拙者が女性であれば、惚れていてもおかしくないでござる」
「……色々と突っ込みどころの多い発言ですが、まあ、言いたいことはわかります」
真顔で言ったイワンに、バーナビーが苦笑する。
ガブリエラは、確かに女性である。しかし特別女性らしいというわけではなく、変に男っぽいというわけでもない。中性的、というのが本当にぴったりの振る舞い方は、男に対しても女に対しても、いい意味で性別を感じさせない。
その上で、彼女の振る舞いは確かにいちいち格好いいのである。カリーナと一緒にいる時など、姉のようにも見えるが、時に出来た彼氏のようにも見える。
女性にとっても付き合いやすいのだろうことが傍目から見ていてもわかるが、男としても、それは同じだった。
レディファーストを叩きこまれているはずのバーナビーだが、ガブリエラといると、いつの間にか女性であることを忘れてしまい、まるで男友達か、そうでなくても家族に話すかのように接していることに気付く。それにハッと気付いても、彼女はまるで不快そうな顔などしていない。むしろどこまでもナチュラルで、普通の顔をしている。それがどうしようもなく楽なのだ。
そしてその感覚はおそらく、彼女と接した全ての人間が感じていることだろう、とバーナビーは思う。そしてそれを、まったく稀有な才能だ、とも。
「……というわけで、彼女と未だにぎこちないのは貴方だけですよ、ライアン」
バーナビーが振り返ってそう言うと、後ろのマシンで錘を持ち上げていたライアンは、無言のままぶすくれた顔をした。
「アンジェラほど接しやすい人もいないでしょうに、何がそんなに苦手なのやら」
「別に苦手ってわけじゃねえ」
「なら下に降りて、次のメニューをやったらどうですか」
テーブルに放ってあるライアンのトレーニング・メニューをひらりとつまみ上げて、バーナビーは言った。トレーナーが作ったメニューによれば、ライアンはとっくに今のチェストプレスを切り上げて、ガブリエラたちのいる、1階のランニング・マシンで走っていなければならないはずだ。
「それ以上胸筋膨らませてどうするんですか? 着られるシャツがなくなりますよ」
「何? 俺の厚い胸に嫉妬?」
チェストプレスの錘を下ろし、汗でウェアが張り付いた胸をおどけたように両手で隠したライアンに、バーナビーは冷笑を浮かべた。ライアンが半目になる。
「ジュニア君、どんどん付き合いづらくなってくるね」
「それは残念」
バーナビーは、わざとらしく肩をすくめた。
「ああん? 何だ何だ、ライアンはまだアンジェラとうまくいってねえのか?」
そしてそこで首を突っ込んできたのは、虎徹である。チェストプレスをしにきたらしい。
「それは良くねえなあ、コンビヒーローとして」
「コンビじゃねっつってんだろ、オッサン」
「オッサンは心配なんだよ。コンビヒーローの先輩として」
話を聞いているようで全く聞いていない虎徹に、ライアンは空を仰いだ。バーナビーが生ぬるい顔をしているのが、見なくてもわかる。
「何か知らねえけど、スパッと腹割って話しゃいいだろ。ふたりとも酒も飲めるんだし、誘ってみたらどうだ? アルコールがあれば、お互いに口も態度も滑らかになんだろ。なァんか最近ぐだぐだ言われっけどよ、やっぱ有効だぜ? 飲みニケーションってやつ」
「オッサン臭い意見をどうも」
「どういたしましてー」
可愛げのない若者に、虎徹はにやりと笑みを返した。“屁でもねえ”という意味合いの顔である。
その顔に口元を引きつらせつつも、ライアンは、ガブリエラがカリーナやパオリンたちとともにシャワールームに向かったことを確認してから、やっと1階に降りた。
(飲みニケーション、ねえ)
ライアンは年寄りの意見を素直に聞くようなタイプではないが、全く無視するほど愚かでもない。いいところだけ要領良く頂くのが、デキる若者のやることだ。
そしてライアンは、そろそろこの状況を引き延ばすことが限界であることを理解していた。
雇用主であるアスクレピオスやスポンサーはふたりでの活動や活躍を大いに期待しプレッシャーをかけてくるし、今までただ距離を保っていたガブリエラも、最近、困ったような、なにか言いたげな顔で見てくることがある。彼女もまた、色々と言われているのだろう。
(……そろそろ、腹決めるか)
ひと息ついてから、ライアンは、ランニングマシンのスイッチを入れた。