#176
《さて、話を戻そうか。僕は脳のスペシャリストだ。新しく脳を作るのも、コピーするのも難しいことじゃない。現に、ネフィリムの脳は僕が持ってるしね》
「……は?」
 またもわけのわからない発言が飛び出し、皆が混乱する。
《ネフィリムの頭に、縫い傷があるだろ? ラファエラと同じ傷、つまり脳を摘出した痕だ》
「な、……何を馬鹿な! 彼女はこうして生きて動いて──」
《僕は脳を作れるんだよ、バーナビー》
 にこやかな反論に、バーナビーは息を呑んだ。

《彼女は僕と共に新しい星に行きたいとも願っていたが、同時にこの星で殺し殺され尽くしたいとも願っていた。僕はその両方の願いを叶えたのさ。オリジナルの脳は僕と共に。そして中身をコピーして身体に残したというわけ》
「では……ここにいる彼女は……!?」
 バーナビーの声とともに、全員がネフィリムを見る。まさに、幽霊でも見るような目で。

 ──更に……ドクター・マイヤーズの研究データを解析したところ……機材や資材を揃えさえすれば、大脳部分の再現も可能であることがわかりました。まっさらな脳を作ることもできれば、既に記憶や経験が蓄積された脳のコピーを再現することも出来る、と──

 シスリー医師が、恐れ慄きながら言ったことを思い出す。

 老人の姿の時と違って黒々とつややかなネフィリムの前髪の向こうには、痣のようになった、あの茨の冠のような傷跡が残っていた。
 彼が人工の脳を作ることができるのは、既に証明されている。ラファエラの身体は間違いなく息をし、代謝を繰り返していた。そしてその頭蓋の中にネジ留めされていたのは、脳幹と小脳の最低限の機能、つまり心肺機能指示のみを搭載した代替え装置。
 つまり、あのネフィリムの頭をスキャンしたら、ラファエラと同じ得体の知れない機械が映る、とルーカスは言っているのだ。

 皆の視線が集まったせいか、ネフィリムはおどおどとし、少女がその胸に顔を押し付けて震えた。

《そこにいる彼女の脳は、僕の作ったコピーだ。でもあえてバグから何から丸々コピーしたわけだから、本人と変わりない。手術直後はちょっと混乱してたかもしれないけど、今は落ち着いてるだろう?》
 その言葉に、折紙サイクロンは、地下墓地で奇妙な言動を繰り返していた、まだ老人の姿だったネフィリムを思い返す。確かにあの時の彼女の頭の傷は、今まさに縫い合わせたように血が滲んでいた。
《でもオリジナルとコピーでは目的というか、用途が違うからカスタムはしたけどね》
「……どういうこと?」
 ごくりと息を呑みながら、ファイヤーエンブレムが言った。

《彼女は殺し殺されることを願った。だから全力でそうできるようにカスタムしたのさ。ジェイク・マルチネスで実験は成功してるし、ランドン・ウェブスターの研究を借りたらもっとスムーズにできるようになった。いやあ、優秀だね彼》
「まさか……そんな……」
《そこにいる彼女には、もとからある能力に加えて、いくつかの能力が使えるように“カスタム”してる》
 若返ってるのもそれが理由さ、とルーカスは言った。

 強力な能力者はその能力に見合う肉体が維持され、実年齢と比較しても若々しくあることが多い。
 ならば、強力な能力が複数、あとから付与されたなら?

《彼女の肉体の最盛期は30歳手前頃だから、追加した能力を使わなければその頃で止まるだろうね。まあ寿命が伸びたわけじゃなくて、負荷の大きいソフトウェア、アプリケーション……他人のNEXT能力を色々搭載した脳に合わせて、無理やりハードウェア、えーと肉体を拡張したってだけだけど》
 長台詞が過ぎたからか、ふう、とルーカスはいちど息を吐いた。
《でも彼女は若い頃、随分気弱な性格みたいだったからなあ。ひとりになって何十年も思いつめたからか、年をとってからは割と極端な感じだったんだけど。若返ったら当時の状態に引きずられて、フラフラし始めるかもね。まあ僕はどっちでもいいよ、彼女の好きにするのがいちばんだし》
 ネフィリムが、「御使い様……」と小さく呟いた。
《もし彼女にこの土壇場ぎりぎりで天使が現れたら、彼女──コピーは、その星で静かに消えることを選ぶだろう。君たちには何の迷惑もかけずにね。そうなったら君たちにとっては実にラッキーだ。それこそ貴重な奇跡、ミュトスだよ。ぜひそうしたまえ》
「何だと!?」
《言っておくけど、今の彼女が暴れたらまず君たちに勝ち目はないよ》
「てめえ!」
「落ち着け虎徹!」
 ワイルドタイガーが憤ってベンチの上の通信端末をひったくろうとするのを、ロックバイソンが慌てて止めた。ネフィリムは、あいかわらずおどおどしている。

《まあとにかく、僕は天使を作って、新しい星に行くことにした。君たちにもその星にも、もう用はないのさ。決まりきったことしかしない君たちには、もう付き合いきれないからね。荷造りが終わり次第出発させてもらうよ》
「おい!」
 ワイルドタイガーが急いで通信端末を拾い上げ、画面を睨む。
「くそっ、もう切れて──、あ、あれ?」
「見せてください」
 疑問符をいくつも浮かべるワイルドタイガーの手元から、バーナビーが端末を取り上げる。そしてその操作画面を睨みながら操作をし、「そんな、まさか……」と驚きと悔しさが混じった声を出した。

「……これ、録音です」
「ハァ!?」
「僕たちは今、会話すらしていなかった」

 ──やあ、皆さんお揃いで。調子はいかがかな?

 ルーカスと通話が繋がった──と思っていたその瞬間と、まったく同じ音声が流れる。画面には、録音した音源を流すためのアプリ操作画面が表示されていた。

「信じがたいことですが、……彼は僕たちがどのような質問やリアクションをするのか、その内容やタイミングを完璧に予測して、予めメッセージを吹き込んでいた……ようですね」

 決まりきったことしかしない君たちには、もう付き合いきれない。
 脳のすべてを解析しきり、神の如く創造することも可能にした男の最後の言葉を証明するかのようなその所業に、一同が言葉をなくして立ち尽くす。

「そ、……そんなこと、あるわけねーだろ!」
「実際そうなんですからしょうがないでしょう!」
 目を白黒させるワイルドタイガーに、バーナビーが苛々と言い返す。
「え!? 録音ってこた、じゃあ何だ、あいつやっぱりもう死んでんのか!? 生きてる!? どっち!?」
「知りませんよもう! 僕が聞きたいです!」
「はっきりしろよもー! モヤモヤする! 普段インテリぶってるくせに、肝心な時に役に立たねえな!」
「はあ!? なんですって、聞き捨てなりませんよ!?」
「ちょっと、こんな時に意味わかんない喧嘩してる場合じゃないよ!」
「キッドの言うとおりね。気持ちはわかるけど落ち着きなさい、ふたりとも」
 最年少のドラゴンキッドと最年長のファイヤーエンブレムに諌められ、バディは双方ウッと呻いて肩を下げた。

「……でもよお。それはそれとして、だ」

 上下から叱られて肩を下げたものの、しかしまったく納得していない顔で、ワイルドタイガーがぼそぼそと言った。
「ミュトスがどーの星がどーの、アンジェラの母ちゃんがすげえ昔の人? だとか? 脳がどうとかソレがナニとか、なんかそういうのは正直訳がわかんねえ! 意味が! さっぱり!」
「まあそれは確かに……」
 拙者も何がなんだかよくわかっておらぬでござる、と折紙サイクロンが深い困惑の色を滲ませて同意の呟きを発した。これは皆同じだったのか、否定する者はいない。激しいジェスチャーを交えてアピールしていたワイルドタイガーが、「だろ!?」とまた力いっぱい言う。

「でも、だ! 目の前にあることなら俺にだってわかるし、それこそイチバン大事なことだろうよ、違うか!?」
「と、いうと……」
「その子だよ! その子を次のネフィリムにするっていうの、それはダメだろ! 明らかに!」

 ワイルドタイガーがびしっと指さした先には、ネフィリムの腕に抱きついて震える少女。その怯えた様子に、全員がハッとする。
「そ、そうよね、タイガーの言うとおりだわ。なんかよくわかんない壮大な話に持ってかれかけてたけど、今なんとかすべき問題はその子のことよね」
「そう! そうだろ! なあ!?」
 混乱から抜けきれていなさそうではありつつも同意したブルーローズに、ワイルドタイガーはうんうんと大きく頷いた。

「そういうわけだ! その子をネフィリムにするのはダメ! で、殺したり殺されたりするのもダメだ!」
「……そんな……」

 びしっと指をさされて告げられたネフィリムが、絶望的な顔をした。顔を覆ってずんと俯き肩を震わせる彼女に、少女が慌てて縋り付く。
 あまりにも哀れっぽいその様子に、ワイルドタイガーが罪悪感を感じた顔をする。しかし頭を振って気を取り直し、胸を張って続けた。
「あのなあ、あんたのやってきたのは確かにとんでもない事だけど、あんたが辛い思いをしてきたことも確かだ。俺たちは、あんたを助けたいんだよ。もちろん、その子もな」
「……たすける?」
 少しだけ顔を上げたネフィリムに、発言したワイルドタイガーだけでなく、ヒーロー全員が大きく、そして力強く頷いた。
「そのとおり! なんたって俺たちはヒーローで──」
「たすけるとは?」
 朗々と発しようとした言葉を遮られ、ワイルドタイガーは出鼻を挫かれたような顔をした。

「へ?」
「たすける、……たすけるとは、どういうことですか?」
「どういうことって……」
「許されるということではないでしょう。ありえません。私はたくさん人を殺しました。57人……いや228人……いいえ……」
「なっ」
 想像以上にとんでもない数字に、一同がざわめく。ネフィリムがそれほどの人数を殺害しているのもさることながら、この人数が街から消えていても、今の今まで誰も気付きもしていなかった、という事実にも。

「そのうちひとりは私の父で、ひとりは私の子供です」

 真っ暗な穴のような目。得体の知れない暗闇の底にいるかのような虚無の広がる目が、ヒーローたちを見上げている。
「私は父を殺し、父の子供を殺しました」
「そ、そりゃどういう」
 ワイルドタイガーが軽くパニックを起こしながら言い、そんな彼の後頭を、ファイヤーエンブレムが鋭く引っ叩いた。完璧に塗られたルージュでも隠しきれないほど血の気の失せた唇を強く噛み締め拳を震わせているファイヤーエンブレムにワイルドタイガーははっとし、「……悪い」と青い顔をした。

「我々は、生まれる前に死ぬべきだったもの。世界の誤り。失敗作。誕生を歓迎されなかったもの。神にも天使にも見放され、救世主からは無視され、隣人もいない。産まれて死ぬまでたったひとり。あるのは共食いの虚無だけ……」

 ネフィリムは、彼女らの聖句をまた繰り返す。

「たすける……? たすけるとは、なんですか?」

 小さな少女のようにあどけない様子で、ネフィリムは問うた。

「ヒーロー、あなたはなにをしようとしているのですか?」

 ぐっ、とワイルドタイガーが詰まる。
「……すまねえ。すぐには答えられねえ、──でも!」
 彼は、足掻くように顔を上げた。
「でもその方法が見つかるまで、何だって、いつまでだって力になる! だから、……殺すとか殺されるとか、言うなよ。もっと他の方法があるはずだって、それだけは確かなんだ!」
「やめて」
 ワイルドタイガーが必死で張り上げる声を止めたのは、震えた、小さな囁きだった。

「やめて……」

 声を発していたのは、今までずっと黙りこくってネフィリムに縋り付いていた、小さな少女。痩せているせいで余計に大きく見える目に涙をいっぱいにためた少女は、怯えながらもワイルドタイガーを見返していた。

「やめて……。お姉さんに、ひどいこと言わないで」
「ひ、ひどいことって」
「ひどい、……ひどい。なんにも知らないくせに。なんにもわかってないくせに」
 震えた声とともに、少女の目が青白く光る。
 少女のNEXT能力がどんなものなのか、まだまったくわかっていない。幼く、また劣悪な環境で生きてきたがゆえに間違いなく制御はできていないだろうそれに、全員が警戒して身構えた。

「う、……確かに、お父さんは何もわかってない、って娘にもよく言われるけど……」
「……おとう、さん?」
 少女が、ぴくりと反応した。ワイルドタイガーが、ぱっと顔を上げて頷く。
「お、おお! そうなんだよ、俺は君と同じくらいの……もうちょっと大きいけど、まあそんな変わらない娘がいるんだ。だから君がネフィリムなんて悲しいもんになるなんて、特に見過ごせねえよ」
 ワイルドタイガーが、足を踏み出す。少女が目を見開いた。
「君はまだ小さいし、まだ全然間に合う。やり直せるんだ。だから──」
「あ……」
 差し出された大きな手を、少女が見つめる。
 しかしその目に浮かぶのは希望や救いを見つけた光ではなく、──怯えと、絶望だった。

「いや、……いやあ、お父さん、いや」
「え?」
「いやだ、もういや、いやなの、やめて、やめてやめてやめて、おとうさん、いや」

 少女が、ぐしゃりと顔を歪める。
 キイイイ、とNEXT能力発動時独特の音がして、少女の怯えきった目が青白く光る。周囲を照らす程の強い光に、ヒーローたちが思わず下がった。



 ──パァン!



 まったく人のいない公園に、空々しいほどよく響く音。

「う……」
 肩から血を散らせたネフィリムが、苦しげな顔をしてベンチから崩れ落ちる。既の所で彼女が発動した能力に半分削られて軌道を反らされたライフル弾が、近くの木に跳弾する。
「狙撃!? 誰だ!」
 折紙サイクロンが真っ先に声を上げ、周囲を見渡す。

「あ……」

 肩から出血して倒れ込んだネフィリムに、少女が呆然としている。
「おねえさ、おねえさん、ああ……」
 少女の目から、涙が溢れる。それと同時に、青白い光が飽和した。


「……いやああああああああー!!」


 幼い絶叫とともに、少女を中心に青白い光が広がる。
 ドーム状に広がった光の中から放たれた一閃。それはここからなんとか目視できる、ビルの屋上あたりを射抜いていた。
「な、何だ!?」
《……狙撃手らしき男がいるわ! その子の放ったNEXT能力で、……肩を負傷したみたい。苦しんでる。出血が少しあるみたい……》
 いざという時のためにドローンカメラを飛ばしていたアニエスが、通信機から報告する。そして、彼女は気付いた。狙撃手の負傷が、ネフィリムが受けたそれとまったくもって同じものであることを。
「むっ、逃げそうだ! 私が追おう!」
 上空待機していたスカイハイが、逃げる狙撃手を追っていく。スカイハイに任せておけば大丈夫だろう、と皆が視線をネフィリムに戻した。

「あ、ああ……、お姉さん、おねえさん、あああ」

 ぼろぼろと泣きながら、少女がネフィリムに縋り付く。
 まさに母を求めて泣く幼子そのものの姿に、皆が複雑ながらも痛ましい顔をした。

「ネフィリム! おい、無事か!?」
「……大丈夫、です……」
 慌てたワイルドタイガーの声に、ネフィリムはゆっくりと身体を起こしながら応えた。確かに直撃ではなかったようだが、肩の肉を僅かに削られ、それなりの血が滴っている。
「お姉さん、おねえさん……」
「ああ、……大丈夫ですよ。ありがとう、いい子ですね……いい子……」
「う……」
 血を流しながらも、微笑みを浮かべ、縋り付いてくる少女を安心させるために小さな頭を撫でるネフィリムは、まさに聖女のようだった。

「……ああ、御使い様がおっしゃっていた、とおりですね……。偉い方々は、私たちを、なかったことに、したいと……。今までどおり放っておくのではなく、……本当に、消すことで」
「な……」
 ネフィリムの呟きに、ヒーローたちが絶句する。
 しかし、言われてみればその通りだった。ネフィリムという都合の悪い存在に蓋をするのなら、いつ這い上がってきてもおかしくない状態で放っておくのではなく、完全に根絶やしにしてしまうのが確かに確実である。

 つまり、──ネフィリムを殺すこと。
 同時に、彼らが安らかに眠るカタコンベにはまた蓋をして埋めてしまうこと。

「表に出てくれば、……こう、なるのは、わかって、いました……。こうなることを恐れて、私達は、ずっと地下に、閉じこもっていたのです、から……」
 見えない所で息を潜め勝手に死ぬなら、放って置く。しかし知ってしまった以上は、消す。それは政治的にはまったくもって有益かつ徹底した対応であり、そしてどこまでも非人道的なものであった。

「……どうして……」

 ひっ、としゃくりあげながら、少女が言う。
「どうして、ひどいことするの。お姉さんは、こんなに、優しいのに。優しい人に、なんで、こんなにひどいことするの。ひどい、ひどい……」
 泣きながらひどいと繰り返す少女に、誰も何も言わない。言えなかった。しかしやはりネフィリムだけは躊躇いなく、少女の頭をそっと撫でる。
「……優しい子。ありがとう、大丈夫ですよ」
「あ、ああ……」
「ああ、優しい子。本当に……」
 聖母のように己を慈しむネフィリムに、少女はさらに強く抱きついた。

「……この子の能力は、“反発”? それとも“反撃”かしら」

 ファイヤーエンブレムが、静かに言った。
「いま映像で見たけど、狙撃手の怪我はあなたとまったく同じだったわ。おそらく、自分を中心とした一定範囲に対して行われた攻撃を、そっくりそのまま相手に返す能力……違うかしら?」
「ええ、そうです」
 少女をゆっくり撫でながら、ネフィリムは肯定した。
「この子は、自分からは何も出来ない。優しい、……とても、優しい、子……。私と、違って……」
「──ちがう!」
 少女が、鋭い声を上げた。
「私、わたしだって、お姉さんと、同じ! 同じ、だって……」
 ひっく、と少女がしゃくりあげる。

「私も、お父さんを、殺したもの……!」

 その告白に、一同が顔色を変える。
「……そう。あなたは、父親に殺されそうになった。だからやり返してしまった」
「殺した!」
「ええ、そう。そうね。私と同じ……」
 ネフィリムは、泣きわめく少女を抱きしめる。

「私と同じ。かわいい子……」

 まるで腹の中にいる我が子を慈しむ母のように、ネフィリムは言った。

「……皆さん、ねえ、この子は、優しい子でしょう。この子はいつでも、やり返せました。それなのに、どれほど、殴られても、やり返さなかったの、です……。なんて、優しい子でしょう……。今まで何度も何度も、同じようにされても、我慢し続けてきた、とても、とても優しい子……」

 誇らしげに自慢するようなそのネフィリムの声に、少女がさらに大きく泣き喚く。

「……お姉さん」

 激しくしゃくりあげながらも、少女が顔を上げる。
 彼女はネフィリムと同じような、底のない穴のような、そこに飛び込むことを決意したような目をしていた。

「いつか、いつか、私を殺してね」

 その発言に、ヒーローたちがぎょっとする。頭のおかしいものを見る目をする。しかし、少女は何かに目覚めたかのような笑顔を浮かべていた。

「そうしたら私、私の力で、お姉さんを殺せる。一緒に殺して、一緒に殺されるの。素敵でしょう? 素敵なこと、とても、とても……」
 それはもう、生まれてからもっとも良い考えであるかのように少女は言った。そしてネフィリムもまた、涙すら浮かんだ笑顔でそれに応える。
「ええ、……それは、素敵ですね。なんて優しくて、素敵な……」
 世界にお互いふたりだけ。君とあなたで全てが事足りる、名前すらいらない世界。何よりもわかり合えるどころか、ひとつの存在のような、とても心地の良い時間。
 そんな世界を共有したふたりは、笑いあった。



「やめろ……やめてくれ!」



 だがそこに、青年の声が割り入った。
 ネフィリムらだけでなく、全員がそちらに注意を向ける。そこにいたのは、警官の静止を振り切って走ってくる、少女の兄だという青年であった。
「ああ、無事だった……良かった、ああ!」
 少女を見て、青年は、心から安堵した様子で言った。

「帰ろう、もう大丈夫だから……これからは俺がお前を引き取る、ちゃんと話もつけてきた!」
 伸ばされた手に、少女がびくっと震える。
「あ、えーっと、君のお兄さんだぞ! 君を心配してずっと探してたんだ、ホントに!」
「え……」
 ワイルドタイガーが得たりという具合で発した言葉に、少女は完全に困惑したようだった。だがその事も受け入れている様子で、青年は続ける。

「大きくなってから、ちゃんと会ったことなかったもんな……しょうがないよな、ごめんな。でもほら、時々何とか忍び込んで、様子を見に来てたんだ。こっそり暖かいものとか絵本を置いておいたり、……たまにお菓子が置いてあったりしただろ!? ストロベリーのチョコレートが好きだよな、ちゃんと知ってる!」
「あ……」

 何日おきかに与えられる食べ物を口にするのをやめてしまおうと考える度、そういう時に限って与えられる、滅多に食べられない果物やお菓子、温かいもの。それらのおかげで、少女は餓死せずにここまで生きてきた。
 それに、仮初の気晴らしになる空想のきっかけになったいくつかの絵本。よく考えれば、あの父親がそんなものを持ってくるわけがない。
 今更になって少女はそれに気付き、ひどく動揺した。

「さあ行こう、これからは一緒に──」
「だ……だめ」
 少女は、怯えとも困惑ともつかぬ顔で、ふるふると首を横に振った。
「だって、わ、わたし、わたし……」
 震える手で、少女はネフィリムの腕をぎゅっと握りしめる。

「わたし、だって、お、おとうさんを、こ、殺し──」
「殺してない!」

 震える声を、青年が力強く遮った。少女が弾かれたように顔を上げる。
 少女はその時初めて、兄だという青年の顔をはっきりと見た。少女と同じ黒髪で、少し派手な明るい色のシャツを着た快活そうな青年。父親よりもずいぶん若く、そして冬の太陽の光をきらきらと反射する目を持つ彼に、少女は本能的な恐怖を感じなかった。

「確かに重症だった。でも命に別状はないし、そもそも自業自得だ。お前の能力を知ったら余計にそうだろ。警察にもちゃんと話したけど、お前が悪く言われる事は絶対にない。正真正銘の正当防衛だ」
「え……あ……」
「逆に今回のことであいつははっきり罪に問われるし、お前があいつのところに行かされるのはもうありえない。大丈夫だ、ID登録もできるように用意したし、だから」
「そんな」
「本当はお前が生まれた時、名前も用意してたんだ! ──レベッカ!」
「やめ、やめて」

 完全にパニックを起こした少女は、首を横に振る。
 そして恐怖を感じない、青年──兄の手に、少女はこれ以上なく動揺し、そしておそるおそるネフィリムを見上げる。自分と同じ、……同じものだと言いあったはずの彼女は、一体いま自分をどう見ているのか。
 裏切ったと思われるか、絶望されるか、悲しませるか。完全に萎縮していた少女だが、しかし少女を迎え入れたのは、まったく予想外のものだった。

「ああ……、……良かった。良かったですね……」

 少女を見下ろしていたのは、どこまでも優しげで、慈愛というのはまさにこれだといえるほどの、どんな聖母像にも勝るような、暖かな微笑みだった。

「そう、そうですとも。あなたほど優しい子が、こんなにもいい子が、私のようなめにあっていいはずが、ありません。ああ、……ああ、良かった。本当に良かった……!」
 ネフィリムは本当に喜ばしそうに、青白い頬を染めて微笑んでいる。
「お、おねえさ……」
「良かった、本当に……。ああ、優しそうな方です。ああ、あなたには、この星に迎え入れてくれる、天使が、いた……! 本当に、良かった……」
 そう言って、ネフィリムは常に首から下げていたロザリオをそっと外す。
 天使が導いてくれるという、輝ける星をかたどったロザリオ。彼女はそれを、自分に縋り付いている少女の手をそっと取って握らせる。その動作に少女は声も出せずに必死の形相で首を振るが、ネフィリムは変わらず深く微笑んだままだった。

「元気で、……レベッカ」

 優しさしかないような微笑みを浮かべたネフィリムは、“私”と“あなた”だけでなく、同じ大勢の中から識別するための名前でもって少女を呼んだ。そしてずっと離さなかった小さな手と星をそっと手放して立ち上がり、レベッカから離れた。
 レベッカは膝から崩れ落ち、ぼろぼろと涙を流す。
「ああ、……おねえさん、おねえさ……」
 次から次に涙を流し、与えられた星を握りしめて震えながらネフィリムの背を見つめる少女、レベッカの小さな肩に、彼女の兄が自分のコートをかけてそっと抱きしめた。



「あのう。怪我は大丈夫ですか」

 レベッカから離れ、ひとりよたよたと公園を歩くネフィリムにいつの間にか近づいていたホワイトアンジェラが、あっけらかんとした声をかけた。ネフィリムがちらりと振り向く。
 まったく空気を読まないホワイトアンジェラに、ヒーローたちの何人かがヒッと飛び上がった。

「おいアンジェラ! その、あのだな!」
 先程までの一連のやり取りで、冷たく“近づくな”とか“危ない”とも言いづらいらしいロックバイソンが慌てるが、ホワイトアンジェラはまったくもっていつもどおりの様子である。
「むう、痛そうです」
 血を流しているネフィリムの肩をじっと見て、彼女は言う。ネフィリムは随分小柄で、ホワイトアンジェラより頭半分以上は身長が低い。自然、見下ろすような形になった。
「怪我が痛いと気分も落ち込みます。あなたは特に、いつも落ち込んでいそうですし」
「おいもうちょっと言葉を選べ」
 ライアンが、やや焦りを浮かべながらも半眼になって突っ込みを入れた。

「先程から難しいお話ばかりでよくわかりませんが、怪我を治すのは私の仕事です。治しますか? 治しますね? いいですね?」
「はあ……その、たいへん恐縮です……」
「どういたしまして!」
 ぼんやりした様子のネフィリムに、ホワイトアンジェラは当然のことだという風に大きく頷いた。まさに自分の仕事を見つけて張り切る犬そのものの様子に、緊張感を台無しにされたヒーローたちが各々大きなため息をつく。

「まず消毒しますね。医療スタッフがいないので私がやりますが、そのくらいはできます。おまかせあれ!」
「……あの」
 怪我を検分しつつ応急処置セットを取り出すホワイトアンジェラを見上げるようにして、ネフィリムが声を掛ける。
「はい、何でしょう」
「私、……あなたの部屋に、盗聴器や、カメラを……。申し訳、ありません」
「……ああ、そういえばそうでしたね。気にしないでください!」
「完全に忘れてただろお前」
 すぐ後ろまで近づいてきていたライアンが、ため息混じりで言う。
「嫌なことは、すぐ忘れるのがいちばん良いのです。そのぶん楽しいことをたくさん覚えます」
「……マジでおめでてえなあもうほんとお前は」
「ふふん!」
「いや褒めてはねえからな?」
 得意げな顔をする彼女に、ライアンは本気で呆れた声で言った。

「あなたがたは、……とても素敵ですね」

 怪我を消毒されながら、ネフィリムはぼんやりと言った。
「まるで、お互いが天使のよう……」
「えっ、そうですか? 照れますね! もっと言ってください!」
「だからさー、お前はさー」
 テンションを上げる恋人に、ライアンは今度こそ頭を抱えた。ネフィリムが微笑む。
「……本当に、素敵」
「そうでしょう! あなたもそうなされば良いです!」
「え……」
 テンションが上がったせいか先程よりもてきぱきと怪我を消毒しながら言うホワイトアンジェラに、ネフィリムはぽかんとした。

「好きな人ができれば、そばにいるためなら、何が何でも生きようという気になります。あなたに好きな人はいますか?」
「好きな、ひと……」
「そう、好きな人。つまり愛している人です。よくわかりませんが、なんとなくいそうです。あなたはとてもいい人のようですし、相手もきっとそういう方でしょう。むむ、おそらく身近な人では?」
「身近な」
「はい! 勘ですが!」
 シュテルンビルトいちのキューピッド、恋愛のマスコットとはいえ、大量嘱託殺人犯の怪我を治そうとする上に呑気に恋バナを始めるホワイトアンジェラに、やり取りを見守っている皆がはらはらと息を呑む。
 ぽかんとしていたネフィリムは、ふっと微笑んだ。

「……身近な、人。そう、……そうですね。そのとおりです」
「おお、やはり! それは素敵です! とても、──あ、あれ?」
 はしゃぎながらもネフィリムの怪我に手を当てて能力を発動したホワイトアンジェラは、一転して、彼女としては珍しい困惑顔になった。
「おい、どうした?」
「あああ、あれ? あれ? なぜ──なぜなら、これはどうして──」
 パニックに陥るホワイトアンジェラの肩を、ライアンが思わず引く。ネフィリムの怪我から離れた自分の手を見つめて山程の疑問符を浮かべている彼女に、ネフィリムはまた微笑んだ。
「そう、……そうですね。確かに、あなたのおっしゃる通り……。……好きな人の側にいるためなら、何が何でも、という気に、なりますね……」
「え? あ?」
 ホワイトアンジェラは、自分の手と、微笑んでいるネフィリムをきょときょとと見比べている。

「私の愛する人は、──私が、殺しました」

 何かを吹っ切ったような笑みで、ネフィリムは言った。
 真っ暗な、穴のような目。何もかもを吸い込んでしまうような目は、もはやここにいる何もかもを見ていなかった。
「ああ、そう、……何が何でも。どうやっても、あなたに逢うために、必ず──」
 真っ暗な目が、青白く光る。全員が身構えた。

「──殺しましょう。殺されましょう。そうすれば、きっと──」

 ネフィリムは、遠くを見上げた。見えない星を探すような眼差しで。

「……あの人を、いい人だとおっしゃってくださって、ありがとう……」

 とぷん、と地面が溶けて、ネフィリムは落ちるように消えた。



「エドワード! 追えるでござるか!?」
《無理だとは思ってたけど、やっぱり無理だな》
 モーターボートと平泳ぎぐらいの差がある、と、地下で待機していたエドワードは割り切った様子で折紙サイクロンに返した。
《でも向かった方向はわかるぜ。あの廃工場の方角だ》
「さすがでござる!」
「皆、急ぐわよ!」
 ファイヤーエンブレムの掛け声に皆が頷き、すぐに駆け出す。

「おい、行くぞ。お前チェイサーどこに置いて……おい!?」

 空のスカイハイに対し陸上では最も機動力があるはずのエンジェルチェイサーを当然使おうとしたライアンは、地面にへたり込んだ彼女にぎょっとした。
「何だ、どうした!? なんかされたのか!?」
「お……お……」
「お!?」
 血の気が失せた唇を戦慄かせるばかりでなく、全身ぶるぶる震える彼女に、ライアンがしゃがみこんで様子を伺う。完全に腰を抜かした彼女は、縋るようにしてその膝にしがみついた。
「お、おおお、おおおおば、おばばばばばば」
「……おば?」
 ライアンが首を傾げる。歯の根が合わなくなっているホワイトアンジェラは、すっと息を吸った。

「──おばけ!!」

 完全にひっくり返った声で、彼女が叫ぶ。

「おおおおおおおおおばけ、おばけです、あれはおばけです、おばけ!!」
「は? お化け?」
「わわわわ、わた、私の能力が、能力が効きませんでした! 抜け、すり抜け、おおおおばけ、おばけです! 完全におばけです! ひいー!」
「おい、どういうことだよ」
 パニックを起こしている彼女に、ライアンが根気強く聞く。

 つまり彼女曰く、生きているものなら自分の能力は必ず効く。しかしネフィリムには効かなかった、つまり彼女は生きていない、死んでいる。幽霊、おばけだ──ということらしかった。

おばっ、キェアアアアア!! 無理無理無理、むり、むりです! おばけです絶対にむりです死にます墓場に穴に引きずられます連れて行かれます無理ですアアアアア!!」
「おい勘弁しろよこんな時に!」
「なぜならおばけ! おばけは! おばけだけは!!」
「ハイハイハイハイ! いない! そんなもんはいない!」
「嘘ですいますおばけはいますいるのですもう無理ですアー!!」
 恐慌状態で地面にへたり込む彼女を、業を煮やしたライアンが肩に担ぎ上げる。エンジェルチェイサーという最速の機動力を持っているはずのカップル・ヒーローはやむを得ず、お世辞にも速くはない、えっさほいさとでも掛け声をかけられそうな様子で公園を突っ切っていった。

「ほら立て! しっかりしろ! 腰抜かしてる場合か!」
「無理です死ぬのですおばけには勝てない」
「あ〜! あーもーお前! お前は! 肝心な時に!」

 腰を抜かして担がれつつ両手で顔を覆ってぐすぐす泣き言を言う彼女に、ライアンはやけくそ気味な声を出しながらドスンドスンと不格好に走っていった。
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BY 餡子郎
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