#175
「取引、ですって?」
ネフィリムが切り出してきた用件に、アニエスは硬い声で返した。彼女が下した指先だけの指示を的確に受け取ったケインが、慌ててマイクを通信端末に取り付け、ふたりの会話を録音する。
ネフィリムは、《はい……》とまた気弱そうな声で返事をした。
「どこで私の番号を?」
《御使い様が……ここに電話するように、と……》
「御使い様?」
《ええと、……ドクター・ルーカス・マイヤーズです》
まるで親に指示された子供のようにおどおどした様子で、ネフィリムは言った。
そしてなるほど、七大企業のサーバーを痕跡も残さずハッキングできるルーカス・マイヤーズなら自分の電話番号を調べることぐらい朝飯前であろう、とアニエスは納得する。
《あの、……私達のことを、偉い方々は、なかったことにしたいと思っていらっしゃるのでしょう?》
「そうね。知ってるとは驚きだわ」
なるべく話を長引かせ、様々な情報を引き出そうと、アニエスはあえて細かく相槌を打ち言葉を挟む。
《いいえ、私は、学がなく、あまり頭が良く、ありません。これも、御使い様が……》
「やっぱり、マイヤーズがこの一連の事件の黒幕なの?」
《細かいことはよく存じ上げませんが、そうです》
あっさりと、ネフィリムは言った。そしてその様子は本人が言う通りあまり頭が良さそうではなく、アニエスは怪訝な顔をした。
「そう。何のために? 動機は何?」
《あの、……あの、私は、あまり難しいことはわからないのです。あの、星を……星が……》
ネフィリムのその弱々しく慌てた声は、新入りの気弱なADが失敗を叱られて怯えきり、支離滅裂な言い訳をする時ととても良く似ていた。
相手は正真正銘の大量嘱託殺人犯のはずなのだが、完全に怯えたいじめられっ子そのものの彼女の様子に、アニエスは軽く混乱しながらも一瞬黙る。
《申し訳、ありません。あの、そのことについては、あとで、その、ちゃんと用意はしていますから……》
「……それも気になるけど、……いえ、私も急かして悪かったわ。取引がしたいのよね。説明してもらえる?」
アニエスは、なるべく静かに言った。アニエスは我の強い性格ではあるが、ひたすら相手を追い詰めることばかりが手段だと思うほど愚かではない。
《は、はい。ありがとうございます》
その配慮が功を奏し、ネフィリムは明らかにほっとした様子だった。
《あの、……偉い方々は、私達をなかったことにしたい、のでしょう。しかし私は申し訳なくもこうして生きていて、あの教会の地下も、何もなかったかのようにすべて壊すのは、難しい》
「……そうね」
《そこで、ご提案、です。この子を引き取らせていただけるなら、……私たちネフィリムは、今までどおり、あの教会に籠もります》
ネフィリムのその提案に、アニエスは眉間の皺を深くする。
《ドクター・ルーカス・マイヤーズの研究データをまとめたものもあります。この提案を飲んでいただけるのであれば、お渡しします。ホワイトアンジェラの狙撃も、アンドロイドのことも、すべてドクター・ルーカス・マイヤーズのしたことであるという証拠もあります》
「それは……」
それはつまり、臭いものには蓋をするということ。何もなかったのだと、見て見ぬふりをさせてやろうと彼女は提案しているのだ。
あとに残るのは、ホワイトアンジェラに偏執した、世界的頭脳を保つがゆえの希代の気狂いドクターがしでかした、テロ紛いの大事件だったという結末。
ネフィリムなどいなかった。凄惨なNEXT迫害の末、嘱託殺人にて命を断ってきた大勢の自殺者など存在しなかった。存在しないのだから救う必要もなく、また罰される必要もない。
犯人であるルーカス・マイヤーズは既に自殺してこの世におらず、後の世に大きな躍進を与える研究だけが公開され、喜ばしく迎えられる。
社会保障番号のない、つまり今の時点で存在が確認されていない“幽霊”の少女を地下に葬るだけで得られる、嘘だらけの大団円。
「……それで、あなたは? そのコを次のネフィリムにして、そしてまたあなたのような人があの教会にやってきたら、ネフィリムはそれを殺す、それを繰り返していくの? あの教会に、誰も来なくなるまで──この世に、差別と迫害がなくなるまで?」
それが、少なく見積もっても途方もなく遠い先のことであることぐらい、少しでも現実を知っていればわかることだ。むしろこんな存在がある限り、差別や迫害などなかったと尻拭いをしてしまう存在がある限り、永遠にそれはなくならないだろう。
アニエスは、知らず知らず通信端末を強く握りしめた。
《はい》
その返事だけ、ネフィリムはやけにはっきりしていた。
《誰にも損はありません》
「あなたね──」
《あの教会に来るのは、他にどこにも行くところがない人たちです》
我々は、生まれる前に死ぬべきだったもの。世界の誤り。失敗作。誕生を歓迎されなかったもの。神にも天使にも見放され、救世主からは無視され、隣人もいない。産まれて死ぬまでたったひとり。あるのは共食いの虚無だけ。
今までも何度かネフィリムが口にしたその言葉は、まるで聖書の文句を朗読しているかのようだった。厳かで、古く、重厚で、そして幾多の絶対的な信仰と祈りが込められた言葉。
《誰も受け入れないものを、同じものである私達が共食いで殺す。見えない所で、勝手にいなくなる。誰も損をせず、誰にも迷惑がかからない。見て見ぬふりをするのが、あなたがたにとって最も歓迎すべきことであるはずです》
「あなた方って何よ。一緒にしないで」
もしあの教会が無理やり壊されたら、映像や資料を一般公開すると仄めかして上層部に抗おうとしているアニエスは、怒りを込めて強く言った。ネフィリムが黙る。ケインがモニターを見ると、彼女は少し驚いたような顔をしていた。
《……ありがとう。優しい方》
「あのね。そんなことが言えるなら、世の中捨てたもんじゃない所もあるってわかってるんでしょ? それなら」
《はい、いいえ。いいえ、あなたがたの星が、優しい星だということは知っています。しかし私達は、その星にいることを許されなかった》
ネフィリムは、再度頑なな声に戻って言った。
《もう、遅いのです。もう遅いのです。何もかも。もう、生きるか死ぬかですらないのです。私達はせめて死に方を選びたい、それだけです。だから、あなたがたも》
「ちょっと待って──」
《選んでください》
最初の気弱な声とは比べ物にならない、まるで別人のような強い声だった。
《えらべ》
繰り返された、男のように低い声に、アニエスの背がぞっと震える。
通話は切れていた。
アニエスの指示で、公園から近いOBC系列ビルの会議室にヒーローたちが集められ、ネフィリムとの会話の録音を聞いた。全員絶句し、また難しい顔をしている。
「……“上”にはまだ報告してないわ」
「それって……」
「言ったら承諾されかねないからよ! かなりの確率でね!」
バーナビーの怪訝な声に、アニエスは苛々をぶつけるように、壁をバンと叩きながら怒鳴った。
「ダメ……ダメよ、そんなの! あの女の子がネフィリムになるのをみすみす見逃して、しかもこれからもあんなことを繰り返すのを黙って見てろっていうの!?」
「そうだよ、絶対にダメ!」
ブルーローズの悲痛な声に、ドラゴンキッドが同意する。
「ええ、絶対に許されないことだわ、人道的にね。……でも、政治的には……お偉方には、願ってもない提案でしょうね」
「くそっ、なんてイヤな話だ」
ファイヤーエンブレムの重苦しい声に、ロックバイソンが吐き捨てた。
「……中途半端だな」
「どういうことです? スカイハイさん」
顎に手を当てて静かに言った彼に、バーナビーが尋ねる。
「彼女の提案は、確かにかなりの確率で上層部に受け入れられてしまうようなものだ。それこそ、アニエス女史が危惧するほど。強気に出るのもわかる。だが交渉というのは選択肢があるものだ。この話にはそれがない」
「……つまり?」
「選べと言っておきながら、私達が提案を飲まなかった時どうなるのか、彼女は何も話していない」
そういえば、と、バーナビーだけでなく全員がハッとした。
「彼女の能力は相当なものだ。あの能力で手当たり次第に暴れ回られたら、凄まじい被害が出るだろう。彼女が若返っているのにも、何か理由があるはずだ。それにあの廃工場も……」
「確かに……まだわからないところがいくつもあります」
「じゃあ聞きゃいいだろうが」
「ちょっと!」
そう言ってアニエスの通信端末をひったくったのは、険しい顔をしたワイルドタイガーだった。いきなりのことに皆が呆気にとられている間に、ワイルドタイガーは古い型の折畳式端末から着信履歴を呼び出し、最新の着信に電話をかけ始める。
「何考えてるんですかタイガーさん! いますぐ──」
「うるっせーな! ぐだぐだ想像ばっかり巡らせてるから話がややこしくなんだよ!」
バーナビーの静止も聞かずワイルドタイガーが言い返したその時、呼び出し音が鳴り止んだ。
《……はい》
「あ、繋がった? もしもし、えーっと、ネフィリム?」
そんな調子で会話を始めてしまったワイルドタイガーに、ある者は顔を覆って天を仰ぎ、ある者は唖然として口を開き、あるいは青くなっている。しかし彼は、お構いなしに続けた。
「ちょっとわからねえ事が多いんで、直接聞きたいんだけどさあ」
《あの、……どちら様でしょう》
「あっ悪い悪い、ワイルドタイガーだ」
《……ヒーローの……》
「そうそう! 知ってんだ、嬉しいね」
弱々しい返答に、ワイルドタイガーは破顔さえしてみせた。
《聞きたいこと、とは……》
「それだよ。あんた結局何がしたいんだ?」
《何が……したい?》
率直かつ漠然としたその問いかけを、ネフィリムはぼんやりと復唱した。
《私は、……終わりたいのです》
「終わる? あー……、死ぬ、ってことか?」
《死ぬ、はい。いいえ。私は、殺されたいのです》
相変わらず弱い風のような声だが、ネフィリムは妙にはっきりと言った。
《……ごめんなさい……》
「謝られてもなー……。えーと、なんで殺されたいんだ?」
《なぜ? なぜなら、私は、色々な人を殺してきました》
「……たくさん殺したから、その罪を償うために殺されたいってことか?」
《はい、いいえ。いいえ、そうではありません。私は》
「おう」
《……私などのことを聞いても、無意味ですよ》
すっと身を引くようにして話を中断させたネフィリムに、ワイルドタイガーは眉を顰めた。
「無意味ってこたねえだろう」
《はい、いいえ。無意味です。私は、生まれてきてはいけなかった。ですから、死ぬことだけが正しいのです》
「そんなわけあるか!」
《……はい。……ごめんなさい。申し訳ありません》
「いや、だから」
本当に申し訳なさそうに謝られて、ワイルドタイガーは調子が狂ったような様子で、フェイスガードを開けて露出した鼻先を指で掻いた。
《うまく説明できません。申し訳ありません。もっときちんとしたことをお知りになりたいのなら、御使い様が説明してくださいます。こちらまで、いらっしゃっていただければ》
「御使い様って、……え、行ってもいいのか?」
《私は、構いません。私などと直接お話しするのはご不快かと思い、お電話にしただけです》
「あー、えっと、直接話せるならそれで」
《はい。では、お待ちしております。場所は……》
「公園だろ? わかってる」
《……そうですか。お手数をおかけいたします》
ぷつん、と通話が切れる。
「おう、来てくれってさ」
呑気にそう言ったワイルドタイガーを、アニエスがヒールで思い切り蹴る。
「何を考えているんですか!」とバーナビーが叫び、ロックバイソンが呆れたようにワイルドタイガーの頭を叩き、他は概ね呆然としていた。ファイヤーエンブレムが片手で頭を抱え、「まったくもう」と呟く。
しかしこうなった以上、行かないわけにはいかない。ヒーローたちは、ぞろぞろと公園に向かって歩き出した。
公園に、市民はいなかった。
戦闘になった時のために、既に警官たちが追い出したのだ。更にもう人が入ってこないよう、警官たちが公園の周囲をぐるりと囲い、KEEP OUTの黄色いテープを張り巡らせて厳重に見張りをしている。
「おう、様子はどうだ?」
ワイルドタイガーが話しかけると、ひとりだけ公園に残っている、OBCロゴの入ったADジャンパーを着た女性が振り向いた。ボン! と音がして女性の姿が揺らめき、和風カラーリングの特徴的なヒーロースーツ──折紙サイクロンになる。
「変わりないです」
「そーか。お、あったかそーなもん飲んでるな」
ネフィリムと少女は、湯気の立つ紙コップの飲み物を持ってちびちびと飲んでいる。
「いえ、その……どうせ来るってことになりましたし、女の子が寒そうだったので……」
折紙サイクロンは、もごもごと言った。彼が買い与えたらしい。
「これから交渉事をこなすんですから、無闇に警戒心を持たれるよりは随分いいですよ」
人質をとった銀行強盗などに対してもよく行う手ですからね、とバーナビーが言う。
「ありがとうございます、折紙先輩」
「はあ」
「よっし、じゃあ行くぞ」
ワイルドタイガーの掛け声に応じ、ヒーローたちがぞろぞろと歩き出す。やや距離を取りつつも、ベンチに座るネフィリムと少女を囲うように位置を取った。また、スカイハイはマイクで会話を聞きつつも上空で待機している。また、地下にはエドワードが密かに待機していた。
完全に包囲する形をとったヒーローたちに、ネフィリムが顔を上げる。隣の少女が、怯えた様子でネフィリムにぎゅっと抱きついた。
「えーっと」
腰を曲げ、右手を頭の後ろに当ててひょっこりと進み出たワイルドタイガー。しかしその肩を、バーナビーがぐっと押さえる。
「タイガーさん、約束しましたよね」
「う……、わかったよ」
勝手な行動をした自覚はあったため、ワイルドタイガーは苦い顔で渋々と引っ込んだ。
「どうも、バーナビーです」
「ネフィリムと、……申します。この度はご足労いただいて、……大変なご迷惑もおかけして、本当に、申し訳ありません……」
ベンチに座ったままだが、ネフィリムは揃えた膝に頭がつくのではないかというほど、深々と頭を下げた。その様子に調子が崩されそうになりながらも、バーナビーは気を取り直す。
「聞きたいことは色々ありますが、……ます交渉がしたいということと、あなたの要望は理解しました。しかし僕たちがどうするかは置いておいて、情報が足りません」
「足りない……? ええと、何がでしょう……」
「僕たちがあなたの要求を飲まなかった場合どうなるのか、提示されていません」
きょとんとした様子のネフィリムに、バーナビーははっきりと言った。ネフィリムは、へにゃりと情けなく眉を下げる。
「ああ、……ああ、そういえば。おっしゃる通りですね、……申し訳ありません。すっかり失念していて……てっきり伝わっているものと……。申し訳ありません、私はあまり頭が良くなく……」
申し訳なさそうに、そして少し恥ずかしそうに小さな肩を更に縮めるネフィリムに、バーナビーは居心地の悪い思いをした。先程からそうだが、ネフィリムの腰があまりにも低くおどおどした様子なので、何やらこちらがいじめているような気になってしまうのだ。
しかも少女が気遣わしげにネフィリムの顔を覗き込み、慰めるように背を擦っているので、余計にいたたまれない。最も後ろにいるホワイトアンジェラが、「なるほど、おバカちゃんなのですね。それなら仕方がありません」と呟き、ライアンに後頭部を軽く叩かれていた。
「本当に、不足ばかりで、申し訳ありません。何しろ急なことだったので……」
「……急なこと、とは? あなたは計画的にその少女を誘拐したのでは?」
「いいえ」
ネフィリムは、今度は特に何も構えていない様子の、フラットな口調で否定した。少女本人も、ふるふると首を横に振っている。
「この子に出会ったのは、まったくの偶然です。廃工場の近くの、古い廃線がある空き地にいたのを見つけたのです。とても寒そうで、お腹も空いていそうでしたので、お風呂に入れて、服を着せて、食事を……」
その言葉に、少女がこくこくと激しく頷く。その度にきれいに洗われた髪がさらさらと揺れる。新品のブーツを履いている少女の必死な目には、何よりの説得力があった。
「ですが、……これも偶然ですが、この子は私と同じでした。ですから……」
「……次のネフィリムとするために、連れていきたいと?」
「はい」
「断れば?」
バーナビーの硬い声に、少女が怯えてネフィリムに強く抱きつく。
「断られたら、……本来しようと思っていたことを、いたします」
「それは?」
ネフィリムが、顔を上げる。真っ黒な目が底のない穴のようで、バーナビーだけでなく、大勢の者が息を呑んだ。
「殺して、……殺されます」
ぴんと張った冷たい空気に、そのたおやかな声は妙によく響いた。耳元で囁くような音が、皆の背筋をぞっと震わせる。
「私はもう、80歳を超えました。この年になっても、私を殺してくださる人は、新しいネフィリムは、現れなかった……皆、私に殺されることだけを願って、誰も……」
「……とても80代には見えませんけどね。そこも説明して頂けますか?」
こうして近くで見たネフィリムは、情報通り30歳前後に見える。
とても大勢を殺害した大量嘱託殺人犯とは思えない、華奢な体格をした儚げな女性。アジア系の血が入っているのか、切れ長で茶色みのまったくない黒い目と、短いが癖のないまっすぐな黒髪、またそれらと対象的な白い肌が印象的だった。
「それについては、御使い様が……」
ネフィリムはそう言って、通信端末を取り出した。
短い操作をしてから、彼女がそれをベンチの空いたスペースに静かに置く。
《──やあ、皆さんお揃いで。調子はいかがかな?》
聞き覚えのあるその声に、ヒーローたちがぎょっとする。
「……ルーカス・マイヤーズ!?」
《そのとおり。ちょっと久しぶりだね》
思わずひっくり返った声を出したバーナビーに、通信端末が応えた。その声は、あの空気を読まない調子っ外れのにこにこ顔が思い出せるような軽い様子だった。
「馬鹿な、地下墓地の遺体は……確かにマイヤーズだったはずだ!」
《うんうん、確かにあの死体は僕だよ》
「何を……」
《幽霊に会ったみたいで不気味だよねえ。ハハハ、でもそんなものはいない。なにがなんだかわからないだろうから、きちんと説明しよう》
ざわつく面々をまったく無視して、ルーカスは続ける。
《僕の専門はとにかく脳だ。NEXT能力は脳が要になって働く力だから、当然そのことも理解し尽くしている。わかってしまえばさほど難しい仕組みじゃない。退屈なくらいにね》
マリアの頭蓋の中に入っていた、人の脳を完全に再現した機械。世紀の大発明、いやもはや現代におけるオーパーツのレベルであると言われるほどのものを作り上げた本人は、本当に退屈そうに言った。
《僕は長年奇跡を待った。延々同じルーティンを繰り返す君たちから、いつかはミュトスの輝きが現れないかと待ち続けた》
「……ミュトス?」
《ミュトス。つまりは神話、英雄譚、奇跡の物語。理屈が通らない不可思議、魔法、超自然的現象。世界中の子供に一夜でプレゼントを配るサンタクロース──》
夢いっぱいの詩を語るようにして、朗々とルーカスは言った。
《だがここまで待っても、君たちは変わらない。たまに期待しても結局ただのくだらないバグだった、という落胆を何度も繰り返したよ。つまり僕は失望した。天使は現れなかった。──ここは結局、僕の星ではなかったんだ》
「あーもー、わっけわかんねーな! 何だよミュトスとか星とか!」
ワイルドタイガーが、業を煮やして叫ぶ。ヒーロースーツがなければ自らの髪を掻き毟っていそうなその様子に、今回ばかりは皆同意だった。全員が困惑し、怪訝な表情を浮かべている。
《ハハハ、タイガーは相変わらずだね》
「何だとお!?」
《まあまあ、落ち着いて。……つまり僕は、この星に見切りをつけたんだ》
「……タイガーさんじゃないですが、要領を得ないですね。結局何をするつもりなんです?」
おい! と後ろから背中を指さしてきて怒鳴るワイルドタイガーを綺麗に無視して、バーナビーが尋ねた。
《天使がいないなら、造ればいい。星もね》
「……何ですって?」
《方法は知っている。ならあとは材料を揃えるだけさ。金さえ集めれば、星の民がどうとでも揃えてくれる。剣の民……ウロボロスも単純だしね。苦労したのは、ラファエラの脳を手に入れることくらいかな》
「ラファエラの脳……。彼女の脳を、何に使うつもりなんです?」
彼女の頭蓋からは、脳がそっくり抜き取られていた。その目的は今も不明だが、いよいよそれが明らかになるのかと、全員が緊張した。
《もちろん、天使の材料として使うためさ。もっとも大事なパーツでもある》
「なんだって?」
《彼女はもともと天使でね。ミカエラの双子の姉妹だった》
あまりにも思ってもみないその内容に、今度こそ全員が言葉を失った。
「……は? なんですって? ミカエラ、というのは、その……」
《ご存知のとおり、◯◯王国の王女様さ。まあ実際はその姿を借りてるだけだけど》
ルーカスのその発言に、「妄想?」「やっぱおかしいのかしら」と折紙サイクロンとブルーローズがひそひそと言った。
《妄想とは失礼だな。若人は年長者の言うことをすぐ馬鹿にする》
小さな囁きを聞き逃さなかったルーカスに、ふたりがびくっとする。
《ラファエラの力は相手のエネルギーを吸い取ることと思われがちだけど、でもそれは実は単なる手段だ。本当は脳のバグをエネルギーごと吸い取ってデフラグしたり、レジストリをクリーンアップして最適化するのが本質さ》
ルーカスは、立て板に水のように喋る。
《経験によってプログラムに刻まれてしまい、後々の働きに支障をきたすバグを吸い取ってすっきりさせる。脳というコンピューターにとって最強のメンテナンスソフトだよ。相手のエネルギーを吸い取るのは、バグを丸ごと取り込むっていう力技なアプリを動かすのにエネルギーが多く必要ってだけ。余剰は自分に回すけど、まあそれも維持費のひとつだよね》
シンと静まり返っている一同に、ルーカスはコホンと咳払いをした。
《君たちにもわかりやすく言うなら、辛い記憶や気持ち、つまり心の傷を吸い取るってこと。そうやって気持ちを軽くして、処理効率を改善──えーと、主観的な表現は面倒だな》
確かに、彼女の能力を受けた後の人々は皆彼女を天使だ聖女だと崇め、晴れ晴れとした気持ちで生まれ変わったような気になっていた、──と、アンジェロ神父は言っていた。
《自らヒトに交じることでこの星に居着こうとしたミカエラと違い、ラファエラは多くのヒトを受け入れ取り込むことでヒトを理解し、受け入れてもらおうとした。まさにその名の通りの癒しを司る天使、聖女様──のはずだったのだけれど》
ふう、とルーカスはため息をついた。実にくだらない、とでもいうように。
《彼女の末路は、ヒトのご機嫌取りのために吸い取りまくったバグを処理しきれずキャパオーバーし、なぜか子供を生むなんて不具合を起こした、壊れた聖母様さ。結局ラファエラは長い生の果てに壊れ、ミカエラの作ったNEXT能力者たちの多くは迫害され、ネフィリムが生まれた。天使と人の間に生まれ、厭われ、同類が集まって共食いを続けるほかなくなった哀れな巨人たち》
ネフィリムが俯く。
《別に、仲良くすればいいのにねえ。本当に異質が嫌いだね、君たちは。馬鹿みたい》
誰も何も言わない──何を言っていいのかわからない空間で、あっけらかんとしたルーカスの声が更に響いた。
《ラファエラの肉体は、他人からエネルギーを吸い取り続けさえすればほとんど不老不死に近い。まあグッチャグチャに壊されれば死ぬけど、多少のことでは死なない》
「おいおいおい、ちょっと待て。あの王国が滅亡したのって、何世紀前の話だよ。その生き残りのオヒメサマがこいつの母親だって?」
ライアンが、ぽかんとしているホワイトアンジェラの犬耳付きの頭をばしばしと軽く叩きながら言った。
《そうだよ。世界最高齢の高齢出産》
「そんなわけねーだろ! トンデモ妄想も大概にしろ」
《何を仰る。これはまったく夢のない、ただの事実だよ》
ルーカスは、面白みのまったくない声で言った。
《かつての彼女は、まさに聖女様だった。苦しむ人々の傷を癒やし、癒やすごとに若さを保ち、美しくなっていく。今伝えられている、ミカエラが聖女として崇められている所業は、実際半分以上ラファエラのやったことだね。双子だったから混同されてるけど》
ただ彼女は容量ばかりは大きくても頭がいいわけじゃなかったから、政治的なことはミカエラのほうだよ、とルーカスは言う。
《だがまあ例によってヒトは異質が嫌いだからね。いつまで経っても若いラファエラを気味悪がるようになった。まあ方法が粘膜接触っていうのも原因だけど、聖女はあっという間に邪悪な淫魔扱いってわけ。戦争の終結とともに政治的な働きをしていたミカエラは殺され、民衆を宥めるためにラファエラは犯罪者と一緒に荒野の向こうに捨てられた》
僕はてっきり犯罪者たちに貪り尽くされて死んでると思ってたから、生きていて本当に驚いたよ、とルーカスは言った。
《ま、壊れてたけどね。おそらく犯罪者たちのバグを手当たり次第に吸い取りすぎて、処理が追いつかなくなったんだ。困った人を助けるのです、心の傷がなくなれば、皆お互いに優しくあれます──っていうのが、聖女ラファエラの決まり文句だったからね》
──善行を積み、愛を捧げるのです
──困っている人を助けなさい。愛をもってです
──たとえ自分の身を削ってもです、ガブリエラ
「あ……」
ホワイトアンジェラ──ガブリエラは、彼女が壊れたラジオのように繰り返していた言葉をまた思い出していた。
今まで彼女は夢の中のような存在で、今ひとつ自分の実母であるという感覚がなかった。しかし今ガブリエラは、彼女が確かに自分の母であるということを感じた。
なぜなら己もまた、己の能力によって皆の怪我が──傷がなくなれば、悪い人はいなくなる──自然とそう考え、それに従って行動してきていたからであった。
《彼女の娘であるアンジェラが異様に“嫌なことを忘れるのが早い”のも、ラファエラの遺伝だよ。彼女の脳は普通のヒトとは比べ物にならないほど容量が大きくて、他人のバグ、心の傷を吸い取っても多少時間をかければ綺麗に処理できた。かなりの高負荷がかかっても健全なプログラムを維持できる大容量の脳──、良く言えばトラウマを残さないタフなメンタル、悪く言えば忘れっぽくておめでたいおつむは聖女の証だね》
ああ、母は、あのひとは、ただ夢見心地に狂った聖句を唱えていたのではなかったのだろうか。あの言葉は、苛烈な運命の果てに壊れてしまってもまだ残る、本物の聖女だった彼女の残り火で、同じような力を持つ自分にその事を教えようとしていたのか。
ぐるぐると思考の海に陥りかけたガブリエラの肩を、大きな手がぐっと抱く。はっとして顔を上げれば、やはりそれは隣にいるライアンだった。
彼は自分を見ているわけではなく、ネフィリムらのほうを向いたままだ。しかし他を見ていても自分のことにはちゃんと気付いてくれる彼に、ガブリエラは心から安心した。
そしてガブリエラはその端正な横顔に単純に見惚れると同時に、自分は彼さえいれば他は割とどうでもいいのだということを思い出し、素直に難しいことを考えるのをやめた。ルーカス曰く嫌なことはすぐに忘れて切り替えられるタフなメンタル、あるいはおめでたい、しかも今は恋愛脳に侵されたおつむによって。
《でも、彼女の超容量の脳は非常に有益な部品──ハードウェアだった。彼女が長年手当たり次第、有象無象の他人から吸い取ったバグを取り除いて綺麗にするのに、10年以上もかかってしまったよ》
やれやれ、といった様子で、ルーカスは言った。