#174
「まだ泣いているのかい」

 ベッドに突っ伏してしゃくりあげている少女に、カソック姿の細身の青年が、ゆったりと優しげな声をかける。
「そんなに泣いてもらえるなんて、セシル神父は幸せ者だ」
「……そうでしょうか」
「そうさ。とても嬉しそうだったもの」
 青年、テレンスは頷いた。黒縁眼鏡の向こうにある目は、いつもどおり全く嘘をついていない。少女はすんと鼻をすすって、ベッドに腰掛けた。テレンスが、その隣にそっと座る。
 少女は男性が苦手だ。恐怖症であると言ってもいい。しかし彼女を受け入れてくれたセシル・アドラム神父と、同じく彼に拾われたというテレンスのことは全く恐ろしいと思わなかった。それどころか、唯一の近しい人だと思っている。
 それはテレンスも同じで、自分と同じく大人の男性にひどい目にあわされてきた少女を、とても親身になって気にかけた。
 少女は、このふたりが大好きだった。

 しかし先日、セシル神父が亡くなった。老衰であった。
 次代のネフィリムに殺されることでその生を終えてきたネフィリムとしては、非常に例外的な終わり方である。

「僕が殺しても良かった」

 テレンスは、優しさしかないような声で言った。
「でも僕は、彼は君にこうして泣きながら惜しまれて死ぬのがふさわしいと思ったんだ」
 セシル神父は、自分がNEXTであることがわかって妻から別れを切り出された上、妊娠していた子供を堕胎されたショックで能力を暴走させ、そのまま妻を殺してしまった。
 己がNEXTでさえなければ妻は子供は堕胎されなかったし、自分も妻を殺すことにはならなかったと、その罪を背負ってこの教会にやってきた人だった。
「彼は、ずっと子供に会いたがっていた」
 ぴくり、と少女が肩を跳ねさせる。
 セシル神父は、テレンスと少女をまるで自分の子のように、そしてどこまでも平等に気にかけた。男性のテレンスに続いて少女がやってきたことを喜んだ。堕胎された子供が、男か女かもわからないほど小さかったからだろう。
 彼が自分たちではなく、生まれることすらなかった子供の面影を求め、贖罪を行うようにして優しく接してきていることくらいは、ふたりともわかっていた。だが自分たちもまた、自分たちにはいなかった理想の保護者の幻影を彼に当てはめていることは自覚していたので、お互い様だ。
 そうやって、この教会に来る人々はお互いの傷を舐め合ってわかりあう。──いずれ共食いをする、そのための味見をするように。

 だがテレンスは、セシル神父にそれは似合わないと思っていた。だからこそ彼は最後まで彼を殺さず、また少女にも彼を殺せと命じなかった。
「僕の前にもネフィリムは何人かいたけれど、皆結局セシル神父のことは殺さなかった。みんな、僕と同じ考えだったんだと思う」
「はい……」
「奥さんはわからないけど……。きっと今頃、子供と一緒に幸せに暮らしてるんじゃないかな」
「星で?」
「そうさ。僕らには行けない星でね」
「それなら良かった」
「うん」
「セシル神父が星に行けて、本当に良かった」
 少女は、またほろほろと涙を流した。そんな少女に、テレンスは目を細めて微笑む。

「……君は優しいね。聖女様のようだよ」
「そんなことはありません」
 少女は、硬い声で返した。
「そうかな。君は誰にでも親切だし、こんな目にあってすら誰かを恨んだり、嫉妬すらしない。どんなにいい人だって、君ほどじゃないよ。……普通のところに生まれてさえいれば、きっと今ごろ」
「意味のないことを言うのはやめて」
 頑なな少女にテレンスは苦笑し、それ以上言うのはやめた。彼女の言うことはもっともだったからだ。

「とにかく、……セシル神父はもういないけれど、僕らも少し寂しいから。せめて遺体は、みんなと一緒に地下にね」
「はい」
 テレンスや少女の能力なら、セシル神父の遺体を誰にもわからぬよう灰にして海に撒くこともたやすい。だが彼らはそうせず、歴代のネフィリムと同じく彼の遺体をミイラにして、地下におさめた。彼は他のネフィリムにも慕われていたし、彼らも、ほんの少しでも思い出が欲しかったから。

「こうなってから、僕にもわかったことがふたつあるんだ」
「なんですか」
「まずひとつめは、殺したほうがいいようなやつもいるってこと」

 まったくもってフラットな声色で、テレンスは言った。
 彼は長身だがひょろひょろと痩せていて、穏やかな顔つきの地味な青年だ。気弱そうにすら見える。だがこの虫も殺せなさそうな彼こそが、歴代のネフィリムの誰よりも多くの人を殺した、もっとも苛烈なネフィリムでもあった。
 超強力な発火能力を持つ彼は、元々社会保障番号を持たない人間を安価な労働力として食い潰す工場──だけであればまだしも、NEXTであればそれを拷問にかけて楽しむ人間の集まったそこで、奴隷のような扱いを受けていた。ある日能力を暴走させて工場の人間を一切合切焼き殺してから、彼はその足でこの教会にやってきた。
 他のネフィリムと彼が違うところは、彼が夜な夜なシュテルンビルトの暗がりを徘徊し、NEXTを迫害している者を殺して回っているということだ。
 月すら出ない夜闇に現れる殺人神父、と最近にわかに噂になりつつもある。とはいえ、少女の能力で地下を移動して出没するので、その正体が知れることもないだろうが。

「まあ、それには僕も含まれるんだけれどね」

 ごく当然、といった様子のテレンスに、少女は返事をしなかった。彼に何か言葉を贈れるほど、少女はまだ何もわかってはいない。
「NEXTを特別扱いするべきだなんて、僕は思ってないよ。危ない力なのは確かだし、怖がられるのも仕方がない。でも、あんな……あんな、……あんな仕打ちを受ける理由は、ないんだ。ないはずなんだよ」
 テレンスは、自分の顔の横に手を遣った。しかし、その指は空を切る。彼の左耳は、引きちぎられたような跡を残してなくなっていた。そしてその手もまた、薬指がない。
 彼には他にも欠損した部位がそこかしこにあることを、少女も知っていた。

「彼の奥さんは、どうしようもない奴だった。子供を殺してしまったのは事故さ」
「……セシル神父は、悪くないということ?」
「いいや。彼が人殺しなのは事実だ」
 テレンスは、ゆっくりと首を横に振った。
「だけど、彼の罪によって彼女の罪がなくなることもないってこと。彼の奥さんがひどいことをしたのと、彼が奥さんを殺したことは、無関係ではないけど別々の罪だ」
 言いたいことは理解できたので、少女は頷く。
「だからね、僕がたくさん人を殺したのも、僕がひどい目にあったから仕方ない、とは思ってないんだ。最初の工場の人を全部殺したのだって、自分と同じ目にあってた人もまとめて殺してしまったし。今も夜にNEXTをいじめてる奴を殺して回ってるのも、本来僕に関係ないことだし。つまり、僕はやっぱり生まれてこないほうが良かった、ただの凶悪な人殺しさ」
「どうして殺すの」
「嫌いだから」
 テレンスは、はっきりと言った。

「僕をいじめる奴は大嫌いだ。殺してやりたい。似たような奴らも嫌いだから同じようにする。いじめられてた人に、ありがとうって言われたこともある。でも僕が人殺しなのも事実だろ。実際、嫌いなやつを殺すとスッキリする」

 少女は返事をしなかったが、テレンスはそれを気にした様子はないようだった。彼は答えを求めてはいない。もう、全て自分で決めてしまっているのだということを、少女は理解していた。

「君が次のネフィリムだ。僕を殺すのは君になるだろう」
 その言葉に少女が泣きそうになると、テレンスは彼女の黒髪を優しく撫でた。
「大丈夫だよ。僕は星になんか行けないし、行かない。君とずっと一緒にいる」
「私と?」
「そう。これがわかったことのふたつめ」
 テレンスは、今度は喜ばしそうに言った。

「死んでもそこで終わりじゃないんだ。思いが残っていれば、その人はそこにいる」

 じっと見つめてくるテレンスの目に、吸い込まれそうな気がする。テレンスの目は、底のない穴のようだった。
「だからあの地下室は、ネフィリムたちでいっぱいだ。僕にはわかる」
「……幽霊?」
「そういう感じ」
 テレンスは、微笑みながら頷いた。
「……セシル神父は?」
「彼は星に行ったから、いないよ。抜け殻のミイラだけ。思い出だけがある」
「そう。……良かった。寂しいけれど」
「そうだね、寂しいね。でも僕は、僕たちは、ずっと君と一緒にいよう」
 テレンスは、少女を真っ直ぐに、そして強く見つめた。少女は、うっとりとそれを見返している。底のない穴に飛び込む前のような心地で。

「僕を殺してくれる優しい君と、僕はずっと一緒にいる。それが僕の星の輝きだ」

 薬指のない青年の左手が、少女の華奢な手をそっとすくい上げた。






「……本当に、ここにいるのですか? テレンス」

 ネフィリムは、鏡を見ながら苦笑して言った。
 映っているのは、30歳前後だろう黒髪の女性。テレンスを殺したのは、彼がこのくらいの年齢の頃だった。それだけで、やけにそわそわした気持ちになる。少女だった頃、ネフィリムには彼がひどく大人に見えたものだが、今となってはとても若かったのだとわかる。
 彼はあの工場にいた頃、いうことをきかせるためにあの薬物を投与されていた。教会に来てからもそれをやめることができなかったのは、殺したチンピラが薬を持っていることがよくあったからだ。
 そして彼が30歳になろうかという頃、禁断症状で苦しむ彼を、ネフィリムは殺した。ありがとうと言って安らかに息絶えた彼に、彼女は最初で最後のキスをした。

 あんな環境だったとはいえ大勢と共に暮らしたがゆえ、識別のために名前があったテレンスと違い、ネフィリムは名がなく、ネフィリムというのが唯一の名前だ。だからテレンスもネフィリムを名前で呼んだことがないが、それで困ったことはいちどもない。
 なぜなら彼がいた頃は、世界に自分と彼しかいなかった。君とあなたで事が済み、ふたりは何よりもわかり合えるどころか、ひとつの存在のようだった。それはとても心地の良い時間で、世界の全てが事足りた。そんな世界を経験したが故に、彼がいなくなってからの世界は、今までよりももっと寂しい世界になってしまった。

 死んでからもずっと一緒にいると言ったテレンスを、ネフィリムは身近に感じたことがない。星の輝きを感じない。彼の言ったことだから信じたくはあったが、どうしても実感がないのだ。
 そしてだからこそ、正真正銘、死して永遠に共にあるクリームとジェイクが羨ましくもあった。彼らの間には、きらきらとした星の輝きが確かにある。

「おねえさん……」
「ああ、すみません」

 自分と同じように名前のない少女に呼ばれ、ネフィリムは振り返った。
 テレンスがいた頃のように、あなた、お姉さん、という呼び名でお互いが足りる世界は懐かしく、そして心地よい。かつて少女だった自分がテレンスに対してそうだったように、全幅の信頼を寄せてくる少女が可愛かった。ああ、彼も自分に対してこんな気持ちだっただろうか、と懐かしさが胸をいっぱいにさせた。
 そして、──あの子も、生きていれば、と。

 歴代のネフィリムは、ほとんど短命だ。それはつまり代替わりが激しいということだが、今代の彼女は80を過ぎても未だ生き長らえ、ネフィリムとしてあの教会に在り続け、あの地下カタコンベの番人をし続けてきた。
 次のネフィリム候補が現れなかった、というわけではない。ただ、彼女の能力は死を与えることに向きすぎていて、そして死という救いを求めてやってくる人々は、彼女の能力にはとても及ばないほど優しい能力の持ち主ばかりだった。少なくとも、彼女はそう感じた。
 己ほど凶悪な能力の持ち主ならばまだしも、彼らのような能力がなぜ迫害されるのかと疑問に思いながらも、彼女は彼らを殺し続け、救い続けた。
 生き続けるのは辛いことだ。だからこそ死を望む。そして歳を重ねるごとにその実感が増すからこそ、彼女は彼らを殺し続けた。殺してくれと望む彼らに、自分の辛さを肩代わりしてほしいとは言えない。
 自分に殺された彼らが、今際の際に「ありがとう」と心からの感謝を込めて安らかに言ってくれることが、彼女にとっての唯一の慰めだった。

「行きましょうか」

 手を差し出すと、少女がぱっと笑顔を浮かべて手を握り返してくる。
 痩せた小さな手をふんわりと握って、ネフィリムは歩きだした。










「今のところ、不審なところはないが……」

 真っ黒な廃工場の上をゆっくりと旋回しながら、スカイハイは通信機に向かって言った。平らな屋上部分に降りてみると、真っ黒な煤が足の裏に付着する。完全に炭化していつ崩れるかもわからない建物は、スカイハイのようにいつでも上空に飛び立てる者でもない限り、登ることは難しいだろう。
「うーん……?」
 スカイハイは黒い煤を手袋越しに触れ、パラパラと落ちるそれを見てから、空を見上げた。ここはブロンズステージだが、3層エリアの端であることもあり、シルバーステージとゴールドステージのプレートに邪魔されることなく光が差し込んでいて、空がよく見えた。

「おい、本当にここなんだな?」
《は、はい。昨日短い時間ですが、“ノアの目録”に反応がありました》
 ライアンの確認に、セレスティアルタワーにいる研究員が返答する。確かに昨日、この工場周辺で、行方不明の少女、そしてネフィリムと思しきの反応があった、と。
《少女の方はほぼ確実に本人でしょう。しかしその──ネフィリムのほうは──》
「何だよ、はっきり言ってくれ」
《できれば私もそうしたいのですが、あの……》
 研究員は、研究員らしからぬ歯切れの悪い調子で言った。
《同時検索だからか? 少女の反応と混じった? まさかなあ。ええと、長くなるのでひとまず省きますが、ちょっとありえない反応なんですよ。誤反応であることも考慮してください》
「了解」
 頷いたライアンは他のヒーローたちに合図を送り、廃工場に向かった。

 状況からして恐慌状態に陥っているだろう少女を保護する役割を任せられたのは、年齢が近い同性であるブルーローズとキッド。そして彼女が怪我をしていた時のためにホワイトアンジェラが警察官らと共に近くに待機し、ファイヤーエンブレムはその護衛。
 ライアン率いる男性ヒーロー陣は、ネフィリムの探索にあたることとなった。



 工場内も外側と同じく真っ黒に焼け焦げていたものの、それだけに、比較的新しい地下室への扉は難なく見つけることが出来た。
 教会の地下室のとんでもない出来事から随分警戒して降りた一同であったが、工場の地下室は生者も死者もどちらもいなかった。

「慎ましやかな住まい、って感じだな」
 物の少ない室内を見て、ワイルドタイガーが言った。
 地下室はごく一般的な部屋で、安物だが清潔なシーツが敷かれたベッドや最小限の食器、小さなストーブ、ソファなどが置かれてあった。どこもきちんと掃除がされており、おかしい所はなにもない。ただ雑誌や娯楽に関するものなどもなく、若干生活感が足りないほどにきちんとした部屋だった。

「写真が……」
 小さな本棚の端に置かれた写真立てに気づいたバーナビーが、それを手に取る。写っているのは非常に高齢な男性神父と、20代くらいの若い青年神父。そして彼らに挟まれるように、華奢な黒髪の少女が写っていた。
「爺さんの方がセシル・アドラムだな」
 ライアンが、横からフレームを覗き込みながら言った。この事件においてほとんどまとめ役になっている彼は、フリン刑事経由で警察関係の資料も網羅している。
「ではこの少女が、あのネフィリムでしょうか」
「多分な」
 あそこまでしわくちゃになってっとさすがにわかんねえなあ、とライアンは肩を竦める。
 本人のDNAを調べた結果、あのネフィリムの現在の年齢は少なくとも80歳以上。小柄な女性で、本来は黒髪の持ち主であることははっきりしている。ほぼ間違いなく、写真に写っているのは少女時代のネフィリムだろう。

「もうひとりの……彼は誰でしょう」
「カソック着てるってことは、ネフィリムだな。年齢からして、今のネフィリムの前の代……テレンス神父。日記によると、おそらく30歳前後で死……いや、今のネフィリムに殺されたらしい」
「殺された……」
 バーナビーは、写真の中の彼らを見た。黒縁眼鏡をかけた気弱そうな長身痩躯の青年は、少女に触れているのかいないのか、しかしその華奢な背をそっと支えるようにして側に立っている。少女もまた、彼の長いカソックの裾に触れるか触れないかの場所までそっと手を伸ばしていて、彼らが親しい間柄だということは古い写真からでもじゅうぶんにわかった。
 とても殺し殺された間柄だとは信じられないふたりに、バーナビーは理解できない様子で眉を顰め、しかし丁寧に写真立てを棚に戻した。

「ぎゃあ! な、何だこれ!!」

 奥の部屋から、ロックバイソンの野太い叫び声。全員、急いで声のした方に向かう。

「うう、干からびてるほうがまだマシ……生っぽいのは勘弁してほしいでござる……」
「何があったんです?」
 ヒーロースーツのせいでわからないが、明らかに青い顔をしているのだろうぐったりした様子の折紙サイクロンを横目に、バーナビーが進み出る。
 比較的狭い部屋の中央にあったのは、沢山のケーブルに繋がれたふたつの大きな装置だった。僅かに、機械の駆動音がしている。
「あんまり見るのはオススメしねえけど……」
「うっ……!?」
 溶鉱炉の覗き穴のような小さなガラス窓を親指で示したロックバイソンに従い中を覗き込んだバーナビーは、思わず仰け反った。何だ何だと後に続いたライアンとワイルドタイガーも、「うえっ!」「うわっ!」と顔を反らしたり、飛び退いたりする。

 ──装置の中に入っていたのは、人の脳だった。

「ま、また脳みそかよ! しかも2コ! 何だこれ、だ、誰の脳みそだこれ!?」
「……そんな」
 ワイルドタイガーが大騒ぎする中、血の気の引いた顔をしつつも周囲を観察していたバーナビーが、更に表情を険しくした。
「……クリームと……ジェイク?」
「はぁ!?」
「マジかよ!」
「プレートには、そう書いてありますね……」
 バーナビーが言う通り、ふたつの装置にはクリーム、ジェイク・マルチネスと、それぞれの名前が書いてあった。
「これが彼らのものかどうかはまだわかりませんが、クリームの遺体に脳がなかったのは確かです」
 頭を振って気を取り直したバーナビーは、神妙に言った。
 クリームの毛髪が盗まれていることから、既に彼女の墓は掘り返され、遺体の再調査が行われている。結果、ウィッグを被せられた頭には大きな手術痕があり、その中にはやはり脳がまるごとなかったのである。
「動かすのは難しそうだな。……んー、ネフィリムも女の子もどうもいねえみたいだし、後でアスクレピオスのスタッフ呼んで調べてもらうか」
 ライアンの提案に、皆が頷いた。怪しさ極まりない不気味な装置だが、下手に壊して証拠隠滅になってしまっても困る。プロに任せるのがいちばんだ、と意見がまとまった。

《ちょっといい? 女の子が見つかったわ》

 全員の通信に、アニエスの声が届いた。
「本当か!?」
 ワイルドタイガーが、喜ばし気な声を出す。
《ええ、今フリン刑事と警官たちが尾行してる。説得が必要になった時のために、女の子のお兄さんにも待機してもらってるわ》
「ブルーローズとキッドは?」
 ロックバイソンが、少女の保護担当のはずだったふたりの名前を出した。
《居場所は把握してもらってるけど、待機。あの子達じゃ尾行は出来ないでしょ》
 まあそりゃそうか、目立つもんな、と男性ヒーローらは納得して頷いた。ヒーローたちは犯人を捕まえるのに何でもするが、地味な尾行や潜伏などにはまったくもって向いていない。
《というわけで折紙、出番よ。尾行組に合流。周囲の市民に擬態して援護して》
「承知仕った! 忍びの本領でござる!」
 びしっと背筋を伸ばした折紙サイクロンは、警官らや少女の位置情報データを受信しつつ工場を飛び出していった。

「女の子はひとりか? ネフィリムは?」
《連れがいるわ。若い女性。映像送るわね》
 ピピッ、という電子音と共に、全員のシステムディスプレイに映像が送られる。映っているのは実年齢と比べてかなり小さく痩せた少女と、彼女と手を繋いでいる、20代くらいの若い女性だった。
「ネフィリムじゃねえな。誰だ?」
「女の子が小奇麗だな。保護してくれたのか……? それなら警察に……」
《あのお……》
 おずおずと通信に割り込んできたのは、セレスティアルタワーにいる研究員であった。

「どうした?」
《あの、その、私達も何がなんだかわかってないんですけど、あの……》
「……わかってるとこだけでいいから言え」
 ほとほと参ったという様子で情けない口調の研究員に、ライアンは宥めるように、ため息をつきそうな具合で言った。

《あの、……あの女性がネフィリム……、本人のよう、です……》

 まだ戸惑いが色濃く残った研究員のその言葉に、全員が目を丸くした。







「あれ、本当にネフィリムなの? 20代くらいにしか見えないけど……」
「地下で見たの、もっとおじいさん……おばあさん? えっと、お年寄りだったよ?」
 OBCのバンの中で待機しつつ、尾行している刑事が装着しているカメラ映像をチェックしているブルーローズとドラゴンキッドが、困惑しきった声で言う。
「女の子の方は? 本当に本人?」
 ブルーローズが振り返って訪ねたのは、一緒に待機している少女の兄。しかし彼もまた、モニタの映像を見ながら困惑した顔をしていた。
「ええ……でも……」
「でも?」
「……笑ってる」
 困惑と感動がごっちゃになったような複雑な声で言いながら、彼はモニタを凝視している。
「……笑ってるところなんて、初めて見た。髪もさらさらで……服もちゃんとしてて……」
 言いながら、彼は悔しそうに歯を食いしばり、拳を握りしめて俯いた。そんな彼に、ブルーローズとドラゴンキッドも困った顔をする。

 モニタの中のふたりは手を繋いで歩きながら、笑い合い、いろいろな店に立ち寄ったり、観光名所を見て回ったりしている。傍から見れば、休日に一緒に出かける仲の良い母娘か、年の離れた姉妹のようだ。
 音声はないが、少女がくしゅんとくしゃみをすると、女性が自分のマフラーを外して少女にくるりと巻き付け、丁寧にふんわり結び目を作ってやっていた。にっこりと嬉しそうにそれを受け入れる少女の赤い鼻の頭を、女性がつんと優しくつつく。
 そのままふたりは白い息を吐きながら、公園近くにとまっているフードトラックに向かった。そしてチキンウィズライスとファラフェルという名物料理を買い、ベンチに腰掛けて分け合いながら食べ始める。

「おいしそう〜……」

 よだれを垂らさんばかりのドラゴンキッドの頭を、呆れた顔をしたブルーローズがぺんと叩いた。



「あ、あれ本当にネフィリム本人でござるか? 年齢が3倍くらい違うでござるが」

 OBCスタッフのひとりに姿を借りて擬態し、ふたりを肉眼でしっかり視認できる位置に陣取って新聞を読むふりをしている折紙サイクロンが、ひそひそと通信機に向かって言う。
「変装……? うう、自信なくすでござる」
《それは後にして。絶対に目を離さないでちょうだい》
 泣き言を言う折紙サイクロンに、アニエスがぴしゃりと言う。

《変装ってことはねえみたいだぜ》
 通信に入ってきたのは、ライアンだった。
《セレスティアルタワーの研究員によると、あれは確かにネフィリム本人、だそうだ》
「し、しかし年齢が」
《“ノアの目録”で解析すると、折紙パイセンが血液サンプルを持ってきた、地下にいたネフィリムは推定80歳以上。でもそこにいるネフィリムは30歳前後だそうだ。──年齢だけが違う。他は全部同じ》
《……若返ってるって事?》
 まさか、という声色で、ブルーローズが通信に割り入る。

《実際の所どうなってんだかさっぱりわからねえが、現状そうとしか考えられない、だそうだ》

 お手上げ、と言わんばかりのライアンのその声に、全員が困惑して沈黙する。
 そしてその時、バーナビーは工場の地下で見つけたあの写真を思い出していた。皺だらけの老人であったネフィリムと、写真の少女、そしていま公園のベンチに居る女性が似ているかどうかは微妙なところだ。
 しかし写真の少女とこの女性は似ているどころではなく、ほぼそのまま年齢を変えただけ、つまり同一人物と断じられるレベルで顔立ちが同じであったのだった。

「あの〜、ここからどうします? 他のカメラ入れます? ドローンとか?」

 OBCの中継車の中で、警官たちが持っている小型カメラの映像をディレクターとしてチェックしているケインが、アニエスに指示を乞うた。
「……市長から、この件についてはひとまずメディア露出をしないようにっていう指示が来たわ」
 アニエスはモニターを睨みながら、眉間に思い切り皺を寄せて苦々しげに言った。
「え? なんで?」
「なんでって、今シュテルンビルトはNEXT差別撤廃を謳うヒーローの街よ。そこでこんなに長い間、誰にも知られず手も差し伸べられず、凄惨なNEXT迫害の結果としての存在があったってことを知られたら? 地下でこれだけのことが起こってることに気付きもせずに、ヒーローランドなんて建ててはしゃいでたってことが知られたら?」
「……ものすごく反発が起きます」
「そういうこと」
 ぎり、と、アニエスは歯を食いしばった。

「お偉方は、ネフィリムたちを本当に“いなかったもの”にしたいのよ」

 本当はあの教会と地下墓地を今すぐ撤去せよ、つまり証拠隠滅せよという声も出ているが、アニエスには折紙サイクロンとエドワード・ケディが命がけで撮ってきた、地下墓地とネフィリムの映像、そして警察も既に調査を始めている歴代ネフィリムの日記がある。
 無理やりこの件をなかったことにしようとすれば、この確かな記録を全世界に公表すると暗にほのめかすことで上からの圧力を押し返しているが、それもいつまで保つやら──とアニエスは呻くように言った。

「更に、ルーカス・マイヤーズの残した驚異的な技術や研究を手に入れられないかっていう声も大きい。でもネフィリムの存在を抹消したらドクター・マイヤーズの研究の手がかりもなくなっちゃうかもしれないから、それで上がやり合っててここまで指示が降りてこないっていうのもあるわ。だから何もかも保留、様子を見ろってこと」
「どいつもこいつも……、利権のことしか考えてねえんですね」
「いつものことよ」
 嫌悪感と諦めを同時に滲ませて苦々しげな声を出すケインに、アニエスもまた溜息を吐いた。

「正直なところ、アルバート・マーベリックがいない今、シュテルンビルトは“いいカモ”だわ」

 表も裏もアルバート・マーベリックがまとめていたことで世界的な立場を保っていたシュテルンビルトだが、彼の正体がバレた上に本人が死んだ今、世界有数の油田を持ち、経済的にも大きな役割を持つシュテルンビルトは、多くの有力者が狙っているのだ。
 いちどはマーク・シュナイダーがアポロンメディアのオーナーとしてその立場に立とうとしたが、これもまたスキャンダルによって失脚。
「これで市長がもっと自分の意志を持ってるタイプなら先が読みやすいんだけど、……彼、アンジェラ曰く“普通の人”なのよね。私もそう思うわ。良くも悪くも」
「……つまり?」
「周りに影響されやすいってことよ」
 そういう意味では“市民”の代表、いや象徴と言ってもいいわね、とアニエスは皮肉げに言った。市民の要望を即反映させるタイプの市長は芯がないとも言えるが、見ようによっては市民の味方であるとも言える。だからこそ、現在2期連続で市長選に──市民の多数決を取る選挙で当選したのだから。
「今は市民たちがヒーローを心から応援する空気が盤石だから、彼もそれに呼応してそういうスタンスを保ってる。でもネフィリムのことが公になったら? しかも、結局彼女たちを救えなかったら?」
 ごくり、とケインが息を呑んだ。
 ネフィリムのことでヒーローたちの支持率が下がった時、市民の動きに呼応する、多くの人に流される“普通の人”である市長はどうするか。
 シュテルンビルトを牛耳ろうと目論む権力者は今この事件の顛末を常に監視し、介入できる隙を今か今かと狙っている。マーク・シュナイダーが生贄となった実験を経て、もう二度と彼のような失態は犯すまいと計画を練り上げながら、虎視眈々と。

「警察が味方についてるのが多少の救いね。ヒーローたちと協力して動いたのが影響してるのか、彼らもまた、弱者が虐げられたことをなかったことにするのに反発を示してる。……でも彼らは所詮市警だから、上から命令されたらそれでおしまいよ」
 星の民が関わっているせいであえて手を出してこない、国際警察や政府関係。
 しかしネフィリムの抹消でもってシュテルンビルトの存続を取るか、ルーカス・マイヤーズの驚異的な研究の実利を取るかが決まり、彼らが腰を上げればこの事件ごとシュテルンビルトは潰され、外部の権力者に食い物にされてしまう。
「そんな……」
 ケインが、絶望的な顔をする。

「ヒーローが、ネフィリムを救うことができれば……」

 あるいは、とアニエスが呟いたその時、彼女の通信端末が無機質な音を鳴らした。忙しい時にもすぐわかるように何種類か着信音設定を分けている中でのデフォルト音は、知らない番号からの着信を知らせる音だった。
「こんな時に、誰よ」
 怪訝な顔で、アニエスが端末を手に取る。応答ボタンをタップして、端末を耳に当てた。

「ハロー? どちらさま? なんでこの番号──」
《……はじめ、まして。突然申し訳ありません、恐れ入ります……》

 静かな声だった。攻撃なところが微塵もない、たおやかで優しげなその声は、やや低めの女性のもの。
《勝手に番号をお調べして、申し訳ありません。たいへん勝手なことながら、お願いがございます……》
「……あなた、誰?」
 これでもかと腰の低い相手に、アニエスは温度を下げ、同時に警戒を高めて問うた。

《ネフィリム、と申します……》

 ご存知でしょうか、と続けた彼女に、アニエスは目を見開いて顔を上げる。
 モニターの中には、ベンチの上で背を丸め、通信端末を耳に当てているネフィリムが映っていた。
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る