#173
「寒くはありませんか? おかわりをしますか?」
「いいえ、もうおなかいっぱい……。ありがとう、ございます」

 少女は、きっちり料理を食べきった皿を前にぺこりと頭を下げた。
 あのとき、はらはらと涙を流して言葉をなくした少女はこのカソック姿の女性に手を引かれ、ここに連れてこられた。驚くべきことに、そこはあのまっ黒焦げの廃工場──の、地下室だった。
 扉こそ他と同じく真っ黒だったが、その内部はきれいに掃除がされていて、ひどく殺風景だが最低限の日用品が揃っていた。電気も通っていて明かりが点き、小さな台所のコンロからは火、蛇口をひねれば水どころかお湯も出て、簡易なシャワールームもある。

 ネフィリム、と名乗った女性神父は少女に風呂で温まるように言い、自分のもので申し訳ないがと清潔に洗濯された服を着せ、温かいミルクを出した。
 数日も寒空の下で耐えていた少女は温かい風呂と飲み物で緊張の糸が切れ、そのままソファの上で眠ってしまった。そしてやがて目を覚ますと、少女はふかふかの毛布をかぶせられていて、小さな台所からいいにおいがしていた。
 彼女が「簡単なものですが」と作って出してきたのは、数枚重ねてバターをのせたパンケーキと、スクランブルエッグだった。湯気を立てる手料理を前に呆然としていた少女は、やがてまたぽろぽろと涙を流し、しゃくりあげながらその温かい料理を食べた。
 例えば温めた冷凍食品やインスタントスープなど、温かい食事自体は、回数は少ないが食べたことがないわけではない。しかし少女は、自分のために誰かが材料から作ってくれた料理を食べたのは初めてだった。
 気を失ってしまうのではないかと思うほど美味しく感じられるそれを、少女は震えながら、必死に味わって食べていく。
 ネフィリムは何も言わず、ただ薄く柔らかい笑みを浮かべて、少女の痩せた背中を擦っていた。

 その後、ネフィリムは少女の怪我を手当した。かんかんに温まったあたたかいストーブの前で、雪が降る中を裸足で歩いたせいであかぎれとしもやけがひどい少女の汚い足を嫌な顔ひとつせず手に取り、たらいに張った湯で丁寧に温め、洗ってから薬を塗り、ガーゼや包帯を巻く。
「わっ……」
 汚れたガーゼやテープの切れ端などを動くぬいぐるみがまとめて持っていってしまったので、少女は驚いて声を上げた。
「……おねえさんの能力……?」
「いいえ」
 少女の怪我が傷まないようにそっと手当をしながら、ネフィリムは少し微笑んで言った。
「そうですね、……お姫様の力です」
「おひめさま?」
「ええ、そう。私達をお手伝いしてくださるのですよ」
 ネフィリムの表情も、その声もひときわ優しかったので、少女は疑問が霧散し、ただそういうものなのだと受け入れた。顔を上げれば、ぬいぐるみたちがボタンでとめられた手足を使って、よちよち、ぽてぽてと動きながら色々な作業をしている。その様子が可愛らしく、少女はつい笑みを浮かべた。
「かわいい……」
「そうでしょう。お姫様の力ですからね」
 なぜかどこか自慢げにも聞こえるネフィリムのその言葉に、少女はこくりと頷く。「かわいい、すてき。魔法みたい」と少女が繰り返すと、ネフィリムの口の端に笑みが登った。

 手当が終わると、ネフィリムは新品の靴下と、足首を暖めるファーのついた靴を少女に履かせた。

 さきほど少女が寝ている間に買いに行ったのだという靴は小さなリボンの飾りがついた柔らかい生地のブーツで、それは少女にとって初めて他人から貰った贈り物でもあった。
 やさしい女性の神父。あたたかい部屋、あまいパンケーキ、作りたてのスクランブルエッグ、はちみつ入りのミルク、清潔な服、新しい毛布。おひめさまの力で動くぬいぐるみに、リボンのついたかわいい靴。
 少女は、夢を見ているような心地だった。まるで、魔法使いが現れる童話の中に迷い込んだかのような。

「……おねえさんは、どうしてわたしに、こんなにしてくれるの、ですか」
「同じだからですよ」

 まだ身体がつらいだろうからと柔らかいソファに少女を寝かせたネフィリムは、怪我の手当をした後の医療品の端切れをぬいぐるみに預けながら、ゆっくりと言った。
 彼女は、まるでゆりかごに寝かされた赤子にするように少女に接してくれる。少女にとって、それは果てしなく、とんでもなく心地の良いことだった。
「おなじ……?」
「そう、同じ」
 ネフィリムは、相変わらず、薄く、柔らかく微笑んでいる。その微笑みは、少女が童話の挿絵で見た天使よりもずっと優しい。そして、比べ物にならないほどに暗く、深い。
 だがその底のない闇が、少女にとってはどこまでも魅力的で、慕わしかった。ああ、自分はきっとあそこから生まれてきた、とさえ思えるほどに。

 あそこに戻りたい。生まれる前に戻りたい。
 なぜなら自分は、生まれてきてはいけなかったものだから。
 父親は言った。繰り返し言った。すべて少女が悪いのだと。生きているのが目障りだと、生まれてきたのが間違いであると、毎日毎日何回も言われてきた。

 そしてそれは、そのとおりだった。なぜなら──

「わたし、おとうさんを、ころしたの」

 瞬きを忘れた少女の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
 そんなつもりではなかった。能力を発動させるととてもとても怒られるので、むしろ、僅かでも発動させないようにいつも押さえ込んでいた。
 14歳になり、おんなっぽいからだつきになってきた、らしい少女は、とても嫌なことをされそうになってパニックになり、能力を発動させてしまったのだ。
 気付けば父親は血まみれで、脚が変な方向に曲がった状態で向こうの壁まで吹っ飛んでいた。少女は恐ろしくなり、そのまま家の中を逃げ惑い、壊れて開いていた扉から外に出てきたのだ。すべてを優しく終わらせてくれる、幽霊神父を探して。

「そうですか」

 ネフィリム、幽霊神父はそう言って、きれいに洗ってさらさらになった幼い少女の髪を、少し硬い指先で優しく耳にかけた。ネフィリムの真っ黒い目が、少女を見下ろしている。底のない穴のような、違う宇宙に繋がるような、得体の知れない母なる海の底のような目。闇の向こうに広がる無。
 己を吸い込んでしまいそうなその目の心地よさに、少女はまた涙を流す。

「わたし、おとうさんを、ころしたの」
「そうですか」
「わるいこなの」
「そう」

 ネフィリムは、少女の言葉を飲み込んだ。なんの抵抗もなく。当然のようにその目に吸い込まれて闇の底に消えていった自分の一部に、少女は歓喜の涙を流す。

「うまれてきたら、いけなかったの。おとうさんが、そういったの」
「そう」

 ネフィリムは、微笑んだ。

「やはり、私と同じですね」

 その言葉に、少女は目を見開いた。

「私も父にそう言われてきました」
「おねえさんも?」
「そう。そして私もまた、父を殺しました」
 その言葉に、ひくっ、と少女はしゃくりあげた。しかしそれは恐怖などではなく、安心と強い共感による感動からくるものである。希望に近くさえあった。
「そんなつもりではなかったのですが、能力が発動して」
「そう、そうなの。わたしも、そう」
「父も、良い人ではなかったのでしょうけれど。何が悪かったのか、どうするのが正しかったのか……。私には、わかりません」
「うん……」
 神父の姿をしていながらにして何が正しいのかわからないと言ったネフィリムに、少女は落胆しなかった。むしろ心からの納得と共感を示すため、深く頷く。

「しかし何よりも確かなのは、私が生まれてきさえしなければ、何も起こらなかったということです」

 今度こそ言葉をなくした少女は滂沱の涙を流し、こくこくと大きく、何度も、何度も頷いた。
 両腕を広げてくれたネフィリムの胸に、少女は震えながらもためらいなく飛び込む。
 ネフィリムがどんな能力者なのかはわからないが、きっと自分と同じように、気をつけなければ人の命にかかわる能力に違いない、という予想はしている。
 だが、少女は全く恐れなかった。むしろ、ネフィリムの力を見てみたいとさえ思った。

 ネフィリムの胸は暖かく、女性特有の柔らかさがあり、なんのにおいかはわからないがとてもいいにおいがした。母のいない、つまり自分が生まれてきた場所を見失った少女にとって、それはとても魅力的なものだった。

「そう。わたしたちとあなたはおなじものです」

 そう言われて抱きしめられた少女の胸に芽生えたのは、紛れもなく歓喜。そして安堵。ここに自分の居場所があった、受け入れられた、ひとりではない、──そんな強い思いだった。

「つらいですね。とてもつらい。生きていてもいいことなどなにもない。少なくとも、今までいちどもありはしなかった」
「うん、……うん、そう。わたし、今がいちばんいいの」
 ネフィリムのカソックに、自分の涙が吸い込まれていく。その光景だけで、少女は満たされた。

「こんなにやさしくしてもらえるなんて」

 こんなにやさしいひとが、こんなにうれしいことが、わかってもらえることが、この世にある。それを知ることができた歓喜に、少女は微笑む。そして顔を上げ、真っ暗な穴のようなネフィリムの黒い目を見た。
 マッチ売りの少女はこんな気持ちだっただろうか、と彼女は想像する。寒空の下、路地裏で、幸せそうな顔で死んでいたという貧しい少女。
 自分のために用意された温かい食事、毛布、清潔な服。抱きしめてくれる腕。もしこれがマッチの炎の向こうにある幻なら、手の中にあるマッチを夢中で擦り続けるのも理解できる。そしてまた、そのマッチが尽きないうちに、こう思うであろうことも。

 ──ああ、今、死んでしまいたい。

 今まで生きていていちばんの笑みを浮かべ、少女は間違いなくそう思った。










 地下墓地からの市民救出から、はや1週間。
 黒骸骨アンドロイドの襲撃は止んだが、しかし“ノアの目録”にネフィリムの反応も見られないままの1週間である。

「う〜ん、やっぱり街中すべてをサーチするのは無理があるなあ……」

 以前鏑木父娘とバーナビーに施設見学をさせてくれたセレスティアルタワーの研究員は、“ノアの目録”のメインコンソールを操作しながら唸った。
「でもセンセー、楓を通じて俺を探した時は10分そこらで結果が出たじゃないですか!?」
「あの時は晴れてたし、そもそもこのセレスティアルタワーにいたし、タイガーもじっと動かず立ってたからねえ」
「……まあ、それもそうですね」
 バーナビーが、深刻な表情で頷く。
 期待していただけ落胆が大きく、ワイルドタイガーががっくりと肩を落とした。

 あの時虎徹たちに説明したように、“ノアの目録”は本来宇宙空間に向けての使用を想定して開発されたもので、地上での使用は資金集めや技術アピールのための応用にすぎない部分がある。少なくとも、今の時点では。
 つまり冬で雪が降る日もあり、シルバーステージとゴールドステージという巨大な障害物がある最下層のブロンズステージ、しかも更にその地下への出入りも非常に容易であるネフィリムを“ノアの目録”で市内中から探すのは、完全に不可能ではないが至難の業なのである。
 またネフィリムだけでなく、行方不明の少女に関しても彼女を探している兄に生体情報を提供してもらってサーチにかけているが、こちらも全く反応はなかった。

「せめて範囲を狭められれば、発見の確率が上がるのですが……」

 困った様子の研究員に、バディ・ヒーローは顔を見合わせた。



「範囲ねえ……」

 T&Bから話を聞いたライアンは、顎に手を当てて思案した。
「行方不明の少女に関しては家出少年の捜索に強い警察の方々が総出で探しているので、基本的にはそちらに任せるとして……。僕たちはネフィリムの行動を予測して、居場所を少しでも絞るのがいいかと」
「それはわかるけど、あっちは地下への出入りが自由自在よ? “ノアの目録”があっても、探すのは難しいんじゃないの」
 バーナビーの意見に同意しつつも、ブルーローズが難しい顔をして言う。ちなみにいつネフィリムや少女が発見されても出動できるよう、ここ1週間ずっと、ヒーローたちは起きている時は常にヒーロースーツ姿で待機していた。
「いやでもネフィリムがいくら浮世離れしてるったって、人間なんだから食って出すことはするだろ。教会に自給自足の畑があったわけでもねえし、食い物を買うはずだ。食いもん関係の店に片っ端から聞き込みするとか──」
「事前に買いだめしてるんじゃないの?」
 すっぱりと反論したファイヤーエンブレムに、ワイルドタイガーはうぐぅと情けなく呻いた。
「くっそー、地下だのなんだのでコソコソしやがって! せめてお天道様の下に出てこいってんだ!」
 ガン、と大きな両拳を胸の前でぶつけながら、ロックバイソンが強い口調で言う。そんな彼を宥めつつも、他のヒーローたちも難しい顔をしていた。

「……あ」
「おっジュニア君、なんか思いついた?」

 はっとした顔を上げたバーナビーに、ライアンだけでなく皆が期待を込めた目を向ける。バーナビーはそのまま数秒思案したが、やがて考えがまとまったのか、皆を見渡すようにして見た。
「ネフィリムを探すのは、確かに至難の業でしょう。なら彼……いえ、彼女に付随するものを探せばいい」
「付随するものって、つまり?」
 ドラゴンキッドが、身を乗り出して尋ねる。

「つまりは、地下室。そして……あの黒いアンドロイドです」
「どういうこと?」
「あのアンドロイドは、下水道、つまり地下から現れていた。これ、そもそもおかしいですよね」
 バーナビーが問いかけるがしかし、全員疑問符を浮かべて顔を見合わせる。しかしやがてライアンが、ぱちんと指を鳴らしてから頷いた。
「ああ、そっか。そういやそうだ、妙だな。どこでやってんだ?」
「でしょう?」
「だっ! 勿体ぶらねーで早く答えを言えって!」
 頷きあっている頭脳派イケメン組ふたりに、業を煮やしたワイルドタイガーが地団駄を踏む。やれやれとバーナビーがため息をつき、ライアンが両肩をすくめた。
「動力ですよ。アンジェロ神父によると、あのアンドロイドは日差しの強い荒野で活動することを想定して作られ、日中は濃い影に紛れて日光で充電し、夜闇に紛れて動き出す」
 黒骸骨アンドロイドの動力は、超高効率ソーラー電力。斎藤さんもそう断定しています、とバーナビーは言い切った。そしてだからこそ、高負荷な電力使用の線から居場所が追えずに苦労もした、とも。

「でも、あれらは光が届かない地下から現れています。夜に現れることも多かったですよね。──どこで充電を?」
「──あ!!」

 全員がハッと気付き理解したのを確認し、バーナビーは頷いた。
 3層に分けられたシュテルンビルトだが、ステージのすべてに層を作っているわけではない。吹き込む風を逃がすため、また重さを分散させ強度をコントロールするためなどの理由で、空中庭園のように穴が空いている部分も多い。3層が見渡せる壮大な景観を誇るスポットは、観光客に人気の名物スポットでもある。
「ブロンズステージでありつつ、日光が当たり、なおかつ昔の地下施設であろう空洞と重なるか、近い場所。人気が少ないところなら、なお確率が高いでしょう」
 アスクレピオスのスタッフが、慌ててモニターに地図を表示させ、以前技術者に確認した不明な地下空洞の位置と、上部ステージがなく日光が差し込む部分を色分けで表示する。
 そしてその2色が重なる部分を、更にピックアップ。広範囲に散らばってはいるが、シュテルンビルト全体をしらみ潰しに探すのと比べれば、かなり絞り込むことが出来た。
「フリン刑事にも連絡しろ」
 ライアンの指示に、はい! とアスクレピオスのスタッフたちが動き出す。フリン刑事には直ぐに連絡がつき、居場所を絞る案を報告する。

《オーケー、こっちにもいいニュースがある》
「何だ?」
《幽霊じゃなく、ゾンビを探してみた》
「……ゾンビ?」

 首を傾げたライアンに、フリン刑事は再び警察専門用語解説をしてくれた。
 つまり、社会保障番号が存在しない、社会的に存在しない人間を幽霊と呼ぶ一方、死亡の事実が未届けのまま、不自然にいつまでも存在している社会保障番号をゾンビと呼ぶのだと。

《実際は死んでる親や親類の保険料の不正受給とか、相続関係の揉み消しなんかでよく使われる違法行為だな。とんでもない年齢になってる社会保障番号を探せばいいから、幽霊よりはずいぶん見つけやすい》
「で、なんでゾンビ探し?」
《あの教会には電気も水道も通ってたから、契約書を確認すれば名前や社会保障番号がわかる。そもそも土地にも持ち主がいるはずだし》
 言われてみればそのとおりである。やはりプロは手順をわかっている、と感心しつつ、ライアンは先を促した。

《ビンゴだ。セシル・アドラム、148歳》
「……長生きってのには無理があるな」
《ああ。DNA登録システムのない時代だから検証に少々時間がかかったが、何代か前のネフィリムでもある。指紋が一致した》
 本人の遺体が丸々あって助かった、とフリン刑事はフンと鼻を鳴らして言った。
《教会の土地、ライフラインの契約はすべてセシル・アドラム名義になってた。元々はなかなかの富豪だよ》
 教会の維持費やネフィリムたちの生活費は代々教会に駆け込んできた人々の“遺産”であるが、その大部分はこのセシル・アドラムのものであるようだ。

《NEXTなのがばれて別れを切り出してきた妻を、ずっと隠してきた能力で殺しちまったのを苦に教会に駆け込んだ、また遺産の全てをこれからのネフィリムたちに残したと日記にある》
「これからどうする?」
《セシル・アドラム名義の施設が他にも見つかった。そっちで絞り込んだ位置と重なるか確認してくれ》

 フリン刑事が伝えてきた住所を確認すると、ある位置と重なった。
 それはライアンがルーカス・マイヤーズの車を発見した高速道路の高架線下、かつてのトロッコや坑道跡が近くにある、黒焦げの廃工場だった。

《過去のネフィリムのひとり、テレンスという男が生前働いていた工場でもある。社会保障番号のない人間を格安で雇って使い潰していた違法施設だが、事故が起こって全員死亡──とされているが》
 テレンスの日記によると、NEXTを迫害・拷問する人間が集まり“楽しむ”場所でもあったらしく、身寄りも社会保障もない“幽霊”であり、またNEXTでもあったテレンスはそこでの仕打ちに耐えきれず能力を発動させ、工場にいた全員を焼き殺し、そのまま教会に駆け込んだという。
 テレンスはそのまま数代目のネフィリムとなり、また彼の罪の揉み消しと隠れ家を増やすのを兼ね、セシル・アドラム名義で格安で廃工場を買い取ったというのが真相だった。
 またちなみに、テレンスは他のネフィリムとやや毛色が異なり、NEXT迫害者をひどく憎み、廃工場近くを徘徊してNEXTを虐待している現場を見かけて加害者を殺害してまわっていた時期もあるという。
 このあたりで噂されている殺人神父とかいう怪談話の元だろうな、とフリン刑事は言った。

《セシル・アドラムの社会保障番号はあえて停止させず、そのまま監視する。廃工場と、その他条件に合うポイントにそれぞれ向かって調べてくれ》

 了解、と全員が返事をし、再びシュテルンビルトの街に飛び出していった。










「あなたが、ネフィリムとかおっしゃる方?」

 目に入ったのは、トランプのモチーフを取り入れた、奇抜なファッション。
 わざわざ話しかけられたのは、ネフィリムがウロボロスに加入するかどうかの審議中であったためか、それとも女の身でカソックを纏う姿が彼女のファッションセンスの琴線に触れたからか、それとも他の要素があったからか。

 ウロボロスの構成員である彼女、クリームはネフィリムの能力や人柄を観察し報告する調査員であったが、まさか普通の企業のように面接やカウンセリングをするわけでもない。
 だが、お互いに何か感じ取っていた。共鳴する何か。そして実際に言葉を交わせば、それは容易に納得できるものであった。身も蓋もなく言ってしまえば、生い立ちが似ていたのだ。
 だが決定的に異なったのは、クリームには彼女を受け入れ連れて行ってくれる人がいて、ネフィリムにはいなかったということ。

「星に、天使。そう、なかなか素敵な教えですわね。それなら私の天使は、間違いなくジェイク様ですわ。ジェイク様こそが、私を星に導いてくれる唯一の人」

 空を見上げ、黒い目に星のきらめきを反射させながら言うクリームは美しかった。しかし、ネフィリムは彼女を羨ましいとは思ったが、妬ましいとは思わなかった。
 なぜなら彼女のその眩しさはネフィリムにとって遠すぎて、妬みが湧くほど現実味がなかったからだ。小さな少女が、お伽噺の中のお姫様に自分を重ねて強い共感を抱き応援しつつ、自分とは全く違うものだと理解している、そんな状況に似ていた。
 そもそも能力も、あからさまに危険なネフィリムのそれと違い、クリームは“ぬいぐるみを操る”という童話の中の魔法のような能力の持ち主である。こんなに可愛らしくて平和な能力の持ち主がなぜ厭われるのか、ネフィリムには全く理解できなかった。

 そしてクリームもまた、どこか似た身の上のネフィリムに同情してくれた。自分も彼がいなければあなたのようになっていたと共感し、ネフィリムがこれから先なるべく悲しい目に合わないようにと祈ってくれた。
 優しい彼女を、ネフィリムははっきりと好きになった。力になれるなら何でもしてあげたい、と強く感じた。

 その結果ネフィリムは、シュテルンビルト郊外にあるアッバス刑務所、そこに囚われているというクリームの想い人──ジェイク・マルチネスを脱獄させる計画の一端を担った。長い間王子様と離れ離れになってつらい思いをしているお姫様を助けたい、できることがあるなら手を貸したいと。
 能力を使って逃走ルートや施設の詳細を調べ、また地下からジェイクの独房に入り込み、クリームとの連絡役も行った。ネフィリムの能力を使えば、至極簡単な仕事だった。

「ありがとう、ネフィリム」

 クリームは、ネフィリムの皺だらけの手を取って、本当にそう思っているのがわかる様子で言った。ひたすら密室での共食いを続けてきたネフィリムにとって、お伽噺の中のお姫様を助け、王子様と一緒に旅立つ彼女を見送るに等しいこの体験は、鮮烈かつ強烈、感動的な出来事であった。
 現実味を感じられずにぼんやりしているネフィリムに、クリームは言った。

「お礼をいたしますわ」

 ネフィリムが、星の民と剣の民を行き来する特異な存在、ルーカス・マイヤーズの連れであることを知っている彼女が提案したのは、何か困ったことがあれば手を貸すということ。ネフィリムはウロボロスの一員になることはなかったが、個人的にそうすると彼女は言った。
「私が死んでいたら、髪も死体も勝手に使って構いませんわ。マイヤーズ医師によると、なんだか役に立つようですし」
 あっけらかんと、何の未練もなさそうに彼女は言った。いいのかと問うネフィリムに、彼女は微笑む。ひどく幸せそうに。

「だって、私の心は常にジェイク様と一緒ですもの。ねえジェイク様」

 うっとりとした甘ったるい呼びかけに、彼女以上に奇抜で派手なファッションに身を包んだ男が、どうでも良さそうに大きなあくびをする。だがやがて頭をばりばりと掻くと、言った。

「そうだなァ──、確かに、アンタにゃ世話になった」

 ちらり、と首だけが振り返る。派手なコートのファー飾りの向こうから、強烈な眼光がネフィリムを射抜いた。ネフィリムは、彼の目が少し苦手だった。ネフィリムと同じものをとても良く知っているくせに、ネフィリムとは全く違う方向を選んだ目。

「別にいいぜ、俺の力も好きに使え。使えるもんならな」
「あらジェイク様、破格ですわね。使われるのが大嫌いなあなたが」
「あン? 死体なんぞただの死体だ。俺はもっと高尚な所にいんだよ」
「さすがジェイク様ですわ! 私も連れて行ってくださいましね! ジェイク様がいらっしゃれば、どんなところでも幸せですわ!」

 連れ立っていく彼らを、ネフィリムは眩しい気持ちで見送った。
 それはネフィリムにとって、数少ない良い思い出のひとつ。







 懐かしい夢を見た。

 そう思いながら、ネフィリムはスプリングのない硬いベッドから身を起こす。時間でいえばほんの数年前の記憶だが、彼らのことは、まるで最初から夢の中の話だったかのように遠い。それほどに、彼らとの記憶はネフィリムにとって特別なものだった。

 能力をより制御するために、と以前ネフィリムもジョニー・ウォンの能力をあえて受けているが、その目覚めはすぐだった。わざわざ夢で思い起こさずとも、自分のことは嫌というほどよくわかっているからだ。実際に、毎夜のように夢に見る。
 ただ他のネフィリムのヴィジョンをはっきりと確認することになった夢の旅は、彼らの存在を再確認するのに有意義であった。
 以降、こうして過去のことをよく夢に見る。ただ“いつも”と違って、こうしてただ懐かしかったり数少ない良い思い出を断片的に見るのは、忘れがちになっていた記憶、とやらであるからだろう。夢見がいいからといって、ネフィリムの何が変わるわけでもなかったが。

 ベッドから降りて靴を履き、緩めていたカソックの首元を詰めて簡単な身支度をする。そして、壁際に置いてあるふたつの装置の前に立った。

 大きな装置の中には、彼らの遺体から摘出した脳が入っている。
 ヘリの墜落と爆発に巻き込まれて黒焦げになったジェイク・マルチネスの遺体の頭の中身がどうなったかなど、気にする者はいなかった。また大規模テロのどさくさで、エンバーミングの際にウィッグを被せられたまま葬られた彼女の脳がなくなったことに気づいた者もいない。
 能力を素材にコピーするためには対象が生きていなくてはならないのだが、彼らの能力をコピーする機会がなかったので、亡くなってすぐルーカス・マイヤーズが脳を摘出したのだ。廃棄された髪を入手するのも、ルーカス・マイヤーズの立場と頭脳ならば容易かった。

 先に手に入れたジェイクの脳の横にクリームから摘出した脳を並べた時、ネフィリムは感動した。やはりふたりはひとつであり、これこそが星に至る者たちなのだと深く実感した。

「……もう少し手伝ってくださいね、クリーム様。優しいお姫様」

 自分の言葉がいま彼女たちに届いているのか、ネフィリムにはわからない。
 ジェイクは、死体などただの死体だと言った。自分たちはもっと高尚なところに行くのだと。そしてクリームは、ジェイクがいればどんなところでも幸せなのだと言っていた。
 完璧な答えだ、とネフィリムは思う。それが想像もつかないような楽園であろうと、摘出された脳だけが揺蕩う廃工場の地下室であろうと、彼らは幸せなのだ。一緒にいれば、共にありさえすれば、彼らは揺るぎない幸福の中にいられる。
 それはとても素晴らしいことで、尊く、奇跡のようなものだと思う。ジェイクが死んだことを知ったクリームが自ら死を選んだと聞いた時、ネフィリムはその美しさに涙を流した。そうであろうと感じ入った。お姫様は、天使を追いかけて星に至ったのだ。

 彼らはネフィリムの憧れだ。絶対に自分はこうなれないと理解している、だからこその憧れ。自分がそうなりたいというのではない。そうあってほしい、幸せで、美しくあってほしいと思う気持ち。ファン心理とも言える。
 そしてそれは、彼らのようにはなれないという理解とともに、ほんの少しでも近しくありたいという矛盾もはらんでいた。

 つまり、満足して死ぬこと。
 星に至る完璧な死ではなくとも、死が己を救うことは確かだと、ネフィリムは信じていた。それが彼女の、唯一かつ絶対的な信仰であった。

 だからこそ、彼女はただ死ぬことに耐えられなかった。
 お情けのようにただ御使いについていくだけ、ということが我慢ならなかった。自分はこんなどうしようもない存在だが、それでも最低限譲れないところはあるのだと、ここまで生きてきて初めての強い思いが、咆哮するかのように沸き起こってきていた。

 だから、もう、仕様がないのだ。
 なぜなら自分は、生まれてきてはいけなかったから。
 死しかない。死をもって全てを補完させるしかない。何が正しいのではない、それしか選択肢がない。もうネフィリムは自分しかいない。殺してくれる優しい人がいないなら、自分が殺すしかないのだ。

 しかも、ここにいる自分はもはや自分自身であるのかさえ定かではない。
 ジェイクの言葉が確かなら、今の自分は何なのだろう、とネフィリムはぼんやり考える。思いだけが残り、揺蕩う存在。
 ああなるほど、まさに幽霊のようなものだろうか。未練があるがために地上に残った、そのくせ不完全で極端、かつ綻びだらけの考えで動くもの。
 ならば自分がこうなのも理解できるとネフィリムは少し納得し、すっきりした。自分が何者なのか定義するのは、安心につながる鍵である。

 そして決まったのなら、あとは実行するだけだ。

 そもそも自分には、そう時間があるわけではない。
 皺のなくなった己の手を見て、ネフィリムは踵を返した。



「雪が止んだら、外に行きましょう」

 澄んだ色のスープを煮込みながら、ネフィリムは言った。ブーツのリボン飾りをいじっていた少女が、顔を上げる。
「外?」
「ええ。そろそろ後片付けを始めなければ」
「後片付けって?」
 少女が首を傾げると、ネフィリムは湯気を立てるスープをゆっくりかき混ぜながら言った。

「殺して、殺されることですよ」

 弱火のコンロでスープがコトコト音を鳴らし、ストーブがカンカンと熱を発する音だけが響く、小さな地下室。ささやかな穏やかさだけをそっと保存したような部屋で発された物騒なセリフを、少女は不思議とすんなり受け入れた。
「私も? 私も殺したり殺されたりする?」
 あどけなく尋ねる少女に、ネフィリムはちらりと振り返る。
「怖いですか?」
「ううん、なにも。だっておねえさんは優しいから」
 とってもやさしいから、何も怖くない。少女はそう言って、にっこりと微笑む。
「そうですか? 優しくても、人を殺すのは、悪い人ですよ」
「生きるとか死ぬとか、もういいです。良い人とか悪い人とかもよくわからないし」
 少女は、にこにこと微笑んでいる。痩せた頬を赤くして、ひどく幸せそうに。

「おねえさんは優しいの。私にやさしくしてくれたの」

 それが全てであると、世界の全てなのだと、少女は言った。
 そんな彼女の頭をネフィリムがそっと撫でると、少女は赤ん坊のように笑みを浮かべ、痩せた頬をその手のひらに擦り付ける。甘えた仕草に、ネフィリムもまた微笑んだ。
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BY 餡子郎
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