#172
「あっ、すみません!」
「大丈夫? すみませ……」

 駅のホームですれ違いざま肩が当たってしまった相手に、少女が反射的に謝罪し、同じ学校の制服を来た連れの少女も同じく。しかしきちんと振り返って目にしたその姿に、少女たちは思わず言葉をなくした。

 背は180センチ程度。しかし少女の華奢な肩に当たってもそれほど重くなかった衝撃のとおり、すらりとした細身。手脚も長く、首もまたハイネックシャツが全く寸詰まりになっておらず、ほっそりとしている。
 髪は見たことがないほどに真っ赤な赤毛で、そのくせ全く人工的な様子がない。イチゴやトマトが自然にその色であるようなナチュラルさで、生え際の産毛までが見事に赤かった。
 そしてその顔立ちは、男としては美しすぎ、女としては凛々しすぎる。まつ毛は長いが眉は薄く、唇も形はいいが肉感に乏しく人形めいている。頬のラインは直線的だが肌は柔らかくてきめ細やかだ。
 そして、ぱっちりとした目は瞳孔と網膜の境がわからないほどに真っ黒で、真正面から見ると本当に吸い込まれてしまいそうな心地になる。

「いいえ。こちらこそ」

 少女たちがぽかんとしていると、その人物は赤いまつ毛に縁取られた黒い目をきゅうと細めて微笑み、信じられないことにその姿以上に美しい、頭の奥や心臓の裏側が痺れるような声で言った。
 肩がぶつかった少女は思わず顔を赤らめ、膝の力が抜けそうになるのをこらえてたたらを踏む。もうひとりの少女が、慌ててそれを支えた。
 そんな少女たちにその人物は更に笑みを深めるが、すぐにやってきたモノレールに乗っていってしまった。

「……今の、男の人? 女の人?」
「どっちだろ……」

 でもすっごいきれいな人だったねえ、モデルさんかな、ネットで探してみよっか、などときゃあきゃあ言い合いながら、少女たちはモノレールのホームの階段を軽やかに降りていった。










 ホワイトアンジェラの治療によって再び動けるようになったエドワードは、そのまま地下墓地と地上を繋ぐ通路を作るために駆り出された。
 エドワードの能力によって、地下通路や天井が崩れないよう、市民を乗せた担架がぎりぎり通れるくらいの細長い通路ぶんを砂として崩し、砂を掻き出した後は業者が壁と天井を補強する。
 医療スタッフやレスキュー隊員、またヒーローたちによって市民は全員素早く地上に運び出され、そのまま病院で治療を受けることになった。

 実質の捜査本部になっているアスクレピオスよりも近かったため、ヒーローたちはフリン刑事を先頭にしてシュテルンビルト市警察署の会議室に集まった。

「まずは遺体で見つかったルーカス・マイヤーズだが──、……鑑定の結果、間違いなく本人であることがわかった。死因は薬物投与による心臓発作。苦しまずにスーッと死ぬらしい」
 フリン刑事がホワイトボードに貼り付けた写真は、ルーカス・マイヤーズの遺体の腕をズームアップして撮影したものだった。確かに、鬱血した注射の跡がはっきりと残っている。
「薬物は病院で扱ってる、それそのものは違法な品じゃあない。医師であるルーカス・マイヤーズなら簡単に手に入れられるだろう。争った形跡はなし」
「自殺?」
 怪訝な表情で、バーナビーが問う。
「さあな。調べはするが、どこまでわかるか……」
 フリン刑事は両肩をすくめ、ひとつため息をついた。

「他にわかったこととしては、だ。あの地下墓地からルーカス・マイヤーズのパソコンが見つかったんだが、そこに色々証拠が残ってた」

 それによると、アスクレピオスの社内ネットワークのハッキングによるガブリエラの住居申請の14階から4階への書き換え、またシュテルンヒーローランドのチケットデータサーバへのアクセスなどの痕跡がいくつも確認できたという。

「つまりルーカス・マイヤーズは、世界一の脳科学者で医者でもあると同時に、凄腕のハッカーであることが明らかになったってことだな」
 何しろ本人のパソコンが出てくるまで全く証拠が出てこなかった、とフリン刑事は忌々しそうに言う。彼によると、警察のサイバー対策課はこの件に関して完全敗北と言って良い状態で、事件後大幅な見直しと再訓練を予定されているという。
「しかも、この証拠だってやろうと思えば完全に消せただろうに、わざわざローカルネットワークの端末に丁寧にフォルダ分けして置いてあった。おまえらが何しても見つけられなかった答えはコチラはいドウゾ、ってな風にな。おちょくられてるとしか思えねえ。そして相変わらず、こんな気色悪い事件を起こした動機は一切不明だ」
 いらいらした顔で、フリン刑事は資料のファイルを机に軽く叩きつけた。

「ルーカス・マイヤーズについては今の所以上だ。……ただシスリー先生が“脳を調べろ”って言い出したんで、申請が許可され次第取り掛かる」
「脳?」
「ラファエラの脳みそが抜き取られて見つからない件といい、骸骨アンドロイドのコアが人の脳みそに近い仕組みであることといい、奴は脳に強いこだわりがある。関わりがないとは言えない」
 特に全くわかっていない動機の部分でな、と、ベテラン刑事は鋭い勘を働かせている顔で重々しく言った。
「おそらくそんなに難しくなく許可は下りるだろう」
 なにかわかったらすぐに知らせる、とフリン刑事はひとまず話を終わらせ、「次に見つかった市民についてだ」とアスクレピオスから出向してきている医療スタッフに目配せした。
 緊張気味な様相の白衣のスタッフが2名、数枚の書類を手に前に進み出る。

「ネフィリムが言っていたとおり、拉致されていた市民たちには全員栄養点滴がされていたようで、健康状態そのものにはさほど問題ありません。警戒は解いていませんが、生命に緊急を要する市民はいません。念のため、アンジェラにも軽く能力を使っていただきました」
「やはり、全員がジョニー・ウォンの能力を受けて眠らされていると思われます。家族が名前を呼んで駆け寄ったら目を覚ました市民もすでに何名か出てきまして、念の為の事情聴取が終わり次第、帰宅してもらう予定です」
「そりゃ何よりだ」
 アスクレピオスのスタッフらの報告に、ライアンが肩をすくめる。
「ま、とにかくこれで誘拐された市民の救助っていう、最大の問題がクリアできたってわけだ」
「うっし! あとは悪者をやっつけるだけ、ってことだな!」
 ドリルのついた肩をぐいぐいと回してやる気を見せながら、ロックバイソンが言う。
「悪者って?」
「え? そりゃあ……ルーカス・マイヤーズは死んだから、あのネフィリムって奴だろ」
「まあ、ひとまずそれしか追う標的がなくなったのは確かだけど」
 ファイヤーエンブレムが、どこか複雑そうな様子で返した。

「で、そのネフィリムのことだが──」

 フリン刑事が口を開いたので、皆が背筋を伸ばして彼に注目する。
「折紙サイクロンが持ち帰ったネフィリムの血液は、ヒーローランドのセレスティアルタワーに持ち込んで、すぐに“ノアの目録”のサーチにかけた。地下にはサーチが及ばないらしいんで今の所まだ反応はないが、24時間体制でサーチはかけ続ける。奴が地上に出てきたらすぐ向かう」
《そのために、私はパトロールをしながら空中待機だ! 連絡があり次第直行するよ!》
 ネフィリムの血液をセレスティアルタワーに届けた後からすぐに空中パトロールをしはじめたスカイハイが、通信越しに言った。
「地下対策に、念のためエドワード・ケディも引き続き待機しててもらう」
 その言葉には、折紙サイクロンが頷く。

「次に、あの地下墓地を調べてわかったことについてだ。ご丁寧に、記録……というか、日記があった」
 日記? と皆が首を傾げると、フリン刑事は頷いた。
「量が膨大なんで、新しい方から何冊かと、大雑把な部分しかまだ調べられてない。重点的に調べてるのは、おそらくさっきやりあったネフィリムが書いたと思われるやつだ」
 それでもかなりの数があるがな、とベテラン刑事は肩をすくめる。
「結論から言うと、あの古い教会は設立当初からずっとNEXT差別や迫害、虐待なんかに耐えかねた奴らが駆け込んでくるのを受け入れる隠れ家であり、……更に、書いてあることが事実なら……」
 一瞬息を吸って間をおいてから、フリン刑事は言った。

「死を望んで駆け込んできた奴らを殺す、嘱託殺人施設だ」

 嘱託殺人。
 承諾殺人、あるいは同意殺人と呼ばれることもあり、被害者の積極的な依頼を受けて行われる殺人のことで、他人の手を借りた自殺の一種であるとみなす考え方もある。

「あの施設のしきたりなのかなんなのか、被害者ひとりひとりが、殺される前に直々に書いたと思われる遺書や日記が、山ほど保管されてた。もちろん本人の遺体もセットでな」
 ヒーローたちだけでなく、聞かされた全員が絶句する中、フリン刑事は続けた。
「ちなみに、ざっと見つかった遺書はこんな具合だ」

 ──これでやっと楽になれる。感謝を
 ──さようなら、慈悲なき天使たち
 ──私はこの星から追い出された
 ──天使に選ばれずとも、我々は仲間とともにこの地下で眠りにつく

 フリン刑事がスクリーンに出したのは、ずらりと並べられた紙類。非常に古いものもたくさんあり、びっしりと細かく書かれてすぐには読めないものから、大きな文字でごく短い文章のみのものもあった。

 ──トビーが 死んだ こんなに小さいのに
 ──もう 痛いのは いや
 ──やさしい神父さま 次のネフィリムになってあげられなくて ごめんなさい
 ──リボン うれしい ありがとう

 子供の字で書かれた1枚を見て、折紙サイクロンは揺りかごの近くにリボンを付けてちょこんと座っていた小さな女の子のミイラを思い出し、ぐっと唇を噛み締めた。

「“ネフィリム”は代替わりする屋号みたいなもののようだ。前代のネフィリムを殺すことで、そいつが次のネフィリム……あの教会の神父になる。代々のネフィリムの日記もあった。最後のページは全部遺書だ」
「……そんな所が、このシュテルンビルトに、ずっと……?」
 呆然とした声で、青ざめたバーナビーが唇を震わせて言った。
「そのようだ」
 フリン刑事のその返事に重ねるように、ガァン!! と大きな音が鳴り響いた。ワイルドタイガーが、思い切り壁を殴った音だ。彼もまた非常に険しく、そしてショックを隠しきれない顔で歯を食いしばっている。

 ネフィリム。
 生まれてきてはいけなかった、天使ともヒトともつかぬ巨人たち。誰にも受け入れられず、誰にも殺されず、ただ周りから厭われ、共食いで消えていった存在。
 あの老人が自分たちをそう称した理由が、今ここではっきりと明らかになった。

「……倫理的にはよろしくない発言なのを承知で言うが、ざっと調べただけでも、誰も彼も死にたいと思っておかしくないような仕打ちを受けてあの教会に駆け込んでる。助けを呼ぶ気力も起きない、……死んだほうがマシだ、って目にあった人間が、シュテルンビルトには少なくともあのミイラの数だけいたってことだ」
 実際に陰惨な事件も数多く目にしてきたフリン刑事だからこそ、その言葉にはひどく重みがあった。

「俺たちが追ってる、今のネフィリムもそうだ。血痕からのDNA鑑定でも女性と判明したが、……小さい頃から長い間NEXT能力を理由に父親に監禁されて、ずいぶんひどい目にあってきたようだ」
 資料をめくりながら、フリン刑事は非常に険しい表情で言う。
「代々のネフィリムに女性神父は珍しくない、というか、ネフィリムは男でも女でも神父のカソックを着る。いくら華奢でもまさか女性がカソックを着ているとは誰も思わないので、女性ならではの被害を遠ざけられるとどの代の日記にも書いてあった」
「……ひどいわね」
 ファイヤーエンブレムが、痛ましさのあまり息もしづらそうな様子で短く呟いた。先ほどネフィリムを“悪者”と断言したロックバイソンが、どこか気まずげに俯いている。

「誰も……」

 震えきった、顔を見なくても泣いているとわかる声は、ブルーローズのものだった。
「誰も、気付かなかったの? こんなに悲しいことが、こんなにひどいことが、長い間、……こんなに沢山の人が、いつもいつも、ずっとこんなことが起こってたって、誰も」
 ぽたぽたと、ブルーローズの目から涙がこぼれ落ちる。

「誰も、助けて、あげなかったの……!?」

 ──しかしここには、“なにかお困りではないですか”と声をかけに来てくださった人など、ただのひとりもいらっしゃいませんでしたよ

 この今日まで、ほんとうに、ただのひとりも。
 重い鎖を引きずるような様子でそう言っていたネフィリムに、あの時、誰も何も言えなかった。今ならわかる。なぜならあの言葉は、途方もない数の“事実”を背負ったものだったからだ。

「……実際、これほどの量の殺人が今の今までずっと気付かれなかったのはおかしい。そこで比較的新しいと思われるミイラ……遺体をいくつか大急ぎで鑑定したが……」
「なんかわかったのか?」
 ブルーローズの嘆きをあえて別の視点で捉えて事実を挙げたフリン刑事に、おそるおそるといった様子でロックバイソンが問う。
「いまのところ、全員が“幽霊”だ」
「は? 幽霊?」
 ロックバイソンだけでなく、全員が怪訝な顔をした。ホワイトアンジェラが、「お、おばけ!? おばけですか!?」とひっくり返った声を上げる。

「ああ、すまん。業界用語だ。“幽霊”ってのは、社会保障番号登録も、生体認証登録も該当なし。失踪人の捜索願も出ていない──つまり、“社会的に存在していない”扱いになっている人間のことだ」

 生体認証登録による個人情報の管理制度はここ20年程度で飛躍的に普及し定着しつつあるが、その元になっているのが社会保障番号登録制度だ。
 元々は徴税用の個人特定を目的とした制度であったが、いわゆる事実上の国民総背番号制による戸籍制度である。
 一般的に、子供が生まれたら出生届とセットで社会保障番号の適用を申請し、個人のIDを登録する。
 多くは発行されたカードや長い桁の番号が用いられるが、シュテルンビルトを始めとした先進エリアでは、このIDと市民登録証を生体認証と紐づけて、身分証明、またクレジット支払いなどにも使用するというシステムが最近特に多く用いられている。
 静脈や網膜による生体認証ならばカードの紛失や盗難の心配がなくなり、本人確認証としてこれ以上なく、なおかつ個人に関する様々な情報が一括で管理できるシステムだと高く評価されている。

「IDがない……なんでそんなことに?」
「つまり私生児だとか、生まれた事自体が世間に知られるとまずいと親やその周囲がみなした子供が、出生届や社会保障番号の申請をされないままだという事例だな。……生まれた時からNEXTだったことで、差別意識のある親が生まれを隠蔽するパターンもある」
 珍しくもないことである、というふうに、フリン刑事は言った。
 ちなみに子供の出生届とID取得をしていないことがバレると刑事罰が適用されるが、本人が直接社会と関わりを持ち、IDがないことが判明するほどの年齢になった頃にはすでにストリートに放り出されていたり、売られてしまっていたり、マフィアやギャングに入ってしまっている子供から親を特定し捕まえるのは難しい、とも補足する。

「司法の手が及んでいない僻地の貧困地帯なんかでは、そもそもそういう届けが出されること自体珍しい、なんてこともあるが……」
「あー、こいつがそうだな。シュテルンビルトに来てから届け出したんだろ?」
「おお、そのとおりです。手続きにはとても時間がかかりました」
 ライアンに問われたホワイトアンジェラは、こくこくと頷きながら言った。
「私のようなものが都会でそういう手続きをしたい時は、えらい人が保証人になってくださらないとできないのです。私はマッシーニ校長先生が保証人になってくださったのです」

 彼女の言うとおりであった。
 生まれてすぐ、病院を経由して親が出生届を出すと同時のID発行はその状況下ゆえに非常に簡単だが、それ以外の場合は非常に困難を極める。なぜなら誰も彼もすぐにIDが発行できるようでは犯罪者の雲隠れが非常に容易になってしまうし、個人を識別する身分証明証として意味がなくなってしまうからだ。
 その場合必須になる保証人には、手続きするエリアの市民証を持っていて、なおかつあらゆる支払い滞納などがなく、ある程度の社会的地位を持っている、平均以上に身元のしっかりした人間でないとなれない。更に、いわゆる“社会的な生まれ変わり”を目的とした手続きでないかどうかの確認のため、同じ指紋、網膜、静脈、DNA登録の人間がすでにいないかどうかのチェックを病院でしなければならず、これにもそこそこの費用がかかる。
 マッシーニ校長は、この検査の費用も私的に立て替えるという破格の扱いをアンジェラに与えた。
「とても感謝しています。とても」
 本当に深々と頷きながら、ホワイトアンジェラはしみじみと言った。ちなみに、費用はすでに全額返済し、もちろんお礼として彼の腰痛や肩こりなどを全回復した上で、今でもお願いされればすぐに能力使用に応じるという約束を一方的にしている。

「人身売買なんかも、こういう人間が対象になるんだが」
 その言葉に、何人かは、先日アンジェロ神父から聞いた、星の民によるNEXT能力者の人身売買の実態を思い返す。
「だから社会的には、あのミイラたちは文字通り“幽霊”で、みんな“最初からいなかった”という扱いの──」
「何言ってるの?」
 ドラゴンキッドが、困惑とショックを隠しきれない声で言う。
「幽霊って、……だって、あそこにあんなにたくさん、そんな、いなかったって、そんなの、ひどいよ……!!」
「キッド殿」
 唇を震わせて顔をしかめ、拳を握りしめて言うドラゴンキッドの肩を、折紙サイクロンがそっと叩いた。

「……で、それを踏まえて、だ」

 シンと沈黙が支配する場を仕切り直すように、フリン刑事が言った。
「ちょいと気にかかることがある」
「何だ?」
 気が重そうなしかめっ面で、ワイルドタイガーが返事をする。
「救出された市民は全員、今回の行方不明者リストと照合が完了した。しかし、もしかしたら、まだひとり“足りない”かもしれない」
「足りない? ……って、まさか」
「そういうことだ」
 ハッとする面々に頷いてから、フリン刑事は手元のリモコンを操作した。
 近くにあったモニターが点き、監視カメラのような視点の映像が映し出される。おそらく取調室だと思われるその部屋には、警官が2名と、机を挟んで彼らに向き合い、若い男性がひとり座っていた。

「ブロンズステージに住んでる男だ。市民が全員救助されたって報道でやってきた被害者親族だが……、いなくなったっていう妹がその中にいなかった」
「妹……」
「母親違いの妹で、社会保証番号は未発行だそうだ」
 そう言って、フリン刑事は兄を名乗る彼から聞き取りをした報告書を示した。

「行方不明者はIDで管理するからな。つまり、リストに載せられない。だから発見時はとりあえず“全員発見”ってことになったが──」
「実はそうじゃなかった?」
「ああ。しかもこの兄とやら、ブロンズステージを牛耳ってる古いマフィアの幹部が親だ。マフィア幹部の親族からの、生まれた事実のない“幽霊”の捜索願い。二重の意味で、普段なら黙殺されるのが普通だが──」
「黙殺って!」
 ドラゴンキッドが叫ぶように言うが、折紙サイクロンに肩を軽く押さえられ、ここで口を出すと話が進まないことを理解したのか、納得行かない顔でひとまず口をつぐんだ。

「でも今回は、ネフィリムもまた“幽霊”であり、自分の後継となる“幽霊”を求めて動いているかもしれない。つまりその行方不明の女性とネフィリムに関わりがあるかもしれないので、今回ばかりは無視できない──ということですね」
「そういうことだ」
 バーナビーが整理して発言したその内容に、フリン刑事は頷く。

「しかも、妹はNEXTだ」

 つまり、バーナビーの言う通り、ネフィリムになる条件を満たしている人物だということになる。
「まあ……、“幽霊”はどいつもこいつもまともな暮らしをしてるとは言えねえ奴らばかりだからな。今回の事件とは関係なく、自分の境遇に限界を感じての単なる失踪かもしれんが」
「どっちでもいい。妹がいなくなって、悲しんでる兄ちゃんがいるんだ。……それに、マフィアに片足突っ込んでる人間が警察に助けを求めてくるって、相当本気で心配して探してるってことなんじゃねえのか」
 ワイルドタイガーが、顎をしゃくってモニターを示しながら言う。モニターの中には、兄を名乗る青年が俯いて座っている。机に置かれた拳は、やや荒い映像でもわかるほどに震えていた。
「見つけてやんなきゃな。そうだろ?」
 力強いワイルドタイガーのその言葉を否定する者は、誰もいない。
 そしてフリン刑事は苦笑して肩をすくめると、聞き取りした“妹”の特徴を読み上げはじめた。

 名前はなし。
 父親によってほぼ監禁されているに近い状態で暮らしており、年齢は14歳。かなり痩せていて髪は黒か茶色、目の色は不明。背丈は130センチ程度。
 出生届けやID取得がされていないのは、元々マフィア幹部の娘婿だった男が別の女と浮気をして生まれた娘であるため、ということだった。父親である男はこのことでマフィアから制裁を受けて片目と片耳がないが非常に暴力的かつ重度のアルコール依存症で、今も自宅にいるが娘がいなくなったことについてはおそらく関知していないだろう、と少女の兄は話したという。
 また、男の浮気相手であり少女の母でもある女もまた制裁を受け、今は既に“いない”ということだった。

「引き続き、ネフィリムの地下墓地の調べを進める。何か新しい情報が得られ次第、情報共有する。ノアの目録も常時稼働してもらってるんで、どこから反応があっても誰かが駆けつけられるよう、全員散らばって市内をパトロール、および少女の探索をしつつ待機。いいか?」

 そう言ったフリン刑事に全員力強く返事をし、シュテルンビルト市内に飛び出していった。










 寒空の下、少女はぼんやりと座り込んでいた。

 いつの間にか、靴が片方ない。ろくに洗濯できていない垢じみた服は大きく破けていて、痩せた身体が冷たい空気に晒されている。しかし殴られて腫れた痣に、氷のような空気が妙に心地よいようにも思えた。

 少女は、NEXTである。
 そのせいで、7つの頃まではただ無視されるだけで済んでいたのに、能力が目覚めてからは殴られたり蹴られたり、閉じ込められたりするようになった。そうするのは父親だ。母親は最初からいない。

 すべて少女が悪いのだと、父は言う。頼んでもいないのに生まれてきて、そのせいで片耳と片目を失い、生きているだけで金がかかり、息をして食べて出すのが、生きているのが目障りだと、生まれてきたのが間違いであると、毎日毎日何回も言われてきた。
 ならいっそ殺せばいいのにと思うが、それはできないのだと父は言った。少女が死んでいることがわかったら、自分も殺されるのだと。誰に殺されるのかはわからない。
 いっそ何日おきかに与えられる食べ物を口にするのをやめてしまおうと考えることも多かったが、そういう時に限って滅多に食べられない果物やお菓子、温かいものなどが置かれていてつい口にしてしまい、結局餓死は出来ずにいた。

 そしてここ連日外では大きな音がよく響いていた先日、14歳になった少女はとても嫌なことをされて、初めて部屋を飛び出した。
 最近の外での騒ぎと関係あるのかどうか少女はわからなかったが、いつも閉まっているドアが壊れて開いていたので、外に出るのは簡単だった。

 そしてやってきたのが、この場所である。
 幽霊道路とも呼ばれるここは、高速道路の下をくぐるようにしてある、ブロンズステージの薄暗い道だ。再開発の及んでいないその場所は、所々破れたり傾いたりしたフェンス、かなり昔に潰れた小さな個人工場跡などが寂しく並ぶ。
 しかも、過去大勢が死んだとされる火災事故があった真っ黒焦げの廃工場や、また何度か殺人事件の犯行現場になっている他、ゴールドラッシュ時代のトロッコの廃線などがあり、これらに関連する怪談話も非常に多く、人が寄り付かない場所である。

 いつ頃か、少女は酔ってソファで眠りこけている父が観ていたテレビをそっと盗み見た。いわゆる心霊番組で、大げさに不気味な演出での怪談話。神父の幽霊の話だった。
 NEXT差別が今よりもっと苛烈だった時代、NEXTだということで民衆から責め殺されたという教会の神父。彼は今でもこのシュテルンビルトをひっそりとうろついていて、NEXTを迫害する人々のことを出来得る限り苦しませながら殺し、そして迫害を受けて苦しんでいるNEXTを、まったく苦しませることなく、静かに素早く殺すのだという。
 すぐそこにある黒焦げの廃工場は、NEXTの従業員をリンチしていた差別者たちを幽霊神父がまとめて焼き殺したのだという話も聞いた。インターネットを禁じられ、何冊かの子供向けの本しか与えられていない少女にとって、不気味な怪談話も、不思議に煌めくお伽噺に思えた。

 少女は、幽霊神父に会いたかった。

 少女にとって、父を含めたすべての人々は、少女を迷惑がり、疎ましがり、あるいは傷めつけるだけの存在だ。だが幽霊神父は違う。どこからともなくやってきて、ただ殺してくれる存在。それは少女にとって、まるで妖精か天使のような存在に近かった。出会えたら、きっとなるべく苦しくないようにすべてを終わらせてくれるのではないかと、そう思って。
 だが少女は臆病で、最初にここにやってきた時、ガラの悪いチンピラが缶ビールを片手にたむろしていたのを見てすぐに走って隠れてしまった。殺して欲しいと思っていたはずなのに、いざとなると足が竦む。なぜならあんなチンピラたち相手では、甚振られるだけで済んでしまう。──父がいつもそうするように。

 ただ腹が減って夜にフラリと道路に出た時は、ぼろぼろの少女を見て、やや派手な格好をした男女のグループが「幽霊!」「やっぱりいた!」と悲鳴をあげて、あっという間にどこかに行ってしまった。
 幽霊を探しに来たのに、自分が幽霊と間違えられたことが少しおかしくて、少女はどれくらいぶりにか少し笑った。彼らが放り捨てていったお菓子と水のボトルはありがたく頂戴し、少しずつ食べて空腹をやり過ごしている。

 ──人は、死んだらどうなるのだろう。

 少女は、ずっとその事ばかり考えている。
 生きていても、良いことなどひとつもない。生きているのが迷惑だと、生まれてきたのが間違いだったと父に毎日言われ続けている少女には、友達ももちろんいない。

 少女は確かに殺されたかったが、ひどい目には遭いたくなかった。だからこそ、自ら死ぬこともできなかった。少女はとにかく痛いことが嫌で、苦しい思いをしたくなかった。そして、少しでいいから誰かに、何かに優しくしてもらいたかった。
 優しく、静かに終わりたい。それが少女の望みだった。はじめから何もなかったかのように、生まれてすらいなかったかのように消えてしまいたかった。
 古典の名作のように、ひどいめにあった絵描き志望の少年が、愛犬と一緒に天使に導かれて天に召されるように、少女も穏やかにいなくなりたかった。
 しかし少女には常に一緒にいてくれる犬もいないし、天使も迎えになど来はしない。ただただ寂しくて、死んだほうがましだと思うようなつらい日々が延々と続いていくだけ。

 だが、今日も幽霊道路は誰もいない。

 少女は失望し、ため息をつく。ぼろぼろのベンチにそっと腰掛け、俯く。そうして冷たい木枯らしの音をしばらく聞いていたその時、ふと、気配を感じて顔を上げた。

 トロッコの廃線路の、茂みの向こう。
 静かに歩いてきたのは、黒いカソック姿の神父だった。

「──あ」

 少女は目を丸くして、その姿を凝視する。
 少女の熱視線に、神父はすぐに気付いた。すっとこちらに顔を向け、茂みを静かにかき分けて歩いてくる。少女はどきどきした。しかしそれは、恐怖ではない。
 暗くて狭い部屋にほとんど閉じ込められてきた少女は、あまり視力が良くない。しかし近付いてくるに連れて、神父の姿が鮮明になってくる。
 心霊番組での再現VTRで見た神父は、長い影のように背が高かった。しかし実際目の前にいるその姿は、非常に小柄で華奢である。

 そしてその目は、少女の知らない、しかし心の底から望んでいるどこかに繋がる、吸い込まれそうな、とても魅力的な目をしていた。
 神父のカソック姿をした、小柄で華奢で、優しげな──おそらく、中年の女性。短い黒髪の隙間からみえる額には、まるで茨の冠を思わせるようなかたちの傷跡か痣のようなものがあった。

「……なにか、お困りではないですか」

 その声もまた、どこまでも穏やかである。
 生まれて初めて差し伸べられた手に、少女は、ぽろぽろと涙を流した。
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BY 餡子郎
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