#169
「さて、いよいよだね」
「喜ばしいことでございます」

 にっこり微笑むルーカス・マイヤーズに、カソックを纏った老人は恭しく頭を下げて慶事を祝った。
 ふたりの目の前にあるのは、赤い髪の、ロゴスの結晶として作られた人工の天使が寝そべる大きなカプセル。攫った市民たちからかき集めたエネルギーはひとまずじゅうぶんな量に達し、やっと起動に足りるほどのメーター表示になっている。

「では“導き”を始めよう。ひとりめはやはり最大の功労者である君かな」
「ああ、なんという光栄」
 老人は、深々と再度頭を下げる。
 しかしほんの数秒間を空けた後、静かに切り出した。

「ですが、……申し訳ありません。私は、……“私たち”はやはり、ネフィリムとしての役目を最後まで果たしたく思います」
「ふむ」
「私は最後のネフィリム。そしてネフィリムとして朽ちてこそ、心置きなく星に行ける。どうしても、そう思うのです」
 女性とは思えないほど低く重苦しいその声に、ルーカス・マイヤーズはごく気軽なリアクションで首を傾げた。

 神父のカソックを纏い、皺だらけの老人だからこそ今や意識せずとも性別不明の見た目になってはいるが、その性別は肉体的にも精神的にも女性である。
 ネフィリム、そう名乗る彼女に個の名前はない。彼女は生まれてきたことを祝福されなかった証のように名を持たず、誰にも知られていないシュテルンビルトの地下でひそかに受け継がれ続けてきた“ネフィリム”の名を冠している。

 彼女の仕事は、共食いだ。
 つまりNEXT能力者であり、同じNEXT能力者、あるいは同じく迫害に遭った人々を殺すこと。

 生まれてこないほうが良かった、もう生きていたくない、死んでしまいたい。そんな風に思っている、──思わざるを得なくなるほどのめにあった人々が、噂を頼りにあの教会にやってくる。ステンドグラスのない、光届かぬ地下室のある教会。迫害から逃れて閉じこもるための、かつて同じ目に遭った人々が押し込められ焼き殺されたその場所へ。
 ネフィリムは彼らを迎え、そして殺す。自分も同じであるがゆえに、己もまた生まれてこないほうが良かった、死んだほうがマシだと思っているからこそ、これ以上ない共感と、それゆえの慈悲をもって彼らを殺し続けてきた。

 聖書によると、ネフィリムはグリゴリという堕天使の集団と人間の女たちの間に生まれた巨人であり、また大昔の名高い英雄たちの化身でもあると言われている。
 それは一般庶民ではなく、身分ある人々の血を引くからこそより生まれてはならなかったと捨てられ、当時貴族であったからこそマダム・ハングリーもうかうかと救いの手を差し伸べることができなかった子供たちの末裔として、ぴったりな名前であった。
 シスターが主となり活動していたマダム・ハングリーらの一派とは対象的に、迫害者からの性的暴行を避けるために男装をし、女性であってもシスターの衣装ではなく神父のカソックを纏って、彼らは地下に閉じこもった。

 導き手であるミカエラ姫がいなくなってから、彼らは聖書の中のネフィリムのように、延々と共食いを続けてきた。
 自分たちのように生まれてはならなかったもの、死んでしまいたいほどの目にあった名も無き人々を迎え入れ、その望みどおりに殺してきた。絶望の果て、孤独に自らひとり死ぬのではなく、せめて誰かの慈悲によって殺されたいという願いを叶え続けてきた。

 殺し、殺されてきたネフィリムたちの亡骸は教会の地下におさめられ、誰にも知られることはない。知られたことなどいちどもない。そしてそれこそが、この行為がこの星の理であると彼らが確信する証だった。
 密室に閉じ込められた人々が我先に生き残るために共食いをするようにして、彼らは我先に死なんとお互いを殺し続けてきた。そして、最後に残った──最も多くの同胞を殺すことで生まれた共食いの死に損ないにして、殺してくれという同胞の願いを叶え続けた最も慈悲深き者こそが、ネフィリムの名を受け継ぐ。

 最後のネフィリムである彼女の能力は、物質の分解と構築。
 身体に触れたものを分子レベルまで分解し、生物でなければ構築し直すことも出来る。この能力ならば、脳の一部を完全に分解して廃人にすることも、ドアや壁を分解して通り抜け、すぐさま元通りにすることも思いのままだ。
 生まれてこないほうがよかった、と誰もが思うような家庭環境に生まれた彼女は、若い頃にあの無骨な教会に駆け込み、慈悲を乞うた。
 しかし彼女は、触れるものすべてを壊すことの出来るこの能力によって次代のネフィリムに選ばれ、誰に殺されることもなくここで生きることとなった。己自身と同じように、生まれてくるべきでなかった、死んだほうがマシだと思うような目に遭った同志たちを、痛みや苦しみを与えることなく殺し、救うことの出来る存在として。

 NEXT能力者ではない二丁拳銃の老人を殺すのは命じられた当初こそ躊躇したが、しかしNEXT能力者の女たちを凄惨な方法で殺してきた彼の経歴がわかると、迷いは消えた。
 歴代ネフィリムの中にはNEXT迫害者をひどく憎み、ネフィリムとしての共食い以外にも迫害者を消して回った者もいる。特に発火能力者であったネフィリムはそれが顕著だった。彼が従業員ごと燃やし尽くしたブロンズステージの廃工場はかつて過激なNEXT差別者の巣窟であり、何人ものNEXTが死んだほうがマシというめにあっている。

 彼らの有能さゆえにウロボロスはスカウトも見越して声をかけたものの、あまりに多くのNEXTを殺し続けてきたその経歴に、思想的な齟齬があまりにも大きいとして、今回の件を限りにネフィリムに関わることをやめる予定だ。
 ネフィリムは、それに対して特に思うことはない。自分はやはりどこにも受け入れられることはないと、いつもどおり納得しただけだった。

「私の次のネフィリムは、とうとうやってきませんでした。私と同じような子供は、生まれなかった。生まれてこないほうが良い子供が生まれなかった。私たちは、それが嬉しい。このシュテルンビルトに、とうとうそういう時代がやってきた。しかし──」

 彼女は、まぶたの弛んだ目を開いた。その目は果てしないほど暗く、底のない穴のようだった。目の色さえわからない。

「しかし、憎い」

 地獄の底の壁を、石にかじりついて這い上がるような怨嗟に滲んだその声が、暗いカタコンベに響く。数え切れないほどのネフィリムの遺体が納められた地下室はいま、赤い髪の天使と、天使を目覚めさせる生贄である市民たちが寝かせられている。

 真っ黒に焼け焦げた地下室を見て涙を流した、美しい少女。両親に望まれて生まれ、理不尽に石を投げられたことも、捨てられたことも犯されたこともなく、困っている人を助け悪者をやっつけるヒーローとしてこの街に君臨する、奇跡の青い薔薇のような少女。
 昔かどうかなんて関係ない、と彼女は言った。そのとおりだと、ネフィリムたちもおおいに同意する。だからこそ彼女の言葉が嬉しく、そしてあの細い首を力の限り締めてやりたいと思うほど憎く、無垢な涙が心の底から妬ましい。

 ──なぜ、わたしばかりが。
 ──どうして、わたしたちばかりが!

 青い薔薇のように美しい少女。
 太陽の下で声を上げて遊ぶ、無邪気な子供。
 素敵な王子様に手を取ってもらえる、幸福なお姫様。
 不幸な呪いを解く、真実の愛。

 世の中にはそういう存在もいる。しかし、自分たちにはあてはまらない。それどころか、生まれてきたのが間違いだった。高い塀に囲まれた教会、共食いの死を待つだけの暗い地下室にしか居場所はなかった。

 ネフィリムたちは皆、特別扱いしてほしいわけではなかった。ただ何も考えていない呑気な羊として、囲いの中で安心して羊飼いに導かれ、皆と一緒に草を食みたかっただけだ。しかし、そんな願いは撥ね付けられた。黒い山羊めと石を投げられ、追い出され、たったひとりで彷徨い続けるほかなかった。
 せめて己も殺されたい。誰かのやさしい手で、自分のことをわかってくれる仲間の手で、思いやりをもって殺されたい。己が、前のネフィリムを殺したように。ありがとうと礼を言って分解されていった彼のように、延々と繰り返してきたように、自分も誰かに殺されて、仕方がなかったと諦めたい。

 しかし、その願いは叶わない。
 己と同じ、生まれてこないほうが良かった子供は生まれなかった。喜ばしいことだ。この星に、輝かしい時代がやって来た。──自分たちだけを置き去りにして、時が過ぎていく。忘れ去られていく。地下室に埋まったネフィリムたちは、永遠に誰かに知られることのないままだ。

 その事実が、ネフィリムたちに血の涙を流させる。やっと無くなったはずの、息をする代わりに血を吐くような心地。自分の歯を全てむしり取って投げつけてやりたいほどの憎しみが、妬みが、鼓動を止めたはずの心臓を潰し、崩れたはずの骨を軋ませ、朽ちたはずの肉を再度焼く。

 諦めたはずだった。諦められたはずだった。共食いの虚無が安らぎとなり、誰にも知られぬ地下が永遠の居場所になるはずだった。しかし今、その静かな墓が暴かれようとしている。葬り去ったはずの感情が、思いが、望みが、息を吹き返して再び自らを苦しめようとしている。

「ならば、殺すしかありません。殺されるしかありません」

 瞬きもなく発されたおぞましいほど強い言葉に、ふむ、と導き手は頷いた。
「君は既に星に行ける権利を手にした。それでも?」
「申し訳ありません。理屈ではないのです」
「……なるほど」
 ルーカス・マイヤーズは、思案した。
「理屈ではないなら仕方がない。それは奇跡、ミュトスの輝き。めったにない事だ。大事にしなくては」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
「うーん、いや、理解は出来ない。でもだからこそ、ミュトスの輝きを持つ君のことは羨ましいよ」
 ネフィリムは、ただ俯いて黙った。
「とにかく、私は君の意思を尊重しよう。そこで、これは提案だが」
「はっ」
「君はネフィリムとして、彼らを殺したい。あるいは殺されたい。しかし生きて星にも行きたい」
「……そのとおりです」
 矛盾したその願いを認め、彼女は戸惑いがちに頷いた。

「では分けよう」
「……は?」
「単純な話だ。この星で殺し殺される共食いの巨人、ネフィリムたる君と、星に導かれる無垢なる魂の君、ふたりいれば問題ない。それぞれの役目を同時に果たせる」
「そんなことが……?」
「できるとも。ごく単純なロゴスだ。全範囲選択してコピー・アンド・ペースト」
 作業というほどでもない、とルーカス・マイヤーズは、やはりごく軽く言った。

「ただ、君のそのミュトスの輝きはコピーしきれるかどうかわからない。ネフィリムたる君には、もしかしたら何か制限が設けられるかもしれないね」
「構いません。私は殺されるまで殺すだけ」
「そうかい。では決まりだ。君がそうしてくれるなら、コストも少なくて済むし。未練があるのも良くないしね。……ああそうだ、もしかしたら、それが君への最後の審判、星に行くための試練なのかもしれないね」
「おお……!」
 ルーカス・マイヤーズのその言葉に、彼女は天啓を受けたように小さな目を見開き、震える手を組んで跪いた。

「得心いたしました。仰るとおりでございます。ネフィリムたる私がその役目通りに殺し尽くし、殺され尽くせばこそ、もうひとりの私は心置きなく、真に清らかな魂として星に参れましょう」
「そうかい、それは何よりだ」
「お導きをありがとうございます。御使い様」
「なんてことはないさ。じゃあ、準備を始めよう」

 ルーカス・マイヤーズは、古いカタコンベの中で棺を開ける。
 横たわるのは、赤い髪をした空っぽの天使。古い天使の残骸の一部を使い、徹底したロゴスによって作り上げた、奇跡の欠片もない人工の天使。ミュトスの輝き、星に至るための、無粋なロゴスの集大成。彼は、その唇に顔を近づける。

「──見よ、星が生まれし約束の日が来る」

 罪人を断ち滅すために来る。
 罪人に天の星はその光を放たず、太陽は出ても暗く、月はその光を輝さない。
 天使の激しい怒りの日に天は震え、地は揺り動いてその所を離れ、天使を侮った罪人たちは手足をもがれ蛇と化さん。

「私は新しい星に行く」

 目覚めの口づけが、人工の天使に落とされる。
 途端、青白い輝きがカタコンベいっぱいに広がる。まるで新しい星が生まれる時を思わせる鮮烈な光がおさまったあと、天使の棺の傍らには、中年男の肉体がだらりと力なく引っかかっていた。

 ──天使は真に善なる人を選び、その手を取り導かん
 ──そのときセラフィムの輝きが彼らを見据え
 ──偉大なる声を告げし天使が現れ、そのラッパを吹き鳴らす

「おお……御使い様……!」

 棺の中から起き上がった天使の姿に、惨めな老いたネフィリムが感涙して膝をつく。
 他にはない、真っ赤な髪。男としては美しすぎ、女としては凛々しすぎる、中性的な長身。初めて開かれた目は、薄水色に煌々と輝いている。
 薄い唇が、ゆったりと弧を描く。

「さあ、──最後の審判の始まりだ」

 響き渡る高いラッパの音のように、美しい声がそう言った。










「穴が開けられない?」

 ドミニオンズからの報告に、ライアンをはじめヒーローたちは表情を険しくした。

「はい。スキャンやソナー検査の結果、あの地下室の向こうにはたくさんの部屋があるそうです。その形と古さからして、おそらくゴールドラッシュ時代の採掘技術を持った者の知識を元に掘られたものだろうと」
 まるで蟻の巣のように広がっている地下室は、どうしてこれで沈下を起こさないのかわからないほどに複雑で、だからこそうかつに穴を開けて突入が出来ないのだ、とドミニオンズのスタッフは報告書を片手に説明した。
「そしてあの神父の話が本当なら、あの教会や地下室を作ったのは、かつて迫害されてあそこに留まっていたNEXT能力者たちです。彼らの能力によって作られ維持されている地下室、という可能性も高い」
 NEXT能力によるものに下手に手を出すのは危険である、というのはもはやシュテルンビルトに限らずこの世界の常識である。そして全容不明の密室空間という更なる危険性も無視できない。

「安全に穴を開けるためには、もう数日綿密な調査を……」
「まだ待つのかよ! 安全安全って、誘拐された市民の安全はどうなるってんだ!」
「タイガーさん、落ち着いて!」
 拳を振り上げて憤るワイルドタイガーを、バーナビーが制する。しかしここにいる全員がワイルドタイガーと同じ気持ちであり、他のヒーローたちも非常に険しく、あるいは焦燥感の濃い表情を浮かべていた。
「……あの神父が壁抜けの能力者だというのなら、この地下室群は格好の隠れ家というわけだ。壁を抜けられるなら扉も不要、地盤沈下を気にせずとも移動し放題……」
 スカイハイが、顎に手を当てながら言った。現状彼の言うとおりであり、技術者たちも現在お手上げの状態だった。

「調査に協力してくれたソナーの能力者って、メトロ事件の時も力を貸してくれた水族館のイルカ担当の奴だろ? そいつみてえに、市民の中から壁抜けNEXTと同じような能力が使えるNEXTを探して、協力してもらうってのはどうだ?」
「ダメよ。私たちでさえ無闇に突入するのを躊躇うような、何が待ち構えてるのかわからない密室空間なのよ? 一般人なんか連れていけないわ」
 市民を守るヒーローが市民を危険に晒してどうするのよ、というファイヤーエンブレムの反論に、アイデアを出したロックバイソンは「うぐぅ」と唸り、ドリルのついた肩を落とした。

「そうだよね。中で犯人と戦闘になるかもしれないし……。なにがどうなってるのかわからない所で、素人の市民を守りながら戦うのは難しいよ。誘拐された市民も助けないといけないのに」
「あんまり派手に戦うと、それはそれで地下室が崩れちゃうかもしれないっていうのもあるわよね……」
 今度は、ドラゴンキッドとブルーローズが頷き合いながら言う。
「……二部リーグヒーローに、良さそうな能力者がいりゃ良かったんだが」
「そんなに有用な能力者なら、二部リーグにいないですよ」
「そりゃそうか……」
 難しい顔をしたバーナビーの返答に、今度は虎徹ががっくりとする。
 その時、他のスタッフが慌てた様子で駆け込んできた。

「本社……クラーク支部長から?」

 ライアンが怪訝な顔をし、タブレット端末を受け取り連絡内容に目を通す。その内容に、険しく眇められていた目が驚きに見開かれた。
「──クラーク支部長に通信!」
 端末から顔を上げて言ったライアンに、アスクレピオスのスタッフたちが一斉に返事をした。



《やあマイ・ヒーローズ。久しぶりだね》

 何度連絡を取ろうとしても取り込み中だということを理由に音信不通だったというのに、本社にいるダニエル・クラークはすぐ通信に応じた。
 ライアンはむっつりと黙りこくっているが、隣りにいるアンジェラは「クラークさん、お久しぶりです!」と明るく挨拶を返している。

《こちらからの“差し入れ”は届いたかな?》
「待機してもらってる。……あんた、どうやって情報を得てる?」
 ダニエルが寄越したのは、間違いなく、現状を打破する秘密兵器。しかし調査結果をヒーローたちが聞く前にそんな行動に出られたダニエルに、ライアンは完全に表情を険しくしている。
《どうやってってそりゃあ、僕は支部長で、ヒーロー事業部の代表者。つまり君の上司だ。ゴールデンライアンより先に僕に現状を逐一報告するように、いちスタッフに言いつけておくのは別に普通のことだろう》
「普通……ね」
 確かに、不自然なことではない。腕を組んだライアンは、右手の人差指で自分の左腕の肘あたりをトントンと叩いた。
《そう。僕たちはまったくもって普通の一般人だ。この星の大地に杖をつき、勤勉に働く、どこにでもいる有象無象の民草たち》

 ──杖の民。

 にこやかに、穏やかに、しかしはっきりとダニエルが言ったので、ライアンは緊張感を高めた。
《そう警戒するなよ。男は常に余裕を持たねば》
 ひょいと肩をすくめて両手を見せたダニエルは、《アンジェラを見てごらん、ずいぶん余裕だ》と隣りにいるホワイトアンジェラを示した。
 ダニエルらを“いい人”と称する彼女は相変わらず家の中でリラックスした犬のような様子で、実際にこうしてダニエルとモニタ越しに面会してもそれは変わらない。その様子にライアンはいちど目を閉じ、フウと溜息をつくと、色々な疑問をとりあえず横に置いてダニエルを見返した。

「あんたの目的は何だ? 何を望んでる?」
《それはもちろん、平和な日々さ》
 ダニエルは、まったくもって迷いなく、裏も表もない様子で言った。
《杖の民の願いはいつだってそう。僕らは平和を愛する、ひとりひとりには何の特別な力もない一般市民だ。僕たちにできるのは、ただ応援することだけ》
「応援だあ?」
 非常に胡散臭そうに、ライアンは口元をひん曲げた。そのリアクションに《ヒーローにそんなに疑われるなんて、寂しいなあ》とダニエルがよよよと嘆く。

《ひとりひとりでは何も出来ない僕ら一般市民の希望の星、それがヒーローだ。君たちヒーローは僕らをひとりひとりの区別なく平等に守り、僕たちは平和を守るヒーローを愛し、一丸となって応援する。ヒーローと市民は、そういう関係がベストなあり方だろう?》

 ダニエルのその口ぶりは、精神的な志の説明というよりは、まるでとある生き物の生態を説明するような様子だった。
 その言い方から、ライアンは異種の生物が、お互いの足りない点を補い合いながら生活する共生現象を連想する。そしてそう考えるなら、ヒーローと市民の関係はそれが最も理想的な形であるのは確かだった。
 ヒーローは市民を守り、そして市民に支援され、応援されてこそヒーロー足り得る。

《僕たちも、かつては星を目指した。王様がそれを目指していたから》

 先導者がなくてはただ惑うばかりの民たちは、もしひとりひとりが疑問を持っていても、結局は先導者に従うしかできない。革命が起きることもあるが、それは革命者という新たなる先導者が現れたというだけのことだ。
 無力な羊が羊飼いを求めるように、民は常に先導者を求める。自分たちの代わりに道を切り開き、脅威から守り、何の心配もなく草を食めるようにしてくれる存在に彼らは従順についていく。

《でも、怖い王様はもう懲り懲り。優しいばっかりの聖女様じゃ頼りない。かといって、血塗れの英雄にはついていけない。そこでヒーローという存在、君たちが出てきて、僕らはこれだと今度こそ天啓を得た》
 ダニエルは腕を広げ、熱っぽく朗々と語った。それはステルスソルジャー推しの古参ヒーローファンとしてまったく普通の、例えば街のヒーローズ・バーなどでよく見る姿だったが、しかしライアンは胡散臭そうな顔のままだった。
《僕たちはもう、新しい星なんか欲していない。僕たちはこの星の大地に杖をついて、この星で生きることを決めた。チルチルとミチルのように》
「……“青い鳥”?」
《そう、その通り。そして僕たち杖の民はひとりひとりの力こそないが、数だけは多い。多数決なら圧勝だ。民主主義っていうのは、まさに僕らのためにある言葉さ》
 ダニエルは、目を細めた。

《僕たちは、僕たちに融合しようとする存在には寛容だ。でもそうでないものは苦手でね》
「ああん? 差別主義はいただけねえな。時代遅れだぜ」
《もちろん! 自分たちと違うものを排除しようというんじゃない。長い間様子を見た結果、彼らは根本的に我々とは違う。別々に暮らしたほうがお互いのためだというだけさ。差別じゃない、むしろ思い遣りだよ。彼らも出て行きたがってる》
「どこに?」
《もちろん、違う星にさ。確認もとってる》
「誰に?」
 その質問には、ダニエルは目を細めて笑みを浮かべるだけだった。

「……あんたは、ルーカス・マイヤーズの正体を知ってるのか? あいつの本当のバックは何だ? 星の民か? ウロボロスか? それともあんたたちか?」
《彼はどこにも属していない》

 ダニエルは、内緒話をするかのように静かに言った。
《彼は剣の民でも、星の民でもない。ましてや僕たち杖の民でもない。そして、彼はとうとうこの星に馴染めなかった。いるだろ、別にいじめられてるわけじゃないけどいつまでもクラスに馴染めない、不思議ちゃんの転校生》
「なあ、そろそろそのポエミィな比喩表現やめてくんねえ?」
《嘘をつくのは心苦しいだろ》
 つまり嘘をつかず、しかし真実をはぐらかすために遠回しな表現を用いているということかと、ライアンは正しく理解した。

《ゴールデンライアン。アスクレピオスホールディングスシュテルンビルト支部長、ヒーロー事業部部長としての最後の指示だ。市民を助け、事件の犯人を排除せよ》
「──言われなくても」

 困っている人々を助け、悪者をやっつける。
 それがヒーローの役割である。ライアンだけでなく、他の面々も大きく頷いていた。その様子に、ダニエルは今度こそ嬉しそうに微笑む。

《そう! それだから僕たちはヒーローが好きだよ。これからも全力で応援している!》
「そりゃどうも。……で、最後の指示ってのは──」
《あ、本社から連絡? すぐ行くよ》
「おい!」
《じゃあまた会おう、ゴールデンライアン。うちの新事業デビューだし、どうか彼のことはよろしく頼むよ。あ、ヒーロー事業部の総括は正式に君に委任したから、他の采配もサインひとつで色々できるようになってるよ。委任状はドミニオンズ経由で送っておいた》
「だから待てって」
《中継は観てるからねー!》

 ブツン、と音を立てて通信が切れた。
 すぐに再通信を試みるが、不在のガイダンスが流れるだけ。結局意味深なことばかり並べ立てて姿を消した胡散臭い上司に、ライアンは盛大な舌打ちをした。






「そちらの会社のことなので、とりあえず黙って見ていましたが……。それで、クラーク支部長の“差し入れ”って一体なんなんです?」

 うんともすんともいわなくなった通信機を前に呻いているライアンに、バーナビーが怪訝な表情で言う。するとライアンはひとつ大きなため息をついてから、バーナビーと、同じような表情になっているヒーローを見ずに口を開いた。
「見りゃわかる。……ったく、情報もそうだけど、どんだけ前から準備……いや、準備してたからってこんなすぐ実現できるもんでもねえだろこれ……ほんとどうなってんだ……」
 ライアンは難しい顔でぶつくさ言いながら、疑問符を浮かべているヒーローたちに向かって顎をしゃくり、ついてくるように示した。

「ねえ、どういうことなの? 差し入れって何?」
「差し入れっていうか……補助要員だ」
 ブルーローズの質問に、先頭を歩くライアンはドミニオンズから渡された資料をめくって読みながら答えた。
「補助要員ですって?」
「おう。……へえ、確かにこの能力ならあの地下室にも入り込めるな」
「あん? ……っておいおい、もしかしてその、地下室に入るために協力してくれる奴が派遣されてきたってことか!?」
 つい先程その案を出したロックバイソンが、素っ頓狂な声を出す。しかし彼だけでなく、他の面々も目を丸くしてライアンの後ろ姿を見ていた。何もわかっていなさそうな顔でいつもどおりなのは、彼の隣を歩くホワイトアンジェラだけだ。
「そーゆーこと。しかも、昨日の今日どころか今さっきのことだぞ? どんだけ情報が早いんだってのもあるし……どっかの地獄耳の神父でも雇ってんじゃねえだろうな……。そうじゃなきゃ、こういう展開になるのをバッチリ読んでたってことだ」
 他人の掌で踊らされるのが大嫌いな俺様ヒーローは忌々しそうにそう言い、隣を歩くホワイトアンジェラをちらりと見る。久々に話したことで、ライアンの中でダニエルの胡散臭さは既にとどまるところを知らない状態だが、不審者に対してどこの番犬よりも鼻が効くはずの彼女は警戒して吠えるどころか、相変わらずのほほんとしているだけだ。
 その反応に仕方なさそうにしたライアンは、また前を向いて電子端末に表示されている資料を持ち直す。

「しかも、寄越してきたのが“これ”だ」

 そう言って、ライアンはエレベーターの中で資料をバーナビーの手に渡した。受け取ったバーナビーはさっとそれに目を通し、手元を覗き込んできた他のヒーローらと共に驚愕の表情を浮かべる。
「これって──!!」
「おいおい、マジかよ!」
「本気!?」
 バーナビーらが口々にそう言い始めた瞬間、チン、とエレベーターが止まる。地下1階、R&Aのポーターやエンジェルチェイサーという、秘密性の高い車両を格納するための厳重な地下ガレージの入り口を、ヒーロースーツのマスクを開けたライアンは網膜の生体認証を使ってロック解除した。

 そこにあった光景は、異様なものだった。いつもガレージ中央を陣取っているR&Aのポーターとエンジェルチェイサーは壁際に寄せられ、そのかわり、無骨な装甲車が銃を持ち、防弾装備を纏った人々に囲まれている。
 ライアンが片手を上げると、彼らは一斉に銃を下ろして決まった姿勢を取った。
 彼らの装備や、彼らが囲っている装甲車──護送車に書かれたロゴは、シュテルンビルト郊外にあるNEXT専用刑務所のもの。

 そしてその護送車から、大仰なコンテナのようなものが運ばれてくる。コンテナのロックには、司法局の認可マークとともに“Villains”とデザインされたシンボルが溶接されてあった。
 特殊な装置を使ってスタッフがロックを解除し、中から現れたのは、ひとりの人物。自らを抱きしめるような姿勢になる拘束衣に、頭部すべてを覆う拘束メット。その全ては、ランドン・ウェブスターが開発した、100パーセントNEXT能力を通さないように設定した例の素材によるものだ。

「はっ。──法案認可後初のヴィランズ派遣先が、よりにもよって“ヒーロー”とはな」

 ライアンが言う。
 ダニエルが派遣してきたのは、この状況を打破する能力を持つNEXT。そしてそれは、現在受刑者として刑務所に収監されており、“ヴィランズ”として認可された人材だった。
 アスクレピオス系列の企業が運営する民間刑務所はそれなりに多く、その中には世界いち人道的な刑務所、ということで何度か賞も受賞している施設もあり、世界的に見ても低い再犯率を誇っている。だからこそ、皆が恐々として二の足を踏んでいるヴィランズ法案をビジネスチャンスとして、まだ競争相手のいないニッチ市場に乗り出すつもりなのだ、とライアンは簡単に解説した。
「……前から何度か思っていましたが、アスクレピオスは色々と大胆ですよね」
「まったくだ。何がどこにでもいる杖の民だよ」
 バーナビーのコメントに、ライアンが苦々しく返した。

「あーあー、これどうすんの? 公表すんの? 確かに大注目間違いなしだけど強烈な反対派も多いってのに、どんだけクレーム来んだよっていうか大論争間違いなしじゃん。アニエス女史にどう説明すんの? 誰が怒られんの? 俺が怒られんの?」
「大丈夫ですライアン、むしろご褒美ですよ!」
 両手で拳を握ったアンジェラが見当違いな励ましを送る。しかしライアンは「何も大丈夫じゃねえ」という当然の突っ込みを入れることもなく、頭を抱えてうーうー呻いているだけだ。

「……確かに、かなり、騒がれると思います。──でも」

 そう言ったのは、折紙サイクロンだった。
 ヒーロースーツのメットで、その表情は一切見えない。見えないがしかし、その震えた声から、彼が非常に気を昂ぶらせていることは全員に理解できた。

「彼は、絶対に力になってくれる。それに、絶対に裏切ったりしない。僕が保証します。──今度こそ」

 折り紙サイクロンは、拳を握りしめる。そして一歩踏み出し、拘束衣を解かれて素顔が顕になった“彼”を見上げた。

「そうだろ、エドワード……!」

 頭部のすべてを覆う無骨なメットの下から現れた赤褐色の目。獄中の親友──エドワード・ケディの強い光の宿った目を、折紙サイクロン、イワン・カレリンは、まっすぐに見つめた。
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BY 餡子郎
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