#168
「弟とは、元々疎遠だったんです」

 ふくよかで上品な中年女性──シュテルンビルト大学の教授であり、長寿教育番組『今日から使えるビジネス会話講座』の“ルーシー先生”として親しまれるルース・タムラ女史は、複雑な表情で言った。

 彼女の出身はシュテルンビルトではなく、コンチネンタルエリアである。
 ごく普通の家庭に生まれた彼女は、成績優秀な文学少女として育った。変わったことといえば、ティーンになった頃間もなく父親が病死し、翌年母親が再婚したこと。
 思春期真っ只中だった少女時代の彼女は、実父が存命中だった頃から交際していたという男性とすぐに再婚した母に反発し、もちろん新しい父親とも折り合いが悪かった。どれくらいかといえば、懐かないルースに継父が業を煮やし、伝手を頼って彼女を親戚筋に養子に出したほど。
 しかし幸い新しい保護者とは非常に良好な関係を築くことが出来たルースは、優秀な成績のおかげで不自由ない奨学金を得て遠いシュテルンビルト大学に進学を決め、すっかり実母たちとは疎遠になった。

「私が高校生になった頃、実母に子供、私の弟が生まれたという知らせが入りました。しかし母も再婚相手も高齢だったせいか──、弟は脳に重い障害を持っていました」

 しかし既に仕事をリタイアし財産にも余裕があった実母と継父、マイヤーズ夫妻は、余生をこの息子のために過ごすことを選んだ。
「あの子が生まれてすぐの時と、まだ10歳にならない位の頃に顔を見に行ったことがありますが、意思疎通が非常に難しい子でした。すぐにひどい癇癪を起こして暴れ、糞尿を撒き散らして叫びまわって。少しでも人間らしい所があるとはとても思えない様子でした」
 再婚した母と継父と折り合いが悪く養子にまで出された彼女は、普通よりも非常に手のかかる弟に振り回されて疲れ果てている老いた彼らに、更に気まずい思いをしただけだった。弟に、ほとんど追い出したようなものであるはずの姉の自分と似た名前がつけられていたことも複雑だった。

「結局、私は逃げるように大学に戻りました。せめてなるべく早く自立して、生活を安定させればこの胸の靄も晴れるだろうと、がむしゃらに頑張って……」
 そしてルースが助教授になった頃、実母とその再婚相手が事故で亡くなったという知らせを受け取った。急いで実家に戻った彼女を出迎えたのは、母が再婚してから引っ越したためほとんどいい思い出のない家と、大きくなった父親違いの弟だった。
「そりゃあ……もう……驚きましたよ」
 今でも信じられません、と彼女は困惑と恐れの滲んだ様子で言った。

「弟は、私の知っている弟ではなくなっていたのです」

 葬儀の終わった実家の庭に立っていたのは、高校生ぐらいの青年だった。
 大柄ではないが背筋の伸びた体躯に新品の喪服を纏い、くもりひとつない清潔な眼鏡をかけた顔立ちはルースが見ても非常に理知的で、自分の糞尿を撒き散らかし、奇声を上げて暴れまわっていた少年とは似ても似つかなかった。
「最初、私は母の再婚相手の連れ子か何かかと思ったのです。顔立ちも似ていましたし。しかし弁護士を交えた相続の手続きの時、DNA鑑定書を見せられました。彼は正真正銘、父親違いの私の弟……ルーカス・マイヤーズでした」
 脳に重い障害を持って生まれ、人間らしい所などまったくなかったはずの弟は、両親の葬式を見事に取り仕切り、完璧な挨拶周りをし、相続手続きなども手際良く終わらせた。
 聞けば、彼は既に飛び級をして大学院に在籍し、様々な成果を上げてさえいると聞かされた。亡くなったふたりからは何も聞いていなかった。非常に疎遠だった仲を思えば、不自然ではない。不自然ではないが──

 ──ルースお姉さん。

 機械のように正確な発音でそう呼ばれ、ルースは得体の知れない寒気を感じた。底のない穴を覗いたような気分になった。自分と彼が似た名前を持つこと、血の繋がりを示すようなそれがなんとも不気味で恐ろしかった、とルースは無意識に自分の腕をさすりながら言う。
「当時のことは、実のところよく覚えていません」
 ルースは当時最初の本が出版できたことで研究者としての立場を作りつつあり、結婚を考えていた男性──今の夫もいたため、両親の遺産をすべてルーカスに譲ることに同意した。
 彼らにほとんど捨てられたようなルースだったが、老いて体の弱った両親とずっと過ごしたのは彼であるし、不自由な体で生まれたルーカスから逃げるように距離を置き、姉として、人として、何ひとつ彼のために行動しなかった罪悪感もあったから、と彼女は重い声で付け加える。

「それから私は結婚し、数年後には息子を授かって、実家のことは……薄情な話ですが、私の中で過去の話になっていました。彼からも連絡はありませんでしたし」
 全く分野は違えども、お互いに研究者であるため、ほんの僅か風の噂にルーカス・マイヤーズの名前を聞くことはあった。しかも、稀代の天才として。
 しかし、結婚したことでルース・マイヤーズからルース・タムラになり、また本を出版し看板番組を持ってから“ルーシー”の愛称や“ルーシー先生”、あるいは息子からの“母さん”と呼ばれるようになったせいか、似た名前を持つ父親違いの弟に対し、特別な感情が生まれることもなくなった。
 縁が切れた存在だと、そう思っていたのだと彼女は言う。

「……私が彼にもっと親切にして、その人となりを把握していれば、こんなことにはならなかったでしょうか」
「そんなことはありませんよ。あなたがおっしゃるとおり、彼とあなたは縁が切れています」
 ただ私たちは、過去の情報を聞きたかっただけ。あなたに責任を問うつもりも、これからのことに関われと言っているわけでもない、とシスリー・ドナルドソン医師は丁寧に、しかし力強く言った。
「ありがとう……。そう仰っていただけると、気が楽になります」
 不安そうな表情のルース女史は、なんとか笑顔を浮かべる。

「なんとなく、今まで誰にも聞けなかったのだけれど、……ドナルドソン先生。先天的に脳に障害を……しかも相当重度のものを持って生まれた人間が、まともになるどころかあんなに天才的な研究者になるなんて、あり得るのでしょうか」
「……はっきりしたことは申し上げられません。しかし彼とそれなりに仕事をしていた私としても、彼がそんなに重い障害を持って生まれた人だとはとても信じられません」
「そうでしょう!? そうなのよ。おかしいの……、おかしいのよ……」
 ずっとそう思っていた、誰かに聞いてほしかったけれどなんだか恐ろしくて、と、ルース女史は肉付きのいい手を震わせながら、泣きそうな声で言った。

「母と継父は、事故で死んだと聞いています。でも、誰も目撃者はいなくて……本当に事故だったのかと……そんなことまで考えてしまって……でも、あの弟なら……別人のようになった弟なら……」
「タムラさん、落ち着いて」
「ああ、ごめんなさい」
 そっと肩に手を置かれたルース女史は、疲れ果てたような様子だった。
「……病気の父を抱えて心細くて恋人を作った母に理解も示せず、継父ともいい関係を築けずに追い出されて、……ついには障害を持った小さな弟を見捨てて逃げて、更にそんなことまで疑うなんて、私は……」
 ルース女史は、長年の澱みを吐き出すようにして、ほとんど独り言のように続けた。優秀なカウンセラーでもあるシスリー医師は、懺悔する彼女を静かに見守る。
 そしてその様子をじっと見ていたフリン刑事も、ルース女史がやがて落ち着いたと同時に、アナログな手帳に書きつける手を止めた。

「タムラさん、話を聞かせてくれてありがとう」
「いいえ、当然のことです。こんな事になってからで心苦しいですが、私も話せてよかった。刑事さん、他になにかお訊きになりたいことは?」
「質問には全て答えていただきました。充分です」

 シスリー医師が頷き、立ち上がる。
 意外な所で見つかった、ルーカス・マイヤーズの生い立ちを知る者への事情聴取を終えたふたりは、足早にアスクレピオスに戻っていった。










「……なんだ、こりゃあ」

 不可解。それをたっぷりと滲ませたワイルドタイガーの声が、下水道の淀んだ空気に沈んでいく。
 ネズミの糞だらけの下水道に残った足跡を辿っていったはいいものの、それは突然途切れていた。──行き止まりになっている、壁の前で。

「行き止まり……ですね。扉などは、どこにも?」
「……いや、ねえな」
 きょろきょろとライトを使って辺りをチェックするバーナビーに、ライアンが数秒ヒーロースーツを光らせて強く周囲を照らす。が、彼の言う通り、どこかに続いていそうな扉や通路などはどこにもなかった。
「この中に飛び込んだのでしょうか?」
「うっ……そ、それはさすがに……」
 明るくなったことでより鮮明に見える汚物の流れを指して言ったホワイトアンジェラに、バーナビーが怯んだ声を出す。他の全員も、全員がヒーロースーツの下で吐きそうな顔をしていた。
「仕掛け扉とかはどうでござるか? どこか押したらこう、ゴゴゴッと壁が開くとか」
 折紙サイクロンのその発言は忍者らしいといえば忍者らしかったが、見たところ壁は何の突起物も裂け目もない、単なるコンクリートの塗り壁である。
「いえ、この下水道はシスターから聞いた古い教会や地下室の時代からすると、ずっと後に作られたそうです。さすがにそんな大掛かりな仕掛けはないでしょう。作る意味もありませんし」
「まあ、そうでござるな。しかし壁、壁……」
 まだ周囲をチェックしつつも仕掛け扉の存在を否定したバーナビーに、折紙サイクロンはまたうーんと首をひねる。

「いや、仕掛けもあるかもしれねえけどさ。ここはNEXT能力なんじゃねえの?」

 ライアンのその言葉に、全員が振り返る。
「下水道の地図あるか? サンキュ」
 ヒーロースーツのシステム経由でデータを受け取ったライアンは、メット内部のディスプレイで、ブロンズステージの地上図と、今いる下水道の通路を重ねられる地図を眺めた。
「……この壁の向こう側、空白になってるな」
 ライアンが呟いた。彼の言う通り、今いる通路の壁の向こうは、地図上では何もないことを表すブランク・スペースになっている。
「もしジュニア君の言う通り、そこかしこに地下通路だの地下室だのがあるとしたら、……例えば壁を抜けられるようなNEXT能力があれば」
「なるほど! さすがライアンです!」
「いや想像だけどな、あくまで」
 ホワイトアンジェラの絶賛を軽く流して、ライアンは肩をすくめた。

「ん? でも、ここはメトロが通ってるはずだぞ」
「あっ、そうですね。キャメルストリート駅の東側のはずです」
 スーツ内ディスプレイで同じ地図を見ていたワイルドタイガーにホワイトアンジェラが同意したその時、壁の向こうで轟音が通り過ぎた。
「ほらな」
 ワイルドタイガーが、肩をすくめる。
 シュテルンビルトの地理と交通機関に詳しく、更に片やワイヤーアクション、片や車両類の運転で培った空間把握能力に長けた彼らは、地図を見ただけでこの複雑な地下と地上の位置も把握できるらしい。

「つーことは、この壁の向こうはメトロの線路?」
「いえ、これはあくまで下水道の地図ですから。それに同じ地下だからといって、深さも同じではないでしょう」
 ワイルドタイガーの言葉を、バーナビーがやんわりと否定した。最低でも時速60km、最高速度で時速120kmのスピードで走るメトロは、地下水道よりもっと深いところを走っているはずだ、と。そして確かに、今聞こえた音は壁を通しているとはいえ遠いものであった。
「確かに、この地下道よりメトロはもっと深いはず……キャメルストリート駅であれば……」
「うーん、ホームまでならゴールドのビルで15階ぶんぐらいの深さだろ」
「あ、そのぐらいですか?」
「西口は駅ビルの中から入るからよくわかんねえけど、東口のほうは小さい階段から入るだろ? そこから見てさ」
「ああなるほど。わかります」
「わかんねえよ」
 空間把握能力に長けすぎているためか、完全に主観的な表現で頷き合っているホワイトアンジェラとワイルドタイガーのふたりに、ライアンが半目になって言う。
「なにげにすごい特技でござるなあ」
「ええ……」
 感心した様子で頷く折紙サイクロンに、バーナビーも頷き返した。
 虎徹の空間把握能力は本当に優れていて、目測なども得意なことを彼は知っている。メジャーできちんと測ったわけでもないのに、部屋の隙間に合わせた棚を日曜大工で作ったりもするのだ。
 ただ、そうしてそこそこうまくいってしまうばかりに彼はいつまでたってもきちんと計測するということをしないし、目測は目測なので数ミリの誤差は出るため、いつも不格好な詰め物などをするはめになるのだが。

「しかし……。そうか、メトロ。もし犯人が地下を通路として使っていて──そしてライアンの言うように壁抜けのようなことが出来るなら、下水道だけでなくあらゆる地下施設が移動ルートになり得る」

 バーナビーが、自分の中の情報を整理するように言った。
「アンドロイドが出現した時間帯は、夜中も多いでござる。メトロの地下道や地下のショッピングモールなどは入口が閉鎖されて無人になるでござるゆえ、人目のない移動通路として使うのならば格好の手段にもなるでござるな」
「確かに。その時間帯でも防犯カメラ動いてんのかね。問い合わせてみるか」
 折紙サイクロンの意見に、ライアンも頷く。

「ああ? 悠長にそんなことしなくっても、すぐにこの壁いっちょぶち壊せば──」
「ちょっと! やめてください、そんな軽率に!」
 ぐるぐると腕を回し、ワイルドタイガーがハンドレットパワーを発動させようとする。相変わらずの壊し屋っぷりを発揮しかけた彼を、バーナビーが慌てて止めた。
「だってよ、壁の向こうに何かあるのは間違いねえだろ、これは!」
「そうかもしれませんが──」
「最初の行方不明者から、もう何日経ってると思ってんだ!? 少しでも早く助け出さねえと……!」
「それは僕だって思っています!」
 焦燥感の濃い虎徹の言葉に、バーナビーも強く反論、いや同意した。

「しかし、説明したでしょう! ブロンズステージの地下は、不明な空洞がいくつもあります。専門家でも徹底的な調査とシミュレーションを重ねて工事を始めるのに、いきなり力技で穴なんか空けて地盤沈下が起こったらどうするんです!? ブロンズだけじゃない、上にはシルバーとゴールドもあるんですよ!」
「うぐっ……」
 至極もっともな意見に、虎徹は唸る。しかし今回ばかりは反論が見当たらないのか、やがてがっくりと肩を落とした。

「……ま、おっさんが焦る気持ちはわかるけどな」
「足跡のことだけでも収穫でござる。一旦地上に戻って、専門家の指示を仰いだほうが」
「ああ。ま、“ゆっくり急げ”ってこった」
 冷静になるべき、とライアンと折紙サイクロンも頷き合う。
「ここまで来といて、また引き返すのかよ……」
 虎徹が、ぶつくさ言う。そんな彼をまあまあと宥めていると、今度はアニエスからの通信がオンラインになった。

《ちょっといい? スカイハイたちのチームのほうなんだけど》

 アニエスはいつもどおりテキパキと切り出し、もうひとつのチームで起こった事象について、映像データを交えながら説明した。
《……というわけなの。まったく、汚物映像を避けたらホラー映像を映すことになって、今からクレーム対応が憂鬱だわ》
「ホラー映像って、そんな馬鹿馬鹿しい」
《スカイハイたちはオバケだなんだって大騒ぎしてるけど》
 “おばけ”という単語に、アンジェラがびくっと肩を揺らす。

「おいおい、……ん? ちょっと待て。さっきの映像もっかいくれ。できれば神父の顔のとこアップで」
 ライアンが言い、中継車にいるスイッチャーのメアリーが、素早く彼に神父の静止映像を数点送信する。アップになったその顔をじっと見たライアンは、やがて眉を顰めた。
「……おい、これ見ろ。見覚えないか? アンジェラにも同じの送ってくれ」
「お、おばけを見るのですか?」
「オバケじゃねーっての」
 彼の指示通り、ホワイトアンジェラは自分のメット内ディスプレイに送られてきた映像に目を通す。そしておっかなびっくりそれを見ていた彼女は、数秒後「あっ」と声を上げた。

「……これ、二丁拳銃のジジイの嫁さん役だった婆さんじゃねえか?」
「本当です! 声が同じです!」
《なんですって!?》
「ドミニオンズ、警察から預かってるドラレコの映像くれ」
 ライアンが指示したとおり、映像が送られてくる。マンションのロビーで銃撃戦を行った二丁拳銃の老人を移送中現れた、彼の妻を装っていたと思われる老女の映像である。同じものが、ワイルドタイガーとバーナビー、折紙サイクロンのディスプレイにも表示された。
「……同じ顔、ですね」
 バーナビーが頷く。「ジジババになると、男か女かよくわかんなくなるからなあ」と、虎徹が唸りながら言った。
「も、盲点。言われなければ気づかなかったでござるよ……」
「ヒトの顔覚えるのは得意なもんでね」
「私も、音や声を覚えるのは得意です!」
 感嘆する折紙サイクロンに、ライアンは肩をすくめ、ホワイトアンジェラは胸を張った。

「でも、これで可能性が更に高まったんじゃねえか? もしこの爺さんだか婆さんだかが壁抜けNEXTなら、色々と説明がつく」

 ──ガブリエラの部屋への、あまりにも簡単な侵入。
 ──密室である車内への、いきなりの出現。
 ──壁の前で消えた足跡。
 ──目を離した隙に、行き止まりの地下室で姿を消すという現象。
 ──男物でありながら、妙にサイズの小さい靴跡。

「マンションの住人同士の人付き合いは希薄だったし、“古い教会”の人間も周りとは全然交流してないって話だったろ。爺さん神父と老夫婦の片割れの婆さん、二重生活を送るのは難しくねえ」
「確かに」
 以前の捜査に同行していた折紙サイクロンが頷く。
「アンドロイドの足跡も一緒に壁の前で消えてて被害者も消えてるところからして、自分だけじゃなく同行者も壁の向こうに移動できる能力ってことになる」
 さらさらと答えを出していくライアンに、皆が息を飲みつつ頷く。
「あとは、地下道の有無だな。その教会の地下室の壁の向こうも調べれば、何かわかるんじゃねえか? もちろん教会の中の遺留品や、神父だか婆さんだかが消えた地下室もだ」
《了解。……それにしても、あなた捜査に関しても有能ねえ。前もすごい視聴率だったし、ゴールデンライアンの捜査ドキュメンタリー、継続的にやるのもいいんじゃない? この企画どう?》
 敏腕プロデューサーの言葉に、ライアンは片眉を上げただけだった。

「ぶわっ!!」

 マンホールから出てきた途端、バシュウウウウウ!! という凄まじい噴射音とともに吹き付けられた白い粉に、ワイルドタイガーが声を上げた。
 彼に続いて続々と出てきたヒーローたちも、余すところなく粉まみれにされる。下水道をうろついたヒーロースーツを滅菌し、防疫するための白い粉はぴったりと対象に吸着するようになっていて、5人はあっという間に真っ白になった。
 塗装前のプラモデルのようになった5人は、もこもこの防護服を着たアスクレピオスのスタッフに促され、特別な防護膜を空気で膨らませて作られた、簡易プールのようなものに入れられた。そして、工事現場で用いるような巨大なタンク車からこれでもかと消毒液を浴びせられ、粉を洗い流される。マンホールに流れていく排水を見て、「あの中も全部消毒してしまえばいいのに」とバーナビーが苦々しい声で呟いた。

 結局、ここでいったんヒーローたちによる捜査は切り上げということになった。
 他のマンホールの調査は警察に委ねられることが決まり、防護服を着用した捜査員たちが、これからアンドロイド出現箇所周辺のマンホールを調査することになる。
 この仕事の精神的なきつさをこれでもかと思い知ったヒーローたちは、同じ思いをすることになる捜査員たちに大いに同情しつつ、捜査本部であるアスクレピオスに戻っていった。






「……それで、これから何をどうすんだ?」

 ホットドックを頬張りながら、虎徹が言う。
 地下水道探索と、古い教会への訪問。
 どちらも相当の収穫が得られる結果となったが、その後も休んでいる訳にはいかない。地下水道の探索は警察に任せるとして、より重要なのは教会の地下室である。
 ヒーローたちはともにテーブルを囲み、これからの行動におけるミーティングを兼ね、エネルギー補給のために食事を掻き込んでいた。
 イワンとバーナビーはあの光景の後に食事をするのは無理だと青い顔で言い、あえてケミカルなカロリー補給ゼリーのパックを口にし、教会に行ったチームはやたら明るい場所に行きたがり、「温かいものが食べたい」と湯気の立つ料理をこぞって注文していた。

「まずは教会組が行った、あの地下室の壁の向こうを調べさせてる」
 ライアンが言った。
「あの壁抜けバアさんだかジイさんだかが暗躍してたんなら、あの黒焦げの部屋の壁を抜けて、その向こうの何らかの通路から逃げたってのはじゅうぶんあり得る。そして、それが誘拐された市民が捕まってる場所につながってるって可能性もな」
 いよいよだな、と、事件が大きく進展しそうな予感に、ヒーローたちは気を引き締める。

「地下についてバーナビーさんたちが話を聞きに行った専門家、またメトロ生き埋め事件の時に活躍したソナーのNEXT能力者にも協力を依頼し、壁の向こうに空洞が見つかり、可能であればすぐに穴を開けてその向こうを調査する、ということになっております」
「オーケー。警察と司法局ともちゃんと協力体制取れよ」
 ボリュームたっぷりのハンバーガーを片手に、もう片方の手でぱちんと指を鳴らして命じたライアンに、ドミニオンズの職員は背筋を伸ばして敬礼すると、きびきびと持ち場に戻っていった。

「……頼りになりますね。こういう調査チームが直接いるというのは」
 カロリー補給ゼリーを片手に、バーナビーが言う。
「おう。しかもめちゃくちゃ有能だからな」
「それなのですが、すっかりあなたが直接彼らを指示していますけど……、クラーク支部長は今どこに? かなり長く姿がないようですが」
「ああ、それな……」
 ライアンは、咀嚼したバーガーを飲み込んだ。
「アンジェラが撃たれてすぐ、その件で呼び出されたとかで本社に行ってからずっと戻ってねえよ。……秘書のトーマス・ベンジャミンも、一緒に行ってそのままだ」
 アスクレピオス支社そのものの運営は副支部長もいるし、元々ヒーロー事業部とは別チームだ。そして支部長でありヒーロー事業部の責任者であるダニエルが不在時の今、アドバイザーのライアン・ゴールドスミスにヒーロー事業部の全権が委任されることになるというのが元々の契約である。
 でなきゃここまでワンマンで動かしたり謹慎命令出したり出来ねえよ、というライアンの説明に、全員が頷いた。

「アンジェロ神父によると、“杖の民”という組織の重役とのことですが……」
「そう、それも含めて怪しいつったらめちゃくちゃ怪しくはあるんだけどさあ」
「大丈夫! おふたりともいい人ですよ!」
「……ってコイツが言うもんで」
 はきはきと言い切ったガブリエラを、ライアンが親指で示す。
 彼女の意見だけで彼らを放置するのもどうかと思うが、ライアンを筆頭にして彼女の“人を見る目”のクオリティを思い知っている一同は、納得しているわけではないがとりあえず頷いた。
「クラークさんはいい人ですし、ベンジャミンさんもそうです。ベンジャミンさんは少し親近感を感じます」
「親近感? なんの?」
「わかりません!」
 例によって野生の勘らしいその回答に、質問した虎徹は半目の半笑いになり、「あ、そう……」とそれ以上の追求はしなかった。「ドM仲間とかかぁ?」とライアンが軽口を叩く。

「しかし、皆さんに指示するライアンはとても格好いいです! 皆さんも、ライアンの指示は的確で判断も速いのでとてもやりがいがあると仰っていました!」
「確かに、ライアンさんは人の上に立つ感じが似合いますね。実際すごく成果を上げていますし……」
 食事を頬張りながらにこにこと言うそれはガブリエラのいつものライアン賛美ではあったが、事実でもある。イワンがそうして同意したので、ガブリエラはなお一層にこにこした。
 そしてその評価に、ライアンはノーコメントながら口の端に笑みを浮かべた。なぜなら、今回こうして有能なチームを直接動かし、色々な人間に働きかけ、捜査から自分で全てやるという経験は、ライアンにとっても非常にやりがいがあり、今までのどんな事件よりも興奮することだったからだ。

 ヒーローという職業とポジションは現場主義のものであり、犯人を追いかけて捕まえる、スピード勝負の鬼ごっこがその仕事だ。アドレナリンの奔流の中で行われるそれももちろんやりがいがあるがしかし、肉体だけでなく頭脳もフル回転する必要がある今回のやり方は、ライアンにとって新鮮で、そして何より自分にとても合っているような感触があった。
「……ま、今回だけだしな。こんなのは」
 捜査は本来、ヒーローの仕事ではない。今回は例外的にそれが覆されているが、こんな経験は今回だけだと、ライアンはバーガーを食べきった。

「ゴールデンライアン。あ、ヒーローの皆さんも。お客様です」

 アスクレピオスのスタッフが告げたそれに、ヒーローたちが顔を上げる。
 プシュ、と音を立てる油圧式の自動ドアの向こうから現れたのは、長身痩躯にスーツを纏い、相変わらず顔色の悪い男性。シュテルンビルト司法局裁判官にしてヒーロー管理官、ユーリ・ペトロフである。
「裁判官さんじゃないですか! どうしたんです?」
 虎徹が、椅子から中途半端に腰を上げて言う。
 ユーリは彼を含めヒーローたち全員の顔を見渡してから、ひと呼吸置いた。

「一般告知はまだですが、ご報告に」

 そうしてユーリが告げた内容に、ヒーローたちは目を見開いた。










「おお〜!! 来た、来た、来たよ!」

 立派な椅子から飛び上がりながら、ダニエル・クラークは弾んだ声を上げた。
 彼が見ているのは、シュテルンビルトにいる部下──“杖の民”でもある者からの報告書。『ヴィランズ法案』がシュテルンビルト司法局にて可決された、というのがその内容だった。

「あ、シュテルンも認可出たんですか」
「そうとも! いよいよ君たちの出番というわけだ!」

 緩い声を上げるトーマス・ベンジャミンに対し、ダニエルが笑顔で振り向く。
 一般告知はまだ先である、ということも添えられたこの情報がダニエルの元に届けられているのは、杖の民がどこにでもいるという証明でもある。
 杖の民は、何の変哲もない一般市民である。自分が杖を持つ者であるという自覚があるダニエルのような上層部から、自分が杖の先にされている自覚のない者まで様々だ。
 杖の末端の者たちは、自分が上げた報告書が本当はどこに提出されるのかを知らない。そしてそのルートの全てはどこから見ても違法性のない正常なものであり、探られて痛くなるような腹は誰も持っていない。
 ひとりひとりは、特別な能力を何も持たない、どこにでも溶け込める一般人。その他大勢のオーディエンス。そんな立場で、隠れず、普通であり、無個性だからこそ、杖の民は誰にも見つからないまま無害な羊の群れとしてただ草を食み、ここまで平和に生き残ってこれた。

 お互いがお互いを受け入れているようで無視していて、しかし結果的にひとつに溶け込んだ集団。上下の支配関係があるわけでもなく、組織でありながら組織ではなく、確固たる目的も持たず、誰も責任を持たず、ただ食べて生き続けることを望む漠然とした集団意識。
 まるで単細胞生物から成る群体生物のようなこのあり方こそが、かの天使が望んだ姿でもあった。

「はあ、そりゃ、会社的にはビジネスチャンスですけど。杖の民が大舞台に出ていいんです?」
「微妙なところだね。でも、今回はお姫様からのお願いがあるから」
「お願い?」
「……“ネフィリム”を救ってほしい、と」

 ネフィリム。シュテルンビルトの地下に囚われ時代に取り残された、哀れな者たち。
 皮肉にも、杖の民とは正反対に、ひとりひとりが特別な力を持つがゆえに誰にも受け入れられることなく、ひどく迫害され、排斥され、消えていったと思われていた人々。
 彼らが未だシュテルンビルトの地下にいたということを知って、彼女、天使はひどく心を痛めた。そして、自分に責任があると認め、さらには、始末をつけねばならないとも言った。

「リリアーナからも“パパなんとかしてあげて”って言われちゃって。可愛い娘からお願いされたら、聞かないわけにはいかないよ」
「はあそうですか」
 部下のどうでもよさそうな相槌も気にせず、ダニエルは現場から上がってきている報告書を読み、ふむふむ、と頷いた。

「なるほど。この状況なら、トップバッターは彼かな」
「まあ能力的にピッタリっすね。まだシュテルンにいるはずだし」
「よーし! 総員準備したまえ! 新事業のデビュー告知イベントにもなるんだ、派手な登場を頼むよ」
「ういーす、手配しまーす」
「君も用意はしておきなさい」
「へ? 俺も?」
 ぽかんとした彼に、ダニエルはふふんと少年のような笑みを浮かべた。
「君もそろそろ裏方に飽きてきた頃では?」
「……裏で暗躍するのも結構楽しいですけどね」
「あれ? 重度のスリル中毒の君のことだから、さぞうずうずして飛び出す機会を伺ってるものだとばかり」
「否定はしませんけどねえ。大勢がバタバタ大騒ぎのパニック起こしてる裏で、何もかも知ってて悠々行動するってのもゾクゾクきてなかなかオツっていうか」
「趣味が悪いなあ」
 労働環境に不満がないのなら何よりだが、と拍子抜けした様子でダニエルが言う。

 しかし結局、敏腕秘書はふと思案するように宙に視線を飛ばし、やがてにやりと口の端を吊り上げた。

「でも、ま、確かに。自分の能力をさんざん勝手に使われたってのには、結構頭にきてるとこですし」

 久々に、“表”に出るのも楽しそうだ。
 そう言って、彼は分厚い色付き眼鏡を指先で浮かせる。その下にあった目は、煌々と水色に輝いていた。
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BY 餡子郎
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