※食事中の方は気分が悪くなるだろう描写があります。
「うわあ。汚いですね!」
「こ〜りゃひでえな。病気とか大丈夫かあ?」
下水道に響くホワイトアンジェラの声と、嫌そうなワイルドタイガーの声。
しかし比較的元気なのは彼らだけで、同行しているバーナビー、ライアン、折紙サイクロンは心の底からげんなりしていた。特に潔癖症のきらいがあるバーナビーなど、卒倒しそうである。
「まだ浄化槽に着く前の汚水でござるから、病原菌には本当に気をつけて。スーツを防疫仕様にしてきてはおりますが、決して触らないように」
「頼まれたって触らねえよ」
折紙サイクロンの忠告に、ライアンは重苦しい声で答えた。
地下の探索を、ヒーローたちは手分けして行うことになった。
最初は全員で行う予定だったのだが、事前調査の結果、地下での活動が難しいヒーローがいることがわかった。
まず狭い下水道では身動きの取りにくい巨体であるロックバイソン。
更に、その能力が地下に向かないスカイハイ。彼がもし地下でいつもと同じ風の能力を使った場合、気圧の関係でブロンズステージ各所のマンホールが吹っ飛び、また下水の悪臭や汚物が地上に噴出してしまうためだ。
同じく、密室で炎の能力を使うと自身も危険であるファイヤーエンブレム。そして浄化前の下水道という、汚物と病原菌に溢れた密閉空間で、防疫の役目をまったく果たさないヒーロースーツであるブルーローズとドラゴンキッド。
そんなわけで、結局地下に潜れるのは、まずそれぞれのヒーロースーツ担当技術者が少々手を加えれば防護服にもなるフル装甲タイプのスーツで、地下でも問題なく能力を使うことが出来る5人の面々。つまりワイルドタイガーとバーナビー、ゴールデンライアンとホワイトアンジェラの2ペアと、折紙サイクロンであった。
ホワイトアンジェラは最初待機になる予定であったが、拉致された市民を発見した場合速やかに回復できるように、という理由で今回同行してきている。
彼らは今、アンドロイドが現れたとされるマンホールから地下に降り、犯人の足跡、また拉致された市民の行方を探ろうとしていた。
「メットを防臭仕様にしてもらってほんと助かった……ニオイがわかってたらまずそれで大ダメージだろ、これ」
「同感でござる……」
汚水の中に汚物がゆっくりと流れている、見ただけでも吐き気を催すような光景をマスク越しに確認し、ライアンと折紙サイクロンはげんなりと言った。
「んーじゃ行くかァ。通路が狭いから1列な。俺のスーツがイチバン頑丈だって斎藤さんが言ってたんで、俺が先頭行くぞ」
ワイルドタイガーが、頼もしく胸を叩く。そして、頭にベルトで付けるタイプの懐中電灯をヒーロースーツの上から装着した。防疫機能を徹底する余り、照明機能は間に合わなかったらしい。
「しっかし、暗いな。俺も光らせるか? エネルギー食うけど」
ライアンがぼやいた。ゴールデンライアンのスーツは、以前からギミックのひとつとして、羽部分などについたクリアパーツが光るようになっている。T&Bのグッドラックモードと同じく、本来は見た目だけの機能だ。
ホワイトアンジェラの白いスーツが暗所で蛍光に光る仕様なので真っ暗ではないのだが、この汚物まみれの空間で足元が頼りないのはなんとも不安である。
「あっ、大丈夫です! 照明チップを頂いてきました」
すると、ホワイトアンジェラが手を上げた。そして手に持っていたケースを開け、5センチ程度の小さな棒を取り出す。
チャンスを与えられて張り切っている上、ホワイトアンジェラに対して更に過保護になっているアスクレピオスヒーロー事業部スタッフは、下水に行くことになった彼女に、様々な装備を用意した。
元々介護用スーツを参考に作られたホワイトアンジェラのスーツは防疫に関する防護性能も非常に高いが、今回は口元まできっちり覆う特別仕様のメットになっている。この汚れた空間でも、快適に呼吸が出来る素晴らしい性能だ。
そして照明のない地下ということで、いつものクリアパーツは蛍光を発するように換装され、ぼんやりと光っている。更に後ろに背負った特別性のバックパックには、他にも色々な装備が収納されているらしい。
「これをこう、パキッと折ってですね」
「ほうほう」
さっそく飛び出したアスクレピオスの秘密道具を折紙サイクロンが受け取り、言われたとおりにする。すると、棒が煌々と光った。間接照明よりは強く、半径1メートルくらいは照らしそうな明かりだった。
「おおっ!」
「数メートルごとに投げておけば、目印にも明かりにもなります」
「なるほど。ではさっそく」
薄ぼんやりしか見えない暗闇で、折紙サイクロンは下水が流れている向こう岸に向かって、照明チップを軽く投げた。
向こう岸が、明るくなる。そしてそれと同時に、そこにあるものが明らかになった。
「──う、わああああああああああ!!」
今までじっと無言だったバーナビーが、絶叫する。照明チップの光を反射したのは、無数の2対の目。そこらじゅうにみっしりと密集した、巨大なドブネズミの群れであった。
キシャアアアア!!
突然の明かりにか、それともバーナビーの絶叫にか。とにかく驚いたらしいドブネズミの群れが何かを引っ掻くような鳴き声を上げて、一斉に猛スピードで走り出す。暗いせいですべてを見ることはできなかったが、凄まじい数が通路だけでなく壁にも縦横無尽に走っていったのが気配でわかった。
「うわ、ああああ、ああああああ!!」
「ぎゃあああ! ひいいいいいいいいい!!」
それにバーナビーがまた絶叫し、明かりを投げた折紙サイクロンが悲鳴を上げる。ワイルドタイガーは「うわあ」と呟き、ライアンは硬直していた。
「放置してもゴミにならないバイオ還元仕様だそうです」
唯一、ドブネズミ軍団に対して特に何もコメントせず、ホワイトアンジェラが平然と言う。
《……Bonjour, HERO. ちょっといいかしら》
アニエスの静かな声に、一部既にぐったりしているヒーローたちが反応する。
《そっちの映像はしばらく放送しないわ。何か起こったら知らせてちょうだい》
「ハァ!?」
ワイルドタイガーが、素っ頓狂な声を出す。
《事件に関連するグロ映像ならともかく汚物にドブネズミって、画が悪すぎるでしょ。視聴率をこれ以上低迷させたくないの。じゃあよろしくね》
無情に通信を切った敏腕プロデューサーに、ヒーローたちは無言になった。HERO TVのカメラとの接続が切れたことを表すアイコンが、それぞれのスーツの内部ディスプレイの端に点滅する。ヂュウウウ、という巨大なドブネズミの濁った声が響いた。
「……帰りたい」
「おいコラジュニア君」
ぼそりと、しかし心底からという声色で呟いたバーナビーに、ライアンが突っ込みを入れる。お前が地下探索するって言ったんだろうが、と彼は言ったが、バーナビーは無言だった。
「何もせず帰ったらアニエスさんに怒られますよ、バーナビーさん! 行きましょう」
「これ以上ない正論でござるな……」
この状況でも元気なホワイトアンジェラに、折紙サイクロンが力なく同意する。
「ここまで汚いと思ってなかったんですよ! な、なんでここまで汚いんですか!? 疫病とか、危ないでしょう! 一刻も早く全て! 徹底的に! 清掃すべきです!」
「そんなこと今言ったってさあ……」
がくがくとライアンを揺さぶりながら、バーナビーが言う。しかし先頭の虎徹は「バニー、我慢しろー。じゃあ行くぞ」と容赦なく言い、さっさと歩き出した。後ろにホワイトアンジェラが続き、肩を落とした折紙サイクロンが続く。
さくさくと歩いていく相棒と年下ヒーローの姿と、ライアンに「行こうぜ」と説得されたことにより。バーナビーは暗いものを背負いながら渋々と歩き出した。
「な〜んか道もべちゃべちゃすんなあ。へばりついてんの、なんだこれ」
「ネズミの糞の塊ですね」
「帰りたい!!」
しかし先頭ふたりの会話が耳に届き、バーナビーはまたワッと絶叫した。
「──あ! でも、ほら! 足跡がありますよ!」
折紙サイクロンが言ったそれに、全員が足元を見る。
おそらく長年積み重なってきたネズミの糞や汚物のヘドロに、今ここに来た彼らのものではない足跡がある。靴跡ではない特徴的なそれは、明らかにあのアンドロイドのものだった。
「やっぱり地下か! 無駄足じゃなかったな!」
パン、と手を叩いて、虎徹が喜色の篭った声を上げる。さっそくアニエスに報告したが、《わかったわ。情報だけ流すから、決定的なものが見つかったらまた連絡して》という返答だった。汚物まみれの画を流すには、まだネタが弱いらしい。
「……靴跡もあるな」
ライアンが言ったとおり、アンドロイドの足跡以外にも、明らかに人間の靴跡もある。彼が示した靴跡を見て、バーナビーが頷いた。
「形からして男物、のようですが……サイズが小さいですね」
「ああ、ちょっと珍しいサイズだな。警察の鑑識、パワーズに画像送信。解析してくれ」
ヒーロースーツのシステムを使い、ライアンが情報を送信する。すぐさま、《了解》とそれぞれの送信先から返答があった。
「よっしゃあ! 足跡辿って行くぞ!」
ワイルドタイガーの掛け声に、今度こそ全員が声を合わせ、強い返事をした。
そうして、バーナビーたちが下水を探索している頃。
地上に残った面々の役目は、またアンドロイドが出てきたら殲滅すること。そして、例の神父もどき3人が通っていた古い教会を訪問し、地下室、あるいは地下に繋がる階段などがないかどうか調べることだった。
ちなみにブロンズステージのマンホールにはそれぞれ出来得る限り警察官たちが配備され、アンドロイドの出入りがないかチェックしている。
「よし、それでは行こう」
スカイハイが、静かに言った。
ロックバイソン、ファイヤーエンブレム、ブルーローズとドラゴンキッドもそれに頷き、彼に続く。地下探索組と同じく彼らもスーツに小型カメラを搭載しているが、まだ地上であるため、後ろにカメラを構えたオーランドが追従した。
「ごめんください。すまない、誰かいないだろうか!」
重厚な扉をどんどんと叩きながら、スカイハイが言う。声はよく通り大きいが、あくまで礼儀正しい声掛けをするスカイハイに、ロックバイソンが少し肩透かしを食らったようなリアクションをする。
「バーンと突入するわけじゃねえのか」
「まだ犯人と決まったわけじゃないでしょ。乱暴ねえ」
「うぐっ……。す、すまねえ。がっちりドアが閉まってるんで、つい構えちまって」
呆れた様子のファイヤーエンブレムに、ロックバイソンは気まずそうにした。
「でも確かに、バーナビーが聞いてきたとおり閉鎖的な感じね。うちの近所の教会はいつも門が開いてて、お花が植えてあったり、明るくて入りやすい雰囲気なのに」
「そうだね。あっほんとだ、ステンドグラスがない……」
ブルーローズのコメントに、ドラゴンキッドが教会を見上げながらそう返した。
教会は質素で暗く、だが重厚だった。十字架は門の脇の柱に小さくひっそりと彫り込まれているだけで、一見教会であることすらわからない。
古い大きな扉は近代的なインターホンどころかノッカーもついておらず、そのためスカイハイは拳でそこを叩いていた。
「……どちらさまでしょう」
突然、声がした。落ち着いているというよりは、暗く重い老人の声。
全員驚いたがよく見れば、扉には大人の腰あたりの部分に、金属で枠を補強された窓らしきものがある。覗き込むと不格好になる場所のため、ためらいなくしゃがみこむのは少し憚られるような作りだ。
「ヒーローの、スカイハイという者だ。仲間たちもいる。こちらの教会と、ここに通っていた人々のことについて訪ねたいことがあって訪問させてもらった」
話を聞かせてもらえないだろうか、と、スカイハイは丁寧、かつ嫌味っぽさの欠片もなく、穏やかに頼んだ。ヒーロースーツのシルエットのせいもあるかもしれないが、スカイハイの出で立ちこそ神父っぽいなあ、と同行している全員が思ったその時、ぴろりん、と近代的な電子音がした。
「こちらからどうぞ」
「あれ?」
教会を囲む高い塀の角から、カソックを着た小柄な老神父が手招きをしていた。
「……まあ、あるわよね。勝手口くらい」
ファイヤーエンブレムが、ぼそりと言った。
全員でそそくさとそちらに向かうと、後から塀に穴を空けて作り付けたらしい、郵便ポストや呼び出しブザーのついた、電子ロック式の玄関を開けた老神父が立っている。
「すみませんね。あの扉は古くて重いので、もう開閉していないのです」
「い、いや、こちらこそ申し訳ない……」
普通に出迎えてきてくれた老神父に気まずげに恐縮しつつ、一行は教会に招かれた。
「こちらに出入りしていた、神父の格好をした3人について聞きたい。彼らがここに出入りしていたという目撃情報がある。確かだろうか」
「ええ、はい。この3人なら、確かにここに度々いらっしゃいましたよ」
3人の写真を見せてスカイハイが尋ねると、老神父はあっさりと頷いた。
「そうか。しかし◯◯教総本山に問い合わせた所、彼らとこの教会は◯◯教とは無関係の人間であるという正式な書面が返送されてきたんだが──」
「ここは総本山とは縁が切れておりますので」
「え」
ライアンから預かった“セラフィムの輝き”の紋章入りの書面を緊張気味に出したスカイハイは、それをよく見もしないうちから淡々と言った老神父に、またも出鼻をくじかれた。他の面々も、目を丸くして絶句している。
「ああ、ああ。本当に“セラフィムの輝き”の紋章ですね。わかってはいますが、本当に見放されているのだと実感いたしますな」
「……見放されている?」
スカイハイが広げた書面を見た老神父のしみじみとした深い声に、スカイハイは怪訝そうにした。老神父は、ゆったりと頷く。
「ええ。ご存じないでしょうが」
「……不勉強で申し訳ない。事情があるなら教えて貰ってもいいだろうか」
「構いませんよ」
老神父は、やはりあっさりと頷いた。
「このシュテルンビルト、ブロンズステージには、新しい教会と、当方のような古い教会があります」
「ああ、そこは知っているよ」
スカイハイは、バーナビーから聞いた話を要約して伝えた。すると、老神父はうんと頷く。
「そのとおりです。いや、それを知っている人も珍しいですが」
そう言って、老神父は祭壇の上にある、星の付いた十字架を見上げた。
その祭壇もまたシンプルで、飾りのようなものは何もない。いや、教会全体が、話に聞いていたとおりとても質素だった。まるで墓場のような寂しさと静寂、しかし神聖さが篭った場所。
「我々は本来、天使に導かれ星に至ることを目指した、原初の◯◯教徒です。救世主が生まれる前の」
「……ああ、総本山で扱われているという方の……」
「今の彼らが掲げるのは、もう天使でも星でもありませんがね」
その硬い声は、真実に絶望していることがありありとわかるもの。ぼかした発言をしたスカイハイは、自分たちがつい先日垣間見たこの世界の裏側を老神父もまた知っていることを察し、改めて気を引き締めた。
「ですが、若い彼らはそれを知らなかった」
それはホワイトアンジェラの身柄を求めに来た3人のことかと尋ねると、老神父は肯定した。
「そう。彼らは親も友もなく、貧しく、善行を積む気力もなく、そのくせ天使に選ばれぬこと、星に至れぬことに絶望していました。受け入れてくれる場所を探した挙句、薬に逃げ、惑い、そしてここに辿り着いた。我々は、彼らの望みどおりにするつもりでした。ずっとそうしてきたように。しかし彼らは間際になって声をかけられ、あちらに」
「あちらというのは、つまり◯◯教総本山?」
「そこまでは存じませんが、何らかの団体でしょうな。我々と運命を共にするよりも、どこかで居場所を手に入れたいと思ったのでしょう。気持ちはわかりますが、……愚かなことです」
老神父は、諦観の色濃い様子で言った。聞いている方が憂鬱になる、底のない場所に沈むような声。
「無駄な足掻きです。我々は産まれて死ぬまでひたすら意味なく、どこにも行けずに死ぬだけが運命だというのに」
「それがここの教えなのかしら?」
信者が少ないのも納得だわ、といわんばかりのうんざりした声で、ファイヤーエンブレムが両手を広げて肩をすくめるポーズで言った。
「そうですよ」
老神父は、当然のように言う。
「ここには何もありません。神も、天使も、救世主も、隣人もいない。いるのは我々だけ。ですから我々は何も誰も信じません。自分自身でさえも。あるのは虚無だけ」
息が詰まる。こんなに人数がいるのに、独房に閉じ込められたかのような心細さが、さほど広くもない教会を支配する。
「私たちは天使を信じ、いつか星に導かれることを願ってきました。しかし私たちは知りました。私たちが救われることはなく、どこかに受け入れてもらえることもなく、ただ迷惑をかけるなと閉じ込められて、干からびて死んでいくだけなのだと」
「……希望のない考えかたね」
「ありませんからね」
納得行かない顔で言ったブルーローズに、老神父はすっぱりと答えた。
「ここは、……何なんだい? どういうところなんだ?」
スカイハイの質問の後、数秒の無音の時が過ぎる。
そしてやがて、老神父は話しだした。
「我々がこうなったはじまりは、シュテルンビルト争奪戦争と魔女狩りにあります」
「魔女……、当時のNEXTたちのことだね」
「そればかりではありません。髪や肌や目の色が珍しいとか、障害を持っているために差別されたあらゆる人。孤児、同性愛者……、あらゆるマイノリティがまとめて魔女と呼ばれ迫害されていました。あとは、政治的に都合が悪く排斥された者、もしくは戦争という時代によるストレスを発散するための、理由のない迫害もありました。当時の事細かな日記がいくつも残っていますよ、ここには」
「なんと……」
本当に淡々と話す老神父に、ヒーローたちは何故か気圧された。
「我々は、そういった人々を助け匿うことこそ星に至りし善行と信じ、それを行いました」
「素晴らしいことだと思う」
スカイハイは、強い口調で言った。
宗教家の話にヒーローが、しかもKOHがはっきりと賛同の意を示したことに、裏ではアニエスやポセイドンラインの重役が頭を抱えていたが。
「そう。当時のシュテルンビルトで弱い立場の人達を助けていたのは、マダム・ハングリーだけじゃなかったのね」
ファイヤーエンブレムが、重たい感慨のこもった声で言う。だが老神父は何の感慨もなさそうで、何か言うどころか目を細めることすらしなかった。
「マダム・ハングリー。ハンナ・グレゴリー女史ですね。ええ、確かに彼女は多くの人を助けました。だが、彼女の立場ゆえ、だからこそ、彼女は我々に手を差し伸べることはなかった」
「……彼女の立場、だからこそ?」
「彼女は由緒正しき、しかも法務を司るグレゴリー家の女当主でありました。だからこそ権力を持ち、弱き者を助けて回ることができた」
「そうね。そう聞いているわ」
「しかしそれは、助ける相手が取るに足らぬ立場なき民衆であったからです」
「……どういうこと?」
「立場あるものの庶子。あるいは妾、相続争いに負けた者、反感を買って冤罪で追放された者など。権力者と縁があり、だからこそ些細な事で捨てられたという者たちに、彼女は手を差し伸べなかった」
当時の王国は、内部の派閥争いが深刻だった。
富を求め各地の制圧をすすめ、その流れのままシュテルンビルトも奪おうとした国の貴族や重鎮たちの派閥。そしてそんな彼らに便乗し、世界一の強さを見せつけんと、とにかく血を見ること、異民族や異種族を蹂躙することを好んだ軍隊。彼らの勢いを止められない王族、振り回される民衆たち。
その上、戦時下の混乱。他の貴族や権力者たちから下手に反感を買ってしまえば、弱き者たちを助ける活動もできなくなってしまう。
法の番人たる家の当主であったマダム・ハングリー、本名ハンナ・グレゴリーは真実公平な人間であり、分け隔てなく人を助けた。しかし公平であったがゆえに、貴族の血や縁故を持つがためにむしろどこにも行き場がない少数を犠牲にし、多数の民衆を助ける道を選んだのである。
「しかし、そんな我々に唯一手を差し伸べてくださったのが、姫様でした」
「姫様? 王国の?」
「そうです。──ミカエラ姫様」
老神父は、頷いた。
「我々を支援してくださった、最初で最後の方。……ここに追いやられた最初の顔ぶれのひとりが、王家の血を引いていたことも理由のひとつであると聞いています」
政治的な理由なのか、そうでないのかはもうわからない。だが元々魔女狩りや迫害行為、そしてシュテルンビルト侵略自体に否定的であったミカエラ姫は、細々とだが、誰も見向きもしない彼らを支援した。
「ミカエラ姫は天使の化身であり、永遠の命を持っていたと言われています。いつまでも若く美しく、命の色の髪をしたお姫様……」
「……お伽話?」
非常に詩的な言い回しだったせいか、胡散臭そうに、ブルーローズが呟く。老神父が初めて微笑んだ。
「どうでしょうね。もしかしたら、NEXTだったのかもしれません」
「まさかあ……」
「事実はどうあれ、我々はミカエラ姫を天使の化身と信じていました。そして彼女に連なる尊き血を引く者を擁する我々に、救いがないはずがないとも」
老神父は、話を続けた。
しかし姫は天使の化身として尊重されてはいたものの、ルシウス3世と敵対していたこともあって権力や財力には乏しく、物質的な援助は頼りなかったという。
この古い教会がこのように地味でとにかく実用性のある堅牢な作りであるのは、単に資金がなかったからという理由もあるのだ。
「それでも、天使の庇護があるということが、どこにも行き場のない我々にとってどれだけ救いになったか。天使が見守ってくださっているということを支えに、我々は試練に耐えました。堅牢な教会を作り、同じような立場の者たちを匿い、身を縮め、声をひそめ、地下に潜んで……」
「あ、そ、それよ! 地下室!」
話に飲まれかけていたブルーローズが、慌てて言った。
「今も地下室があるって聞いたんだけど……」
「ございますよ。もし興味がおありなら、ご案内しましょうか?」
「いいの?」
「ええ」
「カメラを入れても……?」
「どうぞ」
本当にあっけらかんと案内されるがまま、ヒーローたちとカメラを構えたオーランドは、ゆったり、しかし姿勢良く歩く老神父の後ろに続いた。
「簡単に見せてくれるんだ。秘密にしてるのかと思ってた……」
「していませんよ」
本人はこっそりと言ったつもりだったようだが、静かな教会でドラゴンキッドの高い声はよく響き、老神父が返事をした。ドラゴンキッドが、教師によそ見を見つかった生徒のように小さく肩をすくませる。しかし、老神父はやはり穏やかだった。
「我々は、もう何も隠してはいないのです。隠すものはもう何もない。誰も尋ねてこないだけです」
「……でもよう、あんなに扉を閉め切っちゃあ、何か後ろ暗いものがあるように思うぜ。そうじゃなくても、単純に近寄りがたいっつーか」
ロックバイソンが言った。老神父の肩が、少し落ちる。
「そうですか。残念です」
諦めたような声だった。
「しかしここは、迫害から逃れるための場所ですからね。外界を遮断し、引きこもり、これ以上傷つけられないようにするための場所」
「もうその時代は終わったわ、神父さん」
ファイヤーエンブレムが、やさしい声で言った。老神父が振り向く。
「そうでしょうか。そうなんでしょうね。“そちら”では」
なんともいえない皺だらけの笑みは、絶望と諦念に満ちていた。
「しかしここには、“なにかお困りではないですか”と声をかけに来てくださった人など、ただのひとりもいらっしゃいませんでしたよ」
この今日まで、ほんとうに、ただのひとりも。
重い鎖を引きずるようなその様子に、誰も何も言えなかった。
「さあ、ここです」
案内されたのは、祭壇の裏手から細い廊下を進み、小さな鐘台の階段裏に広がる小さな中庭だった。その端に、木で簡単な屋根が作られた大きな穴がある。その中には、いかにも素人作りといった様相の階段が下に続いていた。
「本当は、小さい鉄扉で蓋がされていたんです。ほら、ここに」
老神父が直ぐ側の納戸を開けると、マンホールくらいの大きさの重たげな鉄の扉が外して置いてあった。「内側の方に閂があるでしょう」と彼が説明する通りの作りになっているそれを、ホーと感心しながら見学する。
「もう、隠れなくてもいいですからね。扉は外して、穴も広げました」
そう呟いた老神父の後にまた続き、ヒーローたちはいよいよ地下室に入ることになった。
鉄扉の横に置いてあった大きな懐中電灯を点けた老神父は、静かに階段を下っていく。足元に気をつけながら、ヒーローたちも同じようにした。
そして階段の下に広がっていたのは、天井の高さはせいぜい3メートルくらい、広さは軽自動車がぎりぎり10台入るくらいの空間だった。奇妙なのは、すべての壁と天井、そして床の全てが真っ黒に煤けていること。
「ここに、多い時で40人位が住んでいたそうです」
こんなに狭いところに!? と、ヒーローたちが驚愕する。そして老神父の懐中電灯による明かりを頼りに、四方の壁を調べて回る。
だが真っ黒に煤けた部屋には、見る限り隠し通路や穴などどこにもなかった。
「え、ええと。……あの、地下の街……第4層、アイアンステージに繋がる通路がある、と聞いたんだが……」
「ええ? いや、ははは」
おそるおそる聞いてきたスカイハイと、その後ろから身を乗り出すようにしているヒーローたちに、老神父はおかしそうに笑った。
「ありませんよ、そんなものはね」
「……本当に?」
「地下にある鉄の街は、我々の夢の話です」
「夢?」
「そう、夢。……我々はどこにも行けはしなかった。ここで死んだのです」
「死んだ?」
老神父は、頷いた。
「シュテルンビルトに戦力の殆どを注いで本国が手薄になった時、他国からの侵略とクーデターが同時に起こって、王国は滅亡。我々の支えであったミカエラ姫も処刑されました。我々も立場を失い、むしろ貴族や権力者と縁のある者ばかりだったがために、この教会にいた者たちにもその手が及びました。彼らはこの地下室に全員閉じ込められて、焼き殺されたのです」
部屋の壁中が真っ黒なのはそのせいです、という老神父の言葉に、ヒッ、とヒーローたちが小さく悲鳴を上げた。
「おや。随分昔の話ですよ」
「そ、そんなの関係ないわ。そんなひどいこと、……ひどい。昔かどうかなんて関係ないわ、ひどい……」
ブルーローズの目から、ほろりと涙がひとつぶこぼれ落ちたのを、老神父は目を細めて見た。
「あなたのように言ってくださる方は、はじめてですね」
「そんなはず……」
「そうなのですよ。遠い昔のこと、しかも誰にも知られていない話などこんなものです」
重々しいその言葉を聞いて、ヒーローたちは、昨日アニエスが打った大演説を思い出していた。残酷な事件は解決するべき、しかし解決するだけではいけない。みんなに知らせて、共有して、誰もが当事者なのだと自覚してもらうことことこそが重要なのだと。
この小さな地下室であった惨劇は、信じられないほど長い間、誰にも知られてこなかった。墓参りに来る者も居らず、花を供えられることもなく。可哀想だと安い同情すら与えられず、誰にも知られないままだったのだという。もう何からも隠れる必要はないというのに、死んでからも、未だ。
「地下に広がる鉄の街は、我々の夢でした」
曰く。
つらい荒野超えを経てやっと辿り着いた自分たちだけの街を横取りされ、天使の化身と呼ばれた姫に匿われたはいいが、実際は地下に隠れるしかなかった人々。
彼らは、夢想したのだという。地下なら誰も来ない。それならば、この地下にこそ自分たちの街を作ることが出来ればいいのにと。
──天に輝く星でなくてもいい。泥の下でもいいから、どうか安息の地が欲しい。
「哀れな夢です。とても哀れな……」
老神父は、墓の前で言うように寂しく言う。
その背中を叩くことも出来ず、ヒーローたちはただ厳かに、その静寂を尊重した。
「自分たちで掘った地下室に閉じ込められたまま焼き殺された彼らは、皆真っ黒な骨になっていたといいます。それっきり、我々は忘れ去られた」
その言葉は先程の笑顔と同じく、絶望と諦念に満ちていた。
「あのアンドロイドは、まさに彼らそのもののようです。理不尽に迫害され、殺され、忘れ去られた彼ら。星に至るどころか、今度は地下からすら追い出されたかれらが戻ってきた。この星に、私たちの居場所などどこにもありはしないというのに」
「それは」
どういう意味か、とスカイハイが聞く前に、老神父は微笑んだ。
その目にある闇に、ヒーローたちは息を飲む。絶望と諦念に満ちた表情。怒りと悲しみをとっくに通り越し、もう何も期待していない寒々しい空虚。更にその向こうにあったのは、どこに繋がっているのかもわからない、底のない穴だった。
「君は、……君たちは、一体誰なんだい?」
スカイハイが、慎重な声色でもういちど訪ねた。同じ疑問を抱いていた他の面々が、老神父を見る。
「我々は名も無きネフィリム」
「ネフィリム? それが君たちの、ええと、教えとか、団体の名前かな? 君の名前は?」
「私の名前? そんなものはありません」
「……なんだって?」
「誰も呼ばないものに、名前は必要ない。そもそも名付ける者もいない」
どこか哲学的な台詞に、ヒーローたちは戸惑い気味にちらちらとお互い目を見合わせる。
「我々は、生まれる前に死ぬべきだったもの。世界の誤り。失敗作。誕生を歓迎されなかったもの。神にも天使にも見放され、救世主からは無視され、隣人もいない。産まれて死ぬまでたったひとり。あるのは共食いの虚無だけ」
老神父の目は、どこも見ていない。
どこに繋がるかもわからぬ、もしかしたらどこにも繋がっていないのではと思わせる、吸い込まれてしまいそうな、恐怖と魅惑を同時に放つ底の見えぬ穴。
「──祈りすらも意味はない」
「きゃああああっ!!」
ブルーローズが、絹を裂くような悲鳴を上げた。なぜなら、老神父が持っている懐中電灯が急に消え、階段の入口でものすごい音がしたからだ。
「ちょ、ちょっと待て! いまスーツの明かりをだな、ええとどこだったっけ!?」
「早く! 早くして!」
もたもたとしているロックバイソンを、半泣きになっているとわかる声でブルーローズが急かす。数秒してやっとロックバイソンのヒーロースーツに追加で付けられた照明装置が点くと、入口に被せられた簡単な木の屋根が崩れて落ちているのが見えた。
「おい、あんた──」
ロックバイソンの声かけに合わせて、全員が老神父を振り返る。
──そして、全員絶句した。なぜならそこにあったのは真っ黒な壁だけで、老神父の姿などどこにもなかったからだ。
そして今度は絹を裂くようなものだけでなく、男女混合、野太いものからひっくり返ったものまで、きっちり人数分の悲鳴が古い地下室に響いたのだった。