#164
 ユーリ・ペトロフは、190センチ近い細長い身体を折りたたむようにして、バーカウンターの高い椅子に座っていた。

 彼の姿を思い浮かべる時、ほぼすべての人間が野暮ったく硬いセンスのビジネス・スーツ姿か、裁判官としての法服姿を思い浮かべるだろう。実際、少なくとも学生時代を終えて以降、彼は人前に出る時このどちらかしか身に着けていない。
 だが今の彼は、珍しくそのどちらの格好でもなかった。細身のパンツに薄手のタートルネック・セーター、足元はブーツだ。ジャケットは着ずに直接羽織った長いコートは、現在ハンガーに掛けられて店の一画に他の客のものと一緒に吊り下げられている。
 いつもは項のあたりで緩くリボンでまとめている灰色の髪は縛らずに流し、店に入ってきたときは中折れ帽を被っていた。

「いらっしゃい」

 グラスを持って現れたのは、自ら発光しているのではと思う程の白い肌と金髪を持つ美女。更にゴージャスなドレスを纏ったブランカは、ドレスの裾を静かに翻して彼に近付いた。
 彼女の挨拶にユーリは声を出さず、僅かに顔を向けて目礼だけを返す。
「はい、どうぞ」
 ユーリが一切の酒精を避けることを知っている彼女が置いたグラスの中身は、日が落ちたばかりの空のような、闇色に近い紫色。ノンアルコールで作られたブルームーン。品の良い間接照明の丸い光が、闇に浮き上がる月のように映り込んでいる。
 だがユーリはそれに口をつけず、ただ目線を滑らせてブランカを見た。

「わかってるわよ。せっかちな人ねえ」
 ブランカは呆れ顔で言い、数枚の紙を取り出してユーリに差し出した。ユーリは指の長い手でそれを受け取り、すぐに目を通す。
「いつもと違って、珍しい調べ物ね」
 ユーリはやはり答えなかった。しかしいつものことであるので、ブランカは気にしない。

 いつもの調べ物とはすなわち、正式に裁かれないまま放置されている殺人事件の真相、あるいはそれに関連した情報、そして犯人の現在の状況など。
 つい先日、別エリアのNEXT刑務所の受刑者虐待の実体を、完璧な証拠資料付きでまとめてきてくれたのも彼女である。

 強力かつ直接的なNEXT能力を持っていても、それを使って事を成すには、相当な下調べが必要だ。
 ユーリは、それを怠ったことはない。つまりルナティックとして動くにあたり、彼は毎回徹底した下調べをしてから月夜を選ぶ。
 それはこの情報社会で、どんな些細な手がかりからでも謎の正体を暴くことができる科学技術やシステムへの対策。そしてルナティックが犯人を屠った後も事件を揉み消されることなく、きちんとした社会的制裁が行われるよう機関に匿名で投げ込む証拠資料は、己こそを最後の砦として、万が一にも冤罪が起こらぬようにということでもある。

 今まではアポロンメディアがその中心となり、長い歴史の中ずっと陰謀的な情報操作の上で成り立ってきたシュテルンビルトという場所で、誰かにとって後ろ暗い真実にたどり着くのはかなりの労力が必要になる。
 裁判官でありヒーロー管理官であるユーリは、必要な情報を私的に得るのが一般人よりも相当に容易い。しかし特別な立場であるだけにユーリに常に向けられる目は多く、デジタルデータなら閲覧記録は必ず残る。
 だがどこにでも、情報を扱う専門家というのはいるものだ。普通は誰も目を向けることのない月の裏側にある、非公開で、非公式で、そしてその分非常に精度の高い、生々しい鮮度の情報を扱う者たち。
 荒野の果てにおいてはホワイトチャペルの告解室に篭もる神父がそれであり、そしてこのシュテルンビルトでは、この何もかもミステリアスな女主人が経営するバーがそうである。

 性別も年齢も、そしてNEXT能力者なのかも不明であるブランカだが、その身元は確かだ。
 シュテルンビルト黎明期においてその能力を用い多くの人を救った、聖女とも、原初のヒーローともいわれる女性。通称マダム・ハングリー、本名ハンナ・グレゴリー。ブランカは、由緒正しい貴族でもあった彼女の直系子孫である。

 グレゴリー家は、元々法曹家の家系である。
 ただ権力闘争に興味がなく、筋の通らないことを嫌う潔癖ぶりが有名な家でもあった。“グレゴリー”の語源は“Grigori(グリゴリ)”、法の番人としてふさわしく、“見張る者”という意味を持つ。しかし同時にグリゴリは、星の民の聖書において神に背き人間と交わることを良しとした堕天使の一団とされる名でもあった。
 グレゴリー家は当時非常に珍しかった、NEXT差別反対の意志も示していた。そしてそれは身近な人々からは愛されても、上層部からはこれでもかと煙たがられ、結果、グレゴリー家は当時魔女と呼ばれ迫害されているNEXTたちの街であり、また戦争をしている黎明期のシュテルンビルトに一家総出で追いやられた。

 だが正義の輝きが曇った混沌のシュテルンビルトだったからこそ、グレゴリー家はより活動的になった。

 当時貴族なら誰でも◯◯教の洗礼を受けており、マダムも例外ではなかった。マダムはそれを強調しながら現地のシスターたちに協力を求め、弱者を救う活動を始めた。
 マダムは身を削って弱者を救う完璧な聖女の姿、そしてNEXTは危険なものばかりではないことを自らの能力を使った活動で見せつけながら、同時にシスターたちの元締めである枢機卿らには寄進の名目で金貨を納め、貴族の立場を使って黙らせた。あの時代、己の思う正義を通すには清濁併せ呑むことが必要である、と彼女は判断していたのだ。
 そして既にNEXTであることが明らかになり迫害を受けている者を大々的に救うのは難しいが、まだNEXTであるとばれていない者を匿うことはできる、と彼女は考えた。当時の◯◯教はNEXTを否定も肯定もしていなかったが、その信徒という立場はひとまずの保険としては充分である。
 いつ魔女と言われて追われるかと能力をひた隠しにして怯え暮らしていた人々は彼女に助けを請い、◯◯教の洗礼を受け、男も女もシスターの僧服を着て、彼女のもとで働いた。
 ちなみに、シュテルンビルトの◯◯教の教会で活動する信徒に女性、シスターが多いのは、このことからくる伝統のようなものだ。

 そんな流れがあって、マダム・ハングリーの子孫は、今でもその活動を続けている。
 つまり、様々な理由でNEXTであることを公的に届け出ていないNEXTたちを保護しつつ、彼らの力を使って情報を集める。そして何らかの正義のために情報を欲する者たちへ、その情報を売る。あるいは仕事を請け負い、メンバーへ斡旋。そうして得られた利益の数割を、“星の民”と呼ばれる者たちへ納めるという取引の関係。
 世界の裏側を牛耳っていると言っても過言ではない星の民の協力があれば、正式な書類を完璧に改竄することで、無認可NEXTであっても社会的に堂々と生きていける。何しろ、NEXTの管理データベースを作っている組織は星の民とも深く関わりがあるところのひとつでもあるからだ。

 そんな関係性から、グレゴリー家の当主は代々その信仰心の有無にかかわらず◯◯教の洗礼を受け、グリゴリの最も代表的な統率者である天使“シェムハザ”の洗礼名を冠する。
 今はブランカがそのシェムハザであり、星の民の天使でありつつグリゴリという外部組織のまとめ役としての立場でもあった。

 グレゴリー邸はマダムの死後かなり後に火事で焼けてしまったが、助けを求めて駆け込んできた人々を一時匿うための地下室は丸々無事であった。
 当時のグレゴリー家当主はその上にまた屋敷を建て、そして地下をより頑強に補強、また拡張し、国際NEXTデータベースに登録されていない非認可NEXTたちが気兼ねなしに集い、仕事を斡旋できる場所として改めた。
 そして現当主であるブランカは、自身が日光アレルギーであることもあって、この地下の一画でバーを経営し始めた。店の名前は、家名の語源である『Grigori』。シュテルンビルトをひっそりと見張り続け、神ではなく人を愛し、求められた時に手を差し伸べる堕天使たちの溜り場。

 ユーリがこの存在を知ったのは、法曹を学んだ出身大学がきっかけだ。
 グレゴリー家は代々優秀な法曹家である。ブランカは日光の元に身を晒せない持病から法律家にはならなかったが、遠隔システムで授業に出席し、非常に優秀な成績で卒業した。どれほど優秀だったかというと、ブランカが卒業してから随分後に入学して学んだユーリが、ブランカの論文を読んでその存在を知ったほど。
 様々な視点からグレゴリー家に興味を持ったユーリは密かにブランカを追い、訪ね、そして月の裏側のようなこの場所にたどり着いた。

 しかし真相に接触してきたのは、ブランカのほうだった。
 父であるMr.レジェンドのこと、そしてその死の真相を、ブランカは知っている。
 敵対しないことの証として、ユーリの青い炎のNEXT能力はブランカが手配して隠した。さすが原初のヒーローに連なるものと言うべきか、ユーリのNEXT能力の隠蔽に手を貸したのはブランカ個人の善意が根底にある。
 星の民を経由して作成されたユーリの市民生体データのNEXT能力欄には、非NEXTであることを正式な機関が保証する印がしっかりと押されている。そのため、ユーリが人前で能力を使うことさえしなければ、彼がNEXTであることが書類やデータからばれるようなことは絶対にない。

 “グリゴリ”の堕天使のひとりになるか、ブランカが誘ったこともあったが、その時既に死神になることを決めていたユーリは断った。
 昔からずっと死刑反対派であるグレゴリー家の思想はグリゴリにもしっかり反映されており、どれほど強力なNEXTを抱えていても、ブランカが彼らに人殺しをさせることはない。むしろ、それが発覚すれば相応の対処がされる。
 それはユーリにとって彼らを信頼できる理由になったが、同時に永遠に分かり合えないと断じる理由にもなった。

 以来、月夜に現れる死神は、太陽の元に姿を晒さず、地下と夜に生きるシュテルンビルトの堕天使たちにとって相性のいいお得意様になった。
 現在その関係は概ね良好で、正式な身内ではないがお互いに“事情”は理解しており、そしてそれを一切誰にも口にせずにやり取りできる相手として認めている。
 裁判官でありヒーロー管理官でもあるユーリはなかなかの高給取りで、同時に金の使い道も特にない。店主のブランカの有用な“おしゃべり”付きのノンアルコールカクテルを、ちょっとした車が買えるような値段で買うことくらいは、ユーリにとって特に痛手ではなかった。

 そして今ユーリの手にあるのは、ホワイトアンジェラが今まで治療した患者のリスト。
 しかしその顔ぶれは厳選されていて、──怪我の理由が犯罪被害によるものである者と、彼女がいなければ命を失っていたと診断されている者に限られていた。
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る