#155
 ──BLEEP!! BLEEP!!
 ──BLEEP!! BLEEP!!

「……いいかげんにしろよ、クソッタレが!」

 アスクレピオスのシェルタールーム。
 深夜の2時に鳴り響くヒーロー専用PDAに叩き起こされたライアンは、思い切り悪態をついた。隣のベッドからよろよろと出てきたガブリエラが、ごんと壁に額をぶつけてずるずると崩れ落ちる。

《Bonjour, HERO……またブロンズステージよ》

 アニエスの声にも、さすがに張りがなくなってきている。
 何しろあの日から連続して数日、アンドロイドはこうして1体ずつ離れたところにそれぞれ小出しに現れてはブロンズステージを荒らし回り、ヒーローたちはその度に駆り出されているのだ。

「ガブ、起きろ! 飯を食え!」
「たべます……たべ……」

 まだぐったりしているガブリエラを抱えながら、ライアンはポーターに向かった。
 ライアンは彼女の能力をある程度受けてそこそこスタミナを回復できるが、自然回復に任せるしかないガブリエラはそうはいかない。
 そしてこの寝不足状態でエンジェルチェイサーをかっ飛ばすことも出来ず、最近はすっかりポーターでの移動と救助活動専門になっていた。

「ほら食え。こぼすなよ」
「うう〜……」

 アスクレピオスのスタッフが用意してくれたトレイをライアンがガブリエラの前に置き、カロリー補給ゼリーのパックも開封した。
 とにかく寝たいだろう状態のところに無理やりカロリー補給の食事をさせるのは可哀想だが、大怪我をした市民が運ばれてきたりしたら、救えるものが救えなくなってしまう。
 ガブリエラもそれをわかっているので、時々眠さのあまりにフードのトレイに顔から突っ込みながらも、用意された食事を口に掻き込みはじめる。

 アンドロイドに銃は効かず、ヒーローたちの強大な能力でどうにかするしか倒す方法がない。まっ昼間じゅう応戦し、へとへとになって食事をし、早めに就寝すれば深夜にまた現れたり、やっと寝られたと思えば3時間後や4時間後に叩き起こされる。
 そしてそれが続けば、いつアンドロイドが現れるかと神経が休まらず、せっかく時間があっても充分な休息になりにくい。
 お陰で誰も彼もが寝不足で、生活は不規則。いつアンドロイドが現れるかわからないことから、ヒーローは皆会社やポーター、ジャスティスタワーに寝泊まりしている。モリィやジョンは再びペットホテルなどに預けられていた。

 ライアンとガブリエラもせっかくの新居にいちども帰れておらず、またアスクレピオスのシェルタールームで過ごしている。
 そしていつ出動がかかるかわからない状況と疲労から、結局未だキスもしていなかった。

「やはりです! やはり私とライアンの仲を良く思わない者が犯人です! おのれ! 馬に蹴られて死ぬがいい!」

 冷水で顔を洗って無理やり目を覚まし、カロリー補給ゼリーのパックを握りつぶしながら、ガブリエラはぎりぎりと歯を食いしばる。

「ライアン! もうあの部屋でなくても!」
「あー、ダメ。絶対ダメ」
「なぜ!!」
「……だって途中で止められなかったらやべえだろ……。監視カメラもあるし……体力とかもアレだし……」
 駄々をこねるガブリエラに、ライアンは目を逸らし、何かを押し殺して封をするような様子でぼそぼそと言った。
「ならばできるところまでやればいいではないですか!」
「おまえ、そういう言い方はさあ……」
 ライアンがちらりと振り向くと、ガブリエラは両腕を広げ、目を閉じ、唇を突き出すという非常にわかりやすいウェルカムポーズをしていた。
 あからさますぎて色気の欠片もない姿である。──にもかかわらず、ライアンは自分の腰辺りからむらっと湧き上がってきたものを感じ、ごくりと喉を鳴らして無言になった。そしてそんな自分に絶望するかのように片手で頭を抱え、首を振る。

「……いや、ダメだダメだ。疲れてる時はむしろダメ。ちょっとでもアレだから。いっかいタガ外すとマジでなんかアレで、アレだから、……とにかくダメだ」
「なにがですか!? なにがアレでだめなのですか!?」
 のってこなかった恋人に、ガブリエラは拳を振り上げて抗議する。
「ああ〜、俺様超えらい。偉すぎ。鋼鉄の理性」
「わからない! まことに遺憾です!」
「男には色々あんだよ。あーもうこの話やめよう。あんまくっつくな」
「アー!」
 スキンシップの自粛まで決めてしまったライアンにガブリエラは嘆き、涙目になって、正体不明の犯人に対してあらん限りの呪詛を吐いた。

「うう、せめてハグ……」
「ダメ」
「なぜ!」
「だっておまえいいにおいすんだろ!」
「私もライアンのにおいを嗅ぎたい!」

 お互いに思考力が下がった応酬をするカップル・ヒーローを乗せたポーターは、一目散に現場に向かって走っていった。






 ──朝日が昇り始めている。

 街は静かだ。閑散としている、と表現したほうがいいかもしれないが。
 元々異様に順応力の高いシュテルンビルト市民である。アンドロイドの襲撃が2、3日も続くとブロンズステージの市民たちも慣れてきて、警報が鳴ると地下倉庫に籠城したり、もしくはシルバーステージより上に迅速に避難するようにもなってきたが、大人数が一斉にそうするのにも無理がある。
 また壊れた建物や店がすぐに直るわけもなく、それにアンドロイドが現れれば直した端から壊されるかもしれないということで、修理や工事自体保留にしている経営者も多い。
 おかげでブロンズステージのここかしこで無人の壊れた建物が目立ち、まるで廃墟のようになっている一画も出始めていた。しかもここに夜中黒い骸骨が現れるのであるから、まさにホラー映画のような絵面だ。

 そして本日、深夜から明け方いっぱいまで、今度は合計9体現れたアンドロイドを片付けたヒーローたちは、また公園に設置された救護テントに向かっていた。
 アンドロイドを倒した後は念のためここで一定時間待機し、報告・情報交換を行い、休むなり食事をするなりが既に恒例になっているのだ。

 テントの周りでは、市民の避難のために駆けずり回っていた二部リーグたちが、既に疲労のあまり死屍累々になっている。
 そして中には、リングのコーナーで項垂れるボクサーのようになっているライアンと、ホワイトアンジェラのメットだけを取り、赤毛を振り乱して簡易ベッドに俯せに突っ伏し、死んだように寝ているガブリエラがいた。

「……大丈夫ですか、ライアン」
「おう……」
 バーナビーの問いかけに応えるライアンだが、その声は全く大丈夫そうではなかった。
「いや、ああ……、まあ、お前らよりはマジで大丈夫だ。こいつの能力、多少受けさせてもらってるからな」
 ヒーロースーツの頭の部分だけを外しているライアンは、爆睡中のガブリエラを示した。
 彼女は自分の能力の恩恵を受けられないし、ふたり揃って倒れてしまってはどうにもならない。そのため、彼女の護衛でもあるライアンは多少寝たり食べたりしなくても大丈夫な程度には、能力を使って常に疲労を回復しているのだ。

「だからといって。理論的には大丈夫でも……」
 寝ない、食べない、という不自然な状態は、いくら彼女の能力で回復しているといっても、全く影響がないわけではない。休息がなくても動けている・動いている状態に脳や自律神経は混乱するし、メンタルの問題もある。
「でもまあ、やるしかねえし。それに、いつまでも続く事じゃねえさ」
「だといいんですが」
 ふう、と息をついて、バーナビーも椅子に腰掛けた。休んだ途端に、ドッと疲労が伸し掛かる。バーナビーも、ここ数日自分の部屋に帰れていなかった。

「おーい、メシ貰ってきたぞ」

 今度はメットを取ってアイパッチをした虎徹が、カートを押してテントに入ってくる。
 ここ数日で改善したことといえば、テントの中にバッテリーとともに電子レンジやら湯沸かし器やらが導入されて、温かい食事ができるようになったこと。またなるべく楽に過ごせるようにと、既に一部リーグと二部リーグのテントが分けられたことぐらいだ。おかげで、テントの中では皆マスクを取って素顔になれるようになってもいた。
 そしてこれらの改善点は、もちろん事件の解決には何ら関係ない。

 そうこうしているうちに、後片付けなどを終えた他のヒーローもテントにやってきた。夜中に叩き起こされ、この明け方までアンドロイドに応戦していた彼らは、誰も彼も疲労困憊で見るからにくたびれていた。

「ヒーローは、いつからアンドロイド解体業者になったのかしら」
 若い娘だというのに目の下に痛々しいくまを作ったカリーナが、ストレスの極致といった様子で愚痴り、乱暴に電子レンジに冷凍パスタを入れた。冬休みが明けたばかりだというのに、学校にも全く行けていない。
 そしてパスタが温まるのを待つ間、カリーナは少しでも楽なスタイルになろうとアクセサリーなどを外しつつ、コーヒーを入れているネイサンを見て、首を傾げた。なぜならテントの中にはお互いに素顔を知っている面々しかいないにも関わらず、ファイヤーエンブレムのヒーロースーツのマスクがそのままになっていたからだ。

「ファイヤーエンブレム、ヒーロースーツの頭の取って楽にしたら?」
「絶対に嫌」
「なんで?」
「……お肌がやばいのよ。もちろんメイクもしてないし! クマできてるし! たるみもひどいし! 若いコはまだいいわよ、若いんだもの! でもアラフォーのオカマが野放しになったらどうなると思う!? 化物よ!?」
 わあっ、と喚いて、ネイサンは顔を両手で覆った。
「意地でも髭は剃ってるけど、それが精一杯よ! 髭を剃るのでまた肌も荒れるし! もうイヤ!」
 おいおい泣くネイサンを、カリーナは黙ってハグする。泣きながら、ネイサンがカリーナを抱きしめ返してきた。
 寝起きのお父さんのようなニオイがする、という事実を、カリーナは優しさで覆って黙っておいた。

「ブラック……ブラックすぎる……」
「もうおなかすいたより、眠たいよう……丸いちにち寝たいよお……」
 こちらは、疲労のあまりお茶を飲みきれずにぼたぼたこぼしているイワンと、インスタントラーメンをもそもそと食べているパオリンである。
 特にいつも旺盛な食欲を見せ、にこにこと笑顔で食べ物を頬張るパオリンがへたれた顔で気乗りしていなさそうに食事する様は、彼女がいかにぎりぎりの状態かを物語っていた。
「ヒーローなんだから、愚痴なんか言っちゃいけないかもしれないけど」
「そんなことはないさ……この状況だ……」
 彼女の隣に座っていたキースが、優しい目をして言った。彼もまた、メットだけを外した姿である。
「かくいう私も愚痴が言いたい。そして言いたい」
「KOHでも?」
「KOHでもだ。こんなにストレスを感じたのはいつぶりだろう……疲れたね、疲れた……眠い……そして眠い……そして……」
 はああああああ、と、キースは誰も聞いたことのないような大きなため息をついて、両手で顔を覆った。

「──ジョンに会いたい!!」

 悲痛な叫びに、皆が気の毒そうな顔をした。
「愚痴を言ってすまない、そしてすまない!」
「いいんですよ、スカイハイさん。どんどん言ってください、どんどん。ネガティブ万歳」
 ははは、と乾いた笑みを浮かべ、クマが出来た目を据わらせてイワンが言う。
「ジョン! 私のモフモフ!!」
「うんうん」
 虎徹がやってきて、優しい顔でキースの背を叩いた。
「いつもならジョンと寝ているんだ……モフモフのジョンと……眠い……モフモフ寝たい……!!」
「うんうん。わかったからもう寝ろお前」
 ううう、と呻くキースを、虎徹はマットレスの上に転がした。キースは「もふもふ……」と寝言のようなことを悲しげに言って、あっという間に眠りについた。

「すまん……飯はいいから寝かせてくれ……」
 最後によろよろと入ってきたのは、ロックバイソンのスーツを着たままのアントニオである。T&Bにハンドレッドパワーで投げられたり、カタパルトで射出され続けている彼は、精神的な疲労もかなりありそうだ。
「おっさん、寝るならヒーロースーツ脱いだほうがいいんじゃねーの」
「いい……もういい……寝られるなら……なんでも……」
 ライアンの助言にそう返したアントニオはよろよろと進むと、テントの端に倒れるように突っ伏し、あっという間にイビキをかいて寝始めた。相当疲れているらしい。その気持ちがわからない者はいないので、皆そっとしておいた。

「ボクも……ボクももう寝たい……ごはん残してごめんなさい……」
「おーおー、いい、寝ろ寝ろ。ベッド出してやって」
 半泣きに近いようなしょぼしょぼとしたような顔で言ったパオリンに虎徹が近寄り、抱き上げる。ガブリエラが寝ている簡易ベッドと同じものをイワンが出してきたので、そこに寝かせた。パオリンも、あっという間に寝息を立て始める。
「……この子、能力も使いっぱなしだし、カンフーでアンドロイドを攻撃するのもずっとやってるものね。疲れて当たり前だわ」
 カリーナが、パオリンのほつれた髪を直してやりながら言った。ネイサンもまた、既に泣きながらマットレスに倒れ込んで寝てしまっている。
「私は能力だけだからまだいいけど……」
「そういうことでもねーだろ。お前も寝られる時に寝とけよ」
 真剣な顔で言った虎徹にカリーナは疲れた顔で微笑み、頷いた。
「ええ、ありがとう。食べ終わったから、お言葉に甘えるわ……」
 そう言って、彼女はパスタの容器を片付け、もう1台出したベッドに寝転がり、静かな寝息を立て始めた。

「……虎徹さんは、相変わらずタフですね」
 誰よりも率先して動き、食事も取り、若者たちを寝かしつけていく虎徹に、バーナビーはどろりと疲労の濃い声で言った。
「んあ? あー、まあなあ。昔っから体力バカだとは言われてたしな。新人の時は何日か徹夜で潜伏犯とにらめっことかもしたもんだ」
 いやでも俺も疲れてはいるよ、年だし、と言う虎徹であるが、間違いなくこの中の誰よりも元気である。もしかしたら、多少なりともガブリエラの能力を受けているライアンよりも。
 そして虎徹は「寝るなら毛布かけたりした方がいいよなあ、貰ってくるわ」と言って、おにぎりを頬張りながらひょいひょいとがに股でテントを出ていった。

「……能力減退の代わりに素地の能力が上がったって、マジなんだな」

 ライアンが、虎徹が出ていった方をじっとり見ながら言った。
「ええ、こんな時だとありありと実感しますね……。スタミナの化物ですよ。正直ついていけない……。持久戦となると、最後は能力ではなく体力と気力の勝負なのだと思い知りました……」
 いつもはもたつく虎徹の尻を蹴飛ばすようなバーナビーが、ぼさぼさになった頭を片手で抱えながら力なく返す。

「僕もそれは思います……」
 おにぎりをお茶で胃に流し込み終わったイワンが、細い声で言った。
「というか、タイガーさんは今までだってそうですよ。1時間に5分のハンドレッドパワーですけど、後の55分は生身なんですよ、ずっと。5分のスーパーパワーが1分だけになってしまったからって、タイガーさんの実力にさほど変わりはないような気がするんですけど、僕は」
「だな。むしろ素地の能力上がった分、応用がきくようになった気もするし」
「本当にそれですよ。それがどんなに凄いことか……」
 疲労で逆にハイになってきたのか、ライアンの言葉にイワンはこくこくと勢い良く頷いた。
「タイガーさんの自力の凄さには、前から注目していました。だから僕も見習って、能力ばかりにこだわらずに素地の力を鍛えようと思ったんです」
「成果は上々だと思います」
「……ありがとうございます」
 疲れの滲む顔でイワンは微笑んだが、バーナビーは本当にそうだと思う。元々運動神経がいいというのを置いておくとしても、トレーニングに重きを置いてからの彼の身体能力は、目を瞠るものがあった。
 実際、犯人逮捕ポイントをじわじわと上げている一方で、折紙サイクロンの擬態能力の出番は事件中にまったくない時も珍しくない。今回とて、彼は素地の力だけでアンドロイドに応戦している。

「……そうですね。それにタイガーさんも安易に能力に頼ることがなくなって、以前より動きが思慮深くなった所がありますし。正直僕はそっちのほうがありがたいです」
「判断が慎重になったのは、ジュニア君の影響じゃねえの?」
「あの人がそんなに素直だったら苦労しませんよ」
 ライアンのフォローじみた指摘を、バーナビーはすっぱりと切って捨てた。
「今となっては、なるべくしてこうなったという印象があります。多分、ワイルドタイガーは今が本当の全盛期なんですよ」
「遅咲きだねえ。でもとにかく、オッサンはスゲーわ。スタミナばっかりは今すぐどうこうできねえし」
「そうなんですよ。凄いんですよ、タイガーさんは」
 イワンが、こくこくと頷いた。

「……そういえばあの人、マーベリック事件の時……、昼夜ずっと街中から追いかけられていたのに、ろくに寝もせずに延々逃げ続けてたな……」

 そして結局、見事に逃げおおせたのである。ここにいる、シュテルンビルトのヒーロー全員から。そして今も、彼ら全員がこうしてダウンしている中、彼だけが軽々と動き回って仲間の世話を焼いている。
 バーナビーの呆然としたその声を最後に、シン、とテントの中が静まり返った。皆の疲れきった寝息だけが延々と響いている。

「……寝ましょう。少しでも体力を確保しなければ」
 ずるずるとマットレスを引っ張り出してきて、イワンは黙々とそこに寝転がった。
「そうだな……いざという時にオッサンについていけねえとかキマらねえしな……」
「ええ、そのとおりです。……寝ましょう」
 ライアンとバーナビーも頷き、ヒーロースーツのままでも楽に寝られるよう環境を調節して、それぞれ目を閉じた。
 数分して戻ってきた虎徹は「アレ? みんな寝ちゃった?」などと言いつつ、全員に毛布をかけて回った後、自分も仮眠をとるために適当な所で寝転がった。

 ──3時間後、またBLEEP音が鳴り響くまで。






「今日はよろしくお願いします、ドクター・ドナルドソン」
「こちらこそ、ご協力いただいてありがとうございます。マッシーニ先生」

 シスリー医師は、同年代の彼に穏やかに挨拶を返した。

 彼らがいるのは、ゴールドステージにある、ファミリー向け高級マンションの1室。
 この部屋の持ち主は、ルーカス・マイヤーズ。そして彼の妻であり、寝たきりのラファエラ・マイヤーズが介護を受けながら過ごす場所でもある。

 法的な手続きを経てマイヤーズ家に入ることになったシスリー医師だが、この時点でホワイトアンジェラ暗殺未遂事件が起きてルーカス医師が行方不明になってから1週間は経っての訪問だった。
 しかし実際にやって来て彼女が見たのは、あらゆる介護ロボットによって非常に繊細に介護され、完璧に清潔なベッドで眠るように横たわるラファエラ・マイヤーズだった。
 彼女自身、髪、肌、爪の先まで清潔に保たれ、排出された汚物はシステマチックな処理をされて汚物とわからないほど完璧にまとめられ、決まった日に廃棄するためのボックスに入れられていた。

 つまり、夫であり介護人であるルーカス・マイヤーズが行方不明になっても、ラファエラ・マイヤーズの生活に特に不自由はなかったようだった。
 なぜならルーカスは高名な脳科学医師であり、また最新鋭のコンピューターやロボット開発の中核として関われるほどのノウハウもある。そのため妻の部屋は、天才医師が個人で湯水のように金をかけているだけあって大病院の集中治療室よりも最新、もしくは他にない独自の設備がこれでもかと揃い、ほとんどがコンピューター制御だった。
 人間の手が入るところは少なく、ほとんどが介護ロボットによる世話で済むようになっている。この設備があれば、現在の介護の現場には間違いなく革命が起きるだろう。

 そしてこの場所でシスリー医師が何をしているのかといえば、ラファエラ・マイヤーズとなんとかコミュニケーションを取り、僅かでも何らかの情報を得ることが出来ないだろうか、という試みである。
 彼女は人工呼吸器がなくとも自発的な呼吸と循環を行えているため、脳死ではなく植物状態と診断されている。つまり、可能性は低くとも回復の可能性がゼロではない状態だ。
 しかし連日ここに来てあらゆる方法で声をかけ意思疎通を試みたが、それらしい反応は一切見られない。こういった不随の患者に強い専門看護師を呼んだり、ほんの僅かな視線などを読み取り意思の疎通を試みる機材を持ち込んでみたりもしたが、残念ながら結果は得られなかった。

 そこでシスリー医師が発案したのが、テレパシー系のNEXT能力者にコミュニケーションを試みてもらうことだった。個人で能力の強さや読み取り方法などに差異はあるが、テレパシー系の能力はNEXTの中でも多い能力なので、こういった現場で活用される機会がなくもない。
 とはいえ考えていることを読み取られるということで、患者のプライバシー保護の観点から簡単にその手段を用いるのは難しいのだが、今回は事件の重大さとその解決のためということで訴えを出し、許可が降りた。

 そして派遣されたのが、少しでも力になれれば、ということで立候補してくれたティモ・マッシーニ。ホワイトアンジェラ、もといガブリエラの恩師でもある、ヒーローアカデミーの校長だった。
 彼は思考の読み取りよりも自分の気持ちを相手に伝える力のほうが強いタイプだが、今回のように意識の有無から不明の患者にはむしろそのほうがいい。呼びかけに反応があるかどうかを確かめることがまず重要だからだ。
 今回の試みで反応があれば読み取り能力の強いNEXTを呼ぼう、という方針を固め、本日その試みが実行されようとしていた。

「ホワイトアンジェラが無事で、本当に良かった」
「ええ、しかし今日はまたあのアンドロイドが現れて……。アンジェラを含め、ヒーローたちが街と市民を守りきってくださいました」
「ありがたいことです。ひっきりなしに駆り出されて、ヒーローたちも気の毒に。一刻も早く事件が解決するよう、私も今日は出来る限りの協力をさせていただきますよ」
 力強く言った彼と、シスリー医師は改めて握手を交わした。

「シスリー先生、用意できました」

 脳波測定や眼球の動きなどをチェックするための機材をセットした他の医師が、静かに声をかけてくる。「ありがとう」と穏やかに返し、シスリー医師は校長を伴って患者の側に立った。
「ミセス・ラファエラ、こんにちは。シスリー・ドナルドソンと申します。医者です。具合を見させていただきますので、よろしくお願いします」
 はっきりとした声で耳元で言い、手のひらにも指で文字を書いて伝える。反応は全く返ってこないが、礼儀だ。

 ラファエラ・マイヤーズは、ルーカス・マイヤーズより随分と若かった。
 実際、ふたりの年齢はひとまわり以上違う。資料によると彼女は20歳そこそこでこの状態になり、現在は40歳を過ぎている。人生の半分をこうして眠るように過ごしている彼女は老化が遅いのか年齢よりも随分若い容姿をしており、シワなどもほとんどない。角度によっては少女にすら見えた。
 元々人種的に白い肌は全く日に当たらないことから作り物めいて白く、そのせいで唇の赤さがやけに目立ち、あまり病人のようには見えず、神秘的に美しい。
 頭には修道女のようなベールをしていて髪の色がわからないが、長いまつ毛は金色だった。首には星のついた十字架のロザリオがかけられている。ルーカス・マイヤーズもそうだったので、夫婦揃って洗礼を受けているということなのだろう。

 そして彼女がこの状態になった原因は、通り魔被害。
 前面10カ所以上をナイフで刺され、命はとりとめたもののこの状態になったという。

「ではマッシーニ先生、お願いします」
「はい」
 校長は穏やかに頷き、ベッドの脇に用意された椅子に腰掛けた。
「ミセス、少々失礼致します」
 丁寧に頭を下げてから、爪の先まで手入れのされた、小さめの白い手を取る。そして集中するためかそっと目を閉じ、彼は言った。

「こんにちは、ミセス・ラファエラ。私はティモ・マッシーニ。ヒーローアカデミーという学校の校長をしております」

 傍から聞いている者も思わず心穏やかになるような、ゆっくりした口調の呼びかけ。
 彼のこの雰囲気や人格は本当に稀有なものだな、とシスリー医師だけでなく他の医師や技師たちも感じた。彼はヒーローアカデミーの校長を天職とし様々な迷えるNEXTたちを救ってきたが、もしその道を歩まなかったとしても、こういった方面でも偉人として尊敬を集めたに違いないと。

「……ミセス? ラファエラさん?」

 少し首を傾げ、校長は怪訝な顔をした。何度かまた呼びかけるが、彼はとうとう目を開けて顔を上げ、ベッドに横たわるラファエラ・マイヤーズの顔を見る。
「どうしました?」
「いえ……」
 彼は、戸惑った表情をしていた。

「……申し上げましたとおり、私の能力は、私の気持ちや言葉を伝えるのは得意ですが、読み取りはあまり。しかしそれは詳細が具体的にわからないということであって、感情や思考の揺れ自体は敏感に感じ取れるのです」
「つまり何を言ったかがわからないことはあっても、何か言ったかどうか、声を出したかどうかということは分かると?」
「そういうことですな。……ですが、しかし……」
 校長は、困ったような、悲しげにも見える顔で言った。

「彼女には、一切の反応がありません」

 深く眠っている人でも、大きな声で呼びかければ、起きなくてもむずがって唸ったりすることはある。しかしラファエラ・マイヤーズ、彼女には一切そのような反応がないと彼は言う。
「まったく意識がないということでしょうか」
「意識がない……、いえ……」
 珍しく、彼は言い淀んだ。
「こういったご協力は、実は初めてではありません。全身不随の方や、意識不明の方への意思疎通をお手伝いするボランティアは、今までも何度か行ってきました」
 それは確かであったため、シスリー医師は頷く。そうしてある程度経験豊富だったからこそ、彼の立候補がありがたかったのだから。

「意識がない方は、なんといいますか。“動かなくなった意識”がある、ということがわかります。びくともしない、凝り固まって動かない石のような。血が通っていない、──死んでいる。そのことがわかるのです。しかし、存在しないわけではない。死んでも消えるわけではなく、遺体がそこにあるように」
「……なるほど」
「しかし彼女は──、それ自体がないような」
「なんですって?」
「手は温かい。脈打ってもいます。息も……していらっしゃる。しかし、……ううむ」
 そう言って、彼はラファエラ・マイヤーズの白い手をそっとベッドに戻した。
「少々よろしいでしょうか、ドクター」
 席を立ったマッシーニ校長は部屋の外にシスリー医師を呼び出した。「とても失礼なことを申し上げますが」と恐縮した様子は、彼らしい礼儀正しさにあふれている。

「……彼女、本当に人間、いえ、生き物ですか?」
「……どういうことでしょう」

 完全に戸惑った様子の校長に、シスリー医師は眉をひそめた。
「NEXT能力は五感、六感に続く、その者独自の第七感覚のようなものです。ですからNEXT能力者は、その能力で得られる感覚や印象を重要なものとして受け取るところがあります」
「ええ、すべてのNEXT能力者の方々がおっしゃることですね」
「そうですか。さすがNEXT医学科の方は話が早い。……それで私の場合、人と接する時は他の方と同じように相手の顔を見て、声を聞き、そしてこの能力で感じ取る。だから少し、“魂”というものの存在を信じているところもあります」
「興味深いお話ですね」
「しかし彼女からは、……何も感じられない」
「……何も?」
「何も」
 彼は、頷いた。

「こんなことは言いたくありませんが、……彼女には、魂がない」

 いや、かつてあったことすら感じられない、と彼は言った。
「ロボットとテレパシーが出来るかどうか、という実験もしたことがありますがね。その時の感覚に似ています」
「ロボット」
「いや、こんなに失礼なことを申し上げるのは本当に……」
「いいえ、正直で率直なご報告、ありがとうございます」
 シスリー医師は軽く頭を下げ、困った様子の他の医師や技師がいる部屋に戻る。

 そして改めて、ラファエラ・マイヤーズを見る。
 40代だというのに少女のようにも見える、20年近く眠り続けている女性。血の通った赤い唇。慎ましく頭を覆う修道女のようなベールと、唯一の装飾品であるロザリオ。その姿は、間違いなく美しい。
 しかしそれは、──まるで神の奇跡によって腐敗しない聖女の遺体のような、得体の知れない不気味な神秘を伴う美しさでもあった。

 シスリー医師は、ふと、ラファエラ・マイヤーズの頭部につけた脳波測定パッチを見た。
 こめかみ辺りにつけられた、吸盤のようなパッチ。だがその位置は、標準より少しずれている。
「あ、本当はベールの中のところに着けたかったんですが、何か凹凸があるみたいで。……傷跡だと思うんですけど」
 パッチを装着させた医師が言った。
 ラファエラ・マイヤーズがこうなった原因は、通り魔からナイフで滅多刺しにされたという痛ましい行為によるものだ。今見える顔はきれいだが、刃物がかすめたというのはあるかもしれない。このベールも、それを隠すためのものなのだろうか。
 相変わらず、小さめの尖った鼻からは、眠っているようにしか思えない安らかな息が漏れている。
「……失礼します」
 しかし思うところのあったシスリー医師はそう声をかけ、丁寧にラファエラ・マイヤーズの頭を支え、後頭部を少し浮かすと、彼女が着けている修道女のようなベールを丁寧に外した。そして、眉を顰める。
 彼女の髪は、全てきれいに剃り上げられていた。介護しやすいように髪を短くするのはありうることなので、それそのものはそこまで驚くことではない。シスリー医師が注目したのは、そこではなかった。

「……彼女の傷は前面だけ?」
「あ、はい。記録ではそうなってますが……」
「その後の治療は? 大きな手術などはありましたか?」
「外科的な処置は、ここ15年ほどはありません」

 投薬などはありますが、特別珍しい薬はないですよ、とカルテをチェックしながら言う医師に、シスリー医師は更に表情を険しくした。

 ラファエラ・マイヤーズが、ちょうどベールを着けていた部分。
 綺麗に剃り上げられた頭にあるのは、大きな傷跡。まだ塞がりきっていない、生っぽい傷。

 巨大な縫い跡が、まるで茨の冠のように、頭部をぐるりと取り巻いていた。
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BY 餡子郎
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