#145
 ホワイトチャペルの前で、ガブリエラは骸骨たちを眺めていた。

 ああ、すっかり忘れていた。元々あまり物覚えのいい方ではないけれども。
 ふたりとも、いつも同じ修道女の服を着ていた。小さい頃からガブリエラは少しばかり抜けた子供で、よくふたりを間違えた。もしかしたら当時は、母親がふたりいることをそもそもよく理解していなかったかもしれない。
 彼女たちもまるでふたりでひとりのような振る舞いを好んだし、彼女が死んだ後、母は彼女のラファエラという名前を名乗るようになった。あそこでは、属するものの名前を継ぐ習慣がある。ガブリエラがアンジェロ神父からアンジェラと洗礼名を貰い、彼の庇護下にあることを示したように。

 娼婦だった彼女と、酒場で歌を歌っていた母は、秘密の恋人同士だった。
 常に皆が他の誰かを貶める理由を探し、NEXTだ、赤毛だ、人種が違うといちいち差別を受け迫害を受けるこの場所で、同性の恋人もまた迫害の対象だった。子供が欲しかった彼女は客のひとりから子種を貰い、不自由なく育てる金を得るためだけに、いちばん金回りのいい男と所帯を持とうとした。
 母はそれに耐えられず、NEXTだった男を陥れて、魔女狩りによって殺そうとした。彼女はそれを知っていながら、母とともに神の妻になった。誰からも愛されていた彼女だけれど、彼女が本当に愛していたのは母だけだったからだ。
 そして騙され、利用され、生き延びた男は、彼女を恨んで彼女を殺した。

 どうしようもない。
 ガブリエラでさえ、そう思った。そもそもが地獄の底での出来事で、誰が全て悪いとも言えないし、何を救いようもない。──おそらく、きっと、ヒーローであろうと。
 荒野の果ての街。誰も彼もが貧乏で、常に他者を食い物にすることを考えていて、緊張感を忘れることができない。血の気が多くて乱暴で、したたかで狡猾にならねば生きていけない。あそこはそういう場所なのだ。
 それを変えるのは、世界を変えることにほかならない。更に言えば、それはヒーローの仕事でもない。ヒーローができるのは、目の前の悪者をやっつけて、目の前にいる困った人を助けることだけ。ヒーローだからといって、何でも出来るというわけではない。
 彼女はそれをよく知っていて、その中で幸福を見出そうとした。喧嘩で人が死ぬのは日常茶飯事、強盗、強姦も毎日起きる。男も女も関係ない。それを助ける者も、まともに裁く者もいない。唯一、いるのかもわからない神に縋るのはそれぞれの自由、もしくは勝手。そんな場所で、彼女は子供を産んで好きな人と暮らしていくという願いを叶え、そして死んだ。

 彼女は幸せだった。なぜならいちばん大事なものを持っていたから。
 荒野の果ての地獄のような街で、利用された男たちの不幸の上に成り立つ、仮初の、幻のような日々。その魔法が解けても、何があっても最後まで残るもの。真実の愛を得て、彼女は幸せに星になった。マッチ売りの少女のように。

 ──ああ、ああなりたい。

 骸骨たちが、がしゃがしゃと蠢いている。
 彼女は星に行ってしまった。骸骨たちは、星に行けなかった人々。天使に手足をもがれ、蛇になって地を這いずることしか出来ない者たち。

「──ふふ」

 笑みが漏れた。
 聖書で語られる、殉教の聖人たち。星に行った人々。自分の身を犠牲にして人々を救い、聖者と呼ばれる彼らは、さぞ心地が良かったろう。天使に選ばれ、黄金の槍で貫かれ、法悦の様を浮かべる聖女のように。
 無謀な挑戦を讃えられ、美化され、長く語り継がれてゆく人々。背負わなくてもいい罪を背負い、鞭を与えられ、消えない傷痕を刻みつけられ、骨と皮になるまで痩せた姿を、誰もが涙を流して讃え続ける。

 ガブリエラは、母を施設に入れてあげようとした。かわいそうな母。頭のおかしい母。いちども抱き上げてくれなかった母。ガブリエラがいなくなっても、聖歌隊のソロがいなくなっても、何も変わらなかった母。
 そんな母に、何か施してやりたかった。あらゆる人に施すのだと教える母が逆に施しを受けた時どんな反応をするのか、ガブリエラはぜひ見てみたかった。
 真実の愛で呪いが解けると、誰かが言った。しかし、ガブリエラが彼女にしようとしたことは、愛ではない。ガブリエラは、ただ見せつけたかったのだ。頭のおかしい母が自分に何かしてくれることはないけれど、まともな自分はそうではないのだと、母よりも聖者ぶってみてやりたかっただけなのだ。

 それに、あれほどわからなかった母のことが、今ならわかる。
 神の妻となる誓い。彼女とともに神の花嫁になり、天使に認められて星に至ることで、母は彼女と結ばれようとした。彼女が先に星に行ってしまった今、母はずっとその誓いを守っているだけなのだ。
 だから頭がおかしいというのなら、母よりもむしろ彼女、ラファエラの方だろう。ガブリエラも、彼女が考えていることはよくわからない。妊娠を厄介だと思うことのほうが普通であるあの場所で、彼女はなぜああも子供を欲しがったのか。

 だがとにかく、母が愛しているのは彼女だけだった。母にとっての天使は、彼女しかいないのだ。血など繋がっていないことを抜きにしても、母にとってガブリエラは、愛しい彼女が欲しがった思い出の玩具、あるいはよその男の種で愛しい女の腹を穢して生まれた犬の子だったのかもしれない。
 母にとって大事なのは、生きるか死ぬかということではなく、正しいかそうでないかということ。星に至るための誓いを、守れているかどうかということ。彼女への愛を、変わらず貫いているかどうかということ。彼女に会いに、星に行けるかということ。

 だが今、ガブリエラは清々しい気持ちだった。
 母にいよいよ愛されていなかったこと、血が繋がっていなかったことは、特にショックではない。むしろ、母を理解できた喜びがあった。他人だったこと、その上で彼女を理解できたことで、ガブリエラの中の彼女は頭のおかしいきちがい修道女ではなく、割と気が合いそうな親しい人にすらなりそうだった。

 なぜなら、ガブリエラも彼女と同じであるから。
 マム、ガブもあなたと同じです。血が繋がっていないのに、ふしぎ。

「うふ、ふふふ」

 星の街・シュテルンビルトを目指して、ガブリエラは歩いた。
 どんなに貧しく、お腹が空いていても、困っている人を助けた。悪者をやっつけられないぶん、たくさんの人を助けようとした。
 しかし、ガブリエラは悪い子だ。聖者のように死ななかった悪い子。地べたを這いずり、泥水を啜り、口に入るものはなんでも飲み込んで生きることに執心し、歪んだ快感を貪る己が聖者ではないことなど、天使はきっとお見通しだと、ガブリエラは確信していた。

 そうだ、こうして身を捧げ、善行と愛を示すふりをして罪を重ねていれば、きっと天使が現れる。
 神様を信じる乙女のように、サンタクロースのプレゼントを待つ子供のように、ガブリエラは一途にそう考えていた。



 そうして、いつの間にかガブリエラがいるのは、墓地ではなく、真っ暗な地下鉄の車両の中になっていた。



 頭が吹き飛びそうなほどの飢餓感。
 ガブリエラは座席に横たわっていて、周囲にいる人々が、指を組み合わせて祈りながら泣いている。助けてください、聖女よ、私達の天使よと、安全な柵の中で餌を求めてめえめえ鳴いている、家畜の羊のように。
 良くも悪くも素直で周りに流されやすく、またそうして流れに乗らねば何もできない、目の前の餌を食べることばかりに熱心な羊。人はたかだか1週間飲まず食わずでも死なないし、耳や指を切り落としたところでそうそう死なない。だというのに、彼らは些細な事ですぐにパニックに陥って大騒ぎする。
 ここにいたのがガブリエラではなく黒い山羊であれば、彼らはきっとこうして祈ったりしていない。迷い、ストレスでパニックを起こし、黒山羊に唆されて夢中のまま殺し合い、そして後で自分の罪に怯えるのだ。私は悪くない、と叫びながら。
 それが普通だ。彼らは悪い人ではないが、いい人でもない。そういうものなのだ。

 彼らが確固たるものを持たないように、ガブリエラも彼らに対して基本的に無関心だ。
 だが、疎んだことも憎んだこともない。見下してもいない。むしろその従順で愚かな様には、親しみを覚えることもある。だからこそ、無償の愛を平等に振りまく聖女のふりをするとともに、彼らに命を捧げる真似事をして楽しむのもやぶさかではない。

 もっと、もっと、もっと。
 怪我人だけでなく、群がる人々の怪我を、カロリーバーを継ぎ足しながら、目眩と闘いながら治し、倒れて意識を失いかける。油を飲み、すべてのカロリーを人々に分け与え、餓死寸前で朦朧とする。いちどでも転べば大怪我をする危険なライディングの上、廃材の谷を、あるいは跳ね橋をジャンプして飛ぶ。
 死にたいわけではない。むしろひどく生き汚い。ガソリン臭い草を食べ、泥水を啜っても、ガブリエラは生きることに執心してきた。そしていつ頃からか、どんな事が起きても生き延びていられることに、奇妙な興奮を覚えるようになっていた。

 ああ、そう。気持ちがいい。暗闇に支配されたメトロの中で、92人に貪られながら死の淵を歩く自分を、大勢が聖女だと讃えている。ああ、そう。そう見える。──ほんとうは違うのに!

 生ぬるい楽園。世間をなめきった愛玩犬がのうのうと生きていける都会で、ガブリエラはそうやって、天に唾を吐きながら罪深く遊ぶことを覚えた。
 そうでなければ生きていけない。生きていると感じられない。快楽を得られない。常にどこかに行きたいのだ。行きたい、生きたい、いきたい、いかせてほしい。星へ。誰か。──私の天使は、いつになったらやってくる? いつになったら、黄金の槍で貫いてくれるのか?

 ──折紙サイクロンでござる! 救助の目処が付いたでござるよ!

 ああ、ヒーローがやって来た。仕事と称して羊をおちょくって追う犬ではなく、大勢の羊たちを正しく導く、本当の羊飼い。

「──ふふ」

 残念、今回の遊びはおしまいだ。
 天使は来なかった。だがなかなか楽しめた。地雷原を歩くほどではないけれど。

 動けないガブリエラを人々が毛布で包み、どこかに運んでいく。十字架にかける罪人を縛り上げて、丘に追いやるように。自分たちの罪を背負って死ぬものを讃えながら、彼らは形ばかりの謝意とともに生贄を殺す。
 かまわない。そうすればいい。なぜなら絶対に死んでなどやらないからだ。彼らはただのごっこ遊びの相手、一時の慰めのための玩具であって、最も愛するものなどではない。

 己が死ぬのは、最も愛する者のためにだけ。
 いつか出会う、己の天使のためだけだ。

 ──ライアン殿! アンジェラ殿を、頼む! 早くレスキューに!

 意識が浮いたり沈んだり。生と死の間。1歩間違えれば死ぬ穴の縁。ビルの屋上の塀の上。ああ、気持ちがいい。

「あ……」

 その時、きらりと何か輝いた。

 ──おっ? 意識あんのか、スゲーな。もうちょっとだ、頑張れ

 その声に、ガブリエラは雷に打たれたような気になった。
 手脚の自由が奪われる。息ができなくなる。天罰を受けたかのような衝撃。
 甘くて、低くて、なめらかな声。それでいて身体のいちばん柔らかいところを貫くような、容赦のない強い声。

 頭の中が蕩けるような、嗅いだことのないほど良いにおい。
 美しい、金色の輝き。きらきら、きらきら。

 ──おうよ、キラキラっぷりなら負けねえぜ? ゴールデンライアンだ。さすらいの重力王子、ってな。バカンス中だったってのに、あんたのためにジェットで直行だ。感謝しろよ

「王子……」

 王子なんていたのか、とガブリエラは妙な感心をした。
 都合のいい白馬の王子様なんていない、とシンディは言っていた。実体験に基づいた意見だ。同じように、ガブリエラもサンタクロースなんていないし、神様もいないと思う。

 ──だからこそ。

「天使、……かと、おもった……」






 ああ、思い出した。すっかり思い出した。





 メトロ事故の後入院させられた病院のベッドの上で、ガブリエラは山ほど取り寄せた録画映像を見ている。コンチネンタルエリア出身のフリーのヒーロー・ゴールデンライアン、その活躍の記録。
 昨年、彼がバーナビーの新しい相棒としてシュテルンビルトにやって来ていたのは知っていた。知っていたが、元々男性ヒーローにそれほど興味がなかった上に倒れたファイヤーエンブレムの動向ばかり気にしていて、彼のことはまるで見ていなかったのだ。
 なぜ注目していなかったのだろう、非常に惜しいことをした。彼を知っていたら、ラグエル2号を失った悲しみも少しは癒えるのが早かったかもしれない。

 最初から、いい人なのだとは感じていた。
 感じるのは、ずんと大地を踏みしめる重量。揺るぎない信念。俺様なのは作ってもいるが、素でもある。根拠と自信があるからだ。それでいて軽やかで柔らかく、包み込むような広さと優しさもある。
 物知りで頭も良く、機転も利く。いつも髪がきまっていておしゃれで、背が高く、美しい横顔。そのくせ子供っぽいところもあり、くだらないジョークで大笑いするところはとてもキュートだった。

 彼はガブリエラにとって、初めて特別に興味を惹かれた男性だった。
 親しくなりたい。いつもきらきらして見える。色々なところがいちいち魅力的で、まぶしくてどこを見ていいのかわからなくなる。彼の一挙一動が、地面に這いつくばっていてさえ常に格好良く見える。彼が他の人を愛すると思うと、胸に穴が空いたような、痛いような、そんな気になる。その思いを、女神様は恋だと言った。

 ガブリエラは嬉しかった。ちゃんと恋ができたと。正直、恋人とか結婚とかは相変わらずよくわからない。だが幸い彼は男性だし、子供だけでも協力して貰えないだろうか、とガブリエラは考えた。
 しかし彼はとてもいい人なので、もし他の女性と良い仲になったら、もうそんな頼みは了承してもらえないに違いない。ならば早めに行動しなければ。

 そう思っていた矢先、ネイサンからのアドバイスもあって行動した結果の、あの夜の出来事だった。
 最初からそうなることを狙ったわけではない。何しろ能力に目覚めてからガブリエラは久しく酒に酔っていないし、彼も通常よりはかなり強い質だったので。

 ──お前、キモチイイんだろ?

 谷底に突き落とすような、低い声。ぞくぞくと、ガブリエラの背に震えが走る。
 そう言われた時、ガブリエラは、ずっと歩いてきたぎりぎりの崖っぷちからとうとう勢い良く突き落とされたような気分だった。

 何が聖女だ。ただのドMの変態女──そう言われた時、まったくもってそのとおりだと、ガブリエラは泣きたくなるような気持ちだった。悲しいのではない。むしろその逆だった。とうとう言ってもらえた、と。
 恥ずかしい、とは思った。初めて愛した男に、奥の奥にある下衆な本性を見破られ、自慰行為を手酷く罵られるなど、なんてひどい。恥ずかしい。それは絶望であり、そして表裏一体の歓喜で、自分を見失いそうな快感でもあった。

 しかもなんと彼は、更にそれ以上の快感をも教えてくれた。
 悪い子には罰を。しかしいい子にしていれば、彼はガブリエラにご褒美をくれた。痩せた身体を容赦なく罵られ、好き勝手に弄られ、骨まで痛むほど噛みつかれて、それでも多少は悪くないと言ってもらえる。ゆるしてもらえる。あまりに強い快楽に、危うく腰が抜けてしまいそうだった。

 ──ガブリエラは、天使を待っていた。自分だけの天使を。

 女神から遣わされる、偉大なる天使。黄金の光を纏う天使が、選ばれし者だけを新たなる星に導く。
 彼に茨で縛られ、目の潰れるような輝きを見せつけられ、なんと汚らわしく醜いのだと罵られたい。罪を犯した奴隷のように扱われて、偽物の羽根を乱暴に毟り取られてしまいたい。美しい黄金の獣に食い尽くされる想像、それがもたらす歪んだ恍惚。

 しかしガブリエラがこのとき新たに思ったのは、愛されたい、ということ。
 愛せよ、愛せよと、ひたすらに聖典に書いてある神の教えにまた反する思い。子供さえ貰えればいいという思いにも矛盾している。
 与えられるものが、星でも、罰でも、どちらでもいい。痛みでも、苦しみでもいい。しかしその全てが己への愛によるものであって欲しいと、ガブリエラは強く望んだ。あの法悦の聖女のように、ただひとり天使に選ばれて黄金の槍で貫かれることを、ガブリエラはやはり望んだのである。

 ──ああ、このひとしかいない。彼こそが、私の天使!

 ガブリエラは、そう確信した。
 至近距離でガブリエラを睨み据える金の目は、天使が持つ、胸を貫く黄金の槍そのものだった。

 更にその直後の朝、もう来ないのではとぼんやり思っていた月経が訪れた時も感動した。フェロモンはともかくとして、ホルモンは間違いなくどばどば出ていることが証明されたのだ。心と身体が一緒になって、彼こそだと一斉に叫び求めているのだと。
 ガブリエラは愛する人の性別を気にしたことはないが、彼の恋愛対象は女性だ。そして、異性であれば子供も作れる。女に生まれてよかった、とガブリエラは初めて思った。

Hélas, Maman ! Un faux pas
   ──ああ母よ、私は踏み外してしまいました
Me fit tomber dans ses bras.
   ──彼の胸に飛び込んでしまいました

 ガブリエラは、歌う。母に伝えたい事がある時に、こうして歌う。彼女に教えてもらった歌い方で、朗々と。
 そしてあの日、彼にせがまれ朝日の中で歌った曲は、今までで最も晴々と歌い上げることが出来た気がする。

Hélas, Maman ! Un faux pas
   ──ああ母よ、私は踏み外してしまいました
Me fit tomber dans ses bras.
   ──彼の胸に飛び込んでしまいました

Je n'avais pour tout soutien Que ma houlette et mon chien.
   ──それまで私の支えは、仕事の杖と犬だけだったのに
L'amour, voulant ma défaite,
   ──恋が私をだめにする
Ecarta chien et houlette
   ──犬も杖もどこかにやった
Ah ! Qu'on goûte de douceur,
   ──ああ! 恋が心をくすぐると
Quand l'amour prend soin d'un cœur !
   ──こんなに気持ちが甘くなる!

 母よ、母よ、あなたならわかってくれるでしょう。恋人への愛を貫き、気も触れさせるあなたなら。そういう思いを込めて、ガブリエラは歌った。

 このひとを愛しています。

 このひとの子供が欲しい。
 このひとに罰されたい。
 このひとに許されたい。
 このひとに褒められたい。
 このひとに認められたい。

 このひとに、愛されたい。

 そのためならば、いくらでも待つ。
 じっと耐えて地べたに這って、待って、待って、待って、ひたすらに待つのは、とてもつらい。しかし、彼に愛してもらうためだと思えば、喜びでもある。
 待っていろと言われる度に、ガブリエラは絶望し、そして彼に命じられて苦行に耐える快感に、どうしようもなく震えた。
 ああ、やはり愛するものに与えられる苦痛は快感でしかない、とガブリエラはまた確信する。

 しかし待てたら、彼はご褒美をくれるのだ。
 彼の選んだ服を着て、彼に靴を履かせてもらえる。美しい足枷のような靴を履かされ、無様によろよろ歩く様を笑われる度に胸がときめき、気まぐれに手を引いて貰えた時は幸福感で一杯になった。
 その上彼は、「おまえはどうしたい」と意見も聞いてくれる。なんて優しい人だろう。大事な車を運転させてくれた時は、血にニトロをぶち込んだかのように興奮した。

 もうこれ以上はないと思っている側から、彼は軽々とその上に連れて行ってくれる。
 これには参った。苦痛や嫌悪はどうにでもなるが、快楽はそうはいかない。なにせ快楽ばかりを求めた挙句、ガブリエラはこうして罪を重ねてきたのだから。
 彼と接する度、彼が間近で話す度に、ガブリエラは耳から入ってくる彼の声と、全身に染み渡る彼のにおいに、心と身体が溶けて死ぬような思いを何度もした。

 それに、この能力で心から快感を得たのも、彼が初めてだった。
 たまに待つことに耐えられずに能力を使って自分の血肉を、命のエネルギーを彼に流し込んでこっそり悦楽を得るのは、言いつけを破っているという背徳感もあって、腰が抜けて死んでしまいそうなほどに気持ちが良かった。


 ──俺も、お前を愛してるよ。ガブリエラ


 そして、クリスマスイブの夜。いちども祝われたことのない誕生日の前日の夜、彼はとうとうそう言ってくれた。
 ああ、わたしも、わたしもです。わたしもあなたをあいしています。あいしあっています。しあわせで、しあわせすぎて、こういう時は、なんと言えばいいのでしょう!

 もう誕生日などどうでもいい。いま生きているからいい。
 おかあさん、生きていてごめんなさい。でも生まれてきてよかった。生きていてよかった!
 生きています! ありがとう!!

 がしゃがしゃと、骸骨たちが群がってくる。おそろしい亡霊たち。
 死にたくないと、生きたいと、ガブリエラに手を伸ばす命。吸い取られる。奪われる。食べられる。茎が伸び、蕾をつける。花を咲かせる。根を張り、石の隙間から這い出してくる虫達。もっと寄越せとでもいうように。
 全ての生きとし生けるものたちが、自分を吸い取って、大きくなっていくのがわかる。そしてそれによる歓喜、安らぎ、さらに求める強い飢え。
 ああ、食べられる。聖者のように、無残に貪られる死肉のように。

 悪くはない感触だ。しかし本当の愛を得たガブリエラにとって、もうそれすらもぬるいお遊びでしかなかった。もしかしたら、地雷の上を歩くことでさえ。

 骸骨たちに群がられながら、ガブリエラは空を見上げる。
 天に光るのは、輝く星々。数えきれないほどの満天の星空の中、最も強く輝く星は、方角を示す金色の星。
 友を失い、誰も居ない荒野。1歩間違えれば死ぬ地雷原。その絶望の中でただひとつ、常に自分を導いてくれた輝き。──ああ、あなたはあの星のよう!


 ──俺の、この俺様の女に、
 ──何、してくれてんだ、ァアアアア!?



 ドン、と、大地が割れるような強い衝撃。
 骸骨たちが一斉に倒れ伏し、押し潰されていく。圧倒的な力。星に至れぬ愚か者の四肢を、黄金に輝く天使が無残に引きちぎっていく。

 押しつぶされる骸骨たちの中で、無事なのはガブリエラだけだ。
 なぜなら、私は選ばれた。抱き上げてもらえた。待っていたから。とってもいい子で待っていたから。今なら胸を張って言える、ガブはいい子。とってもいい子。言われたとおりに、ずっと待っていたのです。
 だからご褒美をください、たくさん褒めてください。どれだけ待たされても、鞭を打たれてもいい。後で優しく撫でてくださるのなら、ご褒美をくださるのなら、待つつらさも鞭の痛みも、私にとってはとても甘い。

 彼の声が聞こえる。愛していると囁く声。ああ、ああ、なんて素敵。身も心も蕩けそう。歌も歌ってくださるのですね。素敵です、とても素敵。とても。もっと聴きたいです、ああ──


 ──愛してる
 ──今の、録音したら売れるやつだぞコラァ



 ええ、ええ、そのとおり!
 しかしいけません、それは私だけのものです。私だけ。なぜなら私はあなたを愛し愛された、あなたの恋人なのですから!

 無残に潰れている骸骨たちを足蹴にしながら進み出たガブリエラは、跪き、うっとりと黄金の星を見上げた。その様は天啓を授かる聖女のようであり、愛する主人のサンダルにキスすることを許された奴隷のようでもあり、そして命令を理解できない馬鹿な犬のようでもあった。

「お前、この……」

 ああ、いらいらしていらっしゃるのがわかる。わかります。申し訳ありません。私は頭が悪いので、はっきり言われないとわからないのです。どんな呪いも解ける真実の愛とはどんなものか、おバカちゃんにはわかりません。わかりませんとも。実際に見せていただかないと。
 どきどき、うきうきしながら、ガブリエラは天高く輝く星を見上げた。



「……とっとと起きろ、馬鹿犬が──!!」



 獅子の咆哮のような怒鳴り声に、胸が震える。心が甘く蕩けそう。
 ガブリエラは、満面の笑みを浮かべた。
 黄金の天使が発する強大な引力が、ガブリエラを星に引っ張り上げる。
 ああ、愛されている。めいっぱい愛されている。
 これこそが、真実の愛! 求めていたヴィジョン! あなたの愛、私のすべて!

「──はい、ライアン!!」

 生きている。生きて、行った、荒野の果て。たどり着いた、星の街。
 ガブリエラは、満ち足りた思いを持って目を覚ました。
- Season4 -

Angels we have heard on high
(いと高き処におわす天使/荒野の果てに)

END
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BY 餡子郎
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