#144
 ──荒野を歩いている。

 おなかがすいた。食べても食べてもおなかがすく。
 鶏を盗んで食べる。蛇を捕まえて食べる。シリアルを食べる。たくさんのお菓子。ジャンクフード。ガソリン臭い草。油、マヨネーズ。泥水を啜る。しかし、腐った馬の死体は食べない。

 黒い馬の死体には蝿が集り、その死肉を貪っている。自分のために命を投げ打って最後まで歩いた彼の肉を、自分は食べなかった。死んでしまうからだ。
 殉教者のように倒れたその体に寄り添って、彼の肉を食べて、聖者のように死ぬのが神様にとって正しい道だったろうか。だがガブリエラは、そうしなかった。

 道の脇に、車がとまっている。その中で乱交する男女が、奇声を上げながらナイフを振り回していた。その向こうでは、ぼろぼろの服を着た女性が地雷原を歩いている。
 死ぬだろう。そう思った瞬間、彼らは骸骨になった。死んだのだ。ガブリエラが無視して通り過ぎた彼らは死んで骸骨になり、そのまま永遠に彷徨い続ける哀れでおそろしいおばけと化した。
 お菓子を持った男が話しかけてくる。男の車のトランクには、死体。骸骨。

 ──ああ、死者の日だ。

 よく見れば、そこらじゅう骸骨だらけだ。
 皆全身を白塗りにして、わざとぼろぼろの服を着て、目や口の周りを黒く塗って、動く骸骨の仮装をする。お祭りのための作りもの。だが、本物も混ざっている。本物の骨、死んだ人。
「本当に、天使のような女だった」
 歌って踊って、食べたり飲んだり。死んだ人の思い出話をする生者。死んだ人の口は閉じたままだ。ギャングたちが血みどろになって殴り合い、酒を飲みながらげらげら笑っている。皆骸骨だ。あの荒野の果ての街で死んでいく人々。

 いつの間にか、ガブリエラは松明を持っていた。墓地まで行く格好。
 ああ、仮装をしなければ、生きているとばれてしまう。自分だけ生きているとわかったら、どんなめにあわされるだろう。死者の国に連れて行かれてしまうだろうか。
 死んだらああなるのだと、子供の頃に皆学ぶ。骸骨はこわい。おばけ。おばけはこわい。死にたくない。ああなりたくはない。ガブリエラは骸骨たちの合間を縫って、おどおどと走った。

 ごめんなさい。生きています。骸骨ではありません。立派な聖者でもありません。ガブは悪い子なのに生きている。生きている。ごめんなさい。

 蠢く無数の骸骨に見つかるまいと、ガブリエラは身を屈めて走った。足元には蛇も隠れている。日干しレンガのかけらがたくさん落ちていて、足が痛い。ブーツを買わなくては……買ったはずだ……神様の力を売って、金を稼いで……

 シュテルンビルトに行って……ヒーローアカデミーに入って……

 ──いや。
 何か、忘れている気がする。もっともっと前のことだ。
 そこに、何かを置いてきたような。
 根本的に道を間違えているような。そのことに、今やっと思い至ったような。

 ガブリエラは、教会に駆け込んだ。
 死者の日は教会の中も骸骨だらけで、壁にも、天井にも、柱頭にも、無数の骸骨が吊られている。そこら中に置いてある頭蓋骨の中にはろうそくが入っていて、ゆらゆらと光っていた。しかしその光は、不思議とあまり恐ろしくはない。

 ガブリエラは、誘われるようにして、中央の身廊をふらふらと進む。

「ファーザー、マム、おねがいします」
「金は受け取った」

 故郷を出ていく時、アンジェロ神父に言付けをする自分の後ろを通り過ぎる。
 ここではない。もっと前。もっと前だ。逆方向、通り過ぎたことも忘れていた場所。

 いつの間にか、闇なのか光なのかもわからない、あやふやなところを歩いている。墓地へ向かう道。いなくなった人にもういちど会うための道へ、ガブリエラは引き返した。










 ──とても良い気持ち。

 ガブリエラの極限まで最初の記憶は、そんな感情だった。
 ゆっくり流れる、体温と同じくらいのぬるま湯に、ゆらゆらと揺蕩っているような。しかし息苦しさは全く無く、大きく息を吸い込めば、全身に心地よいものが染み渡るような。
 意識が浮いたり沈んだり、目覚ましをかけない日曜日の遅い朝のような、心地よい微睡み。じっくり周りを感じれば、とくとくと、とても心地よいものが流れ込んでくるのがわかる。
 心臓の音。血潮の暖かさ。掛け値なしに与えられる生命。

「これに、汚れたものを全部詰め込んで──そうしたら」
「どうして……どうしてそうしない!? 約束したのに!」
「それなら、赤ん坊なんかいらなかった!!」
「殺してしまえばいい。こんな汚らわしい犬の子!」
「私だって、……私だって、殺したかった! 殺してしまいたかった!」

 誰かの声が聞こえる。悲しそうな、怒っているような、心の底からの慟哭。

「ごめんなさいね、ガブリエル」

 そうしようと思ってたのよ。いい考えとも思ったわ。
 でも私ったら馬鹿だから、こうしてひとつになっちゃうと、つい可愛くなっちゃって。
 それに、あなたの欠片も入っているんだもの。可愛くならないわけがなかったのよ。

 あれ程の慟哭を軽くあしらうようにして、柔らかい声が呑気なほどに優しく言う。

「そうねえ、歌をあげましょう。私はもういらないし、でも悪いものではないわ」

 聞いたことのない音。──いや、違う。
 どこか遠く、とても遠くで聞いたことがあるような音。
 言葉のような、歌のような、どこか遠い星が瞬く音のような。

「ひとつになるんじゃなく、別れていく。不思議ね、この星は」

 ここは、ゆりかごだ。
 鋼鉄の紛い物ではない、本物のゆりかご。

 あまりの心地良さに、ガブリエラは膝を縮め、体を丸める。
 ああ、ずっとここにいたい。








 ──だが、行かなければ。私の星へ。








 粗末な部屋に、簡単なベッド。ガブリエラはここで生まれた。
 ベッドには頭にベールをかぶった女が上半身を起こして横たわっていて、それに寄り添うようにもうひとり、同じくベールをかぶった、少し年嵩の女性。母がいた。
 彼女たちは、生まれて間もないような赤ん坊を抱いている。それが自分であることを、ガブリエラは悟った。

「──ふふ」

 ベッドに横たわった女が、笑った。とても楽しそうな、幸せそうな笑い方だった。
「ねえ、見て。こんなにちっちゃい」
「ああ」
 ベッドで微笑む女に、母が頷いた。
 ほわほわと幸せそうな彼女に対し、母は泣きそうな顔をしている。いや、散々泣き腫らして諦めたような顔、という方が近いだろうか。しかしどちらにしろ、そんな彼女の顔を見たのは、はじめてだった。──いや、はじめてではない。ガブリエラは、知っている。なぜならああして彼女たちに抱かれ、まさにそこにいたのだから。小さすぎて、すっかり忘れてしまっていただけだ。
「くるくるの赤毛。トマトみたいな色! あはは」
「これが……天使のしるし?」
「そうよ」
 頷いた彼女は、濃い目の色のブロンドだった。──ブロンドになっていた。
「最低限、これだけあげたの。この子が天使だっていう証拠の色。これで私は星に行ける」
「……そうかい」
「名前をつけてちょうだい」
 私が産んだから、名前はあなた。期待するように言う彼女に、母は俯いた。

「……ガブリエラ」

 ぼそりと低く母が言うと、彼女は満面の笑みを浮かべた。輝くような笑みだ。
「まあ、素敵! ぴったりだわ、とてもぴったり。とても」
 処女受胎を告げる天使の名前。祝福され、望まれて生まれてきた子供にはぴったりだと、彼女は喜んだ。

「ガブリエラ、私の天使。あなたがいれば星に行ける」

 もうひとりの、──ガブリエラを産んだ母は、法悦の聖女のように言った。そしてふたりは、小さなガブリエラの上でそっと手を取り合う。

 ──我々は善行を積み、愛を捧げることを誓います。
 ──困っている人を助けます。愛をもって。
 ──たとえ、自分の身を削っても。
 ──それはとても良いことで、何よりも尊いこと。
 ──その行いに邪なものがあれば、黄金の輝きで、天使は我々を罰するでしょう。

 ──我々は神の妻となり、天使によって星に至ることを目指します。

 小さなガブリエラの胸の上で手を取り合い、彼女たちは、厳かに聖なる言葉を紡いでいく。神の妻、修道女になるための誓いの言葉。
「ふたりで、神様の花嫁になるの。そうしたら私達、結婚したみたいでしょう?」
 その言葉に、母は今度こそ泣きそうな顔をして、彼女に寄り添った。

 ──ああ。
 ──これは、結婚式だったのか。

 ガブリエラは、すとんと納得する。
 セピア色に褪せたあの写真は、だったのだ。

 花嫁がふたり。
 男性と家庭を築くことになんだかぴんとこなかったのは、ガブリエラの両親が、両方とも女性だったからだ。






「さあ、パンですよ」

 修道女が、みすぼらしい子供たちにパンを配っている。
 誰にでも優しく、いつもにこにこと微笑んでいた彼女は、やっと歩けるようになったガブリエラと一緒に、子供たちにパンを配っていた。たどたどしく手伝うと、いい子ね、とキスをしてもらえる。本能的な喜びに、ふへぇ、とガブリエラは赤ん坊から抜けきれない声を上げた。
 ガブリエラもお腹が空いていたが、そのパンがガブリエラの手に渡ることはない。なぜならガブリエラは彼女の子で、彼女と同じように困った人を助ける立場であるから。

「困っている人を助けなさい。愛をもってです」
「たとえ自分の身を削ってもです、ガブリエラ」
「あなたには、その力があります」
「それはとても良いことで、何よりも尊いこと」
「そうすれば再び天使が現れて、私達を星に導いてくれるのです」
「しかし、もしその行いに邪なものがあれば」
「その黄金の輝きで、天使はあなたを罰するでしょう」
「天使は何もかもを見通す、絶対的な存在なのだから」

 ──そうだ、思い出した。

 母は、いや産みの母は、ことあるごとにそう言った。そうだ、そもそもそう言っていたのは彼女だったと、ガブリエラは思い出す。聖女と呼ばれていたのも彼女だった。

 パンを配りきったガブリエラがぼんやりしていると、教会の影から、ちょいちょいと手招きする骨ばった手が見えた。とことこと歩いていくと、黒い何かにぶつかる。すると、手の中にばらばらとたくさんのお菓子が落ちてきた。
 思わず見上げるが、すぐに大きな手が伸びてきて視界を覆ってしまう。それが過ぎるともう誰もいなくなっていて、ガブリエラは首を傾げつつ、しかし手の中のお菓子にごくりと喉を鳴らして、空腹が求めるままにそれを貪った。

 しかし、これも思い出した。先程ガブリエラを招いた手や、ぶつかった黒いものは、アンジェロ神父の手と、彼が纏うカソックの裾だった。
 平均的に背の高い者が多いこのあたりでもひときわ背丈のある彼は、まだほとんど赤ん坊だった小さなガブリエラが見上げても、顔がきちんと見えない。だから忘れていたのだろうか。
 ガブリエラに自分の名前から取った洗礼名を与えた彼は、母からパンをもらえないガブリエラに度々お菓子を与えてくれた。むしろ与えられすぎて、ガブリエラは肥満児になったのだ。

 金を払わなければ指1本動かさないあのアンジェロ神父がというのはとても意外だが、確かにそうだった。
 どうして彼がそんなことをしていたのかまでは、ガブリエラにもわからない。しかしそういえば、ガブリエラが能力に目覚めて死にかけた時、砂糖の袋をいち早く与えてくれたのも彼だった。


 ──どうしてだろう。


 また何か忘れている気がしてぼんやりしていると、突然抱き上げられた。──というよりも、羽交い締めにされた。まだお菓子が詰まっている口を大きな手で塞がれて、ガブリエラは目を丸くする。
 しゃら、と音を立てて、星のついたロザリオが目の前にぶら下がる。アンジェロ神父のロザリオだった。

「──ちくしょう、この糞女!」

 男の叫び声が聞こえる。突然やってきた、太った男。ガブリエラが生まれる原因になった男。大きなナイフをふりかぶっている。そこからはアンジェロ神父の大きな手が目を覆ってしまったので、覚えているのは音だけだ。

 愛していたから、この街を出て一緒に暮らそうとお前が言ったから、俺は。お前に有り金全部やって、先に街を出て、待っていたのに。俺はNEXTだってバレてた、お前がバラしたんだろう。魔女狩りで殺されかけて。それで俺が死ぬと思ったか、畜生。
 お前は俺を利用しただけだった。子供が欲しかっただけだった。俺の種が欲しかっただけだ。くそったれめ、お前は天使なんかじゃなかった。騙したな、この娼婦。悪魔、魔女!

 あらん限りの罵倒を叫び、叫ぶごとに彼女をナイフで滅多刺しにした男は大量の薬を飲み干し、白目をむいてその場で果てたとあとで聞いた。

「ラファエラ、ああラファエラ。私の天使」

 母が、泣いている。ああ彼女は死んだのだと、ガブリエラは理解した。

 違うのに。この男がNEXTだとばらしたのも、あの街で魔女狩りの私刑に遭って帰ってこないようにしたのも私であるのにと。お前を取られたくなかったから、お前と一緒に星に行くには、それしかないと思ったから。
 ああ、ラファエラ、ラファエラ。子供さえ、私が子供を与えてやれたら。

「泣かないで、私の天使。愛してる」

 彼女が微笑んだのが、見なくてもわかる。それほど、彼女の声は歓びに満ちていた。
 子供が欲しくて、星に行きたくて、いろんな男に声をかけた。でも本当の望みは、あなたとずっと一緒にいること。私だってそうだったのよと。

「愛する人と、心の篭ったキスが出来たなら。私は死んでも悔いはないわ」

 そう言って、彼女は星に旅立っていった。とてもとても幸せそうに。
 神父の指の隙間から盗み見たのは、青白い光を放つ血溜まりの中で重なり合ってキスを交わし、ひとつになっていくふたりの修道女。

 血まみれの彼女たちは、どんな花嫁よりも美しかった。
 ああなりたい、と娘に強くそう思わせるほどに。

 他の何を忘れても、そればかり強く憧れ続けるほどに。











「ライアン? ギャビー、どう?」

 ドアの隙間からおずおずと顔を出したカリーナとパオリンに、変わりない、とライアンは肩をすくめた。そっと入ってきた彼女らの後ろから、ネイサンも部屋に入ってくる。その手には、何やら大きめの包みがあった。
「それ、何?」
「シチューを作ってきたの。良かったら一緒に食べましょ」
 ガブリエラが絶賛した、女神のシチュー。枕元でおいしそうな匂いがしたら起きるかもしれないし、と冗談めかして言って、ネイサンはシチューの入ったタッパーを電子レンジに入れた。
「この子、結局もう何日も食べてないもの。お腹が空いてると思うし」
「……明日になったら、本格的に管繋ぐことになってる。点滴だけだと……」
「そう……」
 電子レンジの唸るような音が、静かな部屋に響いた。

「お寝坊さん。もう年が明けちゃうわよ」

 ガブリエラの赤い髪を撫でて、ネイサンは静かに言った。
 もう数日で新年を迎えるシュテルンビルトは、ひとり足りなくなったヒーローたちに守られている。
 即座に怪我を治せるホワイトアンジェラがいないという不安感は、市民たちだけでなくヒーローたちも抱くものだった。怪我をすればダメージが蓄積する。取り返しがつかなくなるかもしれない。そんな当たり前のことを人々は思い出し、事故や怪我にどことなく敏感になった。
 そのせいか、新しい年を迎えるというのに、シュテルンビルトの人々の表情にはどこか恐れがある。真冬の寒さも手伝って、保守的でぴりぴりした空気がなんとなく蔓延している、そんな気がした。

「ギャビー、パンだよ。スカイハイおすすめ。おいしそうだよー」
「先に食べちゃうわよー」
 パオリンがガブリエラの鼻先で香ばしいパンを振り、カリーナが耳元で言う。すん、とガブリエラの鼻が鳴ったので彼女らが色めき立ったが、物理的な刺激には多少反応するが反射的なものだ、とライアンが静かに言うと、しょんぼりした。
「でも、一応反応といえば反応じゃない。やっぱりチューしたら目が覚めるんじゃない?」
「しねえ」
「なんでそう頑ななの!? もう!」
 形だけ怒ったような素振りを見せつつも、しかしライアンの意志を尊重するらしいネイサンは、ガブリエラの顔を覗き込んだ。

「じゃあアタシがしちゃおっと。ん〜チュッ」

 白い額の端に、ネイサンが派手なリップ音をたてて、ちょんとキスをした。ライアンはやれやれとそれを見ていたが、しかし次の瞬間、目を見開く。

「……ふへぇ」

 間の抜けた、赤ん坊の寝言のような声。それとともに、ふにゃん、とガブリエラが笑ったのだ。シンと部屋が静まり、全員が目を見開いて固まる。
「え、ちょっとヤダ! ほんとに!? アタシのキッスで!?」
「ファイヤーエンブレム、すごいわ! ライアンが何やってもダメだったのに!」
「もういっかい! もういっかいしてあげて!」
 頬に手を当ててくねくねとするネイサンに、カリーナとパオリンが興奮してまくしたてる。びき、と、ライアンの額に青筋が浮いた。

「オッケー! あんたたちもやんなさい、ホラ!」
「わかったわ!」
「よしきた! ちゅー!」
 ネイサンが再度額に、カリーナが右頬に、パオリンが左頬に唇をつけた。多くの人間にとって凄まじく羨ましいその状態に、ガブリエラは声こそ上げなかったものの、またふにゃふにゃと笑みを浮かべた。「なんだか赤ちゃんみたいな笑い方ねえ」、とネイサンが言う。
「赤ちゃんって、反射で笑うっていうけど。これもそれかしら」
「うーん、どうだろ。もういっかいしてみる?」
「起きるなら何だってするわよ!」
 わいわいと言い合う彼女たちに、ライアンは、すうと無意識に息を吸い込んで近付いた。

 ──どういうことだ。

 自分があれだけして、愛していると散々言って、駆けずり回って。
 それでも全く起きる気配もなかったくせに、姐さんのキスひとつでこれか。どれだけ女王様が好きなんだと、ライアンはむかむかと急激にこみ上げるものを持て余す。



「はは、役得」



 だが薄い唇からいきなり発された声に、ライアンも、そしてネイサンたちもぎょっとした。

「え!? お、起きた? 起きたの!?」
「残念ながらまだオネンネしてるよ、お嬢さん。悪いねえ」
「ひゃ!?」
 頬を紅潮させて慌てるカリーナに、ガブリエラの口が答える。──そう、口だけだ。ガブリエラは目を覚ましていない。その口だけが、何かに操られたように動いているのだ。
「な、なに? 寝言?」
「ででで、でもちゃんと返事したし……」
 ネイサンとパオリンも混乱して、目を白黒させる。ライアンも驚いていたがしかし、すぐに目元を険しくさせた。

「……誰だ、てめえ」
「よう、初めまして。王子様」

 地を這うようなライアンの声に、その誰かは軽やかに答えた。
 その声は、確かにガブリエラの声だ。性別が曖昧で、声変わり前の少年のように美しい声。しかしいま眠る彼女の口から発せられた声は、どこかが決定的に違っていた。
 軽薄なようで落ち着いていて、真意を読めない深い知性。しかしその知性を、相手を翻弄することに全力投球するような性格の悪さが滲み出ている。
 考えなしに感情のままに喋るガブリエラとは真逆のものが、ガブリエラの声で喋る。その違和感に、ライアンはどうしようもない居心地の悪さと強い嫌悪感を抱いた。

「さっきから、私もこれを起こそうといろいろしてるんだけど。思いのほか馬鹿でね。あっちをうろうろ、こっちをうろうろ」
「誰だって聞いてんだ」
「いやだな。せっかちな男は嫌われるよ」
「そんなわけねえだろ」
「すごい自信だ」
 呆れと笑いが滲んだ声で、誰かは言った。
「私が誰か。難しいところだが──」
 ライアンが睨み、あとの3人が警戒して見つめる中、少し間を開けて、またガブリエラの口が声を発した。

「ガブリエル、と名乗っておこう」

 言わずもがな、ガブリエラの男性形名だ。聖書に出てくる有名な天使の正式名称でもある。男性の名前を名乗ったということは、男なのだろうか。
 ふざけやがって、と叫びそうになるのと、戸惑いと。いろいろな感想を抱えて、ライアンはまた表情を険しくさせた。
「あとはアンジェロに聞くといい」
「アンジェロ? アンジェロ神父のことか?」
「そう。彼は大体のことを知っている。私ほどではないけど」
「どういう意味だ」
「それも彼に聞け。それよりも、これを起こすほうが先決だろう?」
 そのとおりではある。
 しかしガブリエルと名乗ったこの存在が不気味で不可解すぎて、素直にそうですねなどと言えるわけもなかった。

「これはかなり馬鹿だけど、やっぱりいちばん反応するのは飼い主だと思うんだよ。自分が夢の中にいるのは自覚したみたいだから、声をかけ続けてやるといい。なるべく大きな声で」

 ガブリエルは、そう続けた。それは無言のままのライアンたちの警戒や戸惑いを無視しているとも、わかりきった上であえてそうしているようにも感じられた。そしてそれでわかるのはやはり、彼の性格がかなり悪そうだということである。

「そろそろ行くよ。じゃあね」
「おい、ちょっと……」

 ライアンが呼び止めたがしかし、ガブリエラの口が動くことはもうなかった。そのかわり、妙に長い寝息がすぅ──……、と吐き出される。しばらく待ってみたが、ガブリエラも、ガブリエルも、それきりどちらも話し出すことはなかった。



 すぐにドクターを呼んで色々調べてはみたものの、結局何もわからなかった。
 ガブリエルの正体も、不明のままだ。ジョニー・ウォンの能力で、今回のような現象が起こった記録もないという。
 だがとにかく本人の口から語られたことは確かであるため、引続き声をかけてください、というなんのアドバイスにもならない指示を出し、ケルビムのドクターたちはガブリエルが話したところの映像記録と、その時の脳波などをチェックしはじめる。
 そしてライアンにも、「もういちど声をかけてみてください」と指示がされた。一応、反応を見るためだ。

「……おい、起きろ」

 ライアンは、すうすう眠っているガブリエラに声をかける。しかし、やはり彼女は無反応だ。
 その様に、ライアンは今までになくいらいらした。こんなに彼女にいらいらするのは、出会って間もない頃以来だ。
 飼い主のいうことをきかず、意思疎通も出来ず、こちらに散々媚びを売るくせに結局は勝手をし、しかもライアンの知らない所で知らない奴と会っている。更には、その得体の知れない奴は自分より妙に訳知り顔をしているときた。

 むかつく。

 だいたいあれだけ愛しているだの何だのと言っておいて、そしてこれほど自分が色々してやっていると言うのに、これほど起きないのはおかしいではないか。
 そんな、自分勝手とも、状況からいって真っ当とも、相変わらずの俺様節ともいえることを考えながら、ライアンは横たわるガブリエラの横にある椅子に座りつつ、その椅子の縁を握りしめた。

「ちょっと、落ち着きなさいよ」

 ネイサンが、怪訝な顔で声をかける。
 その声でライアンを見たカリーナとパオリンが、ぎょっとした顔をした。それほど、ライアンの形相が険しく、放たれているオーラが険に満ちていたからだろう。ざわりと髪が逆立っているのは、ヘアワックスのせいだけではなさそうだ。
 スチール缶を握り潰すことも出来る力で掴んだ椅子の縁が、みしみしと音を立てている。

「お前、この……」

 椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がったライアンは、呑気な顔で眠るガブリエラを、猛獣のような目つきでぎろりと見下ろした。
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る