#143
 19:00ちょうどに最初の爆発が起きてから、結局事件が解決したのはほぼひと晩を超え、朝日が登る頃だった。
 一部リーグヒーローの活躍で犯人はすべて確保され、その犯行動機であったアポロンメディアの新オーナー、マーク・シュナイダーも過去の犯罪が明らかとなり逮捕された。
 またこの流でワイルドタイガーの復帰、更に再びバーナビーとコンビを組んでの一部リーグ復帰が発表され、大団円。

 ──というところまでが、メディアで流された内容である。

 実際は事件によって発生した怪我人の保護と治療、行方不明者の捜索と救助などはなお続き、破壊された施設の確認ともなると更に数日かかるし、完全な復旧までは数ヶ月単位の時間がかかるのだ。

「こちら中等症まで回復しました! 通常治療をお願いします!」

 そしてガブリエラ、いや二部リーグヒーロー・ホワイトアンジェラもまた、医療スタッフチームとともに、ひっきりなしに運ばれてくる怪我人の治療を延々とこなしていた。
「おい、なんでだよ! 全部治してくれよ!」
「申し訳ありません。重症の方を優先します!」
 余裕があれば無傷の状態まで治すのであるが、こうも怪我人が多くてはそうもいかない。興奮して文句を言う中年の男性患者を、医療スタッフが半ば無理やり担架で運んでいく。
 こうして事前の取り決めどおり、現在、怪我人が多かった時のプランが採用されていた。つまり命の危険がある血まみれの重症患者を優先的にホワイトアンジェラが対応し、入院が必要ではあるが重症には至らない程度の中等症まで回復させ、あとは通常治療に回したのち病院に搬送という、患者のピストン輸送を繰り返している。

 そしてまた新たな患者がホワイトアンジェラの前に運ばれてくる。今度はやや大柄な中年女性で、横腹からかなり出血している。脛も真っ青に腫れ上がっていて、骨折しているようだった。
「内部の縫合完了してます! ホワイトアンジェラ、止血までお願いします!」
「痛い……痛いの……うう、家、家に」
「大丈夫です、すぐに治します」
「あ……ああ……」
 出血を続ける患部にかざされた手から、青白い光が輝く。すると弱々しく身動ぎする度に大きな傷から溢れていた血が、だんだんと止まっていった。血の気が失せて真っ白だった肌にも、少し赤みがさしてくる。
「止血完了! 骨折は通常治療に回してください!」
 患部の血を拭って横腹の傷がほぼ塞がっていることを確認し、医者の指示の元で自分が対応したことを示す書類と名刺代わりのウェットティッシュを重ねたものを、患者の服にクリップでとめる。
 こういった怪我の場合、患部の縫合さえ医者がきちんとしているのなら、あとは能力で傷を治して止血すれば、自然治癒に任せるとともに、痕を残さない治療に専念することも出来るのだ。ただし骨折は半端に治すと曲がったまま骨がくっついてしまうので、安易に能力を使うことは控えている。

「な、治ったの? 治った? 私……」
「もう大丈夫ですよ! でも完璧ではないので、こちらで普通の治療を受けてくださいね。そのあとちゃんとお家に帰れますよ」
「ホワイトアンジェラのおかげです! よかったですね……!」
 大怪我の恐怖で泣きじゃくっていた女性患者が、疲れの中でも笑みを浮かべた医療スタッフたちに運ばれていく。
「ああ、ああ、本当……? ああ、よかった、ありがとう……!」
 ありがとうと繰り返しながら救護テントの外に運ばれていく女性を、ガブリエラは横目で追う。そして不意に襲ってきた目眩をこらえ、ふうと息を吐いた。

「……すみません! カロリー補給をします。5分ください」

 そう宣言し、予め用意しておいたカロリーバーの箱を開け、パッケージをむしり取って口に放り込む。あっという間に5本、6本と食べきり、合間に飲むのは炭酸を抜いたコーラだ。水などで悠長な水分補給をしている暇などないのである。
 怪我人が運ばれてきてから軽く6時間が経過しているが、ガブリエラはこうしていちばんの重症患者ばかり相手にしながらずっと立ちっぱなし、能力を使いっぱなし、飲んで食べっぱなしだ。だが、重症患者はまだまだ運び込まれ続けている。
 自分が休めばその分誰かの命が危なくなるのだと理解しているガブリエラは何も言わず、ただ炭酸抜きの甘ったるいコーラをらっぱ飲みしながら、凝り固まった肩を豪快に回してごきごきと音をさせた。
 そしてそんな二部リーグヒーローを、医療スタッフたちが頼もしげに見ている。

「よし! 我々もホワイトアンジェラに遅れを取るな!」

 チームリーダーが喝を入れ、全員が大きな声で一丸となった力強い返事をする。ERというよりも都会の野戦病院といった様子の現場で、命を前に一刻を争う熱気が渦巻いていた。

「ホワイトアンジェラ、急患来ました! スタンバイお願いします!」
「了解です。こちらも補給完了しました」
 空になったペットボトルをゴミ箱に捨てて、ガブリエラは深呼吸をした。
「──24歳女性! 患部は右前腕部、意識レベル300、グラスゴー5点! 心音微弱!」
 ドクターの明確な診断とともに運び込まれた女性は、細い腕の肉がえぐれて骨が見えているというひどい怪我だった。痛みのせいか出血のせいか、目は開いているが明らかに朦朧としている。
「意識レベル回復を目処に治療します。生体認証による身分証開示。メディカル、付き添いをお願いします」
「付き添います。装置の準備を! 頭部のスキャンも行います」
 すかさず横についてくれたドクターが、他の医療スタッフに指示を飛ばす。
「りょ、了解。あの、だ、大丈夫なんですか?」
 心音や脳波を確認する装置を準備する若手のスタッフが、目を白黒させながら言う。それはもしこの患者が病院に運ばれていたら、こんな装置を準備する前にやるべきことが山ほどあるはずだからだった。

「生きてさえいれば大丈夫。必ず治します」

 ガブリエラは、きっぱりと言った。
 そして彼女の身分証で名前を確認すると、その名前を呼びながら意識の覚醒を確認しつつ、手をかざして能力を発動させた。



「行方不明者リスト、オールチェック! メディカルチーム、お疲れ様でした!」

 すっかり日が高くなってから、レスキューからの連絡員が、疲労と喜びが入り交じった声で告げた。わあっ、と救護エリアで歓声が上がる。
「死者は?」
「ゼロです!」
 医療スタッフの質問に、レスキューは晴れやかに答えた。
「怪我人は多いですが、後遺症が出るような市民は今のところいないそうです。すばらしいですね」
「それはよかった! いやあ、ホワイトアンジェラがいてくれて本当に助かったよ」
「ホワイトアンジェラ?」
「彼女ですよ! 二部リーグヒーローで」
 医療スタッフのリーダーが、ぼんやりしていた本人を前に出す。
「死者が出なかったのは、間違いなく彼女のおかげです」
「ほう、それはそれは」
「いいえ、そんな──」
 医療スタッフたちに、ガブリエラは力なく口を挟む。しかし疲労によるテンションの高さで次々に説明する彼らは、完全に本人そっちのけになっていた。
 華やかな一部リーグヒーローたちの活躍と違って、どこに伝えられることもない夜通し長時間の重労働。しかし死者も重傷者もなく、市民全員をもれなく助けられたスタッフの表情は皆晴れやかだった。
 その時、ガブリエラの通信端末が音を立てる。

「あ、すみません。会社から連絡が……片付けに参加できなくて、申し訳ありません」
「そんなそんな、構いませんよ! こちらこそありがとうございました!」

 端末を持ってそそくさと救護テントを出て行くホワイトアンジェラを、スタッフたちが明るく見送る。
「彼女には本当に助けられたなあ。カロリー補給の食べ物が少し足りていないようだったから、今度からこちらでも少し持とうか。少しずつ出しあって」
「それいいですね!」
 全員でわいわいと救護テントや資材を片付けていく医療スタッフたちの声を背後に聞きながら、ガブリエラは端末を操作し、呼び出しに応答する。画面の通知どおり、相手はシンディだった。

 そして「アンジェラ、落ち着いて聞いて」と彼女がゆっくりと切り出したその内容に、ガブリエラは思わずその場で蹲った。






「ああ、あなたがバイクの持ち主? ご友人の方々からも聞いてます。いやあ、災難でしたねぇ……。ジャスティスデーだというだけでもてんやわんやなのに、よりにもよってこの騒ぎの中で、盗難車で、事故! まったく、呆れますよ」

 本当に呆れ果てたという様子で言う警官の言うまま、ガブリエラは呆然とした様子で、差し出された書類にサインをした。
 元々綺麗とは言い難い字は疲労と混乱でまさにミミズがのたくったようだったが、こちらも疲れているのだろう警官はそれを見て少し眉をひそめただけで、「お疲れ様」と帽子を軽く上げて挨拶し、さっさと去って行った。

 ──アドニスは、事故を起こしていた。

 もちろんガブリエラから盗んだバイク、ラグエルに乗った状態でだ。
 一昨日の夜にガブリエラが誘いを断った後、彼はどこかで夜通し飲酒し、酒が抜けきらないうちにまた飲んで、その勢いでガブリエラのところまでやってきて、ラグエルを奪って逃走。そして連続した飲酒と下手な運転を理由に、カーブに失敗して盛大に転倒。
 キーはそれより前にいつの間にか盗まれていて、コピーを作られていたことがわかっている。前々から考えてはいた、ということだろう。そして今回、酒の力と勢いに“流されて”、彼は今回実行に至った。

 シンディが走り屋チームやブランカに連絡をつけている最中に既に事故は起こっていたのだが、ジャスティスデーという祭りの日で、しかもあのテロ騒動で、一般の事故に関する連絡がかなり遅れた。
 つまりシンディを含めてアドニスを探し回ったブランカの伝手の人々、そしてスキンヘッドチーム総勢は、無意味にシュテルンビルト中を探し回ったことになる。年にいちどのジャスティスデーで家族や恋人と予定があった者たちもいたというのに、とんだ無駄足であった。
 しかもアドニスは運転免許証を含めた身分証明書を一切持っていなかったので、生体認証からデータベースを検索して身元を調べることになり、連絡は更に遅れた。後見人であるブランカに警察から連絡が入ったのは、日付が変わってからのことだった。

 盗難車での、飲酒及び無免許運転による自損事故。
 しかも、近くにいた数人が巻き込まれて怪我もしている。今回のテロとはまるで関係ないところでの、アドニス本人に全ての責任がある、多くの人に迷惑ばかりふりまいた、愚かな事故だった。

 ピッ、ピッ、と生命維持装置の音が響いている特別室で、ガブリエラは、ギプスや包帯、酸素マスクをはめられてベッドに横たわるアドニスを見下ろしていた。

 意識不明の重体。

 美しい顔は包帯まみれで、見えるところも青黒く腫れ上がっている。足首は折れて骨が飛び出し、いくつかの内臓が潰れ、また片目は飛び出したのを戻したので視力が残っているかはわからない。腰をひどくひねって脊髄が損傷しており、目覚めても下半身と右半身は不随になる、というのが医師の診断だった。
 むしろ生きているのが不思議なくらいの大怪我だが、はっきり言って、同情している者はあまりいなかった。品のいい者は怪我人を悪く言うのはと口を噤んだが、自業自得の愚か者とはっきり彼を罵る者も少なくはなかった。しかし共通して全員が、このお粗末で度し難い顛末に、ただ徒労感の濃いため息をついた。

 そしてガブリエラが今まで何をしていたかといえば、救護テントで重傷者を治してきた身体に鞭打って、アドニスの事故によって怪我をした人の病室を訪ね、医者の指導の元その怪我を治して回っていた。
 本当に幸いなことに命に関わる怪我をした者はいなかったが、普通なら痕が残る怪我はいくつかあった。沈痛な表情で深く頭を下げるガブリエラに、巻き込まれた彼らは概ね温かい対応をしてくれて、時に同情もしてくれたのが唯一の救いである。
 ちょっと休んでからにしたら、とシンディなどは言ったが、ガブリエラは一睡もせずにそれら一連の行動を行った。

 その行動を立派だと言う者がほとんどだったが、しかし本当は違う。
 この事故のすべてはアドニスのせいだが、巻き込まれた人々を直接傷つけたのは道路を滑った車体や飛び散った部品であったり、その際壊れた公共物の破片などだ。
 ガブリエラは、このどうしようもなく愚かな事故の責任を、あのバイクに、ラグエルに、ほんの少しでも負わせたくなかった。
 ガブリエラを絶対に落馬させず、それでいてどんなに切り立った崖も軽やかに飛び越えたあの素晴らしい馬。ガブリエラの初めての友達、荒野をともに駆け抜けた親友を、こんなくだらない事故と関わらせるなど、絶対に許せなかった。

 ラグエルは、──ガブリエラのバイクは、全損。
 修理は不可能、廃車だった。






 ガブリエラは朦朧とする頭で、ガレージにいた。
 スキンヘッドチームリーダーの父親で、このバイクをガブリエラに売ってくれた店主でもあるアキオ・スズサキ氏の所有の、作業用ガレージである。

 バイク──ガブリエラがラグエル2号と呼んでいたマシンの残骸が、目の前にある。メインのフレームは盛大に曲がって、アスファルトで数センチも削れている。タイヤも前輪が吹き飛んで、今はゴム部分が破けたものが壁に立てかけられている。
 敷かれた新聞紙の上に並べてあるパーツの一つを、ガブリエラはそっと手に取った。事故を知って駆けつけた走り屋仲間たちが、ガブリエラへの同情心から飛び散ったパーツもできるだけ集めてきてくれたのだ。
 同じく自分のマシンに愛着がある彼らだからこそ、ガブリエラが殊の外このバイクを大事にしているのを理解して、こういった行動を取ってくれた。無料でガレージを貸してくれたスズサキ氏もそうだ。シンディは、大変だったから明日は会社を休んでいい、と言ってくれた。

 ガブリエラは布に専用のオイルを染み込ませ、もうどこのパーツだったかも判別しにくい部品を丁寧に、ひとつずつ磨いた。
 シャッターの外では、そろそろ夕日が沈もうとしている。徹夜で何十人もの重傷者を治し、事故に巻き込まれた人々の怪我も治して回ってから、ガブリエラは結局一睡もせずに2度めの徹夜を迎えようとしていた。確実に疲れているが、眠る気も、食べる気もしなかった。
 いまガブリエラの中を満たしているのは、自分の歯を全てむしり取ってそこらじゅうに投げつけ、老女のように泣き叫びたいほどの悲しみ、やるせなさ。そしてそれらすべてを容赦なく叩き落とす、絶望的な無力感だった。

 手元を照らす明かりだけが点いた薄暗いガレージで、もうエンジンのかからないバイクの残骸を眺めていると、ふと幻影が過ぎる。それは光を失って黒く染まっていく大地と黒い馬の体が馴染んでいく、世界が終わったようなあの日の幻影だった。

 あの時、冷たくなっていくラグエルにそうしたように、ガブリエラは手の中にある小さな部品に、ふと能力を使ってみた。最初から命のない鋼鉄の欠片は、穴の空いたバケツに水を注ぐように、ガブリエラが差し出したエネルギーを吸い上げることはない。──あの時と同じように。

 ああ、まただ。また死んでしまった。

 ガブリエラは、部品を磨きながら思う。
 日が沈みそして昇るように、生と死がある。生まれたならばいつか死ぬ。どれほど大事にした所で、機械に命は生まれない。これはただの機械で、ラグエルではないのだ。

 ラグエルは、死んだのだ。

「ラグエル……」

 あの日のように形振り構わず泣き叫べば、また乗り越えられるだろうか。ひとりでも、荒野を進んでいけるだろうか。
 そうだ、ラグエルがいなくなっても、自分が来た道には、この街には、いい人が何人もいた。彼らが助けてくれたからこそ、自分は今ここにいる。そう思って、ガブリエラは耳にはまったピアスを指先でいじる。
 そして、大きく呼吸をした。何かを飲み込もうとするかのようなその動作をすると、こみあげてくるものがある。眼球の裏が熱くなる。

「ラグエル……」
「──アンジェラ!」

 後ろから飛んできた声に、ガブリエラはひゅっと鋭く息を詰めた。放出しようとしていた熱が引き、ぼんやりと緩んでいた頭が急激に固く、冷たくなっていく。
 肩越しに振り返ると、汗みずくで息を荒げたアドニスがシャッターに手をかけ、夕日の逆光に照らされて立っていた。

「アンジェラ、その、僕……僕……!」

 夕日に照らされた美しい顔は、青黒く腫れ上がってもいなければ、どうやら失明もしていない。頬に大きなガーゼが貼ってあるが、逆に言えばそれだけだ。確実に不随になると診断された手脚もきっちり動いていて、事実こうしてここまで走ってきている。
 言わずもがな、昨日、ガブリエラが彼の怪我をすべて治したからだった。彼は重症だったが、しかし生きていた。ならば、ガブリエラの能力さえあればなんとでもなる。
 死んでいるラグエルと違って、彼はガブリエラが与えたエネルギーを貪欲にぐんぐん吸い上げて、あっという間に全快した。その尊き生命力は、糞を体中に塗りつけるほうがまだましだ、というほどの生理的嫌悪感をガブリエラに与えた。
 ガブリエラは目を細めるとまた前を向き、何も言わないまま、また部品を磨き始める。

「あの……アンジェラ、僕、ごめん……!」

 丸まった薄い背中に、アドニスは言った。ガブリエラは、反応しない。アドニスはぐっと息を飲み、しかし追い縋るようにして続ける。
「死ぬかと思ったんだ。でもおまえが治してくれたって、本当に、……本当にありがとう」
 ガブリエラはネジの溝に親指の爪を入れ、丁寧に黒ずみを落としている。
「ひどいことしたって、わかってる。そのバイク、めちゃくちゃ大事にしてたし……。アンジェラ、僕……僕は……」
 なかなか落ちない黒ずみに、ガブリエラはオイルを継ぎ足した。丁寧にこすると、ぴかぴかの銀色になる。ネジの溝ひとすじずつ、それを繰り返した。

「おまえを見る度、自分が情けなかった」
「ヒーローもどきだった僕と違って、おまえはちゃんとヒーローだし」
「立派に人を助けてて……それで……」
「今回だって、僕のことは助けなくたっておかしくないのに助けてくれたし」
「巻き込んだ人も治してくれたんだろ?」
「ほんとに、おまえはすごいよ。立派で……えらい」
「こんなことした僕も見捨てずにちゃんと治してくれて、まるで聖女様みたいだ」
「そう思ってる。ほんとは、ずっとそう思ってた。アンジェラ、僕……、僕は」

 アドニスがなにか言っているのを、ガブリエラは右から左どころか、はなから聞き流していた。蝿の羽音を真剣に聞く者などいないように。

「僕、おまえが好きなんだ。アンジェラ」

 シャッターに手をかけ、上半身を乗り出すようにした格好で、アドニスは告白した。
 震えた声には熱が篭っていて、ごくりと唾を飲み込んだ音もはっきり聞こえた。いかにも一世一代の大告白、と言わんばかりの様子だ。

 しかしガブリエラに、その熱はまったくもって響かない。
 厳かな葬儀の最中に蝿が1匹飛んできたような、些細かつどうでもいい不快さを冷えた頭の端に感じながら、ガブリエラは部品を磨く。気化した機械油が鼻から入ってきて、体の芯を更に冷やすようだった。

「ねえ、アンジェラ……」

 ことり、とガブリエラがぴかぴかになったネジを新聞紙の上に丁寧に置く。儀式の作法のような手つきだった。
 ずっと無視されているアドニスは、何も反応せずに自分の作業に没頭しているガブリエラに、ぐっと息を詰まらせる。

「アンジェラ! ──無視しないで! お願いだから……」

 親に置いて行かれそうになった子供のような、引きつった叫びだった。
「おまえとちゃんと話がしたい、聞いて欲しい。……それだけなんだよ」
 ガブリエラは、初めて手を止めた。そして次の部品を手にとるのをやめ、ゆっくりと振り返る。

「……話?」

 ガブリエラが反応したので、アドニスは背筋を伸ばし、頬を紅潮させてこくこくと激しく頷いた。
「聞いて欲しい? 話? ……話、ですか。どんな?」
「それはだから」
「あなたが私を好きだという話?」
「そ、そう」
 アドニスは両手の手のひらを自分の腹の前であわせ、ぼそぼそと言った。立ち上がったガブリエラは、作業をするために手元を照らすライトに背を向けて立ちあがる。

「私を好きで? それで? どうしたい? ですか?」
「ど、どうって」
「私と頭の悪い子供を作って、育てる? そうしたい?」
「えっと、その……」
 アドニスはもじもじと指をこすり合わせ、恥ずかしそうに口ごもった。ガブリエラは、目を細めて彼の美しい顔を見る。道端に飛び散っている汚物でも見たような表情だった。

「いいでしょう」
「え?」

 思ってもみない発言だったのか、アドニスがきょとんとする。
 ガブリエラはアドニス自体ではなく、アドニスが立っているところを見ていた。汚物を片付けなければならないがそれそのものを見ると気分が悪くなるので、ただ現状を把握することのみに務める、慣れた清掃業者のような目で。

「私を好き? 愛している?」
「う、うん」
 ずばずばと質問するガブリエラに、アドニスはおっかなびっくり頷く。ガブリエラはその答えに何の感慨も見せず、続けた。
「では、証拠を」
「証拠?」
「私を愛していると言いました。その証拠です」
 その発言に、アドニスは背筋を伸ばし、まっすぐにガブリエラを見た。

「わかった。いいよ、なんでもする。どうしたらいい?」

 まるで試練に立ち向かう美しい勇者のような顔で凛々しく言ったアドニスに対し、ガブリエラは無言だった。そして無言のまま、汚物を片付ける道具を作業的に持ってくるような様子で、後ろにある工具棚から重たい何かを掴み出す。
 それは大きなプライヤーペンチで、噛み合わせの部分に刃物が付いているので、かなり太いチェーンも切れる工具だった。
 ガブリエラはそれを片手で持ち、ドン、と近くにあった木箱に突き立てる。

「切り落としてください」
「……は?」

 意味がわからず、アドニスがぽかんとする。

「切り落としてください。自分で」

 だがガブリエラは、もういちど同じことを、しかも丁寧に言っただけだった。
「い、言ってる意味が」
「指でも腕でも、なんでもいいです。切り落としてください」
「何言ってんの!?」
「私は怪我を治せます。ちぎれていても。生きてさえいれば、必ず。知っているはずです」
 アドニスの足首はねじれて骨が飛び出し、ほとんど千切れかかっていた。しかし今、こうして走ってここまで来れている。

「私を愛しているのでしょう?」

 暗闇の中で、ゴッ、とガブリエラはまた工具を木箱に突き立てた。

「私は困っている人を助ける、ヒーローです。あなたのような人も見捨てない、立派で、えらくて、聖女のような人間だと。そう思っていると、あなたは言いました。言いましたね。私はちゃんと聞いていました。あなたの話はそういう話でした。違うのですか。違う? 何が?」

 片言ぎみの口調での追求に、アドニスは無言だった。しかし、紅潮していたはずの頬はもはやすっかり白くなっている。

「あなたが切り落とす。私が治す。切り落とす。治す。切り落とす。治す」

 ガブリエラそう言いながら、工具を木箱に突き立てる。ゴッ、ゴッ、ゴッ、と鈍い音が連続し、とうとう木箱の板ががこんと抜けた。
「ひ……」
「何度でも。愛しているなら、先程言ったことが本当なら、何度でもそのはず」
 ガブリエラは、工具をアドニスに向けた。美しい顔が、今度こそ醜く引き攣る。

「さあ」

 アドニスは、動かなかった。
 つい今しがたガブリエラを聖女のようだと讃えたその唇は震え、熱っぽく見つめてきていた目は、得体の知れない化物を見るような恐怖に満ちている。

 ──彼は、普通の人だ。

 アドニスを見て、ガブリエラは改めて思うまでもなくそう感じた。
 良くも悪くも素直で周りに流されやすく、またそうして流れに乗らねば何もできない、目の前の餌を食べることばかりに熱心な羊。きちんとした誘導上手な羊飼いに飼われていればいいが、そうでなければすぐに迷い、パニックを起こして集団で暴走したり、時に黒い山羊にもついていってしまう面倒な家畜。
 ブランカは彼の自立を期待しつつも飼い主を探していたようだが、放し飼いが長すぎて我儘放題になった彼は、そんな甘っちょろい躾ではいうことをきかなくなっていた。そして柵の向こうに現れた狼犬を愚かにも仲間だと勘違いし、妬み、憧れ、自分もそこに行くと身の程知らずに喚き立てて、結果このざまだ。
 ガブリエラは、普通の人々を疎んだことも憎んだこともない。むしろ彼らを助けて回るヒーローをしているが、同時に個々の彼らにはひたすらに無関心だった。そしてその様が、傍から見るとどんな者にも平等に救いの手を差し伸べているようにみえるらしい。

 ──まるで聖女様みたいだ

 笑える、と思ったがまま、ガブリエラは笑みを浮かべていた。
 やはり彼は、何もわかっていない。多くの人々がそうであるように、何もわかってはいないのだ。ガブリエラのことを、清らかで欲のない、立派な聖女だと思っている。

 だが心から本当にそう思っているのなら、そうしてやろう。
 血を流してでも、命を懸けても自分を聖女に仕立て上げたいのなら、同等に応えてやろうと今ガブリエラは彼に向かい合っていた。柵越しに喚きたてていた羊に、いざ柵を取り払って牙をむき出し、ではおまえも同じようにしてみせろと言い放った。

 といっても、何も地雷原を歩けと言ったわけではない。ごく簡単な課題だ。
 真実選ばれたいのなら、本当に愛しているのなら、黄金の槍で胸を貫かれることさえ悦楽となるはずだ。しかもその後、必ず治してやると言っている。何を恐れることがあるのか、ガブリエラには全く理解できない。
 貫かれるのが恐ろしいのなら、治してやると言ったことが信じられないのなら、やはり心底愛しているわけではない、そういうことなのだと。

「使い方、わかるますか? 少し力を入れる、切り落とせる。簡単」
「あ、あ、あ、頭おかしい、頭おかしいんじゃないの!? こ、こんなの」

 アドニスは、ヒステリックに叫んだ。

「本当に、欲しいなら、──愛しているのなら」

 血を流せ。その痛みも恐怖も飲み込んで、すべてを捧げればいい。
 そのくらいで愛するものが手に入るなら、安いものだ。だからこそ、ガブリエラは荒野を越えてきた。ヒーローになりたかった。星の街に行きたかった。天使に会いたかった。そのために、命を懸けてきたのだ。
 胸を掻き毟るほどに欲しいからこそ、神様の教えも、母の言いつけも全て無視して突き進んできた。愛しているからこそ、痛みも恐怖も、貪られる嫌悪も飲み下し、聖者のふりをして罪を重ねることすら快楽になった。
 ガブリエラにとって、愛するとはそういうことだ。だからこそ、己の最後の命を使い、安寧の地を蹴って荒野についてきてくれたラグエルは、ガブリエラのいちばんの親友なのだ。

「そ、そ、そういうのは、違うだろ! 絶対違う、変だ、間違ってるよ、おまえ!」

 そのひっくり返った声に、ガブリエラは薄い眉を僅かにひくつかせるだけの反応を返し、工具をヒュンと回して逆手に持った。それだけで、アドニスがびくつく。
 自分も彼も、同じくらい頭が悪い。しかし決定的に違うのだということをガブリエラはわかっていて、そして彼はまるでわかっていなかった。
 ブランカの言葉を借りれば、ガブリエラが野良慣れした狼犬なら、アドニスは飼われないと生きていけない小さな犬。
 こんなぬるい楽園のような都会ですら腐っているような、きれいな毛並みのやわな羊。暖かい部屋の中で飼われることしかできない甘やかされた愛玩犬だ。

 ──ガンッ!!

 工具を叩きつけられた古い木箱が粉砕され、木片が散らばった。
 ひいっ、と声を上げたアドニスは肩を跳ねさせると同時にへたり込み、そのままシャッターの向こうにずり下がる。ガブリエラはその様を見て、醒めきった顔をした。

「──腰抜け」

 荒野にいたら、まず死ぬ生き物。
 そんなものと一緒に、1歩間違えたら終わりの柵の外を歩けるわけなどないのである。彼にガブリエラを愛し抜けるわけがないし、もちろんガブリエラも彼を愛するどころか、信じることすらできない。

 涙目になったアドニスは、ほとんど這うようにして、何度か転びながらガレージから飛び出していった。
 無様極まりないその姿を無感動に見送ったガブリエラはすぐにシャッターを締め切って鍵をかけると、またそっと黒い車体の残骸の前に座り込む。そして全てのパーツをひとつひとつ手に取って、厳かな儀式のような動作でゆっくりと磨いていった。

「まァだこんなとこにいるのか」

 真っ暗な密室で、美しい声がそう言った。
 ガブリエラは儀式を中断し、顔を上げる。自分が驚いたのかそうでないのかもわからない。それほど頭がぼんやりしていた。

「……ここは」

 ガブリエラは、辺りを見回した。
 いつの間にか、壊れたバイクもなくなっている。いや、もはや天地すらもない。
 闇の中でも光の中でもない場所で、天使のような形をしたものとガブリエラだけが、影すらできない曖昧な所で浮き上がっていた。

「ここ、どこ」

 こんなところは知らない。ここは自分の知っているものしかないはずなのに、──何だそれは? ああ、なるほど。ここはそういうこと。

 ガブリエラが自覚をすると、天使のような形をしたものがにやりと笑った。相変わらず性格の悪さがにじみ出た笑みだが、ガブリエラは何故か気持ちが高揚して、どきりとした。

「やっと気付いたか。ほんとに頭が悪いなあ」
「おバカちゃんなので」
「可愛く言えばいいと思うなよ」
 はっ、と鼻で笑われた。ガブリエラはむっとする。──そして、思い至った。

 どうすれば、“彼”の元に行けるのだろう。

「さあね。あの坊やが“いる”ところまで連れてきたつもりだったんだけど、それでも結局こうだろう。もう私の知ったこっちゃないよ。自分で考えな」
「むぅ」
 考えるのは苦手だ。とても苦手だ。だからこそガブリエラは、いい人だと、尊敬できる、信頼できる人だとみなした人々の教えを忠実に守る。

 そして今、ガブリエラはちょうどみずみずしく思い出した教えを正しく取り出した。
 何か大事なことを行う時は、ひとつずつ間違いなく行うことだと。

「ひとつずつ、……最初から」

 時間を失うことを恐れてはいけない。そうだ、彼らはガブリエラにそう教えてくれた。本当の愚か者は、馬に乗って兎も鳥も狙い、木の実を取ろうとする者なのだと。
 兎を狙うなら木陰を見て、鳥を狙うなら空を見上げ、木の実を取る時はひとつずつ並べて必要な分だけ数えながら取るのだとガブリエラは教わった。

 そして今その教え通りに、ガブリエラはずっと歩いてきた道のはじまりに戻っていった。
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BY 餡子郎
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