#141
「シンディが男性であればよかったのに」
「はあ? なんで?」
「子供が作れます」
「ブホァッ」
いつもの淡々としたトーンで続けたガブリエラに、シンディは飲みかけていた酒を噴いた。
「んもう、汚いわねえ」
そう言ってボーイに酒を拭かせるのは、相変わらず見事に美しいブランカである。
彼女の店に行くことは遠慮しているものの、外で会う分には問題ない。今日は遅ればせながらガブリエラがヒーローデビューしたお祝いをしたいというブランカの申し出で、前から決まっていた日であった。
ブランカが「もちろん奢りよ」と言って招待してくれたのはゴールドステージにある高級店だ。どのくらい高級かというと、高級店すぎてガブリエラのようなみすぼらしい身なりの者も他の客の目に触れないうちにさっと個室に通してくれるような、そんな店だった。
運ばれてくる料理はどれも味わったことがないほど美味しくて、「今日だけ特別」と言って注いでもらったワインも舌が溶けるような味わいである。おまけにブランカが「こっちも食べなさい、アーン」と料理を食べさせてくれるので、ガブリエラは本気でここが天国かと思った。
「でも、なぁに? どうしてそんな話になったの」
ブランカの蕩けるような声にふらふらと誘われるようにして、ガブリエラは今日の出来事を洗いざらい彼女に説明した。
まずはシンディがガブリエラの情報をアドニスに漏らしたことについて侘びてくれたので、ガブリエラが気にしていないと首を振る。そして、ブランカが悩ましいため息をついた。
「あの子も馬鹿ねえ。仲良くしたいなら真っ当に格好つければいいのに、そんなこともわからないのねえ。ツンデレにしたって馬鹿さがひどすぎてフォローできないわぁ」
「馬鹿でもいいけど、男は素直がいちばんよ」
ある意味この上なく素直な夫と結婚したシンディが、頷きながら言う。
「本当にねえ。あの顔のせいで基本的に甘やかされてるから、まったくもう。ただでさえ頭が悪いのに、性格も悪いんだもの」
「今までのパトロンとモメたりしてないわけ?」
「頭と性格があれだから、顔さえ良ければいいって人しか紹介してないのよ。それで甘やかされて満足していればいいのに、それも気に入らないらしくって、自分で他のパトロンやら恋人やら作るでしょ? それでもめるでしょ? そのパターン」
「あんたも大変だね」
アドニスをぼろくそにこきおろすふたりを前に、ガブリエラはまた新しく運ばれてきた料理を大事に食べた。夢のようにおいしい。
「ごめんなさいねえ。もうあの子も成人だからと思って、ある程度は放任してて……」
ブランカが、苦笑して言う。
アドニスは元々家出少年だったらしいが、縁のあるブランカが保護者をしていた。成人したら手を離すはずだったのだが、彼がいつまでも定職につく気配を見せない上にあの美しさを求める声も多いため、遊んで暮らさせてくれるパトロンを見つけることにしたらしい。
しかしそれでもこうして問題を起こすため、未だにブランカは彼の後見人として色々と世話を焼いている、とのことだ。
「ブランカさんは悪くありません」
小さな子供ならまだしも、アドニスほどの年齢なら当然本人の責任だ。18歳になっているガブリエラは、そう思ってきっぱりと言った。
「そう言ってもらえるとありがたいのだけど。……まああのコもねえ、いいかげん自分の性質を自覚してくれればいいんだけど。アンジェラはわかってるのにねえ。自分がワンちゃんだって」
「ワンちゃん? わんわん?」
「そうよ、かわいいわんわんちゃん。うふふ」
ガブリエラの顎を優しく撫でるブランカと、それを喜ぶガブリエラ。シンディが、半眼になってキャビアのカナッペを口に放り込んだ。
「ワンちゃんは自分だけの飼い主を見つけたほうが、幸せに生きられるのよ。それなのにあのコったらあの飼い主もいや、この飼い主もイヤ。まあ合わないのは仕方ないから私も色々紹介するのはやぶさかじゃないんだけど……。でも頭が悪いものだから、同じワンちゃんを見つけて舞い上がっちゃって」
「……あー。犬同士舐めあって、路地裏でもたくましく暮らしていこうぜ的な?」
「そういう感じ」
「夢見がちねえ」
「馬鹿だからねえ」
相変わらず半目のシンディと、頬に手を当てて眉尻を下げたブランカが頷き合う。
「本当に馬鹿よねえ。アンジェラみたいな野良慣れした逞しいコを見て、自分もそうできるって思っちゃったんじゃないかしら、流されやすいから」
ブランカの言葉を、ガブリエラはワイングラスを持ちながら黙って聞く。
「アンジェラが野良慣れした狼犬なら、アドニスは飼われないと生きていけないちっちゃなチワワくらいのものよ」
「小型犬ほどキャンキャンよく吠えるものね」
「あら、上手いこと言うわねシンディ」
ブランカが、感心して頷く。
「まあでも、そういうことよ。強そうな大型犬にキャンキャン吠えて、遊んでやってもいいぞ、みたいに周りを跳ね回ってる身の程知らずのチワワなのよ、あの子は。噛み殺されてもおかしくないっていうのに」
「噛み殺しはしませんが」
ガブリエラは、全く渋みのないワインを飲みつつ言った。
「そうしてくれるとありがたいわあ。でも本当にうっとおしかったら、ガウッとやっちゃっていいからね」
「がうっと」
「そうそう。がうがう」
「がうがう!」
「うふふ」
微笑むブランカにでれでれした顔で絡むガブリエラを、シンディが完全にバカ犬を見る目で見ている。
「今回のことはねえ、ほら。アンジェラがヒーローとして成功してるものだから、焦ったのね。あの子の唯一のまともな職歴が“ザ・アドニス”なのに、だめになっちゃったじゃない? なのにあなたは難関のヒーロー免許も取って、正式なヒーローとしてやっていってる。追いつけなくなっちゃうって思ったんじゃないかしら」
ガブリエラは、ステージに立つ自分を見せようとしたアドニスを僅かに思い出した。だが思い出しただけで、特にそのことについて感想はない。なるほどさすが、とブランカの分析力の高さに感心するだけだ。
「あなたを見て、自分もちゃんとしようって意気込むならいいんだけどねえ」
「はい。ヒーローとして、私もそう思います」
「まあまあ、真面目なヒーローさんね」
「くふん」
頭を撫でられたガブリエラは、ヒーローどころか完全に腹を見せている犬のような顔をした。
「敵わないと思ったら性差を出してくるなんて、下の下も下なのにねぇ。ほんとに」
「ほんとそれよね。男ぶったぶん、男として最低になるってことがわかんないのよね」
シンディが、深い実感を込めて頷く。
「……しかし、私の相手が見つからないかも、というのは本当だと思います」
ガブリエラは、もそもそと言った。
「そんなことないわよ。素敵なご主人が見つかるわ」
「ねえ、そのご主人ってどういう意味のご主人?」
シンディの突っ込みに、ブランカは「あらゆる意味のご主人よ」とやけにきっぱりと答えた。
「ブランカさん、私の相手が見つからなかったら、子供を作るのに協力してくれますか?」
真顔で言ったガブリエラにシンディはフォークを取り落とし、ブランカは「あらまあ」とにこにこした。
「アンジェラったら、プロポーズ? 照れるわ」
ブランカは、美しく微笑んだ。ガブリエラが首を傾げる。
「プロポーズ? プロポーズとはなんですか?」
「結婚を申し込むことよ」
「けっこん……、いえ、結婚は別にしなくてもいいです。子供だけください。作るのに協力してくれたら自分で育てます。お金は……どうしても困ったときは貸してください」
「どこから突っ込んでいいかわかんないんだけど」
「突っ込めば子供は出来るわね?」
「突然の下ネタやめて! 収集がつかなくなる!」
のほほんと優雅に下劣な発言をしたブランカに、シンディが頭痛をこらえるようなポーズで叫ぶ。
「んもう、ほんとにしっかりさんなんだから。私が自分の子供を相手に押し付けて放置する人間に見える?」
「……見えません。アドニスは見えます」
「そうねー。最初はそれっぽく振る舞ってても行き詰まってくると放り出して逃げるわよねー。目に浮かぶわぁー」
「はい。ですのでイヤです」
「そういうところ、ちゃんとわかってるのよねえ。アンジェラは」
ほぼ野生の勘でだけど、と、ブランカはガブリエラの顔を覗き込む。ぐっと近くなった美しい顔に、ガブリエラはどきどきした。
「いいわよ。どうしても行くところがなかったら、私のところへいらっしゃい」
ブランカは、ガブリエラがヒーローになる前と同じことを言った。その言葉をガブリエラが望んでいるのを、彼女はわかっている。
「……ありがとうございます」
ガブリエラは、薄く微笑んで礼を言った。
「ちょっとアンジェラ、あんた正気? こいつちんちんついてるけど、おっぱいもついてるのよ」
「あら、両方ついててお得じゃないの」
また明け透けなことを言うブランカを、シンディが半目で見遣る。
「ブランカさんはきれいで、いい人です。……おっぱいは、本物?」
「さあ、どうかしらねえ」
ウフフとはぐらかすブランカはやはりとんでもなく美しく、ガブリエラはへらりと犬のように笑った。
《ヒーローTV、緊急生中継です! 市民の皆さん、チャンネルをOBCへどうぞ!》
聞こえてきたのは、ガブリエラの端末からのアラームだ。
いつ放送が始まるかわからないHERO TVを見逃さないために、生中継が始まったらアラームで知らせるアプリを通信端末に入れているのだ。ヒーローファンには必需品であり、また自宅のPCやTVと連動して自動録画にも対応している優れものだ。
ガブリエラはふたりにことわって、通信端末の小さい画面でHERO TVをつける。
放送されたのは、ガブリエラにとって、いやシュテルンビルト市民全体、もしかすると世界中のNEXTに影響を及ぼすかもしれない大事件だった。
「大変なことになったわねえ」
食事会が終わって店を出てから、ブランカが頬に手を当ててふんわりと言う。
今回の中継で、T&Bがヒーロー引退を表明した。
それだけではない。サマンサ・テイラーを殺害した容疑者とされていた鏑木・T・虎徹は実はワイルドタイガーの素顔であり、容疑は全くの冤罪であったこと、そしてアポロンメディアのCEOであるアルバート・マーベリックの長年に渡るとんでもない犯罪が、その発覚と逮捕までリアルタイムで放送されたのだ。
ひどい差別や迫害を受けた歴史も色濃いNEXT。その地位向上と印象緩和に何よりも貢献したヒーローという職業を作ったのが、アルバート・マーベリックだ。
メディア王、ヒーロー界の父とも言われた彼が、先日テロを起こしたウロボロスという組織と繋がりがあり、過去多くの事件で八百長の捕物を行っていた、ということが明らかになった。
特にヒーローそのものの象徴でもあるMr.レジェンドに関して多くの八百長が行われていたということ、更にはバーナビーの両親を殺害した真犯人でありながら長年彼の後見人を務めてきていたという、サイコパス的ともいえる異常な背景に市民は驚きと戸惑いを隠せず、蜂の巣を突いたような大騒ぎになっている。
ガブリエラもまた、それを見て呆然としていた。
とはいえ話が少々難しかったので、完全に理解するのは時間がかかりそうだが、ヒーロー業界に激震が走るということは理解した。
考えられるのは、最近急上昇していた分だけ下落も激しいだろうヒーロー人気、信用の低迷。印象勝負で広告収入がメインであるヒーローにとって、超打撃である。
「あのイボじじい! せっかくヒーロー人気が上がってきたってときに、なんてことしてくれたのよ!」
「まあそのヒーローを作ったのが彼なんだけどね?」
「だからよー! 最初からマッチポンプってことでしょ!? ヒーローの存続自体やばいじゃないの! T&B、これ逃げたんじゃないの!? 業界ヤバそうだから黒幕やっつけていいとこかっさらった所ですぐトンズラ、的な!」
「だとしたら賢いわね。私でもそうするわ」
「くそー! 明日出社するのやだあー!」
シンディは頭を抱えた。しかしウーウーとしばらく唸ってから、ガブリエラの両肩を正面からがっしりと掴む。
「アンジェラ! しっかりね! 大丈夫よ、あんたは犯罪者を捕まえるヒーローじゃないし、事件に関係ない所での怪我も治しに病院行ったりしてるし! 普通のヒーローより影響は少ないはずよ、多分! ていうかウチは一切八百長なんかしてないんだから、その方向でアピールしていけば大丈夫! いいわね!?」
「はい」
本当にわかったというよりはただ迫力に押されて、ガブリエラは返事をした。
「よし! 明日はいつもどおり出社! なんか問題あったら言いなさいね! 私は旦那と役員に連絡するわ。じゃあまた明日!」
そう言ってシンディは踵を返し、ガツガツとヒールを鳴らして電話をかけながら、道を歩いていってしまった。
「アンジェラ、ちょっと私とデートしない?」
呆然としているガブリエラに、真っ白でゴージャスなファーコートを羽織ったブランカがそう言った。
「色気はないけどね」
そう言う彼女がちらりと後ろを見ると、建物の角などに、こちらを伺っている、地味だが身なりの良い男性が何人かいた。外に出る時の彼女の護衛だ。
ガブリエラは頷き、淑女をエスコートする紳士というよりは、小さな子供を連れて歩こうとする母親のように出された彼女の白い手をそっと取った。
12月に入ったせいでどこもかしこもジングルベルが鳴っているシュテルンビルトを、ガブリエラはブランカと手を繋いで、ゆっくりと歩いていた。
故郷でもクリスマスは特別な日だったが、シュテルンビルトのクリスマスはそれはもう盛大である。神の誕生を祝う日という本来の題目に加え、サンタクロース、クリスマスツリー、プレゼント交換やクリスマスカードなど、ガブリエラが知らない陽気なばかりの催しもたくさんあった。
数少ない故郷でのイベントのもうひとつである死者の日は、シュテルンビルトではハロウィンというお祭りになっていた。おどろおどろしい格好をして骸骨を飾りまくる死者の日と違って、可愛いおもちゃやお菓子で溢れるハロウィンはガブリエラも好きだ。
しかし元々好きではないクリスマスが、ガブリエラはシュテルンビルトに来てから更に嫌いになった。12月25日は聖母の処女懐胎によって神が誕生した日とされているが、ガブリエラが生まれた日でもある。だからこそ母も処女懐胎を告知した天使から取って“ガブリエラ”という名前をつけたのかもしれないが、ちなんだ名前をつけたくせに、ガブリエラは誕生を祝われたことなどいちどもない。
──生きていてよかった、と言われたことなど。
「はい、着いた」
知らず知らずのうちに顔をしかめていたガブリエラは、ブランカの柔らかい声でハッとした。目の前にあったのは、傍目にも美しい教会だった。
「きれいな教会でしょう。ガイドブックにも必ず載ってるのよ」
そう言って、ブランカは手元からチェーンを取り出した。その先には、ガブリエラも持っている星のついた十字架が下がっていた。それを見たシスターが、にこやかに微笑んで入り口を通してくれる。
「昼間は観光客で混んでるんだけど、夜は洗礼を受けた人しか入れないようになってるの。静かに祈れるようにね」
「ブランカさんは……」
「うちは代々洗礼を受けるから、一応はね」
彼女が見せてくれたロザリオは、ガブリエラが見てもわかるほど年季の入ったアンティークだった。
「私、日光がだめなのよ。あそこに住んでるのは先祖代々の土地だからっていうのもあるけど……」
ブランカが店を構えている場所は土地から彼女のものであり、昔は屋敷が建っていたが火事で失われたこと、上の建物は割と歴史が浅いが、地下室は当時のものを改装しながらプライベートスペースにしていることなどはガブリエラも聞いたことがある。
「ゴールドステージは、どうしても陽射しがね。地下のほうが都合がいいの」
だからここに来るのも夜だけなんだけど、静かだからむしろありがたいわ、とブランカは音が響く教会で声を潜めて言う。
「ほら、素敵でしょう?」
入口をくぐり、ひどく高い天井の聖堂を見上げたガブリエラは、声もなく呆けた。
ガブリエラが育ったホワイトチャペルは無骨な漆喰の教会で、飾りらしいものはひとつもなかった。あるとすれば、死者の日に飾る骸骨くらいのものだ。
しかしシュテルンビルトに点在する教会はどこもステンドグラスがあって、太陽の光や星の光を通し、名物のひとつでもある。
この教会はそれ自体が大きいだけに、縦に長いステンドグラスが数え切れないほどにあった。昼間はゴールドステージゆえの太陽の光を空かすのだろうそこは今、シュテルンビルト名物のネオンの光でゆらめいていて、より複雑な色彩になっている。その上内部はたくさんのキャンドルで照らされていて、なんとも幻想的な美しさだった。
しかしガブリエラが目を奪われたのは、ステンドグラスの美しさではない。
この複雑な光の奔流を脇役にするほどの存在。それは黄金に塗装された槍を持った天使と、それで胸を貫こうとされている聖女の彫像だった。
「ステンドグラスもいいんだけど、私はこの像が好きでね……」
そう言ったブランカは、隣りにいるガブリエラを見て、言葉を止めた。
ガブリエラは像を見つめ、見開いた目から涙を流していた。
ブランカはそれを見て優しい顔をするとハンカチを取り出し、灰色の目から溢れた涙を拭ってやる。ガブリエラがはっとした。自分が泣いていたことに気付いていなかったからだ。
「あっ、す、すみません」
「いいのよ」
慌てて謝るガブリエラを、ブランカは長椅子に座らせた。そして、その隣に自分も座る。ふわんといいにおいがして、ガブリエラはほうっと息を吐いた。
「私は選ばれた」
ブランカの呟きに、ガブリエラは顔を上げる。
「あの像のタイトルよ」
「わたしは……えらばれた……」
「そうよ。あらゆる人に分け隔てなく、とも言っているのに、ああして天使にたったひとり選ばれて悦ぶ女の像を祭壇に飾ってるの。おもしろいわよね」
ガブリエラは、もういちど像を見る。
黄金の槍に貫かれようとしている聖女は、くったりと脱力しているようにも、最後の力を振り絞ろうとなけなしの力を込めているようにも見える。そしてその表情は、眉を顰めた苦悶の表情──なのかもしれない。しかしガブリエラには、それがとんでもない歓びに耐えかねているようにしか見えなかった。
──うらやましい。
ぽーっと像を見るガブリエラの胸に沸き起こったのは、そんな感情だった。
そしてそんな気持ちになったことに、ガブリエラは驚く。何かを羨ましいと思うことは多少あるが、こんなに、泣くほど焦がれるような気持ちになるのは初めてのことだった。
「あんな風に、天使に選んでもらえたら」
心を読まれたようなブランカの呟きに、ガブリエラはびくりと肩を震わせた。
そしてなんだかとても恥ずかしくて、胸のあたりの服の生地を自分でぎゅっと掴む。恐る恐るブランカを見ると、彼女は何もかもお見通しという顔をしていた。
「さっきはああ言ったけれどね。どこにも行けなくなったら、私のところに来てもいいって。それは本当だけど」
ブランカもまた顔を上げ、天使と聖女の像を見る。
「でも私の所は、そうやってどこにもいけなくなった人が来るところよ。そういう人がたくさんいるの。私はあなたの唯一の人にはなれないわ。そこはわかる?」
「……はい。しかし」
「さっきまで、知らなかったでしょう」
「……ブランカさんは、意地悪です」
ガブリエラは、羞恥と、悲しみと、そして抑えきれない熱のこもった目でブランカを見て、絞り出すように言った。
「ひどい。知らなかった。ひどい」
「ふふふふ、そうでしょう。私はとっても意地悪なの」
そう言って笑うブランカは、愚直な馬鹿が振り回されるのがおもしろくてたまらない、という様子だった。それは無知な男女に知恵の実を与えた蛇そっくりの、非常に魅力的な表情である。
ひどい、ひどい、と呟くごとに溢れる甘美と憧憬に焦げる胸を持て余しながら、ガブリエラはまた像を見る。
本当にひどい。あんなものを知ってしまったら、もう妥協などできない。“もしだめだったら、あそこに行けばいい”などとは思えない。どうしても欲しい。どうしてもあそこに行きたい。どうしても、ああやって生きたい。──いきたい。
──ああ、逃れられない。
やはり自分はこうなのだと、ガブリエラは自覚した。
楽園のような星の街に来ても、あの地獄の釜の底の如き地雷原が忘れられないように。まともでいい人たちとどれだけ触れ合っても、頭のおかしい母を振り切れないように。あらゆる人を分け隔てなく助けるヒーローになっても、たったひとり選ばれる聖女が羨ましいあまりに涙を流すように。
それは、絶望である。──だが、歓喜でもあった。そしてそれがなお罪深く、業が深く、有り体に言えば救いようがない。
「私も、私の唯一の人には出会えていないわ。だからこういう暮らしをしているのだけど」
それで救われる人もいると思うし、私もそれなりに飽きないしね、とブランカは言った。そうだろう、とガブリエラも思う。行くところがなくて彷徨う人々にとって、ブランカの元で同じような境遇の人々と身を寄せ合うのは、確かに救いになるだろう。
だがこの像が好きだという彼女にとって、彷徨う人々にひとときの居場所を提供するのも、アドニスのように手のかかる子犬を世話するのも、おそらくただの手慰みだ。
「つらくは、ない?」
「耐えられないほどじゃないわよ、毎日それなりに楽しいし。……でもあなたはひどい寂しがりだから、早くあなたの天使が見つかるといいわね」
寂しがりだということをたった今気づかせた張本人のくせに、ブランカはガブリエラの頬を優しく撫でて言う。「子供が欲しいのだって、寂しいからでしょ」とも。
だがガブリエラは彼女のこういう意地悪なところが好きだし、好きになるならこういう人がいいとすら思った。
「さ、せっかく来たんだからお祈りして帰りましょ」
「……おいのり。私、お祈りのことがまだよくわかりません。どうすればいいのでしょう」
ガブリエラは洗礼を受けて教会で育ってはいるものの、育て親があの似非神父のアンジェロ神父なので、◯◯教の教義などはよく知らないのだ。むしろ「◯◯教徒だと言い張れるように聖書の文句は覚えろ」と言われたくらいである。
母はといえば、とにかく星に行くために善行を積むのだ、としか言わなかった。それよりも、聖歌のほうが“教えてもらった”という感が強い。
「どうって? 私も真剣に考えたことないわね。どうなのかしら、シスター」
ブランカが突然どこかに話しかけたので、ガブリエラはびっくりした。振り返ると、すぐ側に修道服姿の優しそうな老年のシスターが立っている。「お久しぶりですねえ」と和やかにブランカに言っているあたり、顔見知りのようだった。
「そうですね。今日のことを反省したり、これからどうしたら良いか考えたり……。神様に頼るのではなく、お話する、相談するような気持ちで。そうすれば、神様からの導きがいただけるのですよ。自分の心の奥からね」
わかったようなわからないような、と思いつつ、ガブリエラはその丁寧で優しい声にとりあえず頷いた。
「今日あったことをお母さんに報告する、相談する、ぐらいの気持ちでいいですよ」
「おかあさん……」
ガブリエラは思うところがあったものの、しかし、あの神の声しか聞いていない母のことだ。ああして直接電話しても全く話しにならなかったが、神に祈るていでのアプローチのほうがいっそ思いが通じるかもしれないな、とはなんとなく思った。
「じゃあしばらく、静かにね」
完璧に赤く塗られた唇に1本指を立てたブランカに頷いて、ガブリエラは彼女と同じように祭壇のある前方に向かって軽く頭を下げ、ロザリオを巻きつけた手で十字を切り、両手を組み合わせて目を閉じた。
そして、祈る。母に伝えたいことを、神を介して──
「まあ伝わりゃしないけどな」
突然のその声に、ガブリエラは心底驚いて目を丸くし、顔を上げた。
目の前には、誰かが立っていた。背が高い。男のようにも見えるが、女のようにも見える。どちらでもないようにも感じる。
「子供の割にはなかなか波乱万丈な生き方してるじゃないか。逞しいのはいいことだ」
声ばかりははっきりと聞こえるのに、どんな顔をしているのかよくわからない。ぼんやりとした人の形をした光が動いているような、しかしどこからどう見ても人であるような、そんな具合だった。──認識ができない。
また唯一はっきり聞こえるその声も、性別はよくわからなかった。女にしては低く、男にしては高い。しかし澄んでいて、うっとりするほど美しい声だった。
ただ喋っているだけでもまるで歌っているような、耳の奥から脳が蕩けそうな声。この声で厳かに告げられたら、それこそ神のお告げだと思ってしまうのではないかというほどの。
「……かみさま?」
「馬鹿言え。おまえ本当に馬鹿だなあ、血筋かなあ」
神秘的な声と姿の割に、よく喋る。しかもなんだか俗っぽい。
しかしガブリエラは、少し恐ろしくなった。なぜならガブリエラは、彼を、もしくは彼女を、全(・)く(・)知(・)ら(・)な(・)い(・)。
「アンジェラ、そろそろ行きましょうか」
ブランカがそう言ったので、ガブリエラは頷いて立ち上がった。神様のお告げも母の声も聞こえなかったけれど、少しすっきりした気持ちだった。
またブランカと手を繋いで、ガブリエラは教会を出ていく。
ガブリエラは、その後ろ姿を呆然と見送った。
そして、思わず辺りを見回す。──ここは、どこだ。
教会だ。ゴールドステージの教会。朝からアドニスに連れ出されて寒い中アイスクリームを食べて、鏑木・T・虎徹はワイルドタイガーで、アポロンメディアの大スキャンダル、アルバート・マーベリック、ウロボロス、ワイルドタイガーとバーナビーの引退。シンディとブランカとお祝いをして、美味しい料理、ワイン、行くところがなくなったら──
「ああもう、馬鹿は面倒くさいな」
ぐるぐると回る思考にふらついていると、そう言われた。本当に面倒くさそうに。光り輝くその人物の後ろにあるのは、天使と聖女の彫像。
「……天使?」
反射的にそう口にしたガブリエラに、相手は笑ったような、馬鹿にしたような、そんな雰囲気を醸し出した。
「私はお前の天使じゃないよ、ガブリエラ」
はっきり名前を呼ばれたので、ガブリエラはどきりとした。なぜここまでどきりとするのか。そしてこの感覚を、知っているような。──忘れているような。
「誰?」
「誰だと思う?」
相変わらず顔はわからないのだが、にやり、と三日月のように口の両端がつり上がって、並びの良い歯が見えたのがわかった。ものすごく性格の悪い、人をばかにしきったその笑い方に、ガブリエラは覚えがある。
「──ラグエル、では……ない」
「どう見たって馬ではないだろ。もう、馬鹿だな。馬鹿すぎる」
はあ〜あ、とわざとらしいため息をついて、相手はガブリエラを指差してきた。
「おまえがあんまり長々と自分の尻尾追いかけてグルグルしてるもんだから、ちょっと手を貸してやろうってんだ。感謝しな」
その言葉とともに腕を掴まれ、ガブリエラはぎょっとする。それなりに距離があったはずなのに、どうして。しかしそんな疑問を解消する暇など全く無く、ガブリエラはぐいぐいと引っ張られていく。
教会の中、敷かれた絨毯も、入り口も、ずらりと並んだ長椅子も全く“関係なく”、まっすぐに何処かに進んでいく。いつのまにか、今いるところも教会ではなかった。
故郷の砂の街である。ホワイトチャペルである。あの山岳の村である。地雷原の上かもしれない。モーテル。荒野の1本道。車の中。自分の部屋。シュテルンビルトの大通り。ゴミ捨て場。シンディの部屋。◯◯◯◯の部屋。
──誰の部屋?
何か、誰かに、大事なことを言われていたような。大事な約束をしたような。
ぼんやりそう思っていると、ぐんと身体が引っ張られた。
「そら、近道だ!」
身体が、宇宙に投げ出される。そんな感覚だった。
たくさんの星。満天の星空の中に投げ出されて、ガブリエラはひどく焦った。
どれが自分の星だろう。天使が導く星はどこだ。
ここがお前の居場所だと引き寄せてくれる、心地良い重力の星はどこ?
「本当に馬鹿だなお前は」
美しい声が言う。
「まあ、大丈夫だろ。本当に頭がいいと、馬鹿ほど可愛くなるもんだ。引きつけ合うようにできてるんだから、どの道たどり着くだろう」
世の中よくできている。
そう言って、天使はどこかの星に姿を消した。