#139
母へ連絡してから、ガブリエラはその日ずっとぼんやりしていた。
しかしひと晩寝て起きると、胃がむかむかするような感じと、すっきりしたような思いが同時に湧き上がってきた。彼女の頭がおかしいことなどわかっていたはずなのに、いったい自分は何を期待していたのだろう、とばかばかしさで胸がいっぱいになった。
平和な都会で暮らすうちにまるで世界の何もかもがまともになったような気がしていたが、しょせん気になっていただけだった、とガブリエラは思い直し、自分の気の緩みを反省した。
いくらシュテルンビルトが楽園のような場所であっても、他の場所では喧嘩で人が死ぬのも日常茶飯事で、強盗、強姦も毎日起きている。男も女も関係ない。それを助ける者も、まともに裁く者もいないことだってある。唯一、いるのかもわからない神に縋るのはそれぞれの自由、もしくは勝手。世の中はだいたいそんな風にできているのだ。
今だって、自分の周りがたまたま平和なだけで、それは神様が慈悲深いからではない。あくまでたまたまだ。
いつ酔っ払い運転のトラックが部屋に突っ込んでくるかわからないし、隣の部屋がガス爆発を起こすことだってないとはいえない。夜中に無防備に歩けば強盗殺人の被害に遭う可能性もある。そうして誰かの悪意が働かなくても、バイクで転んだだけでも簡単に死ぬのだ。
人もそうだ。いい人もいれば、普通の人も、頭のおかしい人もいる。
誰にでも平等に優しい、すばらしい人。お腹をすかせた赤子のためにミルクを盗む人。孤児にはパンを与えても、自分の子供には水も与えない人。お金持ちで、家族もいて幸せであるのに、知らない人のお墓を掘り返して、死体を犯す人。人それぞれだ。シュテルンビルトに素晴らしいヒーロー達がいるように、故郷には頭がおかしい母がいる。
そしてヒーローとて不死身ではないし、頭がおかしい母が娘の善行で魔法のようにまともになったりもしない。一夜で世界中の子供にプレゼントを配るサンタクロースなどいない。
なぜなら能力が切れたワイルドタイガーはバーナビーにお姫様抱っこで助けられなければ間違いなく死んでいたし、母は相変わらず頭がおかしかったし、サンタクロースはいちども自分のところに来たことなどないからだ。現実的だ。理屈が通っている。シンプルな話だ。
──気を引き締めなければ。
ガブリエラの短所はものごとを深く考えないことだが、同時にそれが長所でもある。細かいことを気にしないぶん大らかだし、切り替えも早い。傷に浸るのも落ち込むのも、どんなに長くても1日半で終了する。ラグエルが死んだ時に蹲っていたのが、だいたいこのくらいの時間だった。
時々思い出して気分が落ち込むこともあるが、それはそれだ。でないと今まで生きてこれてはいない。
「災いなるかな、災いなるかな、災いなるかな」
ガブリエラは気持ちを切り替えるため、ロザリオを握って、聖書の文句をひたすらに唱える。
アンジェロ神父に教えられたことはふたつある。ひとつは金の重要性。もうひとつは、どうしても“糞以下の言葉”を言いたい時は、聖書の文句を唱えることだ。
なぜならどちらもそう違ったものでもないくせに、聖書の文句は周りから聞こえがいいからだ、と言ったアンジェロ神父をろくでもない似非神父だと思っているのは今も変わらないが、今になってこの教えがとても実のあるものだったということがわかる。
だからこそガブリエラは、母を施設に入れることをとりやめなかった。
それはもう意地のようなものだった。母への嫌がらせでもある。嫌がらせになればいい、ともうこの頃ははっきり思っていた。
自分勝手で頭のおかしいきちがい修道女など、都会で暮らすまともな娘に施設に入れられてしまえばいいのだ。それは至極まっとうな行為であるし、世間から見て“正しい”のも“慈悲深い”のも“立派”なのも圧倒的に自分の方だ。更に糞以下の言葉の代わりに、清らかぶった聖書の言葉を唱えれば完璧だ。
自分はどこからどう見ても、聖書の言葉を唱えながら一生懸命働いて、かわいそうな母を施設に入れる立派な娘だ、ハレルヤ(ざまあ見ろ)! ガブリエラはカッカする頭でそう考えた。
やってやろうではないか。神のいうとおり、母のいうとおり、自分の身を削っても困っている人を助けようではないか。そうして星に行ってやる。
聖者ではなく、ヒーローとして。
決して死んでなどやるものか。
どれほど自分の身を削っても、どれほど危険な目に遭おうとも、石にかじりつき、泥をすすり、地雷の上を歩いたって生き続けてやる。殉教の聖者になどなってやらない。母のようなきちがい聖女になど、決してなってやるものか。
すべてを決するのは、天使。
いつか天使が現れて自分の行いを断ずるまで、神や母のいいつけどおりにしているふりをしながら、どこまでもやりたいようにやってやる。どうやっても“いきつづけて”やる。
ガブリエラはそう強く決め、何かの首を掻き切るような勢いで誓いの十字を切ると、それ以上深く考えるのをやめた。
ホワイトアンジェラというヒーローネームを司法局と会社に提出してから数日後、ガブリエラとシンディが入社すると同時に代表取締役になったシンディの夫から、とある申し出があった。
衣装は自分に任せて欲しい、というのだ。
ふたりが懸命にヒーローネームを考えたこと、そして前社長である父親や、親族で固められた役員たちの働きを見て、希望が通らなかったからといって意固地になるばかりではいけないと反省した、というのが彼の言い分だった。
その殊勝な言葉にガブリエラも感心したし、あれほど痩せっぽちの自分を拒否していたというのに受け入れてくれるらしいことに感謝して、深々と頭を下げた。シンディも、ちゃんと周りのことを考えた彼に感激して「素敵!」と絶賛し、キスの嵐を送った。
キュートなデザインにしてみせる、任せろ、とボディビルダー特有の白い歯を煌めかせ、予算申請書を持って意気揚々と去っていく彼を、ガブリエラは頼もしく見送る。
彼のアイデアスケッチからはとにかくマッチョなイメージを希望していたことしか汲み取れなかったが、実際にヒーローとして雇用されたのは、彼の半分も身幅のないガブリエラである。マッチョな衣装を作ろうとも物理的に不可能なので、ガブリエラも、シンディも、何の心配もしていなかった。──していなかったのだ。
「よ、よろしくおねがいしますー」
ガブリエラは、オフィス街にある公園の真ん中でビラを配っていた。
ヒモで身体の前後にぶら下げた、いわゆるサンドイッチマン状態で掲げた薄い板の前身頃には、『ケア・サポートの新ヒーロー、ホワイトアンジェラです! よろしくね』という文句が打たれている。ただし後ろは『マキシマム・ジム シルバーウェスト店、現在入会費半額!』とでかでかと書かれていて、配っているのもそのビラである。
これが、ヒーロー・ホワイトアンジェラの初仕事だった。
「へんな犬ー! 気持ち悪い!」
「こわいー」
無邪気な子供の声が聞こえたが、ガブリエラは傷つかなかった。むしろ心から賛同した。実際とても気持ちが悪いし、こわい。──この、着ぐるみは。
衣装は任せてくれ、という言葉とともに、シンディの夫、ケア・サポートの社長が用意した衣装は、なんとこの着ぐるみだった。
デザインは彼のアイデアスケッチの端にあった、ケア・サポートのロゴに添えてある猛々しく吠える狼犬を由来とするマスコットキャラクターらしい、犬っぽいキャラクターのそれである。
犬っぽい頭部に、首から下はビキニパンツのマッチョボディというあのアイデアスケッチそのもののオーダーメイド着ぐるみを見せられた時、ガブリエラは絶句した。シンディは笑顔だったが、こめかみが引きつっていたのが横にいるガブリエラからだけ見えた。
彼によると、「会社の意向で“清潔感があって、暑苦しくないキュートなキャラクター”が求められ、自分の夢だった逞しいヒーローは却下された。だが会社が求めるイメージが万人受けするものとして必要なのはわかるし、自分のアイデアの中にはちゃんとそういうものも用意していた。それがこれだ!」ということらしい。
本来はマッチョ君という名前があったらしいが、彼は「このキュートな姿をホワイトアンジェラとして君にプレゼントしよう」と、恭しくその着ぐるみの頭部をガブリエラに渡してきた。
イラストの時は横向きだったそれは、立体になっても横向きだった。つまり、正面を向いた時に顔だけが横向きなのだ。シンディが「砂漠の壁画か」と呟いたのが聞こえた。
更に口にはぎざぎざの牙が生えていて、中からだらんと舌がぶら下がっている。怖い。頭部の毛色とボディの肌色は本来黒っぽい茶色──ボディビルで良しとされる、日焼けした肌色──だったらしいが、ホワイトアンジェラとしてリニューアルするにあたって白の毛並みと清潔感ある薄めの肌色にした、と彼は恩着せがましく語った。
だが、乳首は黒っぽい茶色のままであった。乳首のみ日焼けしているのだろうか。
ガブリエラは呆然としていたが、拒否はできなかった。なぜならガブリエラは本来こんな中堅以上のちゃんとした会社に雇われることなどありえない元難民の社会的弱者であり、この会社の平社員以下の下っ端、つまりヒーローである。
そして更には、その日すでに社長が用意した仕事があった。「初仕事だぞ!」と、自社ヒーローが感動するのを疑ってもいない彼が渡してきたのが、このビラ配りだった。現在入会費半額のこのジムは彼の愛用ジムであり、社長とはボディビル仲間で飲み仲間であるという伝手で、仕事をもらってきたらしい。
「……フルオーダーの着ぐるみってね、……高いんだって」
最終的に、急いで彼の秘書に話を聞きに行ってくれたシンディがぼそりとそう言ったので、ガブリエラは自分でも強張っていることがわかる無表情で、会議室で黙々と着ぐるみを着た。
「……ごめんね」
「いいえ、シンディのせいではありません」
「そうは言ってもねえ……」
「ガブは大丈夫です」
「あ、それ。前からちょっと言おうかと思ってたところではあるんだけど」
シンディは、“師匠”風に言った。
「自分のこと“ガブ”って言うの、気をつけなさいよ。面接の時とかはちゃんと“私”って言ってたから今まで言わなかったけど、ヒーローになるんだし本名の一人称はまずいでしょ」
「……はい」
彼女の言うことはもっともだったので、ガブリエラは、着ぐるみというよりは肉襦袢と表現するのがふさわしいものを着て頷いた。
着ぐるみは、とてもしっかりした作りだった。内側にある簡単なボタンを押すと目が動くし、正しいマッチョポーズを取ると小さなレバーが反応し、そのポーズでアピールしたい筋肉の部分が膨らむという、非常に凝った作りだった。ビキニパンツの替えも、色違いが何枚か用意してあるという周到ぶり。衣装用の予算をすべて使って作られただけある。
そう、ホワイトアンジェラのヒーロースーツ予算は、すべてこの着ぐるみに消えたのだ。
「よろしくおねがいしますー! 現在入会費半額ですー!」
壊れたラジオのように繰り返しながら、ビラを配る。
パンツの替えだのマッチョポーズギミックだのと凝った作りのくせに、「再現度を損ねる」という理由でマイクはおろか口元に穴も空いていない犬頭のせいで、声を張り上げなければくぐもって聞こえない。
また、声もなくいきなりヌッと横から出るとかなり驚かせてしまうので、なんだこれはと最初からまじまじとこちらを見ている人に近づいてビラを配ったが、なんだこれはと再度思われることに変わりはなかった。
しかし仕事は仕事である。しかも、一応、ヒーローとしての仕事である。
ガブリエラはビラを配り続けた。働くとは意味のあることをするのではなく、言われたことをやり遂げることだ。いたずら小僧にビキニパンツをずり降ろされたり、面白がった若者が「ピンポーン!」と叫んでやけに黒くて目立つウレタン製の乳首を連打したりするのに耐えながら、ガブリエラは無心になってビラを配った。
「何やってんの、おまえ」
声をかけてきたほうに振り向く──犬頭は横向きだが──と、メッシュ状の覗き穴の向こう側に、非常に美しい顔の人物が立っていた。アドニスである。
「ていうか、ホントに何だそれ。気持ち悪いんだけど」
ガブリエラは、言い返さなかった。この着ぐるみが気持ち悪いのは事実だったし、何をやっているのか自分でも分からなかったし、声を出すのも億劫だった。
重たい犬頭を項垂れさせてガブリエラが黙っていると、アドニスはにやりと笑った。
「ほらな、僕の言ったとおりだろ」
──でなきゃ着ぐるみ系だね、誰でも出来るやつ。
──あれって何人かが中身交代してやってるみたいだから、そのうちのひとりになってビラ配るくらいなら出来るんじゃない?
そうだ、確かに彼はそう言った、とガブリエラは思い出した。そして、今の状況はその言葉通りの有様だ。
「いや、……交代、……ない」
「だから?」
力ない反論は、アドニスの容赦ない声に叩き潰された。ガブリエラも、確固たる意志をもって言ったわけではない。実際、この気色の悪い着ぐるみの中身に入るのが自分だけだというのが胸を張って威張れることだとは、ガブリエラもとても思えなかった。
「ヒーローになったところで、おまえじゃこのっくらいが限界なんだよ」
「……ヴー」
「なぁんだよ」
くぐもった唸り声に、アドニスが美しい眉をひそめる。
だがその顔が、ふっと見えなくなった。視界が真っ暗になる。きゃあ、という女性の叫び声と、「え、なに? えっ倒れたの!?」というアドニスの焦った声が遠くで聞こえた。
熱中症だった。
季節は冬近い秋口ではあったが、あの着ぐるみが電池式の様々なギミックを搭載しており通常よりも熱を持っていること、またそのギミックのスペースぶん内部が狭いこと、そして公園の真ん中であったがゆえに頭を外して水分補給をするスペースがなかったことなどが、熱中症の原因だった。
だがどんな事情があれ、初仕事の途中で救急車で運ばれたヒーローは、自社内でひんしゅくを買った。特に社長に。
「なんてひ弱なんだ」「軟弱だ」という類のことをあらゆるボキャブラリーを使って言われたのち、ドクターストップがかかったガブリエラはその日すごすごと帰宅した。ヒーローデビューの日だからと、他のバイトを入れていなかったのが救いだった。
シンディが結婚してあのマンションを出た後、ガブリエラも今のブロンズのアパルトメントに引っ越した。セキュリティはまあまあいいのだが、防音がしっかりしているのが売りであるシュテルンビルト特有の建築ではなく、あまり壁が厚くないことを理由にお得な家賃だった為選んだ。
「ガブは……ヒーローになった……」
そのはずだ。
だがガブリエラは今、気色の悪い着ぐるみを着て、ビラを配り、冬場に熱中症で倒れ、安アパートのシングルベッドで仰向けに寝転がっている。
その後も、ホワイトアンジェラとしての活動は続いた。
普段は初仕事のように、ケア・サポートと契約しているジムやフィットネスクラブ、薬局などのビラや試供品を配るのが主な仕事だった。その仕事がない時は着ぐるみを脱ぎ、倉庫で荷物運びをしたり、掃除をしたり、雑用をしたりした。
なぜならガブリエラは文字の読み書きから不得手で書類仕事が全く出来ず、無理にやっても間違いだらけで、そのうえひどく時間がかかって使いものにならないからだ。
もちろん、ヒーローの本来の仕事である犯罪対策活動も行う。
だが事件発生のコールが鳴り響いても、もこもこの着ぐるみを着ているホワイトアンジェラはバイクや車を運転することが出来ない。やむなく手の空いている社員にポーターをしてもらうことになったが、着ぐるみのままだと後部座席に横たわって乗るしか出来ず、非常に滑稽な有様になった。
また運転が上手かったり道に詳しい社員の手が空いていればいいものの、そうでない場合もある。免許を取りたての若い女性社員に当たった時は、なぜかシュテルン環状線をぐるぐる周り続けることになり、事件には間に合わなかった。
しかし間に合ったとしても、着ぐるみの不安定な視界では犯罪者に遭遇してもまともに対処できないし、この常に横向きの犬頭では更にそれが顕著だった。といっても、犯人もこの気色の悪い着ぐるみが正式なヒーローだとは全く思わないようで、走り抜けられたことが2回ある。
そんな有様なので社長からの評価はどんどん下がる一方で、しかしその他の重役員、社員たちからは、ガブリエラは概ね可愛がられていた。
最初こそ給料泥棒扱いされていたのだが、ガブリエラが体の不調や怪我を治すと、病は気からの逆説か、不調と同時に機嫌も治ることがほとんどだった。
社員の体調管理をほぼ完璧にこなすというのはなかなかに破格の効果である。さらにガブリエラは今までの豊富なバイト経験から、掃除、送迎車の運転、またちょっとした水回りの修理などまでこなす。そんな有様から、ヒーローとしては役に立たないが、社員と社内のケアを自動的に行う高価な備品を導入したと思えばいいか、という認識になったのだ。
ガブリエラとしては不服ではあるものの、せっかく入社できた会社をクビになることだけは避けたかったので、社員のケアと社内の点検は毎日行った。そしてホワイトアンジェラがやってくれるから、ということで定期的に業者を雇う費用が削減され、それなりに褒められた。
ヒーローとしての活躍ぶりがあまりにひどいことから、その能力ゆえに犯人確保ではなく怪我をした市民に対応した方がいい、とシンディにアドバイスされたガブリエラは、なるほどもっともだと納得してそのとおりにした。
しかしデザインに難がある上にかさばる着ぐるみ姿は、一刻一秒を争う場で駆けずり回る医療スタッフには邪魔くさがられ、事件で怪我をしてパニックに陥っている市民にはことごとく受けが悪く、毎回出て行けと蹴り出されてしまう。
とどめに、能力を見せさえすればと無理やり場にねじ込んで手をかざし能力を使おうとしたが、着ぐるみが分厚すぎて患部まで能力が届かないという本末転倒のトラブルが発生した。
得意分野に特化してさえ現場で邪魔にしかならなかったことにショックを受けながらも、ガブリエラはこれを理由に着ぐるみを廃止してほしいと会社に、というより社長に訴えた。
ケア・サポートのヒーロー事業はほとんど社長の独断で作られたワンマン部署で、社内でも「2代目の坊っちゃん社長がワガママで作り、コネ入社の新妻に運営させているお遊び部署」という扱いなので、他の人間に訴えても無駄なのだ。
だがガブリエラの訴えは、着ぐるみにやたらに金がかかっていることと、この気色の悪い着ぐるみが嘲笑混じりでにわかにネットで話題になっていて宣伝になっているといえばなっていること、そして何より社長のヒーローへの夢想の僅かに残った欠片であるマッチョ君の姿から、それは強く却下された。
さらには頼みの役員たちも、「まあまあ、君は社内でじゅうぶん活躍しているよ」と言いつつ、「では今日は肩こりを頼むよ」と続ける始末。ホワイトアンジェラは、もはやヒーローとして全く期待されていなかったのだ。
「だから言っただろ。こんなもんなんだって」
そして熱中症で倒れた日から、またアドニスが何かと周りをうろつくようになった。
以前のような迷惑はかけてこないものの、何かと周囲に姿を見せる。しかも倒れた時に救急車を呼んだことを恩着せがましく言ってきて、ガブリエラを色々なところに連れ回すのだ。
それは若者の多いバーであったり、カップルだらけのショッピングセンターだったり、時にはライブハウスだったりした。
しかし、まだ酒を飲んではいけないと言われているガブリエラにバーはつまらなかったし──アドニスは「いいだろ」というのだが、それを断るのもまた面倒だった──、ショッピングセンターで買いたいものもない。ライブハウスはいわゆるビジュアル系のバンドがメタルコアを演奏したりしているような毛色のもので、アドニスはその見た目の良さから臨時メンバーを頼まれてステージに上がっているらしい。
しかし耳が良いぶんこういったメロディのない音が苦手なガブリエラは、顔をしかめてすぐに出てきてしまった。
「なんでステージ見ないんだよ! 僕が出てるのに!」
「耳が痛い」
ヴー、と唸って両手でこめかみを押さえるガブリエラに、アドニスは至極つまらなさそうな顔をした。
そして、着るものがないので提携ジムのノベルティであるTシャツを3枚着まわしているというガブリエラに、バンド連中から集めてきた髑髏やゾンビや調子に乗った汚い言葉がたくさん書かれたTシャツをくれた。ガブリエラはその柄に少し顔をしかめたが、服は服なのでありがたく受け取っておいた。
こうしてことごとく何かがずれていて合わないアドニスだったが、彼はやはりガブリエラの周りをうろつくことをやめなかった。
「ねえ、またあれやってよ。能力でさ、ぽわーっと」
「どこか怪我を?」
「別にないけど」
「ではお金を払ってください」
当然そう言うと、アドニスは怒って「何だよブス!」と言い捨ててどこかに行ってしまう。しかし翌日には、まだ怒っているくせにまた顔を見せるのだ。
更に、彼は就業時間間際に会社に迎えに来るようにまでなった。
ものすごい美形が会社の外に立っているのであっという間に目にとまり、しかも質問されたアドニスが「彼氏」と名乗ったせいで、ガブリエラは身分不相応の超美形の彼氏がいるということになり、無責任に応援されたり、嫌味を言われたりした。
面倒くさかったが、アドニスにも会社の人達にも、直接暴力を受けたりしているわけではない。悪意がある風でもなかった。何よりも優先するということはまずないが、ガブリエラは出来る限りの範囲で付き合った。アドニスが来てしまった時は、徒歩の彼に合わせてバイクをのろのろと押して歩く程度のことはする、そのくらいだ。
「ねえ、なんでバイク押してんだよ。後ろに乗っけてくれりゃいいじゃん」
「いやです」
「ノーヘルだから? ヘルメット持ってきたらいい?」
「いやです」
歩く彼に付き合って、重いバイクを押して横を歩く程度のことならしてもいい。
だがラグエルの化身とも思っている大事なマシンに彼を乗せるまでの親切は、ガブリエラの中ではどうしても範囲外だった。
「……なんだよ、僕が2ケツしてやるって言ってるのに! ブス!」
アドニスはぷんぷん怒って、どこかに行ってしまう。
ガブリエラがそれを追いかけたことはなかった。むしろやっと行ってくれた、と肩の荷が下りた気持ちで、ガブリエラはメットを被ってマシンにまたがり、ハンドルをぽんぽんと丁寧に叩くと、慣れた調子でなめらかに走り出した。