#138
Ah! Vous dirai-je, Maman,
   ──ああ、言わせてください、お母さん
Ce qui cause mon tourment ?
   ──どうして私が悩んでいるのかを
Depuis que j'ai vu Silvandre,
   ──優しい目をしたシルヴァンドル
Me regarder d'un air tendre mon cœur dit à chaque instant :
   ──彼と出会ってから、私の心はいつもこう言うのです
Peut-on vivre sans amant ?
   ──皆、愛する人なしに生きられるのでしょうか?




 独特の発音の言語の歌詞。
 夜のシュテルンビルトを背景に、ガブリエラはメロディも発音も忠実に歌っていた。
 母から教わったその歌は、神を賛美するばかりの聖歌ではない数少ないレパートリーだった。元はコンチネンタルエリアで生まれたという、とても古い、古すぎて作曲者もわからないシャンソン。
 その後有名な音楽家が改めて編曲したことで広まり、シュテルンビルトや都会でも有名なメロディだったが、しかし酒場でしっとりと歌う曲ではなく、子供が歌う童謡という認識が強い曲だった。
 歌詞もガブリエラが知っている元のものとは違っていて、言語も普段使うものになり、子供にも親しみやすい、きらきら輝く星のことを歌ったものになっていた。更には、アルファベットを覚えるための数え歌になっているバージョンもある。
 ガブリエラはどれも好きだが、無意識に口をついて出るのはやはり母から教わった原語のままの歌詞だ。

「──L'autre jour, dans un bosquet, De fleurs il fit un bouquet……」

 歌詞の意味は知らなかったが、シュテルンビルトに来てから調べることができた。シルヴァンドルという愛する人を見つけた娘が、その恋の素晴らしさを母に語る歌。

「──Il en para ma houlette. Me disant, Belle brunette, Flore est moins belle que toi, L'amour moins tendre que moi……」

 娘に花を捧げ、その花で娘の杖を飾りながら、愛する人は娘の髪を褒める。君はどんな花より美しい、私はどんな恋人よりも優しくしようと囁いて。
 恋とは、愛とは、一体どんなものなのか。ガブリエラは想像もできない。なぜならガブリエラは、今生きている。
 愛する人などいなくても、泥をすすり、草をむしり、地雷の上を歩いてさえ恐ろしい亡霊につかまることなく、ガブリエラは生き汚く生きてこれた。恋を知らなくても、食べられるものは全て口に入れて、水を得ることを忘れずに、雨風を凌ぎさえすれば生きられた。それこそ、聖書の中で最も汚らわしいものと言われる犬のように。

 歌詞の切れ目で、ガブリエラは立ち止まった。
 見下ろせば、星の街と言われる由来であるすさまじい夜景が広がっている。夜だというのに交通量の多い車が、おもちゃのように小さい。
 ガブリエラは、ふと見つけたビルの屋上の、コンクリート塀の上を歩いていた。特に理由などない。ただ、“いけそう”だと思っただけだ。
 実際、もう数十メートルにもなる塀の上を、ガブリエラはまっすぐに歩いている。どうということはない。足を踏み外すことなく歩きさえすれば、安全な公園の遊歩道とも何も変わりはしない。期待していたよりもつまらない散歩だった。

 ──ああ、もどかしい。

 ガブリエラは、胸を掻き毟りたい気持ちで夜の街を見下ろす。

 ガブリエラは今、ありとあらゆる会社に自分の売り込みをしていた。
 まっとうに経歴を書いて送るとそれだけではねられることが多いので、途中からは飛び込み営業のスタイルでいくことにした。

 営業・就職活動をしながら、ガブリエラはアルバイトで金を稼いでいた。
 アカデミー時代から続けているマッサージ屋に短時間の固定シフトで務めつつ、あとは工事現場、交通整理、清掃、スーパー、飲食店、クリーニング屋、デリバリーサービス、送迎、バイク便、様々な職種のアルバイトを経験した。僅かでも時間が空けば、ボランティア活動などにも参加する。
 今さら学歴をつけることも出来ないし、取れる資格はだいたい取っているので、あとは経験を積んでいこうと思ったからだ。
 文字が滑らかに読み書きできないことから事務系の仕事は一切出来なかったが、体を動かして仕事を覚えるタイプのものであればガブリエラはすぐに戦力となり、どこからも概ね歓迎された。
 しかし、ガブリエラはどこにも腰を据えなかった。
 もちろん、安定した生活を得るよりもヒーローになりたいからである。

 ガブリエラの能力はヒーローらしくはないが、確かに有用である。飛び込み営業で最初は胡散臭がられても、実際に肩こりや眼精疲労などを治せば普通に感心され、感謝され、笑顔も向けてもらえる。菓子折りを持っていくのとは比べ物にならないほどの好印象を抱いてもらえるのは間違いない。

 だがしかし、やはりヒーローになるのは難しかった。

 かつてのアドニスのような、ヒーロー免許を持たないがゆえ、広告塔としての役目しかない“なんちゃってヒーロー”がいなくなった今、ヒーロー事業部を展開するとなると、免許を持って実際に犯罪に対し活動するヒーローを抱えていくということになる。

 しかしこれは、かなりの費用がかかるのだ。
 まずヒーロースーツに始まるあらゆる装備は、人気を得るためにデザインから手をかける。物理的にスポンサーロゴを背負うものでもあるので、間に合わせの見窄らしいスーツではいけない。また危険な犯罪や災害の場に飛び込むヒーローの命を守るために、性能的にも手は抜けない。
 それだけでなく、事件が起こった時に交通機関を始めとした様々な公共機関をストップさせること、あるいは活動中に器物破損、人的被害を起こしたときなどを想定した特別な保険に加入しなければならない。
 こういったハードルを越えられるのは、かなり業績を上げている上場企業だけだ。そして思い切ってヒーロー事業に参入しても、莫大な費用に見合うだけの広告効果を得られず、会社が致命的な痛手を追う前にヒーロー事業を撤退するというパターンは、今までもたくさんあった。

 その最後の例となったのが、ワイルドタイガーが所属していたトップマグだ。
 トップマグはヒーローという存在が確立する前からの老舗企業で、彼を雇用し始めた頃は好景気だったものの、新しいものがどんどん入り込んでくるシュテルンビルトでは、だんだんと業績が落ち込んでいっていた。
 といっても普通の会社なら業務を縮小して堅実に商売をしていけば保ったレベルなのだろうが、“壊し屋”のワイルドタイガーが公共物を壊す度にかかる負担金は、保険に入っていてもばかにならない。
 また公共物破壊はたまのこと、しかも然るべき時にやむなくという時ならダイナミックで痛快でも、無意味に何度もということになるとイメージダウンにしかならない。ワイルドタイガーのスポンサーはだんだんと離れていき、最後にはヒーロースーツにトップマグの自社ロゴしか入っていないという有様だった。
 しかもそのヒーロースーツも、大企業陣営がどんどん最新技術を使ったヒーロースーツや派手な装備を出してくる中、ワイルドタイガーはいつまでも古いラバースーツを着て、チェイサー・マシンどころかトランスポーターもなしで走り回っている。
 何よりも見栄え良く保たなければいけないヒーロースーツでさえ、このざま。みっともなく貧乏くさい姿を晒してどたばたとがに股で走るロートル・ヒーローは、間違いなく皆の失笑をかっていた。

 だがそれでもワイルドタイガーはヒーローを辞めなかったし、トップマグも、とうとう経営が立ち行かなくなるまで彼を手放さなかった。
 それは人情味のある人助けを信条とするワイルドタイガーとその所属企業らしい美談であり、そして時代遅れの泥臭い信念にしがみついたがゆえの、みっともない最後でもあった。
 実際「ワイルドタイガー、とうとう自分の会社も壊す」と悪意と嘲笑の篭った報道もされ、トップマグという会社は消滅した。

 しかし、それで終わりではなかった。

 トップマグはただ倒産したのではなく、アポロンメディアに吸収合併される形で幕を閉じた。地味だが堅実で、地元に強く古いコネクションを多数持つことが有用とみなされたのだ。
 そしてワイルドタイガーも、なんとそのままアポロンメディアのヒーローになった。トップマグと同じくワイルドタイガーもまたその長い経験が有用とされたのか、それとも彼を支え続けたトップマグが、船が沈む最後の時にせめて彼だけはと必死で押し上げようと足掻いた結果なのかはわからない。

 だがワイルドタイガーは一部リーグの中でも初の、ロボットのような完全コンピュータ制御の最新式スーツを身にまとってリニューアル・デビューを果たし、ヒーローとしての第一線の舞台に再び立つことになったのだ。

 ──ただし、あのルーキーヒーロー・バーナビーとコンビを組んで。

 史上初のコンビヒーローのデビュー戦は、それはそれはひどいものだった。
 最新式の装備になろうともワイルドタイガーの壊し屋っぷりは健在で、バーナビーは有能でスマートだが、ヒーローらしい熱さに欠ける。
「スカしててなんかムカつく」というのはガブリエラと一緒にデビュー戦を観たバイク仲間たちの総意だが、彼らと似た系統の男性市民は概ね似たような感想を抱いたようだ。ただし、女性陣の反応は真逆。バーナビーは、女性人気狙いで売っていく方針らしかった。

「な〜んかパッとしねえなあ。どっちかアンジェラと代わってくれりゃいいのに」
「そうだそうだ」
「バーナビーのチェイサーの教科書運転、見たか? つまんねえ」
「壊し屋より、人を治せるヒーローのほうが絶対必要だろ」
「アンジェラ、アポロンメディアには売り込んでみたんスか?」
「行った? どうだった?」
「受付で追い返された? かーっ、わかってねえなあ!」

 全面的にガブリエラの味方をしてくれるバイク仲間たちだったが、その後すぐT&Bは国際指名手配犯であり、現代の怪盗とも呼ばれるロビン・バクスターを逮捕するという大仕事を成し遂げ、本格的にコンビとして売り出し始めた。

 そして今も、ヒーローとしてどんどん活動を続けている。
 ここからも見える、歓楽街の中心の交差点にある巨大なモニターに、新しい緑と白のスーツで走り回るワイルドタイガーはもちろん、他のヒーローたちが次々に映し出されている。

 今日の夕方頃、シュテルン沖にある海上油田プラントで大規模な火災が発生した。そして深夜に差し掛かろうとしている今も、ヒーローたちを中心とした救出作戦が展開され続けているのだ。

《ヒーローたちが、逃げ遅れた職員を今もなお次々に救出しています。しかし火災発生時点で、既に多くの犠牲者が確認されており……》
 いつもよりエンターテイメント色を抑えた鎮痛な声で、アナウンサーのマリオが実況する。炎に巻かれた瓦礫の下にも、まだまだ人は取り残されている。そしてそれを救出するレスキューやヒーローたちも、同じくらい危険な状況に置かれている。──少なくとも、ビルの屋上の塀の上よりは。
《油田プラント全体に炎が広がっていることで、救急車や医療スタッフが多く入り込めないことも状況を圧迫しています。ブルーローズがその能力でスペースを作り続けていますが──》

 ガブリエラは、拳を握りしめる。
 あそこに自分がいれば、どれくらいの人を助けられるだろう。しかしヒーロー免許があるとはいえ、所属企業を持たないことで専用保険に入っていないガブリエラは、ああいった災害、事件現場に立ち入ることができない。

 ──あそこにいきたい。しかし、いけない。ああ、もどかしい。

 ガブリエラは、腹を減らした犬のように切なそうな顔でモニターを眺める。
 そして塀の上でくるりと片足でターンし、夜景に背を向ける。見えない後ろ側は、ゆうに300メートルはあるだろう高さの虚空。しかし、やはりどうということはない。

「──Je rougis et par malheur, Un soupir trahit mon cœur……」

 頬を染める娘。ため息ひとつで気持ちがばれてしまったと、愛する気持ちを知られたと恥じらう娘。ガブリエラは、自分はどうだろうかと思った。炎の中で命を落とし、亡霊に引きずり込まれていく見知らぬ人々を愛しているわけではない。そして、ふと疑問に思う。

 なら、自分はどうして彼らを助けたいのだろう。

 ふと疑問に思いながら、ガブリエラはなんでもない動作で、ビルの屋上にぴょんと飛び降りる。やはり、踏み外すことなどない。



Hélas, Maman ! Un faux pas
   ──ああ母よ、私は踏み外してしまいました
Me fit tomber dans ses bras.
   ──彼の胸に飛び込んでしまいました




 本当に、そんな日が来るのなら。
 このもどかしく騒ぐ胸を、そのひとが貫いてくれるだろうか。






「結婚することになったの」

 とある日、やけにそわそわして浮かれたシンディが発した言葉に、ガブリエラはせっかく畳んだ洗濯物を取り落とした。
「け、けっこん?」
「そうよ、結婚」
 シンディはくねくねしながら、左手の薬指にはまった指輪を見せてきた。白金の台座に、緑色の大きな石がついている。
「誰と」
「あんたも見たことあるわよ。ほら、マッチョの」
「どのマッチョ? アメフト? ラグビー? ボクシング? レスリング?」
 シンディは本人も腹筋が割れているレベルの筋トレ好きだが、異性の好みも同様だ。関連するマニアックな話題にもついていけるので、彼女の客はスポーツ好きや、身体を鍛えるのが趣味の男性が多い。そして簡単にベッドに誘われたくない時のストッパーというかコブ役で、ガブリエラも試合という名のデートに連れて行かれることがあった。
「前に連れて行った、ボディビルの大会!」
「あー」
 ガブリエラは、思い出した。スポーツはルールが難しくてどれもよくわからなかったが、ボディビルはルールがあってないようなものだった上、人の筋肉はこんなにも肥大するのかと驚いたのでそこそこよく覚えている。

「彼、年齢のこともあってボディビルダーは引退するんですって。それで今手伝ってるお父さんの会社を本格的に継ぐってことらしいんだけど、ほら私って事務仕事も出来るし、今の店も経営関係にちょっと関わってるじゃない?」
 シンディはホステスだが、店のママやオーナーとうまくやっていて、ナンバーワンではないが古い太客を何人か持っている。新しいホステスの面接などをするのもシンディだ。
「養ってやる、じゃなくて、君の力が必要だ、俺と一緒に頑張って欲しいって言われたのがぐっときちゃって。私もこの年だし、現実色々見てるじゃない? あぶく銭で豪遊させてくれる成金だとむしろ不安になるっていうか、堅実に中流生活するのが結局いちばん幸せよねって」
「シンディは、彼が、ちゃんと好きなのですか」
 マシンガントークをするシンディに、ガブリエラはゆっくり、真剣に問うた。
「彼は、きらきらしていますか」
 自分のことはよくわからないが、ガブリエラは、シンディにはちゃんと好きな人と結婚して欲しいと思っている。
 しかしその心配を蹴り飛ばすようにして、シンディはでへっとだらしない、しかし満面の笑みを浮かべた。

「してるしてる! ステージの上の彼、超輝いてたわあ!」

 それはボディビル大会だったのでオイルでテカっていただけでは、とガブリエラは思ったが、シンディは確かに幸せそうだった。

 シンディが結婚するという“彼”は、ガブリエラが見る限りでは、普通の人だ。

 だからシンディが彼を愛していて、彼女が彼を支えて、引っ張って、一緒に幸せになろうとするなら、きっと彼も同じようにしてくれる。

 そうしてガブリエラはその後の結婚式で、神様の前でキスを交わすシンディに、笑顔で「おめでとう」を言った。
 そうだ、キスは神聖なもの。結婚する時に、神様や、皆の前ですること。だから──

 ──愛する人と、心の篭ったキスが出来たなら
 ──私は死んでも悔いはないわ


 そう言ったのは、誰だったろう。

 ──それで、──の部屋で
 ──キスしようぜ


 ガブリエラは、空を見上げる。
 結婚式日和の高い青空に、きらきら輝く星は見えなかった。






 シンディが結婚したことで、ガブリエラにも大きな進展があった。
 いよいよ彼女の部屋を出てひとり暮らしになったということもそうだが、それ以上のことである。なんとシンディの夫が、自分が父親の会社『ケア・サポート』を継ぐにあたって、ヒーロー事業部を展開させることを決めたのだ。

 というより本人がヒーローにひどく憧れていたらしいのであるが、そもそも彼はNEXTではない上、ボディビルダーとして見た目は強そうだが、喧嘩ひとつしたことのない箱入りの坊ちゃん育ちである。
 それでも彼はいかにも古き良きマッチョなスーパーマンタイプの、しかも一部リーグヒーローを雇ってランキングを戦わせようと推したのだが、ケア・サポートはそこまでのことができる大企業ではない。

 それに現在のシュテルンビルトでは、ブルーローズやドラゴンキッドといったキュートな若い女性ヒーロー、あるいはスカイハイやバーナビーという清潔感溢れるスマートな男性ヒーローがうけていて、ワイルドタイガーやロックバイソンは落ち目である。
 そんな市場に、マッチョさを売りにした暑苦しい男性ヒーローは明らかにうけないだろう、というのが役員たちの意見だった。
 ファイヤーエンブレムのような固定ファン持ちや折紙サイクロンのようなネタ枠を狙う案もあるが、これは当たればでかいが滑ると悲惨である。二部リーグヒーローを雇うのがせいぜいの中堅の会社に、そんな冒険をする勇気はなかった。

 さらにトドメとして、ケア・サポートはスポーツ用品やトレーニンググッズ、またそれに関係するプロテインやサプリなどの準医薬品を取り扱う会社である。しかも、顧客はほとんどアメフトやラグビー、サッカー、野球やホッケー、あるいはボディビルなどで、己を鍛え上げることに熱心な男性会員がほとんどを占める。
 実際にアンケートも取ったが、彼らは自分がヒーローになるのに忙しい連中ばかりで、他のヒーローには全く興味が無いようだった。そして数少ない女性会員たちから、暑苦しいのはもううんざり、グッズを愛用できるようなかわいいキャラクターを出して欲しいという強い要望が寄せられた。

 そんなわけで、ケア・サポートが求めたのは、清潔感があって、暑苦しくないキュートなキャラクター。ガブリエラは、もちろんオーディションに応募した。

 そもそもが積極的にヒーローを雇いたいと思っているのがシンディの夫だけで、他の役員はさほど乗り気ではない。
 そのためオーディションは身内が紹介したメンバーで占められていて、決して大々的なものではなかった。ガブリエラはこのチャンスに必死でかじりつき、そしてシンディもそれに協力してくれた。
 つまり、このヒーロー採用に乗り気である新婚の夫に、さんざん面倒を見て情が湧いているガブリエラを、新妻ならではのおねだりモードを用いて推して推して推しまくったのである。

 ガブリエラはガリガリに痩せていて、お世辞にも強そうではない。走り屋まがいの厳ついマシンに乗っているのはマッチョといえばマッチョだが、彼は肉体的な強さは評価する反面乗り物にはあまり興味がないため、掴みは悪かった。
 だが面接会場で、能力披露の名目で役員たち全員に能力を使った所、肩こり腰痛眼精疲労に肌荒れその他、日頃の悩みであった体の不調がすべて改善した彼らが、全員一致でガブリエラを推したのだ。

 そうしてガブリエラは、試用期間ありという用心深い条件付きで、ケア・サポートの新部署、ヒーロー事業部正社員として入社した。
 ヒーローとしての手当は法律で定められた最低限の額で、給料も入社したばかりの平社員と同じものだ。しかし二部リーグヒーローの殆どは契約社員で、皆契約期間を延長してもらえるのか常にビクつきながらやっているのだ。その点、最低以下の学歴と元難民という大きなハンデがあるガブリエラが、最初から正社員で雇用してもらえるというのは、かなりの幸運と言って差し支えないものであった。



「ヒーローネーム、どうする? あのヒトが考えたのも色々あるんだけど」

 ヒーロー事業部、と書かれたコピー用紙を扉に貼った会議室で、シンディは、夫から預かってきたメモを目の前にどさりと置いた。
 見れば、マッチョボディにぱつぱつのタイツタイプのスーツを着たヒーローの下手なイラストや、更にそのマスコットキャラクターらしい、犬っぽいキャラクターのイラストもある。しかしこちらも頭部が犬っぽいだけで、首から下はビキニパンツのマッチョボディだ。

 こういうヒーローが欲しかったらしい当人はガブリエラが採用されてしまったことにひどく気落ちしてシンディにすべてを丸投げしてしまい、ここにはいない。
 おかげで、司法局に提出するヒーロー名を決めるのが、ケア・サポートに入社したふたりの最初の仕事になった。

「うーん、名前ですか。なんでもいいのですが……」
「ハイパーマッシブ、ミラクルヘヴィ、ヘラクレスガイ、ストロングタフネス、ガチムチ侍」
「ヴッ」
 熱っぽい筆跡で書かれたメモを読み上げるシンディに、ガブリエラは脂身の塊を無理やり咀嚼するような顔をした。

「……アンジェラ、のままではいけないのですか?」
「一応本名ってわけじゃないし、私はそれでもいいと思うけど……」
 普段からアンジェラと呼ばれているものの、本名がガブリエラであるということについては、シンディと暮らし始める時、住民登録の住所変更の際ちゃんと明らかにした。「名前ちがうじゃない!」とシンディは最初こそ驚いたが、洗礼名だと言えばなるほどと納得してくれた。
「でも、アンジェラだけだとシンプルすぎない? 犬の名前みたい」
「しかし、ガチムチアンジェラなどはいやです」
 先程のやり取りで学習したのか、ガブリエラは今度ははっきりと自分の意見を言った。「まあガチムチじゃないしね」と、枝のような体をしたガブリエラを見てシンディも頷く。
「っていうか、あのヒトには申し訳ないけどマッチョ系は却下ってことになったからね。清潔感があって、暑苦しくなくて、キュートな感じが必要みたい」
「清潔は、大丈夫です。毎日シャワーを浴びています」
「それは普通のことよ」
 真面目な顔で頷くガブリエラの頭を、シンディは『新ヒーロー案』と書かれた薄い書類を丸めたものでぽこんと叩いた。

 そうしてああだこうだと言い合った結果、「シンプルすぎる」という意見は「シンプルがいちばん!」という結論に落ち着いた。堂々巡りしたともいう。
 ひねり出されたのは、ガブリエラ・ホワイトから取って、『ホワイトアンジェラ』という安直なヒーローネーム。
 清潔感というなら白という色はマッチしているし、汎用性の高いイメージカラーにもなる。アンジェラ、天使という名前にも合うしキュートといえなくもなく、暑苦しくもない。ガブリエラも、自分の名前として認識しやすい。

 迷走に迷走を重ねて辿り着いたその名前は、割とあっさり役員会議を通過した。その名前で司法局に届け出をして、手続きは完了。

「名前決めるだけでひと苦労だわ。コスチュームとか決め台詞とかは、ええい! 追々で! 行き当たりばったりってのもあんたらしいでしょ!」

 こうしてガブリエラは、企業所属の二部リーグヒーロー『ホワイトアンジェラ』として、慌ただしくデビューすることになったのだった。






「そういえばあんた、ヒーローになったこととか家族に知らせたの?」
「……かぞく?」
「ほら、ちょいちょい話に出るお母さんとか」

 シンディに尋ねられ、ガブリエラは、母には何も言わずに故郷を出たことを話した。

「へえ、そう……。私と同じね」

 煙草を吸いながら、シンディは苦そうな顔をして言った。
 シンディもまた故郷から単身シュテルンビルトに来た人で、それはガブリエラが彼女に懐いた理由のひとつでもある。とはいえもちろん彼女はまっとうに飛行機でやってきていたし、地図で見ると、ガブリエラが麓を延々歩いてきた山岳地帯の向こう、平野よりも山の多いあたりの出身であるとのことだった。
「こっち来てから、いっかいでも連絡した?」
「……いいえ」
「そう。私もだいぶ経ってから連絡したわ。すっごく怒られたけど」
「怒られたのですか」
「ええ、でも、喜んでくれた。生きていてよかったって」
 メイクを施した目を細めて、シンディは言った。
「あんたはとっても上手くやってるわよ。だから、できるなら早めに連絡した方がいいわ」
「……そう、ですね。そう……」

 母のことを、何も考えていなかったわけではない。

 それどころかいつも頭のどこかで思っていたのだが、シンディとその話をしてからというもの、ガブリエラはそのことばかり考えるようになった。

 そんなある日、アルバイト先のマッサージ店で、老いや精神疾患で暮らしにくい人々が快適に暮らすための施設がある、ということをガブリエラは知った。老人の多い客層なので、そういったパンフレットが置いてあるのだ。
 都会はとても便利で、インターネットでなんでも調べることが出来る。ガブリエラは故郷の土地から最も近い、飛行機も飛んでいる、爆発させた車を走らせた方向にある大きな街の、そういった施設を探した。
 良さそうだなと思ったのは、少し郊外にある、世界中で活動しているNGOが運営している施設。部屋も清潔そうで、小さいがきれいな礼拝堂もついている。
 シュテルンビルトでは端金でも、あちらの物価を考えればそれなりの金額になる。最初にかかる入所費用は、少し頑張れば払えそうだった。毎月の費用も、シュテルンビルトの一般的なアパートの家賃よりはかなり安い。

 ──母を、ここに入れてあげられたら。

 かわいそうなめにあって、頭がおかしくなってしまった母。いちども抱き上げてくれたことはなく、ガブリエラを見てくれなかった母。
 何も言わずに別れてしまったが、そういえば彼女はそこそこ高齢であるし、こういうまともな施設に入れば、残りの人生を少しは心穏やかに生きられるのではないだろうか。そしていつか、自分のことを認識してくれるかもしれない。

 そう思うと、ガブリエラはそわそわした。
 せっかく少し余裕が出てきた生活がまたかつかつになるが、それでもいい。また金をためて、母をきれいな施設に入れてあげようとガブリエラは決めた。

 ぼそぼそとそのアイデアをシンディに話せば、彼女は「とってもいいことだと思うわ」「あんた親孝行ね」と言ってガブリエラを全力で褒めてくれたので、ガブリエラもなんだか目の前が明るくなった気がした。
 自分は今、とてもまともで、ちゃんとした、“いい人”のようなことをしようとしている。そう思えた。

 ガブリエラは明るい気持ちで、あの教会への電話のかけ方を調べ始めた。






 教会には一応電話があって、番号もわかる。神父に渡された請求書に、ちゃっかり書いてあったからだ。ちなみに、あの時の料金はすでに神父の口座に振り込んでいる。ガブリエラは借金をしない主義だ。

 付箋をいくつかつけた施設のパンフレットを開いたガブリエラは、使い方も慣れてきた通信端末を手に、日に焼けて少しセピアがかった写真を見た。故郷を出る時持ってきたものだ。
 写っているのは、修道女のベールをかぶった女性がふたり。明らかに年上の女性が母で、もうひとりはわからない。寄り添うようにしてベッドの上に座り、小さな赤ん坊を真ん中で抱えるようにしている彼女らが抱いている赤ん坊が、生まれて間もないガブリエラだ。
 その写真を置き、ネットで調べた国番号をプッシュし、交換センターにつながってから、請求書に書いてある教会の電話番号を押す。

《──ホワイトチャペル》

 何度めかのコールのあと、男の声がした。神父だ。
「あっ、あ、アンジェラ、アンジェラです。ガブ……ガブリエラです」
 神父の言葉につられ、故郷の発音で、ガブリエラはどもりながら名乗った。神父は特に驚いた様子はなかった。ガブリエラが知っている、いつもの調子だ。

 ガブリエラは、近況について神父にほとんど説明しなかった。
 彼はなんでも知っているし、信用できる。しかし金を渡さない限り、聞かれていないことには何ひとつ答えないし、まったくもって親切にはしない。ガブリエラに限らず、誰にでもだ。

「マムは?」
《神に祈っている。いつも通りだ》

 ──いつも通り。
 ガブリエラは、そうですか、と言いながら、ごくりと唾を飲んだ。なぜこんなに緊張しているのかわからない。どくどくと自分の心臓の音が聞こえ、公衆電話の重たい受話器が手の汗で滑る。

「あの、……マムは、今、いますか」

 いる、と神父は返事をし、母の名を呼んだ。マリア、聖母の名前。
 電話の向こうに居るのがガブリエラであることを説明する、神父の声が聞こえる。心臓が大きくなりすぎて肋骨が痛むような気すらしながら、ガブリエラはゴトゴトと受話器を持ち替えるノイズ音を聞いた。

《──ああ、ガブリエラ。今日はいい子でいましたか》

 聞こえてきたのは、いつも通りの声だった。
 本当に、いつも通り。ガブリエラがあの街にいた時と、同じ問いかけ。生きているかとも、元気かとも、今どうしているのかという問いでもない。

「はい……」

 ガブリエラの声は、震えていた。

 母は、彼女は、ガブリエラが突然何も言わずにいなくなっても、いつも通りの日々を送っていた。

 神に祈り、困った人を助け、貧しい子供に施しを与え、そしていなくなったガブリエラのことは、全く思い出しもしていなかった。
 上手く歌えれば、にっこりと微笑んで褒めてくれた母。自分が歌っていたソロパートはどうなったのだろう。自分がいなくなっても、コーラスに何も問題はないのだろうか。

《ガブリエラ、答えなさい。あなたは神の教えを守り、いい子でいましたか》
《神様から授かったその力を、正しいことに使いましたか》

 手が震える。

「はい、マム、ガブは」

 ──街から逃げました。
 街には怪我人も、子供も、老人もいました。この力を必要をしている人はたくさんいましたが、ガブは全部放って逃げました。何日も前から準備をして、誰にも言わずに、人を騙して逃げました。

《困っている人を助けなさい。愛をもってです》
《たとえ自分の身を削ってもです、ガブリエラ》
《あなたには、その力があります》
《それはとても良いことで、何よりも尊いこと……》

 鶏を盗みました。盗んで殺しました。
 神様への供物を盗んで食べました。
 神様から授かった力を使って、お金を稼ぎました。
 そのお金で、食べ物を買ったり、車を買ったりしました。

 お酒を飲みました。本当はいけないことですが、ばれないように飲んだこともあります。飲み比べをして、お金を得ました。
 襲われた時は、人を殴り倒したり、ナイフで刺したこともあります。
 誰かが怪我をしていても、平等に力を使ったりしませんでした。殺されたくなかったので、安全な人を選んで力を使いました。そのお礼に車に乗せてくれと要求しました。

 男を殺しませんでした。女の人をたくさん殴った、子供を殺した、とても悪い人を殺しませんでした。

 彼を助けられませんでした。
 彼女も助けませんでした。助けようともしませんでした。

 そのくせ自分の荷物だけはしっかり持って、無様に這いつくばって進みました。

《もしその行いに、邪なものがあれば》

 困っている、求めるものに手を差し伸べませんでした。見捨てました。自分の命を大事にしました。他の命は踏みつけました。この力を使えば生きられるものがたくさんいても、全部無視しました。あなたの言いつけにも、神様の教えにも、全部、全部逆らいました。

 ガブリエラは、そうやって生きています。とても悪い子になって生きています。
 死にたくなくて、獣を殺して、草をむしって、泥を啜って、自分のしたいようにして、そうやって生き延びてきました。

 行きたい、生きたい、いきたいと、そればかり考えてきました。

 冷たくなった指先が、震える。

「はい、マム。ガブは、とてもいい子です……」

 また今、嘘をつきました。
 ガブは悪い子です。
 悪い子なのに、生きています。
 生きています。ごめんなさい。

 ああ、母よ。

 ──生きていて、ごめんなさい。おかあさん。
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る