#136
「……ウロボロスは、かなり潤沢な資金を持っているはずです。ロトワング博士が完成させたH - 01も、相当なものでした。H - 01を複数体作り上げられるような環境が用意できるのであれば、マイヤーズ医師が骸骨アンドロイドを完成させ、量産できるのも納得がいきます」
 バーナビーが言う。静かな声ではあるが、その奥底に何かぽっかり得体の知れない穴が開いているような声だった。

「だが……、事実関係の予測がついても、相変わらず動機がまったくわからないな。ウロボロスの選民思想によるテロ行為ということであれば、やはりジェイク事件の時のような思想の主張など、そういう行為があるはずではないだろうか」

 落ち着いて言ったのは、スカイハイである。
 そして、その意見には皆同意だった。アンジェラの暗殺未遂から始まったこの事件、全てにおいて目的がわからない。アンジェラは誘拐されるでもなく殺されるでもなく、ジョニー・ウォンの能力で眠らされただけ。

「……俺たちが、ここまで条件が揃っていてもドクター・マイヤーズを犯人とはっきり言い切れなかったのもそこが理由だ」
「と、いうと?」
 ぼそりと言ったランドンをスカイハイが促すと、彼は同僚たちと不安げに顔を見合わせてから言った。
「奴は、ウロボロスのいう選民思想の持ち主じゃなかった。過激な発想や感性の持ち主どころか、普段から悪態ついたところすら見たことがねえ。剽軽でマイペースな変人だが、コミュニケーション不全ってわけじゃない。むしろ言い合いが起こった時は上手いこと仲裁に回るタイプ。いつも身奇麗で、ホームパーティーやバーベキューにも喜んで参加する。同じ研究者でも俺たちみたいな引きこもりのオタクとは真逆のやつだ」
「ふむ……」
「◯◯教徒だっていうのは皆知ってたが、それも言われないとわからんぐらいだ。優秀な研究医師であるにもかかわらず、事件が起こって救護班が必要な時は、寝る間も惜しんで救急車に乗り込んで現場に駆けつけることでも有名で……。だから」
「能力的にはあり得るが、人柄がそぐわないということかな」
「まあ、そういうことだ。あと、奥さんのこともあるしな」
「結婚してるのか」
 ワイルドタイガーが、へえ、と言って軽く目を丸める。

「ラファエラ・マイヤーズ。18年前に事故で脊髄を損傷。現在も全身不随……いわゆる寝たきりの状態で、夫のルーカス・マイヤーズの介護を受けて自宅療養中、とあるな」

 フリン刑事が、資料を読み上げる。
「そうそう、その奥さんだ。あれだけの名医で地位も金もあるのに、18年も寝たきりの奥さんを見捨てずに愛し続けて、自ら手厚い介護をしてるってんだ。それだけで人柄が知れるってもんだろ。ドクターがちょっとマイペースな変わり者でも、愛嬌みたいなもんだ。皆そう思ってる、そうだろ?」
 ランドンが同意を求めると、アスクレピオスのスタッフたちが皆それぞれ頷いた。
「寝たきりだって聞いてるんだが、“手を握ると、何を言ってるかわかる。時々は話もできるんだよ”とか言ってた。他人の惚気話は聞かない方なんだが、彼の話は黙って聞かざるを得なかった。わかるだろ」
「その奥さんは、大丈夫なの? その、寝たきりなんでしょ」
 ブルーローズが、心配そうにおずおずと言った。
「マイヤーズの留守中を預かる、年間契約の職業介護人がついてる。今はてんやわんやなもんで、現在はこれに任せてる状態だな。今のところは世話をする人間がいるってことで、言い方は悪いが後回しにさせてもらってる」
 他の刑事が後ろから必要な資料を出してきたので、フリン刑事がそれに目を通して言う。

「そういう人だったんで、俺達も“マイヤーズ医師だけはない”と思ってた。……だが、アンジェラが彼を苦手にしていたのも確かだし……それにその、彼女が」
 複雑そうにランドンが目線を向けたのは、またもシスリー医師である。彼女はぴんと背筋を伸ばしていた。

「私は、彼がこの事件の犯人か、それに極めて近い人物だと思っています」

 彼女の断言に、ランドンが「こう言うから」と肩をすくめた。
 つまりルーカス・マイヤーズの人格について個人的には無害な印象しかないが、被害者本人であるアンジェラが彼を警戒していたこと、また精神科医やカウンセラーとしても実績のあるシスリー医師の言うことを信頼する、ということだろう。
「無害な顔したサイコパスは実際いるしな。その点については彼女のほうが専門だし」
「なるほど。女史は、マイヤーズ医師がその類であると診断を?」
「彼を患者としてきちんと診たわけではありませんが」
 シスリー医師は、慎重な様子で言った。

「彼は極めて理性的な人物です」
「演技をしている、ということ?」
「……経験則による主観的な話になりますが」
「経験は大事だろ。自分を信用しろよ」
 そう言ったのは、ワイルドタイガーである。彼が言うからこそなんだか妙に説得力のある言葉に、彼女は少しだけ微笑んだ。

「ウェブスター主任の仰るとおり、周囲に人畜無害な印象を与えて生活しながら、常軌を逸した殺人を犯すような人物は実在します。……ですが、彼らのあり方は、いわゆる狂人というのとは少し違います。狂人は、おかしくなった部分をカウンセリングや投薬で矯正することで正常な状態に戻し、それによって周囲も本人も救われます」
 だが彼らはそうではない、とシスリー医師は続けた。
「彼らは彼ら独自の、自分自身で作り上げた……彼らにとってはごくナチュラルな世界観とルールにのっとって生きている。それがこの星のどの社会にもそぐわないために異常者として扱われますが、彼らにとってはまったく理性的な生き方なのです」
「宇宙人、エイリアンと話しているような、という感想は聞いたことがありますね」
 バーナビーが、眉を顰めながら言った。
「事実に近い表現だと思います」
 シスリー医師が頷く。

「しかし厄介なのは、“実は全く違う世界で生きていることを感じさせない”タイプ。バーナビーさんの言葉を借りるなら、人間のふりをして社会に潜伏するエイリアンのようなタイプです」
「そんな人だとは思わなかった、ってやつだな」
 アントニオが呟き、何人かが納得した様子で頷いた。

「名誉毀損になるのを承知で言いますが、……彼には、ルーカス・マイヤーズにはそれを感じます。底の知れない暗い穴を覗き込んだような、一歩間違えばこちらも吸い込まれてしまいそうな恐ろしさを」

 そう言った彼女の唇は少し震えていて、まるでブルー・ホールの縁に立っているかのようだった。

「大多数の“普通”とは違う自分だけの世界を持っている人でも、社会生活においてそのルールを柔軟に変化させられたり、相手のことも理解しようとした上で、自分の世界を周囲に説明し理解を求めて努力するタイプならば問題はありません。むしろ、我々に違う世界を見せてくれる先駆者となる場合もあります。斬新なセンスの芸術家などにもいるタイプですね」

 その言葉に、ライアンは、ガブリエラのことを思った。
 彼女の吸い込まれるような灰色の目に、かつてライアンも得体の知れない恐ろしさを抱いていた。──今はそのブルー・ホールのような穴の向こうが、きらきらと輝く、オンリーワンの愛すべき世界であることはわかっているが。

「しかし、ルーカス・マイヤーズはそうではありません。彼が世界を見る目は、まるで神が有象無象の人間を見下ろすような俯瞰的なものだと分析します。彼はその超越した目線と天才的な頭脳によって私達のすべてを理解していて、そしてそれを軽くあしらっている。……あくまで彼の世界において、ですが」
「えーっと。……結局のところ、何考えてんのかさっぱりわかんねえし、何やらかしてもおかしくないやつってこと?」
 タイガーが言った身も蓋もないまとめ方に、何人かが呆れ、何人かが納得したような顔をし、そしてシスリー医師は、安堵と苦笑が混じったような表情をした。

「……そう、そうです。ひとがひとを、他人を完全に理解することは難しい。心や精神が脳の働きによるものであることは事実ですが、決してそればかりではありません。未だ説明できなくとも、……いいえ、むしろ説明できないことだからこそ……」

 彼女の声には、確固たる信念が感じられた。
「NEXT能力は、個人の精神状態や人格が密接に関係します。精神が不安定になれば能力も不安定になり、逆も同じです。それまでの人生経験やその人独自の感受性による解釈によっても、能力は変化します。マイヤーズ医師を含めた多くの医師は、脳を調べることでNEXTを解明しようとしている。それは決して間違っていません。しかし」
 シスリー医師は、顔を上げる。その目には、新世界を感じさせるような、特別で劇的な輝きはない。しかし、目の前のものを真摯に誠実に見つめる強い視線を持っていた。
「脳は脂質と蛋白質と水分で構成され、その中を複雑な電流が走ることによって機能する物質です。ですが、それだけではない。それだけではないはずなのです。ヒトは、生命活動を行う単なる物質ではない。だからこそ私は脳科学的な分析だけでなく、カウンセリングや心理学、精神医学も学びました」
 学べば学ぶほど、完全な解明は難しいと実感するばかりでしたが、と彼女は苦笑する。

「彼が天才なのは事実です。しかし、だからといって、……いえ、彼だからこそ、人間のすべてを理解することなどできないはずです」

 よりにもよって、違う星に生きているエイリアンのような男に、我々の心のすべてが分かりようはずがない。シスリー医師は、そう言った。
「ですから、……この事件の犯人がマイヤーズ医師であるなら、その動機は我々にとって考えもつかない、予想外のものである可能性もある、と私からは申し上げます」
「なるほど。参考になった」
「それと……これは医者としての関心からくるものでもありますが……」
 シスリー医師は、配慮のある声色で言った。

「その、奥さんのラファエラさんですか。全身不随の方ということですが、会話は一切できない方なのですか? 先程のウェブスター主任のお話ですと、調子のいい時はお話ができるとのことでしたが」
「うーん、どうだろうな。精神的な話かもしれん」
 俺にそういう察しの良さは求めないでくれ、とランドンはぼそぼそと言った。
「しかし、全身不随の方でも、眼球の動きやミリ単位の指先の動きで意思を伝えることもあります。そういう方のカウンセリング経験もありますので、もしよろしければ医師としてお伺いして、様子を見させていただくことは出来るでしょうか」
「そうだな、こっちとしてもマイヤーズ夫人の話が聞けるのはありがたい。手配しよう」
 積極的な協力を申し出るシスリー医師に重々しく頷いたフリン刑事は、他の警察関係者やスタッフたちに向き直る。

「よし。俺たちがこれからすぐやるべきことは、とにかく人探しだ。ひとりめはルーカス・マイヤーズ。そして二丁拳銃の老人と同居していたバアさん。3人の神父もどき。──そら行け! 刑事は足だ、根性見せろ!」
「了解です! 聞き込み行ってきます!」
「市外に出る際の交通機関のカメラ洗います!」
「部屋にドラッグが残ってないんで、本人たちが持って出てますよね? 麻薬捜査部に再度協力要請出してきます! 犬も借りてきますね!」

 フリン刑事の怒号に、腹から返事をした刑事たちが部屋を飛び出していった。「頼りになるねえ」とワイルドタイガーが感心した声で言う。

「あと気になるのは、アンジェラの養い親だっていう神父だな。アンジェロ神父といったか」
「ああ」
 ライアンが頷いた。
「3人の神父もどきが、アンジェロ神父の名前を出したのが引っかかる。もしかしたら、奴らを神父に召命して唆したのがアンジェロ神父って可能性も考えられると思うんだが──、アンジェラから、彼について何か聞いてないか?」
「……そういや、母親の話はちょいちょい聞くが、アンジェロ神父の話はほとんど聞いたことねえな。ファーザーって呼んでることぐらいで……。なあ、他になんか聞いたことあるか?」
 ライアンがヒーローたち、特に女子組に目配せする。しかし全員肩をすくめたり、首を振ったりしただけだった。

「そうか。場所が場所なんで、聞き込みどころか連絡するのも難しいんだよな」
 何しろ大使館に連絡するのすらひと苦労のところだ、とフリン刑事は頭を掻いた。
「番号がわかればなんとか電話できるかもしれないんだが……。ほら、アンジェラの名刺入れだかアドレス帳だかに載ってないか」
「いや、俺も見たけどそういうのはなかった」
「電話すらないとかいうオチじゃねえよな」
「……天気のいい日に教会の屋根のてっぺんに登ったらラジオが聞けるときもある、とかいうのは聞いたことあるけど」
「どんだけだよ」
 別世界のような僻地ぶりに、フリン刑事はうへえと声を漏らした。

「……で、その本人の具合は?」
「まだ戻ってこない」
「本人が目覚めれば色々わかるだろうになあ……。あっすまん、もちろんただ起きて欲しいってのもあるぞ」
「わかってるよ」
 なんだかんだで善良なフリン刑事に、ライアンは苦笑した。

「……しかし、そんなとこからよりにもよって歩いてここまで来たんだよなあ」

 大したもんだよ、としみじみ言うのは、ワイルドタイガーだ。「正直想像がつきませんね……」と、バーナビーが感心しているというよりは恐れ戦くようにして言う。他の面々も、うんうんと深く頷いた。

「それにしたって、いつまで迷子やってんのかしら。仕方のない子犬ちゃんね」

 ほっぺでもつっついてこようかしらね、と言って、ファイヤーエンブレムが立ち上がる。ガブリエラの寝ている部屋に行くのだろう彼女に、ブルーローズとドラゴンキッドもついていった。
「あっライアンさん、僕、警察の方の捜査手伝ってきますね。擬態能力が役に立つかもしれないので」
「俺も聞き込み行ってくるぜ。ブロンズの街は任せろ」
「では僕も」
 折紙サイクロンとT&Bが、頷き合って部屋から出ていく。
「私も空からパトロールをしよう。上空からなら見えることも違うからね」
 びしっと敬礼をして、頼れるKOHも窓から空に飛び上がっていく。おお、と皆の歓声が起こった。
 また斎藤やアスクレピオスのスタッフたちは、持てる技術を再度フル活用し、遺留品やアンドロイドを再度分析する作業にかかっていく。
 そしてアニエスたちは得られた情報をまとめ、いつでもVTRとして流せるように映像を作っておく他、捜査にあたるヒーローたちの画を撮りに飛び出していった。

「んじゃ、俺は外部からの連絡対応と、アンジェロ神父の連絡先含めてあいつの荷物に手がかりがないかどうか見てみるわ」
「頼む。何かあったら連絡してくれ」
 立ち上がって作業にかかるライアンに、フリン刑事が頷く。

「──お、俺は?」

 メットだけヒーロースーツをかぶったロックバイソンは、忙しく動き回る仲間たちをおろおろと見渡しながら、大きな体を居心地悪く縮めた。
 ライアンの捜査ドキュメンタリー生中継の時も、ポセイドンラインの後を追ってどんどん捜査に協力して株を上げた他企業と違い、特に何の活躍もせず企業としての協力もしなかったロックバイソンとクロノスフーズの評判は、今現在お世辞にもよろしくはない。
 せっかく守護神だともてはやされて上がった地位を再び下げてなるものかと、会社からは仕事でも見せ場でもなんでもいいからもぎ取ってこい、と血走った目で言われているロックバイソンは、かつてないほどの冷や汗を流していた。

「……えーと、ロックバイソン。ここが捜査本部になる。泊まりになることもあるだろうから、飯があるとありがたいんだが……」
「そ、そうか! それならウチの得意分野だ、任せとけ!」
「手配したら生身で聞き込みにでも行ってくれ」
「うっし!」
 おそらく同年代の男がおろおろしているのに身をつまされたのか、見かねたフリン刑事が仕事を投げ渡すと、ロックバイソンは意気揚々と部屋を出ていき、会社に連絡する。
 おかげでクロノスフーズの豪華なケータリングが届き、捜査に関わる皆、忙しくともじゅうぶんな食事をとることができるようになったのだった。










「ちょっと、何ボーッとしてるの」
「はっ」
 頬をちょんちょんとつつかれて、ガブリエラはぱっちりと目を開けた。仕事用の濃いめの化粧をしたシンディが、怪訝な顔でこちらを覗き込んでいる。
「あ、ああ。なんでもありません」
「ならいいけど。最近どお?」
「……早いです。1日が過ぎるのが、とても」
「あら、難しい言い回しが出来るようになってきたじゃない」
 シンディは、「冷蔵庫に入ってるアイスクリーム、食べていいわよ。客から貰ったやつだけど」と気前よく言ってくれた。ただ以前電子レンジを爆発させた上、ガブリエラがいつまで経っても電子レンジを使えないので、暖めなくてもいい食べ物しか与えてくれなくなっただけではあるが。

「んーっ、あんたのおかげで二日酔いも肩こりも腰痛もないし、肌の調子もいいし!」
「病気は治せませんよ」
「病気持ちと付き合ったりしないわよ。失礼ね」
 ジト目で頬を膨らませたシンディだったが、「じゃあ今日も張り切って男どもからむしり取ってくるわね!」と威勢の良いことを言い、迎えの車に乗って店に出勤していった。
 ガブリエラは彼女を見送った後、ふたり分の部屋干しの洗濯物を取り込んでたたみ、部屋に掃除機をかけて洗い物を片付け、ごみをまとめ、出かける用意をしてシンディの部屋を出る。

「あ! アンジェラ、出かけるの? 今日パーティーなんだけど、すっごく飲むと思うから、明日能力使ってもらってもいいかしら?」
 部屋に鍵をかけていると、ふたつ隣の部屋の、シンディの店と同系列の店の女性が玄関から顔を出して言った。
「わかりました。部屋に戻ってきたら、連絡をください。他の方も必要なら……」
「ほんと? 助かるわあ! 声かけとくわね」
「健康診断を受けている方、のみで、お願いします」
「おっけー。なるべく食べ物も持ってくわ!」
 にっこりと笑って、女性が部屋に引っ込んでいく。
 能力による二日酔いを含む体調ケアは、ガブリエラのいい小遣い稼ぎになった。料金は、そういう時に一般的に飲む高級栄養ドリンク半ダースぶん程度。このマンション、つまりシンディの店の女性に限った商売なので、相手の身元も確かだ。
 常に肌艶の良い美貌を保ち、ライバルに勝てるアドバンテージをほいほい他所に漏らすべきではないとシンディが説明すれば、秘密を守るのは割と簡単だった。

 最初の頃こそ戸惑ったものの、基本的なルールさえ覚えれば、シュテルンビルトはとても過ごしやすい場所だった。
 すすんで手を伸ばしてくれるわけではないが、申し出れば駆け引きなしに援助してくれる公的機関。選ばなければ仕事はいくらでも溢れかえっていて、食うに困ることはない。人々は呑気で、基本的に優しく親切だ。
 今まで体験したこともないほど清潔な部屋、破れていないシーツ、ふかふかの枕。蛇口をひねれば必ず水が出て、なんとお湯まで出る。ちゃんと勉強すれば社会が保証をしてくれて、とりあえずの食い扶持を立て替えてさえくれる。常に金のことを心配する必要はあるが、逆に言えば金さえなんとかなればどうにでもなる。
 アカデミーの補助を受けて資格や単位も着々と取得していて、このまま何事もなければ無事にヒーロー免許が取得できる。

 確かに忙しくはあるが、しかしとても楽な日々。
 シュテルンビルトという星の街は、本当に楽園のような場所だった。
 単調な毎日の繰り返しに、実りがないわけではない。知識を詰め込めば詰め込むほど目が覚めるような思いがしたし、シュテルンビルトは見たことのないものだらけだ。しかしそんな日々が過ぎるのはとても早く、ふわふわした感じがした。

 そしてそれが、胸を掻きむしりたくなるほどもどかしい。

 何がもどかしいのかわからないのも、やりきれない。
 消化不良のような“何か”を抱えて、ガブリエラは日常を過ごしていた。



「今からバイト?」

 やたらに“いい匂い”がするのでいるのはわかっていたものの、シンディのマンションのゲートを出るなりそう声をかけてきた相手に、ガブリエラはフードの下で半目になった。
「なぜいますか」
「どこにいようと僕の勝手だろ。……ちょっと、無視するなよブス!」
 答えず歩きだしたガブリエラを、アドニスは小走りに追いかけてきた。

 ダイナーで会って以来、アドニスがガブリエラの周囲をうろつくようになった。

 シンディのところに居候するという会話を聞かれた上、彼の麗しい顔面は人々の口を非常に滑らかにさせるようで、彼が「シンディという中堅どころの店のホステス」について界隈の人間に尋ねれば、あっという間に住処は知れてしまった。
 彼は最初のようにどこかに青あざを作ってくることもあるが、大抵はまた二日酔いになったので治せだの、肌が荒れただのというのが主だった。ただ具合が悪いと言って能力を使わせることもある。相変わらず金払いは良いのでガブリエラも言うとおりにしているが、明らかに仮病でただ能力を使わせるだけの時もあった。
 また女性服でもLサイズなら着られる体格の彼は、気に入らなくなった服をガブリエラに“お下がり”してくれることもある。
 都会で暮らすなら必須だとシンディにアドバイスされ契約した通信端末の操作方法にもたついていたら、使いやすいようにセッティングしてくれたのもアドニスだ。

 それだけなら払いが良く親切な客というだけなのだが、アドニスは何かとガブリエラを自分の周囲に巻き込もうとするところがあった。

 いざこざを起こして警察沙汰になった時に何の関係もないガブリエラの名前を出したり、アドニスに惚れ込んでいる女性、あるいは男性、もしくはどちらにしろストーカーなどを追い払うために、ガブリエラを彼氏だの彼女だのと紹介し、激昂した相手に殴りかかられたこともある。このときガブリエラが着ていたのがアドニスからのお下がり、もっと言えばその相手からプレゼントされたコートだったので、それはそれは修羅場になった。
 しかも通信端末のセッティングの時に番号やアドレスを抜かれてしまっていたために、何かと連絡が飛んで来る。
 その度にガブリエラは振り回され、詫びにしこたま食事を奢らせ、もうしないように約束させたが、今のところその約束が守られたことはない。

「彼氏に対して、冷たいじゃん」
「彼氏ではありません」

 しかも、いつの間にか彼氏を名乗るようにもなった。といっても、同じ口で「お前と付き合うわけ無いだろブス」とも言うので、ガブリエラもまともに取り合ってはいない。

「ねえ、どこ行くんだよ。暇だったら──」
「暇ではありません。バイトです」
「こんな夜遅くに? お前、昼職しかしないんじゃなかったっけ」
 昼職というのは言葉通りデイタイムの仕事のことで、いわゆる“夜の娯楽”に関わりのない仕事を指す軽いスラングだ。また、健全であると同時に賃金の少ない仕事、という意味も含む。
「工事現場なので、夜なのです」
「はあ? そんなガリガリのくせに、工事現場?」
「重機の免許を取りました」
 マッサージ店の仕事とヒーロー免許取得の勉強を生活の中心に置き、その隙間に単発、短時間でねじ込めてなるべく払いのいい仕事となると、何かしらの免許や資格が必要な専門職になる。

 その中でもガブリエラにできそうなのが、フォークリフトやミニショベルなどの重機を運転、操作する免許の取得だった。元手もそこまでかからず、乗り物の運転ということでガブリエラも楽しんでできた。
 世界で唯一の三層構造都市であるシュテルンビルトで、土木作業員は必須の存在だ。彼らは常にステージの地盤をチェックし、少しでも崩れる兆しがあれば駆けつけて完璧に整備する。彼らが居てこそシュテルンビルトは成り立っており、『プロジェクトZ〜挑戦者たち〜』というOBCの人気ドキュメンタリーでも特集された、尊敬される職業でもある。
 そのせいか特に古参の作業員は豪快かつ人情深い質の者が珍しくなく、ガブリエラが面接の時に生活環境を話せば「根性がある」と一目おいてくれた。
 そればかりか今後の飯の種になるようにと、腕力が心もとないガブリエラでもできるエアコンやテレビの設置方法、水道やトイレのトラブルの直し方、内装工事のテクニック、コンクリートやレンガの処理の仕方など、本来ならきちんと入社し弟子入りしないと教えてくれないことも細々と教えてくれた。

「ふーん。汗臭そう」
「親方は、いい人です」
 ガブリエラは歩道を歩きながら言った。アドニスはその横を歩きながら、ちらりとガブリエラを見る。初めて会った時はまるっきり子供だったガブリエラだが、2度目に会った時はぐんと背が伸びていて、今ではほとんど目線が変わらない。
「いい人ねえ。でも給料少ないだろ?」
 嘲笑のような、苦笑のような、しかしそれでも完璧に美しい顔で、アドニスが言う。
「ブランカの世話になればいいのに。中古のバイクどころかスポーツカーだってすぐ買えるよ」
「ブランカさんのお世話になるのは、素敵です。ブランカさんも、いい人」
「……いい人かどうかはアレだけど。それなら──」
「しかし、ヒーローになるには良くない」

 彼女の界隈は、完全に夜の世界だ。
 個人的に気に入られていることもあり、世話になれば食うに困らないどころかそれなりに贅沢ができる暮らしもできるだろうが、イメージ商売の極みであるヒーローになるにあたって、彼女の世界で働いていたことは致命的なマイナスポイントになる。
 これはブランカ本人に忠告されたことであり、「だから、私の所に来るのは本当に最後の手段にしなさいね」と言われている。

「……お前、まだヒーローになれると思ってんの?」
「なる」
 ガブリエラは、はっきりと言い切った。バス停の前で、ふたりの歩みが止まる。

「ガブは、ヒーローになる」

 眠らない街の夜の喧騒をすっと切り裂くように、まったく迷いのない声。ネオンを反射してきらきら輝く灰色の目にまっすぐ見られ、アドニスは眉を寄せた。

 停止線ぴったりに止まったバスの扉が、プシュウ、と油圧制御の音とともに開かれる。ガブリエラはアドニスからあっさりと目線を外し、ポセイドンラインの交通乗車カードをタッチして、バスに乗り込む。
 アドニスは、乗ってこない。バス停に立ったままの彼がどんな顔をしているのか、ガブリエラは見ようともしなかった。






「やりましたあああああああああ!! ああああああああ!!」
「おめでとー!!」

 もはや定位置の座席になってきたダイナーのボックス席のソファに座り、ヒーローアカデミーの卒業証書とヒーロー免許の合格通知を掲げて叫ぶガブリエラに、シンディが拍手をする。

「ありがとう! ありがとうございます!! シンディの……シンディの! おかげ! おかげです!! 本当に……!!」
「なーに言ってんのよお、あんたに根性があって、が、頑張ったからよぉ……」
 そう言いつつ、シンディはぐすっと鼻をすすりながら、「あんたすっごくがんばったもん……慣れない都会に出てきてさあ……」と涙声で呟いた。そんな彼女に、ガブリエラももらい泣きをして涙が浮かんできた。

 その時、ドンドンドン、とテーブルに大きなハンバーガーやら山盛りのポテトやら、ガブリエラのお気に入りのチキンポットパイやらが並べられた。最後にドンッと中央に置かれたのは注文していない巨大なワンホールケーキで、“Congratulation!!”と書いてある。
 驚いて振り向くと、これらを置いた巨漢のマダムが巨大な尻をこちらに向けたまま振り向き、しかめっ面のままぐっと力強いサムズアップをしてくれた。その奥のカウンターでは、シェフであるマダムの夫君が「おめでとう、お祝いだよ〜」と手を振ってくれている。

「あ、ありがとう!! ありがとうございます!!」
「良かったわねえ」

 常連に対する温かい心遣いに感動しながら、ふたりはいつもより豪華なディナーに舌鼓を打った。
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る