#134
「アドニス? 久しぶりねえ。悪いんだけど、ちょっと話を聞かせてほしいの。いいえ、その話じゃなくって。……ええ、ええ、いいのよ来なくっても。そうしたらあなたのツケに正式な利息がつくだけだもの。きっちり正しい有様になるだけだわ、ええ」
穏やかな声でブランカがそんな電話をした15分後、荒々しい音を立てて個室のドアが開いた。
「なに、このガキ」
すぱあ、と煙草の煙を吐いて、男女の境を超越した美しさの人物はそう言った。
相変わらず床に座ったままのガブリエラは、背の高い“彼”、先程画面で見たままのアドニスをぽかんと見上げる。
毛穴もシミも一切見当たらない白い肌。コンピューターでミクロ単位まで精密に調整したかのような顔が、路地裏のチンピラそのものの目つきでガブリエラを見下ろしているのは、なんともいえない違和感の塊だった。
「この子、ヒーローになりたいんですって」
「へー。夢いっぱーい」
アドニスが鼻の穴から煙を噴いたが、鼻の形が完璧なので美しいだけだった。
「でも、あんまりヒーロー向きの能力じゃないのよ。あなたと同じで」
「そりゃご愁傷様。で?」
「何か参考になる話とかないかしら?」
「ない」
跳ね除けるように、アドニスは言った。声は男にしては高いが、女にしては低い。肩に届くくらいまで伸ばしている白っぽいストレートのブロンドは水のようになめらかで、つやつやと濡れた輝きを放って揺れている。目はアイスブルーで、誰かが1本ずつ丁寧に植えたのではないかというような、完璧に長いまつ毛で縁取られていた。
「まあ、相変わらず性格ブスな上に役に立たないんだから」
「んだとコラ、3本脚!」
凄むアドニスをものともせず、ブランカは頬に手を当ててやれやれといわんばかりに眉尻を下げた。その憂いた表情にそわそわしたガブリエラが目線を彷徨わせておろおろすると、ブランカは「大丈夫よ、いい子ね」とにっこりしてくれた。
「そういえば、名前をまだ聞いてなかったわ」
「なまえ? あ、アンジェラ」
「アンジェラ? 女の子だったのね」
男の子かと思ってたわ、と言うブランカと、煙草をふかしているアドニス、そして床に座り込んでいるガブリエラを見て、シンディは「性別ってなんだったかな」と遠い目をして言った。
「そういうあんたは何? そのオッパイ、本物?」
「本物よ!」
「そう? やたらデカいから、見栄張って詰めまくってんのかと思った。顔もオカマっぽいし」
そう言って、絶世の美女にしか見えない顔でけらけらと笑うアドニスに、シンディは「見た目は極上だが、中身は最悪だ」と思っているのがありありとわかる青筋をこめかみに浮かべて彼を見返した。
「で、こんなガキのために僕を呼んだわけ? このガキ、なんかあんの」
「いいえ、別に。でもかわいかったから、つい」
「かわいい〜?」
アドニスは歪めても完璧に美しい顔をガブリエラに向け、じっと見てきた。少し距離も詰めてくる。しかしガブリエラは物怖じすることなく、同じようにじっと見返した。
アドニスは確かに絶世の美貌の持ち主だったが、つい今しがたブランカの濃密な美しさを体験したガブリエラにとっては、アドニスはただ綺麗なだけのお人形にしか見えず、それほどの感動はなかったのだ。
至近距離でも全く目を逸らさないガブリエラに、アドニスはぴくりと片眉を跳ね上げる。そして、「チッ!!」とものすごい舌打ちをした。
「臭い!」
ばしん、と強めに頭を叩かれた。普通に痛い。
しかしガブリエラは叩かれた事よりも、叩かれた時にえもいわれぬいい香りがしたことに驚いた。
「あ、いいにおい」
隣に座ったシンディが、うっとりした顔で言う。
「こんなくっさい奴久々だわ! 何、ホームレスかなんか!?」
「一応、ヒーローアカデミーの寮で生活してるらしいんだけど……」
「シャワーからドブの水でも出てんじゃないの」
そう言いながら、アドニスは短くなった煙草を豪華なクリスタルガラスの灰皿に押し付け、ガブリエラが座るのを躊躇ったソファにどっかと遠慮なしに座り込んだ。
「ねえ、酒ぐらい出してよ」
「しょうがないわねえ。その子に何か話を聞かせてくれたら1杯奢ってあげるわ」
「話? ヒーローどうこうっていう?」
「そうよ」
アドニスは嫌そうな顔をして、床に座り込んでいるガブリエラを見る。そして、ふん、と鼻を鳴らした。
「ヒーロー向きじゃない能力なら、広報係としての仕事しかない。そうなるとタレントとかモデルと一緒だよ。見た目が全て」
その極上の容姿により、ヒーローという名目ではあるが実質は香水メーカーの専属モデルだったアドニスのそれは、非常に説得力があった。
「その点お前、何? ガリガリすぎんだけど。ビョーキじゃん」
「びょうき? ガブ、病気ちがう」
「知らないし。お前みたいな汚いブス、誰もいらないよ」
「ちょっとあんた!」
シンディが凄んだが、アドニスは顎を反らして続けた。
「事実でしょ? でなきゃ着ぐるみ系だね、誰でも出来るやつ。あれって何人かが中身交代してやってるみたいだから、そのうちのひとりになってビラ配るくらいなら出来るんじゃない?」
嘲笑を浮かべてガブリエラを見下ろして言ったアドニスに、シンディは今にも掴みかかりそうだ。
「……何だよ」
アドニスの残酷な暴言に怯むでもなく、ガブリエラは単純な高低差から、顎を反らして彼を見ていた。深い穴の底から見上げてくるようなその目に、アドニスは更に眉間の皺を深くする。
「何、ない。ごキョウジュ、ありがとうございました」
「は? ちょっ……」
絶妙な隙を突くようにしていきなり手首を取られたアドニスは、驚いて目を白黒させた。
「何すんだ、いっ……!」
「動く、ない」
ぐい、とガブリエラが手首を引くと、男性にしては華奢なそこには、見るからに痛そうな青黒い痣がついていた。そして彼よりも更に細いガブリエラの手がそこをしっかりと掴み、ふわん、と青白い光を放っていた。
「離せ、触るな! ……え、あ?」
「おわる、した」
ガブリエラが急に手首を離したので、アドニスはソファの背もたれに倒れ込むようになった。すぐに顔を顰めてガブリエラの襟元に掴みかかろうとしたが、そうしようとした自分の手首がさっぱり綺麗になっているのが目に入り、ぽかんとして固まる。
「あなた、話、する、ました。お礼するを、したです」
「な……」
「へえ、すごい! こんなに綺麗に治るのね」
アドニスが何か言う前に、シンディが割って入るようにして言った。ガブリエラの能力の内容を聞いてはいたが見るのは初めてであるシンディのその言葉は、素直な感嘆と賞賛がこもっている。
「そうねえ、これはすごいわ。確かにテレビに出てるようなヒーローっぽさはないけど、いかにも人助けが出来る能力でもあるわねえ」
ブランカも感心して、頬に手を当てながら言う。
「怪我ならなんでも治せるのかしら?」
「なんでも……、はい。しかし、重症、時間がかかる、ます。そして、食べ物、たくさん食べる、いる」
「食べる?」
首を傾げるブランカとシンディに、ガブリエラはたどたどしく自分の能力の仕組みを説明した。
「なるほどね。さっきもどこに入ってんのってくらいの食べっぷりだったのにえらい痩せてると思ったら、そういうこと」
先程のダイナーで、好きなだけ食べていいとの言葉通りシンディの財布の中身を空にしたガブリエラを思い出しつつ、シンディが納得して言った。
「燃費が悪いのかしら。どのくらい食べたらどの程度の怪我が治せるとかはわかるの?」
「なによブランカ。興味津々じゃない」
「そりゃあそうよ。とっても役に立つ能力だもの。いますぐ私が引き取りたいぐらい」
「あんたがぁ? そりゃあんたの懐に入れば色々心配ないだろうけど、2度とお天道様の下に出てこれないじゃない。ヒーローになりたいっていうこの子の希望は叶えられないわね」
「わかってるわよ、無理強いするつもりなんかないわ。でも住めば都とも言うでしょ」
すっかり早口で交わされる会話に、ガブリエラはおろおろした。
耳が良いのでヒアリングはできているのだが如何せん頭が悪いので、聞いた言葉を意味と結びつけるのが遅いのである。
「ええと……ええと……」
「……ふん」
ガブリエラがおたついている間に、アドニスがソファから立ち上がる。
新しい煙草に火をつけて口にくわえて、麗人は部屋を出ていった。
「シンディ、ありがとう」
「特に何もならなかったけど?」
「いいえ。ブランカさん、きれい」
結局、ガブリエラがヒーローになるための妙案を得ることはできなかった。
しかし「どうしようもなくなったらうちにいらっしゃい。歓迎するわ」とブランカが本気の後ろ盾を買って出てくれたこと、またブランカほど美しい人に能力を褒められて受け入れてもらったことに、ガブリエラは単純に元気付けられた。
「確かに綺麗は綺麗だけど。念のため言っとくけど、あれ女じゃないからね」
「ない? ……オー、女性ちがう、わかる。ファイヤーエンブレムも」
「ああ、ファンだって言ってたわねそういえば」
「きれい。どちらも」
「……そっか。そうだね。……うん、あんたが正しいわ」
苦笑したシンディに、ガブリエラはそうだろうとうんうんと何度か頷いた。その目元はまだ少し腫れが残っているが、涙はすっかり引いている。
「でも、男か女かわかんなくて綺麗ってんならアドニスもだけど……。あんな根性の曲がったやつだとは思わなかったわ。ムカつく! 誰がオカマの偽乳なのよ」
「手、怪我。痛い。ですので、怒る、していた。たぶん」
「えー? 元々の性格でしょあれは。顔が綺麗なだけに幻滅!」
「性格、悪い。顔、きれい。別」
「……そうだけど」
「とても別。むしろ別。とても」
「あんた時々真理を突いたこと言うわね」
やけに実感が篭った様子でゆっくり首を振りながら言うガブリエラを、シンディは感心半分で見た。
「ま、今日はここまでかな。なんかあったら連絡して。これ連絡先ね」
シンディは、連絡先が書かれたメモをガブリエラに渡してくれた。
彼女は今現在それなりに健全で小綺麗な店でホステスをしており、その関係もあって、ブランカとも繋がりがあるのだと説明していた。
「……ありがとう、シンディ。シンディは、いいひと。とても」
「でしょー? 次からは美人だってことも褒め忘れないでね」
「うむ。シンディは、美人」
「そうそう。断じてオカマっぽい顔じゃない。オッパイも本物」
「おかまっぽいかおじゃない。おっぱい、ほんもの」
「よし」
ガブリエラの復唱に重々しく頷いて、シンディは明るい道を通って堂々と去っていった。
その後、ガブリエラは気を取り直して勉強を再開させた。
元々、ガブリエラは打たれ強くてしぶといのである。でなければ、地の果てからあの大荒野を渡ってシュテルンビルトに来たりしない。
ラグエルが死んでからもひとりで地雷の上を進んできたガブリエラは、泣き喚き方こそ豪快だが、その分うじうじと落ち込み続けたりしないのだ。感情を発散したら、さっさと先に進むために足を動かさなければいけないのだということをガブリエラは知っている。今回は、どう行動したらいいのかがわからなかったので迷走しただけだ。
そして、アドニスの言葉が立派な現実の一端だということも、ガブリエラは受け入れていた。都会は便利で豊かで、“おこぼれ”が信じられないほど多く手に入るが、なんでも夢が叶う楽園というわけではないのだ。
そこで改めて調べた所、七大企業のような大企業所属の公式ヒーローでなくても、ヒーロー免許さえ取れば、中堅以上の会社が抱える非公式ヒーローにはなれる、ということをガブリエラは理解した。
テレビに映ってポイントランキングを戦うようなことはないが、所属企業のイメージアップのためにボランティア活動などを行うヒーローである。難関である正式なヒーロー免許を持っていることから、警察と協力体制を取り犯罪者を取り押さえ、怪我人を救助する専門家として見てもらえる社会的地位がある。
七大企業ヒーローのような華々しさとは比べるべくもないが、アドニスが言ったような無免許ヒーローとは一線を画する存在であることは確かだった。
目指すもののランクを下げることにはなるがそれでも、と、ガブリエラは歯を食いしばり、挫けそうになる気持ちを蹴り上げながらひたすらに勉強し続けた。
そしてその甲斐あったかどうかはわからないが、その時、大きな社会的変動が起こった。
HERO TVを放映しているOBCの親会社、アポロンメディアが中心となり、法的に認められて“二部リーグヒーロー”が成立したのである。
二部リーグを提案し実際に発足させた立役者は、新しくHERO TVのプロデューサーになったアニエス・ジュベールという女性だ。
彼女はMr.レジェンド引退後から緩やかに人気が低迷していたHERO TVの視聴率をV字回復させた、非常にやり手の人物である。
難関のヒーロー免許を持ちながら今までヒーローとして認められていなかった、七大企業以外が抱える非公式ヒーローたちが、二部リーグという公式ヒーローとなった。
それによって活動の幅が広がり、よりヒーローらしいこともできるようになったことに、既に非公式ヒーローとして長く活動していた者たち、そしてヒーローを夢見るアカデミー生たちは飛び上がって喜び、もちろんガブリエラもそのひとりだった。
再びやる気が漲ったガブリエラは、ヒーロー免許取得を目指し、更に勉強に打ち込むようになった。
二部リーグが発足された時、シンディはガブリエラが報告する前に電話をしてきて「ニュースで見たわ。やったじゃない!」と言ってくれた。
彼女はあれからも、何くれとなくガブリエラの面倒を見てくれていた。
ガブリエラが夜な夜なブロンズの酒場を渡り歩いて飲み比べで金を稼いでいること、揉めた時は自分を助けてくれた時のように野良犬の喧嘩よろしく相手を叩きのめしていると知ると、頭痛を堪えるようなポーズをしながら、それは学校にバレたら非常にまずいことだ、と噛んで含めるように忠告してくれた。
まともな店ならば絶対に通報されていたが、ガブリエラの行きつけが最底辺の酒場ばかりだったためむしろ今まで発覚していなかったというオチに、シンディはどこから突っ込んでいいのやらという顔をして、酒場に行くことと喧嘩をすることを禁じた。
ガブリエラは許可証無しで能力を使って稼ぐ事や、そのへんにいる動物を捕まえて皮を剥いだり食べたりすることが法に反するとは理解していたが、酒を飲んだり、チンピラを半殺しにすると法に触れるということはまったく知らなかった。
非常に的確なアドバイスをガブリエラは素直に聞き入れ、ブロンズステージの酒場に行くのはとりあえずやめた。
だが酒場での収入がなくなってしまったことでやむなく業務用の砂糖をちびちび舐めていたガブリエラに、シンディはまた頭を抱えた。
そして今度は食料品や生活用品が安いスーパー、交通機関のお得な使い方、またガブリエラの鉄板入りのブーツを修理できる店を見つけてくれたりなど、教科書に載っていない、そして生活に役立つことを詳細に教えてくれた。
更には、「前から思ってたけど、あんた臭いわ! なんか洗ってない犬っぽいニオイがする!」ととうとう耐えられなくなったように言い、自分の部屋に連れて帰り、バスルームでガブリエラを丸洗いし、そして流れてきた薄茶色の泡に悲鳴を上げた。
乾燥しきった荒野に居たときのように半月にいちど身体を拭くこと、またノミとシラミ対策に髪を丸坊主にすることで清潔を保っていたつもりだったガブリエラは、湿気が多く人も多いシュテルンビルトでは、毎日、最低でも2日にいちどはシャワーを浴びて、石鹸を使って隅々まで体を洗う必要があること、また歯は朝晩磨くことを覚えた。
「うわっ、あんたすっごい八重歯。口が臭いのこれか!」
「う……」
「歯並びが悪いから磨き残しが臭うのよ。教えてあげるから毎日丁寧に磨け! お金に余裕ができたら矯正したほうがいいわ」
「歯を? きょうせい?」
「いまどき皆してるわよ。私も子供の時は矯正器具着けてたし」
誰も近寄ってこなかったのが体臭や口臭のせいだということがわかってからは、ガブリエラは以前のようにあからさまに人に避けられることがぐんと減った。
しかしガブリエラはもうすっかりシンディに懐いていて、寝る前にピアスを並べ替える回数は減っていた。
「うぬ〜」
最近行きつけになりつつある、古い個人経営のダイナーのボックス席。
16歳になり、栄養の良い食事のおかげか急激にぐんと背が伸びたガブリエラは、通帳に記入された数字を睨みながら唸り声を上げていた。
「やちん、高い……」
「それでもブロンズのバカ安アパートだけどねえ」
それ以下になるともう人間の住むとこじゃなくなるよ、と、テーブルの向かい側でサラダをつついているシンディが言った。
二部リーグヒーローを目指す、という明確な目標を得たガブリエラは更に精力的に勉強して無事に試験に受かり、このたび正式なシュテルンビルト市民権を獲得した上、同時に最短で『NEXT能力制御認定証』を取得した。
最終的に目指すのはヒーロー免許だが、その前段階として、この認定証が発行される。これがあれば、“良識に則り、自分の意志で自由に能力を使っても良い”とされ、つまりNEXT能力行使によって金銭を得ても良いことになるのだ。
今回はそのお祝いとして、シンディがいつものダイナーで食事を奢ってくれているのであった。
だがめでたいと同時に、ガブリエラはヒーローアカデミーの学生寮にいられなくなった。
なぜならヒーローアカデミーの本質であり本題は、“NEXT能力の制御を覚え、より有用な使い方を模索する”施設、というものである。つまり能力制御ができるようになったというのはそれをクリアしたことに他ならず、あとのことはあくまでプラスアルファであり、完全なる自己努力によるものとなる。
よって、ガブリエラはヒーロー免許取得のための勉強や単位取得においては引き続き学費免除で面倒を見て貰えるものの、生活面に関しては完全に手を離されたのだ。
未成年だということと、正式な市民権を得たことで、引き続き給付金は与えられる。しかし衣食住を賄うには、とても足りない金額だ。
つまりガブリエラは、新しく寝床を得て、普通よりも多くかかる食い扶持を完全に自分で賄わなければならなくなったのだった。
しかも制御認定証を取得するにあたって改めての能力測定を行った所、ガブリエラの能力は正しい医療知識のもと行使しなければ、例えば間違った方向に折れ曲がったまま骨折をくっつけてしまったりしてしまう事が起こり得る。
よってアカデミーの指導が入り、訓練も兼ねて能力を活かせるアルバイトが斡旋されることになった。
ガブリエラが紹介されたのは、ヒーローアカデミーと提携しているマッサージサロン。回復系NEXTの定番の斡旋先でもあり、また軽症、かつ老化による症状の患者ばかりであるために、“何か”あっても大事にはならない、という職場だった。
それに能力の訓練の場としても、マッサージ店で働くことは確かに有益だった。
血だらけの裂傷や銃槍、火傷など、いかにもな外傷しか治したことのなかったガブリエラは、肩こりや腰痛など、ひと目見て傷ついているとわからない不調を治したことが殆どなかった。そのため、そういう疾患に能力を使うと、とてもぼんやりした効果になってしまう。
ガブリエラは人体解剖図や学生用の保健体育の教科書などを片手に人体の仕組みを勉強しながら、自分の能力を磨いていた。
またマッサージ自体が特別上手いわけではないものの、明らかに普通より効く施術をするガブリエラは人気を博し、店とも良好な関係を築けている。
「新しい職場はどうなの?」
「みなさん、親切、です。能力も、上手く使えるようになる……なりました」
「言葉も上手になってきたじゃない」
シンディと縁が出来てからというもの、彼女を始めとして他人と話す機会が増えてきたガブリエラは、言語能力も飛躍的に上がっていた。たどたどしさはまだあるが、日常会話はまったく問題なく話せる。
あの店にマッサージを受けに来る客は穏やかでおしゃべりな老人が多く、カタコトのガブリエラの言葉を根気強く聞いてくれるので、それも会話の勉強になる。──あちらも耳が遠く、半分くらいお互いに意味がわかっていないような様子ではあったが。
「聞く限りじゃ、良さそうな職場だけど」
「金、……お給料、少ない、です」
「どのぐらい?」
シンディの問いかけに、ガブリエラは貰った書面をそのまま見せた。
「……ま、多くはないわね。でも、普通のバイトもういっこ掛け持ちするぐらいだったらいけるんじゃないの?」
「普通のアルバイト、はい。する。しかし、ガブはたくさん金がほしい」
「お金? 歯の矯正でもするの」
「いいえ。バイクが欲しい」
シュテルンビルトの市民権を得たことと、車両免許が取れる年齢に達したこともあり、ガブリエラは身分証も兼ねて、すでに自動車とバイクの免許は取得していた。シュテルンビルトは車社会でもあり、免許取得に係る資金もさほど多くなく、少し節約すればガブリエラにも用意できた。
元々小さい頃から車に乗っていて、ヒッチハイクをした時も運転を代わったりしていたため、実技試験は全く問題なく、教官には「さては家で乗ってたね」と言われた。農家など私有地の広い家では、そこで無免許で車を運転することもある。ガブリエラは全く違ったが、本当のことを言うとよろしくないと察せられる程度には都会に慣れてきていたので、曖昧な相槌をついた。
そしてバイクは、不思議な事に、車よりも更に滑らかに、まるで手足のように運転できた。跨った車体から感じる、ドッドッドッ、というエンジンの音。力強い心音にも似たその音に感じるどうしようもない懐かしさに、ガブリエラは視界が滲んだ。
──自分のバイクが欲しい。
ガブリエラは、強くそう思った。故郷から出る時に犠牲にした車を思うと、なお一層欲しくなる。自分のバイク。自分だけの、どこにでも走っていける、速くて、どんな崖も飛び跳ねられるような、できればつやつやの黒いバイクが欲しい。
そのためには、もっと金を稼がなければならない。
しかし斡旋されたマッサージ店の給料は、中古でもバイクを買う金を貯めるのに明らかに心許ないのだ。
「バイクね。確かにシュテルンじゃ、あれば便利かも」
シンディは、納得のコメントをした。
メトロやモノレールやバス、タクシー、ロープウェイなど様々な移動手段に溢れるシュテルンビルトでは車やバイクがなくてもやってはいけるし、上手く使えば安く移動できる。だがその分遠回りだったり、直結シャトルバスならば逆に高額になったりという部分もある。
そのため結局マイカーを持って、色々なところにある一律料金のパーキングを利用するのが便利で、むしろ節約になったりする。バイクであれば小回りも効くし駐車料金も車より安いので、なおさらだ。
「はい。便利です。バイク、便利。とても欲しい」
「言っとくけど、酒場荒らしはダメだからね」
「……むぅ。わかります、ました」
最も稼ぎのいい方法を都会のルールで封じられているガブリエラは、渋々と頷いた。だが成年になればしてもいいと考えていることを見抜いているシンディは、しおらしくうつむいているガブリエラをじろりと見る。
その時、からん、とダイナーのドアについたベルの音がした。
「あら……」
シンディが目を見開いてそう言ったので、ガブリエラは自分の背後、ダイナーの出入り口を振り返る。気づけばあまり多くない他の客たちの目も、残らずそこに吸い寄せられていた。なぜなら入ってきたその客が、信じられないほど美しかったからである。
入ってきたのは、アドニスだった。
「ドーモ。久しぶり」
「ああ……?」
相変わらず美しいものの、明らかにだるそうなアドニスは、シンディからの“一応の知り合いに対する最低限の礼儀”としてのお座なりな挨拶に、まただるそうな声を出して目を向けた。
「……あー、あの時の。巨乳のオカマ」
「マダム! 酒瓶持ってきて! アンジェラこいつぶん殴って、特別に私が許す」
「大声出さないでよ、頭に響くんだから」
青筋を立てて怒鳴ったシンディに、アドニスは参った様子で言った。よく見ると、白い肌の顔色が悪い。
「びょうき?」
ガブリエラが尋ねると、アドニスはじろりとアイスブルーの目でガブリエラを見た。
「こないだの仕返しのつもり? ただの二日酔いだよ」
「ふつかよい。ふつかよい……、おー、昨日、酒、たくさん飲む。具合が悪い」
「そういうこと」
「ガブ、治す、できる」
「は?」
「ガブ、ふつかよい、治す、できるです」
ガブリエラの発言に、アドニスは軽く目を見開く。シンディも、「え、ホントに? そんなこともできるの?」と驚いていた。
「え? ほんとに?」
「できる。やるますか?」
「こないだみたいにすぐ治んの?」
「うーん、前よりは、時間、必要。10……15分くらい」
「……じゃあやって」
ぶっきらぼうに言って、アドニスはガブリエラの隣に腰掛ける。クッションのあるソファ席に腰掛けただけでも頭に響くのか、顔を顰めた。
「わかるました。では金」
「あ?」
すっと手を出したガブリエラを、アドニスは半目で見る。
「ふつかよい、なおす。金ください」
「……そういうことかよ」
ちゃっかりしてんなくそ、とぶつくさ言うアドニスに、頬杖をついて頬の肉を持ち上げたシンディが「ふっかけてやれ」と野次を飛ばす。アドニスはそれを無視した。
「治せたら払う」
「わかるました。えーと、ふつかよい。……ふつかよいの内臓。どれ?」
ガブリエラは鞄から、『からだのふしぎ』というタイトルの子供用の書籍を取り出した。図書館のものであることを示すバーコードのついたそれの人体解剖図のページを開いたガブリエラに、アドニスが心の底から怪訝そうな顔をする。
「ねえ、ほんとに大丈夫なの」
「おまかせあれ」
「不安になってきたんだけど。あー頭痛い……」
「おお、頭痛が痛い。では頭、やる」
「頭? 頭からやるの? え? 大丈夫?」
びびり始めたアドニスの反応を無視し、ガブリエラは彼のさらさらの髪が流れる頭に手をかざした。シンディは「ざまあ」という顔をしている。
そして、ぽわん、と青白い光が放たれ、アドニスの頭に滲むように吸い込まれていった。
「うわ……、え、すごい。頭痛が消えてく」
「え、ほんとに?」
「ほんとほんと、うわっ全然痛くない、っていうか超スッキリ」
ものの2分で二日酔いによる頭痛が消えて興奮気味のアドニスに、シンディが興味津々に身を乗り出す。
「次、内臓」
「え? うん、今度は身体のほうね。どこやるの? ここ?」
「ええと、肝臓。ひとつしかない」
「よし、じゃあここか」
「ちがう。ここ」
「アドニス、そこは心臓。アンジェラも、そこは胃よ」
子供用絵本のカラフルな人体解剖図のあっちこっちを指差しているふたりに、シンディが呆れ果てた顔で「肝臓はこっち。お酒なら腎臓とかもじゃないの」と、図を指差しながら助け舟を出した。
「へえ〜、初めて聞いた。あんた頭いいね」
アドニスのその言葉に、シンディは顔をひきつらせた。
彼がいくつなのかはわからないが、ブランカが酒を出していたところからして少なくとも成人ではあるはずだ。しかし酒は飲むくせに、その酒が自分の体のどこに流れていっているのか、彼はなんと今はじめて聞いたという。
「はい。シンディは、頭が良い。とても」
ガブリエラが、自分のことのように得意げな顔をして言った。
「ふーん。お前は頭悪そうだけどね」
「むう。しかし、肝臓はわかる。ます。肝臓、おいしいところ」
「は!? 食べたことあるの!?」
「新鮮、生、おいしい」
「生で!?」
そんな会話を傍から聞いているシンディは、力いっぱい突っ込みたい気持ちでいっぱいだった。しかしどこから突っ込んでいいのか全く見当がつかなかったので、口元をむずむずさせたまま、性別を交換したような、そしておそらく頭の程度はちょうど同じぐらいらしい目の前のふたりをおそるおそるという気持ちで見守る。
肝臓の位置が正しくわからないようで、ガブリエラは5分くらい、アドニスのみぞおち付近で青白く光る手をうろうろと彷徨わせていた。
だがそのせいで胃も回復したのか、顔色が良くなったアドニスは「気持ち悪いのなくなった」「お腹空いてきた」などと調子のいいことを言い出したばかりか、アイスクリームを乗せたパンケーキを注文してぱくつき始めた。
「元気、なるましたか? 腎臓、していない。いらない? ですか?」
「え、何言ってんの? やってよ。お金取るんでしょ」
ガブリエラに能力を使わせながらパンケーキを食べるアドニスは、眉をひそめて傲慢に言った。その態度に向かいに座ったシンディは眉間に皺を寄せたが、しかし何かを思いついた様子で目線を一瞬宙に浮かせると、にやりと笑ってガブリエラに言った。
「そうね。お金貰うんだし、やってあげてもいいんじゃない?」
「……うむ」
こくりと頷いて、ガブリエラは人体解剖図で腎臓の位置を再確認し、アドニスの脇腹あたりで手を彷徨わせ始める。
「アドニス、水分も取んなさいよ」
「勝手に飲むよ。指図しないで」
高慢なお嬢様を思わせるような仕草でツンと顎を反らし、アドニスはシンディの言葉を撥ね付ける。しかし喉が渇いてはいたのか、パンケーキと一緒に注文したダイエットコークをストローで吸い上げる。
しかし5分後、アドニスはざっと顔色を変えたかと思うと、腹を押さえてフォークを手放した。
「……ちょっと! トイレどこ!?」
切羽詰まったアドニスの叫びに、無愛想な巨漢のマダムがぶっきらぼうかつぞんざいに指を差す。店の奥にトイレのマークを見つけたアドニスは、慌てて座席から立ち上がってその扉の中に駆け込んでいった。
ガブリエラはぽかんとしてそれを見送り、シンディはにやにやしている。
「腎臓はね、まあ簡単に言うと水分から栄養だけ取って、いらないものをオシッコにして膀胱に送り出す内臓なの。お酒を飲みすぎると、この機能が鈍くなって、身体を悪くしたりする」
「ほー」
「だから腎臓をあんたの能力で元気にさせれば、お酒の毒をさっさと分解しちゃうと同時に──」
「おしっこ……ああ、尿、ジャー」
「そういうこと」
「おー」
よく理解できたガブリエラは、やはりシンディは頭がいい、と感心する。
「わかる。昔、同じ、したました。酔って暴れる男、男性に、能力使う、した」
「へえ〜。飲んだすぐでも、そうやると酔い覚めるの?」
「はい。尿、ジャー」
「えっ」
「店、真ん中、尿がジャー。酔い、さめる」
そりゃあ酔いも覚めるだろう、物理的にも精神的にも、とシンディは乾いた笑いを浮かべた。ガブリエラは実体験と理屈が噛み合った知識を取り入れたことで非常に納得し、うんうんと頷いている。
そしてせっかく覚えたことを忘れないように、人体解剖図を睨んで指を滑らせながら、「二日酔いは、肝臓と、腎臓。腎臓なおす、尿がジャー。おぼえる。おぼえた」と繰り返し呟いた。
「……ねえ。あんたさあ、よかったらうちに来る?」
ふとシンディが言い、ガブリエラは目を丸くして顔を上げた。
「私のマンション、アカデミーからもそんなに遠くないし。店が女の子たちに紹介するとこだから、セキュリティもそこそこまともよ。バイクの代金が貯まるまでうちで暮らして、生活が安定してから部屋を探したほうが、マシなとこに住めるんじゃない?」
「シンディの、家……」
ガブリエラは、ぽかんとしてシンディを見つめた。しかし、みるみるうちに笑顔になる。灰色の目がこんなにもきらきらとするのを、シンディは初めて見た。
「シンディの、家! シンディ、家、ガブ、住む? 住むいい?」
「ちょっと、また単語喋りになってるわよ」
「住むがいい!?」
「はいはい、住んでいいわよ」
シンディが苦笑して言うと、ガブリエラは今度こそはっきりと満面の笑みになり、「きゃー!」と喜色の篭った声を上げ、ダイナーのソファ席の上で尻を何度も弾ませた。
「そうね、掃除と洗濯と、あとさっきみたいに私の二日酔いを治してよ。そしたら家賃はいいわ。あ、光熱費は折半ね。食費も別」
「わかるますた!」
「わかりました」
「わかりました!」
「よし。ちゃんと勉強するのよ」
「する! とても! シンディは、いい人! そして、美人! とても!」
「おっ、わかってるわね。よしよし」
「おっぱいも、本物!」
「それは大声で言わなくていい」
もし尻尾があったらブンブン振られているだろうガブリエラに、シンディもつい笑い返す。いつから部屋に移ってくるか、という話をしはじめた時、奥にあるトイレのドアが開いた。
「あら。具合どう?」
「おかげさまで、すっきりはしたよ」
いけしゃあしゃあと聞くシンディにそう返し、アドニスは氷が溶けて薄くなったダイエットコークを飲み干した。しかし、席に座ろうとはしない。
「治るした? 金ください」
「はいはい」
そのまま行こうとしているとも見えるアドニスを、ガブリエラはしっかりと引き止める。アドニスは尻のポケットから数枚の紙幣を取り出すと、その中から数枚抜き取ってガブリエラに押し付けた。
「ぱんけーき、まだあるます」
「もういい」
2枚重ねのパンケーキを丸々1枚と半分残したアドニスは、そのままダイナーを出ていった。
ガブリエラは今度はそれを引き止めることなく、アドニスから貰ったくしゃくしゃの紙幣を丁寧に広げて、数字を確認する。彼が渡してきたのは、20シュテルンドルの紙幣が5枚だった。
「あら、金払いはいいのね。意外といい奴なのかしら」
「うむ?」
ガブリエラは特に感慨なさそうな様子で、100シュテルンドルをしっかり揃え、財布に仕舞いながら言った。
「いいえ。彼、普通の人」