#133
シュテルンビルトで、ガブリエラは大変に慌ただしい日々を過ごしていた。
ヒーローアカデミーはヒーロー養成所というキャッチコピーを打ってはいるが、実際は“NEXT能力の制御を覚え、より有用な使い方を模索する”施設である。
ここを卒業することによって、“NEXT能力を安全に制御できる人間”だと認められる。つまりアカデミーの卒業証書があれば、少なくともシュテルンビルト内や先進国でNEXT差別に遭う確率はぐっと低くなる。
そのため、ヒーローを筆頭として、都会で能力を活かした仕事をしたいと意識高く希望しての入学生もいれば、NEXT能力が原因で就職先で差別を受けないように、と入学する者もいる。
アカデミーに入学して最初の2ヶ月くらいは、本人たちの不安を解消する目的もあり、NEXTの詳しい歴史や社会的補助などを共通して教えられる。
しかし、その後は様々。能力の内容は人によって千差万別であるため、それぞれ学ぶべきものが違うからだ。例えば炎を操るNEXTと水を操るNEXT、身体を強化するNEXTでは、能力制御のためにやるべきことは随分違ってくる。
BレベルNEXTなどであれば、一般的な学校に通いながら、あるいは普通に働きながら、塾や習い事、セミナーに行くようにヒーローアカデミーに通っている者もいて、むしろこの層が大多数だ。
ヒーローアカデミーが行うのは、生徒たちがこういったカリキュラムをこなすための施設や設備の提供、またいわゆる師となるような先輩NEXT能力者の紹介・斡旋であったり、その能力を活かした仕事はどんなものになるかの相談に乗ったり、そのために合わせて取るべき資格の補助、就職先の斡旋などである。
そんな中、最も科目が多くカリキュラムも濃いのがヒーローコースであり、最難関と呼ばれるヒーロー免許の取得と、その条件であるたくさんの資格取得を目指す。
ガブリエラはもちろんヒーローコースを希望したが、それ以前にやるべきことが山のようにあり、特別なカリキュラムが組まれた。
まず難民扱いであり学歴もないガブリエラは、ヒーロー免許以前にシュテルンビルトの市民証を得るため、義務教育を卒業したとみなしてもらえる試験を受けなければならなかった。
朝は少し早く起きて、自習室で課題の問題集と奮闘する。
言葉の勉強もしなければならない。指導員のアドバイスを受け、アカデミーを出た後すぐ仕事に就けるよう、ビデオルームを使ってビジネス会話のレクチャー番組を参考にすることにした。番組の司会が元ヒーローのステルスソルジャーだから、という理由もある。ベテランヒーローに「頑張れ!」と言ってもらうと、俄然そうしようという気になれるものだ。
時間が来ると学生寮の朝食を食べて授業に出て、ヒーロー免許を取るための講義を受ける。語学力も小中学校で習う基礎学力もまったく足りていないガブリエラは、毎日図書室に行ってわからなかったところをびっちりと復習し、また次の授業のために予習をした。そうしなければ、あっという間についていけなくなってしまう。
机に向かって勉強する、という行動自体がほとんど初めてである上、荒野を旅する間に自分の名前も書けなくなっていたガブリエラにとって、目が回るような日々だった。
しかし「これができなければ何もかも終わりなのだ」と理解し、ガブリエラは本当に死に物狂いで勉強した。
文字がほとんど読めないのが致命的だったが、支援団体がレンタルさせてくれる読み上げアプリを利用したり、文字でノートをとることができない分、瞬きもしていないのではないかというほどの集中力で授業に挑み、ガブリエラはひとつずつ確実に単位を取っていく。
しかし、勉強だけしていればいいというわけでもなかった。
まず、ガブリエラの能力はSレベルと認定されている。
アカデミー入学が義務付けられるレベルであるため、学費は全面免除である。
だが生活費、食い扶持に関しては、そうもいかない。
ガブリエラは保護者のいない未成年であったため、エリアからの補助金が支払われた。しかし難民に支払われるそれは、さほど大きい額ではない。アカデミーが提供してくれる食事付き学生寮の費用は良心的な値段ではあるが、補助金はほぼそれで消えてしまう。
それ以外の生活用品を買うため、そして規定年齢になったら車とバイクの免許を取るために、ガブリエラはここでも金を稼ぐ必要にかられたのだった。
といっても、今までのように怪我人相手に能力を使った稼ぎ方は出来ない。
なぜなら無認可でNEXT能力を使って金銭を得るのはここでは違法であり、しかもアカデミー在学中にそれが発覚すれば、Sレベルであるので退学にはならないにしろ、ヒーロー免許の取得がほぼ不可能になってしまうからだ。
ガブリエラが選んだ手段は、まずまっとうに、公的機関がガブリエラのような難民向けに紹介する日雇い派遣アルバイトであった。
言語能力のせいで意思疎通があまりスムーズではなく、未成年ということもあり、しばらくオフィスビルの清掃員や飲食店の皿洗いなどの作業的な労働を繰り返し、慣れてくるとワゴンのファストフードの売り子、スーパーのレジ打ちなどをした。
机に向かって勉強することに比べれば、ジェスチャーを使って実際に人とコミュニケーションを取りつつの仕事を覚えるのに苦労したことは殆どなかった。さらに本場の荒くれ者たちに揉まれてきたガブリエラにしてみれば、都会の人々は皆まともで穏やかだ。
数字に強く、単純作業や細かい仕事を真面目にやるガブリエラは、職種によっては重宝された。
だがシュテルンビルトは物価が高く、公的機関が斡旋するアルバイトは紹介料が引かれ、どこも手取りは安い。日用品を揃え、能力の鍛錬をするために寮の食事以外の食料品を買い込めば、殆どなくなってしまう。
以前のように手作りのアクセサリーを売ったところでたかが知れているし、ヴィクトリアからの友情の証であるダイヤのピアスを売ってしまうのは最後の手段にしたかったため、ガブリエラは斡旋されるアルバイト以外でも金を稼いだ。
バイト先の知り合いに提案してもらった、最初に見つけた大食い大会への参加や、何分以内にこの大盛りを食べれば無料、あるいは賞金という店へのチャレンジはガブリエラにとっていくつもの意味でおいしい稼ぎ方だったが、あっという間に出禁になってしまった。言わずもがな、荒らしすぎたからである。
そこでガブリエラが当然の選択肢として採用したのが、やはり恒例の飲み比べだった。
朝早く起きて、アカデミーでみっちり勉強をし、明るいうちは斡旋してもらった日雇いアルバイトで小銭を稼ぎ、日が暮れてきたらブロンズステージの路地裏に入っていく。
故郷の酒場や荒野のモーテルを渡り歩きながらしていたように、フードを深くかぶり、バーというよりは酒場という雰囲気の店を見つけて入り、いちばんの酒豪に飲み比べをふっかける。
シュテルンビルトの酒場は店の端に死体も転がっていないし、銃を撃ちながら飲んでいる酔っぱらいやヤク中もいない。客たちも、犯罪者や荒くれ者というよりは、チンピラ、不良といった面子の集まりだ。
マフィアもいるにはいるということだったが、シュテルンビルトでは、そういう“本業”の者はむしろもっと高級店に行くらしい。寮の門限に間に合うよう夕方頃しか酒場に顔を出さなかったこともあり、ガブリエラはぬるい小悪党たち相手に割と順調に金を稼いだ。
しかしそのせいで、寮暮らしであるというのに、ガブリエラにはまるで友人ができなかった。
身の上不明、シュテルンビルトでは珍しい難民でがりがりに痩せ細り、丸坊主で性別や年齢もよくわからず、そのくせ何やら妙な凄みがあり、最も治安が悪いブロンズステージの路地裏にも平気で入っていき、更には言葉があまり通じないガブリエラに近づく者はまずいなかった。
いじめられるわけではない。最初は遠巻きに見られてはいたのだが、食料、兼久々にアクセサリーでも作ろうかと鳥を捕まえて羽根をむしろうとしているところを女生徒に見られものすごい悲鳴を上げられてから、決定的に避けられるようになってしまった。
ちなみにこの時ガブリエラは校長室に呼び出され、「ええとね、こちらでは、狩りは狩猟免許とかがね、多分あるからね……」と苦笑気味に言われた。都会では何をするにも免許が必要なのだなとガブリエラは反省し、それ以来、シュテルンビルトで鳥は捕まえていない。
シュテルンビルトは賑やかで、数え切れないほど、それこそ星の数ほど人がいる。
しかし、ガブリエラは孤独だった。
会話する者がいないので自然に無口になっていき、言葉を覚えるためのビジネス会話講座の復唱を繰り返して口にした。ルーシー講師の明るい声や、ステルスソルジャーのおおらかな姿に少し救われる。
どこに行くときも、必ずラグエルの右前足の蹄鉄を常に持ち歩いた。フリーズドライでも缶詰でもないまともな食事に最初は感動していたのに、ひとりでもそもそと食べることに慣れると、とたんに作業のような時間になっていく。
寝る前には旅の間にいろいろな人と交換したピアスを綺麗に並べ替えながら手入れをし、おやすみなさいと挨拶をして眠る。毎日日替わりでピアスを入れ替えていたが、いちどに多くのピアスがしたくて、ホールを増やしていく。
結局、ガブリエラの耳には左右3つずつのピアスホールが空くことになった。
「うっ……うええ……」
ぐずぐずと泣きながら、ガブリエラは夜のブロンズステージを歩いていた。
寮の門限はもう過ぎようとしているが、ガブリエラはもうそんなことに頭が回らなかった。
この日ガブリエラは、ひどく落ち込んでいた。パニックを起こしていた、と言ってもいい。アカデミーの授業も、初めてまる1日休んでしまった。
昼間もバイトを休んで部屋に篭り、おいおい泣いて、うるさいと隣の部屋の住人に壁を叩かれ、また泣きながら外に出てきたところだった。
なぜなら、言葉が少し分かるようになったことで、ガブリエラは己の能力でヒーローになるのが難しいことを、今更ながらやっと理解したからだ。
ひっくひっくと激しくしゃくりあげながらよたよた歩くみずぼらしい子供を、すれ違う人々が遠巻きに見ていく。
「すみません、このマーク、見たことがありませんか」
眼鏡をかけた金髪の青年が、何かマークが書かれたビラのようなものを持って通行人に話しかけている。ガブリエラは、その後ろを通り過ぎた。
「すみません、どんなことでもいいんです……」
見知らぬ青年の、縋るような声が遠くなっていく。
ネオンがぎらぎらと眩しい繁華街。土産物屋にはヒーローカードが並び、グッズもいくつか陳列してある。「君もヒーローに!」という煽り文句とともに大きく飾ってあるMr.レジェンドの大きなフィギュアを見てまた涙がこみ上げてきたガブリエラは、明るい道から逃げるようにして細い路地に入り込む。
「やめなさいよ! 誰か! ちょっと誰か! いないの!?」
その時聞こえたのは、女の声だった。
しっかりしてよく通る声はおそらく表の通りまで聞こえているだろうが、それだけにあまり悲壮な感じはしない。ガブリエラは反射的に、ふらふらとその声がする方に足を向けた。
奥まった路地を覗き込む。すると突き当たりに、露出の多いドレスを着て派手な髪型とメイクをした女と、それに詰め寄る小汚い男たちが3人いた。
飛び散ったプラスチック部品が見える。防犯ブザーだ、とわかった。無論、役目を果たせそうな状態ではない。
「誰か!」
「誰も来ねえよ、ブス!」
女が喚く声に誰も反応しない様子に、男たちはゲラゲラと見た目通りの下品な笑い声を上げていた。女の額に青筋が浮く。
「はァ!? ブサイクがブスとか言ってんじゃないわよ! 死ね!」
「なんだとこのアマァ!」
威勢のいいやり取りがされる中、ガブリエラがふと横を見ると、ここらの店のものか、それとも単なる不法投棄か、空き瓶や湿ったダンボール、雑誌などが打ち捨てられている。ちょろちょろという水音をたどって目線を動かしてみると、錆びて穴の空いたパイプから排水が漏れ落ちていた。
「クソッタレ、腰抜けしかいないの!?」
その叫びに、ガブリエラはぴくりと肩を震わせた。
黴と汚物の臭いがする湿った狭い路地。だがガブリエラは、荒野を思い出していた。何もかもが乾いた、地平線まで続く絶望的な大地。無数に埋まった地雷が命を平等に奪い、亡霊が住む墓場。腰抜けから容赦なく死んでいく場所。
挽肉になった男。土煙に紛れて粉々になった“彼女”。
ガブリエラが助けなかった人たち。
「──誰か! 助けて!!」
とうとう弱りきった、悲痛な声。
その瞬間、ガブリエラは空き瓶をひっ掴み、いちばん近い場所にいる男の頭に思い切り投げていた。
「何だ!?」
テレビドラマや映画では簡単に割れる酒瓶だが、現実のそれは非常に頑丈で、人の頭のようにやわらかいものに当たったぐらいでは割れない。割れるのは、もちろん頭の方だ。
声もなくいきなり倒れた仲間に他の男ふたりが驚いている間に、ガブリエラは錆びたパイプを壁からむしり取り、思い切り体勢を低くして、最も大柄な男の下半身めがけて力いっぱい突き出した。
「ガキ!? なんだこいつっ──」
ガブリエラが突き出した鉄パイプを、男が間一髪で足を上げて避ける。思わずにやりとした男だったが、その時にはすでにガブリエラはパイプから手を離していた。そして自分の手元の方、曲がっている部分を思い切り足で地面に踏みつける。
課題で学んだ“てこの原理”によって、地面に落ちた鉄パイプが数倍の力で跳ね上がる。そしてそのパイプの先は、男の足と足の間にあった。
跳ね上がってきた鉄パイプが股間にジャストミートした男は、目玉が飛び出そうなほど目を見開き、息もできないという様子で股間を押さえて膝をついた。
「ひっ……」
あっという間に仲間ふたりが伸されてしまい、残ったひとりは何が起こったのかわからない様子で腰を引いた。その姿に確かな怯えを見て取ったガブリエラは、男から目を離さないまま、最初に投げた酒瓶が転がってきたのを素早く拾い上げる。目がNEXTの発動光で青白く光った。
「──ヴヴヴヴヴ、グァルアアアアアアアアアアッ、ギィイイイアアアアア!!」
「ひいいいい!!」
ガブリエラの能力は、言わずもがな果てしなく無害である。
しかし暗闇の中で目を光らせ、酒瓶を壁に叩きつけ、鋭利なガラスを振りかぶって獣そのものの雄叫びを上げた得体の知れない子供に完全にびびった男は、飛び上がると同時にそのまますたこらと逃げていった。
ガブリエラは油断せず、男が逃げていった方向をまばたきもせずじっと見つめる。
「な……、な、なに?」
わずか30秒もしないうちの出来事に、助けを呼んだはずの女は目を白黒させていた。フーフーと息を荒げている子供を、彼女は恐る恐る見る。
「た、助けてくれたのよね? ……ヤク中とかじゃないわよね」
後半は若干びびりながら、女は恐る恐るガブリエラの様子を窺う。
「ね、そのビン離した方がいいと思うんだけど……」
助けてくれたガブリエラに礼をする気持ちはあるものの、チンピラ3人をあっという間にノックアウトし、また獣じみた動きと迫力に彼女もまた“引いて”いた。ガブリエラが手にした割れ瓶を地面に落とすと、少しホッとした様子になる。
しかしガブリエラがこちらを見ると、またびくつく。
「な、何? じゃなくて、えーと、大丈夫?」
「……う」
「ど、どしたの? どっかケガした?」
「うあ……」
ガブリエラの顔が、ぐしゃりと歪む。
「うあああああああああああ」
「ええー……」
天を仰いで盛大に泣き出したガブリエラに、女は呆気にとられると同時に途方に暮れた。
「こ、怖かった? まあ怖いわよね、正直あんたのほうが怖かった感じではあるけど」
「ア────────」
「いやいやいやウソウソ、怖くない、怖くないわよー、全然怖くなーい」
「アアアアアアアアアアアア、アアアアア」
「どうしろってのよこれ……」
上を向いたせいでフードが取れたガブリエラは、ただわんわん泣いている坊主頭の子供だった。女が呆然としていると、ファンファンと今更のパトカーの音がする。
「通報があったんだが、──どれが被害者だ?」
路地裏の惨状を見て、やる気のなさそうな警官が半目で言った。
女とガブリエラは、無論ではあるが無罪放免になった。
ちびで、痩せっぽちで、わんわん泣いている子供のガブリエラが大の男を複数人ノックアウトしたことについて警官たちは全く信じる気すら見せなかったものの、女を助けようとしたことについては「勇気のある坊主だ」と色々間違った褒め方をした。
男たちは怪我をしていたので救急車で運ばれたが、命に別状はなかったし、余罪もあったため特に誰も同情しなかった。
迷子の挙句に路地裏で危険な目に遭って泣いていた、という扱いになったガブリエラは身分証からヒーローアカデミーに無事送り届けられた。
難民が不慣れな都会で迷子になったという説得力のある事情、そして非力な能力であるにも関わらず女性を助けようと勇気ある行動をしたとみなされ、ガブリエラの門限破りも特別に不問にされた。
だが皆に褒められているあいだじゅうガブリエラはずっと泣いていたし、更に褒められれば褒められるほどぶすくれていた。
「ふーん、それで泣いてたのね」
後日、ちゃんとお礼が言いたいとわざわざ連絡してきた女──シンディは、行きつけだというダイナーでガブリエラに食事を奢りながら、ガブリエラがぼそぼそと、しかもカタコトで話す事情を根気よく聞いていた。
ヒーローになれもしないのにひょんなことから大袈裟にヒーロー扱いされて拗ねていたガブリエラだが、久々に人と長く話すのは新鮮で、ビジネス会話講座で仕入れた語彙をたどたどしく使いながらシンディに事情を説明した。
「確かに、あんたの能力だと七大企業ヒーローはまずムリね」
「うううううう」
「あーもー、泣かない泣かない。ほら拭いて、もっと食べな」
ぼろぼろと涙を流したガブリエラに、シンディはむしり取ったペーパーナプキンを渡した。ガブリエラはそれで涙を拭き、そして鼻水がたれているままチキンオーバーライスを口に入れた。「きったないなあ……」とシンディが嫌そうに呟く。
「元々、最近は七大企業以外のヒーローはもうほとんどテレビにも写んないしねえ。昔はワイルドタイガーとかいたけど、ぜーんぜんパッとしなくなっちゃったし」
「ワイルドタイガー」
「あれ? もしかしてファン?」
「ファン? ファン……、好き、ファイヤーエンブレム」
「へー、通な趣味ね」
通、の意味がわからなかったので、ガブリエラはただ鼻水をすすり上げた。しかし「だから汚い! 鼻水はすすらないでちゃんとかめ!」ととうとうシンディに怒られたので、慌ててペーパーナプキンで鼻をかむ。
とめどなく流れてくる涙と鼻水のせいでペーパーナプキンがなくなると、先程料理を運んでくれた無愛想な顔の巨漢のマダムがやってきて、無言でペーパーナプキンを補充していってくれた。
「うーん、でもそっか、そういうことなら……」
シンディは手を口に当てると、何か思案するような表情をした。
「ちょっと行って聞いてみよっか」
「む?」
「どこにでも情報通ってのはいるもんよ」
無駄足かもしれないけど、何もしないよりはいいでしょ、とシンディは言って、ダイナーのソファから立ち上がる。ガブリエラは最後のポテトを慌てて口に入れると、さっさと店を出ていこうとする彼女の後ろを小走りに追いかけた。
シンディがガブリエラを連れてきたのは、ブロンズステージの古い街角だった。
大昔のシュテルンビルトの町並みがそのまま残っている風情ある景観で歴史的価値も高いため、最下層のブロンズステージでありながら、場所によってはゴールドステージより土地も家賃も高いとされる一角である。
シンディはその中でも、石造りの堅牢かつロマンティックなデザインの扉の前で立ち止まり、巨大なノッカーを鳴らした。ピピ、と小さな音がしたので顔を上げると、カメラがある。建物は古いが、最新のシステムが導入されているようだ。
同じくどこかにあるらしいマイクに向かってシンディが何か言うと、内側から屈強な男が扉が開けてくれた。
更に中に進んだ奥に鉄扉があり、開くと、地下に降りる階段が姿を表した。
「お久しぶりねえ、シンディ」
螺旋状になった階段の奥にいたのは、ブロンドをゴージャスに大きく巻いてセットした、ドレス姿の美女だった。
豊かなまつ毛に飾られた、濡れたエメラルドのような目。ふっくらした唇には、真っ赤な口紅が完璧に塗られていた。露出の多いドレスで顕になった肌のすべてがやわらかく光り輝いていて、まるで彼女自身が真珠の化身のようだ。しかしその白い胸元にちょんとひとつだけほくろがあり、凄まじい色気を放っている。
彼女があまりにも美しいので、ガブリエラはその奥がシックでムーディーなバーであることなど目に入らず、目も口も真ん丸に開けて彼女を見上げた。
「久しぶり、ブランカ。ちょっと聞きたいことがあって来たんだけど、いい?」
「ちょうど今暇してたところよ。どうぞいらっしゃい」
にっこりと夢のように微笑むブランカに促されて、ガブリエラはシンディと一緒に高級そうな店の中に入った。
個室に通され、置いてあるふかふかのソファにシンディが腰掛ける。ソファはとても柔らかそうで、見るからに高級そうだった。先週洗濯したきりの、膝の破けたズボンを履いているガブリエラはおろおろと混乱した挙句、その足元にちょこんと座る。
ラグが敷いてあるとはいえ床に座ったガブリエラを見て、シンディは呆れ果てた顔をした。しかしブランカは少し目を見開いた後、美しく塗られた爪先の手を優美に口元に当て、「あらあら、ワンちゃんみたい」と言ってウフフと笑った。
ガブリエラは、そんな彼女をうっとりと見上げる。
「あなたははじめましてねえ。いらっしゃい。ジュースでいいかしら?」
「あ、あ、ありがとう。あの、ガブ、汚い。ごめんなさい」
「だから床に座ったの? 賢い子ね」
美しく微笑むブランカに褒められて、ガブリエラは幸せな気持ちになった。思わずふにゃふにゃと笑い返しているガブリエラは、シンディが今や完全に引いた顔をしているのにも気付いていない。
「ちょっとブランカ、子供を変な道に目覚めさせないで」
「でもこの子、すごく素質があるわ。くれるの?」
「犬の子じゃないんだから。今日はそういう話じゃなくって──」
シンディは、ガブリエラの事情について簡潔に説明した。
「そうねえ。参考になるかはわからないけど……。その子と似たような状況の子なら知ってるわよ」
「似たような状況?」
「『ザ・アドニス』って知ってる?」
「ああ、こないだ引退した、超イケメンヒーロー? 香水の……」
「ヒーロー?」
ガブリエラがヒーローという単語に反応して声を出すと、ブランカが目を細めて微笑み、頷いた。
「そうよ。ヒーロー免許を持ってないタイプのね」
つまり、ヒーローという職業が出始めた頃。
超難関のヒーロー免許を取得した上で犯罪事件を追うのではなく、単に広報担当のマスコットキャラクターやコンパニオンとして存在する、なんちゃってヒーローのことだ。社名そのままのきぐるみヒーロー、と言いつつの単なるゆるキャラなどもいる。
しかしスリル満点の本物の事件と戦う正式なヒーローたちの人気が高沸したことにより“なんちゃって”感がバカにされ始め、現在はほとんど廃れている。
「えーっと、ああ、これこれ。やっぱりすっごい美人ねえ、私の好みではないけど。あんた見たことない?」
シンディが通信端末を操作して、液晶画面をガブリエラに向けた。手のひら大の画面に表示されている画像は、しなやかな身体にピッタリと張り付くアーティスティックな衣装を纏ってポーズを決めた、非常に美しい男性だった。
顔立ちはくっきりしているが非常に中性的で、顔だけなら女性にも見える。年齢は、少年から青年になったばかり、というくらいだろうか。だがその微妙な年齢だからこそ、凄まじい美しさと色気がある。
しかし見覚えは全くなかったので、ガブリエラはふるふると首を振って通信端末をシンディに返した。
「アドニスの能力は、“触れたものを半日の間いい匂いにする”ってものなの。でも香水メーカーのヒーローだったからピッタリだし、何よりこのルックスでしょ。モデル兼マスコットで結構人気だったのよ」
ゆっくり話してくれるブランカの言葉を、ガブリエラはふんふん頷きながら聞いた。
「色々あって引退したけど、ヒーロー向きの能力じゃないけど一応ヒーローをやってたってことで、あなたと共通点はあると思うわ」
「わかる」
ガブリエラは、こくりと頷いた。
「でも、正直あんまり頼りになる感じではないのよねえ。だから気休めかもしれないし、何の参考にもならないかもしれないけど──」
会ってみる? というブランカに、ガブリエラはおそるおそる頷いた。