#132
ライアンが、ガブリエラのベッドのマットレスに突っ伏していたその頃。
《囚人番号SS42988、アンドリュー・スコット》
《確かにその日、そういったことがありました》
薄暗い部屋。
モニタの光だけが煌々と輝くその部屋で、ユーリ・ペトロフはデスクに向かっていた。彼が見ているのは据え置き端末のモニタではなく、その横に置いてある、動画の表示されたモバイル端末である。
《国土面積世界最小》
《それに付け入った他国の侵略で滅亡》
《4つのシンボルを分ける十字と》
時折動画を細かく巻き戻し、早送りしたりしながら、ユーリは小さくメモを取る。
動画は、アンドリュー・スコットの面会映像。復讐に全身全霊をかけていた頃の彼を知っていれば、その表情がやや柔らかいのはすぐにわかる。しかしユーリが見ているのは、そんなところではなかった。
《メモをお借りしても? ああ、どうも》
『セラフィムの輝き』の紋章を描くシーンで、ユーリは動画を一時停止した。カーソルを操作し、画像を拡大する。書き物をするためにやや俯いた彼の眼鏡に写り込んでいるのは、数桁の数字。──おそらくは、彼がメモの端に最初に書き込んだもの。
《それこそ総本山に確認してもいいのでは?》
メモを4回折りたたみ、右側へ。止まった時計の時刻。
《父の時計を直そうと思うのですが、部品と道具が足りなくて。調達していただけると助かるのですが》
記号と数字で構成された部品名がいくつか。そして、15分の面会時間が終了。
ユーリは動画を止め、幾つかの数字を書き留めた自分のメモを見返しながら、引き出しに入れたものを取り出した。それはセキュリティロックも何もない、ただ紙の封筒に入った手紙である。
アンドリュー・スコットの名前で借りられた、多くは私書箱として利用されるレンタルメールボックスに入っていたもの。
他の3人はともかくとして、アンドリューの面会に違和感を感じたユーリはその動画ファイルを持ち帰り、検証することにした。
その結果、彼がいくつかのキーワードや数字を示しているのではと気付いた彼は、アンドリュー・スコットの名前で借りられているレンタルメールボックス、しかしデジタルのそれではなく、いわゆるアナログの私書箱を探した。受刑者にインターネット接続を禁じている刑務所では、外部とのやり取りは検閲が入る原始的な手紙のやり取りだけだからである。
ボックスには、三重のパスワードがかかっていた。
パスワードを忘れやすい者のためのヒント機能も設定されていて、ひとつめは“最初の数字”、ふたつめは“次の数字”とあり、みっつめは“あなたの名前”とあった。
ユーリが入力したのは、まずひとつめに彼の囚人番号。ふたつめは、受刑者のNEXT能力に関する検査が行われた日付。
そしてみっつめは、──“LUNATIC”
ボックスは開いた。
何の変哲もないまっとうな開け方であるので、誰も不審には思わない。完全にアナログな代物であるボックスはネットにも繋がっていないため、受取人ログなどもそれ自体残らない。
ユーリは、中に入っていた1通の手紙を持ち帰った。宛名はアンドリューの父親になっている。
手紙の内容は、何の変哲もないものだった。
刑務所内での近況を綴った手紙は、反省を促すために天国の父に向かって書いている、と分かる内容である。これなら刑務所の検閲も問題なく通るだろう。
しかし、文章内に部品の名前が妙に多く出て来る。彼の父は設計事務所を経営していた技術者で、アンドリュー自身がその専門知識を持っているので不自然ではないのだが、何かというと記号や数字が並び、遠目で紙面を見ると、手紙というよりはわかりにくい発注書のようである。
何度かその手紙を読み返したユーリは、今度は別の端末を立ち上げる。呼び出した画面は、ゲームだった。
しかし、ただのゲームではない。アンドリューの父が設計事務所を経営し始めた頃に作った、コンピューター・パズルゲームである。手紙の中にも、父子揃ってそれで遊んだ思い出が綴られていた。
それは計算やアナグラム、あるいは図形などを用いて頭の体操をするような、頭脳系パズルゲームだった。
調べてみると、理系の学生や高学歴の大人が熱中してにわかに話題になってはいたが、女子供には全く見向きもされていなかったマイナーなゲーム。予想外に、ユーリも素直に面白いと思うようなゲームだった。続編が出ないのが悔やまれるほどに。
ゲームにはフリーモードがあって、自分で問題を作ることが出来るようになっている。かつてはお互いにゲームを作り合い、皆で解くようなオンライン・コミュニティもあったようだ。
ユーリはフリーモードを立ち上げ、もう何度目かにもなる問題作成をした。
まずフィールドを作成する。
◯◯教の総本山がある、コンチネンタルノースエリアにある国土面積最小の国の面積の数字を打ち込む。そしてかつての王国が滅亡したと言われる年号でタイム設定。できたエリアを4つに分けて、アンドリューの眼鏡に映った番号を入力。
メモを4回折りたたんで、右側に置いた。つまり4つに分けたエリアを統合して右側の列の数字をキープ。空いた欄に、止まった時計の時刻を入力。
問題が完成し、ゲームのルールに従って、コンピューターが計算結果の数字を弾き出す。最後に出てきた15文字の回答入力欄に、ユーリはアルファベットと数字の羅列を入力した。
彼が面会の最後に行った部品のリストと、手紙の中に登場する部品のリストを比べたうち、ただひとつ一致しない、面会の時だけ彼が口にした部品の名前。
《CLEAR!!》
パパーン、という可愛らしいファンファーレとともに、ゲームクリアを表す画面が出現した。そして、クリアした問題画面が切り替わる。広大なフィールドにできたモザイクタイルのような画面は、全体を見ると文章になっていた。
書き出しは、こんな文句から始まっている。
──“こんにちは、死神。”
「ふぉおおおおおお」
風が頬を撫でる、というよりは強く擦っていく感触に、ガブリエラは目を丸くしていた。肉が殆どないはずの頬が風圧でぶるぶると震え、その存在を主張する。
速い、とても速い。ラグエルよりも速く風を裂くバイクという代物に、ガブリエラは呆気にとられ、そして感動していた。
「もォすぐ着くぞォ!」
バイクを運転している男が、大きな声を張り上げる。
キャンディスたちのモーテルから、ガブリエラは道なりに建っているモーテルごとに、飲み比べや能力を使って金を稼いではヒッチハイクを繰り返し、なんとかここまでやってきた。
あのモーテルもそうだったが、おそらくあのサボテンから取れる薬が流通しているようで、どこも薬物中毒者が多い。
実際、薬を過剰摂取して乱交しながら血みどろになるまで殴り合っている連中だの、親切そうに声をかけてきたが明らかにトランクに死体が入っている車だの、ろくでもない人間が数え切れないほどたくさんいたが、ガブリエラも常に最大限まで警戒し、的確にそれらを回避した。
ガブリエラは、自分の力を把握していた。くそ度胸はついたが、無謀になったわけではないのだ。
自分は多少戦えるが、あくまでそれは自分の身を守るため、逃げるための応戦程度でしかない。相手が薬で前後不覚であれば動きも単純で不意も突けるが、狡猾な薬の売人、あるいは軍人や頭がまともで経験豊富なギャングであれば、渡り合うことなどとても出来ない。
つまりガブリエラには、悪者をやっつける、という力などない。
だからこそ、ガブリエラは人を助けた。怪我人がいれば、必ず手を差し伸べた。悪者をやっつけられない分、そして“彼女”を永遠に助けられない分、困っている人をたくさん助けようとした。
それが自分がヒーローになれる道なのだと、ガブリエラはひたすらに信じた。
そう信じさせてくれたのは、やはりヒーローの姿だ。
シュテルンビルトに近づいていくに連れラジオはHERO TVを確実に受信し始め、ファイヤーエンブレムのラジオ番組もちゃんと聞けるようになった。
泊まるモーテルのテレビもノイズのないHERO TVを放映していて、ガブリエラは初めてきちんと見たヒーローの姿にひどく興奮し、感動してひと晩中泣いた。
女性だと思っていたファイヤーエンブレムが男性だったことには少し驚いたが、そんな些細な驚きを軽々と上回って彼女は素敵で、あの炎のようにきらきら輝き揺らめくマントの夢を何度も見た。
そして車の数が随分多くなってきた頃、ガブリエラは初めてバイクというものに出会った。
ガブリエラの故郷、そして今までのエリアにおいて車は移動手段であると同時に荷車でもあり、宿までたどり着けなかった時のテント代わりになるものなので、バイクは存在しなかったのだ。
馬のように跨って乗る鋼鉄に、ガブリエラはひどく興味を惹かれた。
ガブリエラがまるでとても貴重なものを見るようにしていたせいか、最初に出会ったライダーは、駐車したバイクにガブリエラを跨らせてくれた。
きらきらした目をしてハンドルを握り、またエンジンや計器のことについて割と専門的な質問をしてくるガブリエラにライダーもまた興味が湧いたのか、バイクについて色々と教えてくれた。
そしてバイクに乗っている人々は、車に乗っている人々と比べ、“まとも”である確率もかなり高かった。
なぜならわざわざバイクで荒野に出るというのは、間違いなくモノ好きだ。つまり、都会から来た趣味の人。そういう人間は身ぐるみを剥いだりしてこないし、薬もあまりやっていない。性格もおおらかで、ガブリエラが作った手作り感溢れるアクセサリーを珍しがって買ってくれたりする。
そして、遠くからシュテルンビルトを目指してきたのだというガブリエラに興味を持ち、バイクの後ろに乗せてくれる者も多かった。ヒーローになりたいというガブリエラの希望を笑わず、「それならヒーローアカデミーに行きたいと伝えなければ」と言い、これを見せればわかる、と紙に文章を書いて持たせてくれた、非常に親切なライダーもいた。
「わっはっはっ! いい風だ!」
カマキリの腕のように大きく湾曲し、ふんぞり返るようにして乗るタイプのバイクに乗った男たちの集団は、まさにシュテルンビルトからやってきたのだという。なぜだ、と聞くと、趣味だ、とガハハと笑われた。
彼らはこの大きくて格好いいバイクを格好良く乗り回すためだけに、モーテルからモーテルに旅行しているのだ。都会の人間はやることが違う、とガブリエラは感心した。
「アンジェラお前、身分証とかあるのかァ!?」
「うむー!?」
「ないか!? まあどうにかなるか! はっはっはっは!!」
髭もじゃの、むき出しの丸太のような腕にびっしりとタトゥーを入れた男が、豪快に笑う。
「……む?」
一瞬、囁くような甘い声が僅かに聞こえたような気がした。
しかしバイクから吹き飛ばされないようにしがみつくのが精一杯の中、すべての音は風にかき消され、男の大きな声でさえほとんど聞こえない。それにガブリエラは、次に見えた景色に、完全に心を奪われた。
「ほォら、見えてきたァ! あれが、シュテルンビルトだ!」
遠目にもわかる、縦に3層に別れた、巨大な都市。
1年半以上かけて、ガブリエラは星の街にたどり着いたのだった。
「どこから来たんだろう。見たことない服だな」
「あーもー、荷物取ったりしないから! 身分証ないか見るだけ! チッチッチッ」
「ヴー」
「唸られたぞ」
「う〜ん、まるで野生動物だな」
シュテルンビルト市警の制服を着た人間たちが、ガブリエラを囲みながら言う。
ガブリエラはその言葉の殆どがわからず、ただ、ラグエルの形見や女たちのピアスの入った荷物を取り上げようとする彼らを必死に拒み、親切なライダーが書いてくれた「ヒーローになるので、ヒーローアカデミーに行きたい」と書いたメモをひたすらに突き出した。
ちなみに、ここまで連れてきたライダーたちは「じゃあな!」と力強く親指を立てて、またバイクで走っていってしまった。
シュテルンビルト市は、特殊な場所だ。
同じ大陸に地雷だらけの大荒野が続き、コンチネンタルエリアは大きな海を挟んで別の大陸。そのためシュテルンビルトを含むこのエリアと外国を結ぶ交通ルートは、ほぼ100パーセント飛行機だ。エリア全体をカバーする軍隊も基本的に領空侵犯しか警戒しておらず、犯罪歴やエリア入りの目的などを調べて不法侵入を防ぐ審査システムは、必然的に空港にしかない。
そしてシュテルンビルトには、空港の審査とはまた別に、市内に入る際の手続きがある。
空港での審査は軍がやっているが、こちらの手続きはシュテルンビルト市警が行っている。身分証、多くはパスポートを提示し、シュテルンビルトの市民証があればそのままスルー、そうでなければ滞在期間に応じた生体認証登録をしてから市内に入る。
この手続きを取らずに勝手にシュテルンビルトに入ることも出来なくはないが、シュテルンビルトのあらゆる場所でこの生体認証チェックが用いられている。この手続きをしていなければ、ほとんどの施設に入れず、買い物などもろくにできず、もちろん宿を取ったりも出来ない。
いわゆる入国審査のように試問があるわけではなく、身分証についたコードを機械に1秒スキャンするだけのこの手続きをしない理由はなく、全員がやる。
しかし中世の難民よろしく1年半以上かけて陸路でシュテルンビルトにやってきたガブリエラは、そういった証明書類を全く持っていなかったので、シュテルンビルト市警たちが混乱したのだ。
ガブリエラはとりあえず詰め所に連れて行かれ、そして現在に至る。
今までの旅で言葉のヒアリングはかなりできるようになっているのだが、ならず者や、わざわざ荒野を旅するアウトローなバックパッカーたちが使うスラングの多い言葉と、手続きカウンターの人々が使う固い言葉はまるで違う。
しかも、見たことのないぴかぴかの機械や端が見えないほどの大きな窓ガラスなど、まるで違う世界に来てしまったような緊張で元々おぼつかない文法やボキャブラリーが完全にぶっ飛んでしまったガブリエラは、こうして野生の動物や未開人のような扱いを受ける状態になってしまったのだった。
「やっぱり、無理矢理にでも拘束した方がいいんじゃないか? ヒーローアカデミーに行きたいってことは、NEXTだろ? なんか危険な能力だったら……」
「危険な能力なら、無理に拘束しようとするほうが危ないんじゃないか?」
「子供だし、お菓子あげてみようか。ねえ誰か持ってない?」
頑なにメモをアピールするだけで話が通じないガブリエラを何とか懐柔しようと、警官たちがあれやこれやと手を尽くす。何の騒ぎだ、犬でも迷い込んだのか、と一般人たちが窓からチラチラと覗き込みつつ、シュテルンビルト市内に入っていく。
「あの〜、ヒーローアカデミーの校長先生がいらっしゃったんですけども〜」
「ええ!? ホントに来てくれたのか!?」
ダメで元々で連絡したのに、と、警官がひとり走っていく。
やがて戻ってきた彼が連れていたのは、グレーの豊かな髪をきっちりと7:3に分けた、やや小柄で細面の、壮年の男性だった。少しゆったりしたスーツに、清潔感と愛嬌を備えた蝶ネクタイを締めている。
彼は厚ぼったい目を大きく見開き、興味深いものを見るような笑みを浮かべると、警官の静止も聞かず、躊躇いなくガブリエラに近づいてきた。
「……ヒーロー!」
そう言い、ガブリエラが「ヒーローアカデミーに行きたい」というメモを突き出すと、彼はうんうんと頷き、破顔すると、大きく腕を広げてガブリエラをハグした。
「ああっ、先生! 危ないですよ! 汚れてますし! 何の能力かも……!」
警官が叫んだが、彼はガブリエラを抱きしめ、薄汚れたフードをかぶった頭をぽんぽんと叩いた。
《──よく来たね。私はティモ・マッシーニ。ヒーローアカデミーの校長だ》
頭の中に響いた声に、ガブリエラは驚いて、少し身を離した彼の顔を見た。大きな彼の目は、薄い青色に輝いている。
《──私もNEXTさ。触れていると、考えていることがお互いにわかる。だから、言葉が通じなくても大丈夫。これから覚えよう》
《──ヒーローアカデミーに来てくれたんだね。能力は? ほうほう、回復系だね》
《──素晴らしい。私は君を歓迎するよ!》
にこにこしているマッシーニ校長に、ガブリエラはすとんと腰を抜かして座り込んだ。緊張の糸が切れたガブリエラに校長はおやおやと一緒に座り込み、そしてまた、ガブリエラの埃っぽい、たくさん傷のある、お世辞にも綺麗ではない手を取ってくれた。
《──頑張ったねえ》
皺だらけの校長の手から伝わってくる労いの気持ちに、ガブリエラは、少し泣いた。
マッシーニ校長は、ガブリエラが今まで出会ってきた人の中でも、とびきりの“いい人”だった。
彼の能力は物理的接触によるテレパシーだが、いくらか接すると、マッシーニ校長の考えていることは詳細に伝わってくるが、こちらの思っていることはざっくりとしたことしか伝わらないことがわかる。
つまり心の中を読まれるのはほとんどマッシーニ校長ばかりなのだが、彼はためらいなく他人をハグし、どこもかしこもピカピカで近代的なシュテルンビルトの施設の中でおろおろするガブリエラの手を、にこにこしながら引いてくれた。
彼と接するうちに彼の周りの人々とも顔を合わせる機会があったが、どんなに言葉がわからなくても、誰も彼もが残らずマッシーニ校長を尊敬していることはよくわかった。
もちろん、ガブリエラも彼のことを心から信頼した。この人がヒーローアカデミーの校長先生で本当に良かった、と何度思ったか知れないし、おそらくそれはヒーローアカデミーの生徒全員が思っているだろうことが察せられた。
彼のおかげで、ガブリエラはなんとかシュテルンビルトに入ることが出来た。
回復系の無害な能力であるとわかった途端に警官たちも対応が柔らかくなったし、ラグエルの形見や女たちから貰ったピアスも取り上げられることはなく、ガブリエラは本当にほっとした。
しかし、何か病気を持っていないかどうかの検疫だとか、ガブリエラや荷物全体の消毒だとかに始まり、まだ子供であることからワクチン類の注射を打たれたりと、始めの1週間くらいは病院で体中を検査された。
ガブリエラの能力の影響で異様なほど巨大になったノミとシラミがいて大騒ぎになり、汚れて絡まった赤毛はやむなく丸刈りにされた。幸い寄生虫はいなかったものの、ノミとシラミを駆除すると急に身体が楽になったことから、生き物に常時寄生されることはガブリエラにとって普通より大きな負担になることがわかった。
だがそのことを除けば、栄養失調の発育不全であることくらいで、ガブリエラは概ね健康であった。野生児だけあって五感も平均より鋭く、体力もある。
次に、知能検査とカウンセリング、学力テスト。
結果として、ガブリエラにはいくつかの学習障害と発達障害の傾向がやや見受けられたものの、知能自体に遅れはなく、一般で生活を送るに問題なし、と診断された。
性格も基本的に人見知りをせず、あらゆる差別意識はむしろ非常に薄く、親切にされれば親切を返すだけの社会性もある。何もなければおとなしく過ごせるし、教えられればルールも守れるので、施設の人々からの印象も概ね良好だった。
しかし旅する間に自分の名前さえ書けなくなっていたガブリエラの学力は、ぶっちぎりの最低値を叩き出した。
何しろ今まで旅をしてきた上で、ガブリエラは長い文章を読んだり、三角形の面積を求めたり、水が沸騰する時の温度を知る機会などいちどもなかったのだ。
与えられた課題のうちでガブリエラができたのは、異様に速い四則演算と、天動説の一般的な説明だけだ。試験官はまるで未開人を見るような目をして顔を引きつらせていたが、ガブリエラは彼のリアクションの意味も理解できなかった。
それが終われば、名前や出身地などの事情聴取。ここでも、マッシーニ校長にたいへんに助けられた。言葉が不自由であるため、能力を使っての意思疎通に協力してくれたのだ。
しかし、ガブリエラがどこからどうやってここに来たのか説明し、地図を見せても、どうしても事務官がそれを信じてくれない。結局「子供なので上手く説明できないのだろう」ということで落ち着いてしまったが、マッシーニ校長が「本当なのにねえ」と苦笑して言ってくれたので、ガブリエラはまあいいかと、事実とやや異なる決定に甘んじた。
また、アンジェラが洗礼名で本名がガブリエラであるということもマッシーニ校長が察し、ちゃんと説明してくれた。
「ああ、だからガブガブ言ってたのか。自分の事をcubって言ってるのかと思った」
そう言って笑った事務官は、新しく作られた身分証に、ドンとハンコを押した。
身分証に記載された名前は、ガブリエラ・ホワイト。姓がわからなかったので、ホワイトという姓は、ガブリエラが故郷で身を置いていた、アンジェロ神父のあの教会が白い教会、ホワイトチャペルと呼ばれていたところから取った。
ガブリエラ・ホワイトは、ひとまず、難民としてシュテルンビルトに迎え入れられた。
ひとまずの学生ビザがどうこう、と説明されても正直よくわからなかったのだが、とにかく2年以内にヒーローアカデミーを卒業すればちゃんと市民証がもらえる、つまり余所者ではなくなると理解したガブリエラは大きく頷き、次にやるべきことと具体的な目標が決まったことに背筋を伸ばした。
こうして無事にシュテルンビルトでの身分が出来たが、それで終わりではない。
最後に、NEXT能力の検査である。
今まで登録のなかった能力であるせいで、たくさんのことを調べられた。しかしまったくもって他者に無害な能力だったおかげか、検査センターの人間は皆親切で、病院の者には能力を羨ましがられた。
能力を使うため、ということで食事もたくさんさせてもらえたし、病院も施設も清潔で、ガブリエラは快適に検査を終えた。
ガブリエラの能力は、『摂取カロリーを消費し、他人の細胞の活性化を促す能力』と登録された。
NEXT能力にはレベル検定があり、能力の強さや周囲への影響力を、SS、S、以下ABCとランクづけしている。レベルCはほとんど一般人に近い些細な能力、レベルBは本人の生活に影響を及ぼすもの、レベルAが自身だけでなく周りに影響があるとみなされたNEXT。Sは周囲に深刻な影響を及ぼすNEXTで、一部リーグヒーローのほとんどはレベルSだ。
ヒーローアカデミーへの入学が認められるのは、レベルBから。ヒーロー免許取得が可能なのはAから。Sともなるとヒーローアカデミーへの入学は義務となり、無視すれば法的な違反とみなされ、強制的に連行される時もある。
ガブリエラの能力は、レベルSの判定を受けた。
能力によってガブリエラは生命活動に必要なエネルギーを消費するという大きな影響があり、また能力を行使した相手はノーリスクで怪我が治るという、劇的な影響がある。そういう意味でのSである。まったくもって他人に無害、むしろ好影響でありながらSという、やや珍しいパターンだった。
ガブリエラは、それを喜んだ。
ヒーローを目指せるレベル判定だったということがもちろんいちばんの理由だったが、アカデミー入学が義務付けられたSレベルであれば学費が全面免除となるし、アカデミーが提供してくれる食事付きの学生寮も格安で利用できるからだ。
最初にそれを聞いた時、ガブリエラはあまりの厚遇が理解できず、しばらく何か騙されているのではと思ったほどだった。
最終的にマッシーニ校長に丁寧に説明を受け、ここは皆が豊かなので、自分のような貧乏人に施せる余裕があるのだという理解をした。
ガブリエラは都会の凄さをしみじみと実感しつつ、マッシーニ校長が付け加えた、「君もちゃんと生活できるようになったら、市民として、そしてヒーローとして皆や社会に貢献しましょう」という言葉を噛み締め、頑張ろうと改めて心に決めたのだった。
荷物を背負ってヒーローアカデミーのトレーニングウェアを着たガブリエラは、いよいよ検査施設を出て、シュテルンビルトに足を踏み入れた。
きょろきょろとお上りさん丸出しのガブリエラは、指導員に手を引かれてヒーローアカデミーへの道を歩く。
きらびやかな街の明かりに呆気にとられていたら、3Dホログラムの広告にびくつく。見たこともないほどたくさんの車、バイク、信号のある複雑な道。初めて見る電車、モノレール、賑わう店。鳴り響く音楽、喧騒。溺れてしまいそうなほどの情報量に、ガブリエラは目を回しそうだった。
最上階のゴールドステージに行かないと空はろくに見えず、見えるのはステージの隙間の角張った小さな空だけ。だが巨大な建造物郡は飲み込まれるような迫力があって、狭苦しさは微塵もなかった。
沢山の人がいる。
シュテルンビルトは人種のサラダボウルだからね、とマッシーニ校長が言ったとおりだ。様々な肌の色、髪の色、目の色、体格、判別しきれない性別、千差万別のファッション。
しかし、どこを見ても、ガブリエラのような赤毛は見当たらない。
オレンジがかった色や、どう見ても人工的な赤毛は時々いるのだが、今は丸刈りになっているガブリエラと同じ、熟れたトマトのような髪の者はいなかった。
こんなに人がいるのにやはりいないのかと思いながら、ガブリエラはおっかなびっくり、巨大な交差点の信号を待つ。シュテルンビルトには数メートルおきにある信号も、ガブリエラが初めて体験するもののひとつだった。
──さあ、始まりましたHERO TV!!
派手な音楽とともに、街頭の巨大モニターが、全くノイズのない映像でヒーローたちの活躍を映し始める。きらきら輝く彼らを、ガブリエラは憧れの目で見上げた。
「シュテルンビルトにようこそ! 今日からここが君の街だ!」
マッシーニ校長に迎え入れられ、アカデミーの敷地に足を踏み入れる。
ガブリエラはこうして、また新たな1歩を踏み出した。