#131
「──殺して!」

 ブロンドを振り乱しながら、喉が破れんばかりの声で女が叫ぶ。
 手当たり次第に銃を乱射する男に、ガブリエラはすかさず鋼鉄製のドアの影に隠れた。このドアなら大抵の銃弾を通さないからね、とキャンディスが掃除の仕事と一緒に教えてくれた言葉のとおり、ドアは銃弾を完璧に防いでくれた。

 どうしてこうなったのか。

 酒場が賑わう夜、約束していた客が来たというのにヴィクトリアの姿が見えないので、ロデオゲームを終えたガブリエラは、ボーイたちを手伝ってヴィクトリアを探しにモーテルの敷地内をうろついた。
 するとこのモーテルの常連であり、そして最も嫌われている大柄な男が、白い猫を抱いているヴィクトリアの髪を引っ張って、自分の部屋に引きずり込もうとしているのが見えた。

 ヴィクトリアが抵抗したことに、男は驚いたようだった。ガブリエラも驚いた。ヴィクトリアは名前に似合わず気弱で温厚で、悪くいえばいつもされるがまま、流されるがままの、美しいだけの普通の女である。しかしその時、なんとヴィクトリアが、手に持っていたナイフで男を刺したのだ。
 だがヴィクトリアのウエストとそう変わらない太さの腕に、女の非力な力で半端に刺さったナイフは、見るからに大したダメージではなさそうだった。

 元々“頭がおかしい”傾向がある上にヤク中の男は小さなナイフで刺されたことで容易く激昂し、支離滅裂なことを喚き散らしてヴィクトリアを殴りつけ、部屋の中に放り投げた。
 ガブリエラは慌てて追いかけて部屋に飛び込み、男の腕から抜けたナイフを拾い、ベッドの上でマウントをとられてぼこぼこに殴られているヴィクトリアの名前を呼んだ。
 パニックを起こした白猫が、ミギャアア! とものすごい声で鳴き、それに苛ついた男が銃を取り出して発砲。今に至るというわけだ。

「殺して! そいつを殺してよ、──アアアアアアア!!」
「うるせえ黙れ! お前から殺すぞ!」

 ヒステリックに喚くヴィクトリアに向かって、薬のせいで呂律の回っていない声で男が怒鳴り、引き金を引いた。パァン、と妙に軽い銃声。しかし彼女は力いっぱいわあわあ泣き喚いているので、当たったわけではないようだ。薬で頭がやられた男では、狙いなどつけられない。しかしその分、どこに弾が飛んで来るかわからなかった。
 だがいつ爆発するかわからない地雷の上を歩くことと比べれば、やはりなんてことのない脅威だ。気をつけさえすればどうにでもなる危険など、股が濡れるほどでもない。

 ガブリエラは転がっている壁の破片を掴むと、自分や女とは逆の方に思い切り投げた。

「死ね! 死ねっ!」

 壁に当たった破片の音に対し、男が銃を撃ちまくる。一応銃声を数えていたガブリエラではあるが、がちがちとトリガーが空音を立てるのを聞いて、男が弾を打ち尽くしたことを確信する。
 予備のマガジンがあるかどうかはわからないが、身につけてはいなかった。装填するにしても時間がかかるはず。その予想通り、男は悪態をつきながら、ベッド脇の引き出しを手当たり次第に開けてマガジンを探していた。ベッドの下から、フシャーッという猫の威嚇が聞こえる。
 ガブリエラはナイフを逆手に持ち、体勢を低くして飛び出した。男が飛びかかってくるが、ガブリエラにはスローモーションにしか見えない動きなので、難なく避ける。男はそのままガラス窓に突進し、窓が粉々に砕けた。
 ぎゃあああ、と喚いている男の太い首に向かって、ガブリエラは細いナイフを垂直に突き刺す。途端、男が動かなくなった。

 生き物は心臓が動いている限り生きているが、脳と体を繋ぐ首を損傷すると動けなくなる。
 だから狩りの獲物を処理する時は心臓が動いているうちに首を切り効率よく血抜きをするのだということを、ガブリエラは村で習った。そしてこの仕組みは、ガブリエラの奥の手にもなった。首を刺せば動かなくなるが、まだ生きている。首の怪我を能力で治せば、元通りになるのだ。

「アンジェラ! 生きてる!?」
「いきてる」
「ねこちゃんは!?」
「いきてる」
「テレビ!!」
「死んだ」

 キャンディスが銃を手に乗り込んできたので、ガブリエラは簡潔に答えた。
 めちゃくちゃになった部屋と壊れたテレビを見て、彼女は「クソッタレ!」と、苦虫を噛み潰したように言った。部屋の片付けと、修繕費について思いを馳せているのだろう。

 更に後ろからやってきたモーテルのボーイ、兼用心棒たちから手錠を借りたガブリエラは男の手足を手際よく拘束し、そして首の怪我に手をかざした。早くしないと身体と接続が切れた脳が死んで、心臓だけが動いている状態になってしまう。そうなると、治せても全く元の通りにならないかもしれないからだ。

「──治さないで! そのまま殺して!」

 その叫びに、ガブリエラは振り返った。
 涙と鼻水、血、腫れ上がった顔。びりびりに破れた服。ダイヤのピアスだけが、場違いにきらきら光っている。ヴィクトリアは血走った目をして、ガブリエラに向かって叫んだ。

「あんた、天使なんでしょ!? ヒーローになるんでしょ!?」
「アンジェラ、無視しろ」
 ヴィクトリアとガブリエラの間に身体を割り込ませ、キャンディスが言う。ガブリエラは頷き、男の首に能力を使った。傷がゆっくりと治っていく。
 しかし壁に背を預けて座り込んでいたヴィクトリアが立ち上がり、髪を振り乱してこちらに近寄ってきた。
「やめてったら! そいつがどういう男か、みんな知ってるでしょ!? 殺してよ、──殺して! 悪者をやっつけるのがヒーローでしょ!? やっつけてよ、殺してよ!」
「おい、黙れ」
「殺してよォ!! 困ってるんだから、助けてくれたっていいじゃない!!」
「よーし、いいか、よく聞け。──困ってるってんならあたしもだよ!!」
 泣きながら喚きたてるヴィクトリアに、モーテルの揉め事に慣れきった黒人女は、うんざりしたように怒鳴った。

「あんたがどれだけひどい目にあったかはだいたい知ってるし、知らないところもだいたい想像がつく。でもあたしはこのクソ客から宿泊費と! 迷惑料と! 修繕費を巻き上げなくちゃいけねえんだよ! あんたが払ってくれるの!? そうじゃないなら黙ってな!!」

 シン、と場が静まり返った。
 そしてその後、わああ、とヴィクトリアが泣き始める。キャンディスはため息をつき、ガブリエラに「治った?」と聞いた。

「……治った」
「よーし」
 キャンディスはボーイたちに命じ、男の意識、つまり金が払える状態かどうかを確認した。問題なかったらしく、ボーイたちが数人がかりで男を運んでいく。
 あとに残ったのは、ヴィクトリアという勇ましい名前がまったく似合わない悲惨な女と、逞しくモーテルを経営するマッチョな黒人女と、血まみれのナイフを持ったみすぼらしい子供だけだ。

 ガブリエラは、下唇を噛み締めた。
 そして、フードの下から、悲痛な声で泣いているヴィクトリアを見る。青あざと血だらけで、髪はぼさぼさ。服も無残に破れた彼女の側に、ガブリエラは駆け寄った。そして能力を発動し、その怪我を治してやる。いつも、彼女が男に殴られた後にしてやるように。

 ──ああ、あのひとにも、せめてこんなふうにしてあげられていたら。

 土煙に紛れて粉々になった、見知らぬ華奢な女性。亡霊になって、きっとまだあそこにいるだろう彼女。ガブリエラが助けようともしなかったひと。
 あの施設が刑務所だったのなら、きっと彼女も受刑者、犯罪者だったのだろう。しかし、あんな風に殺されてしまうほどの罪とは一体何だろう。どれほどの罪を犯せば、あれほど酷いやり方で殺されるような罰を受ける事になるのだろう。

 ヴィクトリアはひくひくとしゃくりあげていたが、やがて、突っ伏すようにガブリエラに抱きついてきた。暖かくて柔らかい女の体にガブリエラは少し驚いたが、そのまま黙って抱かれていた。別に嫌ではなかったし、むしろその肉体の厚みに安心した。
 彼女は“彼女”と同じようにぼろぼろだったが、生きている。近くにいるだけで体温が伝わり、香水の混じった体臭もわかる。能力を使えば、ガブリエラのエネルギーがちゃんと吸収されていく。

 この力を使う時に必ず付随する、自分のエネルギーを貪り食べられるような独特の感覚は、生理的な嫌悪感を常にガブリエラに与えてくる。
 最初は自分が生きるために、そして母の言いつけに従って、ガブリエラはこの力を使ってきた。
 しかし集落の人々に能力の使用を断られたり、生まれたばかりの赤子や子供を産んだ母親を癒やして涙ながらに感謝されたり、そして死んでしまったラグエルに力を使っても全く意味をなさなかった経験などを経た今、ガブリエラは自分のエネルギーをちゃんと食べてくれる、生きているとわかる命に心から安心した。

 なぜならあの亡霊たちは、どこにも行けない。
 ガブリエラの能力も、きっと意味を成さないものたち。
 絶えず回り続けるこの世界で、あそこにずっと取り残され続ける人々。

 だとしたらそれはきっと死よりも恐ろしく、悲しいばかりの絶望だ。死んでしまったら、もう何も出来ない。危ないことは怖くないが、死ぬのは何より恐ろしい。
 だが死は身近なものだ。このぐるぐる回る世界にいるかぎり、誰にでも死はやってくる。生まれてくればいつか死ぬ。死と生を、絶望と歓びを背中合わせにして、自分たちはここにいる。

「……遠い街に行って、悪者をやっつけて、困っている人を助けて、……できれば子供を生みたい、ですって」

 ひっ、ひっ、としゃくりあげながら、彼女は言う。

「……そんなの、私だってそうよぅ……」

 泣いているヴィクトリアの腕の中で、真っ黒になるまで殴られた彼女の腹を、ガブリエラは長い時間をかけて治していく。彼女の傷がなるべくきれいに治るようにと、必死に、祈るようにしながら。
 ベッドの下から出てきた白猫を抱き上げたキャンディスは、それを見張っているのか見守っているのか、終わるまでずっと横に立っていた。






 その騒ぎの数日後、ガブリエラは、このモーテルを出発することに決めた。

 地雷原を越えた時に見た、屈強な男たちに守られた、物騒な施設──刑務所を避けて方角を変えた結果、ガブリエラはまた遠回りをしてしまったことがわかった。
 狩りをしやすい、緑の多いエリアも近くにない。しかし過去点在した鉱山と街を物資が行き来していたルートが今もそれなりに使用されているため、故郷よりは車が多く、旅行者や、物資を運ぶトラックなども行き交っている。そしてその補給のため、ガソリンスタンドやこうしたモーテルなどが点在している。
 つまり歩いて行くには無理がある道行きが続くのであるが、モーテルのトラックに乗せてもらったように、ヒッチハイク、道行く車に同乗させてもらって旅をする方法ならば、予定よりかなり早くシュテルンビルトに着けるかもしれない、とガブリエラは結論づけた。
 小型の飛行機が発着している飛行場もなくはないが、やはり高額な上に身分証明書が必須であるため、ガブリエラにははなから選べない方法だった。

「……マジでシュテルンビルトに行くのか?」
「行く」

 こくりと迷いなく頷くガブリエラに、キャンディスは呆れたようにため息をついた。そんなに言うなら好きにすれば、という意味だ。
「いきたい」
「そうか」
「ヒーローに、……なりたい」
「おい、なんでちょっと迷ってんだよ」
 うつむいて言ったガブリエラのフード越しに、キャンディスはガブリエラの頭をぽかりと殴る。

「……わるいやつ、やっつける」
「あん?」
「ヒーローは、わるいもの、やっつける。ガブ、できなかった」
「なるほど」
 少し震えた声で言ったガブリエラに、キャンディスは頷く。

「安心しな、あんたはヒーローだ」

 煙草に火をつけてから、キャンディスは妙にきっぱりと言った。
「少なくとも、あたしにとってはね。死人が出てれば保安官を呼ばなきゃいけない。金も払って貰えない。大損。それがカバーできた。あんたのおかげでそれができた。ヒーローさ、ありがとう。本気で言ってる。テレビを撃たせなきゃもっとヒーローだったけど、贅沢は言わないさ」
「しかし」
「まあ確かに、あのクソ野郎はどこからどう見ても“悪者”だけどね」
 キャンディスは、筋肉質な肩をすくめた。
「あんた、ヒーローになって何するんだっけ?」
「悪いものを……やっつけて」
「おう」
「……困っている人を、たすける」
「そっちはできたんじゃない?」
 その言葉に、ぱっ、とガブリエラは顔を上げた。

「私はあの男が生きてて金を払ってもらえたし、今回のことで、ヤクの売人共もだいぶここを引き上げたし。あの娘も──大勝利とまでは行かないけど──とりあえずあの男から離れられたし、怪我も治ったし。あんたみたいなガキンちょにしちゃ、立派なヒーローぶりだと思うけどね」

 遠くのお綺麗な街にしかいない、糞の役にも立たないご立派なヒーローより、小さくとも利益をもたらしてくれる変な子供のほうが、自分にとってはよっぽどヒーローだとキャンディスは言った。

「……そうでますか?」
「そうでますよ」

 まだまだ珍妙なガブリエラの口調を真似て言った彼女は、すぱあ、と煙草の煙を青空に向かって吐いた。

 騒ぎの当事者のひとりであるヴィクトリアだが、何もお咎めはなかった。被害者でもあるからというのもあるが、あの騒ぎのきっかけが、あの白猫を男が蹴ろうとし、それをヴィクトリアがかばったことだったが故に、キャンディスがわかりやすい贔屓をしたのだ。

「まあ、あのコもね。気が立ってたのさ。腹を殴られすぎて子供が出来なくなっちまって」

 ヴィクトリアがかばった白猫は妊娠していて、腹が大きかった。
 キャンディスが言葉と一緒に吐いた煙を目線で追いかけたガブリエラは、空を見上げる。ぐるぐると回る高い空に、美しい羽をした鳥が飛んでいた。



 それからキャンディスは、ガブリエラを車に乗せてくれる客を探してくれた。
 できるだけ長い距離、そして長い間車に乗っていても問題ないと信用できる人間として紹介されたのは、ガソリンの業者だった。ガブリエラが見ても、おかしな人間ではないようだった。
 その業者が悪くしている膝を治すことで、タンクが空になるガソリンスタンドまで乗せていってくれる、と話がついたため、ガブリエラはこの日まで貯めたシュテルンドルと、水、日持ちのする食料を持って車の荷物入れに乗り込んだ。

「忘れ物は?」
「ない」
「銃は?」
「いらない。高い。当たらない」
「タバコ」
「いらない。高い。食べられない」
 キャンディスはいい人で親切だが、タダで物をくれることもない事を知っているガブリエラは、ふるふると首を振る。彼女は「あっそう」と言って、煙草に火をつけてぷかぷかと吸った。
「んじゃ、これでお別れだな。うまくやれよ、ヒーロー」
「ひひひ」
 ヒーローと呼ばれたことが嬉しくて、ガブリエラは歯を見せて笑った。

「ありがとう、キャンディ」
「キャンディスだっつってんだろ」
「──待って!」

 その声に車から顔を出すと、ブロンドの女が走ってくるのが見えた。もちろん、ヴィクトリアだ。怪我ひとつない顔と体。豊満な白い胸が大胆に揺れる様に、ガソリン業者がピュウと口笛を吹いた。

「ごめん、……ごめんねぇ」

 青い目からぼろぼろと涙をこぼしながら、ヴィクトリアはガブリエラに大きな紙袋を押し付けてきた。中を覗き込むと、モーテルの売店にあるお菓子をすべて買い占めてきたのではないか、というほどたくさんのお菓子が入っている。
「これもあげる、これも。これも……寒いかもしれないから」
 ヴィクトリアは泣きながら、色々なものをガブリエラに押し付けた。大きな上着、ちゃんと洗濯されたきれいなタオル、服。
 予算不足で諦めた品々を、ガブリエラはありがたく受け取る。──男に殴られた怪我を治す時、彼女は彼女はガブリエラにお菓子をくれたり、小遣いをくれたり、ちょっと親切にしてくれたりするのだ。

「あと、これも。困ったら売って」
 それは彼女がいつも着けていた、きらきら光るダイヤのピアスだった。
「これ?」
 大事なものではないのか、と示すガブリエラの手に、彼女はピアスを強く握らせた。
「いいの。持っていって」
「くれる?」
 ガブリエラが首を傾げると、彼女はこくこくと頷いた。
「いいのよ。私にはこの子達がいるし」
 そう言って彼女が微笑みを向けた足元には、あの白猫と、騒ぎのあとすぐに生まれた小さな子猫たちが纏わりついていた。
 いつもつけていた、そしてどれだけ金に困っても売らなかったらしい大事なピアスをくれた彼女に、ガブリエラは微笑んだ。そしてごそごそと荷物を漁り、捕まえた鳥の羽で作ったピアスを彼女に渡した。

「鳥、空飛ぶ。鳥。みち……道、教える」
 集落で教わったことだ。高いところを飛ぶ鳥は、道を示してくれるもの。伝わったかどうかわからないが、ガブリエラは身振り手振りを交えて説明した。
「……くれるの?」
「ピアス、かえる……ともだち。ともだちであるので、かえる? あ! 交換!」
 自分のとっておきのピアスを仲のいい友達同士や、世話になった者、師弟関係などの間柄で交換し、遠く離れてもその存在を忘れず、時にそのピアスを身に着けてその者にあやかるのが、あの村の習わしだった。
 お菓子や服は怪我を治した対価だが、大事なピアスをくれるのは好意で、厚意だ。そう判断し、そしてその気持ちが嬉しかったガブリエラは、彼女に鳥の羽のピアスを渡した。
 売り物になるかもしれないと思って作り貯めたもののうち、いちばん出来がいいものだ。大空を高く飛ぶ渡り鳥の、雪のように白い羽はつやつやと輝いて美しい。

「ともだち……」

 そう呟いたヴィクトリアの青い目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

「キャンディも! 交換した!」
「そうなの!? ずるいわキャンディ!」
「なんでだよ。あとキャンディスだっつってんだろ、……まあもういいけど」
 お決まりの台詞を言いつつも、キャンディスは、ガブリエラがあの集落で皆で捕まえたバッファローの角の根本を削って作ったピアスを気に入って、今も耳に着けている。
 ちなみにガブリエラは、シルバーの格好いいデザインのピアスを彼女から貰った。

「……ありがとう。ありがとう、アンジェラ」
「ありがとう! ともだち! ヴィクトリア!」
「ええ、いつか勝ってみせるわ。あんたもいい男を見つけるのよ! むかつくけど、男がいないと子供は産めないんだから!」
「むふ?」
 強いハグで女の胸に顔を埋もれさせ、額にキスを受けながら、ガブリエラは不明瞭な返事をした。最後にキャンディスと拳をぶつけあい、再度車に乗り込む。車が走り出した。

「──助けてくれて、ありがとう! ヒーロー!!」

 大きく手を振りながら、涙の滲んだ声で叫ぶブロンドの彼女。そしてその横で煙草を吸いながらおざなりに手を振る、モーテルの親切な黒人女。モーテルの窓からは、飲み比べやロデオ勝負をした用心棒たちが乗り出して手を振っている。そして、相変わらず我関せずの猫たち。
 ガブリエラはトラックから身を乗り出し、彼女らに大きく手を振り返した。

 モーテルの向こうに広がる、地雷だらけの過酷な荒野。
 彼女は、きっとまだあそこにいる。誰にも助けられないまま、永遠に。それはガブリエラの罪だ。ガブリエラは、彼女を助けようともしなかった。

 だがそれでもやはり、ガブリエラは自分の望みを叶えるために進む。
 いつか、天使からひどい罰が下されるかもしれない。それを恐ろしくも思い楽しみなようにも思う自分は、やはりとんでもない“悪い子”に違いない。
 だがせめて、自分の天使が現れるその日までは。

「行く! 生きる! ありがとう!!」










 アスクレピオスのオフィスに顔を出し、各方面への問い合わせの返事をし、その他何をしたのかもわからないほどの量の仕事を今日も終わらせる。
 疲労感を引きずりながら、ライアンは、ガブリエラが眠る部屋に戻ってきていた。

 彼女は、相変わらず静かだ。いっとき泣いたり苦しんだりもしていたが、今は時々瞼を震わせたり眉を顰めたりする程度である。
 ライアンは彼女の部屋から回収してきた荷物を部屋の端に寄せ、さらにその上に、ポーターから回収してきた、クリスマスカウントダウンの日の彼女が持ってきていたバッグを乗せた。
 ベッドの横の椅子に腰掛け、ガブリエラの手を取る。

「……愛してる」

 耳元で、囁くように言った低い声は、とても甘い。
 しかし返ってきたのは、安らかな寝息のみであった。
 ライアンは数秒後、はああああ、と特大のため息をついて、彼女の枕の脇に顔を突っ伏す。今の録音したら売れるやつだぞコラァ、と小さくついた悪態が、床ずれ防止のウォータージェルタイプのマットレスに吸い込まれていった。

 真実の愛とやらで彼女が目覚めるとわかってからすぐ、ライアンはありとあらゆることを試した。
 思いつく限りの甘ったるい愛の言葉を囁き、もしくはドラマティックに叫び、最終的にはやけになってミュージカル調に歌ってすらみたが、ガブリエラはすうすう寝ているだけだった。

 キメにキメた愛の言葉の完全スルー、ノーリアクションというのがなかなかに堪えることを、ライアンはこの一連のチャレンジで散々に思い知った。
 本当にお伽噺の王子様よろしくキスでもしてみたらどうか、というのも提案されたが、ライアンはそれを却下した。ええいまどろっこしい、とネイサンは野太い声を出して憤慨していたが、ライアンはそれを本当に最後の手段だとして、彼女にキスをしていない。

 なぜなら、最初のキスはライアンの部屋ですると約束しているからだ。
 それにあの夜のことをライアンがよくよく覚えておらず、今度は最初のキスをガブリエラが覚えていないというのはなんとも認めがたい、というのがライアンの考えだった。──気恥ずかしいので、誰にも言っていないが。

「……キスもしてねえ女に、俺は何をやってんだかなあ」

 そうぼやきながら、ライアンは彼女が眠るマットレスにぐりぐりと額を押し付けた。
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BY 餡子郎
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