#130

 女がガブリエラを連れてきたのは、酒場だった。
 故郷にあった酒場と雰囲気は似ているが、こちらのほうが断然大きかったし、小綺麗だった。真っ青に塗られたオープンカーが中央に飾られているのが洒落ている。
 音楽は誰かが気まぐれに鳴らすギターではなく、古いジュークボックスから流れている。男の声が呻くように歌う、重苦しいブルース。
 座れ、とカウンターの高い椅子を示されたので、よじ登って腰掛ける。足がつかないバーカウンターの椅子に座って、ガブリエラは酒場の中にいる面々を見渡した。まだ真っ昼間ではあるが、飲んだくれている者、食事をしている者、様々だ。だが、見る限り特別厄介そうな顔はいない。

「ここ何年か、ヤク中どもがやたら増えてね。吐くし漏らすし暴れるし、備品は壊すし殺すし死ぬし、ホント嫌になる。追い出しても追い出してもキリがねえ、まったく」

 ぶつぶつ言いながら女がバーカウンターの中に入っていったので、経営側の人間らしいことがわかった。
「……む?」
 ひとつ向こう隣の椅子にかけてあった、濃いグレーの毛皮のようなものが、動いた。三角の耳と、金色の目がふたつずつ。それは毛皮ではなく、ふさふさの長めの毛をした動物だった。
 ガブリエラが見たことのないその動物は、じい、とガブリエラを見た。

「にゃん」

 聞き慣れない声でその生き物が鳴いたので、ガブリエラはびくっとした。そんなガブリエラにグレーの生き物は醒めたような半目になり、くわぁと大きく口を開けて欠伸をする。白くて長い牙を備えた赤い口を披露した生き物は、そのまままた自分の体に顔を埋め、丸くなって寝始めた。
 ガブリエラがまじまじと生き物を見ていると、女が話しかけてきた。

「おい、ねこちゃんは丁寧に扱いな」
「ねこちゃん」
「そうだ、ねこちゃんだ」
「たべる?」
「ぶっ殺すぞ」

 動物は食べるためか労働力として飼うのが常識であるがゆえに言ったガブリエラに、女は本当にこちらを射殺しそうな目で低い声を出した。
「丁寧に扱えって言ってんだろ。いいか、ねこちゃんはカワイイ。それだけでいいんだ」
「ねこちゃんはかわいい。それだけでいい……」
「よし。あんたが食うのはこっち」
 謂われた意味はわからなかったが、女の迫力に圧されてとりあえず復唱したガブリエラに頷くと、彼女はカウンターの下をごそごそやり、トラックの荷物の中にもあったシリアルの箱を出してきた。更にガブリエラの顔くらいの大きさのボウルを置き、その中にシリアルをざらざらと入れる。
「ふあああああ!」
「あんたが注意を引いてくれたから、楽々取り押さえられたしね。ま、ご褒美だよ」
 目も口もまん丸く開いてシリアルを凝視するガブリエラの目の前で、女は「ガキはミルクを飲め」と言い、シリアルにパックの中のミルクまで注いでくれた。ぽっかり開いたガブリエラの口から、わかりやすくよだれが垂れる。
「ちょっと、犬食いはやめな! スプーン!」
「がふっ、がふ、んぐぐ」
 ボウルを両手で持つや否やその中に顔を突っ込んだガブリエラに、女がスプーンを差し出す。ガブリエラはそれをひったくり、スプーンを使っているはずなのに犬食いにしか見えないようながっつき方で、ミルクがかかったシリアルを食べた。
 故郷でミルクといえば粉ミルク、あの集落では山羊のミルクを飲んでいたので牛の乳を飲むのは初めてだったが、シリアルで甘くなったミルクはとてもおいしかった。

「そんなに腹が減ってたわけ? ……聞いてねーな」

 ガブリエラは返事をしなかった。しかしそのがっつきぶりを返事として受け取った女は小さくため息をつき、とりあえず食べ終わるまでガブリエラを放っておくことにした。

 そうしてしばらくの間ひたすらシリアルをがっついたガブリエラが、ボウルの底に残ったミルクを、名残惜しそうに舐めているときだった。

《──……ました! ワイルド……るぜ!》

 聞こえた音、いや声に、ガブリエラはぴくりと肩を震わせる。

《ポイントが──さあ一体キングオブ……は──今期デビューした──》

 賑やかな男の声は、実況だ。知っている。ノイズの隙間に耳を澄ませて散々聞いた声。名前はマリオ。合間に聞こえる、色々な決め台詞。ポイントが付けられる効果音。派手な音楽。ノイズ混じりで途切れ途切れではあるものの、それらは確かにガブリエラが知っている、いや目指し、憧れ、何よりも求めているものだった。

「おーい、またテレビがおかしいぞ」
「また? 天気がいいとあっちこっちの電波拾うんだよねえ、……ん?」

 客の文句に答えた女は、がこん、と空のボウルがカウンターに落ちる音に振り向く。すると口の周りをミルクまみれにしたガブリエラが、誘い込まれるようにして、砂嵐と映像が混じった画面を映すテレビにふらふらと向かっていた。白黒の砂嵐の隙間から断片的に覗く映像をよく見ようと、ガブリエラはテレビに顔を近づける。

《おおっとここで登場したのは、ファイヤーエンブレム──!!》

 画面に広がる、真っ赤なマント。
 炎そのもののように揺らめき輝くその画面から、ガブリエラは近づけた顔に本当に熱を感じた気がした。

《見事なブルジョア直火焼きっ、いつもながらエレガント! カメラが──ガガッ》
「ああああああああ!!」

 ザー、と完全な砂嵐になってしまったテレビに、ガブリエラは悲痛な声を上げた。その声があまりに大きくてよく通ったので、酒場中の人間がビクッと肩を跳ねさせる。

「あー!! ああああああ!! ああー!!」
「おいコラやめろバカ!」

 ばんばんと力任せにテレビを叩くガブリエラに、女の怒号が飛ぶ。しかし更にテレビを掴んでガタガタ揺らそうとしたガブリエラは女に首根っこを掴まれてテレビから引き剥がされ、喚きながら外に引きずられていく。カウンターの椅子で丸まった猫は、微動だにせず悠々と眠り続けていた。






「うう」

 女に拳骨を落とされてじんじんする頭より、ファイヤーエンブレムの姿をあと少しで見れなかった悔しさに涙目になりながら、ガブリエラは高価な備品であるテレビを叩いた罰として、女にまた違う建物の掃除をさせられていた。
 ここがどういう施設なのかまだよくわからないが、広い敷地にいくつかの建物があり、そのひとつが先程の酒場だ。だがどの建物も、酒瓶やらごみやらが常に散らばっているようだった。

 ぐう、と腹が鳴る。シリアルは美味しかったが、大して腹に貯まらず、むしろ堪えていた空腹の呼び水になってしまった。特にガブリエラは、能力に目覚めてからどんどん大食らいになっているのだ。能力を使わなければそこまでひどくはないのだが、使えばもう際限なくお腹が空くのが、この能力の最大の欠点だった。

「……っていうかさあ、あんたなんであんなとこにいたのさ」

 思わず拾ってきちゃったけどさあ、犬猫拾ってくるノリで……と、女は煙草をふかしながら怪訝な顔で言った。言葉がわからない子供は、ぽかんとした顔で首を傾げている。
「移動するタイプの部族のはぐれっ子か? ボーッとしてたら置いて行かれたとか? ちょっと頭弱そうな感じだし、いじめられてたとか……?」
「うむ?」
「……まあいいか。手癖は悪くないし、そこそこ働きもんみたいだし」
 荒くれ者の流れ者が行き交うこのモーテルで細かいことを気にしていたら神経が保たないのだ、と女は呟いて、ガブリエラが集めたごみをまとめて袋に入れた。

 ふと鳥の声が近くで聞こえたので顔を上げると、ぼんやりした表情のガブリエラの肩に、美しい色の鳥がとまった。
 更にガブリエラが手を差し出すと、鳥は無防備にその指に乗り、ガブリエラの手を嘴で甘噛みしたり、美しい声でピチュピチュと鳴いたり、しまいにはリラックスして足を曲げ、腹をつけて座りさえした。
「え、すご……やっぱり部族の子とかそういう……」
 それは先程の蝶と同じくガブリエラの持つ能力に本能で惹かれた動物によくある光景だったが、女はもちろんそれを知らない。まるでおとぎ話のようなその光景に、女は呆然とした。

「ウォオオオオ!! あんた何やってんの!?」

 しかしその感動は、一瞬にして吹き飛んだ。なぜなら、ガブリエラが突然もう一方の手で鳥の胴体を鷲掴みにし、鳥が乗っていた手でその頭を捩じ切ろうとしたからだ。
 女が大きな声で叫んだからか、ガブリエラはひとまず鳥の首を捩じ切るのを寸前でやめて、女の顔を見た。鳥は、悲痛な叫びを上げている。
 ガブリエラは、女を見て、鳥を見て、そして何かを理解したように、うんと頷いた。

 地雷原を抜けてからどうもぼんやりしていたが、ガブリエラは目的を思い出した。ヒーローになるのだという夢を叶えに、星の街、シュテルンビルトに行くこと。

「──いきたい」
「え!? え、ああ、うん、そうだな!?」

 状況のせいで、生きるために食うぜ、という意味にしか取れないその力強い単語に、女は思わずひっくり返った声を出した。ガブリエラは、妙にきりっとした顔で頷く。

「うむ!」
「待て待て待て!」

 グッと鳥の首に力を入れようとしたガブリエラを、女は必死に止めた。





「わけわからん子だね。まあいいか」

 まあいいか、というのがこの女の口癖らしい。
 結局鳥は逃されたが、高く飛ぶ鳥は羽根はきれいでも肉が少なく捌くのが面倒くさいので、別にそれほど惜しくはない。この辺では珍しくない鳥のようなので、アクセサリーを作りたくなったらまた捕まえればいいのだ。

「ここで寝泊まりしたいなら金を払いな。部屋でもガレージでも同じだよ」
「ここでねとまりしたいならかねをはらいな? へやでもがれーじでもおなじだよ?」
「……あんた、言葉わかんないんだよね?」

 鸚鵡返しするガブリエラの発音が妙に流暢なので、女は怪訝そうにした。
 歌が上手いだけあってガブリエラは耳が良く、聞いたことをそのまま口にするのは割と得意だった。そのためあの集落で独自の言語を覚えるのも早かったのだが、しかし如何せん頭の出来はよろしくないので文法は無茶苦茶、だいたいは単語で話すのが主である。

「まあいいや。あんた金は持ってる? 金!」
 女のジェスチャーをなんとか理解したガブリエラは、僅かに残っていた故郷の金を取り出す。しかし女はそれを数えもせず、紙幣の柄を見ただけで顔を顰め、首を振った。
「使えねえよ、そりゃ」
「そりゃ?」
「ここで使えるのは、こっちかこっち」
「こっち?」
「これはシュテルンドル」
「おお!」
 女が見せてくれた紙幣や硬貨の柄に、ガブリエラは目を輝かせた。

 初めて見る紙幣や硬貨──シュテルンビルトドル、通称シュテルンドル。名前のとおりシュテルンビルトの通過で、地雷原を抜けた“こちら側”の主な通貨でもある。
 ちなみにガブリエラの故郷の貨幣はこちらでは非常に価値が低く、ほぼ使えない。
 女神の横顔の絵が描かれた紙幣をガブリエラは頬を赤くしてしげしげと眺め、この金を稼がなければならないのだ、と強く認識した。シュテルンビルトの女神の金を稼いで、シュテルンビルトに行くのだと。

「金が全てだよ。わかる?」
「金! とてもわかる!」
「ホントかあ?」
「かせぐ! そして、はらう!」
「おお、完璧じゃないか。そうそう、ちゃんと払ってこそ金だよ」

 女は満足そうに頷いて、ガブリエラも得意げに頷き返した。






 ──ドタァーン!! と凄まじい音を立てて、大男が倒れる。

 ガブリエラは足の裏が床につかない椅子に腰掛けて、もう何本目かもわからない酒をぐびりと飲む。特に美味しいわけではないが、酒、特に濃厚に甘い酒は、能力を使うのに効率の良い飲み物だった。
 美味しいということなら、ミルクのほうがよほど美味しい。これが終わったらミルクを飲もうと決めながら、ガブリエラは高い椅子に座ったまま言った。

「勝ちのことです。金ください」
「この、クソガキ!」

 反対側にいた連れの男が殴りかかってくるであろうことは予想していたので、ガブリエラは高い椅子の上に素早く立ち上がると同時に、掴んでいた酒瓶をカウンターの裏に叩きつけて割る。そしてその流れのまま、鋭利な尖りを、椅子の上に立ったことで目線が近くなった男の顔面に思いっきり刺し込んだ。
 息つく間もなくガラスの破片が顔中、眼球にもざっくり刺さった男は自分に起こったことが理解できず一瞬黙り、そして次の瞬間、蚊が鳴くような細い悲鳴を上げた。
 椅子から飛び降り、顔を血まみれにしてひっくり返っている男の側にしゃがみこんだガブリエラは、男の顔に刺さっている割れ瓶を掴んで抜いた。そしてパニックを起こしている男の顔に手をかざし、能力を発動させる。ゆっくりと、傷が治っていく。

「あ、あれ……?」
「金ください」
「ふっざけんなこのクソ」

 ──ざくっ。

 再び、男の顔面に血まみれの割れ瓶が突き立てられた。2度目の情けない悲鳴とともに、下の方から臭ってくるアンモニア臭。
 このやり取りはまた繰り返され、結局、男の目玉は右2回、左3回潰れ、最後にはただただ呆然としていた。

「金ください。どちら?」
「かね」
「金ください。どちらある、答えたまえましまし」
「ポケット……」
 その通りにポケットをあさると、若干温かく湿った、束ねられた紙幣が出てきた。ガブリエラは濡れていないところをつまみ上げ、そこからカウンターの中の店員に酒代を払い、残りを自分のポケットに入れる。

 ガブリエラは呆けたまま転がっている男をちらりと見たが、そのうち正気に戻るだろう、と酒場を出る。そろそろ慣れてきた店員は、面倒そうにため息をついた。

 たらふく酒を飲んだガブリエラは小便臭い金を持って、人々が騒ぐ会場に行った。
 大きなメインホールの真ん中は大きな硬いクッションで丸く区切られていて、暴れまわる大きな牛──を模したマシンが、2台並べてある。一方には豊満な、しかしどこか作り物めいた乳房を揺らすビキニ姿の女性が跨り、もう一方には、筋肉隆々の男が跨っていた。
 ぐるぐる回ったり、上下に跳ねたりと激しく動くロデオ・マシンから振り落とされたのは、女性の方だった。小さなビキニが弾け飛び、観客、概ね男性からは嬉しそうな歓声が飛ぶ。
 対戦相手である筋肉隆々の男が汗で光る身体を見せびらかしながら雄叫びを上げ、派手な蝶ネクタイをした司会の男が、その太い腕を掴んで勝者の宣言をした。

 ガブリエラはそのタイミングを見計らい、クッションの囲いの中にぴょんと飛び入った。埃っぽいフードをかぶったみすぼらしい子供の姿に驚く者、舌打ちする者、ニヤニヤする者と反応は様々。我関せずなのは、所々のテーブルや椅子などにいる猫たちだけだ。
 威勢のいい声の蝶ネクタイの司会はにやりと笑って肩をすくめ、ガブリエラが差し出す紙幣、参加費用を受け取る。やや湿ったそれを嫌そうな顔でバニーガールが持つ箱に入れた司会は、ガブリエラにマイクを向け、名前を名乗るように言った。もう何度もやっているやり取りだが、新しく来た客もたくさんいる。

「……アンジェラ」

 いかにも子供の高い声に、ブーイングや、戸惑いの滲んだ拍手、あるいは非難めいたどよめきが起こる。しかしガブリエラはそれらを全く無視して、女性が跨っていた方のロデオマシンに跨る。ルールどおり片手で取っ手を持ち、牛が動くのを待つ。

 ──スタート!!

 機械じかけの牛が、勢い良く動き出す。
 崖を飛ぶ馬よりも緩いその動きに、ガブリエラは難なく身を任せた。






 ヒーローになる、という目的を思い出したガブリエラは、すぐに行動を開始した。

 まずは言葉を覚えること。人々の会話から、重要そうな単語を拾い上げていく。
 こちらはこちらで独特の言い回しや訛りがあるが、ラジオで聞いて憧れてきた、シュテルンビルトでも使われている標準語に近い。そのため、覚えるのは苦ではないどころか楽しかった。

 最初に理解したのは、この場所がモーターホテル、モーテルという名前の施設であること。つまり車を使って旅をする人々がガソリンを給油したり、泊まったり、酒を飲んだりものを食べたり、あるいは食料を買い込んだりする場所だということだった。

 ガブリエラの旅路はほぼこの大陸を横断するようなものだが、このモーテルがあるのはちょうどこの大陸をエリア分けする境目になる。

 この場所を境に熱帯気候に近くなる南西側はガブリエラの故郷がある最悪の治安の第3世界的エリアと、地雷が広がる大荒野、それを利用して建てられた刑務所。モーテルはその端にあり、そこから先は温かい気候で地雷が埋まっていない広大な土地が広がり、いろいろな作物を育てる超巨大なプランテーション、大農場になっている。
 さらにそれを越えて北東側はどんどん涼しい気候になっていき、その果てにある半島がシュテルンビルトだ。

 また、昔はこのモーテルのあたりからシュテルンビルトまでの間に鉱山が点在していて、それを掘る人々のための、街とまでは行かないが規模の大きい宿泊施設が道沿いにいくつもあった。鉱山が枯れてからもなんとか存続しようとした成れの果てが、この大きなモーテルだ。

 ここが地雷原の端であることからもわかるように、戦争をしていた頃は前線基地でもあったこの場所は、今も軍事基地がある。
 よってこのモーテルの客は、軍人と、軍人崩れと、屈強な農夫、その元締めの農園主、それが金を持って派閥を組んだギャングもどき、その下っ端の田舎臭いチンピラと、どこから来たのかわからない余所者の旅行者。そして、これらに混じったドラッグの売人、という具合らしかった。

 客層がこんな顔ぶれの上、更に売春宿と賭場も併設されているモーテルは、賑わっているが柄も悪い。宿の料金が安いのでほとんど住んでいるような連中もいて、旅行者から金を巻き上げたりもする。
 黒人女の血筋は代々ここを運営してきているのだが、今は亡き父の代から人とともにドラッグが流れてきたことで元々お世辞にも良くはない治安が更に悪化し、現在は跡取りであるこの女が中心となって、古株のボーイたち、という名目の用心棒たちでそれをなんとか諌めながら経営しているという。

 しかしガブリエラは、彼らも、この場所も、全く怖くはなかった。

 もちろん、警戒はする。しかし故郷にいた頃そうだったように、敵意を向けられた時に怯えた動物よろしく一目散に逃げる、ということをしなくなった。
 亡霊に引きずり込まれそうになりながら地雷原を1歩ごと命懸けで進んだことを思えば、生きている人間などそう大して恐ろしくはない。ヤク中だろうとそんなに変わりはない。ガブリエラは、自然にそう感じるようになっていた。

 そして身につけた図々しさやくそ度胸に任せて、客が乗ってきた車のガソリンを入れたりタイヤを交換したり、洗車や窓拭きをしたりなど、車のメンテナンスを請け負うことで小銭を稼いだ。故郷では自分の車はもちろん、それ以外の手入れもこうして請け負って稼いだこともよくあったので、お手の物だ。

 堂々とコミュニケーションを取ってくるガブリエラを、彼らは肝の据わったふてぶてしい子供だというふうに扱うものの、危害を加えようとする者は稀だった。
 明らかに貧しい、乞食のような子供。しかしいかにも民族衣装らしい刺繍のあるポンチョを着て珍しい赤毛をしたガブリエラは、妙に浮世離れした雰囲気で人目を引く。
 それに図々しく仕事を強請るものの手癖は悪くないので、モーテルの人々からも、客からも、ガブリエラは特に邪険にされなかった。
 体を洗って、それなりに服も清潔だったのも良かったのだろう。まず何よりも体をきれいに保てという集落での教えは正しかった、とガブリエラは納得する。
 さらに言葉を覚えるために相手の言うことを鸚鵡返しする様がうけたのか、色々言葉を教えてくれる客や、駄賃と一緒にヌガーやキャラメル、飴玉などのお菓子をくれる客もいた。

「むう。足りない。ないない」

 こうして日々の生活費を稼ぐ目処がついたガブリエラではあったが、数日の稼ぎを数えて帳簿をつけてみた所、すぐにこれではよろしくないことに気付いた。
 なぜなら今のガブリエラの暮らしは、このモーテルでずっとやりくりして生きて行くにはそれなりに良い稼ぎではあるものの、シュテルンビルトへの旅を続けるための貯金をせねばならないことを考えるとどうにも心許なかったからだ。

 最初に思いついたのは、僅かに貯めた小遣いを元手に飲み比べをふっかけること。
 故郷でもたまにしていたことだったし、チンピラが多い場所では立場を確立させるのにも役立つ方法であることは実証済みだ。
 更にそれで稼いだ金を参加費にして、別棟にあるロデオゲーム場で倍々式に稼ぐことを覚えれば、なかなか悪くない稼ぎになった。

 ガブリエラは全く酒に酔わないし、くそ度胸が付いたおかげで、半端なチンピラとの刃傷沙汰も怖くはない。能力を使えば後始末も簡単だ。
 ロデオゲームも、切り立った崖を自由自在に飛び越えるラグエルと比べれば、パターンどおりの単調な動きしかしない機械じかけの牛などガブリエラにとっては楽勝も楽勝、屁でもないお遊びでしかない。

 そして、やたらにくそ度胸がついたことに加え、ガブリエラにはもうひとつ、変わったことがある。

 ラグエルが死んでからこっち、ガブリエラは、いま眼の前にいる人がいい人か悪い人か、危ない人かそうでない人かなどが、何となく分かるようになってきた。──ということを、お世辞にも柄がいいとはいえないものばかりが集うこのモーテルでガブリエラは理解した。

 その点、あの黒人女はとても“いい人”だった。

「アンジェラあんた、ここしばらく外で寝てるだろ。浮浪者みたいなガキにそんなことされたら迷惑なんだよね。ってなわけで、毎日掃除と雑用したらメシと毛布。どう?」

 最初の数日でガブリエラが真面目に働いていたことを見ていたらしい女は、こんな提案をしてくれた。
 概ねジェスチャーでやりとりして話を理解したガブリエラは、やはり彼女が特別“いい人”であることを確信しつつ、こくこくと大きく頷いてその提案を了承した。

 そして更に数日後、彼女は飲み比べやロデオで金を稼ぎ始めたガブリエラを怒鳴ったが、ガブリエラの能力のこと、相手を見てやっていること、本当に危ない相手には手は出さないこと、本当に軽々メカニカル・ブルを乗りこなす様を見て、恒例の「まあいいか」という発言に落ち着いた。
 しかも、それまでモーテルの部屋に泊まるほどの金が無い者たちが車の中で寝泊まりするガレージにテントを張って寝ていたガブリエラを、自分が暮らしているトレーラーハウスに居候させてくれるようになった。
 その理由は勝負に負けた荒くれ者が報復に来るかもしれないから、ということだったが、能力のせいかガブリエラが猫に懐かれているというのもあったかもしれない。
 筋骨隆々の荒くれ男と娼婦、訳有りの流れ者ばかりがひしめくこのモーテルを仕切っている逞しいこの女はその反面動物好きで、特に猫を愛していた。よく見れば、モーテルの看板にはロデオの牛とともに猫も描かれているくらいなので相当のものだ。実際、猫に危害を加えた者は彼女から強烈な制裁を受け、モーテルから放り出される。
 ガブリエラがここに来た時にカウンターの椅子で丸くなっていたグレーの猫がいちばんの古株らしいが、他にもいろいろな猫が敷地内をうろつき、ネズミを捕ったり捕らなかったりして悠々と暮らしていた。

 犬猫のノリで拾った、と言われたガブリエラではあるがもちろん犬猫ではないので、稼いでいるのならと宿泊費用はしっかり取られたし、トレーラーの中の掃除も任されたが、ガブリエラは車の中で寝るのが大好きだったので、この提案は嬉しかった。
 それに売春婦たちが仕事をしていたり、時々銃声や薬の売買が行われている声が聞こえるモーテルより、モーテルのボスである女のトレーラーはこの施設で最も安心して眠れる特別な場所だ。ガブリエラは親切な女に感動して、覚えたばかりの「ありがとう」の言葉を連発した。

 こうしてガブリエラは拾われた犬のようにトレーラーのソファで猫たちと一緒に眠り、飲み比べとロデオゲームで金を稼ぎ、娼婦たちの怪我や美容に能力を使って味方を作り、時々鳥を捕まえ、木や革紐と羽で作ったアクセサリーを売ったりしながら、このモーテルで日々を過ごしていった。






「はぁ!? ここから歩いてシュテルンビルトまで行くって? 正気!?」
「はい。ガブはヒーロー、なる」
「子供は皆そう言うけどな!」

 ガチで行動に移してる奴初めて見た、と女は煙草を吸いながら、呆れた様子で言った。
 ガブリエラは故郷の位置とシュテルンビルトの位置、そして村の人達が書き足してくれた山岳地帯などが書かれた手書きの地図を女に見せたが、彼女はガブリエラがそこから来たことを信じていないようだった。

「でっかい夢だこと。ヒーローになって、それで、どうするわけ?」
「悪いものを、やっつける。困ってしまっている人を、たすける」
「おお、まさしくヒーローだね。で?」
「できれば、子供を産みたい」
「急に現実的になったな……」

 言葉が不自由であること以上に毎度突拍子もないガブリエラの発言に、女は慣れた調子で突っ込みを入れた。
 ガブリエラは彼女と話しながらも、またHERO TVが映らないか、とテレビのダイヤルをしばらくしつこく回していたが、それらしいものは砂嵐混じりのものさえ見つけられず、苦々しい顔をしてカウンターの椅子に戻った。

「ヴー」
「映んないよ。あっちの電波を受信するちゃんとしたアンテナがないからね」
 うちはワールドニュースチャンネルと、天気予報と、スポーツとアダルトチャンネルしか映らないよ、と女は煙草の煙を吐き出しながら言った。
「……アンテナ、買うどう?」
「買わねーよ。あたしヒーロー興味ねえもん」
「なぜ?」
「だって、どうせあたしたちを助けてくれるわけでもねえじゃん。しかもあんななんでもある大都会で起きる犯罪って、どうしたってたかが知れてんだろ。ゴッコ遊びにしか見えないね」
「うん?」
「わかんねえか。まあいいや」
 女はフンと鼻を鳴らし、短くなった煙草を空き缶の中に捨てた。

「そういえばあんた、アンジェラって名前だろ? なんで自分のことガブって言うわけ?」
「ガブが、なに?」
 耳が良いために発音自体は流暢なものの、いつまでたっても文法が怪しく長い文章になるとわからなくなるガブリエラは、解凍してもらった冷凍ポテトにケチャップを絞りながら首を傾げる。
 ジャンクフードは味が濃いが、能力を使うには効率のいい食べ物だった。といっても、そもそもこのモーテルには基本的にジャンクフードしかないのだが。

「アンジェラ。天使って意味よねぇ」

 ねー、と甘い声で言ってコーラを奢ってくれたのは、ダイヤのピアスをつけたブロンドの女だ。このモーテルで、男たちに体を売ったり、薬を売らされたりして暮らしている。白い猫が、むっちりした太ももの上で丸くなっている。

「何が天使だ。悪魔のようなガキだぞ。見ろこれ」
 女が指差すのは、黒っぽいシミが残る床だ。ガブリエラが酒瓶で血まみれにしては治し、血まみれにしては治した男が倒れていた所である。ガブリエラがデッキブラシで出来る限り擦ったのだが、薄っすら跡が残ってしまった。

「あら、天使よ。アタシの顔の怪我治してくれたもん」

 ガブリエラは以前、男に殴られて顔の半分を真っ青に腫れ上がらせていた彼女の怪我を能力で治した。それ以降、彼女はガブリエラにお菓子をくれたり、小遣いをくれたり、ちょっと親切にしてくれたり、ぎゅっと抱きしめてくれたりする。──男に殴られた後に。
 ガブリエラは、こうしてコーラを持って近づいてきた彼女の脇腹に青い痣があるのに気付き、そっと手を当てて能力を使ってやった。美しい顔が微笑む。
 彼女はこのモーテルでも指折りに美しいが、安い香水のにおいを纏う普通の女だ。ガブリエラが腹を空かせていても、「大変ねえ」としか言わない女。嫌な客を断れない、気が弱い女。しかし怪我を治した時は涙をにじませながらもささやかな礼をする彼女のことが、ガブリエラは別に嫌いではない。

「ガブ、のほうが本名なんだろ、きっと。cub、がなまったんじゃないか?」
「あはは、そうかも」

 彼女たちの言った意味がわからなかったので、ガブリエラは首を傾げ、娼婦の怪我を治しながら、ケチャップたっぷりのポテトを頬張った。

「でも、あなたに名前が合わないどうこう言われてもねえ」
「ああ?」
「だってそうでしょ、キャンディ」
「キャンディスだ! お前こそ名前だけは勇ましいじゃねえか、ええ? ヴィクトリア」
「何よう」

 そしてその会話どおり、タンクトップから伸びた逞しい腕をみなぎらせて怒鳴るキャンディスは非常に勇ましく、唇を尖らせてぷうと頬を膨らませたヴィクトリアはたいへんに可愛らしかった。

「シュテルンビルト、ねえ。あっちって雪が降るのよね。あなたたち見たことある? 雪」

 ヴィクトリアの問いかけに、キャンディスは「ないね」とぶっきらぼうに言い、ガブリエラは首を振った。
 雨が降るのも稀の土地から来たガブリエラは雪を見たことがないどころか雪という存在自体を知らなかったし、そもそも“寒い”と感じたことすら片手で数えるほどだったので、ヴィクトリアは「あたしより物を知らない子がいるのね」と笑い、雪の説明をしてくれた。

 空から降る、ふわふわした氷。真っ白に降り積もるもの。

「ゆき……」
 初めて知る未知のものに、ガブリエラは目を輝かせた。その反応に、ヴィクトリアがやはり美しく微笑む。
「私ねえ、小さい頃に雪が降る所にいたことがあるの」
 ヴィクトリアはやけにゆっくりした口調で言いながら、その口で説明した雪のように白い猫を撫でた。

「どこだったのかしらね、あれ」
「雪ってんなら、ここらじゃねえことは確かだなあ。かなり遠いところだろうな」

 キャンディスが、新しい煙草に火を着けた。
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BY 餡子郎
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