#129
 Twinkle, twinkle, little star,
   ──きらめく、きらめく、小さな星よ
 How I wonder what you are?
   ──あなたは一体何者なのか?
 Up above the world so high,
   ──世界の果ての、遥か彼方
 Like a diamond in the sky.
   ──天空のダイヤモンドのように



 コンチネンタルノースエリア。
 かつては楽園とすら呼ばれ栄華を誇った王国の、壮麗なる王城。そして現在は世界最小の国土面積を持つ市国として登録され、◯◯教総本山として機能する荘厳な大聖堂。目眩がするように高い天井に、彫刻がないところがないような大理石の壁はひたすらに壮麗だ。
 そして中でも関係者しか入れない秘された奥の部屋で、アスクレピオスホールディングスシュテルンビルト支部長にしてヒーロー事業部部長ダニエル・クラークは、笑みとも無表情とも取れないビジネス用の表情を浮かべ、何対もの目と対峙していた。

「ではホワイトアンジェラの身柄を要求した神父3名について、そちらは関与していないと?」
「その通り」

 司祭服を着た老人は、簡潔に返答した。
 豪奢な司祭服の刺繍や装飾は、彼らの間にある巨大な金のテーブルや壁や床にびっしりと施された彫刻や文様と意匠が非常に似通っている。それはまるで、彼らがこの大聖堂の一部であるかのような印象を抱かせた。

「ウロボロスについては──」
「剣の民は剣の民のままに」
 司祭は、機械的に言った。
「杖の民よ。我々星の民は、この星を正しく廻らせることのみを理念として存在している。剣の民のあり方については、我々の与り知らぬこと。よって杖の民、君たちのあり方についても同様」
 つまり他の勢力については基本的にどうでもいいし、己たちの益になるのであればどことでも手を組むということだろうとダニエルは思ったが、もちろん表情には出さない。仮に表情に出した所で、この地に根ざす古い亡霊たちは微動だにしないのだろうがとも思いながら。

「では、あともうひとつ。ライアン・ゴールドスミスという者から手紙が来ているでしょう。それに返事を出してもらいたい。証書もこちらに同封を」

 侍祭のひとりが、司祭に耳打ちするように何か言っている。おそらく手紙のことを言っているのだろう。誰かが目を通した後、無かった事にされてどこかに仕舞われているだろう手紙のことを。
「よろしい。文面は?」
「こちらで用意している」
 ダニエルの申し入れに司祭が頷くと、左右それぞれにずらりと並んでいた侍祭たちのうち、最も司祭に近い所に立っていた者が、音もなく退室して行った。



「どうでした?」

 観光客用のゲートを出ると、いつの間にか立っていたスーツ姿の男が声をかけてくる。
 ダニエルは突然現れた彼に驚きもせず、そのまま悠々と歩き出した。かつての王国の時代そのままだと言われる数百年ものの石畳を、現代的なブランドものの革靴が踏みしめる。

「どうにかなったよ。まあ、たっぷり足元を見られたがね。金額聞く?」
「遠慮しときます。勤勉に働く気が無くなりそうなんで」
 どこかユーモアのある仕草で、彼は肩をすくめる。
 分厚い上に色付きの眼鏡をかけた、仕立ての良いスーツを纏った痩身の男。ダニエルの専属秘書、トーマス・ベンジャミン。──と、現在名乗っている男。
「そういう相手だと割り切るしかないかな。値切った途端に帰れと言うような連中だ」
「ウロボロスといい、話が通じない奴が多すぎませんかね」
「まったくもって心から同感だよ」
 ダニエルは、深く頷いた。本当にまったくだ、と。
 だがこれは商談でも取引でも、ましてや駆け引きでもない。ただの確認作業である。彼らが、時代に取り残されずに現代に適応しているかどうかということの。
 そして彼らは夢や幻想の欠片すらなく、徹底的なまでに現実的だった。

「君の方はどうだね」
「あっさり頂戴できましたけど?」
「おお、さすがプロだ。はっはっは」
 朗らかに笑うダニエルに、彼は呆れた顔をした。
「さすがってねえ、仮にも試験雇用中に俺がこんなことしたってバレたら、世界中大騒ぎになるんですけど。マジで」
「バレなきゃいいんだよ」
「はあ、相変わらずのボスでございますことで」
「融通のきく上司の方が君も好きだろ」
 違いない、と肩をすくめ、入り組んだ路地に入ったところで、彼はダニエルに棒状のものを軽く手渡した。

 棒に巻き付けられるようになっていたのは、A2ポスター程度のサイズの布。
 かなり古い布である。広げた図柄は、4つに分けられた盾のそれぞれに、剣、ゴブレット、金貨、杖、中央には、輝く星。そして周囲には、お互いの尾を食んで円環状になった2尾の蛇が描かれた紋章。──『セラフィムの輝き』だった。
 ただし、蛇の片方は真っ黒に焼け焦げている。

「これ、盗ってきちゃって本当に大丈夫なんです? あとで大騒ぎになるんじゃ」
「いや? どうせあいつらはこんなものに興味はないさ。試しにそこいらのガラクタ屋で売ったって、二束三文にもならないし」
「まあ、実際どうでもいい感じの引き出しに入ってましたけど……」
「だろう? 実際に儀式とかで使うのはレプリカだしね」
「本当に価値が無いんですかい? ここが焦げてるから?」
「これが本物──玉座の上に掲げられてたものだってことを証明するものが、何もないからね」
 ある意味職業病なのだろう、価値について突っ込んでくる彼に、ダニエルは言う。
 かつてはかの王国の国旗でもあったその意匠に込められた意味を知っている者は、もう今は多くない。だが、知識があれば推測することも難しくはない。
 それぞれのシンボルは、楽園と呼ばれた王国を構成するものを象徴している。

 剣は武力や軍隊、あるいは騎士の身分。
 金貨は財力、商人。
 杖は知恵の象徴であり、労働力としての民の身分も示す。
 ゴブレットは溢れる生命、王族や貴族、あるいは尊き志や愛。

 これら4つが一丸となって、天使の最高位である熾天使、セラフィムが示す星に至る。これはそういう暗喩の図柄だ。またこの4つは、現在はスペード、ダイヤ、クラブ、ハート、すなわちトランプのスートとしても使われている。

「なんでここだけ焼かれてるんです? えーと、羽がついてない方の蛇」
「いいや、この頃の紋章の蛇は両方とも翼がついていたんだよ」
 現在の『セラフィムの輝き』にある2尾の蛇は、片方にしか翼がない。
「へえ」
「これはルシウス3世と、ミカエラ姫の象徴だ」
「ルシウス3世っていうと、確か王国を滅亡させた王様でしたっけ」
「そう。そして彼の姉ミカエラ姫、彼女は天使だった」
 さらりと言ったダニエルに、彼がきょとんとした顔をする。

「彼女は星からやってきた。永遠の命を持ち、王とともに人々の手を取り翼を授け、輝ける星に導く天使だったのだ、と……」

 まあもちろん伝説だけどね、とダニエルは肩をすくめ、ちらりと後ろを振り返る。

 かつて王城だった、今はただ静かなばかりの、巨大な大聖堂。
 玉座の上に掲げられていたこの紋章がなくなった今、あれが本当に壮大なばかりの墓標に過ぎなくなったことを知っているのは、ダニエルだけだ。この場所の正体は壮麗な王城でもなく荘厳な聖堂でもなく、古い亡霊たちと魑魅魍魎が蠢く死者の都、ネクロポリス。
 だがダニエル自身を含めて誰も彼も、もうそんなことはどうだっていいのだ。魍魎どもとて、気にしてもいない。これはただの感傷だ。

「結論から言うと、ミカエラ姫がルシウス3世と敵対したことで王国は崩壊した」

 王国の最盛期を作り上げ、輝きをもたらせし者、明けの明星とさえ讃えられた王でありながら、同時に滅亡もさせた堕天の王・ルシウス3世。
 そして彼と共にあり、彼を輝ける星に導いたとされる天使・ミカエラ姫。
 彼らこそが王国の要であり、彼らあっての楽園だった。

 だがミカエラ姫は元々NEXTを魔女と呼び迫害することを良く思っておらず、ルシウス3世のやり方を咎めていた。それを彼はとうとう聞き入れず、しかも王国の領土を広げる最中、更なる欲を出した。迫害して追い出した魔女たち、すなわちNEXT能力者らが作った街・シュテルンビルトを奪おうとしたのだ。
 それを決定打にしてミカエラ姫はシュテルンビルトを本格的に擁護し、ルシウス3世と敵対。ルシウス3世が率いる王軍と、ミカエラ姫の支援するシュテルンビルトの人々の戦いが激化する中、その隙を突いて起こった本国での内乱、更にそれに付け入った他国の侵略で王国は滅びた。
 王もその血族も皆殺し。ミカエラ姫も戦いの最中で死んだとされている。

「死んだんですか、お姫様。天使っつってたのに?」
「うん。だから死んだんじゃなくて星に帰ったとか、──もしくは」
「もしくは?」
「今もどこかで、人々を見守っている」
「お伽噺ですねえ」

 肩をすくめて軽いコメントをした彼に、ダニエルはただ目を細めて微笑み返した。
 王も王国もその繁栄も、そして天使も輝ける星も、全ては失われた。だが現在も、その名残は残っている。

 まずは王城を大聖堂として受け継いだと宣言し成り立つ、ここ◯◯教総本山。

 魔女と差別や迫害を受けて王国から逃げ出したNEXTたちが、自分たちの楽園を求めて作りあげた星の街、シュテルンビルト。

 そして、生き残ったもののどこからも受け入れてもらえず追放された敗戦者たちが食い詰た挙句に罪人になり奴隷になり、船に乗せられ流されて、辿り着いた大荒野の果てにやむなく作った、無法地帯の罪人の街。
 戦争で多くの人々を殺した彼らは、また後に起こった別の戦争による地雷によって、現在も子々孫々が陸の孤島に取り残され、焼けた地を這う蛇のように惨めに干乾びて死んでいく。その様を、天使と星を失わせた天罰だという者もいる。

「ルシウス3世も死んだんですよね? 他の王族たちは?」
「……他の王族たちは罪人の街に行ったというか、行かされたという説がある」
 ミカエラ姫とルシウス3世が敵対したことで、大きな戦争に繋がった。王族でありながら彼らの諍いを止められず世を乱した戦犯として、犯罪者たちの慰み者にされた挙句に一緒に追放されたという説だ、とダニエルは語った。
「主要人物がふたりとも死んだものだから、責任をなすりつける存在が必要だったのは確かだろうね」
「ははあ。時代は変われど、人間のやるこたいつも同じようなもんですね」
 手脚をもがれて蛇になった罪人として、荒野に打ち捨てられた、生き残りの王族たち。その後、彼ら彼女らがどうなったかはわからない。

 だが王国の滅亡によって、得た者もいる。それこそが、星の民と言われる人々。
 金貨を儲けるために戦争を煽った商人、それに乗った貴族、そして◯◯教徒の人々である。

 善を行えば天使に導かれ星に至る。
 当時はそんなシンプルな教義であった◯◯教を彼らは改変し、利用し、表向きはどこにも属さぬとしながら、その実、富が得られるのであればどことでも手を組むようになった。ウロボロスとも、ギャングや犯罪シンジケートとも、各国政府とも。
 だがそれはかつてのような、単なる欲によるもの、ともまた違う。長く続いた激しい戦争によって、彼らもまたひとつ悟ったのだ。楽園の星などない、と。

 彼らに信仰があるとすれば、それは金だ。
 金は天下の回り物とはよく言ったもので、金の巡りがこの星の廻りそのものであると彼らは考え、出来る限り稼いでは大きくばらまき、また稼いではばらまくという行為を、巨大な機械のように延々と繰り返している。
 そこには善も悪も、信念も愛もない。目的はひたすらに金貨、それのみ。富を持ちそれを巡らせることこそが正しい世界の理、世界を牛耳り平定する要なのだと彼らは断じているのだ。その姿は、まさに金の亡者そのもの。だがそれを、彼らは欲抜きに正義としているのだ。

 彼らはもはや、楽園の星を目指してはいない。天の星に手を伸ばすより、天使を撃ち落としてダイヤモンドを得ることで、今いる星を廻らせることを選んだ者たち。金貨こそが自分たちの星の輝きだとみなした、容赦なく即物的な現実主義者たちの集まり。
 彼らは何を脅威とも思っていないし、何に執着してもいない。回転を続ける星が、その渦の中で何が生きて何が死んでもまるで気にせず、機械的に巡り続けるように。

 そしてまさに拝金主義の極みである彼らは、容赦ないほどに現代に生きている。
 現在の彼らが、星に至るための複雑な思想が込められた『セラフィムの輝き』をどうでもいい引き出しの中にぞんざいに打ち捨て、十字の中央に星を置いた、──つまり金貨の輝きを狙う意匠を、世界中で堂々と使用しているように。




「ヒーローたちはどうしているかな」
 飛行場に向かうタクシーに乗りながら、ダニエルは尋ねた。
「アンジェラが予想以上に起きないんで、王子様が情緒不安定みたいですよ。アンドロイドを調べて、ウロボロスと関係あるかもっていうのは掴んだみたいです」
「そう。まあウロボロスについては、バーナビー君あたりが多少情報を持ってそうだしね」
「あー、切れ者ですしねぇ。……で、蛇どものほうの目的は結局何なんです?」
「知らないよ。黒ミサ騒ぎもいい加減にして欲しいもんだ」

 宗教の皮をかぶった金の亡者たちと違い、あいつらこそが宗教だ、とダニエルは思う。しかも手のつけられない狂信者である。そういう輩は何をするかわかったものではないし、理解しようとしても出来ない。
 哀れだと思うが、悲しみと怨嗟の果てに亡霊になったような彼らと、今更言葉が通じるとは思えない。できるのは、せめて新しい蛇となる前の者たちを片っ端から保護することだけだ。

 星の街を巡って戦った、剣の民。
 NEXTは奴隷になるか魔女として殺されるかしかなかった王国で、特に強い力を持つ能力者は人権のない奴隷兵器として使われた。能力を制御し行動をコントロールするという、もう失われた技術があったとされている。
 しかし戦いの最中彼らはその首輪をもぎ取ることに成功し、反逆を起こし、シュテルンビルトを作ったNEXTたちと結託し、王国軍の剣の印を奪ってそのまま使い始めた。

 彼らはやがてその紋章を改変し、自らの尾を食む蛇、己のみで永遠を表明する蛇と剣の紋章を用いはじめた。蛇の頭には、現代でもなお剣を忘れていないことを示すスペードのマーク。

 羽のない蛇は、天使に四肢をもがれ地を這うことしかできなくなった罪人の象徴だ。しかし蛇と蔑まれた我々こそが選ばれし永遠の者であると謳った彼らの蛇に、天の星に至るための翼はない。
 しかし作り上げた星の街をその後の戦いで再び奪われた彼らは、更なる怨念を抱え、星を見限り、毒牙を研ぎながら地下に潜った。ウロボロス、と自らを称して。

「で? ヒーローたちに手を貸してやらないんで?」
「僕が何のためにここに来たと思ってるんだい」
「自分たちのため」
「ぐうの音も出ない。うーん、でもねえ、僕が矢面に出るのはねえ、やっぱりねえ」

 ダニエルは、一般人だ。杖を持って勤勉に働く、社会の歯車にして真の民。

 ──杖の民。

 王国崩壊後、導く王を失った民たちは、ただ嘆いた。
 嘆くだけで何も出来なかった彼らはほうぼうに散らばり、その後黙々と知恵を高め、研究し、民の役目である勤勉さを果たし、産んで増やすように、枝を広げるように手を広げた。

 憎悪と怒りとともに蛇のように地に潜んだ剣の民や、ちゃっかりと狡猾に城の抜け殻に居座り金貨を数える星の民とは違い、真の“民”である杖持つ者たちは明確に存在をアピールする事なく、千千に散らばって現代社会に順応していった。おかげで、今まで存在自体がほとんど認知されていない。

 だがその間に、彼らは学んだのだ。民は群衆、群体であり、ひとりひとりの個がない状態でこそ、真の力を発揮するということを。
 顔のないその他大勢が集まることで民衆は英雄さえも引きずり下ろす得体の知れない力の渦になるということを、民主主義が台頭しインターネット技術が世界の通信網の中心となったこの現代において、彼らは悟った。王国と英雄の時代は、たったいま真に終わろうとしているのだと。

 アスクレピオスの杖。
 羽根もないただの蛇が杖に登って空を見上げて考え込んでいるだけの地味なシンボルは、誰にも重要視されてはいない。──少なくとも、今現在は。

 ヒーローとは、困った人を助け、悪い奴をやっつけるもの。
 それでいて絶対に人を殺さない、王ではなく市民を守るもの。
 古代の血なまぐさい英雄ではなく、この現代に生きる、清廉潔白できらきらと輝く美しいヒーローを、顔のない群衆、群体として生きる杖の民は手放しで愛し、新しい星として崇め、ファンとしておおいに応援しているのだ。

 ダニエルもまた、ヒーローが好きだ。イチオシはステルスソルジャー。誰にもわからないように裏で暗躍し、いいところで登場して見せ場をかっさらう渋いヒーロー。ああありたい、と思わせる姿。
 だが、憧れるだけだ。自分にそんな力はない。精々が真似事程度。
 天使から翼を与えられたわけでもなく、毒牙を剥いて鬱々と地を這うわけでもない。生まれつき手脚のないただの蛇にできるのは、精々が知恵という杖に必死に巻き付いて、じっと空を見上げるだけ。
 それでも蛇は、幸福なのだ。勤勉に少しずつ杖を登り、美しい星をただ美しいと眺め、同じような仲間たちと一緒にああだこうだと星の話をしながら、寄り添って暮らせればそれでいい。
 あくまで個のないその他大勢、いわゆる普通の人々。その時の力や歴史に流されるまま、無力であるがゆえに無責任なオーディエンス、それが彼ら杖の民だ。

「今回手は回しておいたから、そこからヒントを掴むだろう」

 ライアンが総本山に手紙を出したと聞いて、ダニエルは笑いそうになった。知らないこととはいえ、魑魅魍魎蠢くここに馬鹿正直に手紙を送るなど、子供がサンタ宛の手紙を海に流すより有効性がない。その手紙に、好きに数字を書き込める小切手でも入っていれば別であるが。
 良くも悪くも彼はやはり根っから善良で、若さゆえにまっすぐで、愛に誠実な王子様なのだとダニエルは思った。ダニエルにはそれが好ましいし、そしてまぶしい。ヒーローはそうでなくてはいけない、と誇らしくもある。

 長い時間を経て、杖の民は、今こそ流れを掴もうとしている。
 今度こそ、我々はただ歴史に流されるだけではないと。
 彼らは溜め込んだ知恵を絞り、交渉するための財産を蓄え、争いを無くす方法を模索してきた。ただ民らしく勤勉に暮らしていくために、自らが直接武器を持たずに蛇をやり込め、搾取されず対等に金貨をやり取りする方法を杖の民は求め、そして今実行しようとしている。

「どうしたものかな……」

 今まで誰からも見向きもされず、ただ黙々と勤勉に知恵を溜め込んだ杖の民が今になって手にしたのは、天使の翼を持ち、そして何かを傷つける力を一切持たないサポート特化ヒーロー。突然舞い込んだこの切り札を、どう切るか。そして彼女を守るために雇い、しかし今は自ら彼女の手を取った黄金の翼を持つ王子様は、どう動くか。
 彼らは新たなる繁栄を示す生命の聖杯となるか、王となるのか、それとも本当に天使のように、新しい時代へ人々を導くのか。
 杖の民は、手の届かぬ天空の輝きを眺めている。彼らにとって星は自ら至るものではなく、支配し巡らそうとするものでもなく、妬み憎み堕とそうとするものでもない。
 杖の民にとっての星は、ただうっとりと眺め、憧れを懐き、時に拍手や声援、あるいは野次を飛ばしながら、夢を見させてもらうもの。身の丈にあったそのやり方こそが、彼らにとって至高のものだ。


 Twinkle, twinkle, little star,
   ──きらめく、きらめく、小さな星よ
 How I wonder what you are?
   ──あなたは一体何者なのか?


「ま、一般人は一般人の仕事をするだけさ。君ももうひと頑張り頼むよ」
「具体的には?」
「そうだなあ、とりあえずは、次の出番に向けての心の準備とか……」

 古い街。
 かつて天使がいたという楽園の跡を、タクシーが駆け抜けた。










 地雷原を抜けたあと、ガブリエラは倒れ込むようにしてそのまま夜を明かした。

 そして夜が明けると、今度こそ、本来目的としていた道を歩き始める。小分けにした荷物は引きずっている間に一部なくしたものもあったが、幸運なことに、大事なものは全て揃っていた。

 そしてまる2日も歩き続けると、進行方向に向かうトラックが走ってきた。遠目からでも子供とわかるガブリエラに、怪訝そうな顔で運転手が顔を見せる。タンクトップを着てサングラスをかけた、黒人の、筋肉質で力強そうな女性だった。

「えっ、なんでガキんちょがこんなとこいんの。なに? 捨て子?」

 数カ月ぶりに人が話すのを聞いたガブリエラは、なんだかあっけにとられて、ぽっかり口を開けて女を見た。
 女は一見黒髪をひっつめていると思ったが、よく見ると細い編込みを何本も作ったものをひとつに束ねているのがわかる。初めて見る髪型だったが、ラグエルの編み込んだたてがみを思わせるそのスタイルに、ガブリエラはぼんやりと見入る。

「ちょっと、マジで子供? オバケかと思ったんだけど」
「おもったんだけど? おばけ? だけど?」
「は? オバケなわけ?」
「おばけなわけ? ガブ、おばけない」
「……なんかヘンな奴だな。まあいいか」

 言葉はあまり通じなかったが、乗ってく? という女のジェスチャーは理解できた。ガブリエラはぼんやりした心地のままこくりと頷き、おぼつかない動きで助手席によじ登る。

「おー……」

 久々に乗った車、しかも見たことのないほど大きなトラックに、ガブリエラは少し興奮する。やがて、女がアクセルを踏んだ。
 道の両脇には、きっと星の数ほど地雷が埋まっている。しかしその中を、トラックは全く安全にものすごいスピードで進んでいく。本当に何もない道を、大きなトラックが全速力でかっ飛ばすのはなかなかの快感だった。



 いくらかしてから、トラックが停まる。
 ガブリエラは荷物の積み下ろしを手伝うことで、乗せてもらったお礼をした。
 女は、荷物を食うなよ、というジェスチャーをしつこく行い、ガブリエラはそれにいちいち頷いた。荷物はほとんど缶詰だったが、箱入りのシリアルなども多くある。腹が減っていたガブリエラはごくりと唾を飲んだが、ぎゅっと口を閉じ、よだれが垂れるのをこらえて荷物を運んだ。
 すると女が、運転席にあった、セロファンの包み紙が溶けて張り付いた飴玉を投げて寄越してくれる。久々に食べた強い甘みは、とてもおいしかった。

 ガブリエラが臭うので、女は、砂まみれのトラックを洗車をすると同時にガブリエラにも水をぶっかけた。ガブリエラとしても体を洗いたかったし、暑い中で水を浴びるのは気持ちが良かったので、ありがたく水を使わせてもらった。かなり長い間まともに洗っていない身体は垢だらけで、せっかく貰ったきれいな刺繍の服も、真っ黒になっている。
 女が小さく溶けかけた石鹸もくれたので、ガブリエラは自分自身とともに、奥方が刺してくれた刺繍がきれいになるまで丁寧に服を洗った。

 日差しが強く乾燥した気候は、洗った服とガブリエラをあっという間に乾かしてしまう。なんとか小奇麗になったガブリエラは、ガレージを出て辺りの様子をうかがった。

 ガレージの外には、沢山の車と人がいた。こんなにたくさん車が並んでいるのを見たのは初めてだったので、ガブリエラは興奮して、色々な車を見て回った。
 ほとんどの車には普通にラジオがついていて、空調がついている車も珍しくないようだった。見たことのないおしゃれなパッケージの、メントールのにおいがする細い煙草を吸っている女性もいる。3Dホログラムタイプの携帯電話で通信している様子にびっくりしていると、持ち主が立体映像を出したり消したりして、ガブリエラをおちょくった。
 故郷ではガブリエラのように肌の白い者はかなり少なく、濃い色の肌をした人種が多かったが、ここにはちらほらと白い肌の者がいた。金髪もいる。しかし、ガブリエラのように濃い赤毛の者はいなかった。

 久々にこんなにたくさん人間を間近で見たガブリエラは、しばらくぼんやりしていた。
 興奮し疲れた、というのもある。しかし都会的な近代文明も含め、目の前の光景のあまりの長閑さは、ガブリエラにとって初めて見るものだった。
 あんまり長閑なので、つい先日死ぬ思いをして地雷原を歩いたことが、なんだか夢のように思えてきてしまう。

 あんなに恐ろしくて、一刻も早く安全なところに行きたいと思っていたはずなのに、いざこうして急にのんびりした所にやってくると、どうにも現実味がない。
 拍子抜け──、というのとも違う気がした。いつ毒虫や毒蛇が飛び出してくるかもわからない茂みではなく、何度も車が走って平らに均された硬い砂のガレージの端で、ガブリエラはちょこんと座り込んでひたすらに空を眺めた。
 抜けるような青空に浮き上がるようにして、黄色い蝶がひらひらと飛んで来た。蝶はそのままガブリエラの手の甲にとまり、ストロー状の丸まった口を伸ばし、骨の浮いた手の甲を無為につついている。
 ガブリエラは首を傾け、能力のせいで自分を花と間違えている蝶をぼんやり眺める。美しい羽はアクセサリーの材料にはならないし、食べても美味しくない上に腹の足しにもならない虫。食べるなら幼虫の頃がいいのだけど、と空腹を感じながら思っていると、空気が急にざわめいた。

「うおおおおおお、ああああ!! あああああああああ!!」

 顔を上げれば、奇声を上げてナイフを振り回している男が目に入った。
 左右とも焦点の合っていない目や、だらだらと垂れっぱなしのよだれ、おぼつかない足取り。典型的な薬物中毒者だった。周囲の人々は逃げ惑い、あるいは遠巻きに離れて野次を飛ばしたり、誰か取り押さえろと叫んだりしている。

 ガブリエラは、その様をやはりぼんやりと見ていた。
 するとその視線を感知したのか、ナイフを振り回す男と目があう。蝶は、相変わらずガブリエラの手を無意味に突いていた。

「おまあああ◯◯◯るぁあああああああ! ◯◯◯◯◯◯◯◯◯!!」

 おそらく言葉がわかっても意味不明なのだろう奇声を上げて、男がこちらに走ってくる。きゃあああ、と女の悲鳴が上がったが、ガブリエラにはどこか遠く聞こえた。

 ──ああ、欠伸が出そうな光景だ。

 こちらに向かってくるナイフのエッジを、ガブリエラは目を逸らさず見ていた。呑気なスローモーションの世界の中、ガブリエラは手入れのされていないナイフのエッジが少し錆びていることなどに気付きつつ、振り下ろされたナイフを当たり前に避ける。
「ああああああああっ、ああ、ああっ!! ああああ!!」
 男は奇声を上げて何度もナイフを振りかぶってくるが、ガブリエラはすべてひょいひょいと避け続けた。
 どこから来るのか、どこに当たれば怪我をするのか一目瞭然の小さなナイフ。そんなものを避けるのは、本当になんでもないこと。ガブリエラは自然にそう感じ、そして感じたままに行動した。
 だがヤク中の男が滅茶苦茶に振り回すナイフを軽々と避け続け、しかも逃げようともしない小汚い子供に、ギャラリーは呆気にとられている。

「────────!!」

 何度ナイフを振り回しても目の前の子供が死なないせいか、男は狂った動物のような、少なくとも知性ある人間が発したとはとても思えない声を上げた。
 ビリッ、と実体のない刺激が肌を刺す。
 その刺激にガブリエラは、きゅう、と目の奥が収縮するような感覚を覚えた。身体の奥からにじみ上がってくる、火照るような熱。そのくせ、流れる汗は氷のように冷えている。背骨の中を、腹を空かせた虫が這い上がってくるような震え。
 随分ぬるくはある。だが、1歩でも間違えたら終わるのは確か。

「──ふふ」

 その瞬間、男がガブリエラの目の前から消えた。
 突然のことにガブリエラはフードの下できょとんと目を丸くし、視線を下げる。すると筋肉隆々の数人の男たちが、おそらく真横から渾身のタックルをしてヤク中男を地面に叩きつけていた。
 ナイフ取りあげろ、ロープ持って来い、おいヤク中は噛むぞ気をつけろ、どこの馬鹿だ、保安官を呼べ! 口々にやいやい怒鳴り声が上がる中、男はあっという間に、そして呆気なく拘束された。
 ガブリエラが感じかけた感覚はもうすっかりなくなっていて、青い空と、じりじりと地面を焼く陽射しだけがやはり長閑だった。黄色い蝶がひらひらとどこかに飛んで行くのを、またなんとなく目で追う。

「おい、生きてるか?」

 その時ぶっきらぼうに声をかけてきたのは、ガブリエラをトラックで拾ってくれたあの女だった。髪も目も肌も黒い彼女は筋肉質な腕を組んで、ずんと地面を踏みしめてガブリエラを見下ろしている。
「いきてるか?」
「生きてるね。気が抜けてるのか肝が据わってるのかわかんねえガキんちょだな……。まあいいか」
「まーいーか……いきてるか……」
「来な」
 踵を返しながら顎で示しさっさと歩く彼女の後ろを、ガブリエラはなんだかぼんやりした心地のまま、蝶のようにひらひら、ふわふわとついていった。
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BY 餡子郎
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