#128
ラグエルが死んでから、ガブリエラは山岳地帯の麓付近を歩いて進んだ。
荒野を行くのがシュテルンビルトへの直線距離ではあるのだが、荒野には地雷が埋まっており、そして自然の恵みが多い山岳地帯のほうが水と食料の確保が容易いからだ。
集落の人々がいた辺りを含めた山岳地帯は雄大な大自然が幅を利かせたエリアで、動物もたくさんいた。しかしそれ以外のほとんどの荒野には、動物の姿もほぼない。なぜなら昔の戦争の時に、いくつ埋められたのかもわからないほど地雷が埋まっているからだ。
しかもいちど爆発すれば安全地帯になるタイプのものではなく、複数回の刺激が加わって爆発するタイプ。横に埋めてある地雷の爆発による誘爆はほぼせず、あくまで上部からの複数回の刺激で爆発する。更にその回数はすべてがランダムで、少なくとも200年は経年劣化しないという最悪の代物だ。
またその爆発は小型の戦車を吹き飛ばせる威力であり、人であればひとたまりもない。
ガブリエラの故郷の周囲も、この地雷がたくさん埋まっていた。囮に走らせたあの車はどちらにしろ爆発するが、もしかしたら道を逸れて地雷の上を走って爆発したかもしれない。
例外は長い時間をかけて人々が町から町を繋いだ頼りない一本道のみで、ガブリエラは最初、その道沿いにシュテルンビルトに行くつもりだった。ラグエルもそれを理解していたので、地雷のない自然のある地域に隣接したところまでたどり着いた時、緑の見える山岳地帯の方に行ったのだろう。
しかし誤算だったのは、とあるところで高いフェンスに囲まれた施設が現れ、行く手を塞いでいたことだった。しかも施設の内外には、全員同じ服を着た男たちがいた。彼らはガブリエラが知らない言葉を使い、ギャングよりもきびきびしていて、誰も彼も栄養をたっぷり取っていそうな、屈強な体つきをしていた。しかも全員、大きな銃をもっている。
それを見たガブリエラは、しばらくフェンスに囲まれた施設と彼らを観察することにした。
ガブリエラは頭が悪いが、そのぶん賢い人の言いつけは守ることにしている。何があるかわからない時、特に危険がありそうな時は身を隠し、周囲をよく観察しろというあの集落での教えに従い、ガブリエラは息を潜め、妙に近代的な建物とそこを行き来する人間を観察した。
するとしばらくしてから、フェンスの中からは時々後ろ手に手錠をかけられた人間が引きずられるようにして連れてこられ、よろよろと力なく進み出る。そして数十メートルも進んだその時、彼は腰を抜かしたようにしてへたりこみ、転んだ。
──爆発。
地雷だ、とガブリエラは察した。
土煙の中、粉々に千切れて吹き飛ぶ人間のシルエット。ガブリエラは目玉がこぼれ出んばかりに目を見開き、そして瞬時に警戒を極限まで引き上げ、すべてを観察した。
そして人間がひとりミンチになったのを見て、大きな銃を抱えた軍人めいた男たちは、遠目で見てもわかるほど大袈裟に手を叩き、腹を抱えて仰け反り、十中八九大笑いしている。
わかったのは、ああして手軽な処刑道具になるほど地雷が無数に埋まっているということ。そして、あの男たちがろくでもない人間たちであるということだ。
ガブリエラは彼らに協力を仰ぐという案を却下し、しばらく野営をして様子を見た。
あの集落のように山岳地帯付近で自然と暮らす部族ならまだしも、あの施設は明らかに近代的な代物なので、物資の流通が絶対にあるはずだ。そして、その手段は車であるはず。車が何度も通るような道なら確実に地雷はなく、安全に歩くことができる。ガブリエラは、それを見つけようとした。
しかし車が施設から出るのは、ガブリエラがいる場所とは反対側のようだった。
ガブリエラはそちらに回りこもうと思ったが、施設は山岳地帯の崖をうまく利用した作りになっていて、向こう側に回り込むのは難しそうだった。
いちかばちかフェンスを登ってみようかとも思ったが、上に張り巡らせられた有刺鉄線に触れた鳥が黒焦げになって落ちるのを見たガブリエラは、即座にその案を却下した。
そして数日の間に、もうひとり地雷原を歩かされる人間がいた。
長い髪が砂埃の風になびく、華奢なシルエット。女性だろう。しかも、引きちぎられた服がズルズルと布地を引きずっているので、何があったのかが察せられる酷い有様だった。
ガブリエラは顔を顰め、前に飛び出しかけ、しかし踏みとどまった。どこに地雷が埋まっているのかわからないのは、自分も同じだ。
どうしていいかわからずおろおろと木々の間をうろつく間も、ガブリエラはまっすぐ歩いて行く女性を見ていた。
女性は、数日前の男性よりは随分先まで進んだ。地雷が爆発するのに刺激回数の設定があるとはいえ、それはもう地雷などないのではと思わせるほどの長い距離だった。
女性はやがて、施設から離れた場所にある、背の低いサボテンが群生している場所までたどり着き、ぴたりと止まった。ここいらにああして群生するサボテンは、ガブリエラが以前貪り食べて目を回した、ドラッグの原料になるあのサボテンだ。
あれを取って戻れたら勘弁してやるとでも言われたのだろうか、とガブリエラは察した。故郷のギャングたちも、へまをやらかした下っ端などに対してよくやることだったからだ。地雷で吹き飛べば殺す手間も省けて地雷も減るし、吹き飛んだ肉片を肥料にサボテンが増えるかもしれない。万が一サボテンを持って帰ることができればそれはそれで得だという、どこまでも理にかなった、そしてどうしようもなく下衆なやり方だった。
しかし女性はしばらくサボテンを眺めていたが、突然だっと駆け出した。逃げられる、自由になれる、そんな気持ちが伝わってくるような行動だった。
だが走り出して数歩、彼女はそれ以上走ることはなかった。
遠目で見ても華奢だった体はどう粉々になったのかわからないほど粉々になり、もうもうと立ち上る砂煙に紛れて消えていった。
男たちが、楽しそうにハイタッチをしているのが見える。
ガブリエラは、絶叫する口を両手で押さえた。
ガブリエラは、その場で長いこと蹲っていた。
自分は、ヒーローを目指している。ヒーローは悪い人間をやっつけて、困っている人を助ける存在、そのはずだ。しかしガブリエラは、彼女に何もできなかった。
ただ怪我をするぐらいのトラップであれば能力を使って助けられるだろうが、靴底しか残らないほど粉々になった人間をもとに戻すことなど出来ない。
遠かったとか、辿り着く前に自分が地雷で吹っ飛ぶとか、理由は色々ある。しかし、助けられなかったのは事実だ。そして、彼女やその前の男性をあんなにも酷い方法で殺して大笑いしていた男たちをやっつけることも、とても出来ない。
──困っている人を助けなさい。愛をもってです。
──たとえ自分の身を削ってもです、ガブリエラ。
──それはとても良いことで、何よりも尊いこと。
そしてそれをしないことは、とてもとても悪いことだ。
ガブリエラは歯を食いしばり、ふたりの人間が吹き飛んだ光景を何度も思い返した。
母の言いつけを守らなかった。ヒーローを目指しているのに、あの人達を助けられなかった。それはしかたがないことではあっても、しかしどうしても悪いことなのだ。
ガブリエラは、いつの間にかこぼれていた涙を拭った。
そして、荒野を見渡す。何もない荒野だが、何かが小さく動いたのが見えた。
4つ足で走るが、立ち止まる時は後ろ足だけで器用に立つ、ネズミのような生き物。すると今度は巨大なコンドルが飛んできて、間抜けに立っていたネズミもどきを見事にその爪で捉えた。空中を滑るように飛んだコンドルは、そのまま無造作に地面に降り立ち、ネズミもどきを引きちぎって食べ始める。
「ばくはつ、しない……?」
そこで、ガブリエラは思い至った。
体重が軽ければ、地雷は爆発しないのだと。
故郷でも、街のすぐ近くとはいえ外に出て日干しレンガを作るのは、小さな子供の役目だった。
あれは子供たちの体重が軽く、何度踏んでも地雷の刺激回数にカウントされず、爆発しないからだったのだとガブリエラは理解した。実際、みっつ以上のレンガをいちどに運ぶなとも言いつけられていた。あの頃はその理由を考えたこともなかったが、今となってはそうとわかる。
正真正銘たったひとり、誰にも頼れず、故郷にいた頃よりも生き死にがかかった状況で、ガブリエラのぽんこつな脳みそは熱が出そうなほど回転していた。
あの女性がサボテンまでたどり着けたのは、彼女が軽かったからだ。
走り出した途端に爆発したのは、走ったことで1歩あたり地面にかかる力がぐっと増したから。要するに彼女の体重が、地雷が爆発しない重さの基準と考えていいだろう。彼女以下の体重でそっと歩けば、地雷を爆発させずに荒野を進むことができる。
そして彼女は華奢ではあったものの、ガブリエラよりは明らかに体重があった。
しかし光明が見えたと同時に、ガブリエラは再度はっとした。
自分ひとりならば、荒野を歩いても地雷は爆発しない。ならば、身ひとつで行けば、女性のもとに向かうことも出来たかもしれなかったと気付いたのだ。
かなり遠いので、1歩ずつゆっくり歩いたところで間に合わなかっただろう。しかしそれでも、踏み出すことは出来たはずだった。
「あ……」
助けられたかもしれない、という可能性。助けられなかったという罪が、助けようとしなかったという更に重い罪になり、ガブリエラは震える両手で顔を覆い、懺悔するように項垂れた。
突破口を見つけたものの、ガブリエラは再度悩んだ。
なぜならガブリエラひとりだけならあの女性よりも明らかに軽いが、ガブリエラには荷物がある。ガブリエラと荷物を合わせた重さは、明らかにあの女性よりも重かったのだ。
荷物を捨てていく、という選択肢を、ガブリエラは選べなかった。
荷物の中には、ラグエルのたてがみや尻尾、蹄鉄がある。ここまで自分を連れてきてくれたラグエルを、ガブリエラは絶対に一緒にシュテルンビルトまで連れて行きたかった。
それに、集落の人達からもらったものもたくさんある。もし地雷のない道までたどり着けてもそれがないとまた困るし、それ以上に彼らからもらったものを手放したくなかったのだ。
どうしても荷物を捨てきれなかったガブリエラは、必死になって考えた。
生きるか死ぬかという状況の中、欲を張る方法を懸命に考えた。
そしてガブリエラが思いついたのは、荷物をできるだけ小分けにすることだった。
といっても何度も往復するのは時間が掛かるし、それはそれで危険が増す。そのため、ガブリエラはひとつひとつ分けた荷物を、ロープでつなげて引きずっていくことにした。
一定の間隔をあけて少量ずつの荷物がくくりつけられたロープを引きずりながら歩けば、重さが分散されて爆発しないはず。そう考えてのことだった。
手持ちのロープでは足りなかったので、ガブリエラは蔓を取ってロープがわりにし、丸3日かけて用意をした。その間、最低限の水以外は口にしなかった。体重をなるべく軽くするためだ。
「あるく、あるく、あるける、ばくはつしない。しない……」
必死に自分に言い聞かせながら、ガブリエラは荒野の前に立つ。
足が震える。頭蓋骨の中に、ガチガチと歯が打ち鳴らされる音が響く。死ぬかもしれないという恐怖の中、ガブリエラは震える足を踏み出した。
「あるく……あるく……。ラグエル……」
手に握りしめているのは、ラグエルの蹄鉄。すり減ったU字型の金属にロープの端を括り付け、それを留め具にして自分の腹に巻いた。そこから長く伸びるのは、小分けにした数個の荷物。
自分で持っているのは、ラグエルの蹄鉄と、たてがみを一房。そして、最低限の水だけ。
しゅう、しゅう、という蛇のような呼吸音。
泣いてしゃくりあげた衝撃がもし地雷に伝わったらという恐怖から、ガブリエラは泣いていなかった。震える歯の間から絞り出す最低限の呼吸だけを自然に行いながら、どこに地雷が埋まっているかもわからない砂の荒野を、ガブリエラは震える足を引きずるようにして歩いた。その震えが地雷に響きはしないかと怯えながら、ガブリエラは1歩ずつすり足で進む。
その時、近くの岩陰からあのネズミもどきの動物が数匹顔を出したので、ガブリエラはぎくりとした。
ガブリエラの持つ能力が本能でわかるのか、動物たちはガブリエラに無警戒に寄ってくる習性がある。あの動物はせいぜい2キログラムくらいだろうが、集団生活をする生き物でもある。複数で寄られたら、体重がオーバーして地雷が爆発するかもしれない。
「くるな……くるな……!!」
歯を食いしばり、あらん限りの警戒を示すつもりでネズミもどきたちを睨みつけた。ネズミもどきたちの黒い目が、何かを求めるようにいくつもこちらを見ている。その視線をすべて拒否しながら、ガブリエラはまた進んだ。
1歩1歩が、生きるか死ぬかのロシアン・ルーレット。ラグエルのたてがみを手に巻き、その手で蹄鉄を握りしめて、ガブリエラは進んだ。死ぬ思いをしながら進んだ。
1歩進む。爆発しない。1歩進む。死ななかった。1歩進む……
──これは、罰だろうか。
呼吸ひとつするのにも怯え、小さな1歩1歩に生き死にがかかった試練を繰り返しながら、ガブリエラは思った。
──困っている人を助けなさい。愛をもってです。
──たとえ自分の身を削ってもです、ガブリエラ。
──それはとても良いことで、何よりも尊いこと。
──そうすれば再び天使が現れて、私達を星に導いてくれるのです。
──しかし、もしその行いに邪なものがあれば。
──その黄金の輝きで、天使はあなたを罰するでしょう。
──天使は何もかもを見通す、絶対的な存在なのだから。
助けられたかもしれないのに、助けようともしなかった。自分の命が惜しかったから、そうしなかった。更には荷物を捨てられず、この期に及んで欲を張った。
しゅうしゅうと呼吸をしながら、長く延した荷物を引きずり、すり足で這いずるように歩く自分は、まさに天使に手脚をもがれた蛇のようだ。
ならばこれは、天使に与えられた罰だろうか。
「しにたくない……」
しかしガブリエラは、呟いた。
荷物を捨てきれない。シュテルンビルトに行きたい。ヒーローになりたい。死にたくない。生きていたい。生きたい。どうしても。
しにたくない。
こんなところで、しにたくない。
いきたい。しぬ、いやだ、いくのだ、いきるのだ。
「いきたい、ラグエル……!」
ラグエルは死んだ。自分のために命を使い、死んでしまった。人々を常に見ている天使、あるいは堕天使の名前を持つ彼は、はたして星に行っただろうか。
タタ、と僅かな音。
はっと振り向くと、あのネズミもどきの動物が岩から降りて、平地を走っていた。地面を掘っているので、虫でも見つけて食べるつもりなのだろうか。
──ドン!!
爆発。
仲間のネズミもどきが、きいきいとうるさい声を上げて一斉に逃げていく。ガブリエラはその鳴き声を聞きながら、崩れ落ちそうになる足を必死に立たせた。
──なぜ。
軽いものなら地雷は爆発しないはずだ。せいぜい子犬くらいだろう重さのあの動物に地雷が反応するなど、ありえない。ありえないはずなのだ。
誤作動だったのだろうか。たまたまだろうか。いや、爆発しないほうが偶然で、本来ならネズミ1匹の重さでも反応する地雷だった?
顔を上げる。もう随分歩いてきている。安全地帯である麓はもう遠い。引き返したとしても、もし爆発しなかったのがただの偶然で、衝撃のカウントが設定値に達したら、ガブリエラはそこで挽肉だ。
いまガブリエラに見えるのは、安全などない今来た道と、あの男たちがいる施設と、果ての見えない地平線だけ。
ガブリエラは、絶望に顔を歪めた。
「い、いぁあ……」
絞め殺される犬のような声が、喉の奥から勝手に絞り出された。
ぼろぼろと、大粒の涙が溢れる。がくがく震え、崩れ落ちそうになる足を必死で立たせる。だめだ、膝をついた衝撃で爆発したら。
歯を食いしばりすぎて頭痛がする。がんがんと痛む。ポンチョを脱いで晒された肌に、日差しが焼けた刃物のように突き刺さる。
はぁ──っ、はぁ──っ、と呼吸をしながら、ガブリエラは妙に狭くなった視界の中を進む。頭がゆらゆらと揺れる。眼球がぐるぐると回る。
恐怖と緊張で、今にも腰が抜けそうだ。だがそれはできない。もし腰を抜かして転びでもしたら、きっと地雷が爆発する。
ああ、転んだら死ぬ。いちどでも転んだら死ぬ。
あの最初の男も、転んだ拍子に死んだのだ。腰抜けから死んでいくのだ。
立て、行け、と自分に言い聞かせる。
止まっていても飢えて死ぬだけ。引き返しても死ぬだけ。
ならば進むしかない。一歩ごと、ひとつしかない自分の命をベットしながら。
がつん、と何かを蹴飛ばして、心臓が止まりそうになった。転がっていったのは、砂にまみれて乾いた、白いもの。故郷で、祭りの日に見るもの。人の頭蓋骨。
空はすでに真っ赤に染まっており、あらゆる影は真っ黒に塗りつぶされたようになっている。
はっと周りを見渡せば、ここから見えるあの施設の方角や距離からして、いつの間にか、“彼ら”が歩いていた場所の付近まで来たらしいとわかった。
何人分になるのか、爆発でえぐれた歪な地面のそこここに、ぽつぽつと骨の欠片が散らばっている。
──ああ、ここは墓場だ。
故郷の街での、数少ない祭りの日。死者の日には、無数の骸骨をそこらじゅうに飾る。時折は本物の骨を。
死んだ人の写真や似顔絵や、好きだったものなどを飾って、その人の思い出話をしながら、歌って踊って、食べたり飲んだり。皆全身を白塗りにして、わざとぼろぼろの服を着て、目や口の周りを黒く塗って、動く骸骨の仮装をする。
そしてその格好で墓地まで歩き、戻ってくる。本物の死者は、そのまま墓地にとどまって戻ってこない。だが時折、“連れて行かれて”、戻ってこない者もいる。その怪談話に、子供たちはガブリエラも含めて全員が震え上がった。
──視線。
いつの間にか、遠くの薄い土煙の中に、華奢な人影が立っていた。
砂埃の風になびく、長い髪。ズルズルと布地を引きずっている引きちぎられた服。
遠くにいたと思った彼女は、どんどんこちらに近づいてくる。
「あ……あ……」
ゆっくり歩いているはずなのに、あっという間に近くにやってきた彼女の顔は、夕焼けの逆光のせいだとしても真っ暗だった。目の部分は骸骨のように落ち窪み、しかしその真っ暗な眼窩から、確かに視線を感じる。痩せた腕が、こちらに伸ばされる。
求めるように。助けてくれというように。
「……くるな」
ガブリエラは、引きつりながら呟いた。
「くるな! ば、ばくはつする、くるな、くるな! くるな! くるなあああああ」
助けを求める彼女に、ガブリエラは震える声でそう叫んだ。
そして彼女から目を逸らし、またすり足で歩く。彼女を置いて、自分だけ安全な道にたどり着こうとした。
彼女がまた以前のように駆け出しはしないかとびくびくしながら、ガブリエラは進んだ。彼女のようになるのは御免だ、あんなふうに死ぬのは嫌だ、おまえのようにはなりたくはない。そう強く思いながら、ガブリエラは彼女を無視し、拒絶した。
彼女は、彼は、誰かは、誰かが、見ている。無数に見ている。
墓穴のような爆発あとの窪みには、必ず誰かがぼんやりと突っ立っていた。そして誰を助けることもなく、捨てきれない荷物を意地汚く引きずって進むガブリエラを、真っ暗な無数の目が見つめているのだ。
ここで、彼女のようにして、一体何人が死んだのだろう。
「あぅ、ああ……、ラ、ラグ、ラグエル、ラグエル、ラグエルッ……!!」
ガブリエラは泣きながら、地雷の爆発のせいででこぼこした地面を、踏み外さないように慎重に進んだ。どんなに切り立った崖でも軽々と飛び越えたラグエルの頼もしい姿を必死に思い出しながら、ガブリエラは歩いた。
ひたすらに死にたくないと思いながら、1歩ごとに死の恐怖に泣き喚き、1歩ごとにみっともなく生にしがみつきながら。
「いや、……しぬ、しにたくない、しにたくな、ああ、」
血よりも赤い夕焼けが地平線の彼方まで支配する世界。無数の亡霊が蠢く大地。1歩踏み出すごとに命賭けの地獄の釜の底のような場所を、ガブリエラは這いずるようにして、必死に進んだ。
炎の女神様なら、どうにかしてくれるだろうか。
正義の壊し屋なら、自分も、彼女たちも助けようとしてくれるだろうか。
西海岸の猛牛戦車は、地雷もへっちゃらなのだろうか。
空の魔術師なら、空を高く飛んで、簡単に向こう側に連れて行ってくれるだろうか。
だが、誰も助けてくれはしない。助けられたことなどない。故郷の街にヒーローはいなかった。そして今も、誰も。
「シュテルンビルト、に」
悪者をやっつけて、困っている人を助ける者たち。
ヒーローがいる星の街へ。
「……いきたい、いきたい、いきたい、いきたい、行きたい、生きたい……!!」
縋り付いてくる亡霊を振り払い、命を懸けて、ガブリエラは進み続けた。
どのくらい進んだのか、もうガブリエラにはわからなかった。
熱射病か熱中症かわからないが、頭がぐらぐらする。節約してちびちびと口にしていた水を、とうとう一気に煽った。
「ふ、ぅ──っ……」
ガブリエラは、大きく息を吐いた。数年ぶりにそうしたような気分だった。
水分を取ったせいか、しばらくしゃがんで休んだせいか、少し気力が回復する。そして、もう辺りが暗いことにも気付いた。空気も少し冷たくなっている。
その瞬間、ガブリエラは不思議と視界や、頭の中が明瞭になったことを感じた。そしてそれによって、気付く。目の前にある、妙に踏みしめられた平らな地面。
よく見れば、それは、まるで大きな線のように続いていた。更にその脇には、針金を渡した杭が一定間隔で打ち付けられてさえいる。道として作られたというより、車が何度か通っているために自然と道になった、そんな具合の道である。
──道。
ガブリエラは大きく目を見開き、慌ててその道の上に行く。杭の近くに生えているぺんぺん草をちぎって、においを嗅いだ。ガソリン臭い。信じられずに、口にも入れた。間違いなくガソリン臭い。
ガソリン臭い。つまり、車が走っているということ。
理解した瞬間、ガブリエラは腰を抜かしてその場にへたり込んだ。呆然とする。
──生きている。
死ななかった。生き延びた。
あれほど絶望的な状態で、それでもここまでたどり着いた。
「──ふ」
引きつった口から漏れたのは、そんな吐息だった。
途端、ガブリエラの枯れ枝でできたような背骨に、雷が落ちたような衝撃が走る。ぞくぞくとした震え。
「ふ、ふふ、ふ。……ふふ、ふふふふふふふふふ」
肩を震わせ、ガブリエラは嗤った。その声には、濃厚な陶酔が滲んでいる。
1歩1歩が生きるか死ぬかのロシアン・ルーレットに、勝った。
天使の罰を受けながら、それを姑息にくぐり抜けて生き延びた。
死んでなお助けを求めていた、かわいそうな亡霊たち。もういちど母の言いつけを守れるチャンスを与えられておきながら、ガブリエラは自分の身を優先して彼らを拒絶し、手を差し伸べようともせず、そのくせ自分の荷物だけはしっかり持って無様に這い回り、ここまでたどり着いたのだ。
ああ、なんて、なんて、──なんという“悪い子”なのだろう。
困っている、求めるものに手を差し伸べず見捨て、自分の命を大事にした。自分が力を使えば生きられるものがたくさんいても、全部無視した。母の言いつけにも神様の教えにも全部逆らって、自分のしたいようにして、結果こうして生き延びた!
「ふぁ、あああああああはははははははははははは」
ああ、なんて、なんて、なんという。
──なんという快感!!
唇の端が吊り上がる。
母の言いつけに逆らい、神の教えを無視し、そうして天使に与えられた罰をくぐり抜け、手脚をもがれて蛇になった罪人のように無様に地面を這いずって、しかしそれで生き延びた。
1歩1歩に命がかかった道のりを思い出すだけで、足が震える。それは正真正銘死の淵を覗き見た恐怖であり、だが生にしがみついた快感でもあった。
脚の間が濡れている。その正体を、ガブリエラはまだ知らない。
ああ、罪に罪を重ねた。罰から逃げて生き延びた。なんという罪深さ。
罪悪を醜悪で塗り込めた、その救いようのなさ、そしてその快感といったらどうだ!
信じられない。自分はばかだ。頭がどうかしている。母ではあるまいし。
げらげら笑いながら、ガブリエラは母を思った。頭のおかしい母。きちがい修道女。自分の娘にパンを与えず、飢えた子供を抱き上げる聖女。自分の身を削ってでも人を救えと言いつける母。そうあれかしと、己に天使の名前をつけた母。
ああ馬鹿馬鹿しい。何が聖女だ、何が天使だ。ただのきちがいのくせに!
「ひひっ、……ア────────ッははははははははははははあああああああ」
目を見開き、喉を反らして、天を見上げる。
涙で濡れた眼球が冷たい空気でひんやりとして、最高に気持ちがいい。
砂のにおいも死臭もしない、きよらかに澄みきった空気を胸いっぱいに吸い込む。
血のように赤い夕焼けはもう過ぎ去り、空には無数の星が煌めいていた。
きらきら、きらきら。
絶対的なまでに美しいその空に、この世界はやはり絶えずぐるぐる回り続けているのだということをガブリエラは確信する。
どんなに賢くふてぶてしい馬も寿命が来れば食えもしない腐肉と化すように、かわいそうな人間が地雷に容易く吹き飛ばされるのと同じように、恐ろしい亡霊も、太陽がのぼって沈み、星がめぐることには逆らえない。
そのくせ、罪に罪を重ね、罰から逃げて醜悪に這いずり回った自分がこうして目的地にたどり着き、歪んだ快感を貪ってのうのうと生きている。世界はどこまでも残酷で、容赦なく雄大で、勝手にぐるぐる回り続けている。
仰ぎ見た空には、方角を示す星が、ひときわ大きく輝いていた。