#013
 運転手に起こされたライアンは、ふああ、と大きな欠伸をして車を降りた。

 ライアンも免許を持っているし、景色のいいところを愛車でゆったりドライブするのは好きだ。しかしただ移動に徹するのは時間の無駄のように感じるし、移動の間に寝たり、仕事をしたり、音楽を聞いたり飲み食いしたりするほうが有意義だし、何より楽だ。
 だからバーナビーとコンビを組んでいた時も、ダブルチェイサーのサイドカー側であることに全く文句はなく、むしろ願ったりだった。
 ライオンは王様、どっしり構えているべきだ。走るのは兎に任せていればいい。

 そして今日ライアンがやってきたのは、ゴールドステージ、いやシュテルンビルト最大の病院、兼、NEXT研究所でもある巨大施設。アスクレピオス総合病院だった。
 ヒーローたちの健康診断を行う場所でもあるここにはライアンも何度か来たことがあるが、職員用の棟に来るのは初めてだ。予め渡されているカードキーと身分証を何度かゲートでチェックされて、ロビーまでたどり着く。
 白衣を着た職員たちに何度か「ゴールデンライアンだ」「え、なんでこっちに?」などと言われながら、椅子のある場所にずんずんと歩いて行く。
 いちばん大きなソファにどっかと腰掛けると、その衝撃で、端の方にいた細い人影がぽんと浮いた。

「──あれ、あんた」
「あっ」

 同じソファに腰掛けていたその人物に、ライアンは目を見開いた。相手も、灰色の大きな目を丸くしている。
「あの時の。えー、あー」
「ガブリエラです」
「そう、ガブリエラ」
 ぱちん、と、ライアンは指を鳴らした。
 そこにいたのは奇しくも、あの日写真を撮り、サインをした相手だった。あの時の写真をなかなか気に入っているというのもあるが、他にない色の赤毛は忘れようもない。──名前はうろ覚えだったが。
「へー。髪、イケてんじゃん」
「あ、ありがとうございます」
 ガブリエラは、どこか照れくさそうにも見える様子で、小さく頭を下げた。

 一流サロンで整えただけあって、ガブリエラの赤毛はかなり見れる様子になっていた。
 前髪は作らずセンター分けにしているので、つるんとした白い額が顕になっている。後ろはうなじから耳の後ろのラインくらいまでを芝生のように潔く刈り上げてあるが、長めにしたトップの毛足が、刈り上げ部分を絶妙に隠している。
 子供のような柔らかい巻き毛で、しかもかなり珍しい色を持つガブリエラの髪を活かしたツーブロックのショートカットは、個性的でありつつ、都会的で垢抜けたスタイルだった。ガブリエラの中性的な雰囲気にも合うし、坊主頭にしていただけあって頭の形が良い上にカットの腕が一流なので、シルエットが完璧だ。首が細くて長いのでよく映える。
 また、シンプルな金色の細長いピアスが赤毛の裾野から伸びて揺れているのも、なかなかいいセンスだと思う。

 でも服は相変わらず野暮ったい、とライアンは口に出さずに評価した。首から上はイケているのに、ガブリエラが着ている服は、見るからに安物な上にいまいちサイズが合っていない、パンツスタイルのグレーのスーツだった。
 ガブリエラは、かなり細い。ファッションモデルとも何度も接したことがあるライアンだったが、ここまで細い女はそうそういなかった。おそらく、既成品では合うサイズがないだろう。吊るしの上に安っぽいスーツの中で貧相な身体が泳いでいるのは、みっともない事この上ない。しかも、持っているバッグは貧乏学生のような、薄汚れたデイバッグである。
 これなら普通のTシャツのほうがマシなんじゃねえのか、とライアンは思った。とはいえ、彼の言う“普通のTシャツ”とは、ゴールドステージのブランド店にある、少なくとも100シュテルンドルはするもののことであるが。

「あんたも仕事?」
「はい、あの、はい」
「ふーん」
 医療系だったのか、と、ライアンは特に強い興味が有るわけでもなく思った。がりがりで野暮ったい女だが、頭はいいのかもしれない。理系の女は変わり者が多いし、彼女も多分そういう部類なのだろう、とも。
「あの」
「ナニ?」
「えーと……」
 何か言いにくそうにしているガブリエラに、ライアンは片眉を下げた。
「悪いけど、連絡先はやんねえよ?」
 天下のヒーロー、さすらいの重力王子。完璧なルックスと金を持っているゴールデンライアンとお近付きになりたい者は、いくらでもいる。そんな自分に写真を撮られ、さらに再会を果たす偶然を得た女が、それを運命だと思って恋に落ちてしまうのはごく自然なことだ、と思いつつライアンは肩をすくめる。
「はい、あの、ええと、そうですか。しかし、そうではなく……」
「何だよ」
 要領を得ないガブリエラに怪訝な顔をしていると、ライアンも顔を知っているエージェントが、足早にこちらに向かっているのが見えた。
 助かった、と思いつつ、ライアンは立ち上がる。妙な期待を持たせてしまったのは悪かったと思うが、理系の変人女は趣味ではないし、3度目の偶然は起こらない。
 もうこれ以上会うことはない。しばらくすれば、運命などなかったのだ、と彼女も納得するだろう。

 ああ俺って罪な男、とライアンは己の輝きについて思いを馳せる。
 しかしその時、ガブリエラもまた、ソファから立ち上がった。
 そればかりか、エージェントに向かって「この度はお世話になります」と深々と頭を下げたのを見て、ライアンはさすがに呆然と立ち尽くすしかできなかった。






「私がアスクレピオスホールディングスのシュテルンビルト支部、代表のダニエル・クラークだ」

 研究職の企業らしく、様々な発見や賞与の表彰状などが目立つ、重厚な応接室。
 代表であるという人物は、根本が濃い色のブロンドの髪をした、50代くらいの男性だった。年齢相応に生え際が若干後ろのほうだが、清潔に整えられた髪と程よい髭のおかげで、渋い貫禄のあるスタイルに仕上がっている。眼鏡の奥の目は青い。

「ガブリエラ・ホワイトです。よろしくお願いいたします」

 深々と赤毛の頭を下げたガブリエラの苗字を聞いて、ライアンは、やっぱりそうなのかよ、とダメ押しのように思った。やはり、彼女があのホワイトアンジェラなのだと。
「……どーも、ゴールデンライアンだ。ヨロシク」
「ああ、よろしく」
 代表のダニエル・クラークは、そう言って破顔した。黙っているといかにも貫禄のあるインテリという感じだが、笑うと温和そうで、そのあたりがまた良いお医者さん、という印象である。

「アスクレピオスでヒーローを抱えるのは、ホワイトアンジェラが初めてだ。我々も手探りのところが多いが、協力しあって良い成果を生み出せれば良いと思っている」
「はい。私も努力します」
「ありがとう。そして、ゴールデンライアン。君にはヒーローとして活躍してもらうと同時に、アンジェラのサポートと、護衛を頼みたい」
「……はあ?」
 ライアンは、眉を顰める。しかしお世辞にも行儀が良いとは言い難い若者の態度を全く意に介さず、ダニエルは続けた。

「我々は、君たちをセットで売り出すつもりだ。とはいえ、バーナビーとの時とは違って能力的に釣り合いが取れないだろうから、とりあえず“アスクレピオス、ヒーローを同時に2名もお抱え!”に留めるが、一部リーグヒーローを2名というだけでインパクトはある」

 そう、これも、ライアンがなんとなく苛ついている理由のひとつだった。
 なんとホワイトアンジェラは、二部リーグではなく、一部リーグでヒーローデビューすることになったのだ。

 今回の事件により、「ヒーローは悪者を捕まえるだけでなく、罪のない人々を救う存在で無くてはならない」という意向が高まった。今までの、犯罪者を追いかけてやっつけることがメインのクライムファイター的なヒーロー像だけでなく、困っている人を助けるレスキューサポーター・ヒーローが必要だと。

 そこでホワイトアンジェラは、ヒーロー史上初の戦わないヒーロー、レスキューサポーター、つまり救助とサポート特化のヒーローとして、一部リーグで迎えられることになった。

 これにまた更に世界中の人々が注目し、ヒーローを目指すも能力がパッとしないNEXTたちは希望を見出し熱狂し、何より現場の当事者である一部リーグヒーローたちが「一理ある」としたため、驚くほどすんなりと、ホワイトアンジェラの一部リーグデビューが決まってしまった。

「ホワイトアンジェラは、ただのヒーローではない。彼女の能力が、宗教、軍隊、色々な分野で有用であることは既に知れ渡ってしまっている。この状態でヒーローとして活動するにあたって、基本的に戦闘に向いていない彼女に、自分で身を守れというのはとても心許ない」
「おいおい、ちょっと待て。俺はヒーローだぜ。ボディガードならそれ専門の人間を雇えよ」
「勿論、その人材もいる」
 ダニエルがぱんぱんと手を叩くと、黒服の屈強そうな男女が、ぞろぞろと7人も入室してきた。しかもそのうちの4人が胸に下げた身分証明には、NEXTであることを表す水色のマークが入っている。
「……へえ? 大盤振る舞いだな」
 強力なNEXT能力者であることを活かす職業として、ヒーローでなければ軍人、あるいはこういったボディーガードといった職業はメジャーである。基本的に命の保証がない、という点も同じだ。
 ライアンも、ヒーローを個人で雇用したいという富豪のボディガードに何度か就いたことがある。アポロンメディアでバーナビーと組んだ後にやった仕事もそうだ。
 しかしヒーローになれるだけのNEXT能力者を個人で雇用するのは、ギャラはもちろん各種保険などの面で莫大な費用がかかるため、さほど長い就業ではなかった。とはいえ、今でも良いコネクションとして付き合いは続けさせてもらっているのだが。

「そうだとも。我々はホワイトアンジェラを、それだけのコストをかけるべき価値があるとみなしている。そして戦闘能力のない、それでいて超有益な能力を持つ彼女の護衛として選んだのが、たまたまオピュクスと契約中であり、事故の際も活躍したゴールデンライアン、君だ」

 オピュクスとは、航空宇宙研究所・オピュクスのことだ。
 今回の件がなければ、ライアンがこれから働くはずだったところである。アスクレピオスの子会社のひとつで、その名の通り、宇宙開発事業を行っている。
 しかも最近は最新技術を用いた探査機を開発中のため、それに合わせ、重力を操る能力者というところをキーポイントに、ヒーローをしつつ宇宙開発の看板イメージキャラクターとしての雇用──、の予定だった。

「君たちを売り出すにあたっては、癒やしの聖女、天使とも言われているアンジェラを守る騎士、王子様、そんなポジションをイメージしている。ヒーローは各企業バリエーション豊かだが、お姫様と王子様という女の子ウケ確実の王道が実はいないし、良いアイデアだと思わないか?」
 ダニエルは熱く語ったが、やはりライアンは不機嫌だった。何より気に入らないのは、自分ではなくホワイトアンジェラが明らかにメインになっているところだ。ゴールデンライアンはその護衛であり、世話役の扱い。
(ふざけんじゃねえぞ)
 ゴールデンライアンは、特別な存在だ。ナンバーワンのオンリーワン、誰よりもキラキラと輝き、世界がひれ伏す、イケてるヒーロー。決して野暮ったいガリガリ女のお守りをするような格ではないと、ライアンは珍しく苛ついた。

「ホワイトアンジェラのヒーロースーツや装備は、我々アスクレピオスの技術の粋を集めたものが出来上がる予定だ。更にはNEXTのSP、そして一流のヒーロー、ゴールデンライアン。これを完璧と言わずして何と言うか」
「まあ、そこんとこは同意する」
 苛つきを表に出さないよう、肩をすくめて、ライアンは皮肉げな笑いを浮かべた。
「かといって、やはり君はヒーローだ。その活躍の場が少ないという雇用に不満を抱くのもわかる。そこで──プレゼンをさせてもらいたい。いいかな?」
「ふうん?」
 ライアンは片眉を上げ、両方の手のひらを上に向けるポーズをとった。

「聞くよ。……座っても?」
「もちろんだ。アンジェラも掛けたまえ」
「はい」
 応接セットの高級ソファに、ライアンは背もたれにふんぞり返り、脚を組んでずっしりと腰掛け、ガブリエラは背筋を伸ばし、膝の上に手を置いてちょこんと座った。
「先程言った通り、我々アスクレピオスはヒーロー事業に関して全くの新人だ。そしてホワイトアンジェラも、一部リーグでの活動は初めてで、しかもサポート特化ヒーローという世界初の存在でもある」
 大企業の代表らしく、全くもたつかない口調である。

「そこでゴールデンライアン、様々な企業での豊富なキャリアを持つ君の出番だ。我々を助けてもらいたい、ヒーロー」

 キャッチコピーのような文句を、ダニエルは流暢に口にした。
「君にはヒーローとしての役割、またホワイトアンジェラの護衛という任務に加え、我がアスクレピオスヒーロー事業部のアドバイザーという役職を任せたい」
 ライアンは、目を丸くした。そこに、ダニエルは畳み掛ける。
「君の今までの活躍は、書類上ではあるが細かく拝見させてもらった。その若さで、自らのプロデュースをほとんど完璧にやってのけている──大したものだ」
「……どうも」
「そして君の今までの行動からして、将来はプロデュース側、経営側に回ることを想定しているのでは?」
「どうかな」
「どうなんだい?」
 はぐらかしかけたライアンに、ずい、とダニエルが突っ込んでくる。さすがは一筋縄では行かねえなあ、とライアンは笑みを浮かべたまま目を細めた。

「……それで? 仮にもし俺がそういうデッカイ夢を持ってるとして、ここであんたのオファーを聞くことが、その糧になるって?」
「勿論だとも」
「ホントに? 俺、余裕を持って働きたいタイプでさあ。ギャラも大事だけど、ネームバリューも大事な職業だし」
 つまり、“自分の名前と長年のキャリアを、大企業の新規事業立ち上げに使い勝手良く利用されて、用が終わったら金だけ払ってポイってのはゴメンだ”──と暗に言ってのけたライアンに、ダニエルもまた目を細める。

「もちろん、心得ているとも」
「へえ?」
「まず、君がうちのアドバイザーになることについては、再デビュー会見の時にしっかりと公表させてもらう。これによって、うちでのヒーロー事業部経営で得られる名声はほぼ君のものだ。そしてフリーのヒーロー・ゴールデンライアンは、やり手の青年実業家としてのネームバリューも得ることが出来る。まあ、ただの事実ではあるがね」
「そりゃあ……うまい話だ。うますぎて逆に不安になってくるぐらい」
「寂しいことを言うなよ」
 ここで口調を砕いて急に距離を詰めてくるダニエルに、ライアンは、この狸爺、と罵倒混じりの高評価を行った。何が元研究者だ、これは立派な商人、ビジネスマンのやり口だと。

「うちがどれだけ儲かってるかはご存知かな?」
「ホームページに載ってたっけ?」
「どうだったかな、あとで調べておく」
 すっとぼけたやり取りをはさみ、ダニエルは眼鏡の奥の青い目をライアンに向けた。
「自慢するわけじゃないが、相当のものだと言っておこう。資金の潤沢さでは、シュテルンビルト七大企業のどこにも負けないと自信を持って言える。アスクレピオスはそういう企業だ」
 事実だろう、と、これはライアンも信用を置いた。そして実際に、シュテルンビルトで一部リーグヒーローとして活動するためには、ヒーロー本人が様々な条件を満たすと同時に、所属企業にも七大企業と同等の資本や業績を満たしていることが求められる。

 アスクレピオスホールディングスは、超巨大コングロマリット企業だ。ひとつひとつの子会社で不振があったとしても、多くの子会社全てから収益を得ているアスクレピオス本社は揺るがない。その上、多くの子会社は常に需要があり、いくらでも潰しの効く医療・製薬を中心とする研究職だ。
 そしてその揺るがぬ資本でもって、莫大な資金を必要とするヒーロー事業をいま立ち上げ、しかも超話題のホワイトアンジェラを一部リーグにねじ込んだというのは、大胆にして堅実、確かな判断だと感じる。

「そして、技術においても相当のレベルを保持している。君の個人所有となった、アポロンメディアのミスター・サイトウのヒーロースーツは芸術品レベルの逸品だが、彼はあくまでメカニックだ。その点、我々は医療・臨床面においてのNEXT研究の権威であり、それを活かした技術をホワイトアンジェラのスーツにもふんだんに盛り込む」
 そう言ってダニエルが手元の端末を操作すると、広い壁に、開発中のホワイトアンジェラのヒーロースーツの映像と、作業中の現場の様子が映し出された。
 アポロンメディアの斎藤の研究室にも似ているが、スタッフによっては、シャーレや試験管などを並べた机を前に、白衣やマスクを纏って何らかの実験をしている者もいる。
「資金、技術。すべてが潤沢に揃ったこの環境で、君の今までのキャリアを生かしてほしい。──だが君は疑っているのだね、つまり、お前たちに何の得があるのか? と」
「ストレートに言ってくれて助かる。そろそろ泣きが入りそうなところだった」
 お手上げ、ということを表すそのままのポーズで、ライアンは言った。さすがのもので、ライアンはフリーのヒーローとしてやっているだけのものを確かに持ちあわせてはいるが、やはりどうしてもまだ20代の若造であることも事実なのだ。
 支部とはいえ、総資産何兆ドルかもわからない超大企業のトップという海千山千の猛者と、ビジネスで互角にやりあえる気はさすがに起きない。ここは若造らしく、わからないことはわかりませんと言っておくのがいいと、ライアンは潔くさじを投げた。

「素直で結構」

 ダニエルは、全く裏のない様子で朗らかに笑った。
「なに、本当に単純なことさ。キャリアだけなら、ミスターレジェンドと同期の引退ヒーローがいくらでもいる。しかしヒーロー事業はまだ立ち上がって若い事業で、それそのものの土壌がまだ整っていない」
 確かに、アルバート・マーベリックがヒーローという職業を立ち上げてから、まだ半世紀も経っていない。
「まさにヒーローの群雄割拠のこの時代、かつて今以上におぼつかなかっただろう彼らに敬意を払いこそすれ、今の時代に有用なことが学べるとは思えない。真に必要なのは、今! 今この時代を、ひとりで上手く生き抜いている君が持つノウハウこそが、我々の欲しいものだ」
「なるほど?」
「だから君が我々の資金や環境にあぐらをかいた古い男になれば、いつでも切り捨てる心づもりではある」
 にこにこと微笑んで言ったダニエルに、ライアンは一瞬目を見開き、そして好戦的な笑みを浮かべた。煽られた猛獣のようなその目つきに、ダニエルは満足そうに頷く。

「まあ、要するにこういうことだ。私はデキる人間が好きだ。だから君を雇いたい。金も技術も休暇もやるし、ガタガタ言わない。そのぶん働いてくれ。評価は惜しまない」
「シンプル・イズ・ベスト。──オーケィ、あんたに雇われよう」

 ライアンもまた、デキる雇用主が好きだ。ダニエル・クラークという男の有能さを認めたがゆえ、ライアンは彼に雇われることを決めた。

「では条件を詰めよう。契約書を」
 ダニエルが言うと、秘書らしい細身の男性が頷く。そして手にしていた書類入れから、上質な紙の束を取り出した。
 ライアンは運ばれてきたコーヒーを口にしながらそれにゆったりと目を通し、ダニエルや法律関係の担当者に幾つか質問しながら認識をすり合わせ、話と違うところがないかとチェックする。問題がないと確認できたら、その都度サインを入れていく。

「アンジェラも、いいかな?」
「はい」
 ガブリエラは小汚いデイバッグから、どこかのノベルティであろう安っぽいボールペンを取り出した。そしてサインを入れるべき欄を見つけては、自分の名前を書いていく。
 その手つきもかなりたどたどしく、クレヨンを握りしめる幼児のような持ち方でペンを持ち、自分の名前をひと文字ずつゆっくり書いている。そして書かれた字は、予想を裏切らず汚い。洟を垂らして公園を駆け回っている小学生のほうがまだきれいな字を書く、と誰もが確信するほどには。
(……ろくに読んでなくねえか)
 しかも彼女は明らかに、ろくに書類の文章に目を通していない。その不用心な様子にライアンが怪訝な顔をしていると、ダニエルは少し困った様子でガブリエラに言った。
「アンジェラ、こう言っては何だが、ろくに読んでいないのでは?」
 それは後でぐだぐだ言われても聞かないぞという念押しであったが、彼女のあまりの不用心さに、単に無謀をする子供を心配するような声色でもあった。
「はあ、申し訳ありません。しかし私は文字を読むのが得意ではないので、これをきちんと読んで理解しようとすると、何日もかかります」
「う、うーむ。そういえば、幼年学校しか出ていないと言っていたね……」
「はい」
 ガブリエラは、こくりと頷いた。
 またその情報に、ライアンの口の端が引きつる。何が理系の変人、彼女がトムやディックやハリーを知らなかったのは、ただ単に超低学歴の無教養者であるせいだった。
 そう思ってよく見れば、話す度にちらちら見える歯並びの悪さからして、最底辺に近い貧困層の人間だということにライアンは気付いた。

 ちなみに、彼女が二部リーグヒーローのセルフアピールとして重要なツールであるSNSやブログを一切やってこなかったのも、この無教養が理由である。
 文盲、と言えるほど文章の読み書きが致命的に苦手な彼女は、つぶやき程度の文章すら作るのに苦労するのだ。写真の投稿だけならできるかとかつてシンディがやらせたことがあるが、何をやったのかあっという間にアカウントを乗っ取られて下品なスパムだらけになってしまい、会社から怒られて以降やっていない。連絡用に通信端末のチャットツールはたまに使うが、ほとんどスタンプ画像で返してしまう。

「大丈夫です。私は納得しています」
「そう?」
「はい。基本的なところは、前に口頭で説明していただきました。お給料もとっても良いですし。ええと、前のお給料の……約1420倍」
 ガブリエラは読み書きが苦手だが、計算なら暗算も得意だ。
 そして給料が良いという点については、ライアンも同意である。1420倍にもなったというガブリエラの給料がいくらかはわからないが、ライアンに提示されたギャラは、今までのどの仕事より高額だった。交渉する必要もないくらいだ。しかも、スポンサーの広告契約料は別途。タレントとして活動すればその都度の出演料も入るし、グッズの売上によっても少なくない割合が入ってくる。

 更にアドバイザーとしての権限も多岐にわたり、基本である“上が決めたことに口出ししてより良くする”事の他、アイデアがあればどんどんプレゼンしてもいいという。
 ダニエルが決定権を持ってはいるが、実質ヒーロー事業部を牛耳るトップと言ってもいいくらいの権限である。もっと端的に言えば、好き放題やってもいいが、責任は取らなくていい。それでいて、成功実績はライアンの手柄になる。
 破格の待遇である。それこそ、気に入らない売り方をある程度許容してもいいくらいには。

「私は頭が悪いですが、そのぶん鼻がききますし、耳も目もいいです」

 ガブリエラは、まっすぐにダニエルの青い目を見た。ライアンは、厚みのあるダニエルの肩が、少し揺れたのに気付いた。あの吸い込まれるような灰色の目には、海千山千の彼も少したじろぐらしい。
 そばかすの散った鼻の頭が、スンと動いてにおいを吸い込む。

「クラークさんは、いい人です」

 ガブリエラは、きっぱりと言った。
「クラークさん、小さいお子さんがいますか?」
「娘がいるけど……えっ、なんでわかるんだい?」
「いいにおいがするので」
 医療従事者だからか香水は用いず、消毒液と書類のにおい。抜け目なく思えるかっちりした風貌だが、たまにふわりとベビーパウダーのにおいがすることに、ガブリエラは気付いていた。あと、クレヨンの油や、チョコレートのにおいも。
 小さい子供の面倒をよく見ているからといって善人とは言い切れない、ということぐらいガブリエラも知っている。しかしそのにおいは、少なくともガブリエラにとって不快なものではなかった。
 とはいえダニエルにガブリエラの独特の感覚がわかるわけもなく、彼は若干気にした様子で、自分のスーツの袖をくんと嗅いでいる。

「ですので、クラークさんがおっしゃるなら、大丈夫。ここに書いてある難しい話はわかりませんが、私はクラークさんを信じます」
「……やれやれ。若い女の子にここまで信用されちゃ、悪いことは出来ないなあ」
「クラークさんは、おかしなことをする人ではありません」
「はい、しません」
 参った、と言わんばかりに両手を上げたダニエルに、秘書やSPたちも笑う。その穏やかな様子が茶番のように思えて、ライアンは少し苛ついた。

「うーん、では期間を決めて、その仕事を初めてやる時にマネージャーと確認して、それで良ければサインをする、というのではどうかな。文字や説明ではわからなくても、実際に仕事をすればわかるだろう?」
 子供に対する小児科医のように、ダニエルは言った。
「おお、それはとてもわかりやすいです。ありがとうございます」
「あとでトラブルになっても良くないからね。もしお互いに不都合があれば話し合おう。では、アンジェラの契約書は特別に作り直すよ。わからないことがあればいつでも質問してくれ」
 優しいというよりは、ありえないほど甘い対応である。その横で、ライアンは軽く苦虫を噛み潰したような顔をした。

 その後、ふたりの共通マネージャーになる男性や事務員、ヒーロー事業部専門の研究員などを紹介されて顔合わせをした。とりあえずしばらくは少数精鋭で行くらしく、研究員以外の人員は少ない。
 名刺の注文まで済ませたふたりは、夕方頃になって、やっとアスクレピオスを出た。






「……しっかし、この俺様に一杯食わせるたァ、やるじゃねえの」
「いっぱいくわせる?」
 アスクレピオスを出た後、なんとか余裕のある表情を作って言ったライアンに、やはり慣用句的な言い回しに明るくないらしいガブリエラは、頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げた。
「あのすみません、言葉の意味が……」
「騙しやがって、ってことだよ」
「騙したわけでは……」
 ガブリエラは、困った様子で言った。
 彼女曰く、救助してもらったライアンには常々礼を言いたいと思っていたが、どうやって連絡を取ればいいのかわからなかった。そして偶然顔を合わせたはいいがライアンは己の素顔を知らないため、どうしたものかと思っていたらタイミングを逃してしまった、ということらしい。
 その言い分は筋が通っていたし、ガブリエラがひどく申し訳無さそうなので、ライアンは、はあ、と息をついた。

「申し訳ありません」
「いいよ、もう。ったく」

 ライアンは、金色の頭の後ろをばりばりと掻いた。
「しっかし、無理があるだろ。あんたが一部ってのは」
「それは、……正直、私もそう思います」
「だろ? 何考えてんだか」
「しかし、与えられた仕事は精一杯やるつもりです」
 ガブリエラは割に背丈があるほうだが、それでもライアンのほうが20センチ近く高い。彼女は細い首を逸らして、ライアンを見上げた。
 男だか女だかわからない独特な声と容姿。そしてやけに力のある灰色の目にまっすぐ見つめられ、ライアンはつい眉間に皺を寄せる。

「ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願い致します」

 深々と頭を下げるガブリエラに、ライアンは「ああ」と、ぞんざいな返事をした。
 本人の腰が低く、それでいて過剰に卑屈でもないのがまだ救いだが、気に入らないことに変わりはない。

「……ま、仕事だしな。テキトーによろしく頼むわ」

 しかし、給料分は働くのがライアンのポリシー。
 そして何より、自分は仕事のできる男だ。護衛だろうが騎士だろうが王子だろうが、与えられたポジションがどんなものでも、結局最も輝くのは常に自分だ。
 アドバイザーという権限もある。なんとでもなる、とライアンは不敵に笑い、俯いても完璧に流れる赤毛の頭をした、どこから見ても野暮ったい、だぼだぼのスーツの女を見下ろした。
その頃のシュテルンちゃんねる:#013〜014
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る