#124
「残らないのか」
「……ガブは、ヒーローになる」

 いつもどおり厳しい顔つき、しかしその黒い目の奥に少し残念そうなものを滲ませながら言う男に、ガブリエラはしゃんと背筋を伸ばして答えた。
 ガブリエラは痩せていて初潮もまだという子供だったが、ラグエルといういい馬、つまり質のいい財産を持っていて、身体能力も高く、NEXT能力という特別な力もある。
 刺繍は下手だが狩りは上手だし、嫁に欲しいという男はいくらでもいる、と奥方もガブリエラを引き止めたが、ガブリエラは首を横に振った。

「ヒーローに、なる」

 何か大事なことを行う時は、ひとつずつ間違いなく行うこと。それは、馬に乗って兎も鳥も狙い、木の実を取ろうとするのは愚か者だという教えのとおりの行動だった。
 この村で誰かの嫁になって、子供を産んで暮らすのも素敵かもしれない。しかしガブリエラは、どうしてもヒーローになりたかった。あの星の街に行ってみたかった。星空の下、たったひとりで立てた誓いを全うしたかった。

 頑ななガブリエラに、皆は漸く諦めた。
 ひとりで山を降り、まだどれくらいあるかもわからない荒野の道を歩いていくというのは、彼らからすると無謀極まる挑戦だった。しかし確固たる目的のために危険に立ち向かうというのは、彼らにとって勇者の所業であり、敬意を持って見送るべきものだ。

 村での生活は、ガブリエラを成長させた。
 精神的な面はもちろんのこと、山羊の乳や採れたての果物、コーン、肉、野性味溢れる野の草など、栄養価の高いものを食べ、運動し、酒ではなく水を飲み大自然とともに暮らすことで、ガブリエラは背が伸び、少し肉付きが良くなった。
 世話になったお礼にとガブリエラは能力を使い、人々の怪我も治した。概ね喜ばれたが、しかしやんわりと拒否する人もいた。狩りで負った名誉の負傷であるので山の精霊とともに治したいという者や、老いによるものなので不要だと言う者、そもそも傷を特別な方法で治すこと自体に拒否反応を示す者もいた。
 ガブリエラにはよくわからなかったが、しかし能力を拒否されたことが初めてだったので、とても驚いた。
 だが、子供を産んだ後になかなか体調が戻らず出血がおさまらない、という女性に能力を使い元気になった時は、本人やその夫からだけでなく村全体から感謝された。

 伸びた赤毛は短く切り、世話になった奥方に進呈した。この村で赤い髪は初めて見るものだったらしくとても珍しがられ、奥方はガブリエラの髪を毎日櫛で梳かしてくれたからだ。
 奥方はガブリエラの髪を編んで飾りにすると微笑んでくれ、あなたの赤毛はとても珍しいので、再会する時の目印になると言ってくれた。ガブリエラは、初めてこの色の髪でよかったと思った。
 奥方は、お返しにと、銀と青い石で出来たピアスをプレゼントしてくれた。きれいなピアスを集めて仲のいい者同士で交換したり、また師から弟子に渡したりするのが、この村の習わしだそうだ。特に遠くに離れていく者に渡し、お互いにその存在を想うという。
 この村に来てから、ガブリエラも奥方の勧めで左右の耳にひとつずつピアスホールを空けている。奥方がくれた親愛の証であり、生まれて初めて身につけるアクセサリーを、ガブリエラはとても気に入った。

 研ぎ直してもらったナイフ、テントを張るための布、水筒、火を熾すための道具、奥方が刺繍を入れてくれたポンチョなどを身に着けて、ガブリエラは旅立ちの用意をした。
 食料は現地調達である。そうできるまでの技術は、すっかり身についた。

 ちらり、とラグエルがいる小屋を見る。
 彼の姿は見えないが、最近あの牝馬ととても仲睦まじい。常に攻撃的なラグエルしか見たことがなかったので、安らかな様子で牝馬と首を絡めるラグエルは、ガブリエラにとって初めて見るものだった。
 ラグエルはガブリエラの能力でとても元気だが、本来は老馬と言って差し支えない年齢である。だからガブリエラから離れればだんだん身体は衰えていくかもしれないが、この素晴らしい村で大会優勝の馬という名誉をもって生を終えるのはきっと幸せなことなのだろう、とガブリエラは思った。
 そもそも彼はガブリエラが車を失ったために一緒に行動してきただけで、本来は街を出たらそれぞれ勝手にする予定だったのだ。だからガブリエラは、いよいよ自分ひとりで旅をする時が来たのだと覚悟を決めた。

 最後に奥方から貰った羽飾りをお守りに着けて、さあ行こうとしたその時、嘶きが聞こえた。
 振り返ると、ラグエルが村の男達を振り払い、柵を見事に飛び越えてこちらに走ってくるのが見える。その後ろから、ガブリエラの世話をしてくれた男が追いかけてくるのも見えた。
 こんな手のつけられない馬、とても扱いきれん! いらいらと男が怒鳴ると、ラグエルは暴れまわるのをやめ、ガブリエラの前に立ち、──頭を下げた。

 ガブリエラが呆然としていると、ラグエルはブルルと荒い鼻息を噴いて、ガブリエラの頭を、下げた額でぐいと押した。それでもガブリエラがぽかんとしたまま動かないでいると、ラグエルは苛ついたような様子で、べっとガブリエラの顔に唾を飛ばす。

「……乗れ、と言っているのでは」

 呆れた様子で男が言ったので、ガブリエラはおそるおそるラグエルのたてがみに手を伸ばした。ラグエルはカッカッと前脚で地面を掻いたが、ガブリエラの手を跳ね除けたり、噛み付いたり、威嚇したりしてこなかった。
「ラグエル、……ラグエル、ガブを、乗せてくれる? 本当に?」
 ガブリエラが震えた声で言うと、ヒヒン! とラグエルが短く嘶いた。この馬鹿め、と言っているように聞こえる。
 その様子を見て、村の者が鞍や手綱などの馬具を持ってきてくれた。装着する間も、ラグエルはおとなしくしている。ただ、自分に馬具を取り付けるガブリエラをじっと見ていた。
 身だしなみを整えるときだけは人間に体を触らせるラグエルは、長いたてがみが飾り紐を使って綺麗に編み込まれている。ちゃんと馬具を着けると、それはそれは立派な佇まいであった。

「ラグエル、……ありがとう、ありがとう。とても、とても、……とても」

 ガブリエラは、ラグエルの首に抱きついて泣いた。
 あと何千マイルあるかもわからない道のりを自分の足だけで歩いていくのは、本当はとても心細くて怖かったのだ。

 しかし、ラグエルと馬具を村に譲ることで話がついていたので、どうしたものかとガブリエラは困った。だが村の人々は快くガブリエラを送り出し、本来ラグエルの残留と引き換えの条件だったいくつかの物品も、苦笑しながらそのまま譲ってくれた。
 産後の妊婦を始め村人の何人かの大怪我を救ったこともあるが、「誼みを通じたのだから」と言われてガブリエラは困惑し、しかしやがて涙を滲ませて、深く深く、今まで生きてきていちばんまっすぐに頭を下げた。

 ガブリエラはこの山の村でたくさんのものを得て、再び旅に出た。

 村の人々からの提案でガブリエラは当初の予定を変更し、山岳地帯の麓付近に沿ってシュテルンビルトを目指すことにした。
 砂と岩ばかりの広野を行くのは確かに直線距離ではあるが、水や食料を得るのが難しい。しかし緑のある山岳地帯付近ならばそのあたりが比較的容易であるし、ラグエルが食べられる草も多く、荒野より涼しくて過ごしやすい。生き物が多すぎて食べられるものを見分ける必要があるが、そのあたりはガブリエラはもう会得していた。

「ラグエル、ラグエル、ガブがたてがみをとかす。あっ、ここ、編み直す」

 夜、大きな岩場の影で焚き火をしながら、ガブリエラは足を曲げて腹這いになったラグエルのたてがみを自分から丁寧に梳かし、ほつれている編み込みを綺麗に直した。

「ラグエルは、ガブのともだち。いちばんの、はじめてのともだち」

 歌うように言いながら、ガブリエラはご機嫌につやつやのたてがみを編んでいく。
 ラグエルは相変わらず我儘で自分勝手だったが、ガブリエラはもうそれが気にならなくなっていた。素直に要望を聞けば糞を蹴り出してきたり威嚇してきたりもしないし、険しい岩場もまるで羽が生えているように軽々と飛び越えてくれる。彼は間違いなく名馬だった。
 それに、ガブリエラがにこにこして、嫌々どころか進んでラグエルの世話を焼くようになったことについて、彼もまんざらではないようだった。まるで従者に傅かれる王様のように、よきにはからえといわんばかりの態度。
 だがガブリエラは、そんなラグエルににっこりとするだけだ。彼の性根が腐っているのは全く変わっていないのだが、そういうものだと思えるようになった。時々以前のようにやりあうが、双方本気ではないのが、言葉がなくてもちゃんとわかる。
 そしてそのうちに、ラグエルも水場でガブリエラと水を分け合ったり、食べられる物があれば教えてくれるようになったりした。ガブリエラは、それが嬉しくてたまらなかった。
 ラグエルと旅をするのが、ガブリエラは楽しくてたまらなかったのだ。

「あたたかい。ラグエル……」

 腹這いになったラグエルの身体に突っ伏して、ガブリエラは毛布をかぶる。
 人間よりもやや高い、馬の体温が心地よい。心臓の音が聞こえる。ガブリエラをいちども抱き上げることのなかった、母の心臓の音は知らない。規則正しいエンジン音を響かせる、鉄のゆりかごも燃えてしまった。
 だが、今聞こえるのは、生きている心臓の音。初めてのともだちの体温。

「ラグエル、あしたも、いっしょに、あの星へ……」

 シュテルンビルトがある方角の大きな星を指差して、ガブリエラは言った。眠くなってくる。ふわあ、とあくびをして、ガブリエラは穏やかな気持ちで目を閉じた。

 満天の星空が、どろどろと溶けて、溶けて、──暗闇へ。






 ──ああ、イヤだ。

「ア──────────」

 ガブリエラは、泣いていた。
 悲しくて悲しくて、悲しみのあまり死んでしまいそうだった。
 鼻の奥が、目玉の裏が、焼き切れそうに痛い。喉が破れそうだ。
 心臓が千切れてしまうかもしれないというほど、ガブリエラは泣いていた。

「アァアアアアアアアアアアアアアア」

 砂埃がたつその場所で倒れたラグエルは、目を開けている。しかし長い睫毛の大きな黒い目に、もう生気はない。

「ラグエル、らぐえる、いや、あああああああああああああ」

 水もたっぷり飲んだ。食べていた草も変わりない。そもそも賢いラグエルが、今更毒のあるものを口にするなどという、間抜けなへまをやらかすはずがない。
 ガブリエラは必死にラグエルに能力を使ったが、ラグエルはすぐに一瞬目を開け、ガブリエラを見て、──しかし、それだけだった。それで終わりだった。

 能力をどんなに強く使っても、まるで穴の空いたバケツに水を注ぐように、まるでラグエルに吸収されていかないのが感覚でわかった。
 そしてこれが、ラグエルがもはやガブリエラの力を受け止める生命力がないということ、つまり老いによる寿命なのだということを、ガブリエラは理解していた。

 しかし、理解はしていたが、突然すぎた。
 昨日まで彼はとても元気で、いつもどおり、わざと険しい崖を飛び越えて得意げな顔をしていたくらいだった。ガブリエラはもう彼の鞍に自分を固定するベルトを使っていなかったが、いちども落馬したことはない。ラグエルも、ガブリエラを落馬させたことなどなかった。
 一緒に崖を飛んで、笑って、ラグエルはすごい、とガブリエラは言った。ガブのともだちは、世界でいちばんすごい馬だと。

 それなのに、突然ガブリエラは落馬した。
 崩れ落ちるようにして、ラグエルが倒れたために。

「ヒッ、アアアアアアアアアアア」

 ──ああ、いやだ、いやだ。
 ──悲しい記憶だ。とても悲しい記憶。とてもとても悲しい気持ち。

 血よりも赤く燃える夕日が、地平線の向こうに沈んでいく。
 光を失って黒く染まっていく大地と黒い馬の体が馴染んでいく様を、ガブリエラは絶望をもって見た。イヤだとどれだけ喚いても、大自然の毎日の営みは残酷に巡っていく。

「イヤ、◯◯◯、もうあるけない、ひとりで、らぐえる、らぐえる、ああああ」

 世界はぐるぐる回っている。
 日が沈みそして昇るように、生と死がある。生まれたならばいつか死ぬ。
 ガブリエラはそれを学び理解もしていたはずだったが、それを圧倒的な悲しみが上回り、すべてを覆い尽くしていた。それほどに、悲しみに支配されていた。

 真っ赤な夕暮れから、真っ暗な夜の中へ。
 誰もいない荒野の真ん中で、ガブリエラは、友の死を嘆き続けた。
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BY 餡子郎
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