#123
「あんたまだ大きくなるだろうから、少し大きめに作っておこう。それまで靴下を重ねて履きな」
「はい」
「銃はいいのかい」
「当たらず。高い」
「おや、賢いじゃないか」
 そう言って、老婆はガブリエラから取った足型をカウンターの中に持って行った。手付の金を払い、残りはブーツが完成してからとなる。
 普通、この店のブーツはギャングたちの御用達で、しかも完全オーダーメイドのそれは、それなりに稼げないと手に入れることはできない。しかしガブリエラは能力を使い、ここ1年半ほどで結構な金を溜め込んだ。
 ラグエルの馬小屋にへそくりを隠した時、彼は自分の寝床にガブリエラのものを置くことをひどく嫌がった。
 しかしこれが貯まれば街を出ていけること、手伝ってくれればお前もここから逃してやっても良いと説得すると、ちゃんと理解し、嫌々ながら金庫番もしてくれるようになった。人間嫌いのラグエルは、この街のことも大嫌いなようだった。
 おかげで、金は順調に溜まっている。

「ババア、弾くれ。いい穴が空くやつ」

 がつがつと踵を鳴らしながら、銃を2丁持った老人が店に入ってきた。
 テンガロンハットの影から見える口元はにこやかだったが、何か嫌な感じがして、ガブリエラはそそくさと店を出る。

 ガブリエラがこの街を離れようとしていることは、薄々ギャングたちにも気付かれているのは間違いない。
 しかしどうやら、比較的近く──数日車を走らせたところにある大きな街に行こうとしている、と思われているようだった。
 なぜならこの街に嫌気が差して逃げようとする者、またどうしても医者にかかりたい者、飛行機に乗って外国に高飛びすることを目論む者などなら、その選択肢しかないからだ。

 ガブリエラとて、飛行機に乗ってシュテルンビルトに行くことを考えなかったわけではない。
 しかし何か失敗をやらかして逃げようとしたチンピラがリンチされているのを見た時、外国に行くにはパスポートを用意しなければならないこと、そもそも身元を証明するものが必要なこと、飛行機に乗るためには車を買うよりも多くの金が必要なことを知った。
 そんなもの、ガブリエラには用意できない。
 それに空港のある大きな街は、NEXT差別がこの街よりもひどいのだ。未だ魔女狩りと呼ばれるNEXT狩りが行われていて、NEXTとわかれば迫害どころか拷問のようなやり方で殺されることも珍しくない。ギャングだらけのこの街のほうが、能力が有用でさえあればむしろ有利に生きていくことすら出来るので、NEXTのギャングもちらほらいる。
 こういう理由で、ガブリエラは車を使って陸路でシュテルンビルトに行くことにしたのだ。

 だがボスは、どうしてもガブリエラを子飼いにしたいようだった。
 何度か教会にもやってきて、神父と何か話しているのを聞いたこともある。
 このままでは勝手にギャングのメンバーにされ、一生ギャングの怪我を治すための人員としてこの街に閉じ込められてしまう。そう危惧したガブリエラは、せっかく手に入れられることになった新しい車を、苦渋の決断で囮にすることにした。

 中古ではあるがいちども乗らないまま車を手放すという選択肢は、血涙を流さんばかりに辛いことだった。大金を使ったのにというのもあるが、単に車をゆりかご代わりにして育ったがゆえか強い執着心があるガブリエラにとって、はじめて自分の金で買う車を犠牲にするということが、何よりも辛かった。
 しかしだからこそ、大の車好きのガブリエラが新車を潔く手放し、老いた馬に乗ってシュテルンビルトに行こうとしているとは、誰も思わないだろう。

 貯金の番をしてもらったのだから、ガブリエラもラグエルを街から逃がすことを考えていた。しかしあくまで逃がすだけで、一緒に旅をすることは考えていなかった。ガブリエラは車を使うつもりだったし、性悪のラグエルとずっと一緒にいるというのも御免だった。動物なのだから、荒野に解き放たれても何とかやっていくだろう、と適当に考えていた。
 しかし車が使えなくなった以上、ラグエルに乗るしかもう選択肢がない。ガブリエラは、必死になってラグエルを説得した。

「ラグエル、ガブが乗って走る。走れ。なぜなら車が◯◯になった。あ? ラグエルは車より◯◯か? ◯◯◯◯? 違うな。違う、そう。では決まり」

 ガブリエラを乗せて旅に出るということにラグエルは最初難色を示したが、最終的には、本当に嫌そうに了承した。



 新しい車が納品された日の夜、ガブリエラは身支度をした。
 その時のガブリエラの涙が念願の車に対しての嬉し涙ではなく、今夜即廃車にしてしまうための嘆きの涙だとは、皆思っていないだろう。
 日除けにも雨除けにもなるフード付きのポンチョをかぶり、慣らしたブーツをしっかり履いて。母はすっかり眠っている時間だったが、神父は起きていた。

 ラグエルを持っていくことと、母を頼む、ということ。そしてギャングに自分の行方を教えないで欲しいということを、ガブリエラは残った貯金のほとんどを神父に渡して頼んだ。予定が変わったことで車のランクをいくらか下げたため、金には少し余裕があった。

「ファーザー、マム、おねがいします」
「金は受け取った」

 アンジェロ神父は、いつもどおり淡々とそう言った。
 そして先程からじっとガブリエラを見下ろしていた神父は、ごそごそとポケットを漁ると、ガブリエラの手に封筒を握らせた。なんだろうと中を見ると、数桁の数字が書かれた請求書が入っている。
「馬の代金だ。つけにしておいてやる」
「金、はらった!」
「それとこれとは別だし、とても足りん。わかっているだろう」
「……ヴー」
 淡々と言う神父にガブリエラはしかめっ面で唸りをあげつつ、封筒を受け取って仕舞い込んだ。神父はどんなギャングよりも金にシビアで、けちだった。餞別をくれるなどということはまったく期待していなかったが、請求書を渡されることも予想していなかったので、ガブリエラはむすっとした。

 しかしこの神父は、金さえ渡せばどんな頼みも聞いてくれる。
 それはギャングたちの口にも時々上る言葉で、教会にギャングたちの手が及ばないことと何か関係があるようだったが、ガブリエラに詳しい事情はわからなかった。
 しかし実際毎月稼いだ金のいくらかを渡せば、彼はガブリエラがギャング相手に小遣い稼ぎをしていることなどを母に黙っておいてくれたし、細かい頼みごとを聞いてくれた。
 ちなみに金を渡さなければ、頼みごとは全くもって無視されるというのも経験済みだ。おかげでガブリエラは、金は溜め込むのも大事だがここぞという時はしっかり使うべき、ということをとくと学ぶことになった。

 そっと外に出て、ラグエルに荷物を括り付ける。
 ラグエルはおとなしくじっとしていたが、ガブリエラがラグエルを繋ぐ鎖をそのままにして一旦出ていこうとすると、怒ったように前脚の蹄で地面を掻いた。
「だめ。荷物、持って逃げる」
 町の外で待ち合わせをするのがいちばん勝手がいいのはわかっているが、この性悪の馬の事だ。ガブリエラを見捨てて、勝手に全速力で逃げていってしまうかもしれない。そうしたら、車も馬も失ったガブリエラは、この街に一生いることになってしまう。
 ガブリエラがそう指摘すると、ラグエルは忌々しそうに鼻息を噴いた。どうやら本当にそうする気だったらしい。

 運転席に毛布の丸めたものを置いて、豆の缶を縦に繋げてアクセルに。ブレーキは念のため折って、エンジンをいじって、5時間ぐらい走ったら、仕掛け──いじめっ子が前の車を爆発させた仕掛けが動くように細工して、無人の車をフルスピードで走らせる。
 暗闇に突っ込んでいく車の後ろ姿に、ガブリエラは鼻の奥がツンとするのを堪えた。
 心臓の音の代わりに規則正しいエンジンの音を響かせる、ガブリエラにとっての鉄のゆりかごを、ガブリエラは今みずから燃やしてしまった。自分にはもう身を守るための場所はなく、これから自分自身で危険を避けながら目的地に向かわなければならないのだとガブリエラは改めて実感し、目尻に浮かんだ涙を手の甲でごしごしとこすった。

 ギャングたちの車や馬がガブリエラの車を追いかけたのを確認し、ラグエルの馬小屋に行く。ちゃんとまたがり、念のため振り落とされないように腰からがちがちに自分を鞍に固定してから、ラグエルを繋ぐ鎖の鍵を外す。
 ラグエルは、ふう、と諦めたような人間臭い鼻息をひとつ漏らしてから、打ち合わせ通りの目立たない小道を、馬のくせに小さな足音で、そろりそろりと歩いていく。彼は走るのがそれほど速いわけではないが力が強く、そしてサーカスの馬だったからか、とても器用なのだ。

 無事に街を出た途端、ラグエルは全速力で走り出した。
 車を走らせた方、飛行機が飛ぶ、大きな街があるのとは正反対の方向。はるか遠くに星の街がある荒野へ、ラグエルとガブリエラは飛び出した。

「ラグエル、あの星の方向」

 ガブリエラは、大きく輝く星を指した。あそこを目指して行くのだと。
 ラグエル、堕天使かもしれない天使の名を持つ馬に乗って、ガブリエラは星の街を目指して荒野を駆ける。

 どこまでも続くような荒野が、どろどろと闇夜に溶けていった。






 荒野は見渡す限り何もなく、そしてそれゆえの厳しさに溢れていた。

 旅の最初の方は、まずまず順調だった。
 砂と岩が目立つ荒野だが、植物が生えていないわけではないし、水たまりや沼ならそれなりにある。そのため、ラグエルの食事にはそれほど困らなかった。ガブリエラも持ち込めるだけ持ち込んだ食料を最低限の量ずつ消費して、毎日荒野を進んでいった。
 しかし誤算だったのは、酒は水の代わりにならないとガブリエラが知らなかったことだ。水分兼カロリーと思って酒ばかり飲んでいたら、見事に体調を崩した。
 ひどい頭痛と倦怠感。せっかく食べたものをすべて吐き、死ぬ思いをしながらラグエルの背中にしがみついた。結果、縋る思いで水分を求めサボテンを貪り食い──、そして、極彩色の幻覚を見てぶっ倒れたのだった。

「天使、天使が、きらきら、きらきら、きららららら……ああああはは」

 綺麗な羽を持った天使たちが、輝く粉を撒きながらたくさん飛んでいる。
 どの天使についていけばいいのか、とガブリエラは手を伸ばしたが、誰も彼もガブリエラの天使ではないらしい。赤、緑、オレンジ、蛍光ピンクに、しまいに虹色。様々な色がごちゃごちゃと混ざり合う天使たちが、どろどろと溶けて混ざって、黒い渦になっていく。



 気付いた時、ガブリエラは布でできた、大きなテントのようなものの中に寝かされていた。
 その時はまだ頭痛がひどくて起き上がれなかったが、しばらくすると、見慣れない格好の男が入ってきた。
 褐色の肌や黒い髪は故郷にいた人々と同じようだが、顔つきが違う。鼻が大きくて目元の彫りが少し浅く、目は眩しそうに小さくて細く、口は大きいが唇が薄い。黒い髪は長く伸ばして編まれ、大きめの目立つ羽飾りや、大ぶりのピアスをしていた。
 ガブリエラはびくついたが、男は面倒そうに何か言い、ガブリエラに水の入った器を差し出してきた。ガブリエラはそれに飛びつき、一気に全て煽った。嘘のように頭痛が消えていく。
 一息ついたあと、今度はテントの中央にある焚き火に置かれた鍋の中から、何かどろどろしたものを持ってこられた。火が消えていたせいかぬるいが、器に入っていて、匙が突っ込んである。
 腹が減っているからか、僅かなコーンのにおいを鋭く嗅ぎ取ったガブリエラは、それもがつがつと食べきった。コーンは缶詰で何度も食べ、特に好きなものでもない。しかしこの時食べた、鍋でぐずぐずに煮込まれたコーンは、涙が出るほど美味しかった。

「◯◯◯◯◯◯、◯◯◯◯」

 不思議な発音。男の言葉は、故郷の言葉ではなかった。
 首を傾げるガブリエラにため息をついた男は、ガブリエラが立ち上がれることを確認すると、テントの外に案内した。

 そこは街ではなかったが、──村、集落、そんな場所のようだった。ガブリエラが寝かされていたテントのようなものがたくさんあり、木造の建物もいくつかあるようだ。
 人間もたくさんいるが、老若男女関係なく、皆似たような格好をしていた。刺繍の入った布の服、色とりどりの紐、羽飾り、そしてピアス。
 馬もたくさんいて、ラグエルがそこに混ざって草を食んでいるのも見える。他にも、馬より小さく角の生えた生き物──山羊もいた。

 ここは砂と岩の荒野ではなく、岩と緑が作る、緩やかな山だった。

 2日くらいかけて体調がもとに戻ったガブリエラは、身を清めるように指示された。彼らはとてもきれい好きで、水と蒸し風呂で身を清めるらしい。
 雨があまり降らないあの街で水は貴重品だったので恐縮したが、男は右手で馬糞を指し、左手でガブリエラを指し、その両手をパンと叩いて同じだということを示し、鼻をつまんでひどい顔をした。つまり馬糞のように臭いとジェスチャーで伝えられたガブリエラはおとなしく水を浴び、蒸し風呂に入った。
 しかしその時ガブリエラが女であることがわかり、男は声を上げて飛び出していく。

 以来、ガブリエラの面倒は、男の妻であるという女性が見てくれた。
 ぶっきらぼうでせっかちな男と比べて奥方はおっとりと気が長い性格で、ジェスチャーも上手で表現力が高く、意思疎通がしやすかった。
 地図も見せてくれ、またガブリエラの故郷の言葉が少しわかる上役の人間を紹介してくれた彼女のおかげで、ガブリエラはここが予定の道から外れた山岳地帯であることや、彼らが古い部族であること、地下水が汲み上げられる井戸があるので水には困らないことを理解した。
 また、あの時食べたサボテンは、幻覚作用のあるものらしい。おそらくあれが、ギャングたちが取引している薬の材料なのだろう。

 そして、彼らがバッファローを狩るために荒野まで降りてきた時、ガブリエラを乗せて走ってくるラグエルを見つけたのだということを、奥方はゆっくりと根気よくやり取りしながら教えてくれた。

 ガブリエラは、感動した。
 性根の腐った最低の馬だとばかり思っていたが、彼は見渡す限り何もない荒野から逸れ、水があるか、もしくは人のいる可能性の高い山岳地帯を目指したのだ。
 つらい旅を共にして、ラグエルも心を開いてくれたのだろう。そう思ってガブリエラがテントから飛び出すと、そこにいたのは、馬特有の巨大な性器を振り回して牝馬の尻を追いかけているラグエルだった。
 呆然としていると、ラグエルは興奮しきった荒い鼻息を噴きながら、観念したらしい牝馬の尻に乗り、ガブリエラの目の前で交尾をした。

 その直後、最初にガブリエラの面倒を見てくれた男がすっ飛んできた。
 男は褐色の肌でもわかるくらい顔を真っ赤にして、ガブリエラに向かって怒鳴り散らし、明らかに怒り狂っていた。
 相変わらず、言葉が全くわからない。しかしガブリエラは、猛烈に怒られている、ということを正しく理解した。──当たり前だからだ。
 そしてガブリエラは、満足そうな顔をしているラグエルに感謝するのをやめた。



 彼らは、馬とともに生きる部族だった。
 ガブリエラが助けてもらえたのも、ラグエルという馬に乗っていたから、というのが大きい。馬は彼らにとって大事な人生のパートナーで、財産でもある。ラグエルが交尾したのはあの男の馬で、この村でいちばんいい、美しく若い牝馬だった。
 怒り狂った男は、ガブリエラに槍を向けてきた。バッファローを狩る槍である。他の面々も弓や斧を持ち出してきて、ガブリエラの周りに集まってきた。ガブリエラは恐ろしさのあまり真っ青になり、ぶるぶる震えて泣きながらその場でうずくまった。
 痩せっぽちの子供が子ヤギより小さくなって怯える様をさすがに哀れに思ったのか、奥方がガブリエラをかばって取りなしてくれたため、その場で盗人として殺されるのは免れた。奥方は、恐怖のあまり漏らしたガブリエラの下の始末まで手伝ってくれた。

 しかし、奥方の顔に免じても罪が消えるわけではない。ガブリエラの立場は、村人の、しかも命の恩人の財産を犯した恥知らずの盗人である。
 そこで上役が提案したのは、牝馬の交配相手としてラグエルがふさわしい馬であると示すこと。交尾を仕掛けたことについては大目に見るとして、もし子供が出来ていた場合、牝馬の持ち主の男にとって有益であると示せば罪を帳消しにする、という沙汰である。
 ラグエルは見た目のいい馬だったのでその点は合格を貰ったが、見た目だけではいけないらしい。そしてその能力を示す手段が、各々の馬に乗ってその能力を競う大会に出場し、優勝することだった。



「ラグエルがいい馬と、皆に見せる、しなければ。わかるか? ……その顔……簡単と思っている? ……おお、勝ってほしいのにとても負けてほしい……」

「アー!! とまって、いっかいとまって、止まれ! アアアアアアア◯◯◯◯!!」

「ころ……殺してやる、馬肉、馬肉にして◯◯◯◯!! ◯◯◯◯◯◯!!」

「死ぬ! 絶対に死ぬ! ◯◯◯◯◯、死ぬアアアアア◯◯◯◯!!」

「うぇっ……ウェエ……ヒッ……ウウ……」



 結果として、ラグエルは楽々優勝した。
 切り立った崖を躊躇いなく飛び越えるラグエルに、騎手であるガブリエラは叫び、喚き、怒り、最終的にはめそめそ泣いてラグエルにしがみついているだけだったが。ラグエルに逃げられないようにと鞍に自分をガチガチに固定するベルトが、再び役に立った。ガブリエラは落馬することなく、生きて村に戻ってこれた。
 戻ってきたガブリエラの、泣き疲れ叫び疲れ、ガクガク震え、涙とよだれの跡を顔につけ、鞍の上でまた漏らしながらヒッグヒッグとしゃくりあげている様を見て、怒り狂っていたはずの男が哀れんだ顔をしたのが印象的だった。

 だがこのことでガブリエラとラグエルは無事に受け入れられ、歓迎していることを示す貴重な山羊の生き血を振る舞われた。
 ガブリエラとしては、ラグエルのせいで疲労困憊なところに生き血など飲まされて散々ではあったが、受け入れられたことは嬉しかった。

 その後しばらく、ガブリエラが色々と無知な子供であることを察した彼らは、様々なことを教えてくれた。

 食べられる植物や虫、水を貯める方法、火の熾し方、病気にならないための知識。
 ナイフの使い方、動物の捌き方、無駄のない食べ方。
 食べたことのある蛇や鶏の捌き方も教えてもらったが、自己流のそれはひどいものだった、ということも知った。ちゃんと捌いたそれは、蛇はまあまあ、鶏は最高に美味しかった。子どもたちに教えてもらった、おやつになる幼虫や、炙って食べられる蛙などもなかなかいける。

 生きるための知識を、ガブリエラは順調に身に着けていく。
 その吸収率は、男が「息子より覚えがいい」とぼそりと評するほどだった。
 この頃には、ガブリエラは彼らの言葉も概ね理解できるようになっていた。ガブリエラは読み書きができない分非常に耳が良く、故郷の町と違って人々とたくさん会話をしたおかげで、習得は異様なほど早かった。

 ガブリエラが知っている教会の教えとも違う、独特の信仰を持っている彼らの動作は、全てがその考えに倣っていた。動物を捌くのも、合理性を重視するともに、その手順は、大地や天に対する感謝や祈りが込められた儀式でもある。
 何か大事なことを行う時は、ひとつずつ間違いなく行うこと。時間を失うことを恐れてはいけない、と彼らはガブリエラに教えた。本当の愚か者は、馬に乗って兎も鳥も狙い、木の実を取ろうとする者なのだと。
 どれもこれもと欲を出してもうまくいかないし、結局はどれも中途半端になって良くない。どれかひとつに狙いを絞って真剣にやれば、必ず目的を果たすことが出来るのだ、と彼らは教えた。
 兎を狙うなら木陰を見て、鳥を狙うなら空を見上げ、木の実を取る時はひとつずつ並べて必要な分だけ数えながら取るのだとガブリエラは教わり、そのとおりにした。

 馬の乗り方や、馬具の手入れなどについても教えてもらった。
 村の馬たちがガブリエラの能力目当てで皆自分に乗れとガブリエラに寄ってくるので、村の人々が驚いていた。ただしラグエルは相変わらず能力はせびるものの、節操なく牝馬の尻を追いかけていて、ガブリエラを乗せようとはしなかった。

 NEXT能力にも、変化があった。
 村にはNEXTの老婆がおり、崩れやすい山の天気を百発百中で当てることができる能力の持ち主で、シャーマンなどと呼ばれていた。
 彼女の助言と、大自然に囲まれて暮らすことで、ガブリエラは自分の能力のことについても、感覚的ではあるが、より深く把握することが出来るようになった。
 生きる手段として活用してはいるものの、ガブリエラは能力を使うのが嫌いだった。自分の中のエネルギーを他の生き物に渡す感覚は、説明できない生理的な嫌悪感を伴い、とても不快だったからだ。
 だからこそ、砂と岩の荒野と比べて生き物の気配だらけの山は最初、ガブリエラにとって恐ろしい場所でもあった。

 ──しかし。

 空を見上げると、鷲が大きな羽を広げ、美しい輪を描きながら飛んでいる。
 鷲は、彼らにとって特別な生き物だった。大きな羽は美しく、鋭い爪は力強く、彼らは人間に協力する時はあっても、決して媚び諂わない。美しく気高いこの生き物に、ガブリエラも敬意を払った。
 茶色の翼が太陽の光を受けて金色に輝く様は、声が出ないほど美しい。

 馬は共に大地を駆ける相棒、鷲はその行き先を導くもの。そして、足元の蛇には気をつけろ、と教わった。馬と鷲と蛇。自分と空と大地は繋がっている。この世の全ては等しく大いなる宇宙の神秘のもとに広がっているのだと。

 植物が水を吸い、太陽を浴び、実をつけて鳥に食べられる。
 鳥の糞から植物の芽が出る。
 鳥は獣に食べられ、獣は人間に食べられる。
 死骸になれば、人間も獣も等しく土に還っていき、また植物が芽を出す。
 何年、何百年、何万年。命はそうして巡っていく。

 こうして世界はぐるぐる回っているのだと、ガブリエラは教えられた。
 なるほど、地球も丸くて常に回っていると教わったと、ガブリエラはとても納得した。ぐるぐる、ぐるぐる。全てのものが、距離、関係性、時間、この星のあらゆるところでぐるぐる回り続けているのがこの世界なのだと理解した。

 老婆も若い頃は天気の予想を外すことも多かったが、この世界の仕組み、すなわち己も空も結局は同じ、ぐるぐる回る世界の一部なのだと理解してからは、予想を外すことはなくなったという。
 それならば、自分はこのぐるぐる回る輪のどこにでも入れる存在だということなのだ、とガブリエラは理解した。この能力は、生きとし生けるもの全てにとって有用なものであるらしい。自然に暮らすものは、特にそれを本能で理解する。
 つまり己は植物の糧にもなるし、獣の糧にも、人間の糧にもなる。とはいえガブリエラも人間であるので、植物や獣を食べて、その栄養を使って他のものに与えることもできる。しかしどの役目にいても、輪の中にいることに変わりはない。

 世界の輪の一部である。その居場所が固定されていないのが己である。
 奪われるものだが、いずれ自分に還ってくるものでもある。
 他の生きとし生けるものも、己と同じ輪の一部。

 だがしかし、この考え方は、母が執拗に教えた考え方と相反するものでもあった。

「Thou shalt love thy neighbour……」

 隣人を愛せよ。母が特に繰り返した聖書の言葉だ。
 世界がぐるぐる回っていて結局は同じものであるなら、ガブリエラが人に手を差し伸べても、結局は己を助けていることになりはしないだろうか。
 分け隔てなく他人に手を差し伸べる、ということ。生きていることよりも正しいことかどうかを重視する教え。教えに殉じ死ぬことで星に召され、聖人と讃えられる教えと、生命そのものを称える村の考えは、ガブリエラの中でどうしても混ざり合わなかった。

 なぜなら、ガブリエラは、生きていたい。
 這いつくばって泥を啜っても、険しい荒野を渡ってでも生きていたいという、強烈な生き汚さ。それは自分を愛しているということだと、ガブリエラは結論づけた。
 だがしかし、考えれば考えるほど、ガブリエラはこの世界の仕組みと己の性質に納得した。己は浅ましくて生き汚く、よりにもよって聖人になれるような能力を持って生まれたくせに、悪魔のような馬の真似をすることでそれをセーブし、金を稼ぎ、街から逃げた犬の子であると。

 ──困っている人を助けなさい。愛をもってです。
 ──たとえ自分の身を削ってもです、ガブリエラ。
 ──あなたには、その力があります。


 助けます。マム、神様。
 ガブリエラは、困っている人を助けます。
 しかし、生きていたいのです。
 遠い星に行くのではなく、この地球の上で、ぐるぐる回っていたいのです。

 ──ああガブリエラ。今日はいい子でいましたか

 マム、ごめんなさい。
 ガブリエラは生きるために悪い子になります。
 いつか天使がやってきて、手足をもいでいってしまうかもしれません。
 それでも、その日まで、ガブリエラは生きていたいのです。
 いい子ではなくて、ヒーローになります。
 ヒーローになりたいのです。

 ある晩、そうして星に向かって祈りを捧げるガブリエラを、村の人々は静かに見守ってくれた。
 自分なりにとりあえずの折り合いをつけたガブリエラは、能力を使う時に感じていたひどく不快な感覚をより割り切れるようになり、以前よりも躊躇いなく、そして効率よく能力を使えるようになった。
 それだけでなく、相手の怪我が治れば嬉しいと思えるようにもなった。ガブリエラが良かったと笑えば、ありがとうと相手も笑ってくれる。それが良いことかどうかはわからないが、間違いなく嬉しいことだった。



 こうして色々な技術や能力、考え方を身に着けていったガブリエラだがしかし、女なのだからと奥方が教えてくれる刺繍、馬のたてがみや尻尾を使った飾り紐の編み方などには、非常に悪戦苦闘した。しかも奥方は優しい反面とても厳しく、出来るまでやめさせてくれない。
 結果として、刺繍は諦められたが破れたものを繕うことはできるようになり、飾り紐は「何とか嫁には行ける」と評されるぐらいになった。

「よめ」
「女の子なのだから、そのうちお嫁に行くでしょう」
「……うーん」

 全く考えたことがなかったので、ガブリエラは首をひねる。
 男性と結婚して、夫婦、家族になるという感覚が、ガブリエラにはなぜかどうもぴんとこなかったのだ。

 しかし、自然の中で走り回る元気な我が子を見守る女性たちは、とても美しく、そして幸せそうに見えた。妊娠中の女性もいて、大きなお腹を愛おしそうに撫でていたり、そしてその夫だという男性が、その女性をとても細やかに、宝のように扱っているのを見て、ガブリエラはとても素敵だと思った。
 柵の向こうでは、ラグエルがあの美しい牝馬と首を絡め、仲睦まじそうにしているのが見える。その光景もまた、とても美しいものだった。
 あの街で、女は犯されるものだった。そうして母になった女は、頭がおかしかった。だがそうでない女も母もいるのだと、ガブリエラはこの時知る。

 ──ああいうのなら、良い。

 ガブリエラは、彼らを見ながらそう思った。
 男を好きになったことはないし、これから先も好きになれるかどうかはわからない。しかし相手を選ばなければ、子供を作ることは出来る。むしろ、男でないと子供は作れない。──だというのに、やはり男と好きあうということがガブリエラにはぴんとこなかった。
 この村でも、この人は好きだな、と感じるのは女性ばかりだった。女同士で子供が作れたら良かったのに、とガブリエラはがっかりする。
 しかしもっと大人になって、ひとりでもじゅうぶんに金を稼げるようになったら、適当な男性に種をもらって子供を産んで、たくさん可愛がる。母親になる。いいかもしれない──いや、素敵だ。とてもいい。自分の血を引く子供がいれば、きっと自分はこのぐるぐる回る世界でひとりではなくなる。
 ガブリエラはそう思い、ヒーローになるのとは別に、それを長い人生の目標のひとつにすることにした。

 この山の村で、大自然の中で、ガブリエラは自分が生きていること、学び成長していることを初めて実感した。
 あの街にいる時は、気がついたら生まれていて、ただただ死なないように生きている、そんな感じだった。そこでヒーローという存在を知り、雷に打たれたような衝撃を受け、ガブリエラは街を飛び出した。
 あの時の衝撃ほどではないが、村での日々は、驚きと新しい発見に満ちていた。
 ただ小難しいばかりで理解しがたい聖書よりも、文字の文化そのものがあまりない村で伝えられる色々なことは、ガブリエラの中に水のように染み込んでいく。そしてそれは、とても心地よいことだった。

 ぐるぐる、ぐるぐる、世界は回っている。
 ガブリエラはその環の中で流されながら、どろどろと溶けていった。
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BY 餡子郎
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