#122
「さあ! どっちが勝つどっちが勝つ!! ◯◯◯◯!!」
「◯◯◯◯◯◯!! ◯◯◯◯野郎がァ!」
「◯◯◯◯!」

 酒焼けした声を張り上げ、拳を振り上げて、男たちが熱狂している。中央の粗末な、しかし有刺鉄線が周囲に巡らされたリングで、筋肉隆々の男ふたりが血まみれになりながら、目をぎらつかせて殴り合っていた。

 ガブリエラはそれを眺めながら、皿の上の肉をがっついた。
 しょっぱくて油っぽい合成肉のランチョンミートは、とても太りやすい。しかし食べるものは、できるだけそういうもののほうがいい。
 なぜならこの能力は、食べたものやそれによって太った己の肉を使って他人の怪我を治すものだからだ。この能力に目覚めてから、ガブリエラはどの食べ物が効率的に太りやすいものなのかが、だいたい分かるようになった。

 ワァ、と歓声が上がったので、リングを見る。
 何をやったのか、殴り合っていた男の片方の耳がちぎれ取んで、リングがなお一層血まみれになっていた。しかし耳が飛んでも闘志を失わない男は、なお相手に飛びかかっていく。
「出番がありそうだな。もっと食っとけ」
 横に座っている試合の元締めが、ガブリエラの頭に手を置きながら言った。ガブリエラは返事をしなかったが、こくりと頷いてそれに応える。
 しょっぱいものばかり食べているとのどが渇いてきて、飲み物を探す。するとどこからか手が伸びてきて、ラム酒の瓶をドンと目の前に置かれた。ガブリエラはまだ子供だが、能力のせいで酒には全く酔わなくなった。あまり美味しいとは思わないが、ミネラルウォーターのほうが高いので、経済的には助かる。
 それに、こうして荒くれ者たちがガブリエラをそれなりに特別扱いしちょっかいも出さないのは、能力のこともあるが、飲み比べで彼ら全員に圧勝したから、というのもある。ガブリエラにはさっぱり意味がわからないが、なぜか彼らは酒に強い者に一目置くという習性があるのだ。

 ウォオオ、と頭の中が痺れるような野太い大歓声。決着がついたらしい。
 見ると、耳がちぎれて血まみれになっている男が拳を振り上げて勝利のポーズを取っていた。相手は有刺鉄線に引っかかるようにして、だらんとしている。

「◯◯◯◯め、◯◯◯◯たくせに◯◯◯◯だな。死んだか?」
「死ぬ、治せない」

 ガブリエラが眉を顰めて言うと、彼はがははと笑いながら「わかってる、生きてる方だけ治せ」と言った。
 ガブリエラは彼に小包のように抱えられて、中央のリングまで行く。この賭け試合の元締めであり、ここいらのギャングをまとめるボスである彼に、荒くれ者たちが道を開ける。
 リングにぽんと放り出されたガブリエラは、ころりと小石のように転がった。ふぅふぅと獣そのものの息をついている血塗れの男の横を通って、ちぎれた耳を探す。

「みみ」

 耳、男の耳はどこだ。
 血だらけのリングで、耳を探す。いつの間にか、リングの中にはちぎれた耳がたくさん落ちていて、ガブリエラは途方に暮れた。どれが男の耳だ。早くしないと繋がらなくなってしまうかもしれない。耳、みみ、どの耳が本当の耳?
 焦りながらちぎれた耳を拾うが、手にした途端にどろりと溶けて消えてしまう。それを何度か繰り返し、やっと、消えてしまわない本物の耳を見つけて、酒で洗って、男のところに行った。

「──アアアアアアアアア!! なんてことしやがる、◯◯◯◯◯◯◯◯!!」

 男が絶叫し、ガブリエラに頭突きをするような至近距離で怒鳴った。
 鼓膜が破れるかと思うほどのその声と、間近で噴き出された息の、獣くさい口臭。人を殴り殺した直後の男のその顔に、ガブリエラは腰を抜かしてへたりこんだ。
 耳を押さえながら、男が喚き散らしている。観客たちは後ろ前につけられた耳を見て、腹を抱えてげらげらと笑っていた。「いいじゃねェか、後ろの音がよく聞こえるぜ」と野次が飛ぶ。
「うるっせえなあ」
 ギャングのボスがそう言い、男の耳をナイフで躊躇いなく切り落とした。男がまた叫ぶが、お構いなしである。血の付いたナイフに耳を乗せた彼が、ガブリエラに向き直った。

「ほら、もういっぺんくっつけろ。──あ?」

 腰を抜かしたガブリエラを見て、彼はまたげらげらと笑った。「おら◯◯◯◯、お前が◯◯◯◯から、アンジェラが漏らしたぞ」と大声で言いながら。
 股間を濡らしてひっくり返っているガブリエラを指差して、男たちが笑う。げらげら、げらげら。ガブリエラは恥ずかしいのと恐ろしいのとで震えながら、しかしショックが大きすぎて泣くことも出来ずに呆然とする。
 血塗れのナイフから耳をそっと拾い上げると、またその耳が、どろりと溶けて消えていった。






 街は、活気が無いわけではない。
 何もない荒野で生き抜いてきた人々はたくましく、むしろ生命力に溢れている。
 ただし、その方向性はだいたい他者を食い物にする方向に働いていて、誰もが常に緊張感を忘れることができない街だった。鍵を締め忘れれば強盗が入ってきても文句は言えないし、自分だけでなく相手が持っているナイフや銃の位置も確認するのは、皆共通の習慣だ。

 男も女も、子どもたちでさえ、強い者は血の気が多くて乱暴で、したたかで狡猾だった。それでいて、皆どうしようもなくすべてを諦めている。そうでなくては生きていけない場所だからだ。
 喧嘩で人が死ぬのは日常茶飯事だったし、強盗、強姦も毎日起きる。男も女も関係ない。それを助ける者も、まともに裁く者もいない。唯一、いるのかもわからない神に縋るのはそれぞれの自由、もしくは勝手。そんな場所だ。

 喧嘩のやり方のひとつとして、汚く、そして相手の心を抉る言葉で相手を罵ることが基本でありいっそ文化のひとつでもあるこの場所で、神父や母から「きれいな言葉を使え」と言いつけられているガブリエラは、無口な子供だった。
 しかしきれいな言葉で痛烈な皮肉を放つまでの頭はなかったガブリエラは、悪口を言われても、じっと睨むだけで言い返さない。
 そのせいで近所の子供達からそれはそれは馬鹿にされ、脳が遅れた子供とみられていた。父親がいない犬の子。そのうえ肥満児で、顔のパーツが肉に埋もれていたことも要因だろう。
 ただしその土地の子供らしくそれなりに血の気はあるガブリエラは、つまり無言でいきなり空瓶や日干しレンガを振りかぶってくる子供でもあった。しかも、それなりに強い。そのため、犬は犬でも言葉の通じない狂犬扱いもされていた。

 しかし突然NEXT能力に目覚め、それがたいへんに有用なものであるとわかってからは、ガブリエラの周囲の環境が変わった。
 こうして街を牛耳っているギャングがガブリエラを半ば抱えるようになったので、子どもたちからのちょっかいはなくなった。そのかわり、友だちができる機会も失われた。誰も寄ってこないし、子供が皆やらされる日干しレンガの労働が免除されたので、顔を合わせる機会自体がなくなったからだ。
 この街は誰も彼もが貧乏だが、あるところにはある。最大のそれが、ギャングだった。警察もいるにはいるが、あまりに無法地帯であるため国にも半ば見放されているこの場所では、まともに機能していない。むしろギャングと癒着があり、金や薬の流れができあがっていた。
 特にこの近辺では、ここいらで自生する特別なサボテンから作られる薬が、色々な所に流れていた。それが、ここのギャングたちの主な収入源でもある。

 急激に痩せたせいで体つきも顔つきも変わったガブリエラは、枯れた小さな木っ端が動いているようだった。
 灰色の大きな目が妙に目立ち、焼けた肌に黒髪がほとんどのこの街で赤い髪に白い肌は珍しかったが、褒められたことはない。
 痩せたせいで面積の小さくなった顔は本来は白いのだろうが、そばかすだらけで美醜の良し悪しどころか、性別もよくわからない。しかし女扱いされないことはこの場所においてある意味利点でもあるので、ガブリエラはその点は気にしなかった。

「お前の母ちゃんはなあ、そりゃあもう、いい女でなあ」

 酔っ払った男が言う。周りの男達が、うんうんと頷いた。ガブリエラはラム酒を飲みながら、黙って話を聞く。

「娼婦だったけど、優しくって、いっつもニコニコしててよう」
「俺なんかのことも、受け入れてくれた」
「稼いだ金は、全部彼女に使った」
「シスターになりたいっていつも言ってた」
「それが叶って彼女を買うことはできなくなったが、彼女の夢が叶って俺も嬉しかった」
「アア、あの頃がいっとう楽しかった……俺の、唯一のきれいな思い出だ……」

 いつもなら、汚い言葉を使わないと話せないのではというような具合のくせに、母のことを話すときだけ、彼らはまるで混ざりもののない水のように話した。

「それをあの◯◯野郎が」
「◯◯◯◯から生まれた◯◯◯◯野郎がやりやがって、ちくしょう」
「殺してやりたかったのに、勝手にヤクで死にやがって」
「◯◯◯◯◯◯◯◯、◯◯◯◯◯◯」

 そしてガブリエラの血縁上の父に当たる者のことを話すとなると、いつもより増して口汚くなるのもいつものことだった。

「NEXT能力はあの野郎からだろうが、……お前は母ちゃんに似ろよ、アンジェラ」

 男たちは、皆そう言った。
 皆に分け隔てなく優しかった母のようになれと、口を揃えてそう言った。

「こんな悪魔みてえな赤毛じゃなくて、母親の金髪に似ればよかったのに」

 皆、憎々しげにそう言う。
 理由は分からないが、この土地で赤毛は悪魔の髪色とされていた。そのため皆が差別し、よくないもの、醜いものと扱う。
 ギャングならば凄みを出す小道具にもなろうが、ただの子供であるガブリエラならば、イジメのネタにしかならない。そしてシスターになって間もない母を犯した男は、でっぷりと太った巨体だったそうだ。
 ガブリエラが太っていた頃、彼らが自分を憎々しげに見る瞬間があったり、子どもたちがデブだ赤毛だ、犬の子だと自分をいじめた理由。そして自分の名前の意味を、ガブリエラは完全に理解した。

 痩せたことで肉に埋まっていた母譲りの灰色の目が意外に大きいことがわかってからというもの、母のようなブロンドではない髪さえなければ彼らの恨み言が少なくなるのに気付き、ガブリエラは髪を男の子以上に短く刈り上げ、日除けのフードをかぶることにした。
 卑屈になったわけではないし、自分の赤毛は好きでも嫌いでもなかったが、避けられる面倒事は避けておいたほうがいいという、自然な判断だった。

「本当に、天使のような女だった」

 男が、哭いている。天使を失ったと。もう俺は、星に行くことはないだろうと。ガブリエラはそれを眺めながら、ラム酒を煽ろうとする。
 しかしグラスを持った途端、それはどろどろと溶けていってしまった。






 ブルルッ、と元気が有り余った鼻息を鳴らして、黒い馬が歩く。
 ガブリエラはその手綱を持ち、しかし背に乗ろうとすると暴れるので、とぼとぼと横を歩いていた。黒い目が時々見下ろしてくるが、その目にはガブリエラを下に見ていることがありありとわかる知性が光っている。
 敷物のように地面にへたばっていたくせに気だけは強い馬は、ガブリエラの能力のおかげで元気になった。しかし彼はガブリエラを馬鹿にしきっていて、背には乗せず、こうしてまるで従者のように横を歩かせる。長いたてがみを梳かして身体にブラシをかけないと、買い出しにも付き合ってくれなかった。──これが唯一にして最大の彼の仕事であるにも関わらず。

 元々頭のいい馬ではあったが、実験がてら能力をかなり使った馬は更に頭が良くなったようで人の言葉を理解し始め、ガブリエラのほうも、彼の思っていることがだいたいわかるようになってきた。といっても結局わかったのは、この馬が最悪なまでに性格が悪いということに尽きた。

 体高160センチと少しくらいでさほど大柄な馬ではなかったが、サーカスの馬だっただけあり非常に身軽で俊敏、筋肉質で、パワーのある馬。そして怪我で芸ができなくなりサーカスから売り飛ばされたのが原因か、この馬は大の人間嫌いだった。
 他の人間が近づこうものなら前脚を振り上げて威嚇し、糞を蹴り飛ばし、唾を吐きかけてくるのは序の口。後ろ足で思い切り蹴り飛ばされれば全身の骨が折れるのは確実だ。400キロはある体重を使って人を踏み殺そうとしたこともあり、馬のくせにすっかり猛獣扱いされていた。
 例外は、能力が有用だと彼にみなされているガブリエラだけ。
 それでも糞を蹴り飛ばされたり頭をかじられたりと扱いがひどいことに変わりはないのだが、殺されることはないという最低の理由で、この厄介な馬の面倒を見るのはガブリエラの役目になってしまった。

 汚い言葉を使わないようにときつく言い含められ、それをしっかり守っているガブリエラだったが、この馬に対してだけはそれが緩む。それほどまでに、彼はひどい馬だった。
 面倒を見るのがガブリエラになったことで、この馬のそばに寄るのもガブリエラだけになる。この馬が必然的に鬱憤のすべてをガブリエラに叩きつけるのと同じく、ガブリエラもまた、禁じられている口汚い罵倒のすべてを全力でこの馬にぶつけていた。

 ガブリエラは彼に小突かれつつ、長く黒い、つややかなたてがみを梳かす。自分の髪のように刈り上げてやろうか、とむかむかしながらそうしていると、長いたてがみが毛先からどろどろと溶けていった。






 かろうじて機能している幼年学校は、日々を生きるための最低限の知識──例えば読み書き計算くらいは教えてくれるが、それだけだ。
 遠回しにいえば親の都合で幼年学校に来ない子も珍しくはなかったが、さすがに神職か、神父と母は幼年学校に行くことを勧めた。文字が読めれば、聖書もひとりで読むことが出来ると母にも言われた。
 しかし聖書にまるで興味が無いガブリエラの読み書きはあまり上達せず、自分の名前を書くのが精一杯という程度に留まった。
 だが意外なことに、ガブリエラは数字に強かった。大好きな車に計器がついていて馴染みがあるせいか、ガブリエラは数字が割と好きだったのだ。
 さほど頭がいいわけでもないのに、計算だけはそこらの荒くれ者よりよっぽど早いガブリエラを面白がったギャングの上役が、帳簿の付け方などを教えてくれた。おかげで買い物の時にぼったくられたりしなくなったし、ギャングから貰う金の管理もちゃんとできた。

 ガブリエラはギャングたちに乞われて能力を使う時、対価として現金を求めた。この街の生まれだ、そのくらいを主張し交渉する度胸はある。
 それにこの能力を使うのは、とても嫌な感じがするのだ。1週間手付かずで馬糞まみれの馬小屋の掃除をするのとどちらがましか、というぐらいには嫌悪感がある。
 だからといってどちらもやらないわけにはいかないので、ならばなるべく対価が得られるようにしなければ割に合わない、とガブリエラはいつもどおり割り切って行動した。

 結果得られる金額は、日雇いの肉体労働者よりは随分多い小遣いになった。同年代の子供の稼ぎとしては、破格と言ってもいいだろう。それに彼らは能力の内容を知っているので、缶詰の中身をそのまま食べるよりはまともな食事も振る舞ってくれる。
 また懲りない面々に飲み比べをふっかけられて飲む酒も、能力を使うのに良い燃料になる。酔っていい気になっている男たちは、ナイフや銃の使い方、喧嘩のやり方、たまに帳簿の付け方なども教えてくれた。

 ガブリエラはそうやって稼いだ金を、身を置かせてもらっている礼として、神父──アンジェロ神父に幾ばくか渡した。
 自分が無理やりギャングに攫われて働かされないのは、教会がこの街で唯一ギャングの手が及ばない場所であるからだということを、ガブリエラは知っていた。
 そもそもなぜ自分が教会の子として育てられているのかもわかってはいなかったが、ここを追い出されることはしたくなかった。

 ガブリエラの洗礼名であり、この町で呼び名としても使われているとアンジェラという名前は、アンジェロ神父からとったものだ。育て親である、ということも示している。
 しかし、彼は神父と名乗ってカソック姿ではあるものの、神父らしいことをしているところはあまり見たことがない。
 ミサを開くでもなし、子供に何か教えるというわけでもない。時々懺悔室に入ってくるギャングの相手をしているが、出てくるときには必ず分厚い札束がカソックのポケットに詰め込まれている。
 懺悔室で行われているやり取りが少なくとも懺悔ではないことくらいはガブリエラにも察しがついたが、何をしているのかは知らないし、知ろうとしなかった。ガブリエラは頭が悪いが、危機察知能力はひといち倍ある子供だった。

「ああガブリエラ。今日はいい子でいましたか」
「はい、マム。ガブは今日、裏通りのおばあさんの腰を治したです。大工仕事で怪我をした、男の指も治したです」
「そうですか。明日はもっとたくさんの人を助けるのですよ」
「はい。ガブはがんばるです、マム」
「あとで歌の練習をします。忘れずおいでなさい」

 ガブリエラが頷くと、母は娘が世話をしている馬を見た。

「……ずいぶん元気になったもんだ」

 母のその声に、ガブリエラはびっくりして顔を上げた。
 いつも聖書の文句のように丁寧な口調のはずの母であるのに、その時の声色や言葉遣いは、なんだか場末の酒場の女のようだったからだ。

「えっ、あっ、はい。しかし、全然いうことをきかない。──アー!!」
 突然がりっと頭を噛まれ、悲鳴を上げたガブリエラは、頭上にある大きな馬面を涙目できっと睨んだ。
「こ、この、馬! この馬! ◯◯◯!! ◯◯◯の◯◯◯◯──」
「下品な言葉はおやめなさい」
「はい、ごめんなさいマム」
 いつものようにぴしゃりと叱られ、ガブリエラはしかたなく謝る。ぶるる、と歯をむき出してつばを飛ばし、ばかにしきった顔をしてくる馬が心底腹立たしかったが、ガブリエラは堪えた。

「こりゃあ、相当性根が悪い馬だなァ」

 母が、また聞き慣れない口調になった。ガブリエラは何だか興奮して、痩せた頬を赤くして何度も頷く。
「はい。とても。とてもです。とても!!」
「名前は?」
「えっ」
「馬の名前だよ。つけたの?」
「ない」
「ふうん……」
 母はちらりと馬を見て、数秒黙った。ガブリエラは、不思議そうに首を傾げる。

「じゃあ、──ラグエルだ」

 静かな声で、彼女はいった。
「らぐえる?」
「天使の名前だよ。ここの」
 母はいつも持ち歩いている聖書を取り出し、挿絵の付いているページを捲った。
 大きな羽を広げ、高いところから他の天使たちを見ている天使。これがラグエルである、と母は説明した。光を背負ったその姿は神々しく、いかにも高位の天使という感じだった。
 その立派な姿に気を良くしたのか、聖書を覗き込んでいた馬が、ぶるるん、とまんざらでもなさそうに鼻面を上げて、気取ったようなポーズでカッカッと前足の蹄で地面を掻いた。

「他の天使の行いを見張る天使さ。ガブリエラ」
「はい」
「天使はいつもおまえを見てる。忘れるなよ」

 そう言うと、修道女のベールを翻して、母は教会の中に消えていった。いつもと少し違う様子の母の後ろ姿を、ガブリエラは呆然と見守る。

「……天使? おまえが?」

 ガブリエラは、胡散臭そうに黒い馬を見た。
 自分の名前もまた、有名な天使から取って母が名付けたものだというのは聞かされている。
 ガブリエラとしてはこの性悪の馬が自分と同じく母に、しかも同じような由来でもって名づけられたことが気に入らなかったが、馬はどうやらその名前を気に入ってしまったらしい。ラグエルと呼ばないということを聞かないどころか、明らかにこちらを無視するようになった。

 後日、馬の名前がラグエルになったことをアンジェロ神父に何気なく報告すると、彼は珍しくも少し驚いたような顔をして、ラグエルは確かに他の天使の行いを監視する天使である、と説明した。
 しかし同時に堕天使だという説もあり、アンジェロ神父はこの説の方を信じているという。なるほどそれならばあの馬にぴったりの名前であると納得したガブリエラは、彼をラグエルと呼ぶようになった。



「さあ皆さん、天使に歌を届けましょう」

 信徒らしくないアンジェロ神父と違い、母は信仰に熱心だった。
 毎日ガブリエラに長い時間聖書を暗唱させ、教会を綺麗に掃除し、聖像を磨き、祈りの言葉を欠かさない。昔は酒場で歌を歌っていたという彼女は歌が上手く、子どもたちを集めて小さな聖歌隊を作り、歌を教えていた。

「天使は遠い星にいらっしゃいますが、聖なる歌はきっと届きます」

 この場末で、音楽は数少ない娯楽のひとつであった。
 ギャングたちがたむろする酒場にもピアノがあり、誰かがギターを弾いて、いろんなものを叩いてリズムを取って体を動かす。誰かが歌ったり、酔っ払えば皆で歌ったりもする。誰に習ったわけではなくても、皆だいたいそういうことができた。
 そのため聖歌隊もまた、子どもたちの娯楽や遊びのひとつだった。
 時々母がパンや小さなお菓子を配るというのも、大きな理由のひとつだろう。そしてガブリエラもまた、この聖歌隊のひとりだった。ただし、ガブリエラだけはお菓子が貰えないが。
 しかしガブリエラはこの中で間違いなくいちばん歌が上手く、こればかりは他の子どもたちも認めるところだった。そのためソロパートを歌うのはいつもガブリエラで、上手く歌えれば母も褒めてくれて、ガブリエラはそれが嬉しかった。

 母が他の子供にパンを配り笑顔を振りまいている時、ガブリエラは、みすぼらしい服のポケットに入れた何枚かの紙幣を指先で確認する。
 ギャングに求められて能力を使い、金を稼いでいることは、母には言っていない。近所の浮浪児に新しい服を施す一方で、ガブリエラには下着1枚与えない彼女である。金を溜め込んでいることがバレれば全て取り上げられて、周囲の貧乏人たちのその日のパンになってしまうだろう。
 彼女にとって、ガブリエラは自分が何かを与える者ではなく、自分とともに大勢に何かを施す者として映っているのだ。

「そりゃお前、あれは頭がおかしいからさ」

 なぜだろうかと首を傾げるガブリエラに、ギャングの男は酒を煽りながら言った。そんなことも知らなかったのかお前、という具合に。
「きちがいシスターさ。聖女とも言うがね」
 そしてその言葉を聞いて、ガブリエラはとても納得した。
 普通の親なら、自分の子供を守るために他の子供のパンを奪うこともある。──なるほど。子供に飯を与えない親は山ほどいるが、自分の子供が飢えているのに他所の子供には施すのは、頭がおかしい奴のやることだ。──なるほど。
 言われれば言われるほどしっくりきて、ガブリエラは何度も頷いた。

 ──母は、頭がおかしいのだ。

「まあ、あんなことがあっちゃ、しょうがないかもしれねえけどなあ……」
 男が、いや、皆が言う。かわいそうに、と。ガブリエラもそう思った。母はかわいそうな人だ。だからしかたがないのだ、何もかも。
 だからいつか、自分が母に何か施してあげよう、と思った。頭のおかしい母が自分に何かしてくれることはないだろうが、自分はそうではない。それに、あらゆる人に施すのだと教える母が逆に施しを受けた時どんな反応をするのか、ガブリエラはぜひ見てみたかった。

 ラグエルの馬小屋の端で、くしゃくしゃの紙幣を数える。
 紙幣の真ん中に入った紋章は、羽の生えた聖杯と、そこから浮き上がる輝く星が描かれている。何度も紙幣を数える。

「アンジェラお前、この先どうする気なんだ」

 ある日、ガブリエラがいつもの取り分の紙幣を貰ってすぐ数えていると、ギャングのボスが言った。
「この先?」
「お前ももう13だ。男もいねえみてえだし、シスターになるのか?」
 正直、考えたこともなかった。その日その日を暮らしていくことしか頭になかったガブリエラは、灰色の目を見開いた。

「うちで飼われる気はねえか」
「えっ」
「教会は安全かもしれねえが、貧乏だ。うちの子飼いになりゃあ、毎日うまいもんが食えるし、お前も女だ。もうちょっと太って、もっといい服も着て、男ができたら、ちゃんと見合わせてもやるぞ。仕事は今まで通り、怪我人を治してくれりゃそれでいい。あとは歌って踊って、おもしろおかしく暮らすんだ。どうだ? ん?」

 きれいな言葉遣いの、優しい声。
 しかし酒で焼け、薬で少し融けたその声から、ガブリエラは思わず逃げた。砂まみれの道が、どろりと融けていく。






 ガブリエラは、この街が好きでも嫌いでもなかった。この町の外に広がっているのは荒野だけではない、ということを知らなかったからだ。
 世界地図さえまともに見たことのなかったガブリエラにとって、この町が世界の全てだった。

 しかしある日、ガブリエラは地球が丸くて端がないこと、世界はとても広いこと、荒野の向こうにいろいろな街があるということなどを知った。そのきっかけが薬を取引する余所者とのやりとりを見たことだったというのは、なかなか皮肉だが。
 もっと外の世界を知りたくなったガブリエラは、貯金を少し崩してラジオを買った。ギャングたちでも上の方の頭のいい連中は携帯電話だの衛星ネットのモバイル端末などを持っていたが、どこで売っているのかも、使い方もわからない。

 どこぞの軍隊の通信兵崩れだという近所の男の古傷を治す代わりに、彼から習って、ガブリエラは中古のラジオをいじり、色々な番組を聞いた。
 知らない土地の天気予報。見たこともない商品のコマーシャル。この街の本体であるという大きな街のニュース。都会で流行っているという音楽、簡単なラジオドラマ。陽気なコメディアンたちの、下品でない、柔らかなユーモアに溢れた話。

 ──そして、星の街にいるというヒーローの番組。

 シュテルンビルトという、遠い遠い街。
 そこでは、NEXTがヒーローという仕事をしているという。

 ヒーローは悪者をやっつけて、困った人を助ける職業。
 その活躍を、HERO TVというテレビ番組が放送しているという。ヒーローになるための学校、ヒーローアカデミーのCMも流れていた。

 ガブリエラの街でHERO TVは視聴できなかったが、ラジオなら天気のいい日、教会のてっぺんのアンテナ近くまで登れば、ノイズ混じりで受信することが出来た。
 大昔のラジオはせいぜい隣の国のラジオしか聞けなかったそうだが、今はいろいろな人工衛星が飛んでいるので、運が良ければ色々な国のラジオが聞けるのだと元通信兵の男が教えてくれた。

 ──ワイルドに吠えるぜ!
 ──あ〜ら、タイガーったらやる気満々ねえ
 ──だっ! 茶化すなよ!


 聞きなれない発音の言葉は聞き取るのが難しく、ほとんど意味はわからない。しかし何度か聞くうちに、ヒーローの名前は覚えることができた。
 中でもガブリエラのお気に入りは、ファイヤーエンブレム。抑揚豊かな話し方はとても優雅で上品で、内容がわからないだけに音楽のようだ。端々で聞き取れる言葉も優しくて柔らかく、それでいてはっとするような内容ばかりだ。ノイズ混じりのラジオでも滑らかに聞こえる、程よく低い声も心地よかった。
 彼女が単独でやっているラジオがあるとわかった時はとても聞きたくて、放送時間にしつこくチャンネルを合わせてみたが、どうしても電波が合わず、非常に落胆した。
(ファイヤーエンブレムのラジオが聞きたい)
 ラジオを抱きしめて泣きながら、ガブリエラは、痛切に思った。

 ──ああ、シュテルンビルトに行きたい。

 自分はNEXTであるし、しかも、差別が激しいこの街でさえ有用な能力だと受け入れられている。怪我人はどこにでもいるし、シュテルンビルトでもきっと受け入れてもらえるはず。シュテルンビルトに行って、ヒーローアカデミーという学校に入れば、ヒーローになれる!

 常に即断即決の癖がついているガブリエラは、どんどん考えを巡らせていった。
 世界地図をこっそり書き写し、東西南北のマークと、この街の位置に点、シュテルンビルトの位置に星のマークを書き入れる。
 これで完璧。あとは旅に出る準備をするだけだ。必要なものはなんだろう。酒と、食料と、ラジオと、できればアンテナ。そして何より、新しい車を買わなくてはいけない。今までより頑張って金を貯めなければと、ガブリエラは気合を入れた。

 こんなに心が踊ったのは、今まで生きてきてはじめてのこと。
 ガブリエラは、この時はじめて夢を持った。

「ガブは、シュテルンビルトで、ヒーローになる!」

 拙く書き写した世界地図を手に、ガブリエラは星空の下、教会の屋根の上で痩せた胸を張って宣言した。

 満天の星空が、どろりと溶けていく。
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BY 餡子郎
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