#119
車を飛ばし、ライアンたちがガブリエラの住むマンションに着く頃。ネット中継への移行とサーバー強化が終了した、との連絡が入った。
「5分後ピッタリに放送開始だ。ちゃっちゃと行こう」
ライアンはそう言い、手早く生体認証を済ませて敷地に入ると、ガブリエラのガレージに車を留める。
「ガレージは、フリン、お前が調べろ。俺達は部屋へ」
車両盗難犯罪のプロであるフリンのほうが、ガレージなどに仕掛けられたカメラなどを見つけるのは得意だ。そうやっててきぱきと確かな指示をするのは、待ち合わせをして途中で同乗したヘンリーである。
彼とライアン、カメラマンのオーランドはガレージを出て、足早にガブリエラの部屋に向かう。エレベーターを使い、再度の生体認証を経てまた手袋をはめ、玄関のドアを開けた。
それとほぼ同時に、放送が再スタートする。実況とコメンテーターを任されたステルスソルジャーが、ここがホワイトアンジェラの自宅であることと、新たな協力者であるヘンリーの簡単な経歴などの紹介を行った。
ガブリエラが部屋を土足禁止にしていることを知っているライアンは靴を脱ぎ、ヘンリーは現場保持のためにやはり靴を脱いで、部屋に上がった。
オーランドはカメラの動きに気をつけ、撮影するのは彼らの足元や作業する手元などに絞り、部屋全体などを映さないようにした。捜査のためとはいえ、ひとり暮らしの女性の部屋に勝手に入って撮影しているという状態においての、せめてもの良識だった。
部屋は埃ひとつなく、雑然と散らかっていたりもしない。掃除ロボットが充電のランプをちかちかさせていて、ベッドの上の掛け布団はきちんと畳まれていた。分解されたバイクもあいかわらずぴかぴかで、敷かれたシートの上にネジ1本はみ出さずに置いてある。唯一キッチンのシンクのところに、水に浸けたマグカップが置いてあった。
「きれいな部屋だ」
散らかっていると異常がわかりにくくなるので助かる、とヘンリーは背負っていたバッグを下ろし、中から色々と専用の機材を取り出した。
「──あった」
数分もしないうちに、ヘンリーが声を上げる。
カウンターにあった椅子を使い、リビングにあるエアコンの送風口から彼が取り外したのは、レンズがついた、極々小さな隠しカメラだった。
「……くそっ」
自分も訪れたこともある彼女の部屋に仕掛けられていたそれにライアンはショックを受け、震える手を握りしめる。
ヘンリーはそんな彼の肩をぽんと叩き、落ち着いた声を発した。
「赤外線カメラだ。鮮明な映像は撮影できないが、暗い所でも動きがわかる。つまりターゲットの鮮明な映像よりも、毎日の行動パターンを観察するためのものだな。性犯罪やストーカー目的よりは、強盗や空き巣のリサーチで使われる。ええと、ここにセットされてたってことは……」
「ここからだと、玄関を撮影する角度ですね。多少は見切れますが、バスルームや寝室は死角になります」
「そうなるか。さすがカメラマン」
カメラを抱えたオーランドの断言に、ヘンリーは感心して頷いた。
「玄関を撮影してたんなら、やはり生活パターンの観察のためのものだろう。いつ帰ってきていつ出掛けるのかをチェックしてたんだ」
そう言いつつヘンリーは次の作業に移っていき、仕掛けられたものを次々に見つけ出していった。仕掛けられた場所をメモに取ること、また仕掛けられている機材の撮影も忘れない。
結果、見つかったものは先程のリビングのカメラがひとつと、あとは各部屋に仕掛けられた盗聴器がひとつずつだった。
フリンからも、ガレージにもカメラがひとつ見つかったと連絡が入った。
「盗聴器のほうが多いのが気になるな」
ヘンリーが、眉を顰めて言った。
例えば産業スパイであるとか、何らかの証拠集めであるとか、そういう会話を録音するような目的ならば、盗聴器のほうが役立つこともある。しかしガブリエラはひとり暮らしであり、そして犯人の目的は、おそらく彼女の生活パターンの監視。
それならば盗聴器ではなくカメラをたくさん仕掛けたほうが有益のはずだ、とヘンリーが言った時、ライアンはハッとした。
「音声認識……」
「なに?」
「あいつは読み書きが得意じゃない」
そのため彼女は、モバイル端末を始めとして、その機能があるものは、全て音声認識タイプに切り替えて使っている。
スケジュール読み上げ、チャット、その他すべての文字のやりとりのほとんどは音声で行われているのだと、彼女に影響されて自分もその機能を活用するようになったライアンは思い出した。
「なるほど、それならカメラよりも盗聴器のほうが有用だな。……にしても、彼女がそういう使い方をしていることを知っている者は?」
「ファンなら誰でもってほどじゃないが、隠してることじゃねえからカメラの前で話のタネにしたこともある。仕事でも音声認識のタブレットを常に使ってるし、プライベートでもカメラ機能ひとつ使うのでも音声操作だから、見りゃ察する感じだ」
「そうか……」
あまり手がかりにはならんか、と唸るヘンリーに、ライアンは色々とこみ上げるものを堪えつつ、背筋を伸ばした。
しかし、これで納得もいった。
彼女が撃たれたカウントダウンイベントの、ブルーローズとのサプライズミニライブ。その進行とアンジェラの舞台での立ち位置や動き方は、ドミニオンズと、イベントの責任者くらいしか知らないことだ。
しかしサプライズ企画のために詳細な打ち合わせができず、家でも動き方の確認や練習を少ししたというガブリエラの様子をこのカメラや盗聴器で把握していたならば、ぴったりの場所に狙撃銃を設置していたことにも説明がつく。
「他にわかることは?」
「聞きたいんだが、この部屋は彼女が選んだのか?」
質問に質問で返されたが、ライアンは頷き、記憶をたどる。
「──いや。本人の提示した条件……シャッター付きのガレージがあるとかそういうのに合う物件を会社が探してきて、そこから選んだはずだ。何か気になるところがあるのか?」
「4階、ってところがな」
ヘンリーは、自分の顎を撫でながら言う。
「一般人の女性が選ぶにしたって、4階はちょっと低めだろう」
階数が低ければ単純によじ登って忍び込んだり、近所からの盗撮なんかもしやすいというのは、それなりにセキュリティ意識のある女性なら認識していることだろう。アンジェラのような、普段からボディガードをつけているような人間がマンションの4階に住んでいるというのは少々不用心過ぎはしないか、とヘンリーは指摘した。
その指摘には、確かに、とライアンも頷く。
ライアンも4階という低さに不用心だなと思ったことがないではないが、基本的なセキュリティが高めの物件であるし、前に暮らしていた安アパートがひどすぎたせいもあってか「良いマンションは低い階でも治安がいいのですね」などと本人が心底感心していたので、そう深刻に考えていなかった。
「確かに、普通ならむしろセキュリティが高い方の物件だが、アンジェラが住むとなると不十分な気がしてならん。それに、気にかかるのは──」
「なんだ?」
「こういう隠しカメラや盗聴器の無線通信の電波は、受信範囲があまり広くない。しかも横方向や上にはよく飛ぶが、下には飛びにくいんだ。だからこういうものを仕掛ける犯人は、ターゲットの隣の部屋とか、上の階の部屋を借りたりすることがある」
淡々とした説明を、ライアンは黙って聞いた。
「だから最上階はマンション共用じゃなく専用のインターネットLANを引く場合が多いし、その点でもセキュリティ性が高いんだが、……彼女がこの階を希望したのか? わざわざ? もしそうじゃないんなら……」
「調べてくれ」
ライアンが通信端末に告げると、了解、とドミニオンズからの返答があった。
そしてヘンリーが念のためまだ何か仕掛けられていないか探したり、地味な画面をフォローするようにしてステルスソルジャーが今までの流れをまとめて解説などしていると、間もなく連絡。
《──確認しました》
「話せ」
《セキュリティレベルを吟味した上で、彼女にふさわしい物件をピックアップしたのはアークです。しかし彼らが我々に提出したリストはすべて、最低でも10階以上の高層です。今のマンションもリストにありますが、最初に提出されたリストは14階になっています》
「どこで変わった? 本人の希望があったのか?」
《本人の希望、ということは聞いていません。彼女がこのマンションを選んだのは、相談に乗ったドミニオンズの職員が覚えていました。実際の住宅申請の段階で4階に変更されています》
「書き換えた奴がいるってことか?」
またも出てきた身内の犯行の可能性に、ライアンは眉を寄せる。ドミニオンズの女性は、暗い声で答えた。
《……はい。現在申請時の状況や書類受理の流れについて調べています》
「引き続き頼む」
《了解しました》
「あとは同じ階から上で、アンジェラが越してきた前後の期間と、もしくはここ何日かで引っ越してったとか、怪しい動きのあった部屋や住人がいないか調べたい」
《不動産や管理会社に掛け合ってみます。その際、アンジェラの名前を出しても?》
「必要に応じてやってくれ。判断はオリガ主任に任せる」
《はい》
ドミニオンズとの通信を終わらせたライアンは、CMに入ったことを確認すると同時に、はあ、とため息をつき、すぐ後ろにあったベッドに腰掛けた。その様子を見て、ヘンリーは道具を片付けながら、痛ましそうな顔をした。
「しっかりしろ」
「わかってる」
「……それと気になっていたんだが、あんた、その格好で寒くないのかね」
ヘンリーが指摘したとおり、ライアンはサイズが合っていないために胸元のボタンが3つも止まっていないシャツと、安物のジーンズしか身に着けていない。
まだ雪も積もっているような気候で、その姿はいかにも寒々しかった。しかも、生乾きの髪が少し凍っている。
「風邪を引くぞ」
「そんなに寒いか?」
「わからんのか?」
指示を出している時はキビキビしているくせに、自分のこととなるとぼんやりした返答になるライアンに、ヘンリーは眉間に皺を寄せた。
「見ている方が寒い、何か着るものを借りろ。彼氏なんだから、アンジェラも文句は言わんだろう。……ああ、このセーターならなんとか着られるんじゃないか?」
そう言ってヘンリーが持ってきたのは、“例の”あのセーターだった。目に痛いほど派手な配色でもって犬頭の気色の悪いクリーチャーが描かれた強烈なアグリーセーターを見て、ライアンは顔を引き攣らせる。
「いや、いい。それはいい」
「何を言っとるんだ。確かにちょっと可愛らしい柄かもしれんが、こんな時に贅沢を言っとる場合か。着られればなんでもいいだろう」
むしろ可愛くないから着たくないのだ、とは言えず、ライアンはぐっと詰まった。
「ほら、風邪を引いたらどうする。彼女は怪我は治せても、風邪は治せんと聞いたぞ。起きた時にあんたが風邪を引いて倒れていたら、彼女がどれだけ心配するか」
「あんた、子供にダッセエ服とか無理やり着せて嫌われるタイプだろ」
「風邪を引くのと比べたら、見目が悪いことなんか些細な事だろうが」
「些細なもんか」
「着ろって」
ほら、ほら、とヘンリーがセーターを前に突き出してくるせいで、菱形の乳首を晒してマッスルポーズを取るマッチョ君が、近くに迫ってくる。
ライアンは嫌いな食べ物を口元に押し付けられた子供のような表情で、精神が汚染されそうなデザインのキャラクターを直視しないようにした。両手を前に突き出し、心の底からNOと意思表示をしていることを示すポーズを取る。
「いいか、これ以上それを近づけないでくれ。俺はダサい服を着ると蕁麻疹が出る体質なんだ。クソダサ・アレルギー。ここだけの話、命に関わる──」
「何をガキみたいな事言ってるんだ」
「絶対に着ない」
「着ろ」
「イヤだ」
「着ろ!」
「イヤだ!!」
──CM明け。
カメラに写ったのは、マンションの廊下で、例のマッチョ君セーターを着たライアンであった。
ガブリエラが着ていた時はかなり袖が余っていたのに、薄着のライアンが着るとぎりぎりの長さだ。しかしやはりギリギリのぴちぴち、逞しい体のせいで前後の絵柄は限界まで伸びきり、マッチョ君の角ばった乳首はもはやただの茶色い線になっている。
しかも袖の長さの割に丈が妙に短いセーターは、ライアンの腹や腰を全く覆っていない。絶望的なまでにバランスの悪い服だった。
その有様を玄関先の鏡で見てしまったライアンは、ここまでひどい服がこの星に存在するなんて、とかつて言った言葉を、絶望が濃厚に滲んだ声で再度密かに繰り返した。その目からは光が消え、まるで今から売り飛ばされる奴隷のような顔つきになっている。
「大丈夫、大丈夫だ……イケメンだから……俺イケメンだから大丈夫……」
「何をやっとる。ぐずぐずするな」
精神衛生を保つために淀んだ目でぶつぶつ自分に何か言い聞かせているライアンにヘンリーは厳しい声をかけつつ、ガブリエラのクローゼットから引っ張り出してきたマフラーも、ぐるぐると彼の首に巻きつけた。
そのマフラーはかつて楓のものと一緒にライアンが彼女に選んで買ってやったものだけあってセンスがいい品だったが、残念ながらこのクソセーターに打ち勝つほどの力は有していなかった。結果、ライアンは胸から上は暖かそうなのに、腹だけが完全に無防備という前衛的かつ意味があるのかないのかわからないスタイルになる。
ふむ、とヘンリーが首をひねった。
「うーん、腹が冷えそうなナリだな」
「下痢ピーみたいなファッションだってことは同意する」
「子供じゃないんだから、下品なジョークは控えろ」
このセーターを着てからというもの、ヘンリーはライアンを小僧扱いすることに決めたらしい。
「じゃあ、聞き込みに行くぞ。あんたのよく売れてる顔がありゃあ、刑事よりも簡単に聞き込みが出来るだろうが」
「……おう」
ライアンはなんとか気を取り直し、渋々頷いた。
とはいっても、平日の朝である。小さな子供のいる若い夫婦や裕福な単身女性、また仕事をリタイアした老夫婦などが主な住人であるこのマンションの住人は、ほとんどの住人はもう出勤してしまって不在だった。
「あらまあ、本当に……、ああ、ごめんなさい、驚いてしまって」
まず応じてくれたのは、同じフロアの、口元に手を当てて驚いた顔をしている若い女性。まだ子供が小さいために専業主婦をしているのだという、エプロンをかけて玄関先まで出てきてくれた奥方だった。
「401の方がアンジェラだったの? まあ、全然知らなかった。ヒーローも賃貸に住むのねえ──」
「近所付き合いはない?」
ライアンが尋ねると、奥方は、足元にしがみつく小さな子供をあしらいながら頷いた。
「そうですねえ、このご時世ですからね。分譲マンションだったら長く住むからあるかもしれませんけれど、こちら賃貸ですし……。うちは子供が小さいので、公園で会う子持ちの方とは多少知り合いですが、それでも挨拶する程度ですよ。みんなそんなものだと思います」
「そうか……」
「役に立てなくてごめんなさい。……あの、頑張って。中継、見ていたの。応援してるわ。恋人がここまでしてくれるなんて、アンジェラが起きたら絶対に感動する」
「ありがとう」
ライアンが微笑むと、奥方はまだ本調子でないその笑顔にか、ヒーローに言葉を伝えた興奮にか──それとも両方か、少し赤くなって俯く。
「ええ。でも、その、……できればそのセーターはやめたほうがいいと思うわ」
夫のコートが貸せればいいんだけど、うちの人だいぶ細身だから……と言い難そうに言われ、ライアンは、すっと無表情になる。ヒュウと冬の寒い風が無防備な腹を冷やしてきて、本当に蕁麻疹が出そうな気がした。
その後何人かが聞き込みに応じてくれたが、同じマンションにヒーローが住んでいた、ということに皆とても驚いていた。
最終的には中継を見ていた住人が自主的に出てきてくれてまとめて話を聞かせてくれたりもしたものの、最初に応じてくれた奥方が言うのと同じく、このマンションで近所付き合いはほとんどない、ということだった。
「まあ、こんなモンか。居留守も使えるしなあ……」
ヘンリーが、難しい顔で頭を掻く。
──BLEEP!! BLEEP!!
手首につけた、ヒーロー用の端末が鳴り響く。
《Bonjour, HERO!! また事件よ》
「多いな。アンジェラの件と関係あるか?」
《……どうかしら》
アニエスは、重い声で言った。
《さっきの事件も今回も、無人の車が暴走してる、っていう内容よ。犯人はまだ不明。でも共通してるのは、おそらくNEXT能力で操られたぬいぐるみがハンドルやアクセルに張り付いてた》
「ぬいぐるみ?」
《同じような能力の持ち主が、過去シュテルンビルトを騒がせたわ。それで市民も敏感になってる》
「ジェイク事件か」
その頃ライアンはシュテルンビルトに来たことがなかったが、相当大きな事件だったので事件当時もニュースは見ていた。
それに、相棒となるバーナビーが深く関わる事件だったため、最初にシュテルンビルトに来る前に、事件のことは結構深く調べて把握している。
《ええ、そうよ》
「ウロボロス──、だったか。何モンだ?」
《それがわかれば苦労はしないわ。今回関係あるかもわからないしね》
まあそれもそうか、とライアンはため息をつく。
《ウロボロスのことについては、バーナビーが一番詳しいわ。必要だったら彼に聞いて。……さあ、手の空いてるヒーローは今すぐ走って! 場所は──》
アニエスのきびきびとした声を最後に、通信が途切れる。
ライアンはひととき空を見つめ、何かを考えるような顔をして黙る。
(……なんだ?)
違和感、があるような気がする。
だがライアンがそれを掴む間もなく、間髪入れずにすぐ別の声がした。
《ゴールデンライアン! 黒焦げの車の調べがとりあえず終わりました!》
《こちらも、弾の解析が終わりましたぁ! 込められたNEXT能力の詳細が判明! 能力の持ち主も、国際NEXTデータベースに登録がありましたっ!》
「本当か!?」
ケルビムとパワーズの早口な報告に、ライアンも大きな声で応える。
《申し訳ありませんが、警察との取り決めで外部に持ち出せない情報になります。できれば早くアスクレピオスに戻ってきてください!》
「わかった、すぐ戻る」
行き詰まっていたところだ、ちょうどいい。
まだ心配そうにこちらの様子を窺っている住人たちに軽く手を上げて挨拶したライアンは、ヘンリーとともにエレベーターで下に降りていく。
「あんたの部下は優秀だな」
エレベーターの中で、感心した様子でヘンリーが言う。エレベーター内についた鏡越しに、ライアンは彼を見た。
「……あんたもだ、ヘンリー刑事。いなかったら、あいつの部屋にあんなもんが仕掛けられてるのに気づかないままだった。ありがとう」
「もう刑事ではないよ。それに……」
ヘンリーは、重たい声で言った。
「知り合いの娘が、あんたとアンジェラのファンでな。ハロウィンの、ファンミーティングだったか。あれに応募して、当たったんだ。それで全身の傷跡が消えて、これで家族で水着を着て海にも行けると、とても喜んでいた」
「それは……」
老いた声は、少し涙ぐんでいる。ライアンが思わず振り返ると、彼は言った。
「オレット事件で負った、消えないはずのあの子の傷を、アンジェラはきれいに治してくれた。こんなことぐらい、礼にもならんよ」
早く彼女の目が覚めるよう自分も祈っていると、ヘンリーは心からとよく分かる声で続ける。ライアンは俯き、返事をしなかった。
チン、という音とともに、エレベーターが1階に到着する。
エレベーターを降り、大理石が使われたロビーに入ると、かつん、と硬い音。
「おや、君は……」
ライアンの顔を見てそう言ったのは、品のいい老紳士。
ライアンもまた、彼に見覚えがあった。はじめてこのマンションに来た時、エレベーターに同乗した老夫婦の夫の方だ。
奇しくもあの時と同じく洗いっぱなしの髪にヒゲも剃らず、しかも今度は世にもひどいファッションで彼に出くわしたことに、ライアンはきまり悪く眉を顰めた。やはりこのセーターは呪われている、と心の中で悪態をつく。
「あの日以来だ。元気かね」
「……おかげさまで」
「そうかい? なんだか具合が悪そうだが──」
そう言って、老紳士はライアンに近づいてきた。かつん、かつん、と年季の入った彼の革靴の底の音が響く。その音を聞きながら、ライアンは目を細めた。
「なあ。あんた、俺の女のことを知ってるよな」
「ホワイトさんの事なら、もちろん」
「へえ。──この、近所付き合いの少ないマンションで?」
ライアンの低く這うような声に、ヘンリーが少し後ろに下がる。
──違和感。
これだ、と、ライアンはうなじからざわりと総毛立つような気がした。
この老夫婦がやけに彼女に親しげだったので、てっきり近所付き合いが盛んなマンションなのだと勝手に思い込んでいたのだ。
「そうなんだよ、寂しいものだ。だけど彼女のきれいな歌声をたまたま聞いてね、つい妻と声をかけたんだ。そのまま少しお喋りをして、知り合いになった」
このマンションには、1階の中庭には小さな子供のための公園、屋上には庭園がある。しかし下の公園はともかく、屋上庭園は庭園というには殺風景で寂しく、幾つかの観葉植物が置いてあるだけの場所で空調設備もないためあまり人気がない、と先程の住人らから聞いた。
だからこそガブリエラは最初、4階から近いけれど人が多く声も響く公園ではなく、歌を歌っても誰の迷惑にもならない屋上庭園に行ったのだ。
「ふぅん。……そういや、奥さんはどうした?」
「妻なら家にいるよ」
「さっき行ったけど、反応がなかった」
「……そうかい。寝ていたかな」
老紳士は、いかにも老人らしく、曲がった腰の後ろに両手を回している。
ライアンは、あの日のことを思い出していた。
病院で買ったパジャマにこのクソセーターを羽織り、蜂蜜入りの紅茶を飲みながら、歌のことや、母親のことを話した彼女の姿。本当に幸せそうに、あの部屋で微笑む表情。
あの時既にカメラや盗聴器が仕掛けられていたのだろうかと思うと、ライアンは腸が煮えくり返る心地になる。
彼女の歌が気になり歌ってみてくれと頼むと、彼女は照れくさそうに了承し、部屋の中で歌ってくれた。
その声の素晴らしさに思わず惚けて手放しで褒めると、「ライアンに褒められました!」と彼女は大げさなほど喜び、ライアンが褒めてくれたならと、本格的なレッスンを受けることを了承したのだ。
だがライアンがとうとう帰るという直前、老夫婦が「歌うなら私たちも聴きたい」と言っていたと伝えると、彼女は困ったような顔で、あの人達はなんだか苦手なのです、と答えた。
その時は、老人によくある若者への馴れ馴れしさが鬱陶しいのだろうか、と特に深く考えもしなかった。
しかしあの懐っこい犬のような性格の彼女が、善良な老夫婦、などというものに懐かないことがあるだろうか。
「あんたたちが毎朝06:00に中庭に来るから、その時間は避けてるってよ」
「……それは、それは」
残念だなあ、馴れ馴れしくしすぎたかな、と老人は妙にゆっくりした声で言った。
それは傷ついたようにも聞こえたが、ただ動揺したような、しかし何か切羽詰ったような声にも聞こえた。
「あの時、あいつの歌を聞きたいって言ったな。どこで聞いた?」
「彼女はよく歌うだろう? そうだね、週に3度か4度くらい──」
「あんたたちに屋上で鉢合わせてから、あいつはあんたたちを避けて、屋上で歌ったことはない」
部屋も防音が効いていますしね、と、ガブリエラは言った。
そんな彼女を、広いところで歌わせてやりたいと思った。あの素晴らしい歌を皆に聞かせてやりたいと思い、ライアンは彼女の歌をプロデュースすることを決めたのだ。
老人は、微笑んでいる。
その顔に刻まれた皺は彫刻のように深く、そして微動だにしない。かつんと音を立てて、老人がまた一歩近づいてくる。ライアンは両手を構えた。
「なんで、知ってる? 週に3度か4度、あいつが、“防音の効いた部屋で”歌ってる事を?」
──パァン!!
乾いた音は、銃声。
それは老人が腰の後ろに回していた手が素早く前を向いた瞬間、その手に持った銃から放たれた。
「ぐっ……!!」
腹に当たった銃弾に、ライアンが呻く。
しかし顔を歪めつつも床に手を着こうとするライアンに、老人がもう片方の手で持った銃で、更に発砲する。指を吹き飛ばされそうになって、ライアンは思わず手を上げた。
「両手拳銃って、おいおい……」
「イケてるだろう?」
しゃんと伸びた腰をした老人は、ライアンに向けた銃を、手慣れきった動きでくるりと回してみせた。
しかしその顔は皺の1本まで彫刻のように刻まれた微笑みのままで、そしてもう片方の銃は、油断なくヘンリーとオーランドに向けられている。
ヘンリーもまた銃を構えているが、老人は淡々と言う。
「やめときな、坊っちゃん。俺のほうが早い」
「……そのようだ」
くそ、映画のガンマンレベルじゃねえか、とヘンリーは相当の早撃ちな上に狙いも正確という銃の腕に冷や汗を流しながら悪態をつく。
「……い〜い腹巻きだなァ。どこで売ってるんだ?」
銃弾が当たったはずが血の滲んでこない無防備な腹を見て、老人は言った。ライアンは、にやりと笑ってみせる。
「非売品だ」
「そりゃ残念」
ライアンがシャツの下に着ているのは、せめてとパワーズが寄越してきた、超薄型の防弾シートだ。ハロウィンのファンミーティングの時、コンチネンタル時代のヒーロースーツを作り直した際の試作品である。これのせいで、シャツがきつくてボタンが閉まらないのだ。
「ああ、ろくな仕事じゃねえ。さっさと引退したいってのによぅ」
「そうしろよ。嫁さんもいるんだから」
「阿呆抜かせ、あんなババア」
ペッ、と老人は美しい大理石の床に黄色い唾を吐く。
何が品のいい老紳士なものか。ライアンは自分の人を見る目に自信がなくなってくると同時に、ガブリエラの人を見るセンサーの精度の高さを改めて実感する。
楓と暮らした時に提出された彼女の能力解析レポートにあった、“いい人”・“普通の人”・“頭のおかしい人”のカテゴリ分け。この老人は間違いなく“頭のおかしい”という分類になる、と今となっては明らかだが、彼女は最初からそれを見抜き、この老人をひどく警戒していた。
「あんたの女は細すぎるが、あのケツはいいよなあ、何より若い。ズリネタ止まりで辛抱するのに苦労したぜ」
「て、めェッ……!!」
老人がガブリエラの部屋に忍び込んで機器を仕掛けたことがわかっているだけに、ライアンの頭に血が上る。上げた両手の指が、力の入れすぎでばきばきと音を立てた。
「俺ァ若い女が好きでねえ。穴という穴に突っ込んで、その後“こいつら”で穴開けて、またそこに突っ込むのがいい。若い肉がズルズルになるまでやるんだ、どの女もいい声で鳴く。NEXTの女ならなおさらいい、なかなか死なねえからな、ハハハ」
「クソ外道」
「おお、都会の子はなんて品がいいんだ。◯◯◯から◯◯◯◯が出そうだぜ」
変わらない笑い顔のまま、老人が言った。
そしてライアンは、悟る。こいつがこれほど微動だにしない笑い顔なのは、ずっと笑っているからだ。こいつは何十年も寝て起きて、食べて、出して、殺し、甚振り、下衆の極みの行為に耽るときですらこうして朗らかに笑い続けてきた、筋金入りの気違い野郎なのだと。
(こいつの目的は、なんだ)
おそらくかなりの場数を踏んでいる、人殺しのプロだろうこの老人の目的がライアンの殺害であれば、ライアンはもうとっくに死んでいるはずだ。
しかし老人はライアンの心臓や腹ではなく腹を撃ち、ライアンを激昂させるために煽る会話を向けてきた。その目的は何なのか。
人を潰し殺さない程度に制御して重力場を発生させるには、少なくとも1秒程度の集中が必要になる。しかし、あの西部劇のガンマンさながらの早撃ち。ライアンが地面に手をついた途端、老人がその手を正確に撃ち抜くことは間違いない。割と大口径の銃なので、撃たれれば手に穴が開くどころか、床の大理石ごと手のひらの大方が吹っ飛ぶくらいになるだろう。
そんな怪我でも、ガブリエラの能力で治るだろうか。──そもそも、彼女は目覚めるのか?
そこまで考えて、ライアンは歯を食いしばる。
能力の発動自体は、いつでも出来る。しかし手を使わずに発動した場合、この老人を殺さない程度の発動が果たして出来るだろうか。
できなければ、間違いなく老人は死ぬ。そして、相手がどんな悪人だろうと人を殺したということになれば、ライアンはもうヒーローを続けていくことは出来なくなる。
「NEXTは頑丈だ。しかもヒーローともくりゃ、2、3発ぶち込んでもなかなか死なんだろ?」
相変わらず笑い顔のままの老人が、トリガーにかけた指に力を込めるのが見えた。