#118
意識が覚醒した感覚はない。
それなのに、目が覚めた。
直角90度に傾いた視界に、ガブリエラは、自分が地面に横たわっていることを理解した。明るく瑞々しい、若く柔らかい草の絨毯。
「ひっ」
ガブリエラは、飛び起きた。自分の中から、生きるためのエネルギーが、どんどんと流れ出ていくのがわかる。大地に根ざした草たちが、ガブリエラを貪りながら伸びてくる。それが自分に伸びる触手のように思えて、ガブリエラは怯えた。
「あ、ああ、ああ……」
赤ん坊のように丸々と太った手首が、どんどん細くなっていく。浮き上がる骨の形。助けを求めて、怠い体に鞭打って顔を上げた。
「──ラグエル」
いちめんの花畑で、ヒヒン、と、とても機嫌の良さそうな嘶きを上げて跳ねまわる黒い馬。ガブリエラはぼんやりとその姿を見ていたが、必死に藻掻くように地面に手をついて、何とか身体を起こした。
「ああ、あなたはやはり天使だった!」
後ろから聞こえた女の声に、ガブリエラは振り向いた。そこには修道女の衣装を纏った初老の女が、目を潤ませ、感極まったように、古いロザリオを両手で握りしめている。
「シスター……、マム」
「神様から与えられた力。求める人々に、惜しみなく与えなさい。たとえ自分の身を削っても」
──星に至るために。
聖女そのものの表情で母が言ったその時、ぐう、とガブリエラの痩せた腹が鳴る。
「……おなかがすいた」
口にすると、どっと飢餓感が襲ってきた。耐えられない。腹を押さえて蹲ると、目の前に白いものが横切った。鶏だ、と思った瞬間、口の中に唾液が溢れる。
腕を伸ばして、鶏の首を掴む。ポケットからナイフを出そうとしたその時、ガブリエラの頭上に影がさした。──見上げる。
「マム……」
逆光になっていて、顔がよく見えない。首から下がった、星のついたロザリオばかりがなぜか目についた。
「神への供物を盗むなんて!」
母が、金切り声を上げる。
掴んでいた鶏の首は、いつの間にか蛇の尾になっていた。にょろにょろと動く蛇を地面に叩きつけ、動きが鈍くなったところで首辺りに切れ目を入れ、一気に皮を剥ぐ。それでもまだ動いている蛇に、嫌気が差した。
教会の中から、賛美歌が聞こえる。神の誕生を祝う歌。
──私だって、誕生日なのに。
無性にやるせなくなって立ち尽くしていると、ドォン! と、大きな爆発音がした。驚いて音がした方に走って行くと、顔に熱がぶつかってくる。
巨大な炎の中で燃えているのは、教会の車。ガブリエラの車だった。
「あああああああああああ!!」
ガブリエラは、絶叫した。
後ろで、やーい役立たず、知恵遅れの愚図、赤毛の豚め、◯◯、と囃し立てるいじめっ子の声がした。頭にきて手に持っていた蛇を投げたが、いつの間にか酒瓶になっていたそれは、いじめっ子の横の壁で粉々になった。ヒイと悲鳴を上げたいじめっ子が、慌てて逃げていく。
「ああ……ああ……」
車が、燃えている。
物心つく前から親しんだ、ぼろぼろの車。母に抱き上げられたことのないガブリエラが、何より大事にしていた宝物。血の代わりにガソリンを巡らせ、心臓の代わりにエンジンの音を響かせる、安心して眠れる鉄の揺りかご。
「私の車……わたしの……」
ガブリエラはとても悲しくなって、めそめそと泣いた。
「……うえ、うええ、……わたしの、ガブの……ガブのくるま、ガブの、あああ」
泣きながら、ガブリエラはよろよろとラグエルの馬小屋に行き、暖かさを求めて黒い身体に突っ伏す。するとラグエルは非常に迷惑そうに身体をよじって離れようとし、それでもガブリエラが追い縋ると、落ちていた馬糞を顔めがけて的確に蹴り出してきた。
「ぶえっ」
馬糞が顔に直撃したガブリエラが無様な声を上げると、ラグエルは歯ぐきまでむき出しにして嘶きを上げ、前足を振りかぶってきた。顔を馬糞まみれにしたガブリエラを全力で馬鹿にしてくるラグエルに、ふつふつと怒りが湧いてくる。
ガブリエラは馬糞を掴むと、ラグエル自慢のたてがみに思い切り叩きつけ、そのまま力いっぱいなすりつけてやった。
「ヒヒィイイイン!! ブァッ、ブァアア!!」
「この◯◯◯◯! ◯◯◯◯◯◯、馬肉にして◯◯◯◯!! ◯◯◯!!」
怒り狂って唾を撒き散らすラグエルの首っ玉にしがみつき、ガブリエラはあらん限りの罵声を叫びながら、たてがみの根本まで馬糞を塗りつけてやる。頭の後ろでラグエルがガチガチと歯を鳴らし、赤毛をむしろうとしているのを察して、ガブリエラは首にしがみつきつつ、彼の口が届かない場所に頭を突っ込む。
そしてそのうちにラグエルの背に跨ったと思ったら、ラグエルは走りだしていた。
後ろの方で、まだいちども乗っていない車が爆発炎上しているのがわかる。
ふと振り返ると、荒野の果てのあの街が、どろどろと夜闇に溶けていくのが見えた。
「で、まずは何から手を付ければいい?」
アスクレピオスから借りた、しかし社用車とわからない、ロゴの入っていない普通車。その運転席に乗り込んだライアンは、助手席のフリンにさっそく指示を仰ぐ。
「……そうだな、やっぱりあんたの主治医が一番怪しい。出勤途中に渋滞で遅れるって連絡が来て、結局来なかったってのは聞いてるが」
「ああ、その通りだ」
「そこの事実確認だな。まず、そもそもその医者は、本当にいつも車で通勤してるのか?」
「確かだ。俺も実際に何回も見てる」
「じゃあその車種とナンバー……」
《◯◯のエコカー、RE9だ。カラーは白。ナンバーはSTB−N−5382》
突然聞こえた声に、フリンは目を丸くした。
「サンキュ」
「お、おい、今の誰だ」
「スローンズ。エンジェルチェイサーの生みの親だ」
ライアンは、端的に答えた。
「紹介しとく。スローンズはバイクと車関係のエキスパートで、今の声はそのボス。──他にも医療関係のケルビム、研究職のパワーズ。あとは広報、情報収集担当のドミニオンズ。こっちとは、常に音声、映像ともに繋がってる状態でいくぜ」
よろしく、なんでも言ってくれ、と口々に端末から聞こえる声にフリンは驚いたが、なるほど、ライアンも孤立無援というわけではないらしいと状況を把握し、襟を正した。
「……ああ。どうも、よろしく」
「挨拶はこのへんでいいか? じゃあ次の指示をくれ」
「奴が出勤するときのルートと、その時間、本当に渋滞が起こっていたのかどうか。起こっていたならどこなのか。それとさっきの車種とナンバーから、ポセイドンラインの監視カメラの映像が欲しいな」
手慣れた指示だ。
やはりベテランがブレインになると違う。
そんな手応えを感じつつ、ライアンはおもむろにドアポケットに入っていた小さなファイルを取り出すと、それを見ながら端末を立ち上げる。
「でもなあ、さすがに個人でそういう情報開示は──、おい、どこに電話かけてんだ」
「ポセイドンラインのCEO」
「は!?」
「──どうも。ゴールデンライアンだ」
相手が出たらしいライアンは短い挨拶をし、片手間にモバイル端末を立ち上げる。
「ああ、ありがとう。……大丈夫だ、寝てるだけ。そう、……そうだな。……ああ、助かる。待ってるぜ」
手短に通話を終わらせたライアンを、フリンはぽかんとした顔で見た。
「中継見て、もう調べに回してくれてるってよ。話が早くて助かる」
「な、なんで」
「ポセイドンラインのCEO、アンジェラのこと気に入ってるからさ」
ライアンの手元には、ホワイトアンジェラ、もといガブリエラがいつもポーターの中に置いている、名刺コレクションのファイルがあった。
「だからって、こんな即断即決で?」
「男気溢れるオッサンなんだよ」
ライアンは、そう言って肩を竦めた。
彼は利用できるものはすべて利用すると決めたが、それはガブリエラ本人に関しても例外ではない。その人間の本質、そして自分に対して敵意や害意があるかどうかを的確に見抜く彼女は、信用できると判断した者の名刺しかこのファイルに残さない。
ライアンは、それを知っていた。時にライアンでさえコネクションを持たない大物の混じったこのファイルの人間は、間違いなく彼女の味方であると。
記者会見前の3時間の間にも、連絡できる者にはすべて連絡して協力を仰いでいる。もちろん、何かできることがあれば連絡してくれと全員が胸を叩いてくれた。
「結果が送られてくるまで、ちょっとかかるそうだ。──よし、CM」
ライアンのその言葉とともにスッと下げられたカメラに、フリンは「はああ」と大きく息をつき、助手席の背もたれにずるりと身を預ける。
「こんな感じの時間間隔で、だいたい5分か、長くて10分くらいのCMが入る。移動時間もなるべくここに当てる感じだな」
「犯人に、先回りをされないためか」
「……そうだ」
さすがに察しの良いベテラン刑事に、ライアンは頷いた。
すべてを生中継する、ということ。
それはライアンの潔白を証明するのにこれ以上ない手段ではあるが、真に何を目的としているのか分からない犯人に情報を与えてしまう行為でもある。
それをできるだけ防ぐため、こまめに挿入されるCMの間に、こうして行き先や方向性を決めなくてはいけない。
「お、来た来た」
「マジか……」
かくん、とフリンは顎を落とした。
ライアンが用意したタブレットPC端末に、シュテルンビルトの地図と、先程スローンズが調べた車の走行ルートと監視カメラに写った映像が、ドッと溢れるように表示されたからだ。
「はい、見て。なんかわかることある?」
「お、おう」
ぽんと端末を寄越されたフリンは、おたおたとそれを受け取った。その画面に、オーランドがカメラを向ける。
次々に自分の指示を処理していくライアンに、フリンは正直舌を巻いていた。
各分野のプロフェッショナルを集めた警察の捜査チームとて、ここまで動きは迅速ではない。組織特有の事務処理などがいらないこと、ライアンの頭の回転の速さ、そして彼の持つコネクションの多さによって成せることだというのは、フリンにもわかった。
(なるほど、俺は部品のひとつか)
刑事ひとりが協力したところで何になる、と思ったが、なんということはない。他の人員は既に揃っていて、己はこの重力王子の作ったチームを動かす最後の駒だったのだとフリンは正しく理解し、寄越された端末を真剣な目で見た。
送られてきた資料には、事件当日のものはもちろん、ご丁寧にもここ1年ほどのこの車の走行ルートなどもまとめられていた。ほとんど毎日通っている同じ道が、出勤ルート。車通勤であることは、やはり嘘ではなかったようだ。
「……連絡があった時間、通勤経路で確かに渋滞が起こってる。電話があった時間のすぐあと、渋滞から抜け出るようにしていつもと違う道に入ってるな」
「そのあとは?」
「そのあと、……そのあとが、妙だ。反応が消えた」
「消えた?」
「ここだ」
フリンは、ライアンに画面を見せた。確かに、渋滞が起こっていた高速道路を降りたことを示すラインが、とあるところでぷっつりと切れている。
「……なんだこれ。スローンズ、わかるか?」
《本当に妙だな。ポセイドンラインの位置情報システムは、エンジンが切れても関係ないもんなんだが……。事故ったとしても、爆発炎上でもしない限りは……》
GPSシステムは防犯対策としてロックシステムと連携しているので、車体から外せば警報が鳴り響く。車の持ち主本人であろうと同じくだ、とスローンズは告げた。
《ブロンズの、高速の高架下の道か? チッ、カメラもねえとこだな……。すまん、時間をくれ。検証する》
「……わかった」
バタバタと何かをひっくり返しているらしい音とともに告げられたそれに、ライアンは硬い声で返した。もどかしい。しかし、彼らほどのプロフェッショナルでもわからないことというのであれば仕方がない、とライアンは気持ちを切り替える。
「プロでもわかんねえか。じゃあしょうがねえな」
心を読んだようなフリンの声に、ライアンははっとした。
「現場100回、ってな。刑事は足だ!」
フリンに急かされ、ライアンは、ルーカス・マイヤーズ医師の車が消えたポイントにやってきた。
移動中にちょうどCMが明けたため、視聴者には、医者の車の走行ルートなどのことがマリオによって説明されながらの中継となっている。
実際にやってきたその場所は、高速道路の下をくぐるような、ブロンズステージの薄暗い道。再開発の及んでいないその場所は、所々破れたり傾いたりしたフェンス、かなり昔に潰れた小さな個人工場跡などが寂しく並ぶ場所だった。
「治安が悪そうっつーよりは……、人の気配自体がねえとこだな」
フリンが、短い髪の頭を掻きながら言った。薄暗く、夜の独り歩きはおすすめできない場所のようであるが、ガラの悪い連中がたまり場にしているようでもない。
「なんか変わった所はないか? 探せ」
《変わった所、といいますか》
運転席から降りたライアンが返事をする前に、通信端末からドミニオンズの声がした。
《中継を見た一般のネットの書き込みなどをチェックしているのですが、──どうもそこは、有名な心霊スポットのようです》
「はぁ? 心霊スポット?」
《はい。私たちも調べてみましたが、実際に過去何度か殺人事件の犯行現場になっています。また右手の工場は作業中に事故が起こり、大勢の従業員が焼死した事故が起こっていますし──》
フリンが右手にある工場を見ると、確かに、真っ黒に煤けていた。
《あとは昔シュテルンビルトで油田が見つかった頃、ここいらでは石炭を掘ったり運んだりしていたようです。そちらの茂みの奥にその頃のトロッコの線路が少々残っていまして、その関係の怪談話も多いようですね》
「バッカバカしい。……おい、どうした?」
「……タイヤの跡だ」
ライアンは、雑草が青々と伸び放題になった茂みの手前でしゃがみこんでいた。
彼の指さすところを見ると、確かに車のタイヤの跡がある。しかもそれは茂みに向かって突っ込んでいく軌跡を描いていて、ぼうぼうに茂った草が車に轢き倒されたようになっていた。
タイヤの跡をカメラで撮影してスローンズに送信し、ルーカス・マイヤーズの車のタイヤ跡と一致するかどうか尋ねると、是という返事。
ライアンは頷き、怪訝な顔をしているフリンとともに雑草をかき分け、タイヤの跡を辿って奥に進んだ。
数メートルも進むと、崩れかけたレンガのトンネルの奥、雑草に埋もれるようにして、風化しかかった錆だらけの線路が姿を表した。石炭を運んでいたという、トロッコの跡だ。枕木の部分は、長い年月によって殆どなくなっている。
まさに野放しという様子の雑草の茂みはとても頑丈で、いちど車に轢かれた程度ではすぐに起き上がってくるような具合だった。時にライアンの肩くらいまで伸びている草むらに残っている僅かな車の跡を注意深く辿りながら、ライアンを先頭に、フリンと、カメラを持ったオーランドが進む。
その時、僅かな風とともににおってきたものに、くん、とフリンが鼻を鳴らした。
「ああ? なんか妙な臭いが──、ん? ……おい、こっちだ!」
彼はそう言うと同時にがさがさと雑草をかき分けて、迷いなく進み始めた。
ライアンも大股で彼に続き、その先にあるものを見、──そして、目を見開く。
奇しくも、トロッコの線路が途切れた場所。
そこにあったのは、真っ黒に焼け焦げた乗用車だった。
判別が少々難しいが、ルーカス医師の車と車種は一致する。何よりライアンがその時意図せず踏みつけたものは、探している車のナンバープレートだった。
「……消えたんじゃなくて、マジで爆発炎上してたってことか? こんなところで……?」
フリンが、怪訝な表情で言う。
目元を険しくしたライアンは、焼けて炭になっている周りの雑草を踏みしめながら、足早に車の運転席まで近寄った。ガラス窓を覗き込むが、煤で真っ黒になったそこは窓の役目を既に果たしておらず、中がどうなっているのかわからない。
舌打ちをしたライアンの肩を叩き、フリンが薄い白手袋を渡した。指紋をつけないためのそれを受け取ったライアンは、辛うじて残っている運転席ドアのアウターハンドルに手をかけ、思い切り引く。
「うわっ!!」
オーランドが、悲鳴に近い声を上げる。
なぜなら、焼け焦げたドアが開かずにまるごと外れると同時に、運転席から、真っ黒になった骸骨が崩れ落ちてきたからだ。頭蓋骨がごろりと転がり、草むらに落ちて煤を撒き散らす。
「なんっ、……何だよこれ、──クソ!」
炭化して崩れた遺骸を前にライアンは悪態をつき、黒焦げのドアを投げ捨てる。
最大の手がかり、間違いなく関係者だと思われていたルーカス・マイヤーズが死んでいたということは、捜査が早速行き詰まった、ということでもある。
「こりゃあダメだな……。全部真っ黒だ」
ライトで車内を照らしながら、フリンが言う。彼の言う通り、車内は全て真っ黒に焼け焦げていて、手がかりになりそうなものは何もなかった。
「鑑識とか検死に回せば、なんかわかるかもしれねえが……」
「いや、ケルビムに任せる。調べはこっちで全部やる」
「……あー、そうしてもいいのかね。……あー、いいのか……」
手ェ貸さないって言ったのはこっちだしなあ、とフリンは頭を掻いた。
手を貸してくれと頭を下げてきたライアンに対し、どうせ何も出来ないだろうと刑事ひとりだけを投げて寄越し、他は全く協力しないと言ったのは警察の方である。またフリンをこうして派遣したことで、警察はライアンに捜査協力を依頼し、検証等も外部委託したという扱いになっているので、法的にも問題ない。
ちなみにこれはライアン個人のバックにいる、NEXT関連の訴訟や犯罪・権利保護などに非常に強い、イグアナのマークの法律事務所がたてたプランである。
フリンもまさかいきなりこうして大きな発見をするとは思ってもみなかったが、ここでライアンがすべての証拠を取り上げ自分の伝手で調べても、警察に文句は言えない。
いや普通ならそれでも文句は言ってくるだろうが、この捜査は、シュテルンビルト内外数百万人が見ているのだ。
ここで警察が手柄を寄越せと言ってきたとして、普段からヒーローに対して“手柄泥棒”と言ってきた警察がそれをする、というのがどれほどのことか。
もしそれをしたら、今度は先程フリンの署で起きたこととは比べものにならないほどの騒ぎになることは間違いない。警察としても、それは避けたいだろう。──かなり悔しがるだろうが。
──BLEEP!! BLEEP!!
「こんな時に……!」
ライアンの手首についたヒーロー専用端末から鳴り響く音は、ヒーローが必要な事件が起こったことを知らせる、お馴染みのそれ。
しかし次に聞こえてきた言葉は、いつもの様子とは違っていた。
《Bonjour, HERO!! あ、ゴールデンライアンの放送はそのままよ》
「はあ?」
つまりライアンは出動しなくていい、と告げるアニエスに、舌打ちしつつも駆け出そうとしていたライアンは、片眉を上げて怪訝な顔をした。
《あんたの捜査密着ドキュメンタリー! どれだけの視聴率だと思ってるの!? そっちも同じHEROTVよ、疎かには出来ないわ。ゴールデンライアンの生中継はネット中継に切り替えて、今回の事件は通常通りのチャンネルでやるからよろしくね》
《そういうことです、ライアン》
アニエスのきびきびとした声に割り入ってきたのは、バーナビーの声だった。
《この街のヒーローは、あなただけではないんです。こちらの事件はお任せを。まあ、あんまりあなたがもたもたしていると、僕達がどんどんポイントを掻っ攫ってしまいますけどね!》
《そういうこった!》
次に合いの手のように聞こえてきたのは、ワイルドタイガーの声だ。元祖バディ・ヒーローの頼もしい声に、ライアンの口元に、自然笑みが浮かぶ。
「……上等」
挑戦的な彼らの声に、ライアンは気分を高揚させた。
そうだ、ここはシュテルンビルトであった。七大企業が全力を上げてバックアップする、世界的にもトップクラスに強力なNEXT能力を持つスーパーヒーローが守る街。
《俺らも気になってるけど、アンジェラの事はお前に任せる。……今回は、なんだ。お前はよくやってるよ》
俺には出来なかったことだと、タイガーは放送では聞こえないほど小さく、ほとんど口の中で呟いた。俺と違って、お前は殴り飛ばしてやらなくてもいいんだな、とも。
《でも、マリオはこっちに借りるわよ! ゴールデンライアンの放送の実況とコメントはスタジオにいるステルスソルジャーが協力してくれるそうだから、よろしく!》
その声を最後に、通信は途切れた。
実況のマリオが一番激務なのかもしれないなと思いつつ、ライアンは通信端末の付いた手首を下ろした。それとほぼ同時に救急車や搬送車を使ってケルビムやスローンズのスタッフたちが到着し、現場や遺留品を調べるために続々と下りてくる。
この場所もまた彼らに任せることにしたライアンは、フリンとオーランドを連れて、再び乗ってきた車に戻っていった。
放送を急遽ネット中継に切り替えるため、それを視聴者に知らせるアナウンスとサーバー増強を急ピッチで進めているとOBCのスタッフの連絡。
先程のポセイドンラインCEOの対応が放送されてから株価が爆発的に上がったこともあり、今度はオデュッセウスコミュニケーションズがサーバー増強の全面協力を申し出たという。
会社組織が人情で動くには限界があるが、利益が発生するとなれば話は別だ。ポセイドンラインのように、トップに人情味の有る人間がいれば、尚更その力は凄まじいものになるのだ。
他にも、自分たちにも何かできることはないかと七大企業がそれぞれ腰を上げ、二部リーグヒーローを抱える中小企業、更には技術やコネクションを持つ個人からも同様の問い合わせが相次いでいる、とドミニオンズから連絡があった。こうなれば、もはや警察の協力が得られないことなど些細な事でしかない。
「ってことで、他の事件はジュニア君たちに任せるとして。刑事さん、次は?」
味方が増えてきた手応えを感じながら、ライアンはフリンに更なる指示を仰ぐ。
「あ〜〜〜〜……、そうだな、ええっと」
「おい」
「いや、こんなにサクッと手詰まりになるとは思わなくてだな、……次、次な……」
「はあ? おい、勘弁してくれよベテラン」
「元々俺はこういう事件はあんまり経験がねえんだよ!」
新米の頃は交通課だったフリンの専門は、暴走族の摘発、車上荒らしや車両盗難の捜査などだ。
そのため、彼はルーカス・マイヤーズの車の動きを真っ先に気にしたのである。今回アンジェラ暗殺事件を任されたのは、先達がずっと追いかけていた事件を長く手伝ったという経験があるからで──、
「あっ、そうか」
何かに思い至った様子で、フリンは、ぱちん、と指を鳴らした。
「なに?」
「専門分野は、それぞれプロに任せるんだろ?」
俺にもコネはあるってことだ、と言いつつ、フリンは自分の通信端末を取り出し、素早くコールボタンを押した。
《──遅い! いつ連絡してくるのかと思っとったぞ!!》
最初のワンコールも終わらないうちに電話に出た相手は、怒った声でがなりたてた。その声の大きさは、横にいるライアンにも聞こえるほどのものだ。
誰だ、と眉をひそめるライアンに、フリンは通信端末を耳に当てたまま答えた。
「ヘンリー元刑事。女を狙う連続通り魔事件……“オレット事件”を追いかけた人だ」
20年ほど前に起こったその事件は、オレット・カムンドという犯人が、有刺鉄線を使って女性を連続暴行するというものだった。痛ましいその事件において、ヘンリーは自らも精神的に大きな傷を負いつつも、オレットを逮捕。その後も女性に対する犯罪について熱心に取り組んできたという、その道のベテランである。
刑事を引退した現在も、ボランティアでそういった関連の被害相談を受けたり、女性が身を守るための運動、盗聴器や盗撮カメラの発見などの協力をしているという。
《スピーカーにしろ、フリン。ゴールデンライアンと直接話す》
「了解です」
《──どうも、ゴールデンライアン。ヘンリーだ。引退した刑事崩れのジジイだよ》
「どうも。状況を話すぜ」
《頼む》
ライアンは、手早く現在の状況について話した。
《ふむ。車の行方をいきなり探し当てたのは、さすがフリンってところだな》
「そうなのか?」
《そういう系統はプロだ。この間アンジェラのバイクが盗まれた事件も、犯人グループとその居場所を突き止めたのはそいつだぞ》
「へえ」
そうだったのか、とライアンが少し目を丸くすると、フリンは肩をすくめてみせた。
《で、今からやるべきことだが。……今回のように計画的にターゲットを狙う場合、犯人はかなり綿密にターゲットの下調べをしてるはずだ。アンジェラは普段からガチガチにガードされてるらしいから、なおのことだ。ターゲットが予定にない行動をしないか、付け込む隙はどこか、どうやったらバレずに決行出来るのか》
ストーカーや、女性のひとり暮らしを狙った強盗や強姦、空き巣のやり口でもある、とヘンリーは硬い声で言った。
《彼女の部屋は、セキュリティ的にどのくらいだ? 鍵はどういうタイプか。郵便物やゴミ、車やバイクに他人が触れるような状態か?》
「生体認証式のオートロックだ。ポストも同じ鍵付き。ゴミは屋内の収集ボックスだったと思う。バイクはシャッターのある専用ガレージ」
《いいところに住んでるな。……なら、監視カメラやマイク。あとはダイレクトに向かいの建物から窓を覗くとかが考えられる。言い難いんだが、……彼女の部屋とその周辺、ガレージやバイクを調べろ。仕掛けることができたんなら、撤収することも出来る。片付けられちまう前に、早めに行ったほうがいいだろう》
ライアンとの通信を切ってから。
走りながら話していたバーナビーとタイガーは、ポーターで素早くスーツを装着する。そしてすぐさまダブルチェイサーに乗り、現場に向かっていった。
今回起こったのは、トラックが数台暴走しているというものだ。
トラックはすべて同一の宅配便会社のもので、荷物を積み終え、運転手が休憩から戻ってくるまで駐車場に集められていた。それが一斉に駐車場を飛び出し、荷物を撒き散らしながら暴走し始めたという。
「それにしても……、覚えのある事件だな」
「ええ。嫌な予感がする」
タイガーの低い声に、バーナビーも頷いた。
彼らが言っているのは、既に事故を起こして止まったトラックを調べ寄越された報告のことだ。
トラックを運転したのは、人間ではなかった。
ハンドルとアクセルにそれぞれ張り付いていたのは、子供用に販売されている、何の変哲もないぬいぐるみ。しかし綿しか詰まっていないはずのそれはひとりでに動き、今も不気味に動き続けているという。
「ウロボロス……」
そう呟いたバーナビーが思い浮かべているのは、トランプのマークをベースにした個性的なファッションに身を包んだ、黒髪の女性。名前はクリーム、と本人は名乗っていた。
未だ謎に包まれた組織・ウロボロスの一員。
自身の髪の毛をぬいぐるみに刺し入れて自在に操れる、というNEXT能力の持ち主だった彼女は、能力で操ったぬいぐるみを使って軍用パワードスーツの大軍を指揮し、シュテルンビルトの要所を制圧。そうしてシュテルンビルトそのものを人質に取り、彼女は同じくウロボロスの構成員であるジェイク・マルチネス、彼の開放を迫った。いわゆる『ジェイク事件』と呼ばれる騒動である。
しかしその最中、ジェイクは自ら余興として起こした、ヒーローひとりひとりと対戦するという『セブンマッチ』でクリームの操縦するヘリを誤って攻撃し、墜落に巻き込まれて死亡。
その後、己の過去とバーナビーの両親を殺害したのがジェイクではないことをバーナビーに告げたクリームは、自ら生命維持装置を外してジェイクの後を追い、もはやこの世の者ではない。──そのはずだ。
「まだ決まったわけじゃないぞ、バニー」
「わかっています。その能力の持ち主が、世界でたったひとりというわけじゃありませんから。……僕達のように」
だがそれがどれほど確率の低いことなのかも、当事者である彼らは知っている。だからこそ、ふたりはそれを売りにしてコンビを組まされたのだ。
「黒い骸骨アンドロイドのこともあるしな。確かに色々気になるのはわかるけど、それはそれだ。アンジェラのことはライアン、俺らはそれ以外。ひとまずは、目の前の事件を解決しようぜ」
「はい」
その落ち着いた声にいくらか安心したのか、タイガーは小さく頷き、サイドカーの背凭れに背を預けて前を向いた。