#112
午前中の予定は、アスクレピオスが運営する大病院の慰問だ。
子供たちへプレゼントを配り、あらかじめ入念な診察を行った患者へ、ホワイトアンジェラの力を使うという企画である。
昨年大きな怪我で泣く泣く引退を余儀なくされた有名スポーツ選手がその中にいるということもあり、OBC以外の海外の局のカメラもいくつか入っている。
明らかにアンジェラへの負担が大きく、しかし誰もが期待している企画の中、ライアンは主に子供たちの遊び相手や、患者やその家族の話し相手などを務めた。
ひとクラスぶんをゆうに超える人数の子供たちのパワーは侮れず、だが同時に皆何らかの疾患を持っている。また患者やその家族たちも基本的には不安定な状態であるため、コミュニケーション能力が非常に高いライアンだからこそトラブルは起きなかったが、肉体的にもメンタル的にも繊細に気を使って接しなければならないやりとりは、非常に気力を削られる。
そのため、アンジェラがすべての患者をさばききった頃には、ライアンもまたへとへとになっていた。
だがその甲斐あって、ヒーロー直々にめいっぱい構ってもらえた入院中の子供たちは満面の笑みで、人によっては完治は不可能と言われた怪我や疾患をアンジェラによって治してもらった患者とその家族たちは、涙を流してアンジェラに感謝を示した。
羽のついたヒーロースーツであるライアンと、名前やスーツのデザインからしてあからさまにそれらしいアンジェラは“天使”と呼ばれ、盛大に病院から送り出された。
しかし、栄養バーやドリンクなどを常に摂取し続けていたとはいえ、入院しているような重篤患者に能力を使い続けた彼女は、いつになくふらふらしていた。
今回に限っては彼女の趣味でこうなったのではなく、純然たるカロリー不足である。
「おい、大丈夫か? ……ああ、もういい。こっち来い、ほら」
「ふわわ」
ライアンに抱え上げられたアンジェラは、張りのない声を上げた。
「お手数をおかけします……ライアンも疲れていらっしゃるのに」
「お前ほどじゃねえよ」
元々が軽いとはいえ、ヒーロースーツはそれなりに重量がある。だがライアンのスーツにも充分なパワーアシストがついているため、本当に羽のように軽かった。
横抱き、シュテルンビルトでは“お姫様抱っこ”という名称がメジャーな格好で病院を出て行くふたりに、患者やスタッフたちから、僅かに歓声が飛んだ。ヒュウ、という口笛も聞こえる。
やっぱり恋人同士なのかしら、お似合いだよね、などという声を無視して、そのままポーターに戻っていく。
──そしてポーターに戻った途端、ライアンの通信端末がけたたましい音を立てた。
「助かったァ〜! ライアン、ほんとありがとなー!」
「感謝します。これで昼食抜きなんて、どうなっていたことか」
「まあ、気にすんなよ」
ヒーロースーツのメットだけ取った格好で料理を頬張るT&Bに、同じような姿のライアンは、ひらひらと手を振った。
「ライアンさん、ありがとう。私もご馳走になっちゃって……」
「いーって、前ほど食うわけじゃねえし。食えるんなら食ってもいいけど?」
「さすがに無理だよ」
楓は、苦笑した。ガブリエラの能力をコピーしていた時と比べれば、素に戻った楓の食事量は本当に比べ物にならないほど少ない。
「好きに食え、なくなるぞ」
「うん」
にっこり笑って、楓も皿の上のものを口に運んだ。
T&Bもまた、バーナビーが普段から懇意にしている施設への慰問をはじめとして、二部リーグヒーローらとともに、ボランティア団体と協力しての活動に従事していた。
今回シュテルンビルトに来てからというもの、父親のヒーローとしての仕事に興味を持ちはじめた楓もまたボランティアメンバーのひとりとして参加していたのだが、午前中のスケジュールが終わってひと段落、というところでアクシデントが起こった。
ボランティアメンバーの分の昼食のケータリング手配は問題なかったのだが、ヒーローふたりの食事の手配ができていなかったのである。
普段ならどこかで買い込めばいいが、今日はクリスマスイブ。どこも混み合っている上、ヒーロースーツ姿でその喧騒に飛び込めば、ただでさえギリギリのスケジュールが狂ってしまう。
それに、NEXTは強大な能力を使うと、非常に強い空腹感を覚えるという特徴がある。今回ハンドレッドパワーを使ったパフォーマンスなども行ったため、食事を摂らねばまず保たないし、しかも普段の食事量では全く足りない。
そこで楓が頼ったのが他のヒーローズたちであり、応じたのがライアンだった。
《シルバーステージの中華料理店で良ければ、貸しきってるぜ》
アンジェラとともに普段から大食漢であるため昼食は店を貸し切っての用意をしていたし、普通よりはよく食べるヒーローとはいえ、自分たちとは比べるべくもないふたりと楓が増えるくらいなら、店に少々融通を利かせてもらえばなんということはない。
「アンジェラさんっ、お茶です!」
「ありがとうございまふー」
給仕の青年が持ってきてくれたお茶を、アンジェラが飲み干す。
今回貸しきった中華料理店は、以前ライアンとガブリエラがふたりで来たあの店であった。給仕の青年は、あの日、アンジェラに多大な感謝をしていると言った彼だ。
R&Aが店を貸し切ると聞かされ、大張り切りでクリスマスイブの休暇を蹴った彼は、本日彼らの給仕として満面の笑みで次々と料理を運んだり、空になった蒸籠を下げたりを繰り返していた。
また他の店員たちも、ヒーロースーツ姿で回転円卓に座って膨大な数の料理を片付けていくヒーローたちを、役得とばかりに眺めている。
「いやー……しっかし、相変わらずわけわかんねえぐらい食うなあ」
「ライアンも大概ですが、アンジェラはその体のどこに入っているんです……?」
よほどエネルギー不足だったのか、ほとんど話さず、ひたすらばくばくと料理を掻き込んでいるアンジェラに、タイガーとバーナビーが呆然とした声を上げた。
「まあ、午前中に散々能力使ったからな。これからもスケジュール詰まってるし。──おい、おかわりいるか? ほらこっちも食え、吸収いいほうから」
「んん、はい。ください!」
ライアンが差し出した蓮華を、アンジェラは躊躇なく頬張った。
「それにしても、そっちは素でクリスマスカラーだよな」
アンジェラに料理を食べさせつつ、T&Bを見てライアンが言った。
それぞれ赤と緑、それに白をあわせたカラーであるヒーロースーツ。しかも今は脱いでいるメットにはサンタ帽がかぶせられているT&Bは、その言葉に苦笑した。
「はは、毎年言われるよなあ、それ」
「このカラーを活かして、ここぞとばかりに僕らのクリスマスグッズが出ていますよ。……予算がなかっただけ、というのもありますけど」
ふっと影のある笑みを浮かべて、バーナビーが投げやりに言った。
いくら財政難であろうとも、市民とヒーロー本人の安全のためスーツのメンテナンスは欠かさない斎藤、もといアポロンメディアではあるが、たった数日のクリスマスシーズンだけのために、特別仕様のスーツを作るほどの余裕はなかったのである。
それでも、偶々ではあるが、T&Bは元々赤と緑のクリスマスカラー。そこをゴリ押しして、サンタ帽を被るだけというコンビニ店員レベルの装飾で、クリスマスをなんとか乗り切っているのである。
「でも俺がいなくなってからのアポロン、すげーガツガツしてるよな」
ハングリー精神があっていいじゃん、とライアンが言うと、バーナビーが肩をすくめる。
「マーベリック事件以降、ただでさえ業績がガタ落ちだったのに、シュナイダーの件でトドメを刺されたようなものですからね。会社として存続しているのが奇跡というレベルです。最初に一部リーグに復帰した時も、かなりギャラを値切られましたし……」
「うわぁ、きっついな」
「きっついですよ」
「……ぶっちゃけ、どれぐらい下がった?」
そっと聞いてきたライアンに、バーナビーは深刻な顔で耳打ちした。その額の変動に、ライアンは本気でぎょっと目を見開く。
「あっりえねえ! 何だそのギャラ! うわー無理無理無理、数字聞いただけでぞっとした。俺だったら絶対見捨てて他の会社行くって、ないわー、絶対ないわー」
「あなただったらそうでしょうね」
その会話を、虎徹も片耳で聞いている。
そもそも最初にコンビを組んだ時、あからさまにバーナビーの引き立て役、おまけとして採用されたワイルドタイガーの年俸は、鳴り物入りでデビューしたバーナビーの年俸とはかなりの格差があった。
そのため、Top-mag、アポロンメディアと所属が変わり、次いで二部リーグになって給料が下がったとはいえそこまで落差が大きいわけではなかった虎徹と比べ、一部リーグのスーパールーキー、KOHまで獲得してから二部リーグに移ったバーナビーの収入の変動は、相当のものだった。──ということを、虎徹は割と最近まで知らなかった。
シュナイダーがCEOに就任した時に彼がギャラにこだわった理由は施設の子供達への援助のため、というのは後で知ったことだが、正しくはそのグレードを落としたくなかったためだということを、彼は更に後で知ったのだ。
そして虎徹は改めて自分の行動を反省し、親切心で給料日前におすすめの店や節約術などをバーナビーに紹介し、そこまで底辺じゃありませんと言い返されて結局ケンカをするというオチもついた。
「まあそういうわけで、後は這い上がるのみといった様子ですよ」
「だな。でも俺、今のアポロン結構好きなんだよな〜」
肉まんをむしゃむしゃ食べながら、虎徹が言った。
「予算削られて大変だけど、ロイズさんもがむしゃらに頑張ってるしさ。中年同士ってのもあって、前より断然仲間って感じするし。なんつーの、こう、根性! っていうか!」
「確かに、どん底から這い上がる感じは虎徹さんの十八番ですよね」
バーナビーが苦笑した。
その印象は大衆にも伝わっているらしく、かつて華々しくもスマートな大企業だった頃のアポロンはバーナビーの姿が象徴的に記憶に残っているが、数々の大スキャンダルを経て、ダーティーな評判を振り払うべく泥にまみれて這い上がろうとしている現在のアポロンは、ワイルドタイガーのドラマティックな復活劇もあり、彼のほうがメインに置かれているような部分も大きい。
「なるほどねえ」
「というか、あなたたちもじゅうぶんクリスマスのカラーリングじゃないですか。僕らは色が正反対でデザインが似ていますが、そちらはデザインが違って色が共通していますよね」
白と金で綺麗めなので、女性にグッズが売れていると聞きましたよ、とバーナビーが言う。
「はっきり意図したわけじゃねえらしいんだけどなあ」
「いえ」
バーナビーとライアンの会話に口を挟んだのは、当のアンジェラだった。フカヒレスープを飲み干してから、彼女は再度口を開く。
「私のスーツは、最初は白と、水色だけの予定だったのです」
口元を拭い、彼女は続ける。
「一部リーグデビュー前に、私のスーツは殆ど出来上がっていました。しかしすっかりゴールデンライアンのファンになった私は、パワーズの皆さんに無理を言って、どこでもいいので金色を入れてくれと直前にわがままを言ったのです。ゴールデンライアンの金色。あの時は皆様にご迷惑をお掛けしましたが、結局とても素敵なデザインにして頂きました」
「……初めて聞いたんだけど」
「そうでしたか?」
驚くライアンに、アンジェラはこてんと首を傾げ、はふはふと小籠包を頬張った。
そんなやりとりに、アポロン組3人はぽかんとし、そして呆れたような苦笑を浮かべる。
「……あいっ変わらず、アンジェラは本当にライアンが好きだねー」
「はい」
「うーん、素直でよろしい。誰かさんもこれぐらい素直だといいんだけど」
そう言って、虎徹は横目でちらりと娘を見る。
「誰のこと? 私はいつもすっごく素直だよ。ね、バーナビー」
「ええ、楓ちゃんのいうとおり」
結託する娘と相棒に、虎徹はがっくりと肩を落とした。
「はー……」
店の2階席で茶を飲みつつ、これからの予定を確認していたライアンは、息をついて天を仰ぐ。
食事を終えると、T&Bは次の仕事のためにアポロンメディアのポーターに駆け込み去っていった。アンジェラは少しでも疲労を回復させるべくこちらもすぐ自分のポーターに戻り、アークを護衛につけて車内ラウンジのソファで仮眠をとっている。
「ねえ、ライアンさんとギャビーって、恋人同士じゃないんだよね」
そう聞いてきたのは、楓である。能力制御ができるようになったとはいえ、まだ正式な認定が降りておらず暫定SSのままの彼女は、ネイサンの秘書たちの迎えを待って戻る予定である。
「……んー? 違う、と思う」
「思う?」
「お嬢ちゃんは、何がどうなったら恋人同士になったと思う?」
「えっ。ええ〜と、ど、どうなのかな。キ、キ、キスしたら、とか……?」
聞き返されるとは思っていなかったのか、少し赤くなってしどろもどろになる少女に、ライアンは笑った。しかしその笑い方は柔らかく、しかもなんだか自分を笑ったのではないとなんとなく理解できたため、楓はバカにされたとは思わず、ただどきどきした。
「キスしたら、ねえ」
「違うの?」
「いや?」
多分それで合ってる、と、ライアンは肩をすくめた。
「……私が言っていいかどうか、わからないけど」
ぼんやり外を眺めているライアンに、楓はぼそぼそと言った。
ライアンの姿が視界に入れば、ガブリエラはすぐにそちらに意識を向ける。その度に彼女のエネルギーが一斉に彼に向かって綻ぶことを、楓は何度も見て、感じてきた。
花が開くようなそれはとても美しい姿なのだと、少し恥ずかしそうに、楓は言った。
「ねえ。ギャビーは、本当にライアンさんが好きなんだよ。すっごく」
「知ってる」
ライアンは、静かに返した。
「……ギャビーに同じだけ返そうと思ったって、できないよ。ライアンさん」
ぽつり、と言った楓に、ライアンは驚いて目を見開いた。
同じだけ愛せるかわからない、そう言ってクリスマスイブになってもうだうだと手をこまねいている自分を、まさか見透かされたのかと。
「だって、無理だもん、あんなの。自分を切り取ってはいって差し出されても、こっちはどうしていいかわかんないよね。ギャビーにしかできないことだもん」
「……あー。まったくだ」
本当に、まったくもってその通り。
無償の愛と言っても足りないような重量級の愛情は、受け止めることしかできない。彼女の命を懸けた愛に見合う宝石などこの世のどこにもありはしないのだとライアンは重々理解しており、だからこその現在の有様である。
「だから、誰だってそうなんだよ。誰だって、ギャビーには何も返せないの」
でも、と、楓は続けた。
「ちゃんと見てあげて、ライアンさん。お花が咲いてたら、綺麗だって思うでしょ。ただ綺麗だって言ってあげて。それだけでいいの。それだけで、ギャビーはすっごく喜ぶから。それができるのは、ライアンさんだけだよ」
訴えかけるように言う少女に、ライアンは目を丸くしたまま、無言だった。
「ライアンさんは、ギャビーが好き?」
「……好きだよ」
不思議と、素直にそう言えた。
そして、この無垢な少女に優しい声で表明できたことで、ライアンは自分の胸の中が少し整理できた気がした。
「じゃあ、そう言ってあげて。ギャビーはそれを待ってるんだから」
待たせているのはお前だろう、と言われたような気がした。事実でもある。
幼い少女の無垢な意見は、いつだって耳に痛い。
苦笑した彼は、「アドバイスどうも」と言って、楓の頭にぽんと手を置いた。
迎えに来たネイサンの秘書と一緒に帰っていった楓を見送ったライアンがポーターに戻ると、ガブリエラはアンダースーツ姿の上から毛布を被り、ソファに寝そべって寝ていた。すう、すう、と、規則正しい寝息が聞こえる。
メットに収納するためにまとめられた長い赤毛が少しほつれ、顔にかかっている。ソファの前にしゃがみこんだライアンは、そっとその髪を避けてやった。そしてそのまま、なんとなく頬を撫でる。シャープなラインの白い頬は滑らかで、子供のように肌理細かい。
寝息の漏れる薄い唇を見ながら、やや尖った鼻先に散った薄いそばかすを親指でなぞる。すると長い睫毛が持ち上がり、灰色の目が姿を表した。
「……ライアン?」
少し寝ぼけた、高く甘い声。「おう」とライアンが返事をすると、ガブリエラは微笑んだ。
その途端、彼女の頬に触れた手から、何かが流れ込んでくる。すべてを癒す、全ての生きとし生けるものが求めてやまない、本能に訴えかける力。だからこそそれに支配されてなるものかとライアンがさんざん抗った魅力を、彼女は今、開け広げにライアンに向けている。
無意識にやっているということは、もうライアンもわかっている。
──なんだか調子に乗って、あなたをこれから誘惑するなどと言いました
──しかし、いつもただあなたが好きなばかりで、特に何も出来ず
誘惑するなどと言いつつも、彼女はいつだって、ただただライアンが好きで、全力で愛しているだけだった。
電話口で、内緒話をするようにして、愛していると言った囁き声。叱りつけても、えへ、とどこか嬉しそうに笑う赤い唇。目が合う度に発される、本能的なところから惹きつけてくる強い力。ライアンが惹きつけられた彼女の全ては、彼女の意図したものではないのだ。
どれだけライアンが邪険に扱っても、彼女はそれをにこにこと受け止め、あなたが好きだと繰り返した。
理不尽に犯されてさえ、それでもライアンが好きだと言った彼女。叱られることでもいいから構って欲しいとライアンを困らせ、しかし嫌われるかもしれないと危機感を覚えるや否や、可哀想なほど怯え、そして厄介なことに、それが最高に可愛いと感じさせた。
そんな風でいつつ、額にキスをされただけで死にそうになっていたガブリエラに、唇にしてやったらどうなるのだろうか、という興味が湧いていないといえば嘘になる。
しかも先日、自分に対して妙なセクハラをしていたことも発覚した。照れながらも積極的なタイプとわかれば、そわそわしない男はいない。
初めて出会った彼女の、正真正銘骨と皮だけになった姿を今思い出すと、ライアンは心の底からぞっとする。あの時、ガブリエラは死にかけていた。死んでもおかしくない状態だったのだと思うと、ライアンは今、心臓が潰れるような気がする。
母に喜ばしく死ねと言われ、馬小屋に逃げ込み、誕生日を祝ってもらえず、蛇を炙って食べたという幼い彼女。黒い馬の亡骸に縋り、死にそうなほど泣き続ける彼女。たったひとりで荒野を歩いてきた彼女。暗いメトロの瓦礫の下、92人の乗客に己を切り分けて与え、骨と皮だけになって死にかけていた彼女。自分を好きだとも言わず、想いを込めたキスもしない男に、乱暴に抱かれる彼女。
過去の彼女の全てに、ライアンは、もう手を伸ばすことができない。
それはたまらなく胸が締め付けられることで、それを簡単に許してしまう彼女がやるせなくもあり、また時に楽しんでさえいるとわかれば、勝手なことをするなと怒鳴りつけて乱暴に押し倒し、鎖に繋いで閉じ込めてしまいたくもなる。
こんな女は、今までにいなかった。
そして彼女は、ライアンに、愛していると言う。愛しているとそれだけで、意味もなく泣けてくるのだと。そんなことをライアンに言った女はいなかったし、そしてライアンも、こんなふうに女を想ったことなどない。
ライアンは、人に与えることを好む。
期待に応えること。実力を見せつけること。出資、支援、囲い込み。そうやって人を支配するのが、ライアンは好きだ。
彼女はいつもライアンに従順だが、それはライアンが支配したからではない。ライアンが、何かを与えたからではない。彼女はただただすべてを捧げ、愛していると告げるだけだ。
そんなガブリエラに、自分は何をしてやっただろうか。これから何をしてやれるだろうかと、ライアンは悩んだ。
こんなにも惜しみない愛に、自分は同じだけのものを返してやれるのだろうか。
──ギャビーに同じだけ返そうと思ったって、できないよ。ライアンさん
彼女の力を体験したからこそ、誰よりも説得力のある少女の言葉を反芻する。
やるせない。もどかしい。できるなら、同じだけ返してやりたい。そしてネイサンは、そう思っているということは、お前は彼女に真剣なのだということだと言った。
(わかってんだよ、そんなこと)
「ライアン? もう次の仕事ですか?」
自分をじっと見たままのライアンに、寝転んだままのガブリエラは、未だ少し眠そうな顔で尋ねた。
「……いや。もうちょい。起こしてやるから、もうちょっと寝とけ」
「ええ〜」
「ええーって何だよ」
「なぜなら、ライアンが戻ってきましたので……。寝るのは、もったいない」
「ばーか」
「はうう……」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でてやれば、ガブリエラはくすぐったそうに笑った。
──シュテルンヒーローランド・キャストエリア。
「お疲れさま!」
ポーターごと敷地内に入り、ブルーローズが姿を表すと、普段からヒーローランド勤務の二部リーグヒーローたちやキャスト・スタッフが、一斉に歓声と挨拶の声を上げる。
一部リーグのスーパーヒーロー登場であるので当然ではあるが、より声が大きいのは、彼女がいつものヒーロースーツではないからだろう。彼女が身に纏っているのは、雪の結晶をそこかしこにデザインに取り入れた、若き雪の女王様といった風情の、クリスマスバージョンの特別衣装だった。
もちろん、この衣装で今年のクリスマスのグッズ展開も豊富である。
「ブルーローズ、お疲れ様です」
「おつかれー! わぁ! 衣装きれい!」
一部リーグヒーロー、特別控室。
中央に配置された大きなテーブル、その周りに並べられた椅子に腰掛けてブルーローズを出迎えたのは、イワンとパオリンである。
ふたりともヒーロースーツであるが、休憩待機中であるため、折紙サイクロンのマスクは取られているし、キッドの頭の大きな飾りも外され、テーブルの上に重ねて置いてある。
そんなリラックスしたスタイルの彼らを見てなんだかホッとしたブルーローズは表情を緩め、いつもより重い大きなイヤリングを外し、椅子に腰掛けた。
「おつかれ! あー、体力使っておなかすいた。なんか残ってる?」
カリーナがお腹を擦りながら見渡すテーブルの上には、ヒーローズのコラボフードが置いてある。
「ライアンさんとアンジェラさんが大方食べてしまいましたが、皆のぶんは確保していますよ」
イワンが指差した先には、尋常でない量のフードの空箱や包み紙が、分類されてゴミ袋に詰められていた。その凄まじさにカリーナは顔を引きつらせ、「相変わらずね」と呟く。
「うーん、どれにしようかな」
「餃子ドックにする? うどんとかスープは保温鍋に入ってるよ」
「電子レンジもあちらに」
「わあ、あったかいもの、嬉しいわ。外は雪が降りそうよ!」
カリーナはイワンから器を受け取ると、キッドの中華スープを嬉しそうによそい、はふはふと食べ始める。
ヒーローズ全員、スケジュールは詰められるだけ詰まっている。
ブルーローズはタイタンインダストリー・ホールを満杯にしたクリスマスコンサートを午前・午後の部ともにこなしてからここに来ているし、T&Bは養護施設を主に回っており、折紙サイクロンは皆のショーに見切れたりサプライズゲストとして出没するために忙しく飛び回っている。ドラゴンキッドもまた、ヒーローランド内のドラゴンキッズパークでのショーに連続して本人スペシャル出演をこなしていた。
ファイヤーエンブレムは『ファイヤー・ミラージュ』と銘打たれた炎の特別ショーを披露し、ロックバイソンはクロノスフーズ系列の店舗や、ケータリングを利用してくれている施設などへの慰問を行っていた。
また、R&Aが病院に訪問し、ホワイトアンジェラの能力によって重篤患者を治すという企画は、その中に超有名かつ怪我で再起不能と言われていた世界的スポーツ選手がいたこともあり、シュテルンビルト内だけにおさまらないニュースになっている。
「他の皆は? もう来てる?」
「T&Bは今、ミニステージ。スカイハイはもうすぐ終わるって連絡が来たって」
「ああ、スカイハイサンタ。毎年大好評よね」
カリーナが、微笑ましげに笑う。
サンタ服を着たスカイハイが、本当に空を飛んで子供たちにプレゼントを配るという毎年恒例の企画。主には養護施設や病院、また子供たちを集めたイベント会場を主に回るが、抽選で当たった数件には、実際に単独で訪れるというサプライズも用意されている。
今やシュテルンビルトのサンタといえばスカイハイサンタ、とも言われるほど定番になったこの催しのおかげで、シュテルンビルトで販売されているクリスマスカードのイラストは、普通の恰幅の良い白い髭の老サンタより、スカイハイサンタのほうが多いのではないかというくらいである。
「でも、冬といったらブルーローズっていうのもあるよね。今年もクリスマスカードがものすごく売れてるって、ニュースになってたもん」
ブルーローズのコラボフードを買うとついてくる、クリスマス限定のブルーローズのクリスマスカードをひらりと翻し、パオリンが言う。カードには、今彼女が身に纏っている、クリスマス特別バージョンのブルーローズがポーズをきめていた。
「ブルーローズは能力のせいで冬こそ映える、というところもありますけど……。夏は夏で涼しげで最高、みたいな感じが侮れないっていうか、キャラ的に強いですよね」
「おかげさまでね」
さすがというかなんというか、商業戦略的な視点でのコメントをするイワンに、カリーナはマンゴーもちを食べながら返した。
「折紙さんは、春と秋が映えるよね! 春はサクラで、秋はモミジとか」
「フフ……中途半端な季節は大得意でござる……」
「なんでいちいち自虐に走るの?」
素直に褒められときゃいいのに、とカリーナが半目になる。
「あとクリスマスっていえば、T&Bも素でクリスマスカラーで人気でしょ」
「女の子はブルーローズ、男の子はT&Bという感じですね」
イワンが、これもコラボフード購入時限定の、T&Bのクリスマスカードを示した。
絵柄はいつものヒーロースーツにサンタ帽、大きなプレゼントをずっこけそうになりながら持ち上げるタイガーと、腰に手を当て、「しっかりしてください、タイガーさん」と声が聞こえてきそうな姿のバーナビーが印刷されている。
「あとはR&Aか。ふたりとも天使とか羽のモチーフがあるし、白と金、青で綺麗よね、並ぶと」
色合いがシックであるのと男女ペアであるためか、カップルや大人の女性にクリスマスカードがよく売れているらしい、とカリーナが言う。
「ええ、僕のようなネタ枠とは大違いで」
また自虐をするイワンが纏うのはいつもの折紙サイクロンのヒーロースーツであるが、いつもの青い塗装部分が白や赤に変わっており、胸を斜めに通る着物の襟の部分などに、白いファーがあしらわれたクリスマスバージョンになっている。
「元がジャパン風のデザインですし、僕のキャラがキャラですので、しかたがないことではありますが」
「えー? いいと思うけどなあ、それ」
電子レンジで温めた牛丼を頬張りながら、パオリンが言う。
「バイソンさんもだけど、いかにもクリスマスって感じで、わかりやすくていいと思うよ。カッコ悪いって感じじゃないし」
確かに、折紙サイクロンの衣装は純和風であるためクリスマスに馴染みづらいデザインであるのだが、ネタ混じりで上手くまとめている、と評判のデザインである。
ちなみに今年のロックバイソンは深緑のスーツにオーナメントをたくさんつけ、自らツリーのようになっているという仕様だ。いかにもネタ枠ではあるが、わかりやすい上、いつもの厳ついスタイルが一気に可愛らしく見えるとして、デフォルメされたバイソンツリー関連のグッズがなかなかに売れている。
「そ、そうでしょうか?」
「うん。ボクのも中華風だから、難しかったんだけど」
「でも、キッドの衣装、可愛いわよね」
キッドの衣装デザイン思い切りが良く、形はいつもと同じであるが、いつもの黄色と緑のカラーリングは撤廃され、完全に赤と白のサンタカラーだ。鈴やファー素材もポイントとして用いられていて、今は外している大きな丸い飾りも、縁の部分がファーになっている。
「あ、いたいた。あんたたち、そろそろリハよ。出ていらっしゃい」
そうこうしているうちに呼びに来たのは、ファイヤーエンブレムだった。
「ファイヤーエンブレム、素敵な衣装ね!」
「んふ、アリガト」
カリーナの絶賛に、ファイヤーエンブレムは満更でもなさそうにポーズを決めてみせた。
いつもの衣装がベースになっているが、シンボルともいえる炎の遊色カラーのマントが二重になっており、また長い白いファーが天女のごとく首にかけられていたり、ブーツやグローブの境目にさり気なくファーがあしらわれているため、クリスマスらしいカラーになりつつ非常にゴージャスである。
「うわー、豪華な感じ! かっこいい!」
「ファイヤーエンブレム殿らしいでござる〜」
パオリンとイワンもぱちぱちと拍手をして、その衣装を褒めた。
「どうも。でもゴージャスっていえば、アタシに負けないのがいるわよ。そろそろ出来上がるみたいだから、見に行きましょ」
「おー、お疲れさん」
打ち合わせやリハーサルのため、キャストたちが集まるホール。まず声をかけてきたのは、ロックバイソンであった。大きな腕を上げると、しゃりん、と可愛らしい鈴の音が鳴る。
「あはは、ロックバイソンツリー! かわいい!」
「おうよ、行く先々で子供たちに着けられたぜ」
「アラ、素敵じゃない」
深緑のヒーロースーツには、特殊な吸盤を使った様々なオーナメントが取り付けられ、きらきらと揺れていた。その中には、いかにも子供が作った紙細工のオーナメントなどもいくつか混じっている。
「スカイハイ殿はまだ?」
「もうすぐ着くそうだ。文字通り飛んで来るだろうよ」
「スカイハイサンタがいないと、決まらないでござるからな〜」
「まったくだ」
そう言う彼らの傍らには、パレードでスカイハイが乗る予定の、巨大なソリの形のフロートがある。
トナカイではなく、ポセイドンラインのシンボルであるペガサスが引くデザインのこれに乗って、「メリークリスマス、そしてメリークリスマス!」と言う彼の姿が、見なくてもありありと想像できた。
「おお〜、いかにもクリスマスって感じだな」
「華やかでいいですね」
今度はT&Bが片やスタスタと、片やがに股でひょこひょこと歩いてやってきた。
「お前らは、……なんつうか、いつもどおりすぎないか? 普段からクリスマスカラーってったってよう」
いつものヒーロースーツにサンタ帽をかぶっただけのT&Bに対し、振り向きざまにロックバイソンが言う。厳ついスーツが動く度に、鈴のオーナメントが、シャン、と可愛らしい音をたてるのが妙にコミカルだ。
「うっせ。……っても、俺はいつもどおりでいいからむしろ楽なんだけどな。でも、バーナビーの特別衣装がないって小さい女の子とかにしょんぼりされちゃったのはちょっと参ったな」
「予算さえあれば……」
「こらこら、しょっぱい内情はもう口にしない! あるもんで頑張るしかねーの!」
ふう、とまた溜息をつくバーナビーの肩を、ワイルドタイガーがばんと叩く。
「で、リッチなヒーローふたりはどこ?」
「ライアンはあっち。アンジェラの歌の件で、スタッフと打ち合わせしてる」
ロックバイソンが、親指を後ろに向けた。
「おっ、お疲れ〜」
「うっわああああああ! ライアンさんすごおおおい!」
ダンサーたちと何か話していたライアンを見て、ドラゴンキッドが歓声を上げた。
「こ、これはズルいでござる。金色で羽根で、マント。格好いいに決まっているでござる……!」
「はっはっはっ。もっと言え」
恐れおののくような折紙サイクロンの評価に、ライアンはばさりとマントを翻してポーズを決めてみせた。
「どうよ、ゴージャスだろ?」
「というか、ものすごく、いかにも貴方らしいですね……」
バーナビーが、感心と呆れが混ざったような顔で言った。
「やっぱ、俺様といえばこれってことでな」
「ああ、前のスーツ」
「そうそう」
ライアンは通常通りのヒーロースーツではあるが、巨大な羽根パーツの下を潜らせるようにして、地面につくほど長いマントを羽織っていた。
優雅なベルベット生地のマントの色は、スーツに合わせた濃い青色。縁には、よく王様のマントとしてイメージされる、白に金茶の斑点のあるファーがあしらわれている。腕付近の両脇は短く、真後ろが一番長いという楕円形のマントは適度に動きやすそうで、同時にどう動いても綺麗にドレープが形作られるようになっていた。
「ねえ、アンジェラは?」
「まだ衣装合わせ」
きょろきょろするドラゴンキッドに、ライアンが肩をすくめた。
「衣装って、朝歌ってた時の白いケープ?」
「あれも綺麗だったけど、これの横に立つには地味じゃないかしら」
「行ってしばらく経つから、もう出来てるんじゃない? 見に行きましょうよ」
皆の衣装に興味津々の女子組が、うきうきと歩いて行く。男性陣は顔を見合わせたが、結局それについていった。