#110
シュテルンビルトパシフィック空港。
メダイユ地区がある半島部分からイーストリバーを挟んで東側、ダウンタウン地区と直接オーシャンズブリッジで繋がる内陸側であるオーシャンズ地区。そこの大きな土地を占領しているのが、シュテルンビルトシティエリアの境目でもあるこの空港だ。
ガブリエラが今いるのは、エアポートを行き来するシャトルバス発着所の、出迎え人専用スペース。いつにも増して人がごった返すそこで、ガブリエラはいつものリバーシブルコートを着てマフラーを巻き、白い犬の耳あてをした姿で、そわそわと人を待っていた。
次々に到着するシャトルバスは、普段よりかなり本数を増やしているのだろうに、毎回人とスーツケースでいっぱいだ。ガブリエラは背伸びをし、時にぴょんぴょんと跳ね、その人々の中に目当ての人物がいないかと探し続けること、約15分。
連れの男性に支えられながら降りてきた、茶色っぽいブロンドの女性。その姿を見つけたガブリエラは、ジャンプしながら、大きく手を振る。なかなか気付かない彼女に焦れたガブリエラは、声を張り上げた。
「シンディ、──シンディ!」
特徴的なガブリエラの声で名前を呼ばれたせいか、彼女はやっと気付いて、こちらに顔を向けた。そして連れの男性とともに、足早にスーツケースを転がして近づいてきた彼女に、ガブリエラは満面の笑みを浮かべる。
「お久しぶりです、シンディ!」
どの土地でもそうだろうが、クリスマスと年末を控え、シュテルンビルトは今、エリア内外で人の出入りがとても激しい。
まずは帰省でシュテルンビルトを離れる人々、あるいは戻ってくる人々。そして今年は、オープンしたばかりのシュテルンヒーローランド目当ての旅行者もかなり多い。ヒーローランドのチケットの倍率も凄まじかったが、飛行機のチケット自体もかなりのものになっていた。
海路のフェリーや列車も、空席はひとつもない。そんな中、シュテルンビルトへ来るためのチケットを取るのは至難の業だ。
しかしヒーローたちとその身内に限っては、実は優待がある。
ポセイドンラインの協力もあり、事前申請を行った上で、飛行機や列車と、ホテルのペアチケットを融通してもらえるのである。
多くのヒーローはそれを家族や親しい人を招待することに使い、一部リーグヒーローたちも例外ではなかった。
パオリンはもちろん故郷の両親に招待チケットを渡しており、クリスマスから年末までを、家族、そしてシュテルンビルトでの保護者であり、もうすっかり家族の一員であるナターシャと過ごす予定であるし、また虎徹はもちろん母の安寿と兄の村正に、アントニオも両親へのたまの親孝行にと招待チケットを贈っている。ネイサンは最近結婚したばかりの妹夫婦、カリーナは遠方に住む祖父母を招待し、他のメンバーも似たような様子であった。
バーナビーは、最近よくやり取りをするようになった、亡きサマンサ夫人の家族を招待することになったらしい。
そしてガブリエラが招待したのは、二部リーグ時代の所属企業であるケア・サポートで、仕事でも生活面でもさんざん世話になった恩人であり、結婚して故郷に戻っていたシンディであった。
「まあああああああ、ガブリエラ! 本当に見違えたわね! 別人だわ!」
「えへ」
手入れのされた真っ赤なロングヘアに、身体に合ったおしゃれな服。何より健康そうな肌艶とこけていない頬を興奮気味にいちいち褒めたシンディは、「あなた、美人だったのねえ」と、しみじみと言った。
彼女がシュテルンビルトを離れてからも、ガブリエラは彼女と連絡を取り合っていた。だからガブリエラは彼女の結婚式の写真も見ているし、メトロの事故の際、テレビ中継に張り付いていたシンディはとても心配して、何度も見舞いに来ようとしてくれた。
メールで写真を送る度に健康的になっていくガブリエラの姿に、シンディは毎度喜んでくれた。しかし実物を見るとなおさら感慨深いのか、シンディはガブリエラの長く伸ばした赤い髪をすくったり、肉付きの良くなった頬を両手で挟んでむにむにと揉んだりしながら、その変化を確認する。
「あ、そうそう。こっちが私の旦那、アランよ」
黒々としたヒゲを生やした、おそらく虎徹やアントニオと同年代かやや下くらいの朴訥な男性に、ガブリエラはにこにこして挨拶した。
「こんにちは、ガブリエラです。シンディにはとてもお世話になっています」
「こ、こちらこそ。チケットをどうもありがとう、本当に」
シンディの幼なじみであり、この度夫になった彼は、目を白黒させながら帽子を取り、慌てて礼を言った。
毎日パン生地をこねて力仕事をしている腕は丸太のように太く、重たげなトランクも、先程から軽々と扱っている。しかし特に腹回りにぽっちゃりとした肉がついていて、顔の輪郭は丸と四角の間くらい、背はシンディより少し高い程度。つまり、ガブリエラより若干低い。
しかし小娘であるガブリエラに対し、腰を低くしてぺこぺこと頭を下げる姿からはいかにも優しく善良そうな人柄がにじみ出ているし、よく見ると目元がとても優しげだ。そして彼が頭を下げる度に、パンが焼ける時の香ばしいいいにおいがした。
初めて訪れた大都会・シュテルンビルトの喧騒に驚きつつも、先程からシンディを車道側から守るようにして歩くことを欠かさない、彼女を愛しているのがよく分かる彼に、ガブリエラは文句なしの好感を抱く。
最初ガブリエラがチケットを贈ると言った時に2人はとても恐縮したが、他に招待する人もいないということ、また新婚旅行代わりにということを言われ、多大な感謝の言葉を繰り返しながら、何とか了承してくれた。
招待されたからにはめいっぱい楽しむわ、と良い意味で遠慮を見せなくなったシンディは、飛行機とホテルのチケット、そしてクリスマスイベントのペア招待券を受け取ってくれたのだ。
「今日は迎えに来てくれてありがとうね。元気そうでよかったわ。あなたの王子様にもできれば挨拶したいところだけど、超有名人ですものねえ。まあよろしく言っといて」
「いえ、来ていますよ」
「は?」
あっけらかんと言ったガブリエラに、シンディとその夫君は、ぽかんとした。
「シンディたちを迎えに行くと言ったら、車を出してくださいました。ロータリーで待っていますよ、行きましょう」
「まってまってちょっとまって」
「は? え?」
現状についていけないらしい夫婦は、すたすた歩いて行くガブリエラを、もたもたと追いかける。そしてロータリーの端あたりに停めてある、珍しい色の大きな高級車から出てきた大柄な金髪の男を見た瞬間、シンディは信じられないとばかりに天を仰いだ。
「シンディ、ライアンです」
「どーもぉ」
「知ってるわよ!!」
嬉しそうに紹介するガブリエラと、ごく軽い調子で手を上げて挨拶するライアンに、シンディが金切り声を上げた。夫君は目も口も真ん丸にして、棒立ちになっている。
「え、本物!? やっだ本物! お金持ってそう! あ、持ってるのよね!」
「あっはっはっはっ!」
じろじろとライアンを見て無遠慮にそう言ったシンディに、ライアンは大きな口を開けてげらげらと笑った。
「おもしれーヒトだな。ゴールデンライアンだ、ヨロシク」
「きゃー、やっだー! イケメンすぎて目の毒だわー!」
「そうでしょうそうでしょう」
はしゃぐシンディと、なぜか盛大に得意げな顔をしているガブリエラに、ライアンはぶはっとまた噴き出した。しかし、彼女たちの向こうで呆然と突っ立っている男性を見て、ふと首を傾げる。
「なあ。あんたの旦那、ついてこれてねえみたいなんだけど」
「あらごめんなさい。“シュテルンビルトで一緒に仕事をしてた子”、っていうのは言ってたんだけど、どういう役職だったかは言ってないのよね」
てへぺろ、といわんばかりに茶目っ気のあるウィンクを飛ばしたシンディに、ライアンは面白そうな半目になり、ガブリエラはきょとんとした。
「言っていなかったのですか? シンディ」
「ヒーローの素顔は秘密に決まってるじゃない。退職したとはいえ、そのあたりはわきまえてるわよ」
しれっと言うシンディ、そして当の彼女の夫はといえば、かくんと顎を落としていた。
「……ヒ、ヒーロー? な、なんでゴールデンライアンが? え? あの、ガブリエラさんは、その、シンディの前の仕事の後輩って……」
「まーまー、とりあえず車乗んねえ? 人も集まってきたし」
ライアンが言うとおり、目立つ車に目立つゴールデンライアンはそろそろ人目についてきていた。ちらちらとこちらに集まる目線と、無遠慮にカメラを向け始めている人々の姿に、ガブリエラとライアンは彼らのスーツケースをさっさと車に運び入れ、シンディはまだ呆然としている夫の背を押して、車に詰め込んだ。
「聞いてないよ!?」
ガブリエラの正体を告げられた彼は、頭を抱え、呻きのような叫びのような声を上げた。
「まあ言ってないけど。でも会社の名前がケア・サポートだっていうのは言ってたし、メトロ事故の時に私が半泣きでテレビにかじりついてたの散々見てたじゃないの。察するでしょ」
「見てたけど、まさかホワイトアンジェラ本人を直接心配してるとは思わないだろ! 君がめそめそ泣くのを慰めるのにいっぱいいっぱいだったし!」
「あなたのそういう所、私好きよ」
うふ、と蕩けた笑みを浮かべて、シンディは夫の太い腕をつんつんと突いた。彼は顔を覆ったまま、ウウと呻き声を上げている。
「ガブリエラさんだって、“見た目ヤク中みたいな子だけどいい子だから”とか言ってたのに! なにがヤク中だよ、モデルみたいな美人じゃないか!」
「前はほんとにヤク中みたいだったのよぉ。覚醒剤の運び屋が云々って時だって、まさかあんたじゃないでしょうねって疑ったぐらいだもん」
「真剣な顔でトイレに呼び出されましたね、あははは」
やはりしれっと言うシンディと、しかもそれを笑い飛ばすガブリエラに、ハンドルを握っているライアンは乾いた笑みを浮かべた。
まさに歯に衣着せぬというシンディの言動は真正面から切れ味が鋭く、ほわほわしているようで思わぬ方向からパンチのきいたことを言うガブリエラと奇妙にマッチしていて、ライアンは彼女たちの付き合いの長さをなんとなく実感する。
「でもホントに良かったわ〜、健康になって。やっぱりちゃんと栄養のあるものをたっぷり食べればよかったのね」
シンディも、常にガイコツのような状態のガブリエラをなんとかしようとはしたらしい。しかしガブリエラの能力は燃費が悪く、きちんと栄養のあるものを食べさせようにも、尋常でない量を食べさせなければ焼け石に水。
ガブリエラとさほど変わらない給料しか貰っていなかったシンディではそのあたりはどうにもできず、せめてと会社の経費で栄養バーやサプリを落として食べさせることしかできなかった、という。
「あなたったら能力のせいで、食べても食べても鶏ガラみたいじゃない? おまけにカロリーとコスト重視で油と砂糖と廃棄バーガーばっかり食べてるし、栄養失調か成人病で死んでないのがおかしいぐらいだったわよ」
「はい。シンディに言われてビタミンや栄養サプリを飲んでいたことは、お医者様にも褒められました。それがなければ、さすがに倒れていたと」
「だってあなた、基礎の栄養学すら知らなかったし。タンパク質ってなんですか、とかいうレベルなんだもの、ほっといたら絶対死ぬと思って」
「その節は大変お世話になりました……」
「でも今はちゃんと色々食べれてるのね! 鶏ガラが手羽先ぐらいになってるもの!」
その表現にライアンが噴出し、アランが冷や冷やした様子を見せた。とはいえ本人はと言えば、「えへへ」と呑気な照れ笑いを浮かべているだけだが。
「……付き合い長えんだな」
遠慮の欠片もないやりとりを聞いて、ライアンは、シンディという女性が正真正銘ガブリエラの恩人であるのだということを理解した。
「そうですね。シンディと初めて会ったのは、シュテルンに来て半年くらい経った頃です」
「会社入ってからじゃねえの?」
ケア・サポートに入社してからの付き合いだと思っていたライアンは、意外そうに眉を上げた。
「懐かしいわねー。私まだあの頃はホステスやってたんだけど、路地裏でチンピラに絡まれてたのよね。そしたらこの子が助けてくれたの」
「へえ?」
「この時は、二部リーグ時代よりも更に見た目がひどくって! 最初はホームレスかヤク中がふらふらうろついてるのかと思ったんだけど、鉄パイプやら酒瓶やらで、あっという間にチンピラ全員ノックアウトしちゃったのよね。びっくりしたわよ本当。当時は14か15の上に見た目で男か女か全然わかんなくて、言葉も半端にしか通じないし。でもお礼にごはん奢ってあげたら懐かれちゃって」
野良犬に餌付けしているような感覚だった、とシンディは笑う。
それからふたりは、シュテルンビルトの路地裏で度々顔を合わせるようになったという。
「アカデミーの寮を出てからは、シンディの部屋にしばらく住まわせて頂いていました」
懐かしそうに、ガブリエラは言う。
「シンディと暮らすのは、とても楽しかったです」
「大変だったけどね。だってこの子ったら、もうほんと野生っていうか、シャワーは週イチで歯もろくに磨かないもんだから基本なんか臭いし、洗濯とかもろくにしないし。はじめは衛生観念を叩き込んで、身だしなみを整えるところから始めたのよ」
風呂場に叩き込んで洗ったら妙に濁った水が流れてきたことのことは今でも忘れない、とシンディは重苦しい顔で言った。
「……アレみてえだな。ほら、狼に育てられた子供を人間に戻すやつ」
想像以上のレベルだったらしいかつてのガブリエラに、ライアンはやや引きつりながら言った。
「ほんとそれよ。最初マジで野犬だったもんこの子」
シンディは重々しく頷き、ピチュピチュと小鳥のような口笛を吹いてそっぽを向くガブリエラのこめかみを小突く。
最初は、アパートが見つかるまでしばらく泊めてやる、くらいのつもりだったシンディだが、法律自体が存在していないようなほとんど無法地帯の荒野の街から出てきたガブリエラは、想像以上、いや想像を絶するほどに常識がなかった。そのためまずはそこを教え込むところからする羽目になり、結局1年以上も一緒に暮らすことになった。
アパートの部屋探しから水道や電気の契約、税金のこと、洗濯や掃除の仕方、家電類の使い方、果ては歯の磨き方まで。アカデミーを出て、いざ本当にシュテルンビルトという大都会で暮らすためのあらゆることを、ガブリエラはすべてシンディから教わった。
そして最終的にビジネスマナーなども叩き込み、彼女が最初の結婚とともに入社したケア・サポートに、ガブリエラはコネ半分で入社したのだ。
「それでも、私と知り合った時点でもほんとにシュテルンビルトに来たばっかりの頃よりはマシになってたみたいだから恐ろしいわよね。荒野から身ひとつで来た時とか、まともに言葉も通じない状態だったらしいし。マッシーニ校長先生、本当に人間ができてるわ。あの人こそ本当の聖人よ」
「マッシーニ校長?」
「ヒーローアカデミーの校長先生ですよ。校長先生にも、とてもお世話になりました」
ライアンの疑問に答えたのは、ガブリエラである。
荒野を渡って何とかシュテルンビルトに辿り着いたものの、ガブリエラは未成年である上に殆ど言葉が通じず、警察に即保護された。
そしてヒッチハイクに応じてくれたライダーが親切で書いてくれた“ヒーローアカデミーに行きたい”というメモにより警察からヒーローアカデミーに連絡が行き、驚いて迎えに来てくれたのが、ヒーローアカデミーの校長、ティモ・マッシーニである。
彼は身体に触るとテレパシーで会話ができるという、世界でも比較的多い能力のNEXTである。しかしその会話は若干一方通行で、マッシーニ校長から相手に“伝える”ことは詳細にできるのだが、相手の考えていることを彼が受け取る際は、大まかな意志や感情しかわからない、と本人が完全に公表している。
つまりほとんど送信専用の能力で、しかも自分の感情などもそのまま伝わってしまうのだが、彼はこの力で生徒たちとコミュニケーションをとることを恐れないし、感動するとためらいなく人をハグすることで有名だ。
そんな究極に裏表がないともいえる人間性でもって、心からNEXTたちの力になりたいと考えていることを証明し続ける彼は、NEXTにとって父とも呼ばれるほど皆から慕われている。
さらにガブリエラの場合、そもそもどこからやってきたかもわからない得体の知れない子供を、メモ1枚を理由にわざわざ校長自ら様子を見に来る、というだけでも破格だ。
警察も駄目で元々で連絡したのだが、彼は連絡を受けてすぐにやってきて、言葉が通じなかったガブリエラに能力を使ってコミュニケーションを取り、法的な手続きの協力もし、学校の寮に住まわせるという万全のケアを与えた。
彼がいかにNEXT差別撤廃に熱心で、このアカデミーに人生を捧げている人物なのかは既にメディアで散々取り上げられているので、ライアンも知っている。バーナビーやイワンもアカデミー出身であり、彼らの口からも、彼がいかに生徒たちに親身な素晴らしい教育者であるのかは度々語られていた。
「今はひとり暮らしなんだっけ?」
「はい、そうです。ゴールドステージに」
「出世したわねえ」
感慨深そうに、シンディはうんうんと頷く。
「最近、カエデ……友人の女の子と数日一緒に暮らしていました。とても楽しかった」
「あら、そんなことしてたの? 初めて聞いたわ」
「短い間でしたので。しかし、誰かと一緒に暮らすのは、やはり楽しいですね。……ひとりになると、寂しくてしょうがありません」
ガブリエラは、本当に寂しそうに微笑んだ。確かに、楓が虎徹のところに戻っていってしまってからというもの、元々寂しがりのガブリエラの人恋しさは、前にも増して拍車がかかっていた。常に誰かと一緒にいようとするし、なかなか家に帰りたがらない。
「あなた、寂しがりの構ってちゃんだものねえ。私と暮らしてた時も、野犬っぷりがおさまってマトモになってきたら、今度は若い男の子のヒモ飼ってるとか産んだのかとか言われて散々だったわ」
「……なんかまた面白そーな話じゃん。飯でも食いながら聞かせてくれよ」
ライアンはそう言って笑い、ハンドルを切った。
それから4人は食事を楽しみ、ライアンは当時のガブリエラの、シュテルンビルトに来てもやはりエキセントリックなエピソードの数々を興味深そうに聞いた。
シンディは、ガブリエラの話を楽しそうに聞くライアンとボリュームたっぷりの食事を美味そうに食べるガブリエラに、そっと微笑む。
「……それにしても、ガブリエラ。あなた本当に、すっごく綺麗になったわ」
食事の後、男ふたりがパン屋の経営の話を話し始めた時、シンディが柔らかい、潜めた声で言った。
「シンディもですよ」
夫の稼業であるパン屋には相応しくないからと、1日にひと箱以上吸っていた煙草をきっぱりやめたというシンディは、シュテルンビルトにいた頃よりも格段に綺麗だった。
どこかぴりぴりしていたような雰囲気は全く消え失せ、懐が大きく、気っ風の良い、感動屋で情が深いという彼女の良い部分が全面に押し出され、非常に魅力的な輝きを纏っている。
「そう? まあ、幸せだからね」
今度こそ幸せになるわよ、と飛行機に乗っていった彼女を見送った日を思い出しながら、ガブリエラは目を細めた。
「あなたはどう? 彼、優しい?」
「はい、とても」
「幸せ?」
それに応えなくても、自分と同じように蕩けそうな笑みを浮かべたガブリエラに、シンディは満足したようだった。
「あなたにいい出会いがあって、本当に良かった。思いのほか大物でびっくりしたけど。──でも、これからもぼんやりしていたらだめよ。人生は勢いと決断が大事なんだからね」
「はい」
「ここだと思ったら、相手が逃げる隙を与えず、即座に──」
「かみつきました!」
バッと挙手して元気よく言ったガブリエラに、シンディはよろしいと頷いた。
「忘れてないみたいね、その意気だわ。でもツバをつけただけで満足しないことよ。逃げられないように、油断しないの。確実に仕留められるように頑張るのよ」
「おお……具体的には……」
「日々の弛まぬ努力。そして尽きない愛と根性よ」
「わかりました!」
やはりシンディはいつもためになる大事なことを教えてくれると確信しつつ、ガブリエラは力強く頷いた。
それからガブリエラとライアンは夫婦とひとまず別れ、ジャスティスタワーに戻った。
トレーニング後のおやつになったのは、お近づきの印にと恐縮して夫君が渡してきたパンの詰め合わせである。クリスマスということで、立派なシュトーレンも入っていた。
本来、クリスマスはパン屋もかきいれ時だ。しかしパン職人である彼がクリスマスに旅行に来ているのは、故郷で代々続く店を、職人として少し対立気味の兄が継ぐことになり、兄の下で働くか自分も店を出すかで悩んでいる、という背景のせいだという。
「あの夫婦、どこから来たって言ってたっけ?」
「○○というところです」
「ホントに田舎のほうだな。ふーん、結構新しい感じのセンスなのになあ、それが受け入れらんねえのかね」
もういっこくれよ、と言って他の種類のパンを黙々と頬張るライアンに、ガブリエラはにこにことした。
ライアンは、オンリーワンだと思い気に入ったものを周りに置きたがる。
もしかしたら来年辺り、王子様のお抱えのパン屋がシュテルンビルトにそっと建つ可能性もあるな、とガブリエラは思った。──シュテルンビルトに慣れた、マネージメント業務が得意な奥方もいることであるし。
「……それにしても」
「はい?」
「母親を招待しなくてよかったのか?」
潜めた声で、ライアンが言った。
ガブリエラの母が入所している施設があるエリアは、空港こそあるもののシュテルンビルトまでの直行便はなく、そもそも定期的に飛んでいる便自体あまり多くない。そのため行き来には少々複雑な手続きが必要で、また本人に介護が必要な状態なら、信用できる人を雇う必要もある。
だが今のガブリエラの収入なら、その程度のことはできるはずだ。
言葉にせず視線でそう問われ、ガブリエラは薄く、静かに微笑んだ。
「私も少し考えましたが、ここまで来るのは飛行機でも大変ですし、彼女は騒がしい所が好きではありません。そもそも、私のこともわかっているのかどうか、よく……」
ガブリエラは、事務的に淡々と言う。
「……それに、最近あまり調子が良くないようなのです。そんな時にいきなり遠い場所へ来て混乱させても気の毒ですし、私もつきっきりでいられませんので」
「……そっか」
「クリスマスカードは贈りましたよ」
あちらからは返ってこないでしょうけれど、という言葉を、ガブリエラはただ微笑みの中に沈めた。
「んじゃ、クリスマスはあの夫婦と過ごすのか?」
「いえ、イブの前日のディナーはご一緒しますが、それ以上お邪魔はしません」
新婚旅行ですしね、とガブリエラは微笑んだ。
「良いところが取れたのですよ。ゴールドの……」
「うお、ホントにいいとこじゃん。よく取れたな」
「ふふふ。この間のパーティで、コネを作っておきましたので!」
相変わらず着々と名刺コレクションを増やしているらしいガブリエラに、侮れねえ、とライアンは目線を向けた。
どこの誰にコネクションがある、というような自慢を彼女は全くしないので、ライアンも彼女の持つ伝手の全てを把握してはいない。しかし時折彼でも驚くような予約や特別待遇をぽんともぎ取ってくるので、侮れないということだけは重々理解している。
「んじゃ、イブと当日、おまえどうすんの?」
「仕事ですよ。知っての通り」
「いやまあそうだけど」
何しろヒーロー、イベントが目白押しである分、仕事も多い。
他の面子もそうだが、ヒーローランドのクリスマスパレード出演や各所属会社主催のイベント、ブルーローズはクリスマスコンサートなどを控えているし、スポンサー接待を兼ねたパーティーもいくつかある。
「仕事終わった後、時間あるだろ」
「ああ、……そうですね。教会のミサにでも行くか、バイクで走るかでしょうか」
「……ふーん。そうか。ふうん」
「ライアンは?」
聞き返され、何やらもごもごと口ごもっていたライアンは顔を上げた。
「あん?」
「結局どうなったのですか? 妹さんたち」
「あー、やっぱ両親の分のチケット取れなくってな。もう大暴れよ」
ライアンは参ったと言わんばかりに苦笑し、肩をすくめた。
コンチネンタルにある彼の実家・ゴールドスミス家には、祖父母と、両親と、驚くべきことに、彼の兄弟姉妹が5人と、更にその家族が住んでいる。
ライアンの兄弟姉妹は、いちばん上に姉、次に兄。下には弟、末子は双子の妹。ライアンは次男で、6人きょうだいの真ん中になる。
「ジュニア君のめんどくささが可愛いレベル」と彼が真顔で言うほど癖の強い家族らしく、その癖の強い顔ぶれの中で真ん中っ子であることが、彼のコミュニケーション能力の高さの礎になっている。
そしてライアンのいちばん下の妹、大家族の6人きょうだいの末っ子で女の子の双子という、甘やかされてわがまま盛りの妹たちはシュテルンビルトのクリスマスイベントに相当の勢いで来たがったが、チケットはペア券のみである。
もし来たら確実にはしゃぎ放題はしゃぐだろう妹たちに、ライアンがつきっきりになるのは無理だ。そのため保護者同伴が必須なのだが、まだ小さい子供たちを抱えた姉夫婦はそれどころではないし、海兵隊員である兄はクリスマス返上の任務で船の上、弟はまだ高校生になったばかりで保護者の役割は果たせない。かといって最近足腰が弱ってきた祖父母に、シュテルンビルトの大都会は荷が重い。
そのため、同行できる両親のチケットが一般で取れれば4人で来るということになったのだが、案の定、半年前から満席近かったチケットを取ることはできず、妹達は盛大に不貞腐れているらしい。
ちなみにチケットは、ライアンが出資している“お抱え”たちの中から、最近発展目覚ましいシュテルンビルトを視察したい、というメンバーに譲られた。
「そうですか、残念でしたね。……シンディの都合が悪ければ私もチケットを譲れたのですが」
「そーいう事言うなって。いいんだよ、普段散々ワガママ放題なんだし」
「しかし、クリスマスは家族で過ごすものでしょう」
「俺もたまには実家帰ろうとは思うけど、忙しいしなあ。でもまあビデオ通話はするし、そのかわりリアルサンタ担当だから、俺は」
「サンタ? サンタクロース?」
「そう」
各地でクリスマスの風習や過ごし方などは微妙に異なるが、ライアンが生まれ育ったコンチネンタルエリアの一角は、クリスマスは家族、あるいは親戚一同集まって過ごすのが一般的だ。
ゴールドスミス家もそれに当てはまり、家族皆でターキーをローストし、山ほどクッキーを焼き、クリスマスツリーを飾る。ツリーの下にはプレゼントの箱が用意され、特に子供たちはひとり複数個のプレゼントを得ることができる。
世界中を飛び回っているライアンは実家に帰る頻度が少ないが、そのかわり、毎年のクリスマスプレゼントにかなり気合を入れることにしているのだ。
兄弟姉妹の多い大家族な上、更に姉が結婚していて夫とともにいわゆる二世帯住宅に同居しており、彼らの息子と娘もひとりずつ。つまりライアンの甥っ子、姪っ子もいて子供の数が多いゴールドスミス家でプレゼント担当になるのは、普通懐に結構なダメージを食らうことだ。
しかし年俸の額が新聞に載るようなゴールデンライアンならば、どうということはない。普通よりも豪華なプレゼントを毎年いくつも贈ってくるライアンは、ゴールドスミス家の子供たちにとって現実的かつ頼りになるサンタクロースであり、正真正銘ヒーローなのだ。
もちろん大人の家族たちにも、金だけでなく心を込めたプレゼントは欠かしていない。
「シュテルンに来られなかった分プレゼントは奮発したから、まあご機嫌は取れるだろ」
「ふふふ」
離れていても家族のことを気遣うライアンに、ガブリエラはにこにこした。
「では、ライアンはクリスマスも仕事?」
「……んー、毎年、パーティーのハシゴで終わるな。顔売るチャンスだし」
「そうですか」
お互いに頷きあったふたりは、そのまま、そのクリスマスイベントの最終ミーティングのため、アスクレピオス本社に戻ることにした。
「なんでそこで、一緒に過ごそうって言わないのよ」
高い腰に手を当てて呆れ果てた声を出したネイサンに、更衣室にガブリエラを見送ってベンチに座り込んだライアンは、不貞腐れたような顔をした。
「馬鹿じゃないの。今更照れてんじゃないわよ」
「照れてねーし……」
「じゃあ何なの」
「言葉が上手いこと出てこなかったんだよ!」
「んまあ〜、初々しい。天下の俺様王子様が。チョー笑える」
白々しい笑いを浮かべるネイサンに、ライアンは苦い表情になり、膝を支点に頬杖をついた。
「さらっと言えばいいのよ、さらっと。特別なことしなくっても、一緒に過ごそうっていうだけで死ぬほど喜ぶ子だってわかってるでしょ」
──わかっている。充分に。
という言葉を、ライアンは飲み込んだ。
フリーのヒーローとして各地を飛び回るようになってから、クリスマスを実家の家族と過ごした回数は少ない。ガブリエラに告げたように、パーティーのハシゴで顔を売ることに専念したのがほとんどだ。
それは実家に帰る暇のない独身の仕事人間にありがちな過ごし方であり、家族と過ごさず彼らと顔を合わせることでより強いコネクションを作るという、特に駆け出しだった頃のライアンには必要なことでもあった。
一般論として“家族で過ごす”という色の強いクリスマスに、将来を考えているパートナーと一緒に過ごすとか、紹介がてら家のクリスマスの集まりに招くというパターンもあるが、ライアンは当時の恋人たちとクリスマスを過ごした経験はない。
別に、不純な遊び相手しかいなかったというわけではない。だがライアンは仕事の方に夢中だったし、今までのガールフレンドにそこまでの気持ちになったことはなかった。
「方向性は決まったとか言ってたじゃないの。腹決めなさいよ」
ネイサンの、呆れと優しさが混じった本当に母親のような声色に、ライアンは思春期の少年のように下唇を突き出したまま無言だった。
「……んー」
「んもおおおお! 焦れったい!」
「いや、なんつーの、なんかさあ」
くねくねと身悶えるネイサンに、ライアンは金髪の頭をばりばりと掻いて、ぽつりと言った。
「あいつ、俺のことめちゃくちゃ好きじゃん。好きっつーか、愛じゃん。あれこそ」
「……ご馳走様」
「だってそうだろ」
「まあ、なかなかいないでしょうね」
「あんな重い女初めてだっつーの。引くわ」
「引くって、あんた今更……」
ネイサンは、完璧に整えた眉を寄せ、怒った顔をした。
「ああ、いや、そうじゃねえよ。そうじゃなくて、……だからァ」
少し焦った様子でそう言ってから、ライアンが俯く。
「……同じだけ愛してやれるか、わかんねえ」
ずっしりとしたその言葉に、ネイサンはきょとんとし、途端に慈愛に溢れた表情になった。
「馬鹿ね。そういう風に思えるのなら、愛せるわよ」
ガブリエラの愛は、彼の言うように、本当に重い。
それは“引いて”逃げてしまっても充分おかしくないほどのものであり、だからこそ、口では引くと言いつつも正面からそれを受け止め同じものを返してやれるかと悩むのは、充分な反応であるとネイサンは思う。
「……そう?」
「そうよ。あんたが今できることをやればいいの。あとは徐々でいいのよ、徐々で」
「……おう」
柄にもなくぎこちなく頷いたライアンに、ネイサンは苦笑した。
(まったく、若いわねえ)
彼がしようとしているのは、俺も好きだというだけの、子供のような告白のはずだ。
それをまるで今からプロポーズでもするかのような様子であるくせに、これで真剣に愛していないはずがないではないかと、ネイサンは彼の金髪の頭をぽんぽんと叩いた。