#108
★メイプルキティの冒険★
23/24
 生きとし生けるすべてのものが己にとっての捕食者になる、ガブリエラの能力。
 彼女自身は現在折り合いをつけているものの、それはそれとして、付随する寂しさや孤独感は、どうしても拭えないものだ。だからこそ彼女はある種の性癖に没頭し、寂しがりで、人との繋がりを欲する。
 しかし自分が産んだ子供、自然かつ必然的に血を分け、乳を与えることになる我が子にならば、きっとこの寂しさは感じない。ガブリエラはそれを直感で感じていて、ぼんやりとその存在を欲している。そして彼女の能力をコピーしている楓は、全く同じように感じるとまではいかないものの、ガブリエラが感じているものを察し、想像することができた。

「元々、ギャビーってちっちゃい子好きだし……赤ちゃんは特に。あれ、多分、いい人とかおかしい人とか、まだなんにも決まってないからだよね、たぶん。私も、微生物とか植物とか虫とかの次に慣れたのが、動物と赤ちゃんだったし」

 それも、言うとおりだった。
 特に幼い赤ん坊は、無力で自我が薄い分、真の意味で善いも悪いもない。ただ生きようとしている単純さは、素直にエネルギーを分けてやろうと思える。それもまた母性という本能なのかもしれないが、だからこそ自分の子であればもっと、と思い、ガブリエラは子供を産んで育ててみたいと思うようになったのだ。

 目を見開いて固まっていたガブリエラは、やがてふっと力を抜いて目を細める。
「……本当に、楓は私のことがとてもよくわかりますね」
「同じ能力だからね、今」
「そう……そうですね」
「NEXT能力者って、能力が中心になってるよね。色々」
 それは、楓が深く実感したことのひとつだった。

 NEXT能力は、生物が持つ五感、第六感、もっと更なる新しい感覚に目覚めるようなものだと多く認識されている。目が見えない、耳が聞こえない者がそれによって生活や考え方がある種独特になるように、感覚が増えることによる変化ももちろんあり、それは決して小さいものではない。
 そしてガブリエラの場合は特にそれが顕著であるということを、今回楓は存分に思い知った。

「みんなそうなのかな」
「そうだと思います。……そして皆、他の人にはわからない、と思いながら暮らしている。自分と同じ能力の人がいたら、お互いにとても興味を持ちますよ。ですので、タイガーとバーナビーさんのことは少し羨ましいですね」
 ベストコンビ、バディと呼ばれる彼らだが、NEXT能力者たちはさもあらんという風に見ていて、むしろ最初にあれほど不仲だったのはなぜだ、とも言われている。
 それほどに、NEXT能力というものは、能力者たちにとって根源的なものなのだ。母国語や出身地、学校が同じであるとかとも似ているが、しかし比べ物にならないほど共感性が高い感覚。

「そっか」
「はい。ですので、カエデとこうして一緒にいるようになって、本当に嬉しかったのは私です。……将来子供を産んだら、カエデのような子だったらいいですね」
 ガブリエラは本当に赤ん坊を見るような顔をして、楓の頬を優しく撫でた。その薄い手から染み渡ってくるほんのりとしたエネルギーを、楓も抵抗なく、心地よく受け取る。
「アンジュさんも、ムラマサさんも、とてもいい人たちでしたね」
「……画面越しだけど、わかるの?」
「画面越しだからですよ。画面越しですのに、おふたりとも、カエデだけでなく私のことも心配して下さいました」
「うん」
「いい人です。……私のこの力がなくなっても、きっと変わらず親切な人たち」

 シュテルンビルトにやってくるまで、──正確にはワイルドタイガーが能力減退したと報道された時まで、ガブリエラは“NEXT能力が減退することがある”ということ自体知らなかった。
 だが知ったその時から、ぼんやり思うようになったのだ。この力をもし失った時、周りの人々はどう変わってしまうのだろうと。

「……そっか」
「人の好意を疑う、とても悪いことだとは思いますが」
「うん、でも、しょうがないと思うよ」
「そうでしょうか」
 ガブリエラは、珍しく戸惑った様子だった。そんな彼女の細い肩に、楓はなんとなく頭を預ける。彼女が言うことを、楓は、しっかりとした実感を持って理解できた。

「あのね。ギャビーの側にいると、とっても落ち着くし、気持ちいいんだよ」

 ガブリエラと繋いだ手から、流れ込んでくるもの。それはとても心地よく、眠気を誘うようでもあり、それでいて頭が冴えるような清涼感も存在する。ずっとこうしていたいと思うような心地のせいで、楓は彼女にくっついていようと意識せずとも、自然に彼女の側に引き寄せられた。
 それはまるで、日向に集まる猫のように本能的な感覚。あるいは植物に呼吸をさせる太陽や、夜の道を示す星、あるいは巨大なバオバブの木、砂漠のオアシスのようなものなのだと楓は感じ、そして皆が同じくそう感じているのだと確信できた。

「自分の利益になるとか、本能とか、そういうのもあるかもしれないけど、……でも単純に、一緒にいるのが心地良いから、っていうのもあると思うよ。悪いことを考える暇もなくなっちゃうくらいね。でもそれでギャビーが不安になるのもわかるよ」
「……わかりますか?」
「わかるよ。だって今、私、ギャビーと同じだもん」
「そう、……そうでしたね」
 ガブリエラは頷き、楓が触れたところから流れてくる、彼女のエネルギーを感じた。ガブリエラの能力をコピーした楓から流れてくる、彼女のエネルギー。腹の中にいる子供とエネルギーを分け合うような、自然でいて特別な感覚。

「でも、……私もヒーローを、……お父さんを信じてるから。私がどうなってもお父さんは私を愛してくれるし、バーナビーだって、とっても優しくしてくれる。他のヒーローも、みんなそう。みんなとっても優しいから」
「ええ、そう。そうですとも」
「能力があるから、っていうのも……わかるけど。でも、しょうがないよ。あるんだから。もって生まれたものだもんね」
「……そうですね」
 意図してはきはきと発された楓の声に、ガブリエラは苦笑した。
 ガブリエラとて、わかってはいるのだ。ただでさえ頭が悪いのに、悩んでも解決しないことをうだうだ考えるなど、無駄の極みだ。いつもなら、感傷に浸るのは2秒で中止して、さっさと行動する。しかしこの件に関しては、ぐずぐずといつまでも思い悩んでしまっていた。
 誰かに相談しようにも、その人の好意を疑っているのだという告白にもなってしまうのが心苦しく、シスリー医師以外の誰にも言ったことはない。

「しかし、私は、悪い子ですので」

 自分がどうなっても全てを救うこと、救おうとすることこそが正義なのだと、そう言われてガブリエラは育った。しかし生きていくために、ガブリエラは、誰もが求めるその力をセーブせざるを得ない。どうしようもないことだとわかってもいるが、それを罪であるとも感じてきた。
 そんな体験を踏まえて、本能に訴えかけるガブリエラの能力に引きずられず、ダメなことはダメだと言い、ガブリエラを叱ってくれる人が、ガブリエラにはどうしても尊く感じられる。しかも、叱られたことをちゃんとやり直して褒められると、もうなんでも従いたいような気になってしまう。しまいには、ただ怒鳴られることすら心地よいと感じるようになった。

 ガブリエラは、罰を求めた。
 天使に手脚をもがれるように、身を削って人を助ける度に、許されているような気になった。更にエスカレートして、快感と安堵、マゾヒスティックな感覚を覚えてからは、それもまた罪と感じるようになり、奇妙なループが始まった。

「悪い子でもいいよ!」

 楓は、大きい声で、はっきりと言った。
 ガブリエラが顔を上げ、彼女の目を見る。楓の黒い目の中には、方角を示す星のような輝きがあった。

「ギャビーは、自分を悪い子だって言うけど。みんな自分の力を求めてるけど、自分はその全部に応えないからって、治したいものだけに力を使う自分は悪い子だって言うけど。でもそれって、当たり前のことだよ。だってそうしないと、ギャビーが死んじゃうもの」
「そうですね。……しかし、それが正しいことなのかも」
 なぜなら母は死ねと言い、神に仕える者たちは、殉教して聖者になった。
 しかしガブリエラは、母の言いつけに反し、神の教えを無視して生きている。泥水を啜り、ガソリン臭い草を食み、地べたを這いずっても生き残ることに執心してきた。
「正しいとかどうとかは知らないよ。どうだっていい」
 楓は、必死に言う。

「悪い子でもいいよ。私はギャビーが生きててくれたほうがいいもん」

 その言葉に、ガブリエラはひゅっと息を呑んだ。
 馬のラグエルはあからさまにガブリエラの能力を求めつつ、だがそれはそれとして、ガブリエラにひどく当たった。それはそれ、これはこれだときっぱり示す自分勝手極まる馬にガブリエラは腹を立てながら、しかし同時に救われた。
 そんな彼が最期の時を穏やかに過ごすチャンスを捨て、残り少ない命をガブリエラのために使ってくれたその時、ラグエルは正真正銘、ガブリエラにとって、一生の親友になった。
 だからこそ、母の言いつけに背き、神の教えに反して好き放題に生きて死んでいった彼のようであることを後ろめたく思わず、“好きでやっているのだ”と開き直れるようになった。

 ──なった、と思っていた。
 しかしどうやら、完璧にそうではなかったらしい、とガブリエラは今自覚した。心底こちらをばかにしきった、黒い馬の嘶きが聞こえたような気がする。

「ギャビーがいい子か悪い子かなんてわかんないけど、……でも、ギャビーがたくさんの人を助けてるのは本当だし、私が困ってる時、ギャビーは私を助けてくれた」
 ギャビーは私のヒーローだよ、と楓が言うと、ガブリエラは、目を細めた。その灰色の目は少し潤み、今にもほろりと零れ落ちそうなゆらめきがあった。
 ガブリエラはやがて、震えた息をゆっくりと長く吐いてから、深く微笑んで楓を見た。
「……カエデは天使のようですねえ」
「え?」
「星に連れて行ってくれる天使です。きらきらして、強くて、きれいな……」
 ふふふ、とガブリエラは笑った。かわいくてたまらないという、あの蕩けた笑みで。

「……私も、今」

 まだ少し震えた声で、ガブリエラは、呟いた。

「わかります。今まで皆が私に寄ってくるわけがわかりませんでしたが、今はわかります。私も今、感じます。カエデから」
 ガブリエラは目を細め、楓を抱き寄せた。
「……これは、心地よいものですね」
「うん。ただ単純に、皆、ギャビーの側にいるのが気持ちいいんだよ」
「そうだったのですね」
「でも、それは別にして。……みんな、ギャビーが大好きだよ。もちろん、私もね。だってギャビーはとっても優しいし、かっこいいし、おもしろいし、かわいいもん」
「……照れますね?」
 ガブリエラは、本当に照れくさそうに言った。そして自分の肩に頭を預ける楓の、天使の輪が光る黒髪に、縋るように頬を寄せる。

「皆私を食べようとしていると、そうとばかり思っていました」
「うん、それもわかる」
「そうですか」
 一生解って貰えることはないと思っていました、と言ったガブリエラの細い肩に、楓は頭を預けて目を閉じる。

「わかってくださって、ありがとう。カエデ」
「……どういたしまして?」
「ふふふ」

 ハグしたまま楓が首を傾げたせいで、子供らしく柔らかい黒髪が首筋をくすぐり、ガブリエラは笑った。

「こんなにわかってもらえる。……楓の能力は、とても素敵ですね」

 心底の感謝を込めてそう言われた瞬間、楓の中で、新しい星のような何かが閃いた。










 楓は、きれいな丘の上に座っていた。
 隣には父がいて、反対側にはすてきな兄のような兎。ふたりがすっかり自分を守ってくれるので、楓は何もしなくていい。だが、がっちりと守られた楓は、どこに行くこともできないでいた。

「立つのです! 腰抜けから死ぬのです!」

 突然痩せた狼犬が飛び出してきて、赤毛を揺らしながら全速力で走っていく。
 途端に地面から湧いてきた沢山の植物や虫達に悲鳴を上げて、楓は懸命に彼女を追いかける。犬は天使のように速く、ついていくのが精一杯だ。

「さあお食べなさい、お飲みなさい。今日はアタシのおごりよ」

 大きくなったり小さくなったり、涙の川に流されたり。色々なことに翻弄されながら、楓は先の見えない道を進んでいく。

「寒いですので、暖かくして。手袋を持ってきたほうがいいですよ」

 手袋ではなく、耳あてとマフラーが与えられた。とてもあたたかい。

「自分に問いかけるわけだ。“Who are you ?”ってな」

 12歳のちっぽけな自分は、普通なのか、おかしいのか。いい子なのか、悪い子なのか。──自分は誰なのか、どういう人間なのか。楓は見極めなければいけない。
 そのために、楓は不思議な国へ旅に出た。痩せた犬を追いかけて。

「やれることは、全部やってるんだもん。それでもだめなら、しょうがないよ」

 父は、出来る限りのことをやってくれた。ならば、もう自分でどうにかするしかない。なぜならこれは、自分だけが持って生まれた力なのだから。

「帽子のほうは、特に頭がおかしいです。目を合わせないように」

 妙な光を放つ目と、伸びてくる透明な手から、楓は必死で逃げる。

「そんなことしたら、病気になっちゃう!」

 飲んだのはシロップ? それともジャム?

「ああ、お茶がなくなった。君たち、もっとたくさんお茶を飲みなさい」
「すっ、すみません! 続けて下さい」

 ドードー鳥。
 本当はかっこいい、ネガティブな忍者。
 煙突から空に舞うトカゲ。
 風を操る、優しくて天然な魔術師。
 変な芋虫。
 凛々しくてかわいい龍。
 親身になってくれる氷の青薔薇。
 怒り狂う鳩。
 大きな雄牛。
 三月兎に眠りネズミ、きちがい帽子屋、あるいはきちがい修道女、きちがい馬。

 色々な人とすれ違い、話を聞かせてもらいながら、楓は進む。
 走れば走るほど、誰かの話を聞けば聞くほど、どれほど世界や宇宙が大きいのか、自分がいかに小さいのかということばかりがわかってくる。

「あれっ、白っぽい蕾でしたのに。赤い花ですよ」

 寒い中で勝手に咲かせた花が、揺れる。

「惜しまれたことは山ほどあっても、この首を切られたことはねえよ」
「あのMadめ……」

 高いところでにやにや笑うのは、猫か。いや、金色の大きなライオンだ。
 どちらに行けばいいのかと道を聞けば、大きな口を吊り上げて、行きたい方へ行けと言う。どちらに何があるのかは教えてくれるが、どちらに行くべしとは言わない彼。

「こちらはフラミンゴ。これはハリネズミです」

 どういう組み合わせなのか。一見わけがわからない、しかし彼女なりのルールがあるのだということがわかれば、クロケーだってできる。楓だからこそ、わかるようになっていく。

「すげえな。ほんと、昨日まで別の子だったみてえ」

 楓もそう思う。どうしてこんなことになったのか、なぜ自分だけがこんなめにあわなければいけないのかと、安全なゆりかごに戻りたい気持ちをこらえながら、楓は泣きながらも走る犬を追いかけ続ける。

「あたたかいスープを用意しておくべきでした。おいしいおいしい、ス〜プ」

 優しく歌う、海亀のスープより暖かな声は、誰のものか。グリフォンか、カメモドキのものか。

「戻ってきたら、お前の冒険話を聞かせてくれよ」

 父の声が聞こえる。いつもと逆だと苦笑しながらも、とても心配そうで、しかしこらえて見守ってくれている父。
 ああ、ちゃんとやらなければ。恥ずかしくないように、この父の娘だと誇れるように。

「愛で世の中が上手くいけばいいけれど。他人のおせっかいをしないのも重要なのよ」

 小さな公爵夫人が口にする格言めいた言葉は謎に満ちていて、楓には理解できない。

「そーかそーか。それはそうと、前言ってたタルトとパイがあるけど食べる?」

 彼女が甘いお菓子につられている間に、楓はまた走っていく。

「今までお聞きした中で、もっとも重要なお話でした」

 まったくもってそのとおり。
 そのせいで、楓の小さな世界はひっくり返ってしまった。裏返したトランプが、予想だにしない絵柄だったように。楓の知らない役。揃うと何が起こるのか、それすらもわからない。

「どんな罰がふさわしいのか、それを決めるのは裁判官さんです」

 顔色の悪い銀髪の裁判官は、いつも正しいことしか言わない。道を踏み外さないようにと彼は言った。彼は今どこに? ──月の裏側?

「私はかんしゃくなんか起こしたことないもん」
「ばかなこと言わないで」

 そう言ってまた走り、道をはぐらかすライオンを吹っ切って、彼女が愛する赤いハートの女王様の元へ。

 ──さあ、判決やいかに。






「──At this the whole pack rose up into the air, and came flying down upon her」

 耳に優しい、低い声が聞こえる。

「She gave a little scream, half of fright and half of anger, and tried to beat them off, and found herself lying on the bank, with her head in the lap of her sister, who was gently brushing away some dead leaves that had fluttered down from the trees upon her face」

 楓がうっすら目を開けると、ソファに足を組んで座っているライアンが、片手に持った本から顔を上げて、チェシャ猫のような笑みを向けてきた。

「“そろそろ起きな、お嬢ちゃん。ずいぶん長いこと寝てたな”」

 ちょうど朗読箇所の台詞とあわせて、ライアンは本を閉じながら言った。
「“……とっても不思議な夢を見たわ”」
 楓も物語どおりの台詞を言って返しながら、自分が今どこでどうしていたのかを確認する。

 ここは、アスクレピオスのヒーロー用トランスポーターのラウンジ。聞こえるのは鉄のゆりかごの穏やかなエンジン音と、暖かな体温。
 見上げれば、楓に膝を枕として提供しているガブリエラが、うっとりした顔で録音用の端末を握りしめていた。

 ライアンの朗読をご褒美に頑張ったガブリエラは、例の課題本を何とか読み終わることができた。不正を防ぐため、内容を把握しているかどうかチェックするテスト用紙までついていたというのだから、リリアーナも相当である。
 それに全問正解したため、午前中の仕事を経たランチの後、移動中のポーターの中でゴールデンライアンによる生朗読会という、非常に贅沢な時間が始まったのだった。

「俺様の朗読で昼寝たァ、贅沢だな」
「……いい声だから眠くなったんだよ」
「そりゃ光栄」
 ライアンは、コミカルに肩を竦めた。
「あまり眠れていなかったようですからね、昨日」
 楓の顔にかかった髪を、ガブリエラが優しく除けながら言う。
「そうか。緊張してるカンジ?」
「それは大丈夫」
「何よりだ。そろそろ着くぜ」
 彼が立ち上がったので、楓も身を起こした。ガブリエラが、寝癖を直してくれる。
 やはり心地よいその手に微笑んで、楓は歩きだす。安心できる鉄のゆりかごを、自分の意志でもって降りていった。

 ──これから、楓の能力の制御能力検査が行われる。



 アスクレピオス総合病院、NEXT医学科特別施設棟。
「では説明通りにお願いします」という担当医師の指示に、楓は頷く。

 見上げれば、強化ガラスの向こうの小部屋でライアンとガブリエラ、バーナビーがこちらを見守っている。
 そんな彼らに笑みを浮かべてこくりと頷いた楓は、横に立っている、アポロンメディアの二部リーグヒーロー・スモウサンダーの大きな手の上に自分の手を置いた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそでごわす! ……頑張って!」
 おおらかに笑ってくれた巨漢に、楓も笑い返した。
「大丈夫ッスよ! ワイルドタイガーの娘ならこんなの楽勝ッス」
「気を楽に!」
 彼のすぐ隣にいるMs.バイオレット、チョップマンも声をかけてくれた。尊敬する先輩ヒーローの娘のためにと、無害な能力の持ち主として、今日わざわざ来てくれたのだ。
 楓は意識を集中した。ふわん、と青白い光が漏れる。

「楓」
「うん」

 そして彼らの見守る中、楓よりよっぽど緊張している様子の虎徹の手に、楓はそろそろと自分の手を置く。
 試験官がその接触を確認してから手を離し、楓は用意されたボウルの上に手をかざした。すると再度楓の身体が青白く光ると同時に、手から、ざああ、と塩が流れ出る。

「やった! コピーしてない!」
「見事でごわす!」
「おめでとうございます!」

 見守っていた全員が大きな手で拍手する。強化ガラスの向こうで、ガブリエラが満面の笑みで腕を振り回し、ぴょんぴょんと跳ね、スタッフから「静かに」と怒られているのが見えて、楓はつい笑う。
「おおおおお、凄いっ、凄いぞ楓ぇ! たった何日かで!」
「ちょっと、やめてよお父さん」
 感動して楓を抱き上げ、くるくると回る虎徹に楓は苦笑を浮かべて言ったが、拒むことはしなかった。またそうして抱き上げられても、楓は虎徹の能力を写しとってはいない。

 自分の力が、どういうものなのか。

 それを知ることが、その力を制御するための大きな鍵である。
 話を聞いた時はまるで実感が湧かず上滑りをしていた言葉だが、楓は今、それがしっかりと理解できる。
 確かに世界は広く、自分は小さい。しかし自分が宇宙のどこにいるのか、どういった星のもとに立っているのかちゃんとわかっていれば、恐れることは何もない。

 ──自分の力は、NEXT能力をコピーすること。
 ──そしてそれによって、その人を心から理解できること。

 わかってくれてありがとう、素敵な能力だとガブリエラに言われた瞬間、楓はそれを理解した。
 褒められたり、お礼を言われるようなことができる能力なのだとわかったことで、楓は自分の能力を素直に受け入れることができたのだ。
 なぜ自分がこんなめに、こんなもの持って生まれなければよかった、と恨んで呪ったのが嘘のように、NEXT能力は急激に楓に馴染んだ。意識せず物を見て、音を聞いて、触れて、息を吸って吐くように。今まであった五感と並ぶようにして、当たり前に新しい感覚をコントロールすることができるようになった。

 そこで実際にいよいよ実験してみよう、ということでさっそく能力検査を申し込だのだが、試みはこのとおり大成功である。

「やー、ヒーローになったものの能力は相変わらず役に立たないと思っていたでごわすが、その役立たずぶりがこうして役に立つとは。なにがあるかわからんもんですなー」

 お役に立てて何より、とおおらかに笑うスモウサンダーを、楓は見上げた。
「そんなことないよ」
「え?」
「役に立たないなんて、そんなことない。だってこの塩、なんか特別なやつでしょ?」
「えっ? い、いえ、ごく普通の塩でごわすよ?」
 能力を検定した時に調べた、とスモウサンダーはおろおろした様子で言った。何か特別な効果のある塩なのではと最初は期待したが、本当にただの塩であったために落胆したのだということも、ぼそぼそと口走る。

「そうなの? ……そんなはずないと思うけどな。なんかよくわかんないけど……力があるもん。すごくきれいな塩だよ」
「き、きれい?」
 自分のキャラクターとはかけ離れた言葉に、スモウサンダーは目を白黒させる。
「ちゃんと調べたほうがいいよ、これ」
 楓は、真剣な表情で言った。その言葉に、今回の検査の担当官であるアスクレピオスの医師はふむと頷いた。
「この実験は、ドクター・マイヤーズも注目していらっしゃいます。スモウサンダーの能力と塩についても報告を上げて、調べてみましょうか」
「なにもないと思うでごわすが……、はあ、まあ、ドクターが仰ることには従うでごわす」
 疑問符を浮かべながら、スモウサンダーは「よろしくお願いするでごわす」と小さく頭を下げた。

「では、次はチョップマンの能力で試しましょう」
「わかりました」

 医師に促され、楓は今度は緊張気味に立っているチョップマンの掌にまたそっと手を置く。しかしその掌から彼の情報を読み取ろうとして、「あれ?」と首を傾げた。










 人に触れても、意識しないかぎり、能力をコピーしない。

 初歩も初歩。しかしそれは立派な能力制御であり、最も重要なことであった。これが完全にできることが小学校卒業後に受ける制御試験で証明されれば、楓は施設などに入らなくてもいい。アカデミーで単位を取得して卒業できれば、オリエンタルタウンに戻って暮らすのも完全に自由だ。飛び級できれば、その期間を早めることもできる。
 しかも、ガブリエラの能力でのトレーニングの上に自分の能力を完全に把握したおかげか、楓は自分の能力のオン・オフだけでなく、コピーした能力のオン・オフも同じく完璧にできるようになっていた。劇的な進歩である。

 2時間ほどの様々な検査を行った結果、楓は「この調子なら制御試験も問題ない」と医者から太鼓判を押してもらった。
 つまり、まだ正式なものではないが、制御能力ありとカルテに記載してもらうことが出来たのである。これがあるとないとでは、後日受ける予定の制御能力認定試験でも評価が違ってくるし、今すぐの行動範囲にも差が出てくる。
 今現在で得られる最良の結果に、楓は虎徹とともに足取り軽く特別室を出た。

「カエデ!!」

 部屋から出てきた時、真っ先に飛び出してきて楓を迎えたのは、ガブリエラだった。

「ああ、ああ、すばらしいです! やりましたね、カエデ!!」
「ありがとう! ギャビーのおかげだよ」
 楓は、腕を広げたガブリエラとハグした。共に過ごした間にすっかり親しくなった心地よい気配が体に染み込むようで、楓は目を細める。

「おー、正直もっとかかるかと思ってたわ。すげーじゃん」
「ライアンさん、ありがとう。ほんとに」
「特に何もしてねえけど、どういたしまして」
 ライアンは、そう言って手を差し出した。その大きな手を、楓は初めてしっかりと握る。体温が高いと聞いていた通り、彼と初めてする握手はとても暖かかった。
「本当に、よくやったね楓ちゃん」
「バーナビー、心配かけてごめんね」
「なんてことないよ。本当に良かった……」
 優しい目をしたバーナビーは、楓を抱きしめた。楓も以前ならもっとどきどきしていただろうが、今はただほっこりとするだけだ。最近は、バーナビーみたいなお兄ちゃんがいたらいいなあ、と思うようになった。

「それにしても、驚きの結果でしたね」
 楓の肩に手を置きながら、バーナビーが言う。虎徹が頷いた。
「ああ。安定すると、能力自体に変化があるっていうのはちょいちょいあるんだってよ。特にこういう、限定された、条件? そういうのがつくとかなんとか」
「安全装置がしっかりつくようなもの、って言われたよ」
 相変わらず虎徹よりもしっかり専門家の話を理解している楓に、もはやバーナビーは突っ込みさえ入れずに「なるほど」と納得する。
「僕も、最初は1時間というクールタイムがあやふやでした。安定してくるときっちり1時間になったんですけど、それと同じでしょうか」
「あ、それそれ、それ言われた。俺もそうだったぜ」
 虎徹がこくこくと頷く。

 ──楓のコピー能力は、同じ相手に2度と使えない。

 能力の制御が可能になり安定したことによって、楓の能力には、そのような限定条件が生まれていたのである。
 以前、楓は偶然チョップマンの能力をコピーしたことがある。そのため先程の実験でもチョップマンの能力はコピーできず、限定条件が生まれていることが発覚したのだ。

「……ということは、私の能力ももうコピーできない?」

 ガブリエラが、首を傾げながら尋ねる。
「うん。さっきハグした時に感覚でわかった」
「そうなのですか。……安全ではありますが、少し寂しいですね」
 微笑んではいるが言葉通りどこか寂しそうなガブリエラに、楓も同じような表情をした。
 楓はもう、彼女とエネルギーを完全に分け合う特別な心地よさを感じることはできない。生まれ出た子供が、母の胎というゆりかごにもう戻らないように。

 それに、能力をコピーしてその能力の全容を理解する──解析するような感覚は非常にスピーディーになっている。楓が感じた新情報を調べるために、二部リーグヒーローたちは突然ながら研究棟のほうに引っ張られていった。
 つまり、能力自体は非常にスムーズに使いこなせている、というわけだ。これは楓自身が自分の能力を“コピー”というより“解析”だと理解して受け入れたということと、実際にガブリエラの能力を長い時間をかけて体験し、しかし実際には使うことが出来ないまま、能力の全容を自分の頭で考えて解析したことが礎になっているのは確実だった。
 だからいちどコピーした能力をもう発動できなくなるのは、拒絶ではなく卒業である、と楓は感じていた。ちゃんと理解したから、もう2度はしなくてもよい。そういう意味なのだろう、と。
 こうしてガブリエラに触れていても、楓はもう、彼女から感じる心地よい気配と完全に同化することはない。母離れをする子供のような気分は寂しかったが、しかし同時に誇らしくもあった。

「しかし、……これでカエデはタイガーのところに戻るのですね。うう、さみしい。とても寂しい……」

 ガブリエラは、目に見えてしょんぼりした。
 楓がガブリエラの部屋で過ごすにあたり、法的な書類も提出している。そしてその申請理由として“能力の制御訓練のため”とあるので、その目的が成された今、楓は本来の管理人で法定代理人である虎徹の元で暮らさねばならない。
 そして、元々がひどい寂しがりな上、これ以上ないほど色々なことを理解してくれた楓と離れるのが、ガブリエラは身を引き裂かれるようにつらいのだった。

「うん、私も寂しい……。昨日はそれであんまり寝られなかったし……」
「そうだったのですか。実は私も少し……」
「そっか。……ギャビーと暮らすの、本当に楽しかった」
「カエデ……! 行かないでください!」
「私も行きたくないよ……」
「ううっ! いつでも遊びに来てくださいね、カエデ!」
「もちろんだよ! お父さんが鬱陶しくなったらすぐ行くね!」
「お待ちしています!」
「俺、すごい自然にないがしろにされてる……」
 ひしっと抱き合いながら別れを惜しむ娘達に、虎徹はうらぶれた様子で言った。その落ちた肩を、バーナビーがポンと叩く。

「うううう、さみしい。つらい。子供を生みたい」

 楓と離れることで母性が暴走しているのか、半泣きで爆弾発言を呟くガブリエラに、ライアンがひそかに動揺して肩を揺らした。
 そしてその様を、ある者は気まずげに、ある者は生暖かく見守る。

「まあ、とにかく。よっし、他の奴らにも報告するわ!」

 立ち直った虎徹が満面の笑みで言い、通信端末を立ち上げる。
 予想するまでもなく、他のヒーローたちも、楓の快挙を手放しで喜んだ。お祝いをしよう、と早速ネイサンが場を仕切り始め、ささやかな食事会が催されることになった。
★メイプルキティの冒険★
23/24
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る