#107
★メイプルキティの冒険★
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「……と、こんな感じで説明したけど良かったかしら」
「助かったぜ姐さん」
ネイサンから楓にどういう説明をしたかの報告を受け、ライアンは肩の荷が下りてほっとした、というそのものの顔になった。
いくら賢いといえど、楓は子供である。無知で無垢、純粋な、預かりものの少女である。そんな彼女に、子供相手でなくても口にしづらい性癖について、納得させつつ嘘もつかずに説明する。そんな繊細で難しい案件のフォローをネイサンにしてもらった礼として、いま向かい合って食べているセンスのいいディナーはライアンの奢りである。
「意外だわね。あんたこういうこと上手く煙にまくの得意だと思ってたのに」
「どういう印象だよ。よその子供に“あれはドMの変態だからしょうがねえんだよ”ってどう上手く説明しろってんだ。ていうかあのピュアーな目であんな質問される時点でいたたまれなさすぎて俺のダメージがすげーわ」
苦々しさを隠しもせず言うライアンに、そういう事言うあんたも思いの外ピュアよね、とネイサンは思ったが、思うだけにしておいた。
「意外といえば、あのコの対応も意外だったわ。“私はドMのワンちゃんなので、自分を痛めつけるのがとても気持ちよく感じるのです!”とか言っちゃったのかと思ってヒヤヒヤしたけど」
「そこはそれ、あいつも最近羊の皮かぶるのが上手くなってきたからな」
おかげで最近のホワイトアンジェラの評価は聖女、天使と呼ばれるのとはまた別でもすっかり安定していて、“時々ぶっ飛んだことも言うがそれが楽しい、愛嬌たっぷりのおバカなワンちゃん”という感じの平和なものだ。
ライアンからすれば、引くほど生き汚い荒野生まれの野生の犬が、かわいこぶって羊の被り物をしただけにすぎない。しかし彼女の本質に触れる機会などない多くの人々は呑気にそれをかわいいかわいいと愛でているし、それが彼女の処世術でもあるし、そして確かに嘘というわけでもないのである。
本当は誰よりも生き汚く、特殊性癖の卑しい歓びを貪っているだけであるのに、やっていることがそう見えないせいで周囲からは涙まで流されて聖女や天使扱いされるという、彼女の嗜好をもって名付けるなら“偽りの聖者プレイ”とでも呼ぶべきか。
メトロ事故から輪をかけてその遊びにハマっている彼女は、これからもそれを楽しめるよう、ごく丁寧に羊の皮をかぶり続けている。
悪い人が少なくなるから人を助けるという理由も、本当ではあるのだ。嘘ではない、しかし肝心な所は口にしない。インタビューなどでも驚くほどそれを徹底するせいで、彼女がなぜああまで身を削って人を助け続けているのかという、もうひとつの本質に気付く者は誰もいない。
「判断に迷ったら俺に投げろとも言ってるけど、こんなことまで投げてきやがって。俺がお嬢ちゃんに問い詰められて参るのを楽しんでやがんだよ、あの犬」
「まあ、いたずらっ子だこと」
「今頃お嬢ちゃんに“どうでしたか”って根掘り葉掘り聞いてるぜ、賭けてもいい」
ライアンは、やけに具体的な予想を忌々しげに言った。
「馬鹿のくせに変なとこ小賢しんだよあいつは」
「おしおきしたらしたで喜ぶしね」
「それ!」
びしっと指をさして、ライアンはきっぱり言い切った。
「ほんっと、あいつが聖女だの天使だのお姫様だの、冗談でもねえわ。いつだって自分のしたいことしかしやしねえ。ありゃ羊の皮かぶった狼だ。犬だ、犬!」
ちなみに◯◯教において、犬は穢れた存在として表現される。
今でこそ飼い慣らされ人類の一番の親友とさえ言われるが、それ以前の犬は理性に乏しく、獣として人を避けるわけでもなく市街や野を見境なく彷徨い、捨てられたものを漁り屍肉まで食らう卑しい厄介者、という扱いだった。
聖書の中にも、犬に舌で舐められた人を「犬が舐めるほどに穢らわしい者」と位置づけたり、テーブルの上から落ちた食べ物を犬が漁れば、「犬が食べるほどのもの」と、どれほど飢えていても誰も食べないといった表現もある。
現代では誰もが表情を蕩かせる子犬ですら、道にいれば蹴り飛ばすのが当然というような扱いだ。それゆえに、誰かを犬と呼ぶ事は甚だしい侮辱を意味した。
こういう由来で、古い◯◯教が主軸のガブリエラの故郷でも、犬というのは少なくともいい意味ではなかった。プライドのない卑しい乞食、理性のないもの、お情けで生かされているもの、飼われるしかないが飼われてもさほど役に立たないもの、そういう意味で用いられている。
だからこそ、その生まれから実際に“犬の子”と呼ばれていたこともあるし、本人もそれを知っている。もちろん、その意味も含めて。
ライアンはそれを知らずにガブリエラを犬と呼んでいるのだが、もちろんガブリエラは知っていてその呼び名を甘受し、そして呼ばれる度にうっとりしている。そして犬をモチーフにしたヒーロースーツや、決め台詞のひとつが犬の鳴き声であることもおおいに気に入り、人々からおバカなかわいいワンちゃん扱いされることを悦んでもいた。
「ドMすぎてマジできもい」
「ちょっと、いくらなんでもそれはあんまりじゃないの」
「……こないだ、つい面と向かって言ったら喜んでた」
ひどいですライアン、と言いつつ頬を染めてもじもじしていたガブリエラを思い出し、ライアンはぼそりと言った。それを聞いて、ネイサンも真顔になる。
「……ホンモノだわねえ……」
「やべーよあいつ。ほんとやべえ」
「でもあんたがそうやって本性見抜いてこまめに叱ったりおしおきしたりしてるからか、最近はずいぶんイイコにしてるじゃなぁい?」
最近のガブリエラは医者に定められたカロリー残量をきちんと守り、ぎりぎりではあるものの痩せすぎずにいる。つまり、“偽りの聖者プレイ”は非常に控えめなものになり、本当にただ周りの人々を治して回る天使でしかなくなっている。
言わずもがな、飼い主が満足させているからだ。「俺様の完璧な身体を髪1本でも損なうんじゃねえ」とひとこと命じれば、それはごく簡単なことだった。
そうすれば、ガブリエラもライアンにしょっちゅう能力が使えて嬉しそうだし、ライアンの体調も万全すぎるほど万全になるし、いいことずくめだ。そのはずだ、とライアンは焼きたてのパンをちぎって口に入れた。
「調教が上手になってきたわね」
「調教って言うな」
「じゃあ躾」
「同じだよ!!」
「ふぅん」
「……何そのリアクション」
意味深な目で見てくるネイサンに、ワイングラスに口をつけたライアンは訝しげに返した。
「さっきから、“食べちゃいたいほどかわいい”って顔してるわぁ、と思って」
その発言に、ごふ、とライアンはワインを気管に流し込みかけて思い切りむせた。げほごほと盛大に咳き込む彼をネイサンは生暖かく眺めながら、メインディッシュのヒラメのポワレを上品に切り分けて口に運ぶ。
「……あー」
しばらく咳き込んだライアンは、何か手助けが必要かと気遣ってくれたウェイターに礼を言って遠ざけてから、ミネラルウォーターをひとくち飲んで口を湿らせる。
「……俺、そんな顔してた?」
「もうまさにね、──あらぁあああ!? 否定しないの!?」
ぼそりと発されたライアンの言葉に、ネイサンは目を思い切り見開いた。がっつりしたアイメイクの目が、顔の3分の1を占めたのではないかと思うほど大きくなる。
「認めたの!? やっと認めたワケ!?」
「あー、まー」
「認めるのね!?」
「……いいかげんもうあれかなって」
「本当にね!!」
高らかに言って、ネイサンは自分を落ち着かせるため、多めのワインを喉に流した。
「で、どういう気持ちの変化なわけ」
「気持ちの変化っつーか……わかったことがあって」
彼女の能力が持つ、副次的な効力。
周囲の人間観察が特技でもあるライアンである。薄々、感じてはいた。
それが能力をコピーするNEXTの少女によって証明され、シスリー医師によって理論的な解説がついてしっかりと証明された今回、ライアンが感じたのは驚きではなく、「やっぱりそうなのか」という納得だった。
──心の篭ったキスができていないならば、恋人同士ではありません
──私ばかりあなたを愛していても、心の篭ったキスは出来ないでしょう
あの時、ライアンは彼女にキスを拒まれた。
小さな子供でもわかる、というより、小さな子供のような、綺麗事と言うにも稚すぎるような正論に、彼女を抱いたらしいあの日、ライアンはぐうの音も出なかった。
なぜなら、わかっていたからだ。あの時確かに、ライアンは彼女を愛してはいなかった。“心がこもって”いなかった。むしろ、正真正銘苛つくばかりで、憎々しささえ感じていた。
なぜならそれは、彼女にどうしようもなく惹かれたからだ。
──心ではなく、本能で。
ガブリエラの力は、全ての生きとし生けるものにとって、非常に魅力的なものだ。
動物は本能でそれを理解し、故に、ガブリエラを害することはない。殺して食べてしまうより生かしておいたほうが有益なのだと理解しているから、と言ったのはガブリエラ本人であるが、まさにそうなのだろう。
そしてそれは、同じ人間同士でも当てはまる。本能的な魅力に抗う意味はない。ほとんどの人間が彼女に好意を抱き、その効力もあって、彼女は何とか五体満足でシュテルンビルトにたどり着き、慣れない都会暮らしにも適応できた。
真の意味でガブリエラを嫌う者など、いないだろう。ネットではホワイトアンジェラのアンチもいるが、それは彼女に接したことがまるでないというだけだ。直に彼女が目の前にいれば、憎んだり、嫌いになったりなど絶対にならない。
なぜなら、生きているからだ。生きてエネルギーを求める限り、生きとし生けるものは彼女を拒絶することはない。みな等しく、その存在を好意的に受け入れる。
それを知った時、ライアンは、自分が最初ガブリエラを避け続けた理由を理解した。
つまりあの頃ライアンは、動物のような本能に流されるのに抵抗があったのだ。
確かに彼女には、本能に訴えかける、強烈な引力がある。例えば目眩のするような、底の見えない穴、ブルーホール、星の入り口をつい誘われて覗きこんでしまうような。
しかし、光に誘われた蛾にでもなったようなその感覚を、プライドが天より高いライアンは直感で嫌った。理性的な思考を塗りつぶす、どうしようもなく本能に訴える魅力への抗い。
否応なく、本能的に惹き付けられるその感覚を厭い撥ね付けたからこそ、ライアンは彼女の本性に気付いた。──しかしそれは、ライアンにそれまで自覚がなかった、嗜虐的な飢えも目覚めさせる結果になった。
ライアンはあの夜ガブリエラを「ドMの変態女」と罵ったが、彼女がそうであることを見抜けたのは、自分がそれを嗅ぎつける能力があったから、つまり相対するタイプの同類にほかならないからだということを、ライアンももういい加減認めている。
あの頃、ガブリエラはライアンにとって「得体の知れない化物」であり、「非常にそそる獲物」でもあった。しかも、本人は無防備に好意を示しながら近寄ってくる。
当時自覚は全く無かったが、ライアンはそれに混乱し、それが苛々とした攻撃的な態度になり、彼女にぶつけられたのだ。そして酒の力が入ったせいで、あの夜彼女の本性を暴いたのち、ベッドに押し付ける行為に走った。
だが逆に彼女はそんなライアンに、強い興味を抱いた。能力の影響なのか元々なのか──つまり卵が先か鶏が先かは不明だが──、能力の影響に流される度合いが低く、自分に好意を抱きつつもだめなことはだめだと叱るような人物に一目置いて、好意を向ける癖のある彼女である。特に女王様系の人物を好むのは、純然たる彼女の趣味だと思うが。
そこのところ、理性を保って本能を跳ね除け、あろうことか彼女の本性を見破りまでしたことで、ガブリエラは完全にライアンに惚れ込んだのである。ライアンこそ彼女が夢見た王子様、あるいは求めてやまないご主人様、己の胸を貫く天使だった。
あの朝、状況に動揺しきって不安定な上、彼女の能力を初めてまともに受けたライアンは、ふらふらと誘われるようにキスをしようとした。
だが彼女は、わかっていた。それが単なる反射のようなものであることを知っていたからこそ、彼女はキスを拒んだのだ。
またライアンも、そうして拒まれたことで、彼女が得体の知れない力を持った筋金入りの変態女、真性のマゾヒストでありつつ、真の意味で優しく扱われることを求め、真面目に自分と恋愛したいと考えていることを理解した。
ならば酒の勢いでやらかしたことに対する誠意としても、妙な引力を無視する努力を続けた上で、彼女とちゃんと向き合うことを決めた。お前をちゃんと見るし、話も聞くし、お前のことを考えると宣言した。さながら、肉体関係を禁止した清純極まるおつきあいで将来を決める、大昔の貞淑な見合いのように。
そうして身近に付き合えば付き合うほど、ガブリエラが真性のマゾヒストである変態女だと確信するばかりだったが、同時に他のところも見えてきた。
有象無象の市民たち、動物、植物、生きとし生けるものに貪られることに歪んだ快感を見出し、なおかつその行動を聖女だ天使だと言われることを面白がるという下品極まりない遊びに興じまくる一方、ライアンにだけは対応が違う。
実感としてそれは感じていたが、今回楓から話を聞いて裏付けが取れたことで、ライアンはいよいよ確信をもった。
「……ねえ、ライアンさん。ギャビーの能力って、ほんとにすごいんだよ」
そんな言葉から始めて、楓はライアンに色々なことを教えてくれた。
あの能力を使う、つまり自分のエネルギーを他人に渡す時には生理的な強い嫌悪感が伴うこと。そのため、能力を概ね抑えることは初日にできたというのに、能力をガブリエラのように使うことは、いつまで経ってもできないこと。できそうにないこと。
ガブリエラが喜々としてそれを行うのは、昔はおそらく単に生きていくためで、今現在は“好きで”やっている。だが、でも、と楓は続けた。
「皆ギャビーの力を欲しがるし、ギャビーもそれに応えるけど、ギャビーが自分から全部あげようとしてるのは、ライアンさんだけなんだよ」
ライアンの姿が視界に入れば、ガブリエラはすぐにそちらに意識を向ける。そしてその度に、彼女のエネルギーが一斉に彼に向かって綻ぶ。花が開くようなそれはとても美しい姿なのだと、少し恥ずかしそうに、楓は言った。
そのことは、ライアンも知っている。
下劣な快感を貪る遊びばかりしているくせに、ライアンとは手を繋ぐことすらまだ駄目だと言い、半裸の上半身ごときに動揺する。
最初はその潔癖ぶりに、あのどうしようもない夜のせいで彼女にトラウマを植え付けたのではと密かに心配していたが、全くそうではないことも今回判明した。
ガブリエラはライアンの怪我を治したり、体調管理のために能力を使う度、まるでとんでもなく貴重な美術品にでも触れるようにしてくる。能力によって怪我が治り、ライアンの肌艶、髪艶が増すごとに、神が降臨したかのような顔をするのはわかっていた。
だがそれが、恋人同士のスキンシップに繋がるような触れ方を過度なほど我慢している分、世界で彼女しかわからない、ある意味究極にマニアックなやり方でのセクハラだったというのは、まったくもって予想外だった。
楓によってそれが判明した先日、ライアンはペットの謎の行動の生物学的原理がわかった時のような感動と、呆れと、興味深さと、思わず腹を抱えて笑いたくなるような面白さを感じ、おおいに慌てて恥ずかしがり、懸命にそれを隠そうとする彼女に、強いいとおしさを抱いた。
更に言えば、そんな彼女がもしいざ本当に恋人同士になった時、どんなアプローチを仕掛けてくるのだろうかと想像し、男として唾を飲み込み、にやけるのを堪えもした。ライアンはそれぞれの個性を愛する男だが、積極的な方が断然好みである。
常にやりたい放題で、羊の皮をかぶって立ち回る小賢しさもある彼女が、ライアンにだけは本当に真正面から全てを曝け出して愛を伝え、いつまでも待つと言った。
そんなことをするのは、ライアンにだけだ。
いつだって自分のしたいことしかしない下品な馬鹿犬が、自主的に一生懸命いい子であろうとし、時に半泣きになってよだれを堪えながらも、ぷるぷる震えて“待て”を実行している。そのいじらしさには、さすがにライアンもぐっときた。
彼女にとって、ライアンは間違いなくオンリーワンでナンバーワンなのだ。彼女にはそのことをライアンに信じさせるパワーがあり、そしてその様は間違いなく美しく、愛らしいものだった。
「結局、絆されちゃったってことかしら?」
「それもないわけじゃねえけど、それだけじゃねえさ。キョーレツなファンにいちいち絆されてるわけにもいかねえだろ」
「まあそうね」
ネイサンは、当然というふうに頷いた。
彼らに向けられる愛は、ある意味、宗教と似たようなところもある。ささやかな応援や生活に支障をきたさない程度の信仰から、我が身を滅ぼすまでの病的な執着まで色々と存在するあたりも同じだ。
そういうものを自らのあり方や振る舞いのみで上手くコントロールできないと、ヒーローとして、芸能人として、スターとしてはやっていけない。
そしてライアンは、ファンのコントロールが抜群に上手いことで有名でもある。
──恋をしたことは、ある。
初めてデートをした年上のスタジオミュージシャン、モデル、女優、ちょっと可愛いウェイトレス。頭の良さそうな大学生、才能溢れるアーティスト、やり手のビジネスウーマン。
結局別れてしまったが、ライアンは、ちゃんと彼女たちが好きだった。恋人としては別れても、お互いの才能や人柄への“好き”は変わっていないので、今でも友達や、ビジネスパートナーとして付き合いがある相手もいる。
ライアンは、個性のある人間が好きだ。才能があればもっといい。
これこそオンリーワン、他にない稀有な個性や才能だと思えば、ホームレスに声をかけたり、ぶっ飛びすぎて遠巻きにされている才人をかき集めて支援し、抱え込んで店を出させ、己の周りに囲い込む。ゴールデンライアンは、個性が溢れていればいるほどその者を好む男である。
そしてヒーローになるような人種はもれなく個性と才能にあふれており、だからこそヒーロー足りうる。だからライアンはヒーローという職業が好きで、己の天職だと思っているし、他のヒーローたちのことも好きだ。
だからガブリエラに惹かれるのも、当然といえば当然だった。何しろ、個性があるどころかエキセントリックと言っても足りないほどぶっ飛んでいる。思い出話をしろと言えば馬で崖を飛んで山羊の血を飲む話をするような女だ。ここまでオンリーワンと言わざるを得ないような女はいない。
ガブリエラという女に出会い、そして彼女の愛を受け止めて、ライアンは自問自答を繰り返してきた。彼女を見て、話を聞いて、彼女のことを考える度、ライアンはガブリエラという女に、真に興味を抱き始めたのだ。
頭のおかしい老馬を唯一の友達とし、荒野から、少年向けの冒険譚の中からやってきたような、野生の犬を思わせるぶっ飛んだ女。こんな女は、今までライアンが通り過ぎた女の中にはひとりもいなかった。
ガブリエラに惹かれ、好きだと思う気持ちは、いい加減ライアンも自覚し、認めている。しかし、そこで思ったのだ。今までの女達に抱いたものが恋ならば、──ならば、これは、なんだろうと。
「まあ、──なんつーか、そういうわけで、方向性は決まったんで」
「付き合う方向で?」
ネイサンは、ワイングラスを持って目を細めた。
「……多分」
「んま〜ア、自信満々俺様王子様にあるまじきセリフ。……応援してるわ」
「……どうも」
母親に初恋がばれた少年のように目を逸らし、最後の海老をやや乱暴に突き刺して口に放り込んだライアンを、ネイサンは慈愛溢れる微笑みでもって見守った。
《楓、調子はどうだ? なんか掴めた感じか?》
「う〜ん」
そわそわと尋ねる虎徹に、シチューを食べている楓は、顔を顰めて首をひねった。
《もしだめそうだったら、お父さんの所に戻ってきてもいいんだからな》
「ばかなこと言わないで」
すぐ甘やかそうとする虎徹に、楓はぴしゃりと言い返す。
《楓も自分のペースってもんがあるだろ。気持ちはわかるが、お前が焦ってどうする》
《だってよ、兄貴》
《早く安定してほしいのは私もだけどねえ。こうやって面倒見てくれる人がいるんだから、急かすのは良くないよ。ギャビーさん、ごめんなさいねえ。気の回らない息子で》
「いいえ、私は何も。アンジュさん、後ろの顔のようなものはなんですか?」
《これかい? これは達磨さんだよ》
「おお、それがダルマ!」
虎徹を諭すのは、彼の兄の鏑木村正。そしてガブリエラと話すのは、彼らの母であり楓の祖母の鏑木安寿である。
ネイサンとライアンがディナーをしている頃、ブロンズステージの虎徹、ゴールドステージのガブリエラとその部屋にいる楓、そしてオリエンタルタウンにいる村正と安寿とで、3箇所同時ビデオ通話をしつつの疑似夕食会が行われていた。
我慢はしているものの、毎日そわそわと様子を聞きたそうな虎徹を見かねて、ガブリエラが声をかけたのだ。するとちょうど家族も様子を見たい、ガブリエラに挨拶もしたいと言っているので、ということで予定が決まり、本日こうして疑似夕食会が開かれることになった。
ビデオ通話になったのは、楓はもう随分慣れたものの密室で他人と対面することにまだ緊張するし、触れることはやはりできないので、せっかく会えてもハグもできないようでは逆に寂しさが増すのではないか、という懸念があったことが理由だ。
場所もレストランだと余計に妙な緊張感が出るかもしれないし、虎徹の部屋は大勢で集まるのにあまり向いていない。かといって独身女性のひとり暮らしであるガブリエラの部屋に一家総出で押しかけるのもまずかろう、ということで悩んでいたところ、折衷案としてライアンが寄越したアイデアだった。彼も、たまに実家や仕事先に出張中の家族と似たようなことをするらしい。
やってみると、実際に同じテーブルを囲んでいるわけではないが、安寿の作った和食の家庭料理にガブリエラが興味を示したり、ガブリエラと楓が食べているホテルの高級レトルトに感心したり、楓の作ったシチューを虎徹が羨ましがったり、相変わらずチャーハンの虎徹が「たまには別のものを食べろ」と家族総出で怒られたりなどして、思いの外リラックスしたいい雰囲気を得ることができた。
《もう本当にお世話になって……ご迷惑ではない?》
「私はカエデと過ごせて、とても楽しいです!」
心配そうな安寿に、ガブリエラはにっこりした。
守秘義務があるため虎徹は一応ガブリエラがヒーローであることを明言せず、ただ仕事の関係の女性である、ということだけしか話していなかった。しかし画面越しに顔を合わせたガブリエラは「アンジュさん? 私の名前と似ていますね!」などとあっさり言い放ち、「腰の調子が良くないのですか。こちらにいらしたら私が治しますよ!」などと隠す気ゼロで、ふたりは当初目を白黒させた。
オリエンタルタウンのふたりが心配していたのは、楓だけでなくガブリエラのこともだ。成人して2年も経っていない若い娘に大変な状態の子供を預けて双方に何かあったら、というごく常識的、かつ良識に溢れた心配だったが、ホワイトアンジェラという今や世界的な名前は、どうにか彼らの安心に繋がったようだった。
とはいえ、素顔も隠さず非常に開け広げでにこにこしている彼女に安心する反面、話すとどこか抜けていて放っておけないようなところにまた別の心配も沸き起こったらしく、虎徹に「何かあったらお前がどうにかしろ」と何度も念を押すことになっていたが。
「カエデも楽しく過ごせていますか?」
「うん。能力のことは大変だけど、ギャビーと暮らすの、すっごく楽しいよ」
それは本当だったので、楓もにっこりして頷いた。
「ライアンさんや、他の皆も良くしてくれるし……」
《ああそうか、ゴールデンライアンにもかなり世話になっているんだったな。彼はイケるクチか?》
《すげー飲むぜ。……アンジェラほどじゃねえけどな》
村正の言葉に、後半はぼそりと呟くように虎徹が言う。
《じゃあ色々入ってる飲み比べセットにするか。虎徹の家に送っておく》
「楽しみにしています!」
《気に入ったのがあったら単品の追加注文も受け付けて──》
《世話になってる人に商売っ気を出すんじゃない!》
すかさず営業する村正の頭を安寿がはたき、あははは、とガブリエラが明るく笑った。
夕食が終わり、ビデオ通話を切って後片付けをしたあと。
順番に風呂に入ってから、楓は冬休みの課題をカウンターの上に広げた。
「カエデ、それは何ですか?」
「冬休みの、学校の宿題」
「しゅくだい」
これが、と、ガブリエラは見慣れない様子で、問題集の冊子を手に取り、まじまじと見つめた。
「おおすごい、全部終わっています。む? この用紙は何ですか?」
「それは宿題っていうか、卒業文集に載せるやつ。それだけまだ終わってなくて」
卒業文集という単語自体に首を傾げるガブリエラに、楓は説明をした。そんなものがあるのですね、とガブリエラは興味深そうにし、つまり卒業記念に生徒ひとりずつの作文を掲載した冊子、ということで納得した。
「つまり、文章を書くのですね。それは難しいことです。まだできていなくてもしかたがありませんね」
読み書きを大の苦手としているガブリエラは、おおいに共感を滲ませてどっしりと言った。
「テーマは、ええと、しょう、らい、の、ゆめ。将来の夢ですか」
「そう」
「カエデは、大人になったら何がしたいですか?」
「うーん……改めて聞かれると、よくわかんなくなってきちゃった」
楓はカウンターに肘をつき、困った顔をした。
「将来何がしたいってパッと言えないって、なんかつまんない感じでヤだなあ」
「そうですか?」
「そうだよ。ギャビーはヒーローになりたいって夢、叶えたでしょ。それってすっごくかっこいいことだもん」
「えへへ、ありがとうございます。……しかし、したいことが特にないというのは、今に不自由がないということでしょう。良いことなのでは?」
ガブリエラが何気なく言ったその言葉に、楓はきょとんとした。
「ずっと今のように暮らしていきたいと思うのも、いいと思います」
「……そっか。そういう考え方もあるね」
「今が楽しい。素敵なことです」
「そうだね。確かに今は楽しいけど、でも大変でもあるっていうか、そんな先のことまで考えられないっていうか……」
うーん、と、楓は首をひねった。
同級生の中には、はっきり言って田舎であるオリエンタルタウンを出て都会に行きたい、と希望している者も少なくはない。
楓はオリエンタルタウンでの暮らしに特に不満はないのだが、それは今考えれば虎徹がシュテルンビルトにいていつでも泊まりに行けて、フィギュアスケートの大会で年に数回シュテルンビルトの競技会場に行くという環境があったせいかもしれない、とは思った。多少遠いがいつでも行ける場所という認識のせいで、憧れる部分は他の子よりも少ないかもしれないと。
だが例によって具体的に考えると、例えば実際に近所に住んでいる、生まれも育ちもオリエンタルタウンの女性は、大学だけは外部の音楽大学に行きはしたものの、オリエンタルタウンで結婚して子供を生み、今は近所の子供たちのピアノの先生と主婦を兼業しながら暮らしている。
おっとりした感じのいい人なので楓も好きだが、彼女のようになりたいかというと、何だかぴんとこない感じがした。
そう思いつつ、楓はガブリエラのことを考える。
ガブリエラの部屋はシンプルで、そして余計なものが何もない。分解されたバイク、ピアスのコレクション。どれもこれも意味があり、尋ねれば、とても聞き応えのあるエピソードが返ってくる。
楓は、それを聞くのにいつも夢中になった。ライアンが言った通り、ガブリエラの話はとてもワイルドで、ショッキングで、そしてとても面白い。彼女の話を聞いているとき、楓は新天地に冒険に出ているような気持ちにさせられた。
ガブリエラは黙って立っていれば現実味がないほどに神秘的だが、その生い立ちは苛烈だ。話の途中で見せてもらった、切り落とされた馬の尻尾やたてがみ、長い旅で削れた蹄鉄、当時着ていたというぼろぼろの服は生々しく、楓はごくりと息を呑む。
彼女の耳にいつもついているピアスも、実は意味がある。
壁にかけられたピアスのケースはふたつあるが、片方はガブリエラが自分で買い集めたり作ったりしたもので、片方は人から──世話になったり、仲良くなった人から貰ったり、交換したりしたものである。
それは荒野の旅の途中、かつて数ヶ月身を置いて、彼女いわく色々なことを教わった村での風習だった。友情や信頼の証としてピアスを交換し、また遠く離れて会えない時にその人のピアスを着けて無事を祈ったり、また身に着けることでその人の尊敬している部分にあやかる、というような意味もある。
ガブリエラがいつもいちばん下のピアスホールに着けている金色の細長いフックタイプのピアスは、彼女が長らく世話になったシンディが故郷に戻る時に譲り受けたものだ。ヒーローとしての活動をずっと支えてくれたシンディを想い、ガブリエラは仕事のある日は必ずこのピアスを着ける。
そして楓を預かるようになってからその上に常に着けているのが、小さいパールのピアスと、オレンジがかった赤い石のピアス。そして片方だけあるのが、銀とターコイズのピアス。
パールのピアスはガブリエラが言葉遣いを覚えた番組の講師であり、先日個人的に付き合いもできたルーシー講師から贈られたもの。赤い石のピアスは、歌のレッスンを見てくれているキューブリック兄弟から。銀とターコイズのものは、この風習を教えてくれ、ガブリエラに様々なことを教えてくれた女性のものだという。
師匠として初めて人に何か教えるのだからと、ガブリエラは自分に色々なことを教えてくれた人々にあやかろうとしているのだった。
それを聞いた時、楓はケースに並ぶ様々なピアスを見て、彼女がいかにいろいろな人と出会い気持ちを交わしてきたのかということを思った。小さなアクセサリーのひとつひとつに、誰かとの思い出が詰まっている。
彼女が生きてきた旅の物語は明らかに濃厚だが、しかし当人はそれを全くあっけらかんと捉えていて、淡々と、ただ懐かしそうに語るだけだ。
ライアンの昔の映像を見てはしゃいだり、ミニカーやおもちゃのゲームで本気で遊んだりと驚くほど子供っぽい時もあれば、夜、海賊のラベルが貼られた重厚なボトルを、静かに傾けている時もある。
風呂上がりのガブリエラは、そのラム酒を今も取り出し、グラスに注いでいた。
「……そのお酒、すっごくいいにおいするよね」
ガブリエラがシュテルンビルトに来て初めて飲んだというその酒は、本当にいい香りがする。村正の扱う日本酒や焼酎ともまた違う、洋菓子のような甘い香りだ。
「そうでしょう。私のお気に入りです」
「ちょっとだけ舐めさせて」
「ええ? うーん、ちょっとだけですよ」
保護者連中に知られたら確実に叱られるが、飲み過ぎたら能力で分解してやればいい、くらいの気軽さで、ガブリエラは楓にグラスを渡した。
そうしてその酒をほんの少し舐めさせてもらったが、楓はすぐに後悔する。とても苦くて、熱いわけでもないのに舌を火傷するかと思った。
「うえー、おいしくなーい」
「大人になれば、味がわかりますよ」
「またそれ?」
楓は、面白くなさそうに頬を膨らませた。
「大人って変なの」
「ふふふ」
灰色の目を細めて笑うガブリエラは、妙に色っぽい。
非常に細身だが女性にしては背が高く、現実味のない真っ赤な髪と灰色の目、白い肌という神秘的な容姿。本格的なライダースーツを着込んで大きなバイクを颯爽と乗りこなし、ハードな“ボール遊び”に興じるエキセントリックな姿。
行動は大胆で突拍子がなく、独特のユーモアや考え方の持ち主。サポート特化ヒーローという仕事に相当のやり甲斐を感じていて、それに恥じない実績と責任感もある。
とても人懐っこく、自他ともに認める愛嬌たっぷりのおバカちゃんでありつつ、ちゃっかり選り好みをし、自分の頭の悪さを利用する賢しさもある。
そんな風に冒険譚に出てくる自由な少年のようでいて、命懸けでひとりの男を愛する女でもある。聖女や天使のようだと皆に讃えられていながら、愛する男に犬(Doggy)と呼ばれて心の底から喜んだりもする。
彼女を理解すればするほど新しい世界が開けるようで、しかし同時に、理解できないところもたくさん出て来る。
だが、それは決して不快なことではない。知れば知るほど、楓は彼女を好きになった。夢中で走り回るガブリエラについていくと必ず、面白いことや楽しいこと、時に予想だにしないことが待っている。
12歳の楓にとって、ガブリエラは、想像もつかない遠い場所からやってきた未知の人。新しい世界に連れて行ってくれる存在そのものだった。
「……ギャビーは、何かある? 将来の夢とか」
「私ですか。子供を産んで育てることはしたいですね」
想像以上にきっぱりと具体的な答えが返ってきたので、楓は少し面食らった。
将来の夢はお嫁さん、となどと言うとよく聞く上に乙女チックであるが、ガブリエラの言い方は相変わらず妙に生々しくて現実的だ。「収入もじゅうぶんになりましたし、仕事のタイミングを見て」などと続けるところも。
だが面食らいながらも、楓はガブリエラの考えていることが理解できた。
「……そっか。自分の子供だったら、さみしい感じ、しなさそうだもんね」
楓のその言葉に、ガブリエラは大きく目を見開いた。
灰色の目が、零れ落ちそうにまん丸になる。
★メイプルキティの冒険★
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