#106
★メイプルキティの冒険★
21/24
その質問をされたガブリエラは、目を見開いた。
数秒、無言になる。カラフルなネオンの光が灰色の目を照らし、きらきらと瞬く星のように輝きをこぼすが、真っ赤なロングヘアが潮風に舞い上がり、その顔が陰った。
だが楓は、見た。薄いが赤い唇が、きゅうと両端を吊り上げたのを。
「──ふふ」
開けた屋上、しかも強風の中だというのに、僅かな笑い声は不思議とはっきりと聞こえた。首筋をくすぐるような震えを含んだその声に、楓はぞくりとする。
「ふ、ふふふ。ふふ、ふふふふふふふふふ、ふふふ」
ガブリエラは俯き、肩を震わせて笑っている。
「ふふふふふふ、ふふ、ふふふ、それは初めての、……初めての質問です、ふふふ」
よくされる質問ですね、と前に言ったガブリエラの様子は、楓が今まで見たことのないものだった。
ガブリエラのことを考える時浮かぶのは、人に構ってもらって嬉しそうにしたり、雪を楽しみにしてはしゃいだり、美味しそうにドーナツを食べたり、子供か犬のようにボールを追いかけたり、耳あてやマフラーが温かいとにこにこする姿。いつも楽しそうで、幸せそうな彼女。
しかし今の彼女は、そのどれとも違う。どう違うのかはわからない。しかし楓には、初めて彼女が聖女や天使に見えないと思った。
「本当に、楓は賢い」
真っ赤な長い髪の隙間から、細まった灰色の目が楓を見た。
虹彩の色が薄いせいで、瞳孔がやけに目立つ目に見つめられると、真っ暗な穴を覗き込んだような心地になる。よろけそうになる足を、楓は何とか踏ん張った。──せっかく迷路を抜けて新しい道に踏み出せた1歩を、ここで踏み外してなるものかと。
「今まではね、ギャビーが……聖女様や、天使様みたいな人だからだって思ってたの」
好きだという感情を、楓はそのまま彼女の動機として受け入れていた。なぜなら楓の周りにある好意や愛に、いつも理由などなかったからだ。
虎徹や安寿、村正、そして母・友恵から受ける愛は、まさに無償の愛と呼べるものだ。生まれた時からたっぷりとそれを与えられて育ってきた楓は、好意とは、愛とはそういうものだと当たり前に思っていた。親切に打算などなく、愛に理由などなく、だからこそ尊いのだと。
だからガブリエラが人に、動物に、植物に抱いているというものもそういったものだと疑問も持たずに飲み込んでいた。強いて言えば、彼女が聖女や天使のようであるからこそ、彼女はあのような運命にあっても皆を好きでいるのだと。
「でも……違うの?」
だが楓は、知ってしまった。
キッズフィルターを外したゆりかごの外の世界には、打算による親切があり、理由あっての愛もまた存在するということを。
楓はまだまだ子供で、何かあった時に責任を取れるような身分ではない。大人に責任をとってもらえる甘えを許されて、楓はいまここにいる。しかし、自分はもはや無知な善意の第三者の立場にもいないという自覚があった。
転んだら死ぬのだ。死ねば終わりで、色々な人に甚大な迷惑もかかる。だから、絶対に死なないように立たねばならない。それが子供の楓にできる責任のとり方だ。
強くそう自覚しながら、楓は強い風が吹くビルの屋上、真っ暗で広大な海を前に、何の支えも持たずに自分の足で立つ。
「ふふふ」
ガブリエラは、笑っている。
「そう、……そうですとも。なぜなら私のこの力は、悪い子でなければ使えないもの」
──この能力を制御するコツは、悪い子になることです
そうだ、彼女は最初からそう言っていた、と楓は思い返した。
いつだって、彼女は何も偽ってはいない。嘘をつかない。だから無垢だ、ピュアだと思われる。だが実際のガブリエラはグロテスクなほどの現実主義で、即物的な考え方の持ち主だ。
彼女は、ただあえて言わないだけだ。自分の頭が悪いこと、そのとおりだと誰にも認識されていること。その上で、彼女はあえて口を閉じている。
ガブリエラの頭が悪くて馬鹿なのも、語彙が少ないのも、紛れもない事実である。だが彼女は頭が悪くて馬鹿ではあっても、──無知ではないのだ。
むしろ彼女は、色々なことを知っている。自分の能力がもたらす副次的効力、人々が持つ無意識の打算、その性質。それを知ってなお黙って行動し続ける彼女は、決して罪を背負わぬ善意の第三者ではない。
──困っている、求めるものに手を差し伸べる。だめです。見捨てます。自分の命を大事にします。私が力を使えば生きられるものがたくさんいても、全部無視します。母の言いつけにも、神様の教えにも、全部逆らうのです。とても悪い子になるのです。ラグエルのように
ラグエル。とんでもなく頭のおかしい、彼女のいちばんの友達。その名前は、堕天使とも呼ばれる天使の名前だ。
──自分のしたいようにするのです。ただ、自分が生き延びることを考えて
92人の乗客を、多くの人を助けた事実から、周りが勝手に彼女を天使だと呼ぶ。無垢で純粋、無知のもとに成り立つ善意の権化、理想論のような綺麗事を奇跡として起こす聖女だと思いこむ。本当は、愚直で迷える羊である自分たちこそ無知な善意の第三者であることを知らないまま。
そして彼女は、それをこうしてずっと面白がっているのだ。そのあり方は、確かにライアンの言う通り小賢しく、もっとはっきり言えば“悪質”だった。悪趣味ともいえる。
「それで、どうしてなの」
「ふふふふ。カエデは、どうしてだと思いますか?」
いつも自分を子供扱いせず、対等に、どころか自分が下であるように接してくるガブリエラであるのに、今の彼女は手が届かないほど妖しげに大人びていた。
楓はそんな彼女に驚くのと、むっとするのと、突き放されたような悔しさや寂しさ、そういったものをすべてひっくるめてどきんとした。
細まった灰色の目の真っ暗な穴のような瞳孔は、閉じられた部屋の鍵穴にも似ている。中でどんな背徳が行われているのかわからない、鍵のかかった秘密の部屋。
「……わからないから聞いてるんだけど」
「わからない?」
カブリエラは混た目を細め、そして、にまぁ、と笑みを浮かべた。だらしないとさえいえるような、堪えきれないという感じのその笑みを見るのは、2度目だ。
「わからない、わからないのですね。それなのに、……ああああ、カエデは本当にかわいいですねえ! かわいい! カエデは本当に賢くて、かわいい!! とてもかわいい!! とても!!」
「ちょ、ちょっとやめてよ!!」
わしわしわし、とまた頭を無茶苦茶に撫でてくるガブリエラに、楓は頬を膨らませて講義する。しかしガブリエラは既にあの得体の知れない笑みは浮かべておらず、──まるで生まれたての子猫でも見るような、本当にかわいくてたまらないというような目で楓を見ていた。
虎徹もよくするその目に、楓は慣れているだけに反射的にむっとする。
「ふふふ。それはですね」
「それは?」
「──ひみつです」
「はあ!?」
もったいぶって言ったガブリエラに、楓はいかにも納得できない、という声を出した。虎徹がスケートの発表会に来れないと連絡を入れてきた時と、全く同じ声である。
「なんで! なんでも教えてくれるって言ったのに!!」
「うーん、そう言われましてもですね」
「ギャビーは私の師匠でしょ! 教えてよ!!」
「カエデ、赤ん坊はどうやって作るか知っていますか?」
「ばっ、馬鹿にしないで!」
楓は顔を真っ赤にしたが、ガブリエラはピチュピチュと小鳥のような口笛を吹いて、くるりと踵を返した。
「さあ、そろそろ帰りましょうか。もう遅いですので」
「やだ! まだ答えてもらってない!」
「カエデ、いい子ですので」
「いい子じゃない!」
「いい子ですよ、カエデはいい子。とてもいい子。おおよしよし、おおよしよし」
「ごまかさないで! ──面白がってるでしょ!?」
「ああかわいい。胸がきゅんきゅんします」
癇癪を起こした子猫のように吠える楓を、ガブリエラはただひたすらかわいいと愛でるようにしてあしらい、屋上を降りていった。
部屋に戻ってきても、完全にぶすくれた楓はガブリエラを極力無視した。
しかしツンと顔を逸らしてもガブリエラはへらへらしているだけで、しまいには「かわいいです〜」と鼻にかかった蕩けた声で言うだけだ。楓は、初めてガブリエラにイライラした。
「カエデ、まだかんしゃくを起こしているのですか」
「私はかんしゃくなんか起こしたことないもん」
覗き込んでくるガブリエラに、頬を膨らませた楓は、ぷいと顔を逸らした。
「ご機嫌ななめなあなたもキュートなのですが、そろそろ機嫌を直しませんかカエデ。そうだ、アイスクリームを食べますか?」
「お父さんみたいなご機嫌取りしないで!」
「おぅ、それは失礼しました。お風呂でアイスを食べるととてもおいしいのですが」
「……ストロベリーがいい」
むすっとした口調で言うと、ガブリエラは満面の笑みを浮かべて「20分ぐらいしたら持っていきます」と言った。虎徹と違って、ガブリエラは年頃の女の子の心のくすぐり方をなんとなくわかっている。
20分の間に楓が頭と体を洗い、最新型の大きめのバスタブにゆったり浸かっていると、ちゃんとノックをしてからガブリエラが入ってきた。手には、スプーンが刺さったストロベリーアイスのカップ。
あたたかい湯船に浸かりながら、キンと冷えたいちごの果肉入りのクリーミーなアイスクリームを頬張る。火照った舌に、冷たい甘さがすうっと溶けた。
家では行儀が悪いと安寿に叱られるだろうし、かといって銭湯などではもっと出来ない。こんな時でないと出来ない、特別で、小さくも贅沢な悪事に、楓はきゅっと目をつむった。
「うううう、お行儀悪い。おいしい。最高」
「そうでしょうそうでしょう。ライアンに教えて頂いたのです」
「……ライアンさんって、こういうことよくやるよね」
例えば、お菓子を車のトランクいっぱい大人買いして配りまくりながら食べる。
ストリートミュージシャンや大道芸人の帽子に、平然と高額紙幣の束を突っ込む。
他の客に見守られながら、クレープのトッピングの限界に挑戦して完食する。
荷物を届けに来た宅配便のスタッフに、逆に小さい贈り物をする。
勝手で適当な記念日を作って突然祝う。
そういうことをライアンは常に好むし、実際にやる。ガブリエラもまた、「それは素敵です!」と目を煌めかせて一緒になってやり、時には彼の想像以上のこともしてのける。
そんな大人にしか出来ない子供の夢のようなアイデアを実行する彼らと一緒にいるのは、少女の楓にとってとても刺激的なことだった。とても心惹かれ、まるで童話の中に迷い込んだような気分になる。
根っから優等生な楓は、例えば酒や煙草に手を出すとか公共のルールを破るとか、そういう事は大嫌いだ。しかしヒーローの彼らは、楓の嫌いな下品な不良のような振る舞いは絶対にしない。そのやり方はいつも粋で、時に周りの人々も巻き込んで笑顔にする。
子供向けの冒険譚の少年たちのように連れ立って色々なことをやる彼らを、ヒーローズたちも大人組は微笑ましげに、あるいは懐かしそうに眺め、そして年少組は楓のようにわくわくした顔をして、誘われればついていく。
「ライアンはとても頭がいい人なので、なんでも知っているのです」
「さっきの答えも?」
アイスクリームのスプーンをくわえたまま、バスタブの中からじっとりと見てくる楓に、ガブリエラは目を細めて微笑んだ。
「そう。あの答えを最初から言い当ててきたのは、彼だけです」
「……さすがライアンさんっていうか、ほんとギャビーのことよくわかってるよね」
「ふふふ」
笑ったガブリエラは、本当に嬉しそうだった。彼の怪我を治した時のそれと同じ笑みに、楓はあたたかい湯船のせいだけでなく、きまり悪そうに頬を赤らめる。
「ライアンさんはね、ギャビーは聖女でも天使でもなくって、犬だって言ってた」
「犬? ……いぬ、ですか」
「そう、犬。それってどういう意味?」
「──ふふ。ふふふふふ、ふふ。犬、そう、そうですね。とのとおりです。ふふふふ」
途端、ガブリエラがまたあの面白くてたまらないというような笑い方をしたので、楓は眉を顰め、面白くなくてたまらない、という顔をした。教えてもらえないのだということがわかったからだ。
「それで、どういう意味なの」
「ひみつです」
そして案の定、ガブリエラは笑顔でそう言った。
「ふん。けち!」
「カエデも、大人になればわかりますよ。多分」
「多分なの?」
「うーん。人によるかもしれません」
もったいぶった謎掛けのようなことを言うガブリエラに、楓はアイスクリームを多めにすくって、口の中に放り込んだ。
「しかし、そうですね。ライアンに聞いてみて、彼が答えるのならいいですよ」
「ほんと?」
「いつかはあなたも大人になる。その機会が今なのかもしれませんので」
その言葉に、楓は何も言えなかった。
子供扱いされるのに不満を感じつつ、いままさにそれを利用してここにいる自覚がある、そして子供であるということがいかに皆に甘やかされている状況なのか知っている楓は、いざ今から大人になれと言われると、どうしても少し怯んでしまう。
ガブリエラは、おそらくそれを知っている。癇癪を起こして生意気に跳ね回っていたくせに、いざ脅かすとふわふわの毛を逆立てて怯える子猫を愛おしげに、面白そうに見るように、ガブリエラは楓を見た。
「しかし私はおバカちゃんです。繊細な問題は、ライアンに任せることにします」
「ギャビーは私の師匠でしょ。丸投げするの」
「そうですが、私は田舎から出てきた不良のようなので」
「なにそれ」
アイスクリームを食べ終わりそうな楓が尋ねると、ガブリエラは少し不満げに口を尖らせて、「ライアンがよく言うのです」と答えた。
「確かに、品がない自覚はあります。しかしパオリンやカリーナはとても上品で、お姫様のようです。カエデもそう」
「そうかなー……」
「そうですとも」
ガブリエラは、この上ない確信をもって頷いた。
「私はあなたたちをとてもかわいいと思っていますし、とても好きです」
ガブリエラは、ある意味彼女一流の、教科書の例文のようなごくストレートな言い方をした。思わず黙った楓がかなわないなあと思うのは、ガブリエラのこういうところである。
本人は語彙が少なく頭が悪いせいで素敵な言い回しが出来ないだけだと言うが、直接的で何も隠さない好意はやはり胸に響くし、そして素直に受け取れる。──受け取らざるをえない。こういうところも、虎徹に少し似ているところがある、と楓は思った。
オリエンタルタウンの田舎育ちの楓は、リリアーナにも言ったとおり自分はお姫様という柄ではないと思っているのだが、ガブリエラは本気で彼女たちをお姫様のようだと思っていた。
荒野の果ての掃き溜めの底のような街で生まれ育ち、本物のアウトローたちとすれ違いながらやってきたガブリエラにとって、基本的にシュテルンビルトの人々はいわゆる“都会の人”、特にゴールドステージの人々は“上流階級の人”である。
そんな背景もあり、衣食住がじゅうぶんな家庭で愛情に溢れた良識的な両親や家族に育てられた彼女たちは、ガブリエラにとって非常に育ちの良い、上品で可愛らしいお嬢さん、お姫様にしか見えない。
また裕福な家庭の大家族に愛されて育ち、特有の鷹揚さを持っているライアンも、ガブリエラにとってはまさに王子様だった。
だからこそ、ガブリエラは今回のことを当たり前にライアンに投げた。きれいで上品なお姫様にものを教えるのは、本来同じような人のほうが良い、彼ならきっといいようにしてくれる、と思っているからこそ。
そしてそれは、卑屈なわけでも、自分を卑下しているわけでもない。ただただガブリエラは彼女たちが好きで、彼女たちがきらきらと輝いているのを見るのが好きだった。その輝きを、少しでも損なってほしくないと強く思っている。
また、そんな人種の最たるもの、と思っているライアンが誰よりも自分のことを理解してくれているというのが、ガブリエラにはこの上なく嬉しいのだった。
「ですので本当なら、悪いことや汚いことは、なるべく知ってほしくないのです。笑っていてほしいし、いい子でいてほしい」
「……それって、大人の勝手な言い分だよね」
「おっしゃるとおりです。それに、大人になったら私のことを嫌いになるかもしれませんので」
「え?」
妙に穏やかに言われたその言葉に、楓は虚を突かれた。
「ああ、嫌いになるというのはないでしょうか。能力のことがあるので」
「……どういう意味」
楓をかわいくてたまらないという目で見るくせに、グロテスクなほど現実的な冷え冷えとした言葉を発したガブリエラを、楓はおそるおそる見上げる。
「カエデはきれいで、可愛くて、とてもいい子です。ですので私のことをもっとよく知ったら、もう会いたくないとか、いらないとか、そう思うかも」
小さな頃は泥だらけになって遊んでいても、大人になったら汚いと一蹴するように。大親友だったぬいぐるみを、物置に置き去りにするように。
「思わないよ、そんなの!」
「そう? そうでしょうか。それならうれしいです。さみしい気もしますが」
「思わないって言ってるのに、何がさみしいの」
「カエデがあんまりかわいいので、いつまでも子供のままでいてほしいと思うだけです。しかし、いいのですよ。私を嫌いになってもいい。それはカエデの自由です」
そう言って微笑むガブリエラは、確かに大人にしか見えなかった。
「カエデの思うままに。大丈夫。カエデが私を嫌いになっても、私はカエデが大好きです」
「なんでそんなこと言うの」
少し泣きそうな顔で楓が言うと、ガブリエラは目を細めた。
「私はカエデの師匠ですので。カエデが成長できるように、いい大人になれるようにするのが私の役目です。私が、誰かに……いろいろな人にそうしていただいたように」
ガブリエラは、耳のピアスを少しいじりながら言う。
「ですのでそのためなのであれば、私を嫌いになってもいいのです」
「なんでそんなこと言うの……」
もういちど言った楓の手から、ガブリエラは空になったアイスクリームのカップをそっと取り上げた。ガブリエラが少し楽しそうなのが、楓にとってはやはりわけがわからない。
「大人になればわかりますよ。きっと」
「あ〜、なるほどなあ……」
翌日、怒ったような泣きそうなような顔の楓が語った内容に、ライアンはそんな声を出した。
ちなみに、楓とガブリエラが一緒に暮らして分かったすべてのことは、能力のことも含めて、ライアンにも報告が行っている。
なぜなら彼はヒーロー・ホワイトアンジェラのパートナーであり、SSレベルであるガブリエラの管理人であるからだ。
通常、SSレベル能力者の管理人には、Sレベル能力者でなおかつ各種免許などの資格があれば、親権者や配偶者などがなるのが普通で、理想でもある。現在、楓の管理人が親権者である虎徹であるように。
候補者がいない場合は司法局が人材を派遣して監視員となるが、ガブリエラの場合は、アスクレピオスから雇用される際の各種契約書の中に、ゴールデンライアンを管理人とする旨を了承する項目も含まれていた。またライアンのほうにも、ホワイトアンジェラの管理人を請け負う契約がある。
この正式かつ法的な契約があることで、ゴールデンライアンはホワイトアンジェラの護衛として成り立ち、またホワイトアンジェラはヒーローとして活躍することが出来ている。
その契約に含まれる義務として、管理人には、特にNEXT能力についてすべてを把握しておくこと、という項目があるのだ。
そのためライアンの手元には、ガブリエラの能力についてのすべてのレポートが当たり前に届けられている。かつて彼が彼女の詳細な足のサイズを調べられたのも、この管理人権限があるからだ。
といっても、さすがに能力のこと以外の個人的なプライベート情報は、常識、エチケットとして覗き見したことはない。ガブリエラは気にしないかもしれないが、ライアンのほうがなんとなく、そういう知り方をしたくなかった。
しかし、シスリー医師から受け取ったレポートに目を通しながら楓の話も聞くライアンは、細々としたことに軽い驚きを示すことはあっても、大まかには落ち着いていた。というよりも、何かを確認しているような、やっぱりそうなのかと納得しているような様子だった。
その様を見て、楓はやはり彼がガブリエラについて何もかもをわかっているのだということを確信する。同じ能力をコピーして、寝食を共にし四六時中一緒にいる楓よりも、彼はガブリエラを理解している。
それはやはり、彼が大人で楓が子供だからなのだろうか。それとも別の理由があるからだろうか、と楓は彼が何か言うのを待った。
「うーん」
「ギャビーは、ライアンさんに聞けって。ライアンさんが言うなら知ってもいいって」
「あいつ……」
ライアンの苦々しい顔には、面倒を俺に丸投げしやがったな、という文句がありありと浮き上がっていた。
「それで、犬ってどういう意味なの?」
「あー」
ここでライアンがいたたまれないような顔をするのがわからない、と楓は怪訝な表情をする。
「──いや、やっぱアレだって。やめとけやめとけ。知らないほうがいいこともある」
「なんで?」
「そういうもんだよ」
「わかんない」
「わかんなくていいよ。大人になれば嫌でもわかる──かな。多分、多分な。最近はこういうのもそこそこノーマルっていうか、そこまで特殊なアレじゃない。多分」
ああなんで俺がこんなこと言わなくちゃなんねえんだあいつちくしょう覚えてろよ、とライアンは小声でぶつくさ言った。楓は頬を膨らませる。
「大人になればとか、多分とか、そんなことばっかり」
「しょうがねえじゃん、そういうもんなんだから」
「わかんない!」
「ご期待に添えなくてすいませんねえ」
頬を膨らませる楓を、ライアンは逆毛を立てる子猫をあしらうように軽く扱う。ガブリエラと全く同じそのやり方に、楓はむぅと小さく唸った。
「そうだなあ。姐さんなら、うまく教えてくれるんじゃねえの」
「ネイサン?」
「その道のプロだから」
「……ライアンさん、そういうの、責任逃れとか、たらい回しっていうんだよ」
「知ってるよ。大人の特権だってこともな」
しゃあしゃあと言ってのけたライアンに、楓はべっと舌を出した。そして小さな肩を怒らせて去っていく少女に、何とか難を逃れたライアンはほっと胸を撫で下ろした。
ジャスティスタワーのトレーニングルームで、楓はネイサンをつかまえることができた。
ネイサンもまた、ガブリエラが心から気を許し、信頼している人間のひとりである。ライアンも別格だが、ネイサンもまた違うところで別格だということを、楓は感覚で察している。だからこそ、こうして何とかひとりで声をかけることもできた。
人の相談事を聞くことが好きで、また楓を応援してくれている彼女は快く時間を提供することに同意してくれ、ふたりは少し間を開けて壁際のベンチに座った。
ガブリエラが心から信頼している相手とはいえ、法的な制限のある約束事があり、楓は彼女の能力の詳細までネイサンに話すことが出来ず、ぼんやりした説明にはなる。
だが聞き上手なネイサンは、具体的なことがわからずとも上手く全体像を掴み、楓が聞きたいことを間違いなく把握した。
「ほほほほほ! あらまあ察しちゃったのねえ子猫ちゃんたら! ほほほほほ!!」
話を聞いたネイサンは、自分の膝を叩きながら大笑いした。
「天使ちゃんは確信犯だろうけど、王子様の対応が笑えるわ。女のコ相手だからかしら。将来娘ができたらどんな反応するのかしらねもう、あー面白い」
「面白いことなの?」
「アタシ的には超面白いわ」
完璧にネイルアートを施した手をひらひらさせながら笑い続けるネイサンに、楓は首を傾げる。
「それで、どういうことなの?」
「そうねえ。つまりは、ハートのお話なのよ子猫ちゃん」
ネイサンは笑うのをやめ、そのかわりにっこりと大きな笑みを浮かべて、黒い両手を自分の心臓の上に重ねて置いた。
「好きという感情に限らず、ひとつの感情にもいろいろな種類があるわ。それは人によってひとつひとつ違うし、とっても複雑で、大きさや温度を測れたりするものでもない」
「……人それぞれってことだね」
「そう、そのとおりよ。人それぞれ。でもやっぱり私たちは同じ人間だから、ある程度はパターン化できるところもあるわ」
重要なことを話す前のもったいぶった言い方で、ネイサンは間をあけた。
「まずある種のパターンとしてね、何かを好きになる時、“食べちゃいたいほどかわいい”という感じの好意のパターンがあるの」
「……うん。ライオンが獲物を食べる時の気持ちだよね」
「なにそれ」
「最近ちょうど聞いたの」
楓は、本当につい最近シスリー医師に聞いたトリビア的な心理学の知識を披露した。するとネイサンは興味深いことを聞いた、という感じで、またうんうんと大きく頷く。
「まァ、そういう話があるのね。でもまさに、究極的にはそのとおりよ。かわいすぎて、好きすぎて、もういっそ食べてしまいたいという気持ち。ロマンティックよね」
「そうかなあ……」
「うふふ」
納得いかない顔をしている楓を、ネイサンは微笑ましげに見る。
「じゃあ子猫ちゃん、“食べちゃいたいほどかわいい”の逆はなんだと思う?」
「……逆? ええっと……」
「これは私の答えだけど。──“食べられちゃいたいほどいとしい”、っていう感じだと思うのよね」
うふん、と身をくねらせて、ネイサンは言った。
「天使ちゃんはねえ、極端にこのタイプなのよ。好きな人に貢ぎまくる癖があるのも、多分このせいだわ。その最たるものが王子様よね。彼がリッチだからお金に関してはないけど、代わりに彼、天使ちゃんのお陰でいつもお肌ピッカピカでしょ。うらやましいったら」
「……ああー……」
「納得したかしら?」
「少し」
楓は、こくりと頷いた。
ライアンの怪我を治していた時のガブリエラと思い出すと、確かにそれはまさに当てはまっていると思う。相変わらず理解はしがたいが、納得はできた。
「うん。ライアンさんに関しては、わかるよ。ギャビーはものすごく……本当にものすごく、むしろちょっとわけわかんないぐらいライアンさんが好きだから。うまくいえないけど……」
「……いえ、的確な表現だと思うわよ?」
ネイサンはたっぷりしたまつ毛を少し伏せ、肩を竦めて苦笑した。「確かにちょっと常軌を逸してるところがあるもの」という呟きとともに。
「それにね。例えば家族が好きだと思う気持ち、友達を好きだと思う気持ち、恋人を好きだと思う気持ち。他にも色々あると思うけど、どれも違う“好き”よね」
丁寧に話してくれるネイサンに、楓はうんと素直に頷いた。
「同じように、人に親切にする時の気持ちも、少しだけ違うの。通りすがりに偶然見かけた困っている人を思わず助ける時と、大事な家族や恋人が困っている時に助ける気持ちには、普通違いがあるものよ」
「うーん……わからなくもない」
知らない人にもできるだけ親切にしたいとは思うが、そこまでの困りごとでなければ自分の都合でスルーしてしまうこともあるだろうし、あまりにも大きな困りごとは面倒を見きれないと思うのは、誰が責められるべきことでもない。
そして大事な人が困っていれば、自分が大きな苦労をしてもどうにか助けたいと思うのもまた自然なことだ、と楓は納得して頷く。
「でも、親兄弟も恋人もいない、もしくはどうしても間に合わない人もいるわ。そういう人を助けるのが私たちヒーローよ」
「うん」
「だから天使ちゃんがやってることこそ“本当のヒーロー”って言われたりする。天使とか、聖女とかともね。私もそれは事実だと思うけど……」
「でも、違うって言うの。ギャビーが」
「そうねえ。天使ちゃん本人は、多分そういうつもりでやってるんじゃないのよ」
「じゃあどういうつもりなの」
「そこで最初に言ったことよ。つまりこれはハートのお話で、好きという感情の種類のお話なの」
うんうん、とネイサンは頷いた。
「好きという感情はとっても尊いものだけど……。でも、独りよがりで身勝手で、損得で成り立つ種類の好意もあるのよ。悪いことじゃないんだけど、きれいなものではないかもね」
「……わかんない」
「そりゃあわからないでしょうねえ。私も大人になるまでわからなかったわ!」
ネイサンは、口に手を当てて大きく笑った。
その台詞はガブリエラとライアンに言われたことと全く同じではあるのだが、自分もそうだったということ、そしてそう言って笑うネイサンには、不思議と楓は反発を思えなかった。そういうものなのか、とするりと受け止めることができたのは、ネイサンの人柄というものだろう。
「アタシなんてとってもピュアだったから、長いことそれがわからなくって、何度も痛い失恋や裏切りにあったものよ。でもそれを乗り越えてきたから、今はそれを楽しむ方法も、いちばん大事なものが何かもわかるようになったのよ」
「……ふぅん?」
運命を受け入れた悲劇のヒロインのような決め顔をして身を捩るネイサンに、楓は今度は素直に何もかもわからない、というリアクションをした。
「天使ちゃんがヒーローとして色んな人に振りまいてる好意も、実のところそういうものよ。でも実際、というか物理的に天使ちゃんだけが負担をかぶって周りばかり得をしているから、誰もそこに気付かないのよ。うまくやってるわ」
「うまくやってる……」
楓は、ライアンの話を思い出した。
誰にでもメリットがあるWIN-WINのやり方ならば、何もかもうまくいく。誰にとってもいいことずくめの、ベストな状態。彼はそうして常に自分の居場所を作り上げ、膨大なギャラを稼ぎ、それだけではない完璧な成功者として自由に動いている。
そして楓は、おそらくガブリエラのあり方もそういうものなのか、と当たりをつける。周りが得をするやり方ならば、周りは文句を言わないどころか絶賛する。ガブリエラが損をしているようにみえるので、そのかわりのように彼女を無欲な聖女のように称える。
しかし実際は、彼女も何かを得ているのだ。──それが何なのかは、楓にはわからないけれど。
「なんとなくわかったような、……でも、具体的にはわかんない」
「あら、良かったわね」
「なんで? 何が?」
「それはね、子猫ちゃん。“わからないということがわかった”という、大いなる進歩だからよ」
その言葉に、楓はまさに目から鱗が落ちたような気分になった。
「……そっか。それでいいんだ」
「それでいいのよ。自分のセンスや常識で理解できないものを、そういうものだってそのまま受け止めるのも大事なことよ」
その言葉に、あれ程気をつけようと思っていたのに、楓は自分が視野狭窄に陥っていたことを自覚し、反省した。
昨日ダイナーでガブリエラと話をした時、楓は“普通の人”の都合の良さに苛つき、“おかしい人”の得体のしれなさに恐怖し、全体を“悪い人”と括ったが、ガブリエラは違った。物を盗んだり人を騙したり、傷つけたり殺したり、そういうことをしたら悪い人になる、とあくまで具体的な犯罪のことしか口にしなかった。
おそらくガブリエラは、彼らのことをただ“そういうもの”として受け止めているのだと楓は理解し、また目から鱗が落ちた。
ガブリエラ本人はただ単に頭が悪いので正義と悪の境目がわからないだけだと言っていたが、ネイサンの話を聞いた後だと、彼らを一括りに“悪い人”と称した自分がとても狭量で短絡的だったことが理解できる。
そして同時に、“普通の人”が状況によって態度を変える人種であること、“おかしい人”が危険なことをしでかす可能性が高いということは事実なので、それを踏まえて行動することもまた悪いことではない。ガブリエラも、あの掏摸のふたり組に対してそのように行動していたと思い返し、なるほど、と賢い少女は確信した。
「具体的なことは、そのうちああそういうことだったのかってわかる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。その時にやっぱり理解できないとか、もしかしたら嫌悪感を感じることもあるかもしれないわ。でもどちらにしても、できる範囲でいいから、なるべくそういうものだって受け入れてあげて欲しいかしら」
「うん、もちろん」
楓は、今度こそ力強く頷いた。
「ギャビーを嫌いになったりなんか、絶対にしないよ。だってギャビーは、私の師匠で、──友達だもの」
子供ならではの、短絡的で、絶対的で、そして大人に何を言われようと、大事な冒険の相棒を永遠のものだと信じ切っている反発的な目。その星の瞬きのようにきらきらした目に、ネイサンはまぶしげに微笑んだ。
★メイプルキティの冒険★
21/24