#105
★メイプルキティの冒険★
20/24
「えっ」
「えっ?」

 楓は、目を丸くした。そして、そんな楓にガブリエラも目を見開いている。
「えっ、……えっ? なんで?」
「なんで? え? なにがですか?」
「だって、だって、えっ、だって“おかしい人”は頭がおかしくって、何するかわからないし、その」
「はい」
「“普通の人”だって、自分では何もしなくって、その場でコロコロ変わるし……」
「そうですね」
「なのに、悪い人じゃないの?」
「うーん。“悪い人”とはつまり、どういう人になるでしょう」
「えっ」
 首を傾げながら質問を質問で返したガブリエラに、楓は戸惑う。

「ギャ、ギャビーはどう思ってるの? どういう人が“悪い人”?」
 楓は、あえて更に質問で返した。ガブリエラは特に気にせず、ミルクをストローで吸い上げてから口を開く。
「うーん? そうですね。正直よくわかりません」
「……よくわかんないの?」
「なぜなら、それはとても難しいことです。誰が何をやったことがどれだけ悪いのか、どんな罰がふさわしいのか、それを決めるのは裁判官さんです。専門の方がすること。裁判官さんは、りっぱな学校を出た、とんでもなく賢い方がなるものです。ペトロフさんのように」
「ペトロフさん?」
「ペトロフさんはヒーロー管理官ですが、元々は裁判官さんです」
 知らなかった楓は、そうなんだ、と頷く。そして彼と話した時の印象を思い出し、確かに有能な彼ならば、法律を完璧に適応させた善悪の判断ができそうだ、と思った。
「しかし私は、ペトロフさんとは比べ物にならないおバカちゃんです。そんなことはとてもとても」
「ええ……」
 理屈はわからなくもない。しかし身も蓋もないガブリエラの返答に、楓は困惑しきって表情を歪めた。
「──じゃあ、あえて! あえて言うならって感じで!」
「あえて? あえてですか、うーん」
 ガブリエラは眉間にしわを寄せ、ううん、ともういちど唸った。

「……物を盗んだり。人を騙したり、傷つけたり、あとは殺したり。そういうことをしたら、悪い人なのではないでしょうか」

 そうして出されたガブリエラの答えは、やはりどこまでも即物的で、現実的なものだった。その答えにぽかんとしている楓が納得していないと思ったのか、ガブリエラは自分の頭からどうにか何かひねり出そうとするかのように、うむむとまた唸ってから言葉を続ける。
「ええーとですね。頭のおかしい人は、頭がおかしいですが、常に人を殺しまくるわけではないです。そういう人もいるかもしれませんが」
「可能性が高いだけで、実際何かしたかどうかは別ってこと?」
 少し調子を取り戻したのか、それともガブリエラの言葉が頼りないので自分がしっかり質問しなければと思ったか、楓は言葉を挟んだ。
「そう、そういうことです、多分」
「でも、高い確率で危ないことするかもしれない人なんでしょ? 怖いじゃない」
「確かに怖いかもしれません。しかし、こちらが気をつけるしかないですね。なにしろ彼らは頭がおかしいので」
 警察とて事件が起こらないと動きませんし、とガブリエラはまた現実的なことを言った。
「なにそれ! 理不尽だよ! なんで私たちがびくびくしなきゃいけないの!」
「そうですね。彼らはとても理不尽」
 ガブリエラは、もっともだといわんばかりにうんうんと頷いた。

「ラグエルもそうでした。彼も相当頭がおかしかったです」
「……は?」
「彼の性格の悪さといったら、最低最悪の、さらに最低でした。神様の教えに全力で逆らっていて、凄まじく根性がひん曲がっていてですね。私は、あの馬以上に性格の悪い人に会ったことがありません。ラグエルに比べたら、大抵の人が──」
「えっ、ちょっと待って」
「はい?」
「ラグエルって……その馬って、ギャビーの親友、だったんだよね?」
「はい。ラグエルは私の最初の友達です」
「でも頭がおかしかったの?」
「ラグエルがまともなら、大抵の人はまともです」
 ガブリエラは、深く、とても深く頷いた。
「母も頭がおかしいですし。ラグエルも母も、街で評判のきちがいでした。きちがい修道女ときちがい馬です。あっはは」
「えええ……」
 楓が昼間あれほど気にして、今も気にしている母親について、ガブリエラは自ら笑い飛ばした。しかも、自虐とか、卑屈とか、そういうものが欠片も感じられない、くだらないジョークを自分で言って自分でうけているような様子で。
 楓が絶句していると、ガブリエラは皿の上のチキンオーバーライスを食べきった。

「……ギャビーは、“頭のおかしい人”が怖くないの?」
「怖い? うーん、怖いというのもありますが、どちらかというと面倒くさい感じですね。何をするかわかりませんし。なるべく避けて通ったほうがいいですよ」
「でも、……ギャビーのお母さんは、ラグエルは……」
「避けて通れないこともあるということです」
 ガブリエラは、テーブルの端に空になった皿を置いた。
「そうなると、うまくやるしかないのです」
「……できるの?」
「さあ。やるしかないことではありますが、人それぞれだと思います」
「人それぞれ……」
「そうです。いろいろな人がいます。そうですね、例えばこれは、私の育て親のアンジェロ神父の受け売りですが──」
 ハンバーガーを掴んだガブリエラは、目線を宙にやって、一拍してから言った。

「お腹をすかせた赤ちゃんのためにミルクを盗んだ人は、悪い人ですか?」
「う……」
「孤児にはパンを与えますが、自分の子供には水も与えない人は? まあ私の母ですが」
 その例題に、楓は詰まってしまった。ガブリエラは、うむと頷く。
「そういうことです。母は頭のおかしいきちがい修道女と言われていましたが、パンをもらった孤児や、面倒を見てもらった老人たちからは、聖女とか天使と呼ばれていましたよ」
 その言葉に、楓は顔を上げる。ハンバーガーを頬張ったガブリエラは、なんでもない顔をしていた。

「ただ、普通の人は理屈が通じます。自分が困らないのであれば、親切に振る舞う人たちです。ですので、困っている人を助けると、彼らは悪い人にはならない」
 つまり、物を盗んだり、人を騙したり、傷つけたり、殺したりはしない。その可能性がない人になるということだ、とガブリエラは頷きながら言う。
「しかし、頭のおかしい人は違います。たくさんお金を持っていても、どうでもいいものを盗んだりします。家族もいて幸せであるのに、知らない人のお墓を掘り返して、死体を犯す人もいます。人ぞれぞれです」
 おそらく彼女の故郷の言い回しなのだろうどぎつい言葉に、楓はつい仰け反る。
「ヒーローたちのように、誰にでも平等に優しいすばらしい人は、めったにいないのです」
 その言葉に、楓は怪訝な顔をする。彼女自身もまた紛れもなくヒーロー、しかも一部リーグヒーローでさえあるというのに、その言い方はまるで他人事のようだった。

 街中から頭がおかしいと言われ、娘にすらそう思われていた反面、孤児や老人たちには聖女や天使と呼ばれていたという、彼女の母。

 では、ガブリエラは。
 他人を助けるために正真正銘その身を削り、シュテルンビルトじゅうから、いや世界中から天使や聖女と呼ばれている彼女は、──“本当は”?

 楓はその質問をすることが出来ず、黙ってチキンを口に入れた。






「寄りたいところがあるのです」

 ダイナーで食事を取り終わった後、ガブリエラがそう言ってバイクを走らせたのは、ゴールドステージにある大きな教会だった。ガブリエラ個人は信心深くはないものの、◯◯教自体には縁があり洗礼も受けており、時々習慣としてお祈りなどをしているのは楓も知っている。
 それに、この教会はコンチネンタルに本物がある黄金の天使と聖女の彫刻と、◯◯教の協会の特徴でもあるステンドグラスが有名な、観光ガイドブックの常連スポットである。
 宗教と縁が薄いオリエンタルの生まれで、またまともにシュテルンビルト観光をしておらず、していたとしても虎徹がまず連れてこないだろう場所に、楓は割と興味津々でついていった。

「わあ……綺麗」

 楓は、ほうと感嘆の息を吐いた。
 最上ステージゆえに昼間の太陽の光でも美しいステンドグラスだが、夜になった今、シュテルンビルト名物のネオンの光でゆらめいている。その上、内部はたくさんのキャンドルで照らされていて、なんとも幻想的な美しさだ。
 また日の高い時間帯は観光客を受け入れているが、静かに祈りを捧げたい信者のために、朝のミサと夜の開放時間は洗礼を受けた者しか入れないようになっている。ガブリエラは星のついたロザリオをシスターに見せて挨拶し、楓はそれにくっついてくる形で中に入った。
 ヒーローランドのセレスティアル・タワーといい、普通の観光はしていないのに、非常にレアな裏スポットばかり巡っているなあ、と楓は自分で思う。

「ではお祈りをしましょう」
「お祈りって何するの?」
「色々ですよ。今日のことを反省したり、これからどうしたら良いか考えたりするのです。神様に頼るのではなく、お話する、相談するような気持ちで。そうすれば、神様からの導きがいただけると」
「へえ〜」
「……と、ここのシスターが」
 ガブリエラは、受け売りであることを早々にばらした。
「ギャビーは何を祈るの」
「私は、母に伝えたい事がある時に来ます。母は毎日祈って神様とお話をしているので、私も神様に報告していれば話題が出るかもしれませんし」
 近所の知り合いと雑談でもしに来たようなことを言うガブリエラに、そんな感じでいいんだ、と楓は頷いた。確かに、扉で迎え入れてくれたシスターも柔和で気軽な感じだったし、少なくとも洗礼を受けている信者の人々もあまり仰々しく気負った雰囲気の者はいなかった。
 厳かな宗教儀式の集まりというよりは、行儀の良い真面目な人々の集会所という感じで、基本的に優等生な性格の楓はこの雰囲気に割と好印象を抱く。

「目を閉じてじっとしているとか、あの像や祭壇を眺めているのでもいいです。特に決まりはないので、あまりきょろきょろせずに静かにしていれば大丈夫ですよ」

 祈っている間どうすればいいのかと質問すると、ガブリエラは小さな声でこそこそとそう答えた。揃って、ずらりと並んでいる長椅子のひとつに座る。割と前の方で、前方に他の信者も座っていなかったので、天使と聖女の像や祭壇がよく見えた。
 ガブリエラは慣れた様子で、ロザリオを巻きつけた手で十字を切り、両手を組み合わせて目を閉じると、じっと黙って動かなくなった。
 楓はその様子を見守ってから、名物である黄金の天使と聖女の像を見上げる。

 黄金に塗装された槍で、天使が聖女の胸を突き刺そうとしている。
 だが天使は笑みを浮かべており、しかもそれは宗教画や聖像でよく見る、いわゆるアルカイック・スマイルではない。はっきりと口角が上がって頬の肉が持ち上がり、目が下から押し上げられて細まっている。
 それに、天使は性別がないと聞いたことがあるが、片肌を脱いだ衣装の天使は子供といえるような見た目ではあるものの、顕になった胸には薄い胸筋が浮いていて、男性にしか見えない。しかも乳首まで彫り込まれているのが、妙に生々しくもあった。

(なんかこの天使、ライアンさんにちょっと似てる)

 なんとなく、楓はそう思った。
 顔立ちが似ているわけではないのだが、にやり、という感じの楽しそうな笑みは、ライアンがよく浮かべる笑い方にどこか似ていた。強いがゆえに余裕たっぷりの猛獣のような、いたずらを企んでいる少年のような、傲慢だが同じくらい懐も深い、りっぱな王様のような雰囲気。
 金色という、ゴールデンライアンの象徴であるカラーリングも連想を容易くしているのかもしれなかった。天使が持っている槍、台座、背後に差す強い光を示す放射線状のモチーフはすべて金色に塗られていて、キャンドルが揺らめくたびに実際にきらきらと光っている。
 それに、ガブリエラがこの像を気に入っていて、だからこそこの教会を今の行きつけにしているのも楓は既に聞いている。もしかしたらこの像がライアンに似ているから気に入っているのだろうか、という楓の予想は正解である。

 そしてライアンに似た天使を目にしたことで、楓は彼の言ったことを思い出した。

 ──視野を広げるのはもちろん、手段と目的を入れ替えたり、見方を色々変えてみるのもひとつのやり方だってこった

 ものごとには、色々な見方、捉え方がある。
 ライアンが発したからこそ説得力のあるその言葉を胸に、楓は最近ずっと迷い込んでいる思考の迷路にまた飛び込んだ。

 ガブリエラの能力と、その力の全容。そしてそれゆえの彼女の考えかたや行動の真意について知った今日、楓は驚きのあまり絶句した。地球にいる限り見ることの出来ない月の裏側を覗き込んだようなその体験に、楓はショックを受けていた。
(そうだ。ショックだったんだ、私)
 賢い少女はまず、自分が感じているものについて自覚し、受け止める。
 そしてそれをしっかりと飲み込んでから、思考の迷路を一歩ずつ進み始めた。

 ──あとは、とにかく具体的にやれ

 もちろんその助言も取り入れた楓は、まず具体的に考えることにした。つまり自分が迷路のどこにいるかもわからないのにぼんやり全容を想像するのではなく、目の前にある分かれ道や、今まで通ってきた道順について考えることにしたのだ。

 ガブリエラの能力を傍から見ていた時は、自己犠牲性の高い能力とは思うものの、きちんと管理をすれば安全で、誰にもデメリットのない素晴らしい能力だと思っていた。天使の力を授かった、聖女の如きホワイトアンジェラ。多くの人々同じように、すっかりそう思っていたのだ。
 しかし実際にこの能力を体験してみると、どれほどエネルギーがあろうと、自分の身を切り分けて他人に渡すのは本能的な恐怖、生理的な嫌悪感が付随することを知った。
 その立場に立ったからこそ、周囲のすべての生命が飢えた獣のように感じられ、なぜこんなめにあわなくてはいけないのだと運命を呪い、どうしようもない孤独感に泣いた。
 だがガブリエラはその感想に大きな共感を示しつつ、だが実際は自ら能力を使って人を助けることを選び、生きとし生けるものたちを好きだと言う。

 ホワイトアンジェラを聖女と呼び、その能力を天使の力と讃え、救われることを求める自分勝手な人々。ガブリエラは、彼らをいい人、普通の人、おかしい人と区別している。いい人に懐き、おかしい人を避け、普通の人を家畜のように無感動かつ丁寧に扱う。しかし同時にどれも悪い人なわけではないと言い、母や親友の頭がおかしいことをジョークのネタにするかのように笑い飛ばした。

(でも、……ギャビーがたくさんの人を助けたのは、本当のこと)

 ガブリエラや助けられた人々それぞれにある背景や思惑、あるいは本人も自覚のないどんな本性があろうとも、事実は変わらないのだ。ガブリエラは確かに正真正銘痩せ細って死にかけてまで92人の乗客を救い、また日々自分の身を削って助け続けていることは揺るぎない事実。
 そして、何も事情を知らなければ、彼女がまるっきり聖女や天使にしか見えないことも事実なのだ。月に裏側があることを知らない人々だというだけで。

 例えば法律用語において、善意とは、「ある事情について知らない」、という意味で使用される。被害者から詐欺師が家を騙し取り、その事情を全く知らない第三者がその家を格安で買い取ったとする。詐欺師の罪が明らかになっても、第三者は事情を知らずに買い取った“善意の第三者”であり、被害者はこの善意の第三者から家を取り上げることが出来ない。

 楓はこの考え方を知らなかったが、自然に似たような結論に近づきつつあった。
 すべての人は、ひとつのことについて何もかもを知ることなど出来ない。実際に、楓もこんな特殊な状況にならなければ、今も素直にホワイトアンジェラを聖女だと思っていただろう。なにせ今もその思いから抜け出せないし、だからこそ混乱している。
(私は、知ってる)
 彼女の能力をコピーし、体験し、彼女と寝食をともにして誰よりも側にいる楓は、もう既に色々なことを知っている。自分のエネルギーを切り分けて与えるという行為がどれほどものすごいことなのか、生命の尊さと恐ろしさ、そして絶望に近い孤独。
 それでもなお、彼女のことを完璧に知り、理解することなど出来ていない。そしてもし限界まで多くのことを知り得たとしても、それはあくまで楓の解釈だ。受け取る側の考え方や感性もまた人によって違うので、結果もすべて違ってくる。
(ああ、ほんとだ。人それぞれ……)
 楓は、深く納得した。人は皆それぞれ違い、それゆえにお互いを完璧に理解することなど永遠に出来ないのだと確信する。
 少女はその途方もなさに、絶望に近い諦めと、どうして皆こんなに面倒くさいのだという妙な憤りと、広がる世界への好奇心を同時に感じた。

 思考の迷路は相変わらず先が見えず、歩けば歩くほどその広大さがわかるばかりだ。途方に暮れた楓は天使から目線を逸らし、彼が槍を向ける聖女を見た。

 聖女の表情は独特だった。目はほとんど閉じているような半開きで、口もぽかんと開いている。気絶しているようにも、その直前のようにも見え、何かに耐えているようにも、呆けているようにも見える。
 石でできているとは思えないほどの表現力でもって彫られたたっぷりした布を纏い、くったりと脱力した姿。細い顎は逸らされ、露出の全くない衣装だけに、無防備な首筋が妙に目立つ。
 聖女は岩の上に脱力して崩れ落ちているような姿勢だが、布の端からはみ出た手指の小指はひくりと痙攣するように持ち上がっており、裸足の足はもっと力が入っている。足首は直角になるまで力んでいて、全ての足の指がぎゅっと強く持ち上がっていた。

 また、今にも後ろに倒れてしまいそうな聖女だが、天使が槍を持っていない方の手で、聖女の纏う布をそっと指先で持ち上げている。
 体を支えるにはとても力が足りないだろう手つきだが、実際に聖女は崩れ落ちておらず、今から貫かれる胸を反らしている。それは天使が人ならざる絶対的な力を持っているせいなのか、それとも自らを貫こうとしている天使のために聖女が自ら身を起こしているのかは読み取れない。

 だが確実なのは、聖女が抵抗していないということ。
 自らを笑って貫こうとしている天使に、聖女は無防備に胸を、喉を曝け出し、黄金の切っ先を受け入れようとしているということは楓にもわかった。
 ──が、同時に、理解もできない。宗教のことはよくわからないが、あんな大きな槍に貫かれたら死んでしまうし、死んで天国に行けるのだとしても、その前にとても痛いだろう。聖女は、傷つくことや、痛みが恐ろしくはないのだろうか。

 ──ギャビーは、どうしてヒーローになったの
 ──む、よくされる質問ですね。人を助けたいのでですよ
 ──なんで、助けるの?
 ──それは、人を助けるとですね。悪い人が少なくなるのです


 あの聖女も、そうだろうか。
 他人を救うために聖女になったのだろうか。天使に命を捧げれば、世の中が清浄になると思ってそこにいるのだろうか。

 ──うーんと……、じゃあ、なんで助けたいと思ったの? えっと、理由じゃなくて、動機っていうか
 ──動機? 動機ですか。うーん、好きでやっていることです
 ──好きで……。みんなが?
 ──そうですね。人は好きです。動物も、植物も。みんな好きですよ


 聖女は、皆が好きだろうか。
 自分の命を使って救われようとしている自分以外の全ての命を、それでも好きでいるのだろうか。そして、いざ自らを笑って貫こうとしている天使のことは?

「カエデ。そろそろ行きましょうか」

 祈り終わったガブリエラから声をかけられて、楓は思考の迷路からはっと引き上げる。
 祈りを捧げている他の人々の邪魔をしないように静かに立ち上がり、すれ違う人やシスターと会釈をしあいながら、ふたりはそっと教会を出た。



「付き合ってくださってありがとうございます、カエデ」
「ううん。有名な教会だし、夜は普通見れないって聞いたから、良かったよ」
「きれいだったでしょう」
「うん、すごくきれいだった」

 今日は時間に余裕があることもあって、教会に付き合ってもらったお礼にどこか行きたい所があればというガブリエラの言葉に甘え、楓は海に行きたいと言った。オリエンタルタウンは山間の内陸地なので、海は見えないのだ。
 しかし海といっても、シュテルンビルトが面する海はほとんど埋め立ての埠頭である。ヒーローランド方面に行けばビーチもあるが遠いので、ガブリエラが連れてきたのは、半島であるシュテルンビルトの先端、ニューモルゲン地区にある展望ビルである。
 展望ビルといってもそもそも立地がシルバーステージであるので、高さというならメダイユ地区にできた、3層を突き抜けたフォートレスタワーのほうがよほど高い。しかし海沿いで水平線が見える立地と、それを活かしたリゾート色の強いレストランやエステサロンなどで堅実に経営がされている。
 また観光客よりも地元のセレブ御用達という存在感でもあるため、過剰に賑わってもおらずゆったりと過ごせる施設でもあった。

 観覧料を払い、ふたりは屋上に出る。

「おー。前と後ろでまったく景色が違いますね!」
「ほんとだね。同じ場所なのに……」

 面白そうに言いながらきょろきょろするガブリエラに、楓は海風で広がる髪を押さえながら言った。
 平日ど真ん中であるせいか、ちらほらとカップルがいるくらいで人は少なかった。
 市街側を見れば、たくさんのビルが目前に広がるシルバーステージ、そして階上のゴールドステージから襲ってくるかのようにそびえ立つ、迫力満点の光景。そして反対側には、真っ暗な海が広がっていた。ネオンの眩しさのせいで市街側の空に星は殆ど見えないが、真っ暗な水平線近くには、星座がちらちらと見える。

 同じ場所なのに、どちらを向くかで全く異なる景色。賑わうヒーローランドの中で宇宙人を探す観測所、夜の教会。
 沢山の人々が活動している市街に背を向けて、楓は真っ暗な海を見渡した。

「わっ、け、結構怖い」

 もちろん柵はあるのだが、びゅうびゅうと吹き付ける強い風に吹き飛ばされてしまいそうな心地と、すぐそこが海であるだけに真っ暗な闇の上に立っているような錯覚に楓は足元が恐ろしくなり、とっさに近くのベンチの背を強く掴んだ。
 一方ガブリエラといえば相変わらず怖いもの知らずで、まるで暗い水平線の向こうに更に星が見えはしないかとでもいうように、はしゃいだ様子でぴょんぴょん跳ねていた。
「高くておもしろいですね! あっ、コンチネンタルはあちらの海の向こうですよ」
 すぐにライアン関係に話を持っていくガブリエラに、楓は苦笑する。
「でも、陸地も見えない。遠いんだね」
「ライアンは、飛行機を使えばすぐだと言っていました」
「ライアンさんらしいなあ。……ギャビーの故郷はどっち?」
「あちらです! 私の故郷なら海を渡らなくてもいいので、歩いて行けますよ」
「歩かないけどね?」
 実際に歩いてきた彼女が言うだけにシャレにならない案内に、楓は半目で突っ込みを入れた。そして、暗い海を見渡す。

 水平線しか見えない海は、どれほど広いのかもわからないほどに広い。わかるのは、自分がとても小さいということだけだ。だが楓は、今までそれを実感したこともなかった。
 世界地図を見たことはある。学校の教科書に載っているし、優等生な楓は色々なエリアの名前も場所も言うことができる。しかしそれはあくまで本に書かれた現実感のないミニチュアの地図であって、楓が実際に他のエリアに行ったことはない。
 楓の世界は田舎のオリエンタルタウンと、そこから列車や車で5、6時間のシュテルンビルト。あとは、修学旅行で飛行機に乗って行った沖合いのリゾート島がせいぜいだ。しかも、どこに行くにも大人の引率がついていて、自分で切符を買ったこともなく、どれくらいの距離を移動した実感も特になかった。
 それを自覚したからこそ、命懸けで何千マイルもの荒野を自分の足で進んできたガブリエラや、たくさんの船や飛行機を乗り継いで、フリーのヒーローとして実績を築き莫大な金を稼いでいるライアンの凄さがわかる。

 直接の飛行機も飛んでいないという荒野の果ての街からヒッチハイクでやってきたというガブリエラと、様々な国を軽々と渡り歩き、さすらいの重力王子とも呼ばれているライアン。T&B以上の凸凹コンビとして見られるふたりだが、この行動力の高さはとても似ている。
 KOHであり、それに恥じぬ人柄と行動力を持つキースは、あらゆる面で裏表がなく、ヒーローとしてかくあるべきというそのものの存在だ。
 自分と同じように能力発動時にSS認定されたものの今は普通に高校に通い、スーパーアイドルでなおかつヒーローという、たくさんの可能性を掴み取ったカリーナや、楓とそう年も離れていないのに遠い故郷と両親から離れ、シュテルンビルトでヒーローとして活躍しているパオリンは、尊敬するしかない。
 楓と似た能力を完全に使いこなし、しかしそれだけではヒーローたりえぬと、身体能力を鍛えているイワンの意識の高さは、本人のネガティブな性格を補って余りあると思う。
 マイノリティな部分を魅力に変え、ヘリオスエナジーオーナーでありつつヒーローでもあるネイサンは、とても懐が大きい。ガブリエラやカリーナ、パオリンが慕うのもよく分かる。
 また、このメンバーの中で能力のレベルがひとり高くなく、パッとしない成績が続いても長年ヒーローであり続け、とうとう守護神とも呼ばれるようになったアントニオ。

 そして、ヒーローとしてどんな仕事をしているのか初めて具体的に知ることになった、虎徹とバーナビー。

(──私、すっごく子供だったんだ)

 楓はしっかりしているとか大人っぽいと言われる事が多いし、ある程度自分でもそう思っていた。祖母の安寿に「楓は頼りになるねえ」と言われるのは誇らしいし、村正に「楓は虎徹と違ってしっかり者だな」と言われると、そうだろうと得意にもなった。
 だがひとりひとりが巨大な存在感を持つヒーローたちと接し、また特にガブリエラ、ライアンと近く接してきた今。楓は自分がとても小さく、物知らずで世間知らずな子供であることを、ありありと思い知っていた。
 楓には、彼らのように、この道を歩いてきたのだと胸を張って言えるようなものはまだ何もない。

 真っ暗なせいで、余計に深く、広く、得体が知れない海を前にした楓は、大人がいないと何も出来ない12歳という等身大の姿を目の前に突きつけられた心地だった。それはやはりショックなことだったが、しかし不思議と嫌な気持ちというわけではない。
 むしろ目の前が大きく開ける直前のような、不思議な高揚感を感じていた。

 ──なぜなら楓は今、ぴんと何かにたどり着いた。
 それは例えば、祈りによる神との会話で天啓を得るようにして。

「……ギャビー」
「はい、なんでしょう」

 おそるおそる、ゆっくりと。息を飲みながら。
 腰抜けから死ぬのだという教え通りに楓は背筋を伸ばし、ガブリエラを見た。ベンチの背から手を離す。びゅうびゅうと強い風が吹き付ける、落ちれば暗闇に真っ逆さまだと感じるビルの上で、楓は膝を奮い立たせ、何の支えもなくひとりで立った。

「ギャビーは、人を助けたいからヒーローになったんだよね」
「はい」
「人を助ける理由は、悪い人が少なくなるから」
「そうですね」
「助けたいと思う動機は、──好きだから」
 確認するように言う楓に、ガブリエラはいつもの楽しそうで呑気な微笑みを浮かべながら、素直にうんうんと頷いた。
 そうだ、ここまでは前も聞いた。難度も自分の中で反芻した。しかし、楓はここから先を聞いていなかった、ということに気付いたのだ。

「──ギャビーは、どうして、皆が好きなの」

 見えない地面の上で、用心深く足を一歩踏み出すように。
 そんな声色で、楓はガブリエラに質問した。
★メイプルキティの冒険★
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BY 餡子郎
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