#104
★メイプルキティの冒険★
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皆のために我が子に死ねと言い、それが正しいと信じているという彼女の母親を、楓も正直、まさに“頭がおかしい”と思う。世界で最も悲しいことであるとも感じた。
なぜなら楓は、彼女と同じ経験をした。誰も彼もが自分を貪り食らおうとする恐ろしい世界で独りぼっちになり、鉄のゆりかごに引きこもり、飢餓に等しい空腹を抱え、恐怖と寂しさの究極の選択を迫られて震えながら泣いた。
あのとき楓は、助けを求めた。
黙って我慢して、助けを求めても誰もいないと理解していながら、赤ん坊になったような無力感の中、思わず自然に口をついて出た。──“おかあさん”、と。
とはいえ、しょせん楓が閉じこもっていたのは、水も食料も完備された清潔なポーターだ。感じていた恐怖や寂しさも、あくまで楓が感じたことであって、実際に大勢に群がられたり、命を狙われたわけではない。
しかも数時間もせずガブリエラが迎えに来てくれて、楓は結局何の選択もせずに済んだ。泣いていることを咎められもせず、優しく頭を撫でられ、怖かったですね、寂しかったですねと慰めてもらいさえした。
だがガブリエラは、教会の外に実際に群がる人々から逃げ、安全な場所は自分を利用することしか考えていない凶暴な暴れ馬のいる汚れた馬小屋しかなく、砂糖と酒を口に詰め込みながら生き長らえようと足掻いた。それは楓とは比べ物にならない、強烈な体験のはずだ。
楓の母、友恵は既に亡くなっているが、楓を心底愛してくれた。楓自身完璧にそう思っているし、彼女を知る誰に聞いてもそうだ。何の疑いもない事実。
だから彼女が亡くなっていても、楓は“助けを求める”ということができた。現実母は亡くなっているので、それはどちらかというと“祈り”と呼ばれるものかもしれない。しかし世界中が自分の敵に回っても、母だけは自分を助けてくれるはずだと当たり前に思っているからこそ、楓は「お母さん助けて」と祈ることができたのだ。
虎徹に起きた奇跡を、母がそうしてくれたのだと自然に思えるくらい、楓の母は楓にとって神様よりも絶対的な存在だった。
だが、ガブリエラは、違うのだ。
彼女の母は、意味不明に、しかも母であるのに、群がる人々へガブリエラを差し出そうとする人だった。
側にいたなら、制御が効いていない分だけ強烈だったろう彼女の能力の影響を受けたはずであるのに、それでも変わらずガブリエラを犠牲にしようとした、“頭のおかしい人”。
もういない母親に助けを求め、祈ることさえ、彼女はできなかった。そのはずだ。
しかし彼女は鉄のゆりかごを飛び出し、更には故郷を飛び出し、過酷な荒野を乗り越えてまで、あろうことかヒーローになった。楓が真っ先に呪い、こんなものはなければいいと恨んだ能力を使い、その身を削って他人を助ける道を選んだのだ。
(……ギャビーは、どうして)
その選択をしたのだろう、と楓は想像しようとする。
泣いている楓をガブリエラが迎えに来てくれたように、彼女自身が楓と同じ12歳だった頃、鉄のゆりかごから彼女を抱き上げた人がいるのだろうか。
もし自分の足で飛び出したのだとすれば、楓はいよいよ彼女を理解できそうにない。
なぜなら、想像しようとしても、出来ない。
鉄のゆりかごの中で誰に助けを求めることも出来ない状況を想像しようとしても、あんまり怖くて真っ暗なものしか思い浮かばないからだ。しばらく考えて、楓はそれが絶望というものであるということを察した。
どうして自分ばかりこんなめにと楓は自分の運命を恨み、全ての生きとし生けるものに恐怖したが、ガブリエラは、自分の能力がなければよかったと思ったことはないという。それどころか、その能力を多くの人に使おう、ヒーローになろうと決めた。生きとし生けるものを好きだと言い、好きで助けるのだと笑った。
それはなぜだろう。彼女が生まれつき聖女で、天使のようで、しかし楓はそうではないからだろうか。それなら、わかる。詳細はわからないけれど、“そういうもの”として飲み込める。
──聖女とか天使とか、冗談でもねえわ。そいつはただの犬だ、犬
だが彼女が誰より愛し、そして彼女を誰より理解しているだろう彼はそう言った。
楓はその言葉が全く理解できず、しかし無視もできないでいる。
「カエデ? 大丈夫ですか?」
きれいな声が降ってきて、ひとりの思考に落ちていた楓はハッとした。
「え、あ……」
鮮やかな赤い睫毛に縁取られた灰色の目が、楓を覗き込んでいる。虹彩の色が薄いせいでやけに目立つ瞳孔が底の見えない真っ暗な穴のように見えて、楓はつい肩を震わせた。
「たくさんお話をして疲れたでしょうか。シスリー先生、飲み物を買ってきてもいいですか?」
「ああ、そうですね。助手に頼みましょう」
にこやかに頷いたシスリー医師は、ガブリエラと楓に飲み物のリクエストを聞く。そしてミルクティーという自分の注文もあわせて、助手を近くの自販機までおつかいに行かせた。
あたたかい飲み物のおかげで、楓は混沌としていた気分が少し落ち着いた。
お茶を飲みながらシスリー医師がガブリエラに質問し、更に先程の話を整理していくと、また新しいことがわかる。
「“おかしい人”でも、絶対にこちらを殺そうとか、そういうわけではないのです」
“おかしい人”ではあるが、状況やタイミングによってはガブリエラの能力に流されて何もしない、あるいは元々の気まぐれなのか、親切をして去っていく場合もあるということが、ガブリエラの言葉を察する能力の高い楓と、支離滅裂な患者の話をまとめるプロであるシスリー医師によって判明した。
「シュテルンビルトに来る途中で、食べ物を分けてくれた人がいました。しかしその車のトランクには、死体が入っていました。隙間から見えたのに気付いたら、トランクを閉められて、にっこりされて」
「ひいっ……」
ガブリエラがさすがに深刻そうに言ったこのエピソードに、楓は引きつった声を上げた。キッズフィルタなしでネットサーフィンをするよりもガブリエラの話のほうが、楓は本気で血の気が失せる思いをする事が多い。
「……ということは、最初からこの分類ができたわけではない?」
「はい、そうですね。だんだんわかるようになったと思います」
シスリー医師の確認に、ガブリエラは頷く。
「そうですか。ではその判別能力に関しては、経験で培い、環境に順応して出来上がったものである可能性が非常に高いですね」
ガブリエラと楓の違いは、とにかくこの能力を持っている期間と、それに付随する経験だ。しかもガブリエラは命の危険が常にある治安の悪い場所で生まれ育ち、長期の過酷な旅をしたという非常に特殊な経験を積んでいる。それによって能力の精度に大きな差異は当然出るだろう、とシスリー医師は研究者としての表情で話した。
「あとは、ものすごく頭のおかしい人もいますし、ちょっとおかしいくらいの人もいます。いい人も、普通の人もそうです。ひとりひとりちがいます」
「なるほど。カテゴライズというよりは、段階を踏んだレベル分けに近いですね」
シスリー医師のコメントに、楓は音響機器のボリュームのツマミのようなものをイメージした。直線のくぼみにツマミがついていて、左端が無音、真ん中を通って、右端が最大ボリューム。
ガブリエラの先程の説明のとおりなら、皆が皆、右・真ん中・左それぞれにきっぱり留まっているわけではなく、人によって振れ幅があるということなのだろう、と楓は理解した。
「話をまとめましょうか」
先程の例えを用いるなら。
ヒーローたちのような“良い人”は、この能力の効果がなくても、水も木の実もちゃんと誰かと分け合ったり、自分より弱い人に譲ったり、常に正義の如何を問うことができる人。
“普通の人”は、その場の状況や雰囲気、自分の利になるかどうか、多数派がどちらであるかなどで選択肢を変える、ある意味で自分の意見を持たない人。
“おかしい人”・“頭のおかしい人”は、理由なく湖に毒を流したり、木の実を全部潰したりするような、意味不明の悪意や危険性のある人。
「そしてその全ては個人差があり、状況によって選ぶ結果にある程度の振れ幅がある。ということでよろしいでしょうか」
シスリー医師のさすがのまとめに、ガブリエラは大きく頷き、楓は感心した。
「あ、それと……、ギャビーって、この“振れ幅”もわかるよね?」
「む?」
「例えば“おかしい人”が今なら大丈夫とか、“いい人”の中でもそこまで期待はできないとか」
「ああ、そういうことですか。はい、わかります。その時にならなくてもだいたいわかりますが」
ガブリエラには、特技がある。
“におい”と彼女が呼ぶ感覚により、その人物の本質がなんとなくわかる、という特技。
だからこそ、女性にいつも優しい態度の社長や仕事ができると評判だった専務には近づかず、ヒステリー持ちで口やかましい、扱いづらい女と陰口を叩かれていたシンディとばかり仲良くしていた。
いい人、普通の人、頭のおかしな人。
その中でも、優しい人、頑固な人、信念に溢れた人、迷いを抱いた人、哀しみに苛まれた人、幸福な人、疲れた人。そんなことがわかるおかげで、ガブリエラは今まで潰されることなく生き残ってこれたのだ。──対象を判別して的確に能力を使う、そのことによって。
「他のカテゴリーの人に、その他特徴はありますか?」
「特徴? うーん、“いい人”は、いい人です。あまり変わらないです。迷う人もいますが、結局はいい人なのです。ええと、例えばタイガーは全く迷いませんが、バイソンはすこし“普通の人”のようなところがあって、迷うことがあります。しかし結局おふたりとも“いい人”で、ヒーローなのです」
ガブリエラの説明は相変わらず直感的で曖昧だったが、これは楓も「わかる」と思わず頷いてしまった。猪突猛進はロックバイソンではなく、実際はワイルドタイガーの十八番なのである。
「“普通の人”は、普通なので……だいたいは親切にしてくださいます。しかし時々、とても面倒くさい」
「面倒くさい? それはどういうことでしょう」
「彼らは、とても周りに影響されやすいのです。私にもですが、“いい人”にも、“おかしい人”にもです」
本質的に自分の考えを持たないため、良くも悪くも強烈なものに引っ張られやすい。もっと言えば先導・扇動ともにされやすく、集団ヒステリーに類する群集心理、現象に引きずられやすい性質の人々、ということだろう。
また扇動されるのではなく単に無関心ゆえ大きな動きに抵抗せず従順に従う、いわゆる長いものに巻かれるタイプもいる。これは非難や揶揄を込めた心理学用語で、シープルと呼ばれ、集団行動に従順な羊、sheepと、人々、peopleをあわせた混成語である。
彼らはひとりずつでは何も出来ないが、大勢になった時に凄まじいパワーを発揮する。ひとつひとつは取るに足らなくても、寄り集まり巨大になることでモンスターのようにもなり得る群体。大衆、群衆、顔のない烏合の衆は、普通と言いつつも、実のところ最も得体の知れない存在になる可能性があるとも言える。
「……そういえばギャビー、あのふたり組のこと“面倒くさい”ってずっと言ってたね」
思い出した楓は、そう指摘した。
ガブリエラはあのふたり組について、婦女暴行の犯罪歴があるニット帽の男を“おかしい人”、黒縁眼鏡の男を“普通の人”と呼び、そのふたりの犯行を“面倒くさい”と何度も言っていた。
そして先程楓がフィルタのないタブレットで調べた所によると、黒縁眼鏡の男は、楓が一瞬コピーした『自分の手とそれが掴んだものが透明になる』という能力を使って少額の万引きや掏摸を繰り返していたが、ニット帽の方に声をかけられ、組むようになったという。
“普通の人”が“おかしい人”に引きずられやすい、というガブリエラの言い分が、ここだけでも当てはまってくる。
「そうなのです。彼は普通の人でしたが、あのおかしい人と長くいたのでしょう」
流されやすい“普通の人”だが、ガブリエラの影響力をもってしても、長らく持っていた認識をいきなり覆すのは難しい。真逆の性質に挟まれた彼らは混乱し、時に“おかしい人”よりも何をするかわからない状態にもなりかねないのだ。
「それは確かにめんどくさいね……」
「いい人が周りにいればそちらに流されるので安全なのですが、彼はおそらくそうではなかった。元からおかしい人ではなさそうだったので、ちゃんとすれば大丈夫な気もしますが、どうでしょう」
悪い友達と付き合うのはよくない、というよく聞く言葉が、楓の頭に浮かんだ。
「彼が“いい人”と巡り会えるといいですね」
ガブリエラが言ったこれもまた、比較的軽い犯罪を起こした人間に対してよく聞く言葉だ。
しみじみと彼女は言ったが、しかしその言葉はいわゆる、一般的な──黒縁眼鏡の彼の幸運を祈るような言葉には聞こえなかった。あえて訳するならば、まさに“今後は面倒がないようになればいいですね”とでもいうような。
またそれは逆に、“いい人”や“おかしい人”は、ある意味でカリスマを持っている人種であると言えるのかもしれない。“普通の人”という群体に埋没せず、一個の生命として独立し、時に民衆を惹きつけ心酔させる資質の持ち主。
そして“いい人”の中から、その最たる人々がその資質を職業にしたのがヒーローということであれば、理屈は通る。
いつもうろうろと迷い、導かれるまま何も考えずただ草を食む、大勢の迷える羊。
彼らを導き糧を与え、盗人から守る善き羊飼い。
そして時に羊に紛れ、その角で羊や羊飼いを意味なく攻撃する黒い山羊。
「そういえば、メトロ事故の時は、幸運でした」
「幸運?」
「はい」
ガブリエラは、微笑んで頷く。
「皆さん、“普通の人”だったので」
単なる事実、機械的な仕組みを説明するような言い方。その声は、やはり淡々としていた。
ガブリエラの発言に楓は反射的に息を飲み、同時にあの日の彼女の答えを思い出す。
──ギャビーは、どうしてヒーローになったの
──む、よくされる質問ですね。人を助けたいのでですよ
──なんで、助けるの?
──それは、人を助けるとですね。悪い人が少なくなるのです
彼女の言う通り、多くのインタビューで繰り返し尋ねられるその問いについて、ガブリエラは一貫してそう答えてきている。ある意味では真理、しかし理想論、意地悪く言えば綺麗事。小さな子供が考えるような、拙い考え。
彼女はその理想をあのメトロ事故で見事に体現し、お伽話のような理想論を現実にし、奇跡を起こした。迷える羊たちの中から自ら進み出て、神に自分の身を捧げて彼らを守った犠牲の羊となったことで、彼女は天使だ聖女だと讃えられ、今もそう言われている。
しかしその賞賛を前に、彼女はいつも淡々としていた。“別にそんなに大げさなことじゃないんだけど”、と本気で思っているのがよくわかる、きょとんとした様子。その態度がまた、彼女を天使、聖女と呼ぶ理由になる。
だが、実際には。
語彙が乏しく表現力の高くない彼女が言ったその意味は、“動物は腹がいっぱいならおとなしくなり、周りを襲いにくい”とか、“この薬を打てばおとなしくなる”とか、機械的に家畜の群れを扱う業者のような、どこまでも現実そのままの意味でしかないのだとしたら。
「事故が起きて、最初に大きな怪我を治してまわった時、小さい怪我も見つけたら治しました。実際に私の能力を受けたほうが、影響が強くなります。普通に、怪我を治してくれてありがたい、とも思ってくださいますし」
能力の影響に加え、利益を得られたことによる単純な好印象。
極限状態の暗闇の密室であれば、その効果は通常よりも絶大に跳ね上がる。ガブリエラは、それを知っていた。理論的にではなく、経験則で。そして車内すべてを回って全員がどういう様子の人間なのか確認してから、彼女はそれを実行した。
「運転手さんは“普通の人”で、特に怪我がひどかったのでだいぶカロリーを使いましたが、そのぶんとてもよく力になってくださいました。車掌さんはどちらかというと“いい人”で、これも幸運でした。“いい人”から指示されたり叱られたりすると、“普通の人”はだいたい言うことを聞いてくださるのです」
ガブリエラは、にっこりと微笑んでいる。薄い灰色の虹彩の中心にある瞳孔が、ひどく目立った。真っ暗な、どこに繋がっているかわからない穴。違う星への入り口、ブルー・ホールのような、吸い込まれてしまいそうな瞳。
だが彼女に、特別な武勇伝を話しているような様子は全くない。彼女の言い草は、まるで毎日変わらないルーティン・ワークの苦労話や、仕事のコツを話すような気軽さだった。
「普通の人は能力が効きやすいですが、そのぶん他のことにも影響されやすいので、気を使いました」
「気を使った……どういうことを?」
シスリー医師が、メモを取りながら先を促す。
「こまめに、軽く全員に能力を使うようにしました。本当は、人間は1週間くらい食べなくても死にません。衛生に気をつけていれば、病気にもなりません」
実体験に基づく実感がたっぷり篭った声だった。何より彼女自身が、生きてここにいる。自分の身を、他の92人に分け与え続けた彼女が。
「水は少し危ないですが、夏場でしたので皆さん多少飲み物を持っていましたし、車内にも、非常用の飲料水の備蓄が多少ありました。地下鉄は、閉じ込められたときのために用意しているそうです。ですので、瓦礫が崩れるか、よっぽどばかばかしい事でもしない限りは死なない状況でした」
ガブリエラは、やはり淡々と言う。
彼女は徹頭徹尾、どこまでも冷静だった。
たかが1週間食べなくても死なないというのに、些細な事ですぐにパニックに陥って暴れ、ばかばかしい事──例えば水の奪い合いや無駄な殺し合いをしかねない愚かな迷える羊には、ストレスを与えない、つまり我慢をさせないことがいちばんだと。
──おなかがすいた、なら、もういちど
──いけません。我慢、しているうちに。病気になったら、どうしますか
「手を繋いでいただいて、輪になって。“普通の人”は、たくさんの人と同じことをすると安心するのです」
──隣の人と、手を、繋ぎましたか。仲間はずれは、いませんか
──いたら、輪に入れて
──わたしは、けがを、なおせ、ます
自分の身を削り、死の淵で痩せ細りながらも92人の乗客を助けようとするホワイトアンジェラの姿は、世界中の人々の感動を呼んだ。沢山の人が涙を流し、熱狂的に彼女を讃えた。
折紙サイクロンが現場に潜入した際に小型カメラで撮影された映像は、数字的に、見ていない者のほうが極僅か、というまでのものだった。
不躾に怒鳴り散らした男ですら分け隔てなく、自らの命を削って分け与えるホワイトアンジェラに、助けられた人々も、助けに来たはずの折紙サイクロンも泣いていた。テレビの前の人々も、二部リーグのヒーローたちも皆そうだった。だからこそ、あの事故は解決に向かうことが出来た。
全員が、“能力を使うホワイトアンジェラを目の当たりにして”、“心を動かし”、それが大きな流れ、力になった。
「それに、あまりつらい状況ですと、普通の人が急におかしくなることもよくあります。逆もいますが、珍しいです」
狂った羊は、黒い山羊のように跳ねる。極限状態によるストレスで起こす錯乱、異常行動のことを言っている、とシスリー医師は察した。ショックな体験によって人が変わり、いわゆる“改心する”タイプもいるが、彼女が言うとおりあまり例は多くないというのも正しい。美談は広まりやすい、というだけだ。
「ですので、こまめに能力を使う必要があると思いました」
人間が健康を保てる基礎代謝は、1日約1000キロカロリー前後。少なく見積もっても800。だがそれを下回ってもちょっとハードなダイエットになるくらいで、1週間程度で死にはしない。
それにそもそも、1本600キロカロリーのカロリーバーがバックパックに何本あろうと、92人の乗客の腹をこの数字で満たすことなどそもそも不可能だということぐらい容易にわかる。
ならば気持ちの面で納得させる、言い方を変えれば錯覚させるしかない。
ガブリエラは、能力を使って彼らの腹を満たしていたのではない。自分の本当の限界を冷静に計算し、少しずつ能力を使って彼らを“なだめて”いたのだ。
その手段は、車掌というリーダー個体を見極め、数少ない備蓄をやりくりし、能力によって餌付けをし、懐かせること。そうやって、彼女は彼らを管理した。
「……救助間際に怒鳴り込んできた、太った男性がいましたね。彼が“普通だけれど状況によっておかしくなった人”、ということですか?」
シスリー医師が質問する。
「そう、そういうことです。彼はとても太っていました。太っているということは、食べることで落ち着く人ということでしょう。そうでなくとも、おなかがすくと、気持ちが不安定になります」
つまりあの時の彼は、ガブリエラの能力で得られる精神的安定よりも、普段から忌避している空腹による不安感のほうが勝ったためにああいった行動に出たのだ、と彼女は言う。
「折紙さんがいらっしゃったからというのもありますが、来なくても、多分彼は食べ物をくれと言ったと思います。ですので、折紙さんは本当に良いタイミングでした」
朗らかに言うガブリエラに、シスリー医師がなるほどと頷く。
何もしなくてもある程度の餌がもらえる保障を、皆平等に。誰も抜け駆けせず、誰も特別扱いされない状況に、彼らはいっときの安寧秩序を感じる。
彼らは本来団結が好きだ。ひとりずつではすぐパニックに陥るが、自分と同じものがたくさんいることに安心し、“皆がすすんでそう思っている”と理解すれば現状が正しいと感じ、その状況を維持しようとする。
さらには、自分たちに施す立場の者が出せるものは全て出し尽くしている、ということにも満足する。もうないよ、隠してないよ、あげられるものはすべてあげたよと空っぽの手のひらを見せてやらないと、貪欲な家畜は納得しない。
ガブリエラは経験則で、彼らのそんな習性を理解していた。
──“人を助けると、悪い人が少なくなる”。
つまり、迷える羊たちは柵の中で飼われることを望んでおり、欠かさず平等に餌を与え、ストレスを軽減して全員を上手に導けば、パニックを起こして黒山羊のように暴れる個体も出にくいのだ、ということを。
「……よく、そこまで冷静になさいましたね」
シスリー医師が、感心というよりは、もはや感嘆に近い声色で言った。
あの事故のような大規模な原因でなくても、切羽詰まった危険性の低い、例えば点検などによる緊急停止でも、地下鉄という暗い密室に閉じ込められれば、早くて30分、遅くても1、2時間くらいで、窓から出ようとする、暴れて文句を言うなどの勝手な行動をする人間が現れ始めるというデータが実際にある。
だが彼女は1週間もの間、彼らを心身ともに維持した。いよいよ救助してもらえるという時でさえ一丸となって振る舞えるほど彼らは自主的にまとまっており、事故後の今も、軽い暗所恐怖症や閉所恐怖症がせいぜいで、重いPTSDを患っている者はいない。
「はい。なぜなら私は困っている人を助ける、サポート特化ヒーローです」
ガブリエラは、にっこりした。
92人の乗客が草を食むことしか考えていない迷える羊なら、ホワイトアンジェラは彼らが生きるために神に捧げられた犠牲の羊。誰もがそう感じていたからこそ、痩せ細った彼女を皆聖女だ、天使だと呼んだ。
彼女が自らの血肉を捧げる犠牲の羊であることは、事実である。だが彼女自身の本質は、あくまで迷える羊たちを上手に追い立てまとめあげ、きちんと柵に入れる羊飼い。
「私はおバカちゃんですが、これだけは、誰よりも、とてもできるのです」
生き延びさせること。それが自分の力で、役目で、仕事である。
そう言って、ガブリエラは屈託のない笑みを浮かべた。
「今までお聞きした中で、もっとも重要なお話でした」
そうコメントしたシスリー医師のところからどうやって辞したのか、楓はよく覚えていない。
話の途中から、楓はずっと絶句していた。ジャスティスタワーのトレーニングルームに来てからも、トレーニングが終わり、ライアンと分かれてガブリエラと一緒に夕食を摂るために彼女行きつけのダイナーにやってきた今も、それは変わっていない。
ジャスティスタワーでは、それぞれマシントレーニングをするヒーローの面々を視界に収めながらも、楓は彼らを見ていなかった。ただ呆然として、ガブリエラの言ったことを何度も繰り返し思い出していた。
あのメトロ事故でのホワイトアンジェラの姿に、楓は他の大衆と同じように、心から感動して涙を流した。天使だ、聖女だ、本当のヒーローだと彼女を讃えるメディアに同意し、そのとおりだと頷いていた。
本人に会ってみてもそれは変わらず、彼女のいろいろな側面に驚きはしたものの、その印象が変わるわけではなかった。そしてこうしてその能力を実際に体験してすら、いや体験したからこそなお、この能力をためらいなく使える彼女こそ天使で聖女のようである、と確信していたのだ。
──だが。
彼女の行動は聖女たらんとして行われたものではなく、彼女が発した言葉もまた、聖典に載っている天使の言葉ではなかった。
そうして思えば最初から、彼女は見たままの事を口にしているにすぎない。「人を助けると、悪い人が少なくなる」。彼女の言ったことを、満たされていれば人は優しくあれるという聖書の文句、つまり哲学的な思想のように捉えたのは、あくまで周囲。人々が、勝手に彼女の周りで盛り上がっていただけなのだ。
──人は皆そうですよ
他人に迷惑がかかる時はそうではなかったのに、自分が危なくなって初めて能力のコントロールのコツが掴めた自分を自分勝手だと言った楓に、ガブリエラはそう返した。
いま、楓は改めてこの言葉を噛みしめる。そうだ、本当に人は自分勝手だ。みんな基本的に自分のことしか考えていないし、他人の言葉や行動を主観的にしか見られないのだと。
あのメトロ事故で救助された車掌と運転手は、現在ホワイトアンジェラの私設ファンクラブを運営する管理人としても有名だ。車掌が提案し、運転手がそれに賛同して開設された。
ホワイトアンジェラが身を挺して助けた事故の被害者たちは、このファンクラブを中心にして今も連絡を取り合い、交流している。
だがあのキッズフィルターのかかっていないタブレットで彼らの動向や交流を調べてみると、ホワイトアンジェラに感謝を捧げ彼女の熱烈なファンになっているのは確かだが、よくよく観察すれば、一丸となってあの絶望的な状況を乗り切った者同士として、事故の経験を武勇伝のように語って誇らしげな振る舞いばかりが目についた。
あの時は大変だった、あの時は誰がこう言ったと語り合う彼らの言葉を聞いていると、まるでスポーツの大きな大会で、協力しあって優秀な成績を収めた元チームメイト同士の思い出話のようだ。
そんな中だからこそ、自分のことは殆ど話さず、ホワイトアンジェラへの感謝と現在の活躍のチェックやその感想、応援に徹しているファンクラブ代表の車掌は確かに“いい人”なのだろうと改めて感じた。
特にまだ幼く、生来正義感が強い上に潔癖気味で、ガブリエラにひどい怪我を負わされた犯人ふたりに「いい薬」とストレートに思う楓は、自分のことばかりを話す多くの“普通の人々”が、柵の中で呑気にめえめえ鳴いている家畜のようにみえてくる。
ああ嫌だ、と楓は嫌悪感を覚えた。
“頭のおかしい人”は得体が知れないし、“普通の人”も気持ちが悪い。信じられるのは、ヒーローたちのような“いい人”だけだ。他はみんなくだらない。──いなくなればいいのに。
そこまで考えて、いやそこまで考えた自分に気付いた楓は、ぞわっと背筋に怖気がのぼった。
その怖気は、明るく美しい月の裏側を始めて見た時に感じるものにも似ていた。満ち欠けともまた違い、地球からは絶対に見ることの出来ない場所。光を反射する表と違い、光が差すことがない影の世界。恐ろしいような、新鮮なような、今まで知らなかった仄暗い世界。
これは、世界の裏側だ。そして、自分の裏側でもある。
「カエデ、どうしました?」
テーブルの向かいで首を傾げながら声をかけてきたガブリエラに、楓はハッとした。恰幅がいい分愛想がない中年の女性ウェイトレスが運んできたたくさんの料理が、ふたりの前のテーブルに並んでいる。
楓があまりにもぼんやりしていて、それでいて空腹感に任せて機械的に食事をしていたので、ガブリエラも不思議に思ったのだ。
「あ、……ごめん」
「いいえ? あまりおなかがすいていないなら……」
「ううん、そうじゃない」
「そうですか。こちらのチキンポットパイもおいしいですよ! 足りなければデザートも頼みましょう」
「うん……」
穏やかに話しかけてくるガブリエラは、いつもどおりにこにこしている。そんな彼女を見て、楓はひとつ息をついた。
「ねえ、ギャビー」
「なんですか?」
「聞いてもいい?」
「もちろんです! なんでも聞いてください。私はカエデの師匠! 師匠ですので!」
ガブリエラは、さあ来いとばかりに薄い胸を張った。楓は、フォークを握りしめる手に無意識に力を込める。
「あの、……“おかしい人”とか、“普通の人”とかのことなんだけど」
「はい」
「ギャビーは……嫌じゃない? 気持ち悪くない?」
「まあそうですね。気持ちが悪いし面倒くさいですよ」
ガブリエラはあっさり言って、チキンオーバーライスを頬張った。あまり肉付きの良くない頬が膨らみ、もくもくと咀嚼する。そして、ごくんと飲み込んだ。
「しかし、悪い人というわけではないですし」