#103
★メイプルキティの冒険★
18/24
 ガブリエラは、ホワイトアンジェラのメットをしていなかった。しかし本人もリリアーナも特にリアクションはないあたり、素顔は晒しているのだなと楓は察する。

「あらアンジェラ、ごきげんよう」
 リリアーナはソファから上手に降りて、スカートを持ち上げる挨拶をした。
「こんにちは! ええと、ごきげんようです。遊びに来たのですか?」
「この間渡した本は読めるようになったのかしらと思って、様子を見に参りましたのよ。調子はいかが? 渡したのは随分前よね」
「うっ」
「前に渡した詩集が難しいというから、リリアーナのお気に入りの物語に変えてさしあげたんでしょう」
 リリアーナのさっそくの抜き打ちチェックに、ガブリエラは目を泳がせた。ライアンの朗読というご褒美が確約されてからかなりスピードは上がったものの、それでも所詮はガブリエラである。もちろん、物語は読み終わっていない。
 じっとりとこちらを見てくるリリアーナ。2秒ほど空白の時間が過ぎ、やがてガブリエラがぱんと手を叩く。

「ああっ、そうです! リリアーナちゃんのために、かわいいリボンをたくさん集めておいたのです! 小さいぬいぐるみもあります! 瓶入りのビーズも!」
「まあ、本当!? どこにあるの?」
「私のデスクのいちばん下の引き出しです! ご自由にどうぞ!」
「ありがとうアンジェラ!」
 わーい、とでもいわんばかりの様子で、リリアーナはおもちゃとぬいぐるみまみれのガブリエラのデスクに向かっていった。
 しかし、先程まであんなにも大人びた口調でまくし立てていたリリアーナがおもちゃであっさりと懐柔されたことに、楓はぽかんとしている。
 引き出しを開けたリリアーナは、「まあ、すてき!」などと嬉しそうな声を上げながら、そこにあった宝の山に夢中になっている。動くお人形のような彼女があのデスク周りにいると、彼女もおもちゃのひとつのようにしか見えない。

「ふう、危ないところでした……」
 汗を拭うような仕草をしながらそっと呟いたガブリエラは、こそこそとした様子で楓のところまでやってきた。
「カエデ、リリアーナちゃんといたのですね。では退屈しなかったでしょう」
「……まあね」
 事実だったので、楓は苦笑しながら頷いた。
「……ねえギャビー、リリアーナちゃんって……」
 こそこそと楓が耳打ちするようにして声を潜めると、ガブリエラも顔を近づけ、真剣な表情で頷いた。
「ええ、そうなのです」
「え……?」
「リリアーナちゃんはお姫様が大好きなのですが、なぜか私のこともお姫様にしようとしているのです。彼女はとても賢いので用意する課題もきついですが、しかし大丈夫。おもちゃとお菓子とかわいいものがあれば、割とそのことを忘れます」
「いやそうじゃなくて」
 キリッとした顔で告げてくるガブリエラに楓はそう返したが、ガブリエラは真面目くさった顔で続けた。
「まったくもって困った話です。お姫様はかわいいですし、将来女王様になるものですので、私も好きです。しかし自分がなるというのはちょっと」
「アンジェラ! 新しいクレヨンがあるわ!」
「もちろんリリアーナちゃんのものですとも!」
 リリアーナの声に、ガブリエラはそう言ってサッと立ち上がっていってしまった。

「あれ、チビ姫ちゃんじゃん。遊びに来たの?」

 何か用事でもあったのか、今度はライアンが戻ってきた。リリアーナはデスクの天板から顔も出せないほど小さいが、派手な帽子が飛び出ているのでわかったのだろう。
「ごきげんようゴールデンライアン。何度も申し上げますけれど、チビ姫と呼ぶのはおやめになっていただけるかしら」
「そーかそーか。それはそうと、前言ってたタルトとパイがあるけど食べる?」
「たべるぅ!」
 またもころりとあしらわれているリリアーナに、楓は微妙な顔になった。



 給湯室の冷蔵庫から大皿に乗ったタルトとケーキが出され、ガブリエラがティーバッグの紅茶を淹れてくる。人気のスイーツ店の人気商品であるハートの形のいちごタルトと、マシュマロ入りのりんごのパイは見た目にも可愛らしく、前から食べたかったというリリアーナは上機嫌だった。
 会議帰りのふたりとともに、自然とお茶の時間になった。

「ああ、あの課題のチェックねえ。チビ姫ちゃん、まだこいつをお姫様にしようとしてんの?」
「無論です」
 ちまちまとを食べつつ、リリアーナは毅然とした様子でライアンにそう返した。
「マジで? 何回も言ってるけど無理無理、絶対ムリだって」
「ゴールデンライアン! あなたがそんな調子だから、アンジェラがいつまで経ってもこうなのですよ!」
「そんなこと言われても。こいつがお姫様とか、聖女とか天使とかよりちゃんちゃらおかしいわ」
「まったくですねアハハ」
 ガブリエラが、口をあけて笑った。
「はしたなくてよアンジェラ! 微笑む時はうふふとかおほほとかおっしゃい」
「うふ……おほほ? うほほほ?」
「ゴリラじゃん」
「アンジェラ!!」
 どう見てもお姫様からは程遠い体たらくのガブリエラに、ライアンはパイを片手で掴んで頬張りながら不明瞭な発音で行儀悪く突っ込み、リリアーナはきいきい声で嘆いた。
「なげかわしい。それに、ゴリラといえばゴールデンライアンのほうでしてよ」
「むう、確かにライアンは少しむちむちしていますが」
「え? お前ら今なんつった? お嬢ちゃんも笑いを堪えてるのはどういうこと?」
 ライアンの魅力に溢れた体つきへのコメントについて、本人が聞き捨てならないと身を乗り出す。その時、入室者を知らせるチャイムが響いた。

 アスクレピオスホールディングスシュテルンビルト支部のビル最上階の、最もセキュリティ強度の高いオフィスである。インターホンでの確認なしに入室してくる人物は限られているため、4人は落ち着いて扉付近に目線を移した。

「──姫様。また脱走ですか。いい加減にしてください」

 現れたのは、細身のスーツの男。ダニエルの専属秘書である、トーマス・ベンジャミンだった。
 彼はダニエルの秘書として、各部署やアスクレピオス本部との連絡役などの役割も多彩にこなす有能な男だ。彼がマルチに各部署、また支社と本部を行き来しているからこそ、ヒーロー事業部の仕事が円滑に回っている。
 いつもはその有能ぶりに似合うミステリアスで隙のない佇まいの彼だが、今はその分厚い眼鏡があっても、うんざりしているのがよくわかる様子だった。

「あら、革靴のあなたから逃げるのなんて簡単だわ」
「簡単かどうかじゃなくて、逃げるなと言ってるんですよ姫様。無駄にIQが高いくせにそんなこともわかりませんかね姫様。あんたが誘拐でもされたら私の身がどうなるか、わからないとは言わせませんよ姫様」
「わかっているに決まってるじゃないの」
「なおタチが悪い!」
 ぴっちりとセットしている髪を掻き毟らんばかりの勢いでやってきた彼に、ライアンと楓は驚いていた。彼がここまでイライラと取り乱しているのを見るのが初めてだったからだ。
「ベンジャミンさん、お疲れ様です」
「アンジェラ、お嬢様を見つけたらすぐ連絡するようにお願いしたはずですが」
「私はもうむずかしい詩集を読みたくないのです」
 ハートのタルトを食べながらしれっと言うアンジェラに、彼はぎりっと歯を鳴らした。

 つまるところ、彼はダニエルの秘書という業務をこなす上で、必然的に彼の娘であるリリアーナともよく接する機会がある。そして彼女が父親に会いにオフィスに来る時は彼が面倒を見る役目になっていて、今もこのアスクレピオス支部に来る時は引き続きそうである、ということだった。
 家からここまで来る時は乳母ナニーや護衛もいるのだが、アポなしで突撃してくる時は彼らのセキュリティカードをいちいち発行するのが手間であるため、近くまで来ると彼が呼び出されるのだ。ちなみに、今日の“お付き”は下のカフェで休憩を兼ねた待機を満喫している。
 そして父親のダニエルは娘にどこまでも甘いため、その暴挙が当然のようにまかり通っているのだった。

「はあ。あなたが来たということは、帰らなければならないのね」
「そこは物分りが良くて何よりですよ」
「失礼ね。わたくしは暴君ではないわ。リリアーナはとても良い子にしています」
 紅茶のカップを置いたリリアーナは、リボンや小さなおもちゃなどを、ガブリエラがあわせて用意しておいた可愛いクッキーの缶に入れたものをいそいそと抱え、ソファを降りた。

「ではね、アンジェラ。ごきげんよう」
「ごきげんようです、リリアーナちゃん!」
「クリスマス前で忙しいのは理解しました。時間が出来たらで結構ですから、朗読は動画で撮影。書き取りはお手紙で送ってらっしゃい」
「うぐっ……」
「ゴールデンライアンも、ごきげんよう。ご褒美を与えたのは英断だと思いましてよ。引き続き、課題の監督をお願いね」
「あー、まあ、なるべく?」
 来た時と同じ、おしゃまで古風で、そして妙に堂が入ったお辞儀をするリリアーナに、課題から逃げられなかったガブリエラは苦々しく、ライアンもまたその様を見て苦笑しながら挨拶を返す。そして、リリアーナは不意に楓の方を見た。

「メイプル。わたくしの言ったことを忘れないように」

 遊びの欠片もない声だった。幼い少女のものであるはずのその声に、楓は思わず背筋を伸ばす。
「……うん」
「わかればよろしいのよ。ではごきげんよう。今度はもっとゆっくり遊びましょうね」
 その台詞とともに、うっとりするほど可愛い笑顔を浮かべたリリアーナは踵を返した。まるでリーチの違うトーマス・ベンジャミンの速度をまるで考慮せず、堂々とした足取りでとことことおもちゃのように歩いて、小さな淑女は部屋を出ていった。






 今回のアポロンメディア社員の態度ががらりと変わったことを決定打として、ガブリエラの能力における副次的な効果・現象についてある程度の確証を感じた楓は、その日のうちに、この件を思い切って本人に聞いてみた。

「おお、そのことですか。やはり感じるのですか、カエデも」

 そして彼女は、あっさりとそう言った。自分もまたこの現象について、シスリー医師に相談したことがあると。

「……ねえ、リリアーナちゃんって、……言葉が難しくてマシンガントークだったから、よくわかんないんだけど。多分このこと知ってたと思うんだ」
「そのようですね」
「そのようですねって……。あの子って何なの? NEXT?」
「リリアーナちゃんはクラークさんの娘さんで、NEXTだとは聞いたことがありません。しかしとても頭が良くて、大人よりも、とても賢い……ええと、あいきゅー? が高いのだそうです。まだ学校に行く年齢ではないそうですが、とても難しい大学のお勉強もできると。すごいですねえ」
「そうなんだ」
 たまにそういう子供がいることは知っていたので、へえ、と楓は頷く。
「そっか、NEXTじゃないんだ……。私、もしかしてギャビーと同じ能力の持ち主なのかと思って……」
「ああ、“感じない”からですか?」
 理解していること前提で聞いてくるガブリエラに、うん、と楓は肯定する。リリアーナには、全ての生命に対して感じる恐怖感がまったくなかった。

「違うと思いますよ。多分ですが」
「なんで?」
「彼女の“におい”は変わっていますが、不快なものではありません」
「におい……」
「……少し、懐かしい感じのにおいがします。何かはよくわかりませんが」
 例の、侮れないガブリエラ独特の感覚。その精度を知っている楓は、反論せずそのまま納得した。
「でも、なんでこんなことまでわかるの? 同じ能力どころかNEXTでもないのに」
「リリアーナちゃんは、ものすごく頭が良い子ですので!」
 当然のように断言するガブリエラに、楓は乾いた笑いを漏らした。

 ガブリエラは好奇心旺盛で、珍しいものや現象、新しいものには必ず目を輝かせる。
 しかしすごいと感動はしてもその詳しい仕組みを知ろうとするところまではせず、「とても賢いから何でも知っている」とか「不思議な現象」という説明で、そのまま納得してしまうのだ。
 そして“おバカちゃん”な彼女に難しい説明をしても理解が及ばず結局困った顔をするだけなので、相手も「そういうもの」としか言わなくなるというループである。

「リリアーナちゃんは、とても良い子なのです。とても」

 ガブリエラは、にっこりして言った。
「しかしカエデも感じるのならば、やはりそうなのですね。なるほど」
「なるほどって?」
「なぜなら、おかしいでしょう。私はおバカちゃんで、少しとろい。言葉も下手です。特別、性的な魅力があるわけでもありません。気に食わないと感じる人は、本来もっと多いはずです」
 ガブリエラがあまりにも淡々と言うので、楓はどう受け取っていいやらわからず、目を白黒させた。自分を貶めているというよりは、天気の話をするよりも感情のこもっていない、単なる事実、機械的な仕組みを説明するような言い方だった。
「本当なら、私のような者は、騙してお金を取ったり、殴ったり蹴ったりするのが簡単。そのように思われやすいはずです。実際に、太っていて、汚くて、ほとんど口がきけなかった頃は、近所の子供達によくそうされました。ですが、能力に目覚めた途端にこうです」
 さすがにおかしいと思う、とガブリエラは言う。

「私は1年と少しほどかけて、故郷からシュテルンビルトにやってきました。色々な人に親切にしていただきながら」

 馬と暮らす、荒野の端の山岳地帯に住む部族の人々から馬の乗り方を習い、たまにすれ違う人から食料や水を分けてもらい、ラグエルが死んだ後は歩き、時にバイクや車をヒッチハイクして、ガブリエラは道を進んだ。
「皆さん私に親切でした」
「皆?」
「そう、皆。……本来ならば犯し、殺し、盗むような人でも」
 いつも底抜けに明るくて呑気なガブリエラの声の妙な薄暗さに、楓はびっくりした。
「幸運だとは思います。私にとっては決して悪いことではない、それも確か」

 だが、その人がどういう人なのか、何を考えているのか、そういうことが何となく分かるガブリエラにとって、この現象は不可解で、不自然なことだった。ずっとそう思ってきた。
 故郷にたくさんいたギャングの男たちは、簡単に人を殺すくせに、ガブリエラの能力を重宝し、何かと親切に接してきた。これに関しては実利があからさまではあるが、無理やり誘拐して能力を使わせることも可能だったのに、彼らはそうしなかった。
 荒野の旅の途中でもそうだ。本当なら犯されている、本当なら殺されている、本当なら奪われている。そういう場面にいくつか遭遇してなお、ガブリエラは処女のまま、生きて、色々な人に施しを受けてシュテルンビルトにたどり着いた。

「今は毎日お風呂に入るようになりましたし、一部リーグになってからは健康になりましたので、結構きれいになったと思います。髪も肌も手入れをしていますし」
 やはり、ガブリエラは非常に客観的に言った。だがその様子に何だか楓はホッとして、思わず笑みを浮かべる。
「ギャビーはきれいだと思うよ」
「ふふふ、ありがとうございます。自慢ですが、ライアンに“自分の隣に立っても見劣りしない”とおっしゃっていただいたことがあります!」
「へえ〜? それは……相当だね?」
 自慢ですがと前置きするとおりに、ガブリエラはこれでもかと得意げな顔で言った。それを聞いて、楓は“それもう告白じゃないの?”とも思ったが、そうならとっくに恋人同士になっているはずだろう。面倒くさい気配を賢く感じ取り、楓は黙って頷くにとどめた。
「そうでしょう! ですので、今の私は結構美人なのです!」
 黙っていれば、と補足する者は、残念ながらここにはいなかった。
 ガブリエラの神秘的な容姿を「黙っていればエルフ」と表現したイワンの評価は、ヒーロー内でも“上手いこと言った”といわれるもののうちのひとつである。お前もな、という意味も密かに含めて。

「しかし、見た目が変わったといっても、私は私です。健康にはなりましたが、頭が良くなったわけではない。それに、私に直接会ったことのない人の中には、私のアンチ? というのですか。そういう人もたくさんいます。だいたいネットですが」

 確かに、ホワイトアンジェラは全体的な好感度が非常に高く、崇拝する勢いの熱烈なファンがいる一方で、強烈なアンチが存在する。

 より目立つ声としては、無邪気なキャラクターは計算だろう、経歴が嘘っぽい、あざとい、頭が悪すぎてイラつく、独特の声やせわしない動きがうるさい、痩せ過ぎていて気持ちが悪い、エンジェルライディングに憧れる走り屋やヤンキーのファンが怖い、ガラが悪いなど。
 またそんな彼女は、イケメンで、セレブで、イメージも良いゴールデンライアンには相応しくない、とも。

 このように主観的な単なる悪口から、ライアンが先日言っていたように、本当に困っている弱者に手を差し伸べず、周囲の有力者にばかり能力を使っていることこそが彼女が本当は聖女ではない証拠だ、と高らかにヘイトスピーチを行う者もいる。
 世間の大多数がホワイトアンジェラを肯定的に見ている分アンチの勢いは強烈で、メトロ事故での振る舞いも含めて売名行為だと決めつける、過激な輩も存在している。
 バイク盗難事件の時、こぞってホワイトアンジェラを叩いたのがこういった者たちだというのは、世論の動きをテレビやネットでそれなりに観察していればすぐに分かる。

 しかしよく観察しなくても、アンチたちのそれはどれも画面、メディアを通したホワイトアンジェラに対しての発言であることは明らかだった。
 なぜなら、サポート特化ヒーローであるがゆえに他のヒーローより市民に直接接する機会の多い彼女だが、怪我を治して貰ったという者がホワイトアンジェラを絶賛することはあれど、治して貰った上でヘイト発言をする者が皆無である。
 もちろんそのように言い張る者もいるが、ホワイトアンジェラの能力による治療を受けた場合、後日の訴訟などへの対策として、治療内容を記した特別な書面が必ずアスクレピオスの医療スタッフから渡されるようになっている。
 そのため、ホワイトアンジェラに救助されたがなっていなかった云々、と仮にネットに書き込みをしようとしても、あるはずの書面がなければ他の者たちに叩かれて消えていくだけである。
 更に、現在は二部リーグ時代のようにホワイトアンジェラが怪我人の所に行くのではなく、彼女と医療スタッフが待機する救護テントに怪我人が運ばれてくるというやり方を用いており、治療現場を目撃した野次馬というのもありえないようになっていた。
 ホワイトアンジェラが怪我人のところに行く場合もなくはないが、そんなイレギュラー対応が必要な事態であれば必ずカメラが入るため、真実の確認は容易だ。

「つまり、直接お会いした人と、特に能力を使った方は、私に親切。そうでない方は、私を叩く。ということは、そういうことでは? ええと、私の説明、わかりますか」
「うん、わかるよ」
 ガブリエラが無意味な身振り手振りを交えてする説明に、楓は静かに頷いた。楓もこの数日で周囲を観察しひそかに検証を行ってきたが、ガブリエラのそれはより広範囲で、また説得力もある。

「そうですか。しかしこれ以上のことがわからなかったので、前にもシスリー先生に相談してみたのですが……」
 うーん、とガブリエラは首をひねった。よく手入れをされた、つやつやの赤い髪が流れる。
 以前ガブリエラがこの件を相談した時、世界的なNEXT医学の権威である彼女は、現象は確かに起こっているかもしれないが、しかし単にガブリエラ個人の人柄の影響なだけである可能性も当然ある、とも言ったという。つまり、実験しようがないので真偽はわからないと。
 だがこれらの自分たちの実体験は、その“実験”に相当する例になりはしないだろうか。ガブリエラも楓も、今そう感じていた。

「リリアーナちゃんのことは?」
「んー、リリアーナちゃんのことは、シスリー先生には言わないようにしているのです。リリアーナちゃんはとても賢いですが、やはり小さい子です。それに、クラークさんはリリアーナちゃんをあまり目立たせたくないそうなので」
「そっか……」
 あのなりで目立たぬようにというのは無理があるような気もしたが、反論もしにくい。それにリリアーナがこの能力について知っているのはなぜかということもわからないため、楓はとりあえず頷いた。
「しかし、カエデも同じように感じたのならば、シスリー先生の答えも違うかもしれませんね。もういちど、シスリー先生に報告しましょう」
「う、うん」



 思い立ったらすぐ、ということで、楓はガブリエラと一緒に、そのままシスリー医師のところにやってきた。ガブリエラが最初から楓に説明を投げたので、楓は要点をかいつまみ、シスリー医師に今回のことを順序よく話す。

「……そうですか。大変興味深い現象ですね」

 ボイスレコーダーを設置して話を聞いていたシスリー医師は、本当に興味深そうに言った。
「今まではアンジェラの申告だけでしたので主観的な感想の域を出ませんでしたが、やはり同じ能力を持った人間がもうひとりいると、劇的に色々なことがわかりますね」
「じゃあ、やっぱり……?」
「確定ではありません。他人に好意的に接しようと思った、親切にしようと感じた、という現象を科学的に証明するのは難しいですからね」
 要するに、特定の感情の発露によって特定の脳内物質が分泌されるとか、そういう証明方法があれば話は簡単である。
 しかしふたりが感じている印象がやはり漠然としすぎていること、そして対象が自分たち以外のすべての生命体という範囲の広さから、確実な証明はやはり難しいとシスリー医師は告げた。

「ですが、辻褄は合います。あえて生物学的に──あえて個人を無視して言いますと、その能力を持ったあなた方は、すべての生命体にとって有益な存在なのです」

 生物は、特にNEXTは、自分の生命維持のために環境に順応する能力がとても高い。
 つまり他のすべての生命体にとって有益な存在である自らを守るため、いわば捕食者となる者たちの悪感情を芽生えにくくしたり、加えて好意的な感情が芽生えるように働きかける、そういう機能が付随してもおかしくはない、という論だ。
 喉を潤す湖や実の生る木を皆貴重に思い大事にするが、独占を狙っての争いは起こりうる。そしてそういう事をする者は総じて乱暴で、水や実が枯れるまで取り尽くすことも考えられるだろう。しかし皆の攻撃的な意識を削ぎ、純粋な親切心を持つように誘発すれば、そういったことは比較的起こりにくくなる。
 また有益な存在を守ることは、その存在そのものの生命維持と同時に、それを利用する周囲の生命体にとっても有益なことだ。

「実際に、そういう生物は存在します。例えば──」
 栄養価の高い果実をつけるため他の生物から狙われやすいが、同時に多幸感を感じさせる麻薬成分を備えることで狩り尽くされないようにしている植物。
 あるいはとても非力で本来格好的な餌になるところ、大きな魚の寄生虫を取り除く代わりに、その魚に守ってもらって捕食されることもない小魚などがそうである、とシスリー医師は説明した。
「しょくぶつ」
「こざかな」
 例に挙げられた、まさに生態ピラミッドの最底辺、無力な非捕食者的生物に、それに相当すると言われたふたりはぽかんとした。

「それに単純に、無力なものには皆まず警戒心を持ちにくい。警戒心を持つ必要がないということは、好意も比較的持ちやすいということです」
 そしてこの能力に対し、すべての生物が本能的に有益だ、魅力的だと感じることは既に証明済みである。
「これは実際に我々が皆そう感じていますし、アンジェラの能力に多くの動物が引き寄せられることは確かですから」
 その言葉に、ガブリエラと楓はなんとなく顔を見合わせた。
「赤ちゃんが可愛いこととも似ているかもしれませんね。種族を問わず、殆どの赤ちゃんは成体から可愛いと思われる見た目や仕草をしています。そうすることで、周りのものに守ってもらえるようにしている」
「そうなのですか」
「あ、なんか聞いたことあります」
 ふたりが頷く。
「それに、捕食者が非捕食者に抱く感情というのにも諸説ありましてね。“食べてしまいたいほどかわいい”という言い方があるでしょう? これが本当にあって、特に肉食動物は、獲物に対して“かわいい”と思いながら殺して食べている、という説があります」
「うええ……」
 今度のリアクションは両極端で、複雑そうに表情を歪めた楓に対し、ガブリエラは、ホー、と興味深げに頷いた。

「そういう説と結びつけると、あなたがたの周囲の人……いえ生命体が好意的な態度になるというのは、理にかなった現象のように思います」

 なるほど、とふたりは頷いた。しかし楓は口元に手を当てると、おもむろにガブリエラに尋ねた。
「……ギャビー」
「なんですかカエデ?」
「この……みんなが優しくなるっていうか、親切になるっていうか、この現象だけど……」
「はい」
「効かない人っていうか、影響ない人もいるの?」
「いますね」
 ガブリエラは、あっさりと頷く。
 そして、だからこそいまいち確信が持てなかったのだ、とも付け加えた。誰も彼もが総じて同じ態度になるわけではないからこそ、確かにこの現象があることを感じていながら、半信半疑な部分もどうしても残ったのだと。

「完全に効く、効かないではないですが。ええと、個人差? はあります」
「そっか。やっぱりギャビーはわかるんだ」
「……カエデには、わからない?」
「うん、わかんない。ギャビーがわかってるってことはわかるけど」
「その話、詳しく教えていただけますか?」

 シスリー医師の要請に、楓は話しだした。
 ガブリエラはこの現象の影響がある人間、ない人間の判別がついている。彼女はその感覚を“におい”という表現であらわし、そしてそれは、概ね3種類に分けられるということ。

「多分、なんですけど。ひとつは、“いい人”。ギャビーの能力があってもなくても好意的……、っていうよりは、変わらないんだろうなって人です。変わらず親切だし、変わらずダメなことはダメって言う感じ? 元からそういう人、みたいな」

 身内を褒めるみたいになっちゃうんですけど、と前置いてから、楓は具体的な人物も挙げた。まずはヒーローたち。そして、アスクレピオス内のヒーロー事業部に関わりのある社員の多くや、アニエスたちなど。

「もうひとつが“普通の人”で、いちばん数が多いみたいです。多分、影響を受けやすい……能力があるから親切にしてくれるけど、なければ多分何もしないとか、周りに同調して悪口言ったりとか、……そういう感じの人。良くも悪くも周りに流されやすいっていうか」

 今日はち合わせた、アポロンメディアの男性社員がこれだ。ハンドレッドパワーをコピーしていた楓に対しては周りと愚痴を言いながらあからさまに邪険にしていたくせに、まるで理解に溢れるような態度にコロリと変わった。
 SSである、接触はしないでほしいとは申告しているが、楓がガブリエラの能力をコピーしていることまでは伝えていないので、彼はそれを知らないはずであるにもかかわらずだ。例によって楓に好意的な他のスタッフに流されたとしても、あまりにもあからさま過ぎる。
 悪い人ではなかったのだろう、と言った楓に、いい人でもないけどなとライアンは返したが、まさにその通りの人間である。

「なるほど」
「それで、最後が、多分……この能力があってもなくても、もしかしたら誰にでも? 危害を加えかねない人っていうか……何するかわからない、危ない人、かな?」
「変質者、サイコパスの類でしょうか」
「あ、えと、そういうの、よく知らなくて……」
「ああ、いいんですよ。ごめんなさいね」
「いえ」
「それに対して、“いい人”や“普通の人”のような呼称はありますか?」

 シスリー医師の質問を受けて、楓は、一拍間を置いた。これを口にするには、勇気が必要だったからだ。

「“おかしい人”とか、“頭のおかしい人”……って、ギャビーは表現してると思います」

 先程、キッズフィルターのないタブレットで楓が調べていたことはふたつ。
 ひとつは、ホワイトアンジェラのアンチの動向。そしてもうひとつが、ガブリエラがショッピングモールで捕まえた掏摸の男ふたりについてだった。

 ──帽子のほうは、特に頭がおかしいです。目を合わせないように
 ──掏摸の方は普通の人でしたが、もうひとりは頭がおかしいようだったので


 彼女はあの時、おとなしそうな黒縁眼鏡の男を“普通の人”、女性にしつこく迫っていたニット帽の男を“頭がおかしい人”と言っていた。

 ──特に、ナンパ担当の方は危ねえ奴だったみたいだからな

 この虎徹の台詞も、引っかかるところがあった。
 そしてついに調べてみた所、ニット帽の男の方は、過去にやや猟奇的な婦女暴行の前科が数件あることがわかったのだ。
 しかし思い返せば確かに、ヒーローを名乗るガブリエラが堂々と接し、犯罪行為を指摘し、被害者女性がしっかり逃げた時点で財布を持ってさっさとその場を去ろうとした黒縁眼鏡の男に対し、ニット帽の男はしつこくガブリエラに興味を示し、どこか焦点の合っていない目をしていた気がする。

「ということのようだけど、……どうかしら、アンジェラ?」
「そう! そういうことです! すごいですカエデ! とてもすごいです!! 私の思っていたことが、全てとても上手に言葉になります! とてもすごい!!」
 心底感心した様子で、ガブリエラはまた何度も頷きながら、目をきらきらさせた。
「あ、あってる?」
「あっています! おお、本当にすごい。カエデは本当に、とても賢いですねえ」
 おそるおそる見上げる楓だが、ガブリエラはにこにこしている。だが楓は、そんな彼女の反応に困惑していた。

 楓がこのことを告げるのに躊躇したのは、理由がある。
 楓は彼女をずっと観察し、行動や言動に注目してきた。時に過去に遡り、出会ってからのことも思い出しながら。
 ガブリエラが周りの人間を見極めていること、そしてそれを独自のカテゴライズに振り分けていることに気付いた楓は、彼女の発言を過去に遡って思い出した。
 “いい人”と“普通の人”は、口にされる機会も割と頻繁だった。いちばん近くにいるヒーローたちや彼女が懐いている身近な人々は皆“いい人”であるし、他は大体“普通の人”であるようだ。
 だが、出現頻度の少ない“頭のおかしい人”、“おかしい人”に関しては、楓が実際に聞いたのはあのニット帽の男に対するものと、行く先で会う人に対してたまに発する警告。あとは、過去の事件の犯罪などの話をした時の発言。そして──

 ──母は、頭がおかしい人なので

 遠くの空を見て晴れですねとか雨ですねとか言うような無感動な声で、彼女は確かにそう言っていた。
★メイプルキティの冒険★
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BY 餡子郎
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